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森樹の里:ビオタリア
69.エルフの棲む里
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『母ちゃんの住んでたとこって森しかなかったんだと。ジェネシティに来たばかりのときは、建物の多さに慣れなかったって言ってたな』
アステルの声が記憶の片隅から聞こえてくる。
話のきっかけは忘れてしまったが、アステルの母の話が出てディクシアが後ろめたさと興味を天秤にかけた結果、その知的好奇心に敗北して前のめりになって聞いていたことはよく覚えている。
その話をぼんやり覚えているからだろうか、失礼ながらヴェルの中でのエルフの里のイメージは、枝や葉で作った簡素な家屋がいくつか立ち並ぶだけのものだった。
しかし目の前に広がるのは、乏しい想像力で描いていたものよりもずっと人の営みに溢れていた。
通ってきた森の中とは違う種類の、大人10人で囲っても足りなさそうな幾本もの大樹。そこから生える枝もまた太く長く、広がる枝葉は空を完全に覆っていた。だが暗いかといえばそんなこともなく、枝から垂れ下がる植物の蔦先には照明魔道具が絡みつき周囲一帯を明るく照らしていた。
普段目にする灯りとは違う、温かみを感じる光だ。
家屋は確かに簡素ながらしっかり板を組み上げて建てられており、まさに森の中に溶け込んだ集落といった光景だった。
ジェネシティとはもちろん違うが、リンデンベルグともまた違う景色にヴェルは軽く目を見張る。
「口も開いてるっすよ」
隣からこっそり囁かれるシルヴィアの指摘で、ヴェルは慌てて顔面の筋肉に力を入れ直した。さぞかし間抜けな顔をしていたに違いない。
「エリン!?」
目に飛び込む色は暖かくも、里に足を踏み入れた瞬間から慌ただしい空気は感じていた。
その最もたる原因が、ようやくヴェルたちの存在に気付いたようだった。
「エリン、無事なのか!?」
少し離れた場所で張り詰めた空気を漂わせていた集団から、1人の男がすぐさま駆け寄ってきた。
「じじ様ぁ!!」
その姿に気付いたエリンが、顔いっぱいに喜色を滲ませて叫ぶ。響き渡る声に、続いて他の者たちもヴェルたちの存在に気付いたようだ。
目と鼻の先で止まった男はエリンと視線を合わせて膝を付く。ヴェルの左腕からエリンを引き剥がすように彼女を掻き抱き、心からの安堵の表情を浮かべて嗚咽を漏らした。
「あぁ……。よかった……」
「ふふ、じじ様苦しいよ」
ざわめきが広がり、複数の視線がエリンを連れてきたヴェルとシルヴィアに突き刺さる。
大勢の注目を集めるのはどんな理由であれ好きじゃない。目立ちたくない、それ以前に他人から一斉に注がれる視線というのがヴェルはどうも苦手だ。
悪いことなど一切していないはずなのに、ヴェルは居心地の悪さに口端を引き攣らせた。
エリンを抱きしめた男が顔を上げた。僅かに顔にかかる長い金髪の隙間から、彼女と同じ色の瞳が覗く。
新緑の色。瑞々しさというよりも老練した知性が湛えられた瞳は静かにヴェルを映した。
若い。
ヴェルの第一印象はそれだった。
エリンが「じじ様」と呼んでいたことから恐らく男はエリンの祖父なのだろうが、どう見てもヴェルより10も離れたように見えない。少しばかり年嵩を見積もっても30半ばが良いところだ。
それに、なんと言っても顔立ちが整っている。ディクシアといい勝負だ。
大半のエルフ種は容姿に優れ、青年期が何百年も続くほどの長寿だという。目の前の男も例に漏れず、何十、何百年も生きているのだろう。
頭で理解していても父親よりも若く見える老齢の美丈夫に見つめられれば、ヴェルだってたじろぐしかない。
「人間、いや、その服を見るに守護者の子どもか」
整った形をした唇から出たのは、静かで穏やかだが猜疑心を滲ませた声だった。
「名は?アルヴィン殿の仲間なのか?」
「……」
「答えられぬのか?」
声はまだ枯れたままで、問われてもヴェルには返答することができない。だが首を振って意思表示をしようにも、その気も削がれてしまっていた。
