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浮遊都市・ルフトヘイヴン
64.カイン
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柔らかい手が額にかかる髪を掻き分ける。
くすぐったさに身を捩れば、今よりも高く幼い笑い声が降ってきた。
───きゃらきゃらと子供の笑う声がする。
「───ヴェ、ル」
返事はなく、代わりに子ども独特の肉付きの良い指で戯れるように頬をつままれる。
目を開けているはずなのに、視界は朧げで暗い。
黒の中に見慣れたはずの金糸が浮かぶが、見慣れたはずの顔がよく見えない。
「ヴェル、ねぇ、ヴェル!」
いつの間にか自分の声も高く、幼いものになっていた。伸ばす手も短く、思ったように片割れの姿を捕らえるに至らない。
逃げようと遠ざかる体を捕まえる。ふくふくとした子どもらしい頬を両手で包むと、同じく自分の頬も温かな手に包まれる。
見慣れた金糸が視界を舞う。
覗き込むその顔は、自分にとてもよく似た子どもの姿。
赫い瞳が、三日月のようにニコリ、と微笑んだ───
「っあああああ!!!!」
シリスは喉から迸る絶叫と共に飛び起きた。
「……あ"あ"あぁ~」
と、同時に全身に走る痛みに今度は弱々しい呻きを上げながら再びベッドに沈んでいく。
身体中、そこかしこが様々な痛みを訴えていた。太腿、腹、果ては二の腕に刺す痛みがあるかと思えば、右腕や首には鈍痛が走る。加えて言うならば背中もズキズキと痛ければ、額にもかすかな痛みがあった。
窓から差し込む黄昏色。弱々しい光は今が夜を迎える直前なのだと教えてくれる。ぼんやりと天井を見上げて、シリスは痛みの走る身体について考えた。
自分は生きているのか。確かに母なる島から落下したはずなのに。
もしや誰かが受け止めてくれたのだろうか?
アーリィは重いものが運べないと言っていた。ディクシアは魔力が尽きて羽が開けなかったはずだ。だとすればクロスタか?落下速度を考えても、間に合うものなのだろうか。
ここが死後の世界というわけではあるまい。そうであるとすれば、痛みが残っているのはあまりに不親切だ。
悶々と考え込んでいると、横からくつくつと笑いを堪える声がした。まさか誰かが傍にいたなど露知らず、シリスは思い切り身体を起こしてはまた痛みに呻いて沈むのだった。
「ぅ"ぐぅ……」
「あぁ、ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだけど」
落ち着いた声が降ってくる。ディクシアよりは低くクロスタよりも僅かに高い、知らない声だ。
恐る恐る視線を横へと動かしていけば、揺れる琥珀色の髪がまず目に入った。
「あまりに百面相してるものだから、ちょっと面白くなっちゃって」
口元を軽く抑えて肩を震わせているが、相手が精悍な顔つきをしている青年だという事はよく分かった。
無意識に、目が離せなかった。
ぼぅ、と不躾に彼の顔を眺めていると、愉快そうに細められた夕日色の瞳と視線が絡まる。
そこでようやく、シリスは意識が途絶える前に見た色を思い出す。
「あ、の……!」
「ちょっと待って。先に、できる限り治してしまうから」
シリスの言葉を遮って青年が部屋のランプに明かりを灯した。彼がシリスが横たわるベッド脇の椅子に腰掛けると、そのまま流れで翳された手からじわりと温かさが広がっていく。贅沢にも、ここ数日で絶妙に慣れてしまった治癒術の温かさだ。
「多分、毒とかもあったと思うよ。傷口が腫れていたし、痛かったでしょ?」
問われるまま、シリスは素直に頷く。青年の口調が穏やかで気遣いに満ちたものだったからか、痩せ我慢をする気すら起きなかった。
