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二章 上司が溺愛しすぎる件
④
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すっかり暗くなった東京の夜道を歩いていたら、うしろから車が走ってきた。眩しいヘッドライトが、沙耶の姿をくっきりと浮かび上がらせる。通りすぎていくと思ったその車はしかし、沙耶の横で静かに停止する。
何事かと思わず身構えた沙耶の前で、運転席側の窓が開けられた。中にいた人物の顔を見て、沙耶は安堵に胸を撫で下ろす。
「か、課長……!」
「宮城、彼氏と帰ったんじゃなかったのか? こんな夜遅くにひとりで……物騒だろう!」
半ば怒りながら、藤本はドアを開けて車の中から出てきた。沙耶の背中を強めに押し、助手席に促す。沙耶はおとなしく藤本のされるがままとなった。
藤本が運転席に戻り、間もなく車を発進させる。ヘッドライトが夜の都会の街を浮かび上がらせた。心地のいいジャズがうるさくない程度にかかった車内で、沙耶はひたすらうつむいている。
「小林はどうしたんだ?」
「……帰しました」
「なぜ?」
「わかりません……」
ひとこと、ふたこと言葉を交わしているうちに、車は間もなく藤本のマンションの駐車場に入っていった。沙耶はそれに気づいていたけれど、あえて何も言わなかった。いまは自宅に帰る気になれなかったのだ。もし尚樹がついてきていたらと思うと、気が気でなかったこともある。いま尚樹には会いたくない。
「とにかく、うちでお茶でも飲んで落ち着け」
「……ありがとうございます」
藤本は紳士的に助手席のドアを開け、沙耶をエスコートしてくれた。あれほど絶望感でいっぱいだったのに、いまは間違いなく多幸感で占められていることを、いやでも意識せずにはいられない。
藤本と一緒にいると、とても落ち着くのだ。前々から落ち着いた上司だったけれど、それだけではないことに沙耶は気づき始めていた。
エレベーターに乗って十九階に到着する。一度来たことのある場所だから、すでに見知った光景だったが、高級なタワーマンションはやはり慣れない。ふかふかの絨毯が敷かれた廊下をふたりで静かに歩いていく。
藤本が部屋の鍵を開け、部屋の中に通される。
相変わらず広々としたシックな空間で、まさかまたここに来るとは思いもしなかった沙耶は不思議な感覚に囚われていた。
「適当に座ってな。ホットミルクでも入れるから」
「あ、すみません……」
ギシリとソファに身体を沈み込ませ、沙耶はひとり悶々とする。
(また藤本課長の家に来ちゃった……これは浮気になるのかな……?)
ブランデーをたらしたホットミルクを出されたころには、すっかり眠気に襲われてしまう。うつらうつらしていると、藤本が心配そうな溜息をついた。
「宮城――いや、沙耶。このまま、俺のものにならないか?」
「え……」
マグカップを持ったまま、大きく目を見開く。眠気もどこかに飛んでいってしまった。
「沙耶と小林を見ていると、俺もつらい」
「課長……」
白濁した液体に目を落とし、沙耶は考え込む。
「私は、課長と浮気していることになるのでしょうか……?」
「まさか」
その問いに、藤本がくつくつと喉を鳴らした。
「だったらどんなにいいか、俺は何度も想像したけどな」
沙耶が顔を上げると、藤本の柔らかい笑みと目が合う。
「沙耶が小林と別れたらって、ちゃんと決めてるから。仁義に反することはしないって約束する」
何も言えなくなり、沙耶は再びうつむいた。
(私が何を思って課長についてきたか知ったら、課長はどう思うだろう?)
尚樹とのことで投げやりになっていた沙耶は、このまま課長と身体の関係を持ってもいいとさえ思っていた。尚樹のことを考えたくなくて、いや、むしろ尚樹と同じように他者と身体の関係を持てば、お互い同等になって、また前のように戻れるかもしれないと、非論理的な考えに行き着いていたのだった。
それにもかかわらず優しすぎる藤本を前に、沙耶は自分の浅はかな考えに苦笑する。
「どうした?」
うっすらと笑みを浮かべていたから、藤本が不思議そうに沙耶の顔をのぞき込んできた。
沙耶はホットミルクを飲み干すと、藤本のほうを仰ぎ見る。
「いえ、ありがとうございます。……私、もう帰りますね」
帰り支度を整えていると、藤本が車のキーを持ってやってきた。
「送るから」
「え、でも……」
「いまになって遠慮はなしだ」
フッと笑う藤本が格好よく見えて、沙耶もつい微笑んでしまう。
「笑ってるほうがいいよ、沙耶は」
「藤本課長……」
背の高い藤本を見上げると、何を思ったのか彼が照れくさそうに頬をかいた。
「なあ、ひとつだけお願い聞いてもらえるか?」
「は、はい?」
「俺のこと、名前で呼んでほしい」
「な、名前でっ!?」
ギョッとして目を見張るも、沙耶は心の中で藤本の名前を思い浮かべる。
(藤本亮……課長の名前は、亮、だったよね)
「す、すまない。変な願いだよな! 悪かった! 忘れてくれ!」
いままでの自信などまるでなかったかのように、藤本は恥ずかしそうに先に玄関に向かってしまう。
