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第三章 三番目の大地
大地に何が起こっているのか【2】
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頬が強張り、責めるような言い方となった。
中年女性が苦笑いを浮かべる。
「……詳しくは、先生からお話があるかと思いますので……。
どうぞ、こちらへ」
そう諭され、逸る気持ちを押さえ、診察室へと導かれた。
なかは思ったほど広くなく、スチール製の机と、背もたれのある椅子が二脚、置かれていた。
壁ぎわにあるアンティーク調の衣紋掛けに、大地が羽織っていたファー付きのブルゾンが、かけられていた。
……大地の姿は、なかった。
それどころか、「先生」とやらの姿もない。
視線をめぐらせていると、隣室に続くらしい扉から、私より少し上くらいの年齢の、白衣の女性が出てきた。結い上げられた栗色の髪と黒縁の眼鏡に、ドラマやマンガにでてきそうな女医だと、感想を抱いてしまう。
「野中さん、進藤さんに付き添っていてもらえるかしら。いま、鎮静剤を打って、落ち着かせたところだから」
私を案内した看護師らしい中年女性に声をかけると、眼鏡の女性がこちらを振り返ってきた。
「お待たせいたしました。
わたくし、当クリニックの院長兼臨床心理士の榊原と申します。
……大地くんのお姉さん、で、よろしいのかしら?」
ちらりと意味ありげな視線を向けられ、私は眉を寄せた。
言外に、「違うだろう」と、告げられた気がしたからだ。
「……鎮静剤って、どういうことですか?」
それには答えずに、看護師の入って行った扉を見やる。
大地が、心配だった。
「───どうぞ、お掛けください。いまの大地くんの状態をご説明いたしますわ」
「……医療行為は、禁止されてるんじゃないんですか?」
ここへ来る前に調べた、にわか知識において、“臨床心理士”には鎮静剤などを使用することは、できないとあったからだ。
「ご心配なく。医師免許ももっておりますわ。医師として必要だと判断し、処置したまでです。
───舞美さん。座ってくださる?」
有無を言わせぬ口調だった。
私を名前で呼ぶのがなんだか自然で、驚いてしまう。
「大地くんの、ために」
付け加えられたひとことに、思わず腰を下ろした。
「大地に……何が、起きているんですか?」
鎮静剤が必要なほどの状態である大地が、心配で仕方なかった。榊原医師は、そんな私をじっと見つめた。
まるで私の瞳のなかに、私が求める答えがあるかのように。
「───真実を知るのが、必ずしも良い結果を生みだすとは限らないのは、舞美さんくらいの年齢になれば、解っていただけますわね?」
「……それは……大地の記憶を操作した、という意味ですか?」
大地が私に語った記憶は、かなり混乱していた。
私との間にあったことと、彼の母親との間にあったことが、錯雑しているようだった。
だから、榊原医師が意図的にそうしたのかと思い、訊き返したのだ。
予想に反し、彼女はゆっくりと頭を振った。
「いいえ。わたくしが先日行ったのは、記憶の揺り起こしのみです。
アミタールという薬を用いて、大地くんを年齢退行という方法で幼児期に逆戻りさせました。
彼にとっては、テレビ画面に映る、他人の出来事のように感じたはずです。
そして、目に見えたもの、耳に聞こえたもの、鼻に感じた匂いなどを話してもらいました。
結果、彼の抱えている問題が『単純な記憶喪失』だけではないと、気づいたのですが───わたくしの言いたいことが何か、察していただけますか?」
慎重に言葉を選び、私が知っているであろう事実を、私の口から言わせたいようだった。
恐らく、確信に近いものをもっていても医師である立場から、簡単には患者の『秘密』を口にできないためだろう。
そう思って、私はあえてはっきりと、自分が知り得る事実を言葉にした。
「……大地が、母親から───性的虐待を受けていたって、ことですね」
「……やはり、ご存じでしたか」
榊原医師がわずかに息を漏らして、目を伏せた。
机の上のカルテらしきものを引き寄せ、口を開く。
「こういった言い方は、誤解を招くかもしれませんが……。
職業柄、大地くんのような事情をもつ患者さんと接するのは、めずらしいことではありません。
身近な人間から受けた虐待を克服しようと考える方が、心療内科を訪れるのは、近年ではごく自然な流れになってきましたから。
けれど」
カルテの上を素早くなぞった視線が、ふたたび私に戻った。
「大地くんが今回、当方を訪ねられたのは、記憶の回復を望んでのこと。虐待によって受けた心の傷を、癒やすためではなかったはずです。
ところが彼は、皮肉にも記憶の回復により、専門医に頼ることなく克服していたはずの虐待を、無垢な心の状態で受け止めなくてはならなくなってしまった───。
今日の診療において、大地くんに対し、鎮静剤を射たなければならなかったのは、彼の取り乱し方が、薬物投与を必要とするほどだったからなのです。
……これで、納得していただけましたでしょうか」
私は軽くうなずいた。
前回の診療後、大地が私に語った事柄の数数が、思いだされた。
他人事を話すような突き放した口調や、それでいて、自分のこととして苦痛を感じているような様子を───。
私はずっと気になっていたことを、榊原医師にぶつけた。
「あの……大地が、人が変わったようになったのって……。
ひょっとして、記憶を失ったからじゃなくて……記憶を取り戻したから、なんですか?」
私の疑問を受けて、榊原医師が息をのむのが分かった。
ややして、覚悟を決めたように私に告げた。
「えぇ。大地くんの言動などから察して、彼の人格が変化しているのは、否定できません。
正確には、記憶を失う前の大地くんが、一番目。記憶を失った大地くんが二番目。