ほんの数分、シリスの身に纏わりついていた温度が冷める頃には、あののたうち回るような痛みは殆ど感じなくなっていた。
「申し訳ないけど俺ができるのはここまで。専売じゃないからさ」
「すごく……楽です」
ゆっくりと身を起こす。腹に鈍痛は残るものの、意識さえしなければ忘れるほどに軽い。服は簡素なシャツに変えられていたが、袖を捲ればそこに残るのは瘢痕だけだ。
身体を起こした上で青年へ向き直れば、彼はどうも見慣れた格好をしていた。
光沢のない白が貴重の布に、浅葱色のラインが入った制服。1人1人、形が違うゆえに全く同じという事はないが、それでもその服装はシリスたちにとっては慣れ親しんだ───守護者の制服だった。
「ありがとうございます。その……落ちたのを拾ってくれた事も」
「覚えてた?」
「眼が。その色に見覚えがあって」
そう言えば、青年は嬉しそうに笑う。
「応援を頼まれて向かったと思ったら、飛行術なしで空を飛ぶことになるし、君がフリーフォールしてくるしでビックリだ」
「……あの、お見苦しいところを……」
好きでフリーフォールをしたわけではないが、詳細を知らぬ相手に説明するにはややこしいので割愛する。それより、言われてシリスは自身の身体が正常に戻っていることにようやく気付いた。
「そういえば、薬……!」
「ポケットに入ってた薬のこと?君の友人が慌てて飲ませてたよ」
「みんなは!?それに、ここってどこ……!」
落ち着くと次々に湧き始めた疑問に思わず身を乗り出す。そんなシリスの肩を押して、青年は彼女を再びベッドへ押し戻した。
「落ち着いて。ちゃんと1つずつ答えるから」
優しげだけれど有無を言わさぬ圧にシリスはこくこくと頷いて大人しく姿勢を正す。何故だか反抗してはいけないような、そんな気がしてならなかった。
「まず、俺は───カイン。カイン・ニックと言うんだ。ホリィジードは分かる?」
ホリィジードとは、シリスたちの住むジェネシティから遥か西にある都市の名前だ。ガイアの中でも中心といわれるジェネシティと違い最果てと呼ばれる位置にあり、彼女たちも行ったことはない。
名前を知っているだけなので曖昧な返事しか出なかったが、カインは気を悪くする事もなく続ける。
「俺はホリィジードに住んでたんだけど、諸事情で今日ジェネシティへの異動だったんだよ。ただ、向かう途中で応援要請があったって連絡もらってさ」
「応援……あぁ、先輩の……!」
レッセがエーテルリンクに向かって怒鳴っていた記憶が蘇った。
「手が空いてるからそのまま直接来たんだ。で、連絡の通りゲルダさんってドワーフのところで羽っていうのを受け取って、向かったところに落ちてきた君を拾った」
「……異動早々、ご多忙というか……ご迷惑をおかけしたというか……」
「良いんだ。言ったろ?手が空いてたって。後は拾ったところに君の友人が慌てて降りてきて、みんなでルフトヘイヴンに戻ってきた。ここまでは、いい?」
「はい」
事もなさげに言っているが、とても目まぐるしかっただろう。申し訳ないやら恥ずかしいやらで顔に熱が集まり、居た堪れない気持ちで俯く。
「治癒術をかけようにも様子がおかしかったからさ、君の友人に病気のことも聞いたよ。それで、薬が効いて来るまではあの金鷲人の子の家で休ませるってことになったんだ。まさかあんな飛び起きると思わなかったけど」
横から再び笑う声が漏れ聞こえた。カインに失礼だとは思いながらも、シリスは意地でも顔を上げなかった。脳裏で先程の自分の痴態が反芻し、更に情けなさが募ったからだ。
けれどいつまでもそうやって意地を張っているわけにもいかない。もうひとつ、大事なことを聞かねばなるまいと、シリスは思い直して顔を上げた。
「カイン、さん?」
「カインでいいよ。それに、もっと口調も崩してくれていい。俺は別に上司じゃないし、その方が楽だろう?」
気を張らないでいいのはシリスにとっても楽であることは確かだ。それに、どうしてか彼の調子に引きずられて気楽に話したいと思う自分もいる。
「じゃあお言葉に甘えて……」
恐る恐る頷けば彼は微笑む目元をさらに柔らかいものに変えた。なぜかその笑みを見ていると無性に落ち着かない気分になって、シリスはすぐに話題を元に戻す。
「カイン、みんなは何処に?」
「彼らは───あぁ、来た来た」
彼が目を向けるのにつられ、シリスの視線も部屋の扉に誘われる。慌ただしく床を走る音がどんどんと近付き、それは明らかにこの部屋に向かって来ていた。
けたたましい音を立て蝶番が外れんばかりに勢いよく扉が開く。かと思えば、並外れた速度でシリスの膝の上に何かが飛び込み、そのまま体にしがみ付いて喚き始めた。
思わず抱えてしまった彼女も一瞬何が起こったのか分からず、目を白黒させる。ようやく状況が飲み込めた頃には、シャツの腹部がぐしょぐしょに濡れ始めた後だった。
「シリス、シリス、シリスぅうう!!よかった!本当に良かった!!」
「……アリィ?」
「わ、ワタシ集中してて何も見えてなかったから、落ちたって聞いた時は本当にどうしようかと……!!」
わんわん泣きじゃくりながら徐々に染みの面積を広げるアーリィに苦笑して、シリスはしがみ付く彼女の頭をそっと撫でる。
「ごめんね、不安にさせちゃって」
「だって戻って来たと思ったら、家の中からすごい悲鳴が聞こえたからぁ……!みんな心配したんだから!!」
「あれは単に夢見が悪かっただけだから。もう大丈夫だから。ね?」
「うううぅ~……」
宥められても涙の止まらないアーリィは、恨めしげにシリスを何度も叩いた。羽がバサバサと顔を掠めるだけで、全く痛くなかった。
そういえば、何の夢を見ていたかは忘れてしまった。悪夢だったはずなのだが、結局起きてしまえば霧散してしまうものだ。
「君たちにも───いや、本当にごめん。不可抗力だからそんなに睨まないで欲しいんだけど」
次いで彼女の後から入って来たクロスタとディクシアを見上げれば、あまりに冷ややかな視線が降って来るものだから、つい間髪入れず謝罪が口を突いて出てしまう。正直なところ、とてつもなく怖かった。
「ヒトの気も知らないで……」
「……"また"飲み忘れでもしたか?」
「ちっ……ちが、今回はちゃんと飲んでたよ!?ヴェルだって同じタイミングで飲んでたし、帰ったら聞いてみてもいいから!」
必死になって無実を訴えると幾分か視線は和らいだ。それでもまだ2人の視線は厳しいままだ。今日1日で多大なる心労をかけたことは否めないので、致し方ない部分はあるだろう。
「そうだとしたら、帰ってすぐにでもご両親に伝えた方がいい。もしかすると用量を変える必要があるのかもしれないし、ヴェルだって同じ症状が出ているかもしれないからね」
「そうだ、ヴェル───!」
同じ疾患を背負った弟のことに思い至り、腰を上げかけるシリスをカインが止めた。
「大丈夫、すでに連絡はとってある」
彼は中指に嵌めたリングを示して安心させるように言う。
「カインさんに、問題の報告と一緒に本部へ連絡するようお願いしたんだ。多分いまごろヴェルの向かった世界の担当にも伝わってるはずだよ」
「よ……かったぁ……」
続くディクシアの説明で肩の力が抜けていく。すぐ連絡をとってくれたのであれば、仮にヴェルが同じように発作を起こしていたとしても対応してもらえるだろう。胸を撫で下ろすとともに、不意にディクシアの言ったワードがひとつ引っ掛かった。
「問題?」
苦々しげな様子はどう見ても現在進行形で続く懸念に対するものだ。今回のディランや鏡像の話ではない事は一目瞭然だった。
シリスの問いかけにディクシアはクロスタと顔を見合わせる。
「……言ってもいいがお前は今日、絶対安静だからな」
「そもそも、その為に僕たちが先に現場へ行って来たんだ。既に確認は済んでいるから、見に行こうとしても無駄だからね」
「現場……?何の話……?」
話の流れが読めない。
いつの間にか泣き止んだアーリィも、打って変わって暗い表情で俯いている。問題と銘打っていたといえ、思った以上によくない話の気配がする。
「ディランさんの事を報告する為に祭司長の家に向かったんだ。けど、どれだけ呼んでも返事がなかった」
「留守とかじゃなくて?」
「クロが躊躇いなくドアを開けたんだよ……。ちなみに、鍵はかかっていなかった」
何やら不穏になってきた話に、後悔の念が込み上げる。聞かなければよかった。少なくとも、ひと段落着いてすぐ聞きたいような話ではなかった。
沈み始めるシリスを知ってか知らずか、クロスタがポーチから布に包まれた何かを取り出した。勿体ぶる事なく、雑な手つきで開かれたそこには───黒く、昏く、部屋の明かりを鈍く跳ね返す欠片のようなもの。
「念の為、何かあってもいけないから入らせてもらったんだけど───床の至る所に"これ"が転がっていたんだ」
見たことのある材質に、心の奥底が嫌にザワついた。
「そして念の為、僕が拾ってきたあの黒い玉の破片がこれだ」
クロスタの差し出す隣でディクシアが同様に布に包まれた物を取り出す。丁寧に開かれたその上にあるのは、紛れもなく同じ物のように見えた。
不純物の入らない、ただ黒一色の欠片。
「同じように見えるだろう?これがあのケモノ型を呼び寄せた確証はないけれど、無関係には思えない」
ディクシアの瞳にはもうシリスに対する冷たさなんてない。代わりにあるのは、不穏な物体に対する険しさだ。
「ディランさんが最期に言った"あのヒト"が、祭司長のことかはわからない。でも」
そして彼は神妙な顔で続ける。
「コレを持っていたということは彼が今回の騒動に関係していたのは間違いないと思う。けど───もう話は聞けそうにないんだ。僕たちが行った時にはすでに鏡像に食い荒らされた後だったからね」
くすぐったさに身を捩れば、今よりも高く幼い笑い声が降ってきた。
───きゃらきゃらと子供の笑う声がする。
「───ヴェ、ル」
返事はなく、代わりに子ども独特の肉付きの良い指で戯れるように頬をつままれる。
目を開けているはずなのに、視界は朧げで暗い。
黒の中に見慣れたはずの金糸が浮かぶが、見慣れたはずの顔がよく見えない。
「ヴェル、ねぇ、ヴェル!」
いつの間にか自分の声も高く、幼いものになっていた。伸ばす手も短く、思ったように片割れの姿を捕らえるに至らない。
逃げようと遠ざかる体を捕まえる。ふくふくとした子どもらしい頬を両手で包むと、同じく自分の頬も温かな手に包まれる。
見慣れた金糸が視界を舞う。
覗き込むその顔は、自分にとてもよく似た子どもの姿。
赫い瞳が、三日月のようにニコリ、と微笑んだ───
「っあああああ!!!!」
シリスは喉から迸る絶叫と共に飛び起きた。
「……あ"あ"あぁ~」
と、同時に全身に走る痛みに今度は弱々しい呻きを上げながら再びベッドに沈んでいく。
身体中、そこかしこが様々な痛みを訴えていた。太腿、腹、果ては二の腕に刺す痛みがあるかと思えば、右腕や首には鈍痛が走る。加えて言うならば背中もズキズキと痛ければ、額にもかすかな痛みがあった。
窓から差し込む黄昏色。弱々しい光は今が夜を迎える直前なのだと教えてくれる。ぼんやりと天井を見上げて、シリスは痛みの走る身体について考えた。
自分は生きているのか。確かに母なる島から落下したはずなのに。
もしや誰かが受け止めてくれたのだろうか?
アーリィは重いものが運べないと言っていた。ディクシアは魔力が尽きて羽が開けなかったはずだ。だとすればクロスタか?落下速度を考えても、間に合うものなのだろうか。
ここが死後の世界というわけではあるまい。そうであるとすれば、痛みが残っているのはあまりに不親切だ。
悶々と考え込んでいると、横からくつくつと笑いを堪える声がした。まさか誰かが傍にいたなど露知らず、シリスは思い切り身体を起こしてはまた痛みに呻いて沈むのだった。
「ぅ"ぐぅ……」
「あぁ、ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだけど」
落ち着いた声が降ってくる。ディクシアよりは低くクロスタよりも僅かに高い、知らない声だ。
恐る恐る視線を横へと動かしていけば、揺れる琥珀色の髪がまず目に入った。
「あまりに百面相してるものだから、ちょっと面白くなっちゃって」
口元を軽く抑えて肩を震わせているが、相手が精悍な顔つきをしている青年だという事はよく分かった。
無意識に、目が離せなかった。
ぼぅ、と不躾に彼の顔を眺めていると、愉快そうに細められた夕日色の瞳と視線が絡まる。
そこでようやく、シリスは意識が途絶える前に見た色を思い出す。
「あ、の……!」
「ちょっと待って。先に、できる限り治してしまうから」
シリスの言葉を遮って青年が部屋のランプに明かりを灯した。彼がシリスが横たわるベッド脇の椅子に腰掛けると、そのまま流れで翳された手からじわりと温かさが広がっていく。贅沢にも、ここ数日で絶妙に慣れてしまった治癒術の温かさだ。
「多分、毒とかもあったと思うよ。傷口が腫れていたし、痛かったでしょ?」
問われるまま、シリスは素直に頷く。青年の口調が穏やかで気遣いに満ちたものだったからか、痩せ我慢をする気すら起きなかった。
ほんの数分、シリスの身に纏わりついていた温度が冷める頃には、あののたうち回るような痛みは殆ど感じなくなっていた。
「申し訳ないけど俺ができるのはここまで。専売じゃないからさ」
「すごく……楽です」
ゆっくりと身を起こす。腹に鈍痛は残るものの、意識さえしなければ忘れるほどに軽い。服は簡素なシャツに変えられていたが、袖を捲ればそこに残るのは瘢痕だけだ。
身体を起こした上で青年へ向き直れば、彼はどうも見慣れた格好をしていた。
光沢のない白が貴重の布に、浅葱色のラインが入った制服。1人1人、形が違うゆえに全く同じという事はないが、それでもその服装はシリスたちにとっては慣れ親しんだ───守護者の制服だった。
「ありがとうございます。その……落ちたのを拾ってくれた事も」
「覚えてた?」
「眼が。その色に見覚えがあって」
そう言えば、青年は嬉しそうに笑う。
「応援を頼まれて向かったと思ったら、飛行術なしで空を飛ぶことになるし、君がフリーフォールしてくるしでビックリだ」
「……あの、お見苦しいところを……」
好きでフリーフォールをしたわけではないが、詳細を知らぬ相手に説明するにはややこしいので割愛する。それより、言われてシリスは自身の身体が正常に戻っていることにようやく気付いた。
「そういえば、薬……!」
「ポケットに入ってた薬のこと?君の友人が慌てて飲ませてたよ」
「みんなは!?それに、ここってどこ……!」
落ち着くと次々に湧き始めた疑問に思わず身を乗り出す。そんなシリスの肩を押して、青年は彼女を再びベッドへ押し戻した。
「落ち着いて。ちゃんと1つずつ答えるから」
優しげだけれど有無を言わさぬ圧にシリスはこくこくと頷いて大人しく姿勢を正す。何故だか反抗してはいけないような、そんな気がしてならなかった。
「まず、俺は───カイン。カイン・ニックと言うんだ。ホリィジードは分かる?」
ホリィジードとは、シリスたちの住むジェネシティから遥か西にある都市の名前だ。ガイアの中でも中心といわれるジェネシティと違い最果てと呼ばれる位置にあり、彼女たちも行ったことはない。
名前を知っているだけなので曖昧な返事しか出なかったが、カインは気を悪くする事もなく続ける。
「俺はホリィジードに住んでたんだけど、諸事情で今日ジェネシティへの異動だったんだよ。ただ、向かう途中で応援要請があったって連絡もらってさ」
「応援……あぁ、先輩の……!」
レッセがエーテルリンクに向かって怒鳴っていた記憶が蘇った。
「手が空いてるからそのまま直接来たんだ。で、連絡の通りゲルダさんってドワーフのところで羽っていうのを受け取って、向かったところに落ちてきた君を拾った」
「……異動早々、ご多忙というか……ご迷惑をおかけしたというか……」
「良いんだ。言ったろ?手が空いてたって。後は拾ったところに君の友人が慌てて降りてきて、みんなでルフトヘイヴンに戻ってきた。ここまでは、いい?」
「はい」
事もなさげに言っているが、とても目まぐるしかっただろう。申し訳ないやら恥ずかしいやらで顔に熱が集まり、居た堪れない気持ちで俯く。
「治癒術をかけようにも様子がおかしかったからさ、君の友人に病気のことも聞いたよ。それで、薬が効いて来るまではあの金鷲人の子の家で休ませるってことになったんだ。まさかあんな飛び起きると思わなかったけど」
横から再び笑う声が漏れ聞こえた。カインに失礼だとは思いながらも、シリスは意地でも顔を上げなかった。脳裏で先程の自分の痴態が反芻し、更に情けなさが募ったからだ。
けれどいつまでもそうやって意地を張っているわけにもいかない。もうひとつ、大事なことを聞かねばなるまいと、シリスは思い直して顔を上げた。
「カイン、さん?」
「カインでいいよ。それに、もっと口調も崩してくれていい。俺は別に上司じゃないし、その方が楽だろう?」
気を張らないでいいのはシリスにとっても楽であることは確かだ。それに、どうしてか彼の調子に引きずられて気楽に話したいと思う自分もいる。
「じゃあお言葉に甘えて……」
恐る恐る頷けば彼は微笑む目元をさらに柔らかいものに変えた。なぜかその笑みを見ていると無性に落ち着かない気分になって、シリスはすぐに話題を元に戻す。
「カイン、みんなは何処に?」
「彼らは───あぁ、来た来た」
彼が目を向けるのにつられ、シリスの視線も部屋の扉に誘われる。慌ただしく床を走る音がどんどんと近付き、それは明らかにこの部屋に向かって来ていた。
けたたましい音を立て蝶番が外れんばかりに勢いよく扉が開く。かと思えば、並外れた速度でシリスの膝の上に何かが飛び込み、そのまま体にしがみ付いて喚き始めた。
思わず抱えてしまった彼女も一瞬何が起こったのか分からず、目を白黒させる。ようやく状況が飲み込めた頃には、シャツの腹部がぐしょぐしょに濡れ始めた後だった。
「シリス、シリス、シリスぅうう!!よかった!本当に良かった!!」
「……アリィ?」
「わ、ワタシ集中してて何も見えてなかったから、落ちたって聞いた時は本当にどうしようかと……!!」
わんわん泣きじゃくりながら徐々に染みの面積を広げるアーリィに苦笑して、シリスはしがみ付く彼女の頭をそっと撫でる。
「ごめんね、不安にさせちゃって」
「だって戻って来たと思ったら、家の中からすごい悲鳴が聞こえたからぁ……!みんな心配したんだから!!」
「あれは単に夢見が悪かっただけだから。もう大丈夫だから。ね?」
「うううぅ~……」
宥められても涙の止まらないアーリィは、恨めしげにシリスを何度も叩いた。羽がバサバサと顔を掠めるだけで、全く痛くなかった。
そういえば、何の夢を見ていたかは忘れてしまった。悪夢だったはずなのだが、結局起きてしまえば霧散してしまうものだ。
「君たちにも───いや、本当にごめん。不可抗力だからそんなに睨まないで欲しいんだけど」