相手にとっては警戒すべき余所者なのかもしれないが、無事に孫を連れてきた者を最初から疑ってかかる物言いに気を悪くするのは何もおかしなことではない。しかしヴェルの態度にもまた、気を悪くする者がいるのも確かだった。
「貴様っ、族長に返事ぐらいせんか!」
彼らを囲む他のエルフから怒声が飛んだのを皮切りに、敵意が一気に膨らむ。
「待って、待って!ごめんなさい、これについては私の所為なんすよ!」
それを宥めたのは、シルヴィアのよく通る声だった。周りの敵意を遮る形でヴェルの横に立ち、あわあわと忙しなく手を振って見せる。
「このヒトは私より先にエリンを助けてくれてたっすよ!」
「先行して、助けていたと?」
「と、いうよりその場に居合わせただけみたいっす。それなのに私が早とちりで攻撃しちゃったから喉を痛めちゃって……。ここまでの道中見ていたけど、悪いヒトじゃないっすよ」
彼女の説明を受けてエルフ達はしばし黙り、次いで互いに顔を見合わせる。
「シルヴィアさんが、そう言うのであれば……そうなんでしょう」
「まぁ、シルヴィアさんだからな」
「シルヴィアさんの早とちりなら仕方ないか」
「聞こえてるっすよー」
腰に手を当て半目で睨むシルヴィアに対し、当のエルフたちからは苦笑が漏れる。彼らの纏う空気は未だにピリピリと張り詰めているものの、ヴェルに向けられた敵意だけは波のように遠ざかっていった。
エルフは特に排他的な種族だと聞いていた。こんなにも素直に彼女の言葉を受けると思わず、面食らった表情のヴェルにシルヴィアが笑いかけた。
邪気のない笑顔はヴェルの中に積もった鬱憤も綺麗に払拭する。もしかしたら排他的といわれる彼らをこうも宥められるのは、彼女のそういった気質ゆえなのかもしれない。
「───ってことで、話すことができないのは私に免じて許して欲しいんだけど……。いいっすか、オーベロンさん?」
続けてその視線はヴェルの肩口のさらに向こう、エリンを抱えて立ち上がった男の方へ。
凛と背筋を伸ばして佇む男は、尚更青年にしか見えない。
「構わない。喋れぬものを咎めるほど、狭量なつもりはない」
「助かるっす」
「それに、シルヴィア殿の言うとおりであれば彼がエリンを救ってくれたのだろう?」
「そうだよ、ヴェルお兄ちゃんがエリンを助けてくれたの。───王子様みたいだったぁ……」
さらにエリンが横から助け舟を出した───最後の言葉はうっとり頬を赤らめながら。
どうも懐かれた原因は主にそれらしい。
てっきり兄のようだと慕ってくれているのかと思ったが……。幼い憧れに、ヴェルは曖昧に笑って返すしかなかった。
ゆったりとしたローブが響かせる衣擦れとともに、オーベロン、と呼ばれた男はエリンを抱えたままヴェルに一歩歩み寄る。
「礼が遅れてすまない。曾孫を救ってくれたこと、心から感謝する」
まさかの、祖父よりもさらに上だった。
彼は流麗な動作で躊躇いなく頭を下げる。
「其方に対する態度も詫びよう。最初から不躾な物言いをしてすまなかったな」
あまりに素直に謝られて拍子抜けする。
思うところがないわけではないが、面倒は嫌いだ。蟠りが解けるのであればそれに越したことはない。
オーベロンが頭を上げる。
ヴェルが頷いたのを確認すると、彼は端正な顔にぎこちない笑みを浮かべた。
他のエルフと同じだ。ヴェルに対する敵意は消えたといえ張り詰めた雰囲気だけが残り、それがまた彼や周りの表情を固く見せている。
「エリン、先に休みなさい。もう夜も遅い……今日は大樹の元に行くんだ」
「ヴェルお兄ちゃんは?それに、じじ様も」
「我々はまだ話さねばならないことがある。他の子どもも皆、そこに集められている。独りではないから心配せずとも───」
「やだ、嫌!!お兄ちゃんと一緒がいい!」
優しくかけられる声。しかし、即座に返って来たのは強い拒絶だ。
「エリン……」
「嫌!」
「……大事な話なのだ。子どもには聞かれたくない───いや、聞かせられない」
穏やかだが有無を言わさぬ声音。それと裏腹にやや眉根を寄せて苦しみに堪える顔。
族長、と呼ばれていた彼にとって家族の希望をただ優先する、ということは恐らくできないのだろう。
「耳塞いでるから一緒にいる!」
今まで大人しく抱き上げられていたのが嘘のように暴れ、エリンはオーベロンの腕から抜け出す。ヴェルの元へ駆け寄ったかと思えば、そのままズボンを力一杯握りしめて隠れるように身を縮こませた。
それは単なる我儘ではなく、怯えからくる拒絶なのだというのは誰の目から見ても明らかだ。
「エリン……大樹は兵士が複数人で守っている。だから安心して言うことをきいてはくれないか」
「やだぁ……離れたくない……」
ぐすぐすと鼻を啜る音がする。こうなってしまえば、いくら言葉を尽くそうが納得させるのは難しいだろう。元気に振る舞って戻ってきたといえ、彼女はやはり年端もいかない子どもだった。
気でも紛らわせてやればいいのだが、生憎とヴェルの喉はまだ掠れたままだ。得意の舌先三寸もこうなっては役に立てそうもない。
文字を書いて意思の疎通を図ろうにも、あれは落ち着いた状況で自他共に余裕があるから出来るコミュニケーションであって、握りしめた手を無理に開かせて出来るものではなかった。
諦めて連れて行くのが1番と無難なのではないか、そう思い始めたとき、シルヴィアがエリンの前へ膝をついた。
「エリン、昨日寝る前にしたお話の内容は覚えてるっすか?」
「お話……?」
嗜めるわけではない話を唐突に聞かれたからか、エリンは目に涙を溜めながらもシルヴィアの言葉に耳を傾ける。
「そう。茨の谷のお姫様のお話」
「覚え、てる……」
「ね。3回同じ話を聞くくらいには、好きって言ってたっすよね」
意図がつかめず、恐る恐る頷くエリン。そんな彼女を見て、シルヴィアはゆっくりと破顔した。見下ろす形のヴェルから見ても、眩しいくらい爽やかな笑みだ。
温かみのある夜明け色の双眸を細め、彼女はそっとエリンの耳元に唇を寄せた。
ヴェルのときと同じ、ひそひそと何かを囁いている。耳のいい姉なら何を言っているのか聞き取れたかもしれないが、残念なことに彼の耳はシルヴィアの言葉を拾うまでは出来なかった。
エリンの眉尻は下がったままだが、シルヴィアが何事か囁くにつれヴェルのズボンを握る力は徐々に弱まっていく。
「……だから大丈夫っすよ。ね?」
「……」
「やっぱり、まだ心配っすか?」
エリンは答えない。
代わりに弛んだ小さな手は、とうとうヴェルのズボンを手放した。そこだけしっかりと付いてしまったシワが、どれだけ必死に彼女がしがみついていたのかを物語っている。
「……わかった。ちゃんと、寝に行く」
なんの話をしていたのかヴェルには皆目見当も付かないが、最終的には気持ちに折り合いがついたらしい。
俯き加減で快活さなど全く消え去ってしまっているが、エリンはそれでも確かな足取りでオーベロンの元へと戻って行く。
「じじ様……。我儘言ってごめんなさい」
「───あぁ、しっかり休むんだ。迎えにいくまで勝手に出るんじゃないぞ」
エリンが小さく頷くと、オーベロンは近くにいたエルフを手招きしてエリンの側に付くよう命じた。
彼女は背筋を正してから一礼し、エリンを抱き上げる。
暴れることもなく素直に抱えられ、里の奥へと離れて行くエリンがエルフの肩越しに振り返った。
「ヴェルお兄ちゃん!待ってるね!!」
「……………………は?」
空気の漏れる音。
掠れた喉は音として声を出すことはできなかったが、それでもヴェルの困惑を表出するには十分だった。
隣で立ち上がったシルヴィアが肩を震わせて笑っている。
「何の話、って顔してるっすね?」
"待ってる"の意図がわからないヴェルには当然の疑問だ。しかし、シルヴィアは悪戯っぽく口角を上げるだけ。
「ちゃんと後で言うっすよ~。あなたには後でやってもらわなきゃダメな事っすからね」
だから、それが何かを知りたいのだ。
目で訴えてもシルヴィアは含んだ笑みを浮かべたまま。
「これでいいっすか、オーベロンさん?」
「すまない、お前には毎度毎度迷惑をかけるな」
「お安い御用っすよ」
「では……、アルヴィン殿の元へ向かおうか。後進の者が到着した旨も伝えねばな。良いか、ヴェル殿?」
あれよという間に話は進んでいく。いまだにエリンの誘拐に関しても、シルヴィアが言っていた"ややこしい状況"に関しても全容が分からないヴェルには頷く他ない。先達に合わないことには、自分がここでどう動けばいいのかすら分からない。
結局、ヴェルはシルヴィアからその意図を聞き出せないまま、歩き出したエルフたちの後をついて行くのだった。
アステルの声が記憶の片隅から聞こえてくる。
話のきっかけは忘れてしまったが、アステルの母の話が出てディクシアが後ろめたさと興味を天秤にかけた結果、その知的好奇心に敗北して前のめりになって聞いていたことはよく覚えている。
その話をぼんやり覚えているからだろうか、失礼ながらヴェルの中でのエルフの里のイメージは、枝や葉で作った簡素な家屋がいくつか立ち並ぶだけのものだった。
しかし目の前に広がるのは、乏しい想像力で描いていたものよりもずっと人の営みに溢れていた。
通ってきた森の中とは違う種類の、大人10人で囲っても足りなさそうな幾本もの大樹。そこから生える枝もまた太く長く、広がる枝葉は空を完全に覆っていた。だが暗いかといえばそんなこともなく、枝から垂れ下がる植物の蔦先には照明魔道具が絡みつき周囲一帯を明るく照らしていた。
普段目にする灯りとは違う、温かみを感じる光だ。
家屋は確かに簡素ながらしっかり板を組み上げて建てられており、まさに森の中に溶け込んだ集落といった光景だった。
ジェネシティとはもちろん違うが、リンデンベルグともまた違う景色にヴェルは軽く目を見張る。
「口も開いてるっすよ」
隣からこっそり囁かれるシルヴィアの指摘で、ヴェルは慌てて顔面の筋肉に力を入れ直した。さぞかし間抜けな顔をしていたに違いない。
「エリン!?」
目に飛び込む色は暖かくも、里に足を踏み入れた瞬間から慌ただしい空気は感じていた。
その最もたる原因が、ようやくヴェルたちの存在に気付いたようだった。
「エリン、無事なのか!?」
少し離れた場所で張り詰めた空気を漂わせていた集団から、1人の男がすぐさま駆け寄ってきた。
「じじ様ぁ!!」
その姿に気付いたエリンが、顔いっぱいに喜色を滲ませて叫ぶ。響き渡る声に、続いて他の者たちもヴェルたちの存在に気付いたようだ。
目と鼻の先で止まった男はエリンと視線を合わせて膝を付く。ヴェルの左腕からエリンを引き剥がすように彼女を掻き抱き、心からの安堵の表情を浮かべて嗚咽を漏らした。
「あぁ……。よかった……」
「ふふ、じじ様苦しいよ」
ざわめきが広がり、複数の視線がエリンを連れてきたヴェルとシルヴィアに突き刺さる。
大勢の注目を集めるのはどんな理由であれ好きじゃない。目立ちたくない、それ以前に他人から一斉に注がれる視線というのがヴェルはどうも苦手だ。
悪いことなど一切していないはずなのに、ヴェルは居心地の悪さに口端を引き攣らせた。
エリンを抱きしめた男が顔を上げた。僅かに顔にかかる長い金髪の隙間から、彼女と同じ色の瞳が覗く。
新緑の色。瑞々しさというよりも老練した知性が湛えられた瞳は静かにヴェルを映した。
若い。
ヴェルの第一印象はそれだった。
エリンが「じじ様」と呼んでいたことから恐らく男はエリンの祖父なのだろうが、どう見てもヴェルより10も離れたように見えない。少しばかり年嵩を見積もっても30半ばが良いところだ。
それに、なんと言っても顔立ちが整っている。ディクシアといい勝負だ。
大半のエルフ種は容姿に優れ、青年期が何百年も続くほどの長寿だという。目の前の男も例に漏れず、何十、何百年も生きているのだろう。
頭で理解していても父親よりも若く見える老齢の美丈夫に見つめられれば、ヴェルだってたじろぐしかない。
「人間、いや、その服を見るに守護者の子どもか」
整った形をした唇から出たのは、静かで穏やかだが猜疑心を滲ませた声だった。
「名は?アルヴィン殿の仲間なのか?」
「……」
「答えられぬのか?」
声はまだ枯れたままで、問われてもヴェルには返答することができない。だが首を振って意思表示をしようにも、その気も削がれてしまっていた。
相手にとっては警戒すべき余所者なのかもしれないが、無事に孫を連れてきた者を最初から疑ってかかる物言いに気を悪くするのは何もおかしなことではない。しかしヴェルの態度にもまた、気を悪くする者がいるのも確かだった。
「貴様っ、族長に返事ぐらいせんか!」