そんな上司がかわいく見えて、沙耶はうしろからひっそりとささやいた。
「亮……亮さん」
けれどあまりに小さな声だったので、藤本は気づかなかったようだ。
何事かと思わず身構えた沙耶の前で、運転席側の窓が開けられた。中にいた人物の顔を見て、沙耶は安堵に胸を撫で下ろす。
「か、課長……!」
「宮城、彼氏と帰ったんじゃなかったのか? こんな夜遅くにひとりで……物騒だろう!」
半ば怒りながら、藤本はドアを開けて車の中から出てきた。沙耶の背中を強めに押し、助手席に促す。沙耶はおとなしく藤本のされるがままとなった。
藤本が運転席に戻り、間もなく車を発進させる。ヘッドライトが夜の都会の街を浮かび上がらせた。心地のいいジャズがうるさくない程度にかかった車内で、沙耶はひたすらうつむいている。
「小林はどうしたんだ?」
「……帰しました」
「なぜ?」
「わかりません……」
ひとこと、ふたこと言葉を交わしているうちに、車は間もなく藤本のマンションの駐車場に入っていった。沙耶はそれに気づいていたけれど、あえて何も言わなかった。いまは自宅に帰る気になれなかったのだ。もし尚樹がついてきていたらと思うと、気が気でなかったこともある。いま尚樹には会いたくない。
「とにかく、うちでお茶でも飲んで落ち着け」
「……ありがとうございます」
藤本は紳士的に助手席のドアを開け、沙耶をエスコートしてくれた。あれほど絶望感でいっぱいだったのに、いまは間違いなく多幸感で占められていることを、いやでも意識せずにはいられない。
藤本と一緒にいると、とても落ち着くのだ。前々から落ち着いた上司だったけれど、それだけではないことに沙耶は気づき始めていた。
エレベーターに乗って十九階に到着する。一度来たことのある場所だから、すでに見知った光景だったが、高級なタワーマンションはやはり慣れない。ふかふかの絨毯が敷かれた廊下をふたりで静かに歩いていく。
藤本が部屋の鍵を開け、部屋の中に通される。
相変わらず広々としたシックな空間で、まさかまたここに来るとは思いもしなかった沙耶は不思議な感覚に囚われていた。
「適当に座ってな。ホットミルクでも入れるから」
「あ、すみません……」
ギシリとソファに身体を沈み込ませ、沙耶はひとり悶々とする。
(また藤本課長の家に来ちゃった……これは浮気になるのかな……?)
ブランデーをたらしたホットミルクを出されたころには、すっかり眠気に襲われてしまう。うつらうつらしていると、藤本が心配そうな溜息をついた。
「宮城――いや、沙耶。このまま、俺のものにならないか?」
「え……」
マグカップを持ったまま、大きく目を見開く。眠気もどこかに飛んでいってしまった。
「沙耶と小林を見ていると、俺もつらい」
「課長……」
白濁した液体に目を落とし、沙耶は考え込む。
「私は、課長と浮気していることになるのでしょうか……?」
「まさか」
その問いに、藤本がくつくつと喉を鳴らした。
「だったらどんなにいいか、俺は何度も想像したけどな」
沙耶が顔を上げると、藤本の柔らかい笑みと目が合う。
「沙耶が小林と別れたらって、ちゃんと決めてるから。仁義に反することはしないって約束する」
何も言えなくなり、沙耶は再びうつむいた。
(私が何を思って課長についてきたか知ったら、課長はどう思うだろう?)
尚樹とのことで投げやりになっていた沙耶は、このまま課長と身体の関係を持ってもいいとさえ思っていた。尚樹のことを考えたくなくて、いや、むしろ尚樹と同じように他者と身体の関係を持てば、お互い同等になって、また前のように戻れるかもしれないと、非論理的な考えに行き着いていたのだった。
それにもかかわらず優しすぎる藤本を前に、沙耶は自分の浅はかな考えに苦笑する。
「どうした?」
うっすらと笑みを浮かべていたから、藤本が不思議そうに沙耶の顔をのぞき込んできた。
沙耶はホットミルクを飲み干すと、藤本のほうを仰ぎ見る。
「いえ、ありがとうございます。……私、もう帰りますね」
帰り支度を整えていると、藤本が車のキーを持ってやってきた。
「送るから」
「え、でも……」
「いまになって遠慮はなしだ」
フッと笑う藤本が格好よく見えて、沙耶もつい微笑んでしまう。
「笑ってるほうがいいよ、沙耶は」
「藤本課長……」
背の高い藤本を見上げると、何を思ったのか彼が照れくさそうに頬をかいた。
「なあ、ひとつだけお願い聞いてもらえるか?」
「は、はい?」
「俺のこと、名前で呼んでほしい」
「な、名前でっ!?」
ギョッとして目を見張るも、沙耶は心の中で藤本の名前を思い浮かべる。
(藤本亮……課長の名前は、亮、だったよね)
「す、すまない。変な願いだよな! 悪かった! 忘れてくれ!」
いままでの自信などまるでなかったかのように、藤本は恥ずかしそうに先に玄関に向かってしまう。
そんな上司がかわいく見えて、沙耶はうしろからひっそりとささやいた。
「亮……亮さん」
けれどあまりに小さな声だったので、藤本は気づかなかったようだ。
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