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弐 死の遣い手
《三》明確に引かれる境界線【後】
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「コクが……その、神獣……なのか……?」
あの人懐こい目をした少年が、神の獣だという。にわかには信じがたいことだった。
「あの御姿は、仮のもの。
現世で“役割”を果たすべく“化身”なされているだけにございます。
本来の御姿は、黒檀のような美しい毛並みをした虎神様」
ほうっ……と、美狗は恍惚の表情を浮かべる。
コクの本当の姿を思い浮かべているのだろう。その顔が、ふいにくもった。
「“国獣”の地位に就いてからは、いいように人間どもに使役され、ようやく“花嫁”を迎える段になったかと思えば……。
このような【見目ばかり映えた中身のない人形】が喚ばれてしまうなど……本当に不運な“主”様」
そこまで聞いて、百合子は唐突に理解した。
(ようするにコクの嫁である私が、気に食わないというわけか)
肉体と心情を傷つけられ気分は悪いが、百合子はこの犬耳の女を嫌うことはできなかった。
(おそらく、それだけコクを慕っているのだろうな)
そんな思いが面に出てしまったのか。
美狗の目が、すっ……と、細くなった。
「わたくしに、情けなどいりませぬ。
ただ、貴女様にはコク様にふさわしい“花嫁”として、在って欲しいだけにございます。
わたくしがこのように貴女様を傷つけたのは───」
「美狗! 何をしておるのじゃ!」
一喝と共に、障子が開く音が聞こえ、次いで、
「……良いと申すまで、姿を見せるでない」
低く、感情を抑えるような少年の声がした。
とたん、百合子の身体に自由が戻る。
が、見えぬ拘束の反動からか、疲労感が全身にどっと押し寄せてきた。
そんな百合子の目に、美狗と入れ替わるようにして、ざんばら髪の少年の姿が映る。
「───百合……! すまぬ……!」
苦い声が響き、百合子の上体がコクの片腕によって抱き起こされる。
「しばし、こらえてくれ……」
何をと問う間もなく、告げた唇が百合子の胸もとに触れた。
羞恥よりも前に、くすぐったさに、のけぞる身体。
「……っ……」
傷口にそって伝う、舌先と息遣い。
痛みによる熱が肌を焼くように感じるが、同時に、相反する心地良さにもおそわれ、百合子の身体から力が抜ける。
「どうじゃ、痛みは無くなったか? 傷口もきれいに消えておる、はず……」
脱力し、ぼうっとしたままの百合子の顔をうかがい、そのまま下に移ったコクの視線が、止まった。
二三度のまばたきののち、
「すすすすすまぬっ!
傷の程度ばかり気にかけて、おぬしに対する配慮に欠けておった!
重ね重ね、すまぬ!」
思いきり、あらぬ方向を見る少年の顔が、見事なまでに赤く染まる。
百合子を抱く腕も、居心地悪そうなものとなった。
(……なんなのだ、いったい)
ぷつん、と。
百合子は己の理性の糸が、切れる音を聞いた気がした。
急に、失せたはずの力が、わきあがってくる。コクの身体を、ぐいと押し退けた。
「私は……お前の嫁ではないのか!?」
言って百合子は、自らのはだけかけた着物の上衣を腰まで落とす。
「なぜお前は私に対し、そんなっ……他人行儀なのだっ……」
勢いに任せ衣を脱いだせいで、さらした身体が寒かった。
……心のうちは、もっと。
「私は、至らぬことも多い嫁だろう。色気もないのも自覚している。
だが……それとて、お前の口からきちんと聞きたい。
何が気に入らなくて、私を避けるのか」
「百合……」
最初こそもろ肌の百合子を直視しないようにしていたコクの漆黒の瞳が、まっすぐに百合子に向けられた。
「それでも、わしは……───」
何かを言いかけたコクの唇が、閉ざされる。
ためらいがちに伸ばされたコクの両手が、そっと百合子の着物を引き上げた。
「……わしの“眷属”が、申し訳ないことをした。
あと二日の辛抱じゃ。
おぬしの良きように、必ず取り計らう。それで……此度のことは、赦せ」
