9 / 29
弐 死の遣い手
《二》黒い痕と少年【前】
しおりを挟む自分が何か大切なことを忘れていることだけは解っていた。
空白部分は【この屋敷に来る直前の記憶】が多くを占めていたが、思い返せば幼少のある時期から所々抜け落ちていることにも気づく。
(なんなんだ、いったい)
溜息をつき、百合子は箸を置く。
「もう、よろしいのですか……?」
恐々とした様子で尋ねてくる少女、菫。
この屋敷の主人であるコクと、彼の『嫁』である百合子の世話を担う者らしい。
「食が進まぬ。悪いな」
膳に並ぶのは白米の椀と根菜の汁物、川魚の煮付け、青菜の漬物だ。
和食は嫌いではないが、最近は洋食が食卓に並ぶことが多かったせいか、味付けに物足りなさを感じた。
(いや、味のせいというよりも……)
自分の置かれた状況に困惑していて、食事がのどを通らないというほうが、正しいのだろう。
百合子はふたたび溜息をついた。
目の端で、菫がビクッと肩をすくめたのが解る。
……百合子の機嫌が悪いと気に病んでいるらしい。
邸の使用人たちはみな自分より年上だったため、百合子は妹のような年齢の少女の扱いに、いささか困っていた。
「菫、もう下がっていい───」
言いかけた百合子の声に重なって、玄関のほうで戸の開閉音がした。コクが戻ったのだろう。
そう思って、百合子はコクを出迎えるべく足早に玄関口へと向かった。
「百合」
自分の姿を認め、コクが嬉しそうに微笑む。
気取らない笑顔はほんの一瞬、百合子の心をなごませた。
が、すぐに彼の短い黒髪から滴がポタポタと落ちているのに気づき、眉を寄せる。
「なんだ? 雨にでも打たれたのか?」
「いや、これは───」
「……身体が冷たい。先に温まるといい」
思わず触れて確かめたコクの腕をつかみ、強引に湯殿に向かわせようとする。
「あー、百合。わしは湯は好まぬ。
第一、どうして良いのかも分からぬしじゃな……」
「つべこべ言わず、来い。濡れたままでは風邪をひくだろう」
『こちら』では湯に浸かる習慣がないというのは、最初に菫に聞いた。
そもそも『風呂場』すらないことも。
それで百合子が落胆していると、なんと翌日には『湯殿』ができていた───コクが彼の『眷属』の力を借り、百合子から聞いた風呂の詳細をもとに造ってくれたらしい。
(まるで『おとぎ話』の世界だ。文明に乗り遅れてるようで、財力と技術はあるらしい)
百合子は不思議に思うよりも、『コクの家の力』に感心することで、自身の疑問をなおざりにした。
……記憶の喪失だけでも、思考は手一杯だったからである。
檜で造られた風呂桶は、人ひとりが楽に足を伸ばし、くつろぐことのできる広さだ。
これだけ大量の湯を沸かすのは大変だろうと菫をねぎらったが、
「いえ、私ではなく、熊佐が湯を『調達』してきております」
とのことだった。
調達という言い方は何やら解せないが、『この地方』での言い回しなのかもしれないと、百合子は自分を納得させた。
(そもそも私は、熊佐なる使用人と、顔を合わせたことがないからな)
詳しいことを聞きたくとも聞けずにいる。
この屋敷で目覚めてから一週間。
他にも使用人がいるようだが、百合子は彼らの気配しか、感じたことがないのだ。
(『使用人など居ないものとして過ごせ』と、よくお祖父様がおっしゃったものだが)
ひょっとしたら、この屋敷───『コクの家』では使用人に対し、あえて姿を見せないよう教育をしているのかもしれない。
そんなことを思いながら、百合子は脱衣場で自らの着物にたすき掛けをする。
「『嫁』の務めだ。背中くらい流す」
ちら、と、コクを見やれば、肝心の本人は途方に暮れたような顔のまま、黒い道着を脱ぐ気配すらない。
百合子は、溜息まじりに口を開く。
「いまさら、なんだ。
まさか男のくせに、私に肌を見られるのを嫌がっているのではあるまいな?
……嫁の、私に」
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
独身皇帝は秘書を独占して溺愛したい
狭山雪菜
恋愛
ナンシー・ヤンは、ヤン侯爵家の令嬢で、行き遅れとして皇帝の専属秘書官として働いていた。
ある時、秘書長に独身の皇帝の花嫁候補を作るようにと言われ、直接令嬢と話すために舞踏会へと出ると、何故か皇帝の怒りを買ってしまい…?
この作品は、「小説家になろう」にも掲載しております。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
脅迫して意中の相手と一夜を共にしたところ、逆にとっ捕まった挙げ句に逃げられなくなりました。
石河 翠
恋愛
失恋した女騎士のミリセントは、不眠症に陥っていた。
ある日彼女は、お気に入りの毛布によく似た大型犬を見かけ、偶然隠れ家的酒場を発見する。お目当てのわんこには出会えないものの、話の合う店長との時間は、彼女の心を少しずつ癒していく。
そんなある日、ミリセントは酒場からの帰り道、元カレから復縁を求められる。きっぱりと断るものの、引き下がらない元カレ。大好きな店長さんを巻き込むわけにはいかないと、ミリセントは覚悟を決める。実は店長さんにはとある秘密があって……。
真っ直ぐでちょっと思い込みの激しいヒロインと、わんこ系と見せかけて実は用意周到で腹黒なヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真のID:4274932)をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる