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森樹の里:ビオタリア
68.盟友
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さっきまでの雲隠れが嘘のように、月は煌々と夜を照らす。
加えて、少女がポケットから取り出した手のひらサイズのガラス玉が、周囲を飛び回りながら胞子を吸収して淡く発光している。簡易的な照明魔道具のようだった。
「お兄ちゃん、もう大丈夫だよ」
少女は抱えられていたヴェルの腕から身軽に飛び降りた。
意識を失い小脇にされていた時には華奢に見えたものだが動き始めると成程、子どもらしく快活な様子だ。薬を使われたと思わしき後遺症も見受けられない。
彼女は赤みの差した頬に笑窪を浮かべながら、肩にかけられていた守護者の制服を差し出す。エルフ種らしく、笑みを浮かべる顔は愛らしさに満ち溢れていた。
それでも、同じ年頃で比べるのであれば自分の妹の方が数十倍も可愛いが───言葉には出さず、ヴェルは胸中で末妹のことを思った。
「ありがとう!お兄ちゃんの服、あったかかった!」
「(おう!)」
元気よく返したはいいが、酷く掠れてもはや空気漏れの音だ。頷きで伝わるただの返答だったからいいものの、到底、会話を成り立たせるには役に立たない。
「あの……」
申し訳なさげに、女が口を開く。
彼女はもじもじと胸の前で両手を握ったり組んだりしながら、気まずい様子でヴェルを見上げた。
片側に纏めて三つ編みに結った髪が滑り落ちる。ちらり、と覗いた耳は少女と違って丸く、どちらかというとヴェルのものに似ていた。
「本当にごめんなさい、早とちりで攻撃して……。痛かったっすよね?」
女は心から反省している様子だった。
当初こそ踏んだり蹴ったりの展開に苛つきははしたものの、そもそも悪意のない相手に怒りを向け続けられるほどヴェルは短気でも子どもでもない。
何も思うところがないと言えば嘘になるが、彼女に対する怒りなど───あの、夜明け色を見たときからとうに消え去っている。
むしろ、むず痒いような胸が痛いような……言語化できないもどかしさのほうが強い。
心の底から悔やんだようなその顔を見たくなくてフォローしようとしても、現在使い物にならない喉は掠れた空気を羅列するだけ。自らが引き起こした状況に女がさらに苦しげに顔を歪めるのを見て、ヴェルは逡巡した末に彼女の手を指差した。
「……手?」
ヴェルが頷いて見せると、意図を理解できないながらも女は素直に左手を差し出す。
その手を軽く握って上に向けると、彼は指で手のひらをなぞった。
「き、に……、"気にすんな"?」
ヴェルが再び頷く。
「お、れ、……"俺も同じことしたかも"……、本当っすか?」
不安げな瞳がヴェルを見上げ、その真意を探るように彼の目を覗き込んだ。
月光の元でも鮮やかなその色を見つめる事ができなくて、ヴェルは思わず目を逸らす。代わりに彼女の手のひらへ続けて文字を書いた。
───俺も事情知んないまま、あの子抱えてた奴ボコったし。
「でも、よく見ればヒト違いってわかったかもしれないし」
───まあ、暗かったからな。
ヴェルのインナーは暗い紺色だ。ズボンだってグレーだし、黒に溶けて分かりにくかったことも確かだ。
守護者の制服を身につけていれば、あるいは白色が浮いて見えたかもしれないが……上着は少女にかけていたので仕方がない。そこに関しては別に後悔もしていない。
ただ、とヴェルは更に続けた。
───あっちの中身はおっさんだったから、間違えられたのはちょっと凹んだけど。
「おじさんなんだ……。それは……重ねて失礼したっす……」
───俺、まだおっさんに見えないよな?
冗談混じりに自分の胸を親指で叩くと、彼女は思わず吹き出した。
「見えない見えない。20も超えてなさそうっす」
───正解。
最後はハンドサインも交えて。
ようやく、女の表情が完全に和らいだ。
眉尻を下げ、へにゃりと緩んだような笑顔はつられて笑い返してしまうほど、柔らかな笑みだった。再び胸がむず痒くなる。
既視感。そう、言うなれば既視感にも近い。
だが、ヴェルの中に彼女と会ったことのある記憶など一切存在しなかった。
何故?何が引っ掛かっているのか?考えたところで答えなど出る事もなく、やがてヴェルはその答えのない感覚を胸の奥の方へ追いやった。
蟠りが解けたところで、一行は再び歩を進めた。
さすが現地民といったところか。抱えられている間は口頭で道筋を示すだけだった少女も、今度は迷いなく森の中を進んでいく。
少女はヴェルの左手をしっかりと掴んで離さない。かなり彼のことを気に入っている様子なのは一見して明らかだった。
手を引く形でわずかに先導している少女が振り返った。
「お兄ちゃん、アルヴィンおじさんのお友達だよね?」
アルヴィン、という名前に聞き覚えがあるようなないような、しかし確実に知り合いの名前ではないその響きにヴェルは頭上へ視線を向ける。脳裏で顔見知りを浮かべてはいくものの、これといって該当する者もいない。
数秒の逡巡ののち、最終的に肩を竦めて「さぁ?」と掠れた返答をしてみせる。
「アルヴィンさんは、この周辺の里一帯を担当してくれてる守護者なんだけど……。その服、守護者っすよね?」
右隣からの女の説明に、ようやくヴェルの中でも合点がいった。
確か、先任者がアルヴィンという名前だった。殆ど聞いてない今回の任務の説明で、一回だけ聞いた先任者の名前など頭からすっぽりと抜けてしまっていたが、言われると確かにその通りだったと思い出す。
自らの任務に関わりのある者の名前すら覚える気がないのは、もはや怠惰以外の何物でもないが、それがヴェルという男なのである。
姉かディクシアがこの場に居たのであれば、文句の一つくらい飛んできたかもしれない。
そのアルヴィンという先任者さえ時間通りに合流できていれば、こんなややこしい事態にはならなかったはずだが……。今更文句を言ってもどうしようもないことだ。
渋い顔をするヴェルに、何かを察した女がすかさず補足する。
「アルヴィンさんには里の警備をお願いしたんすよ。ちょっと今、ややこしい状況が続いてて……。この話は、本人も交えた上で話した方が良いと思うっす」
それについては、ヴェルも概ね同意をする。
状況が知りたいのは山々だが、ややこしい事情ともあれば先任者を交えて話した方が良いだろう。任務としてここにいる間は、ヴェルも巻き込まれる可能性が高いのだから。
素直に頷けば、彼女はほっと安堵の笑みを浮かべた。ちらり、とご機嫌にヴェルの手を引いて歩く少女に目線を送ってから、こっそりと彼の耳元に唇を寄せる。
「エリンを怖がらせたくなかったから、助かるっす。元気に振る舞ってるけど、きっと怖かったから思い出したくないだろうし」
少女の名前はエリンというらしい。
ようやく名前を知った事よりも耳元のくすぐったさの方が気が気でなくて、ヴェルは半歩だけ身を引いた。勿論、耳打ちする彼女に気を遣わせない程度に自然に。
感じたことのない自分の変化に戸惑いつつ、ヴェルは歩きながら彼女の手を指す。
「ん?」
次はしっかりと意図を理解して差し出された手のひら。よくよく見れば、当たり前だが自分のものよりも骨張っていなければ一回りは小さい。
ようやく恥じらいを持ちそうになった意識を無理やり引き戻し、ヴェルは努めて平然を装って手のひらをなぞった。
「"名前"?」
一旦離した指で自らの胸をトントンと叩く。
「あなたの名前?」
ちゃんと伝わったらしい。
流石に名乗るときには自分から名乗る程度の常識は持っているつもりだ。
簡素な名前の自覚はあるが、こと、彼女に伝えるとなると何故か緊張して指が震えそうになった。
情けない自分の体たらくを心の中で嘲る。
それでも、隣を歩きながら夜明け色の眩しい瞳で続きを待つ彼女に応えて、ヴェルは丁寧に一字一字をなぞっていく。
「───"ヴェル"?」
───あなたの名前、ヴェルって言うの?
───そっか!私の名前は───
その唇から自分の名前が溢れた瞬間、ヴェルのこめかみに思わず顔を顰めてしまうほど鋭い痛みが走った。
「ッ……?」
だがそれも一瞬のことで、あとはジンジンとした痛みの残滓が残るだけ。
不可解な頭痛に気味の悪さを感じながらも、ヴェルは答えを大人しく待つ女へはにかんで見せる。それを正しく"正解"なのだと受け取って、彼女の顔が綻んだ。
「私はシルヴィア。よろしく、ヴェル」
彼女───シルヴィアの言葉にヴェルは親指だけ立てたハンドサインで返す。と、同時に脳内で彼女の名前を反芻したが、やはり思い当たらないという結論に至る。
名前自体はさして珍しい類のものではない。しかし知り合いもそう多くない彼に、心当たりは全くなかった。
だとすれば、シルヴィアを見たときの既視感はなんだったのか。
答えを出せずに悶々とするヴェルだったが、不意に左腕を強く引かれて少々バランスを崩す。じとり、とした目で見上げてくる緑色と眼が合った。
「お姉ちゃんばっかりズルい。エリンにもお兄ちゃんの名前書いて」
膨れっ面で、手どころかヴェルの左腕を抱え込んだ少女が不満を漏らす。先ほどシルヴィアが言ったエリン、とは彼女のことで間違いなさそうだ。
助けたことが印象強いのか、思っている以上にヴェルは懐かれてしまっているらしい。シルヴィアの様子を見る限り、彼女もエリンを救おうとしていたことに間違いはないのだが……なんとも可愛らしい嫉妬だった。
こういうときは求められるがままに要求を飲むのが1番だとヴェルは知っている。長兄としては弟妹と同じ年の扱いなどお手のものだ。
「ヴェ、ル、ヴェル───うん、覚えた!ヴェルお兄ちゃんね!」
蔑ろにされたのではないと理解して、幼い彼女は単純にそれだけで機嫌を直す。子どもらしい素直な反応に、ヴェルは繋いでない方の手でエリンの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「やめてよぉ!髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃう!」
「子どもの相手が上手なんすねぇ」
声を上げて笑うエリンと戯れ合うヴェルを見ていたシルヴィアが、感心したように呟く。
そこではた、とヴェルも気付く。
エリンはシルヴィアのことをお姉ちゃんと呼んでいたが、どう見ても彼女らの間に血縁関係があるように見えない。付け加えるならば、耳の形からしても種族が違う。
ヴェルの身近には似ていない異種族兄弟がいるのだが───。
程度の差はあれど、エルフ種は基本的に他種族を嫌うという話も聞く。かつては守護者への協力もなかなかに得られなかったのだとか。
「そんなに見つめられると穴が開くっすよー」
どうやら、そう言われるほどには彼女のことを見ていたらしい。
シルヴィアは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「ふふ、言いたいことはわかるっす。私がエルフじゃないから、エリンとどういう関係か気になるんすよね?」
「お姉ちゃんはサポーターさんなんだよ。アルヴィンさんと一緒に、里のこと守ってくれてるの」
「半ば成り行きだけどね。微力ながら手伝わせてもらってるっすよ。現地で請われたからには、ちゃんと働かないとサポーター失格だし」
ようやく、ヴェルにも合点がいった。
サポーターとは守護者以外のヒトで構成された、その名のとおりの助力者たちだ。
無数にある世界に対して、守護者の数は常に不足している。
鏡像が現れる頻度というのはその世界の情勢を知っていれば大体は推察できる。争いが絶えない世界には負の感情が多く生まれやすく、逆もまた然り。
例外はあるといえ、基本的にはその理から外れることなどそうそうにない。
だから外世界担当任務員───ヴェルの選んだ外務員は、その頻度や優先度を加味した上で幾つもの世界を掛け持つのだ。
しかし不和の芽というのは、どのような場所でも常に潜んでいるというもの。
守護者の目が逸れたタイミングで現れる鏡像に対処するのは、サポーターと呼ばれる彼女らの存在だ。
サポーターとして名乗れるというのはつまり、守護者でなくても同程度には鏡像に対抗できるという意味に他ならない。むしろ、鏡像の回復力を度外視して渡り合えるという強さの証明でもある。
「コヴェナントも持ってるし、ほら」
そう言って彼女は胸元にしまい込んでいたそれを引っ張り出して掲げた。
あまり飾り気のないペンダントだ。何の変哲もないシルバーのチェーンに、トップには爪くらいの小さな宝石が付いている。夜の闇の中でも僅かな煌めきを発するそれはルビーのようだが、半分ほどは乳白色で石のようにも見える。
ポータルは純血守護者の血を持たねば使用が出来ない。だが、逆を言えば純血を身に纏っていればどの様な者でも通ることができる。
合法的に守護者の純血を分け与えられた彼女らは、守護者と同じくポータルを使っての移動ができるのだが、その際に支給されるのが盟約という石のペンダントだった。
元来は乳白色の石。
触れた血を吸い上げルビーのような色に変わるそれは、ガイアでしか採ることのできないものだ。
名の通り"盟約"を交わす相手にのみ与えられる物。
それを持つというのはつまり、シルヴィアが事実サポーターであることに他ならない。
「納得してもらえた?」
おそらくシルヴィアが言っているのはエルフじゃない彼女がここに居ることについてなのだろうが、ヴェルにとっては彼女の強さの理由の方に納得がいった。
正直、守護者でもない異性に負けたことが悔しくもあったが、それなら仕方がないと飲み込める。
頷くヴェルを見て、はにかむようにシルヴィアが笑った。
「ヴェルお兄ちゃん!」
左腕を引くエリンが、ヴェルの視線を再び前方に戻した。
「見えてきたよ、あそこがエリンたちの里なの」
小さな指が指し示す先に、明らかに胞子とは違った明かりが灯っていた。それはエリンが出した魔道具に近い光で、明らかに人工的なものであることが窺える。
その光は木々の間を縫い、奥に行くにつれ徐々に密度を増している。
最終的に視線がたどり着いた先には、灯りに照らされて浮かび上がる集落があった。
「ようこそ、ビオタリアへ!」
加えて、少女がポケットから取り出した手のひらサイズのガラス玉が、周囲を飛び回りながら胞子を吸収して淡く発光している。簡易的な照明魔道具のようだった。
「お兄ちゃん、もう大丈夫だよ」
少女は抱えられていたヴェルの腕から身軽に飛び降りた。
意識を失い小脇にされていた時には華奢に見えたものだが動き始めると成程、子どもらしく快活な様子だ。薬を使われたと思わしき後遺症も見受けられない。
彼女は赤みの差した頬に笑窪を浮かべながら、肩にかけられていた守護者の制服を差し出す。エルフ種らしく、笑みを浮かべる顔は愛らしさに満ち溢れていた。
それでも、同じ年頃で比べるのであれば自分の妹の方が数十倍も可愛いが───言葉には出さず、ヴェルは胸中で末妹のことを思った。
「ありがとう!お兄ちゃんの服、あったかかった!」
「(おう!)」
元気よく返したはいいが、酷く掠れてもはや空気漏れの音だ。頷きで伝わるただの返答だったからいいものの、到底、会話を成り立たせるには役に立たない。
「あの……」
申し訳なさげに、女が口を開く。
彼女はもじもじと胸の前で両手を握ったり組んだりしながら、気まずい様子でヴェルを見上げた。
片側に纏めて三つ編みに結った髪が滑り落ちる。ちらり、と覗いた耳は少女と違って丸く、どちらかというとヴェルのものに似ていた。
「本当にごめんなさい、早とちりで攻撃して……。痛かったっすよね?」
女は心から反省している様子だった。
当初こそ踏んだり蹴ったりの展開に苛つきははしたものの、そもそも悪意のない相手に怒りを向け続けられるほどヴェルは短気でも子どもでもない。
何も思うところがないと言えば嘘になるが、彼女に対する怒りなど───あの、夜明け色を見たときからとうに消え去っている。
むしろ、むず痒いような胸が痛いような……言語化できないもどかしさのほうが強い。
心の底から悔やんだようなその顔を見たくなくてフォローしようとしても、現在使い物にならない喉は掠れた空気を羅列するだけ。自らが引き起こした状況に女がさらに苦しげに顔を歪めるのを見て、ヴェルは逡巡した末に彼女の手を指差した。
「……手?」
ヴェルが頷いて見せると、意図を理解できないながらも女は素直に左手を差し出す。
その手を軽く握って上に向けると、彼は指で手のひらをなぞった。
「き、に……、"気にすんな"?」
ヴェルが再び頷く。
「お、れ、……"俺も同じことしたかも"……、本当っすか?」
不安げな瞳がヴェルを見上げ、その真意を探るように彼の目を覗き込んだ。
月光の元でも鮮やかなその色を見つめる事ができなくて、ヴェルは思わず目を逸らす。代わりに彼女の手のひらへ続けて文字を書いた。
───俺も事情知んないまま、あの子抱えてた奴ボコったし。
「でも、よく見ればヒト違いってわかったかもしれないし」
───まあ、暗かったからな。
ヴェルのインナーは暗い紺色だ。ズボンだってグレーだし、黒に溶けて分かりにくかったことも確かだ。
守護者の制服を身につけていれば、あるいは白色が浮いて見えたかもしれないが……上着は少女にかけていたので仕方がない。そこに関しては別に後悔もしていない。
ただ、とヴェルは更に続けた。
───あっちの中身はおっさんだったから、間違えられたのはちょっと凹んだけど。
「おじさんなんだ……。それは……重ねて失礼したっす……」
───俺、まだおっさんに見えないよな?
冗談混じりに自分の胸を親指で叩くと、彼女は思わず吹き出した。
「見えない見えない。20も超えてなさそうっす」
───正解。
最後はハンドサインも交えて。
ようやく、女の表情が完全に和らいだ。
眉尻を下げ、へにゃりと緩んだような笑顔はつられて笑い返してしまうほど、柔らかな笑みだった。再び胸がむず痒くなる。
既視感。そう、言うなれば既視感にも近い。
だが、ヴェルの中に彼女と会ったことのある記憶など一切存在しなかった。
何故?何が引っ掛かっているのか?考えたところで答えなど出る事もなく、やがてヴェルはその答えのない感覚を胸の奥の方へ追いやった。
蟠りが解けたところで、一行は再び歩を進めた。
さすが現地民といったところか。抱えられている間は口頭で道筋を示すだけだった少女も、今度は迷いなく森の中を進んでいく。
少女はヴェルの左手をしっかりと掴んで離さない。かなり彼のことを気に入っている様子なのは一見して明らかだった。
手を引く形でわずかに先導している少女が振り返った。
「お兄ちゃん、アルヴィンおじさんのお友達だよね?」
アルヴィン、という名前に聞き覚えがあるようなないような、しかし確実に知り合いの名前ではないその響きにヴェルは頭上へ視線を向ける。脳裏で顔見知りを浮かべてはいくものの、これといって該当する者もいない。
数秒の逡巡ののち、最終的に肩を竦めて「さぁ?」と掠れた返答をしてみせる。
「アルヴィンさんは、この周辺の里一帯を担当してくれてる守護者なんだけど……。その服、守護者っすよね?」
右隣からの女の説明に、ようやくヴェルの中でも合点がいった。
確か、先任者がアルヴィンという名前だった。殆ど聞いてない今回の任務の説明で、一回だけ聞いた先任者の名前など頭からすっぽりと抜けてしまっていたが、言われると確かにその通りだったと思い出す。
自らの任務に関わりのある者の名前すら覚える気がないのは、もはや怠惰以外の何物でもないが、それがヴェルという男なのである。
姉かディクシアがこの場に居たのであれば、文句の一つくらい飛んできたかもしれない。
そのアルヴィンという先任者さえ時間通りに合流できていれば、こんなややこしい事態にはならなかったはずだが……。今更文句を言ってもどうしようもないことだ。
渋い顔をするヴェルに、何かを察した女がすかさず補足する。
「アルヴィンさんには里の警備をお願いしたんすよ。ちょっと今、ややこしい状況が続いてて……。この話は、本人も交えた上で話した方が良いと思うっす」
それについては、ヴェルも概ね同意をする。
状況が知りたいのは山々だが、ややこしい事情ともあれば先任者を交えて話した方が良いだろう。任務としてここにいる間は、ヴェルも巻き込まれる可能性が高いのだから。
素直に頷けば、彼女はほっと安堵の笑みを浮かべた。ちらり、とご機嫌にヴェルの手を引いて歩く少女に目線を送ってから、こっそりと彼の耳元に唇を寄せる。
「エリンを怖がらせたくなかったから、助かるっす。元気に振る舞ってるけど、きっと怖かったから思い出したくないだろうし」
少女の名前はエリンというらしい。
ようやく名前を知った事よりも耳元のくすぐったさの方が気が気でなくて、ヴェルは半歩だけ身を引いた。勿論、耳打ちする彼女に気を遣わせない程度に自然に。
感じたことのない自分の変化に戸惑いつつ、ヴェルは歩きながら彼女の手を指す。
「ん?」
次はしっかりと意図を理解して差し出された手のひら。よくよく見れば、当たり前だが自分のものよりも骨張っていなければ一回りは小さい。
ようやく恥じらいを持ちそうになった意識を無理やり引き戻し、ヴェルは努めて平然を装って手のひらをなぞった。
「"名前"?」
一旦離した指で自らの胸をトントンと叩く。
「あなたの名前?」
ちゃんと伝わったらしい。
流石に名乗るときには自分から名乗る程度の常識は持っているつもりだ。
簡素な名前の自覚はあるが、こと、彼女に伝えるとなると何故か緊張して指が震えそうになった。
情けない自分の体たらくを心の中で嘲る。
それでも、隣を歩きながら夜明け色の眩しい瞳で続きを待つ彼女に応えて、ヴェルは丁寧に一字一字をなぞっていく。
「───"ヴェル"?」
───あなたの名前、ヴェルって言うの?
───そっか!私の名前は───
その唇から自分の名前が溢れた瞬間、ヴェルのこめかみに思わず顔を顰めてしまうほど鋭い痛みが走った。
「ッ……?」
だがそれも一瞬のことで、あとはジンジンとした痛みの残滓が残るだけ。
不可解な頭痛に気味の悪さを感じながらも、ヴェルは答えを大人しく待つ女へはにかんで見せる。それを正しく"正解"なのだと受け取って、彼女の顔が綻んだ。
「私はシルヴィア。よろしく、ヴェル」
彼女───シルヴィアの言葉にヴェルは親指だけ立てたハンドサインで返す。と、同時に脳内で彼女の名前を反芻したが、やはり思い当たらないという結論に至る。
名前自体はさして珍しい類のものではない。しかし知り合いもそう多くない彼に、心当たりは全くなかった。
だとすれば、シルヴィアを見たときの既視感はなんだったのか。
答えを出せずに悶々とするヴェルだったが、不意に左腕を強く引かれて少々バランスを崩す。じとり、とした目で見上げてくる緑色と眼が合った。
「お姉ちゃんばっかりズルい。エリンにもお兄ちゃんの名前書いて」
膨れっ面で、手どころかヴェルの左腕を抱え込んだ少女が不満を漏らす。先ほどシルヴィアが言ったエリン、とは彼女のことで間違いなさそうだ。
助けたことが印象強いのか、思っている以上にヴェルは懐かれてしまっているらしい。シルヴィアの様子を見る限り、彼女もエリンを救おうとしていたことに間違いはないのだが……なんとも可愛らしい嫉妬だった。
こういうときは求められるがままに要求を飲むのが1番だとヴェルは知っている。長兄としては弟妹と同じ年の扱いなどお手のものだ。
「ヴェ、ル、ヴェル───うん、覚えた!ヴェルお兄ちゃんね!」
蔑ろにされたのではないと理解して、幼い彼女は単純にそれだけで機嫌を直す。子どもらしい素直な反応に、ヴェルは繋いでない方の手でエリンの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「やめてよぉ!髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃう!」
「子どもの相手が上手なんすねぇ」
声を上げて笑うエリンと戯れ合うヴェルを見ていたシルヴィアが、感心したように呟く。
そこではた、とヴェルも気付く。
エリンはシルヴィアのことをお姉ちゃんと呼んでいたが、どう見ても彼女らの間に血縁関係があるように見えない。付け加えるならば、耳の形からしても種族が違う。
ヴェルの身近には似ていない異種族兄弟がいるのだが───。
程度の差はあれど、エルフ種は基本的に他種族を嫌うという話も聞く。かつては守護者への協力もなかなかに得られなかったのだとか。
「そんなに見つめられると穴が開くっすよー」
どうやら、そう言われるほどには彼女のことを見ていたらしい。
シルヴィアは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「ふふ、言いたいことはわかるっす。私がエルフじゃないから、エリンとどういう関係か気になるんすよね?」
「お姉ちゃんはサポーターさんなんだよ。アルヴィンさんと一緒に、里のこと守ってくれてるの」
「半ば成り行きだけどね。微力ながら手伝わせてもらってるっすよ。現地で請われたからには、ちゃんと働かないとサポーター失格だし」
ようやく、ヴェルにも合点がいった。
サポーターとは守護者以外のヒトで構成された、その名のとおりの助力者たちだ。
無数にある世界に対して、守護者の数は常に不足している。
鏡像が現れる頻度というのはその世界の情勢を知っていれば大体は推察できる。争いが絶えない世界には負の感情が多く生まれやすく、逆もまた然り。
例外はあるといえ、基本的にはその理から外れることなどそうそうにない。
だから外世界担当任務員───ヴェルの選んだ外務員は、その頻度や優先度を加味した上で幾つもの世界を掛け持つのだ。
しかし不和の芽というのは、どのような場所でも常に潜んでいるというもの。
守護者の目が逸れたタイミングで現れる鏡像に対処するのは、サポーターと呼ばれる彼女らの存在だ。
サポーターとして名乗れるというのはつまり、守護者でなくても同程度には鏡像に対抗できるという意味に他ならない。むしろ、鏡像の回復力を度外視して渡り合えるという強さの証明でもある。
「コヴェナントも持ってるし、ほら」
そう言って彼女は胸元にしまい込んでいたそれを引っ張り出して掲げた。
あまり飾り気のないペンダントだ。何の変哲もないシルバーのチェーンに、トップには爪くらいの小さな宝石が付いている。夜の闇の中でも僅かな煌めきを発するそれはルビーのようだが、半分ほどは乳白色で石のようにも見える。
ポータルは純血守護者の血を持たねば使用が出来ない。だが、逆を言えば純血を身に纏っていればどの様な者でも通ることができる。
合法的に守護者の純血を分け与えられた彼女らは、守護者と同じくポータルを使っての移動ができるのだが、その際に支給されるのが盟約という石のペンダントだった。
元来は乳白色の石。
触れた血を吸い上げルビーのような色に変わるそれは、ガイアでしか採ることのできないものだ。
名の通り"盟約"を交わす相手にのみ与えられる物。
それを持つというのはつまり、シルヴィアが事実サポーターであることに他ならない。
「納得してもらえた?」
おそらくシルヴィアが言っているのはエルフじゃない彼女がここに居ることについてなのだろうが、ヴェルにとっては彼女の強さの理由の方に納得がいった。
正直、守護者でもない異性に負けたことが悔しくもあったが、それなら仕方がないと飲み込める。
頷くヴェルを見て、はにかむようにシルヴィアが笑った。
「ヴェルお兄ちゃん!」
左腕を引くエリンが、ヴェルの視線を再び前方に戻した。
「見えてきたよ、あそこがエリンたちの里なの」
小さな指が指し示す先に、明らかに胞子とは違った明かりが灯っていた。それはエリンが出した魔道具に近い光で、明らかに人工的なものであることが窺える。
その光は木々の間を縫い、奥に行くにつれ徐々に密度を増している。
最終的に視線がたどり着いた先には、灯りに照らされて浮かび上がる集落があった。
「ようこそ、ビオタリアへ!」
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