彼らを囲む他のエルフから怒声が飛んだのを皮切りに、敵意が一気に膨らむ。
「待って、待って!ごめんなさい、これについては私の所為なんすよ!」
それを宥めたのは、シルヴィアのよく通る声だった。周りの敵意を遮る形でヴェルの横に立ち、あわあわと忙しなく手を振って見せる。
「このヒトは私より先にエリンを助けてくれてたっすよ!」
「先行して、助けていたと?」
「と、いうよりその場に居合わせただけみたいっす。それなのに私が早とちりで攻撃しちゃったから喉を痛めちゃって……。ここまでの道中見ていたけど、悪いヒトじゃないっすよ」
彼女の説明を受けてエルフ達はしばし黙り、次いで互いに顔を見合わせる。
「シルヴィアさんが、そう言うのであれば……そうなんでしょう」
「まぁ、シルヴィアさんだからな」
「シルヴィアさんの早とちりなら仕方ないか」
「聞こえてるっすよー」
腰に手を当て半目で睨むシルヴィアに対し、当のエルフたちからは苦笑が漏れる。彼らの纏う空気は未だにピリピリと張り詰めているものの、ヴェルに向けられた敵意だけは波のように遠ざかっていった。
エルフは特に排他的な種族だと聞いていた。こんなにも素直に彼女の言葉を受けると思わず、面食らった表情のヴェルにシルヴィアが笑いかけた。
邪気のない笑顔はヴェルの中に積もった鬱憤も綺麗に払拭する。もしかしたら排他的といわれる彼らをこうも宥められるのは、彼女のそういった気質ゆえなのかもしれない。
「───ってことで、話すことができないのは私に免じて許して欲しいんだけど……。いいっすか、オーベロンさん?」
続けてその視線はヴェルの肩口のさらに向こう、エリンを抱えて立ち上がった男の方へ。
凛と背筋を伸ばして佇む男は、尚更青年にしか見えない。
「構わない。喋れぬものを咎めるほど、狭量なつもりはない」
「助かるっす」
「それに、シルヴィア殿の言うとおりであれば彼がエリンを救ってくれたのだろう?」
「そうだよ、ヴェルお兄ちゃんがエリンを助けてくれたの。───王子様みたいだったぁ……」
さらにエリンが横から助け舟を出した───最後の言葉はうっとり頬を赤らめながら。
どうも懐かれた原因は主にそれらしい。
てっきり兄のようだと慕ってくれているのかと思ったが……。幼い憧れに、ヴェルは曖昧に笑って返すしかなかった。
ゆったりとしたローブが響かせる衣擦れとともに、オーベロン、と呼ばれた男はエリンを抱えたままヴェルに一歩歩み寄る。
「礼が遅れてすまない。曾孫を救ってくれたこと、心から感謝する」
まさかの、祖父よりもさらに上だった。
彼は流麗な動作で躊躇いなく頭を下げる。
「其方に対する態度も詫びよう。最初から不躾な物言いをしてすまなかったな」
あまりに素直に謝られて拍子抜けする。
思うところがないわけではないが、面倒は嫌いだ。蟠りが解けるのであればそれに越したことはない。
オーベロンが頭を上げる。
ヴェルが頷いたのを確認すると、彼は端正な顔にぎこちない笑みを浮かべた。
他のエルフと同じだ。ヴェルに対する敵意は消えたといえ張り詰めた雰囲気だけが残り、それがまた彼や周りの表情を固く見せている。
「エリン、先に休みなさい。もう夜も遅い……今日は大樹の元に行くんだ」
「ヴェルお兄ちゃんは?それに、じじ様も」
「我々はまだ話さねばならないことがある。他の子どもも皆、そこに集められている。独りではないから心配せずとも───」
「やだ、嫌!!お兄ちゃんと一緒がいい!」
優しくかけられる声。しかし、即座に返って来たのは強い拒絶だ。
「エリン……」
「嫌!」
「……大事な話なのだ。子どもには聞かれたくない───いや、聞かせられない」
穏やかだが有無を言わさぬ声音。それと裏腹にやや眉根を寄せて苦しみに堪える顔。
族長、と呼ばれていた彼にとって家族の希望をただ優先する、ということは恐らくできないのだろう。
「耳塞いでるから一緒にいる!」
今まで大人しく抱き上げられていたのが嘘のように暴れ、エリンはオーベロンの腕から抜け出す。ヴェルの元へ駆け寄ったかと思えば、そのままズボンを力一杯握りしめて隠れるように身を縮こませた。
それは単なる我儘ではなく、怯えからくる拒絶なのだというのは誰の目から見ても明らかだ。