畳に両拳をつき、コクは百合子に頭を下げた。
その言葉と態度は、自分と彼との間に、明確に引かれた境界線のようだった。
あの人懐こい目をした少年が、神の獣だという。にわかには信じがたいことだった。
「あの御姿は、仮のもの。
現世で“役割”を果たすべく“化身”なされているだけにございます。
本来の御姿は、黒檀のような美しい毛並みをした虎神様」
ほうっ……と、美狗は恍惚の表情を浮かべる。
コクの本当の姿を思い浮かべているのだろう。その顔が、ふいにくもった。
「“国獣”の地位に就いてからは、いいように人間どもに使役され、ようやく“花嫁”を迎える段になったかと思えば……。
このような【見目ばかり映えた中身のない人形】が喚ばれてしまうなど……本当に不運な“主”様」
そこまで聞いて、百合子は唐突に理解した。
(ようするにコクの嫁である私が、気に食わないというわけか)
肉体と心情を傷つけられ気分は悪いが、百合子はこの犬耳の女を嫌うことはできなかった。
(おそらく、それだけコクを慕っているのだろうな)
そんな思いが面に出てしまったのか。
美狗の目が、すっ……と、細くなった。
「わたくしに、情けなどいりませぬ。
ただ、貴女様にはコク様にふさわしい“花嫁”として、在って欲しいだけにございます。
わたくしがこのように貴女様を傷つけたのは───」
「美狗! 何をしておるのじゃ!」
一喝と共に、障子が開く音が聞こえ、次いで、
「……良いと申すまで、姿を見せるでない」
低く、感情を抑えるような少年の声がした。
とたん、百合子の身体に自由が戻る。
が、見えぬ拘束の反動からか、疲労感が全身にどっと押し寄せてきた。
そんな百合子の目に、美狗と入れ替わるようにして、ざんばら髪の少年の姿が映る。
「───百合……! すまぬ……!」
苦い声が響き、百合子の上体がコクの片腕によって抱き起こされる。
「しばし、こらえてくれ……」
何をと問う間もなく、告げた唇が百合子の胸もとに触れた。
羞恥よりも前に、くすぐったさに、のけぞる身体。
「……っ……」
傷口にそって伝う、舌先と息遣い。
痛みによる熱が肌を焼くように感じるが、同時に、相反する心地良さにもおそわれ、百合子の身体から力が抜ける。
「どうじゃ、痛みは無くなったか? 傷口もきれいに消えておる、はず……」
脱力し、ぼうっとしたままの百合子の顔をうかがい、そのまま下に移ったコクの視線が、止まった。
二三度のまばたきののち、
「すすすすすまぬっ!
傷の程度ばかり気にかけて、おぬしに対する配慮に欠けておった!
重ね重ね、すまぬ!」
思いきり、あらぬ方向を見る少年の顔が、見事なまでに赤く染まる。
百合子を抱く腕も、居心地悪そうなものとなった。
(……なんなのだ、いったい)
ぷつん、と。
百合子は己の理性の糸が、切れる音を聞いた気がした。
急に、失せたはずの力が、わきあがってくる。コクの身体を、ぐいと押し退けた。
「私は……お前の嫁ではないのか!?」
言って百合子は、自らのはだけかけた着物の上衣を腰まで落とす。
「なぜお前は私に対し、そんなっ……他人行儀なのだっ……」
勢いに任せ衣を脱いだせいで、さらした身体が寒かった。
……心のうちは、もっと。
「私は、至らぬことも多い嫁だろう。色気もないのも自覚している。
だが……それとて、お前の口からきちんと聞きたい。
何が気に入らなくて、私を避けるのか」
「百合……」
最初こそもろ肌の百合子を直視しないようにしていたコクの漆黒の瞳が、まっすぐに百合子に向けられた。
「それでも、わしは……───」
何かを言いかけたコクの唇が、閉ざされる。
ためらいがちに伸ばされたコクの両手が、そっと百合子の着物を引き上げた。
「……わしの“眷属”が、申し訳ないことをした。
あと二日の辛抱じゃ。
おぬしの良きように、必ず取り計らう。それで……此度のことは、赦せ」
畳に両拳をつき、コクは百合子に頭を下げた。
その言葉と態度は、自分と彼との間に、明確に引かれた境界線のようだった。
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