【完結】眼鏡ごしの空

一茅苑呼

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【第二章】

友達でいるから⑤

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母の声がして、思わず飛び起きた。

……びっくりした。

体育の授業が三時限目にある、その日。

無駄な抵抗とは思いつつも、布団を頭から被って、寝たふりをしていた。

唐突に聞かされた『タロちゃん』の名前は偉大で……朝食もそこそこに、私はあわてて玄関に向かった。

玄関先に見当たらない彼の姿に、数秒立っていると、中庭のほうで甘えるような犬の鳴き声がした。

もしやと思って中庭に行くと、やはりそこに、彼の姿があった。

「タロちゃん!」

私の呼びかけに、それまで構っていた我が家の愛犬『ジョン』から離れ、こちらを振り返って、優しく笑う。

「はよ。香緒里」

言って近寄って来ると、マメのできた手のひらを、私の髪に伸ばした。

「お前なー、女の子なんだから、髪の毛くらいかせよ」

指先が髪に触れ、頬をかすめる。

ドキッとして、思わず身を引いた。

タロちゃんは私の反応を違う意味にとったらしく、ごめんと言うと、庭先から母を呼んだ。

「おばさーん。オレ、手ぇ洗いたいんだけど」

なかから、母の応答。

聞きとったタロちゃんは、そのまま靴を脱ぎ、ずかずかと家に上がって、数十秒後に庭へ降り立った。

私の家は、タロちゃんにとって、第二の自分の家と、同じようなものだった。

「じゃ、行こうぜ」

うなずいて歩きだしたものの、さっきから気になっていたことを口にする。

「……どうして、来たの?」

「えー?」

数歩さきを歩いていたタロちゃんは、気のない相づちをうって私を振り返り、ちょっと笑った。

「どうしてって。前はよく、一緒に行っただろ、学校」

こちらに向き直り、後ろ向きに歩きだす。

笑いながら軽く背を前に倒し、制服のポケットに両手を突っ込むタロちゃんに、あきれて言った。

「前って……小学生の頃じゃない」

「そっか」

あっさり認めて、ピタッと足を止める。

あとを追うように歩いていた私は、タロちゃんの隣に並んだ。

「……香緒里は、オレと行くのが嫌なの?」

「えっ……」

遠くを見るように、空を仰ぐタロちゃんに驚き、あわてて否定した。

「や……じゃない、けど……」

「じゃあ、いいじゃん」

くるりと前へ向き直って、横から私をのぞきこみ、タロちゃんは得意げに笑う。

少し長めの前髪の奥、つり上がりぎみの目もとが、ひどく優しくなる。

そんな彼を見上げ、つられて微笑んだ。

その笑顔の向こうの、清々しいほどに晴れた青い空を、目の端にとめながら。

そうやって私を気遣ってくれる、タロちゃんが好きだった。

おそらくタロちゃんは、母に頼まれて、私を迎えに来てくれたのだと思う。

タロちゃんと母は、とても仲が良かったから。

なぜかといえば、タロちゃんのお母さんは、私たちが小学五年生の時に亡くなっていて。
その時からタロちゃんは、母のところに炊事洗濯を習いに来ていたから。

母は、タロちゃんのお母さんと近所付き合いを始めた頃から、とても親しくしていたせいもあってか、実の子の私よりもタロちゃんを可愛いがり、いろいろと教えこんでいた。

だから今回のことも、私の態度に困り果てた母が、タロちゃんに頼みこんだに違いなかった。

でも、理由はどうあれ、とにかく私は嬉しかった。

単純に、タロちゃんが迎えに来てくれたことが、嬉しかったのだ。

───それが、ことごとく覆されたのは、その日のうちのことだった……。




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