境界線のモノクローム

常葉㮈枯

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森樹の里:ビオタリア

79.蛾の火に赴くが如し

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 ヴェルが弾かれたように駆け出した。
 暴れるのを止め、警戒するようにこちらの出方を窺っていた鏡像が、真っ直ぐ向かってくる彼に気付いて鎌首をもたげる。

 ぱきぱき、と音を立てながら先ほどシルヴィアに砕かれた顎が再生を始めている。あの程度では大したダメージにならないらしい。ヴェルかアルヴィンが決定打になるか、もしくは再生の速度を超える勢いで攻め立てなければ際限がない。

 ヴェルが再度、水の杭を撃ち出す。今度は鏡像の視界にもしっかりと映るように。
 鏡像が何本もある手足をかさかさと動かし、大きな体躯を存外に素早い速度でうねらせる。胴部分はまるで硬い殻になっているようで、翅を穿った時と違いぶつかった魔術は大した衝撃も与えずに霧散した。

「あハは」

 嘲っているのか、ただの鳴き声か。
 複眼を確実にヴェルへ向けた鏡像が、その速度を顎を彼に向ける。


 やはりそうだ。知能があるといっても高いわけではないらしい。


 単に本能だけで向かってくるモヤ型と違い、相手を窺う様子や集団を警戒する様子は確かにある。しかし、それだけだ。
 集団から外れた者を標的として単純に襲いかかる。1人離れたヴェルにどんな意図が含まれていようが構わないのだ。

 手のひらに集まった光の粒子を握り込む。一瞬で蒼い刀身へと変化したそれを上段に構え、まずは振り下ろされた顎を受け流す。

 重い。
 けれど耐えられないほどではなかった。

 次に力の限り刀身を叩き込んだ。
 硬い。
 けれどヴェルの武器は姉と違って、力で叩き切ることを得意としていない。これは予想の範囲内だ。

 鏡像の目が、完全にヴェルだけに向けられていた。

───そうこなきゃな。

 に、と口角を上げると鏡像の瞳に怒りが宿った気がした。
 ヴェルが駆け出すと、鏡像は彼の後を追って移動を始める。思った通り、もはやその意識にエルフやシルヴィアたちの存在など残っていない。

「ひはっ、はははハハ!あっはハはは」

 哄笑か、鳴き声か。響く声が後ろから迫ってくる。
 ヴェルはそれなりに素早い方ではあるが、手足の多い鏡像の方が圧倒的に速い。
 空を切る音が僅かに届き、ヴェルは横に大きく跳んで転がった。直後に地面を掘り返すような湿った鈍い音。見なくてもわかる、あの振り回していた口吻だろう。
 振り返る余裕などなく、次は転がった方向へ向けて素早く身を起こすと再び走った。

 走る軌道を大きく逸らして跳んだので、鏡像は一瞬反応が遅れる。そうやって開いた距離を使って、ヴェルは追いかけてくる相手との距離を保ったままひた走る。

 数度同じことを繰り返せば、小さな里から離れることなど容易かった。


 ふ、と短く息を吐き、剣を横薙ぎに払う。
 飛びかかってきた口吻は胴と違って柔らかく、簡単に刃が通る。赤い"血"がパッと散って月光を僅かに反射させた。けれど、浅い。

「あァ"っ」

 短い悲鳴を上げて直ぐに口吻を引っ込めた鏡像は、その速度を持ってヴェルへと猛進した。怒りに任せての動きはわかりやすい。少し動くだけで十分に避けることができる。
 里から離れて木々が茂る森の中。大きな体躯は進行を阻む木々などお構いなしに薙ぎ倒していく。

───環境破壊しまくったって言って、後で文句言われねーかな。

 森に誘き出したは良いがそんな懸念がふと湧き上がる。文句を言われたら言われたでいい。人命優先にした結果である。

 そんな逸れたことを考えているうちに、向きを変えた鏡像がゆらり、と体躯を揺らした。
 蛾にも似た頭部から生えた翅が、木々のこずえを散らしながら大きく広がる。

───まさか飛ぶのか?

 そういえばアルヴィンが危機を感じると逃げる鏡像だと言っていたのを思い出す。そこまでダメージを与えたつもりはないが、そうだとすれば飛び立つ前に落とさねばなるまい。
 まず狙うなら柔らかい翅だ。
 ヴェルが腰を落とし、足に力を込めた時だった。


「あぁぁあアアあ"あ"ぁ"!!」


 哄笑が咆哮へと変わる。
 思わず耳を塞ぎそうになるのを耐えながら顔を顰めたヴェルが見たのは、大きく広げた翅が空気とともに震える姿。
 黒い翅から広がる黒い鱗粉。煙と見紛うそれが鏡像の体躯を覆ったかと思うと───蜃気楼のようにその姿が朧げになり……消える。
 まるで、さっき逃げて行った影のようだ。   

「ッ……!?」

 慌ててあたりを見回す。
 が、姿だけでなく気配もまるでない。

───消えた?逃げたのか?

