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第三章 王女と奏者
歌姫の気概【1】
しおりを挟む『犬族』の“支配領域”は、ヤマト全国土中、主に北側に集中している。
そこは、文化や芸術というものよりも、農業や漁業を営む者が重宝されていた。
だから、ピアニストやヴァイオリニストといった職業は肩身が狭く、そして、需要もないため、当然ながら生活も苦しかった。
父親は教養を積ませることを目的とした、主に『犬族』の“純血種”の子息にピアノを教え、母親は地方公演にくる有名演奏家の客演をヴァイオリニストとして務め、収入を得ていた。
留加の覚えている限り、二人の顔に笑顔が絶えることは少なかった。
幼心にも決して裕福と思える暮らしぶりではなかったにも関わらず。
やがて父親は息子の音楽の才能に気づき、自らは音楽の世界とは縁を切り、遠洋漁業に出るようになった。
……彼の才能に見合った楽器を与えるために。
まるでそのためだけに漁師になったといわんばかりに、留加に高級ヴァイオリンを与えた直後の漁で、海に消えてしまった。
母親は哀しみに耐えて、息子に自分の持てうる限りの技術を注ぎこんだ。
彼も心得たように、そのすべてを貪欲に吸収した。
そんな日々の中、留加は一人の少女と出会う。
彼の母親が亡くなる、一年半前のこと───留加、八歳の冬であった。
†††††
慧一は手にした契約書を、隣に座った未優の前のテーブルへとすべらせた。
「問題ないだろう。お前が良ければ、サインしろ」
未優はうなずいて、署名する。
(ホントは、自分で読んで納得してサインする、っていうのが正しいんだろうけど……)
“第三劇場”にて“歌姫”『禁忌』として雇われることの契約書類。
十数枚に及ぶそれらの最初の二三行の文章で未優はギブアップし、慧一に目を通してもらったのだった。
(だって、甲とか乙とか、わけわかんないよ……)
学業成績は、ほとんどがEという最低評価だった学生時代。
未優は学校に、体育と音楽と給食と、それから級友と会うのを楽しみに行っていたようなものだった。
「契約成立だね。そんじゃまぁ、あとの説明はリョーコとシローに任せて、アタシャちょっと寝るからね、頼んだよ」
思いきり伸びをしながら、響子が隣室へと入っていく。
支配人室に残されたのは、未優と慧一と留加、そして“歌姫”の世話係である清史朗と、響子の秘書で実の妹だという涼子の五人だった。
響子の手から渡された契約書をざっとチェックし、一部を未優に渡し、残ったそれを手元のファイルにしまいこむと、涼子はちらりと腕時計に目を落とした。
「そろそろ来るはずだけど……」
つぶやく唇には、艶やかな深紅のルージュが引かれている。
結い上げられたハチミツ色の髪といい、大人の色気を感じさせる女性である。
一見してブランド物とわかる眼鏡が、未優にはうらやましいほどの知的雰囲気をかもしだしていた。
「呼んで参りましょうか? 何しろご高齢ですし……」
清史朗の申し出に、涼子は眉をひそめた。
「あのヒヒジジイ、もとい、獅子ジジイにそんな配慮は無用よ」
「ですが……」
(……なんか、今、外見と不釣り合いな単語が、もれ聞こえた気が……)
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