【外伝・完結】神獣の花嫁〜刻まれし罪の印〜

一茅苑呼

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弐 死の遣い手

《二》黒い痕と少年【前】

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自分が何か大切なことを忘れていることだけは解っていた。

空白部分は【この屋敷に来る直前の記憶】が多くを占めていたが、思い返せば幼少のある時期から所々抜け落ちていることにも気づく。

(なんなんだ、いったい)

溜息をつき、百合子は箸を置く。

「もう、よろしいのですか……?」

恐々とした様子で尋ねてくる少女、すみれ
この屋敷の主人あるじであるコクと、彼の『嫁』である百合子の世話を担う者らしい。

「食が進まぬ。悪いな」

膳に並ぶのは白米のわんと根菜の汁物、川魚の煮付け、青菜の漬物だ。

和食は嫌いではないが、最近は洋食が食卓に並ぶことが多かったせいか、味付けに物足りなさを感じた。

(いや、味のせいというよりも……)

自分の置かれた状況に困惑していて、食事がのどを通らないというほうが、正しいのだろう。

百合子はふたたび溜息をついた。

目の端で、菫がビクッと肩をすくめたのが解る。
……百合子の機嫌が悪いと気に病んでいるらしい。

邸の使用人たちはみな自分より年上だったため、百合子は妹のような年齢の少女の扱いに、いささか困っていた。

「菫、もう下がっていい───」

言いかけた百合子の声に重なって、玄関のほうで戸の開閉音がした。コクが戻ったのだろう。
そう思って、百合子はコクを出迎えるべく足早に玄関口へと向かった。

「百合」

自分の姿を認め、コクが嬉しそうに微笑む。

気取らない笑顔はほんの一瞬、百合子の心をなごませた。
が、すぐに彼の短い黒髪から滴がポタポタと落ちているのに気づき、眉を寄せる。

「なんだ? 雨にでも打たれたのか?」
「いや、これは───」
「……身体が冷たい。先に温まるといい」

思わず触れて確かめたコクの腕をつかみ、強引に湯殿に向かわせようとする。

「あー、百合。わしは湯は好まぬ。
第一、どうして良いのかも分からぬしじゃな……」
「つべこべ言わず、来い。濡れたままでは風邪をひくだろう」

『こちら』では湯に浸かる習慣がないというのは、最初に菫に聞いた。
そもそも『風呂場』すらないことも。

それで百合子が落胆していると、なんと翌日には『湯殿』ができていた───コクが彼の『眷属』の力を借り、百合子から聞いた風呂の詳細をもとに造ってくれたらしい。

(まるで『おとぎ話』の世界だ。文明に乗り遅れてるようで、財力と技術はあるらしい)

百合子は不思議に思うよりも、『コクの家の力』に感心することで、自身の疑問をなおざりにした。
……記憶の喪失だけでも、思考は手一杯だったからである。

ひのきで造られた風呂桶は、人ひとりが楽に足を伸ばし、くつろぐことのできる広さだ。

これだけ大量の湯を沸かすのは大変だろうと菫をねぎらったが、
「いえ、私ではなく、熊佐くまざが湯を『調達』してきております」
とのことだった。

調達という言い方は何やら解せないが、『この地方』での言い回しなのかもしれないと、百合子は自分を納得させた。

(そもそも私は、熊佐なる使用人と、顔を合わせたことがないからな)

詳しいことを聞きたくとも聞けずにいる。

この屋敷で目覚めてから一週間。
他にも使用人がいるようだが、百合子は彼らの気配しか、感じたことがないのだ。

(『使用人など居ないものとして過ごせ』と、よくお祖父じい様がおっしゃったものだが)

ひょっとしたら、この屋敷───『コクの家』では使用人に対し、あえて姿を見せないよう教育をしているのかもしれない。

そんなことを思いながら、百合子は脱衣場で自らの着物にたすき掛けをする。

「『嫁』の務めだ。背中くらい流す」

ちら、と、コクを見やれば、肝心の本人は途方に暮れたような顔のまま、黒い道着を脱ぐ気配すらない。

百合子は、溜息まじりに口を開く。

「いまさら、なんだ。
まさか男のくせに、私に肌を見られるのを嫌がっているのではあるまいな?
……嫁の、私に」
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