 あたりを見回したヴェルは、背後から迫る気配に背を粟立てる。

 本能が警鐘を鳴らす。

「ぐ……」

 喉から漏れるのは、未だに掠れた呻きだ。

 咄嗟に剣を盾にしたのは正解だった。衝撃がダイレクトに構えた刃にぶつかり、踏ん張りきれなかった足が地面を離れる。
 回転する視界に、妙に冷静な思考で吹き飛ばされたのだと理解した。

「っ、は」

 背中を強かに打ち付け、肺から空気が搾り出される。痛みよりも先に息苦しさと、脳が揺れたことでの強烈な眩暈が湧き上がる。
 服越しの背中にザリザリとした感触。どこかの木にでもぶつかったようだ。
 「痛ぇ」。口の中でそう悪態をつく。完全に倒れる前に、離すまいと掴んだままだった剣を地面に突き立てた。

 鈍痛を訴える背中に片眉を顰めつつ、ヴェルは周囲に視線を走らせた。

 全く見えない。
 朧げでも姿が残っていればまだやりようはあるのだが、視界に映るのは静かな夜の森だけ。気配があっても、それだけで居場所が正確に特定できるほど感覚が鋭いわけでもない。

───厄介っつってたの、これのことかよ。

 確かに姿を消されては逃げるのを追いかけるのも困難だったろう。攻撃を盛大に外していたというのも頷けた。

───だとしても、それならさっさと教えとけよな。

 誘拐事件に鏡像の能力自体が直接関係しないといえ、道中で触れたって良かったではないか。そんな恨み節を胸中で繰り返しながら深く息を吸い込む。

 あのタイミングで囮を買って出られるのはヴェルかシルヴィアだけだった。
 いくら彼女が強いといえ、ヴェルにも守護者であるという僅かばかりのプライドがある。自分がその役を請け負った選択を悪手だとは思わない。

 けれども、少し先走ってしまったのは反省点だ。これでは姉のことを馬鹿にできない。

 耳が風切りの音を捉える。
 反射的に前に転がり、背後で背を預けていた木が無惨に真っ二つに裂けるのを視界の端で捉えた。

 視認が出来ないのはかなり大きなハンディキャップだ。月がいかに明るくとも、見えないのでは意味がない。
 ならば次に取れる一手は───。




「ヴェルーーーー!!」




 勇ましい呼び声が急激に降ってきた。かと思えば、鈍く重い打撃音があたりに響く。



「ぇエ"あアああぁ"あァァぁ!!!!」

 つんざくような叫び声が存外に近くで聞こえる。いつの間にこんなに近くに?と考えるより先に、再び打撃音。
 二度目の絶叫。
 あまりの音圧に今度こそ手で耳を塞ぎ歯を食いしばった。

 悲鳴が徐々に遠ざかっていく。
 やがて、耳の奥に余韻は残りながらも肌で感じていた空気の震えも消えてしまったときだ。

「ごめん、遅かった!?」

 この数時間で聞き慣れた声。
 声の主は慌ただしく近付いてくると、躊躇なくヴェルの両頬を包む。覗き込む燃えるような朝焼けが、心配そうな色を宿していた。

「アルヴィンさんが慌ててこっちに来るもんだから何だと思ったら、まだあいつの能力教えてないって話じゃないすか!絶対困ると思って、急いで追って来たんすよ!」

 転がり、立ち上がりかけた姿勢のままのヴェルに合わせて膝を折った彼女の顔には、憤慨に呆れも混ざっている。

「うわ、ほっぺのところ結構深く切ってる……痛いでしょこれ」 
「……」
「ヴェルもヴェルっすよ。家から避難させろっていうのはわかったけど、まさかそのまま自分が引き付けて行っちゃうなんて思わないじゃないっすか」

 どうやら、全てが全て伝わっていたわけではないらしい。
 シルヴィアは暫くヴェルの顔や体を見て傷の具合を確認してから、ようやく彼の顔から手を離した。彼女の体温は高いのか、触れたところが熱を持っている気がした。

「この明かりだけじゃ分からないっすね。戻ったら打ち身とかも見てもらった方がいいっすよ、小さな傷だって油断してたらあとで痛い目見るんだから。若いからって自分の回復力を過信しすぎるのは良くないっす」

 捲し立てられてはヴェルも頷くしかない。
 姉のようだな、と頭の片隅で思いつつ、妙に気になる事があった。

「とりあえず、みんなと合流しに行こう?あとはアルヴィンさんたちに引き継いだから、流石に避難も落ち着いてるはずっすよ」
「……」
「何すか、その怪訝な顔は?聞きたいことでもあるっすか?」
 
 それならばとシルヴィアが慣れた様子で手のひらを差し出す。

 どうやって鏡像に攻撃を当てたのか、とか、そもそもどうやってヴェルの場所がわかったのか、とか。
 先に聞いておいた方がいいことはあるはずなのだが、向けられた手のひらにヴェルが思わず書いたのは別の質問だった。



───いくつ?
「私?24っす」

 一喜一憂が豊かだったり動きが大きかったり、屈託のない素直さや彼女自身の顔立ちの若さから勝手に年下か、良くて同い年程度を思っていた。妙にしっかりというか、ヒトをよく見ている大人びた面もあるとは思ったが。

 まさか自分より5つも上だとは到底思っていなかった。その差が大きいか小さいかと言われれば悩むところではあるのだが。

「そんな意外っすか?いいっすよ、これから私のこと"お姉ちゃん"って呼んでくれても」

 呆けたヴェルを見て、シルヴィアは思わずといった顔で笑ったのだった。
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