「エリン……大樹は兵士が複数人で守っている。だから安心して言うことをきいてはくれないか」
「やだぁ……離れたくない……」
ぐすぐすと鼻を啜る音がする。こうなってしまえば、いくら言葉を尽くそうが納得させるのは難しいだろう。元気に振る舞って戻ってきたといえ、彼女はやはり年端もいかない子どもだった。
気でも紛らわせてやればいいのだが、生憎とヴェルの喉はまだ掠れたままだ。得意の舌先三寸もこうなっては役に立てそうもない。
文字を書いて意思の疎通を図ろうにも、あれは落ち着いた状況で自他共に余裕があるから出来るコミュニケーションであって、握りしめた手を無理に開かせて出来るものではなかった。
諦めて連れて行くのが1番と無難なのではないか、そう思い始めたとき、シルヴィアがエリンの前へ膝をついた。
「エリン、昨日寝る前にしたお話の内容は覚えてるっすか?」
「お話……?」
嗜めるわけではない話を唐突に聞かれたからか、エリンは目に涙を溜めながらもシルヴィアの言葉に耳を傾ける。
「そう。茨の谷のお姫様のお話」
「覚え、てる……」
「ね。3回同じ話を聞くくらいには、好きって言ってたっすよね」
意図がつかめず、恐る恐る頷くエリン。そんな彼女を見て、シルヴィアはゆっくりと破顔した。見下ろす形のヴェルから見ても、眩しいくらい爽やかな笑みだ。
温かみのある夜明け色の双眸を細め、彼女はそっとエリンの耳元に唇を寄せた。
ヴェルのときと同じ、ひそひそと何かを囁いている。耳のいい姉なら何を言っているのか聞き取れたかもしれないが、残念なことに彼の耳はシルヴィアの言葉を拾うまでは出来なかった。
エリンの眉尻は下がったままだが、シルヴィアが何事か囁くにつれヴェルのズボンを握る力は徐々に弱まっていく。
「……だから大丈夫っすよ。ね?」
「……」
「やっぱり、まだ心配っすか?」
エリンは答えない。
代わりに弛んだ小さな手は、とうとうヴェルのズボンを手放した。そこだけしっかりと付いてしまったシワが、どれだけ必死に彼女がしがみついていたのかを物語っている。
「……わかった。ちゃんと、寝に行く」
なんの話をしていたのかヴェルには皆目見当も付かないが、最終的には気持ちに折り合いがついたらしい。
俯き加減で快活さなど全く消え去ってしまっているが、エリンはそれでも確かな足取りでオーベロンの元へと戻って行く。
「じじ様……。我儘言ってごめんなさい」
「───あぁ、しっかり休むんだ。迎えにいくまで勝手に出るんじゃないぞ」
エリンが小さく頷くと、オーベロンは近くにいたエルフを手招きしてエリンの側に付くよう命じた。
彼女は背筋を正してから一礼し、エリンを抱き上げる。
暴れることもなく素直に抱えられ、里の奥へと離れて行くエリンがエルフの肩越しに振り返った。
「ヴェルお兄ちゃん!待ってるね!!」
「……………………は?」
空気の漏れる音。
掠れた喉は音として声を出すことはできなかったが、それでもヴェルの困惑を表出するには十分だった。
隣で立ち上がったシルヴィアが肩を震わせて笑っている。
「何の話、って顔してるっすね?」
"待ってる"の意図がわからないヴェルには当然の疑問だ。しかし、シルヴィアは悪戯っぽく口角を上げるだけ。
「ちゃんと後で言うっすよ~。あなたには後でやってもらわなきゃダメな事っすからね」
だから、それが何かを知りたいのだ。
目で訴えてもシルヴィアは含んだ笑みを浮かべたまま。
「これでいいっすか、オーベロンさん?」
「すまない、お前には毎度毎度迷惑をかけるな」
「お安い御用っすよ」
「では……、アルヴィン殿の元へ向かおうか。後進の者が到着した旨も伝えねばな。良いか、ヴェル殿?」
あれよという間に話は進んでいく。いまだにエリンの誘拐に関しても、シルヴィアが言っていた"ややこしい状況"に関しても全容が分からないヴェルには頷く他ない。先達に合わないことには、自分がここでどう動けばいいのかすら分からない。
結局、ヴェルはシルヴィアからその意図を聞き出せないまま、歩き出したエルフたちの後をついて行くのだった。
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