次いで彼女の後から入って来たクロスタとディクシアを見上げれば、あまりに冷ややかな視線が降って来るものだから、つい間髪入れず謝罪が口を突いて出てしまう。正直なところ、とてつもなく怖かった。
「ヒトの気も知らないで……」
「……"また"飲み忘れでもしたか?」
「ちっ……ちが、今回はちゃんと飲んでたよ!?ヴェルだって同じタイミングで飲んでたし、帰ったら聞いてみてもいいから!」
必死になって無実を訴えると幾分か視線は和らいだ。それでもまだ2人の視線は厳しいままだ。今日1日で多大なる心労をかけたことは否めないので、致し方ない部分はあるだろう。
「そうだとしたら、帰ってすぐにでもご両親に伝えた方がいい。もしかすると用量を変える必要があるのかもしれないし、ヴェルだって同じ症状が出ているかもしれないからね」
「そうだ、ヴェル───!」
同じ疾患を背負った弟のことに思い至り、腰を上げかけるシリスをカインが止めた。
「大丈夫、すでに連絡はとってある」
彼は中指に嵌めたリングを示して安心させるように言う。
「カインさんに、問題の報告と一緒に本部へ連絡するようお願いしたんだ。多分いまごろヴェルの向かった世界の担当にも伝わってるはずだよ」
「よ……かったぁ……」
続くディクシアの説明で肩の力が抜けていく。すぐ連絡をとってくれたのであれば、仮にヴェルが同じように発作を起こしていたとしても対応してもらえるだろう。胸を撫で下ろすとともに、不意にディクシアの言ったワードがひとつ引っ掛かった。
「問題?」
苦々しげな様子はどう見ても現在進行形で続く懸念に対するものだ。今回のディランや鏡像の話ではない事は一目瞭然だった。
シリスの問いかけにディクシアはクロスタと顔を見合わせる。
「……言ってもいいがお前は今日、絶対安静だからな」
「そもそも、その為に僕たちが先に現場へ行って来たんだ。既に確認は済んでいるから、見に行こうとしても無駄だからね」
「現場……?何の話……?」
話の流れが読めない。
いつの間にか泣き止んだアーリィも、打って変わって暗い表情で俯いている。問題と銘打っていたといえ、思った以上によくない話の気配がする。
「ディランさんの事を報告する為に祭司長の家に向かったんだ。けど、どれだけ呼んでも返事がなかった」
「留守とかじゃなくて?」
「クロが躊躇いなくドアを開けたんだよ……。ちなみに、鍵はかかっていなかった」
何やら不穏になってきた話に、後悔の念が込み上げる。聞かなければよかった。少なくとも、ひと段落着いてすぐ聞きたいような話ではなかった。
沈み始めるシリスを知ってか知らずか、クロスタがポーチから布に包まれた何かを取り出した。勿体ぶる事なく、雑な手つきで開かれたそこには───黒く、昏く、部屋の明かりを鈍く跳ね返す欠片のようなもの。
「念の為、何かあってもいけないから入らせてもらったんだけど───床の至る所に"これ"が転がっていたんだ」
見たことのある材質に、心の奥底が嫌にザワついた。
「そして念の為、僕が拾ってきたあの黒い玉の破片がこれだ」
クロスタの差し出す隣でディクシアが同様に布に包まれた物を取り出す。丁寧に開かれたその上にあるのは、紛れもなく同じ物のように見えた。
不純物の入らない、ただ黒一色の欠片。
「同じように見えるだろう?これがあのケモノ型を呼び寄せた確証はないけれど、無関係には思えない」
ディクシアの瞳にはもうシリスに対する冷たさなんてない。代わりにあるのは、不穏な物体に対する険しさだ。
「ディランさんが最期に言った"あのヒト"が、祭司長のことかはわからない。でも」
そして彼は神妙な顔で続ける。
「コレを持っていたということは彼が今回の騒動に関係していたのは間違いないと思う。けど───もう話は聞けそうにないんだ。僕たちが行った時にはすでに鏡像に食い荒らされた後だったからね」
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