記憶を取り戻した現在の大地くんは───さしずめ、『三番目の大地くん』でしょうね」
中年女性が苦笑いを浮かべる。
「……詳しくは、先生からお話があるかと思いますので……。
どうぞ、こちらへ」
そう諭され、逸る気持ちを押さえ、診察室へと導かれた。
なかは思ったほど広くなく、スチール製の机と、背もたれのある椅子が二脚、置かれていた。
壁ぎわにあるアンティーク調の衣紋掛けに、大地が羽織っていたファー付きのブルゾンが、かけられていた。
……大地の姿は、なかった。
それどころか、「先生」とやらの姿もない。
視線をめぐらせていると、隣室に続くらしい扉から、私より少し上くらいの年齢の、白衣の女性が出てきた。結い上げられた栗色の髪と黒縁の眼鏡に、ドラマやマンガにでてきそうな女医だと、感想を抱いてしまう。
「野中さん、進藤さんに付き添っていてもらえるかしら。いま、鎮静剤を打って、落ち着かせたところだから」
私を案内した看護師らしい中年女性に声をかけると、眼鏡の女性がこちらを振り返ってきた。
「お待たせいたしました。
わたくし、当クリニックの院長兼臨床心理士の榊原と申します。
……大地くんのお姉さん、で、よろしいのかしら?」
ちらりと意味ありげな視線を向けられ、私は眉を寄せた。
言外に、「違うだろう」と、告げられた気がしたからだ。
「……鎮静剤って、どういうことですか?」
それには答えずに、看護師の入って行った扉を見やる。
大地が、心配だった。
「───どうぞ、お掛けください。いまの大地くんの状態をご説明いたしますわ」
「……医療行為は、禁止されてるんじゃないんですか?」
ここへ来る前に調べた、にわか知識において、“臨床心理士”には鎮静剤などを使用することは、できないとあったからだ。
「ご心配なく。医師免許ももっておりますわ。医師として必要だと判断し、処置したまでです。
───舞美さん。座ってくださる?」
有無を言わせぬ口調だった。
私を名前で呼ぶのがなんだか自然で、驚いてしまう。
「大地くんの、ために」
付け加えられたひとことに、思わず腰を下ろした。
「大地に……何が、起きているんですか?」
鎮静剤が必要なほどの状態である大地が、心配で仕方なかった。榊原医師は、そんな私をじっと見つめた。
まるで私の瞳のなかに、私が求める答えがあるかのように。
「───真実を知るのが、必ずしも良い結果を生みだすとは限らないのは、舞美さんくらいの年齢になれば、解っていただけますわね?」
「……それは……大地の記憶を操作した、という意味ですか?」
大地が私に語った記憶は、かなり混乱していた。
私との間にあったことと、彼の母親との間にあったことが、錯雑しているようだった。
だから、榊原医師が意図的にそうしたのかと思い、訊き返したのだ。
予想に反し、彼女はゆっくりと頭を振った。
「いいえ。わたくしが先日行ったのは、記憶の揺り起こしのみです。
アミタールという薬を用いて、大地くんを年齢退行という方法で幼児期に逆戻りさせました。
彼にとっては、テレビ画面に映る、他人の出来事のように感じたはずです。
そして、目に見えたもの、耳に聞こえたもの、鼻に感じた匂いなどを話してもらいました。
結果、彼の抱えている問題が『単純な記憶喪失』だけではないと、気づいたのですが───わたくしの言いたいことが何か、察していただけますか?」
慎重に言葉を選び、私が知っているであろう事実を、私の口から言わせたいようだった。
恐らく、確信に近いものをもっていても医師である立場から、簡単には患者の『秘密』を口にできないためだろう。
そう思って、私はあえてはっきりと、自分が知り得る事実を言葉にした。
「……大地が、母親から───性的虐待を受けていたって、ことですね」
「……やはり、ご存じでしたか」
榊原医師がわずかに息を漏らして、目を伏せた。
机の上のカルテらしきものを引き寄せ、口を開く。
「こういった言い方は、誤解を招くかもしれませんが……。
職業柄、大地くんのような事情をもつ患者さんと接するのは、めずらしいことではありません。
身近な人間から受けた虐待を克服しようと考える方が、心療内科を訪れるのは、近年ではごく自然な流れになってきましたから。
けれど」
カルテの上を素早くなぞった視線が、ふたたび私に戻った。
「大地くんが今回、当方を訪ねられたのは、記憶の回復を望んでのこと。虐待によって受けた心の傷を、癒やすためではなかったはずです。
ところが彼は、皮肉にも記憶の回復により、専門医に頼ることなく克服していたはずの虐待を、無垢な心の状態で受け止めなくてはならなくなってしまった───。
今日の診療において、大地くんに対し、鎮静剤を射たなければならなかったのは、彼の取り乱し方が、薬物投与を必要とするほどだったからなのです。
……これで、納得していただけましたでしょうか」
私は軽くうなずいた。
前回の診療後、大地が私に語った事柄の数数が、思いだされた。
他人事を話すような突き放した口調や、それでいて、自分のこととして苦痛を感じているような様子を───。
私はずっと気になっていたことを、榊原医師にぶつけた。
「あの……大地が、人が変わったようになったのって……。
ひょっとして、記憶を失ったからじゃなくて……記憶を取り戻したから、なんですか?」
私の疑問を受けて、榊原医師が息をのむのが分かった。
ややして、覚悟を決めたように私に告げた。
「えぇ。大地くんの言動などから察して、彼の人格が変化しているのは、否定できません。
正確には、記憶を失う前の大地くんが、一番目。記憶を失った大地くんが二番目。
記憶を取り戻した現在の大地くんは───さしずめ、『三番目の大地くん』でしょうね」
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