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浮遊都市・ルフトヘイヴン
52.泥まみれストラグラ
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シリス・シュヴァルツの心には、かつて泥がこびりついていた。
「恥とか知らないのかな?」
「あはは、尻軽ちゃんだ」
初めは、そんな単純な陰口から始まった。
取るに足らない、誰かの一意見。気にも留めなかったといえば嘘になるが、捨て置ける程度の戯言だ。それでも少しずつ鬱積した泥は、小さな雫を垂らすように彼女の心に溜まっていく。
初め、それが気にならないほどに彼女がいた世界は優しさに満ちていた。
たとえ自分1人が"性別"という観点で唯一違ったとして、友人も弟も自分を拒絶することはなかったから。
ただ、それは彼女の周りの世界だけのものだった。
「どうせ、下品な手を使って一緒にいるくせに」
「性別を使って取り入っている」
嫉妬から始まったのは、そういう口さがない噂話。
弟に受け入れてもらえなかったヒトに始まり、特に女性が苦手なディクシアとの友人というだけで、あたりは一層強くなった。
感性と想像に富んだ残酷な思春期の間で、口撃が攻撃として使われるのは想像に難くない。
鈍感なシリスは、その時になってようやく気付いたのだ。
ヒトは叩ける理由があれば、如何様にしても攻撃的になれるということに。
そして、その矛先が自分だけにとどまらないということに。
同性の友人がいなかったかといえば、そんなことはなかった。だが、気付いた頃には「巻き込まれたくない」と彼女の周りから姿を消した。
家族が、幼馴染が、弟がいなければ孤独だった。その事を寂しいと思ったことなんてなかったはずなのに。
運が悪かったと一笑できればよかった。同じような境遇のヒトは他にもいたのだから、運悪く目についてしまったのがダメだったのだろうと。
しかし笑って流すには、その時のシリスはまだ幼かった。
「あれ、髪切ったのか?」
「ちょっと気分変えようと思って」
だから、ほんのり伸びていた髪の毛は、鈍いアステルが気付くほどバッサリと切り落とした。
「シリスねぇの使ってたやつだ!」
「お下がりは嫌?」
「ううん!嬉しい!」
だから、持っていた"可愛い"服や物は全て妹たちへ譲り、見た目で性差を感じにくい服を着るようになった。
女が男の中に混じっているのが気に入らないというのだ。
ならばと、単純な彼女は世間でいう"女らしさ"を削ぎ落とす。それが、他人からの悪意を減らす最も手っ取り早い方法だと信じて。
可愛い、と思うものを手に取れなくなった。動きやすくてもラインが出る服は着られなくなった。
些細なことだ。本当に些細な我慢だけ。
いままで培った絆の方を捨てるという選択肢はなかった。自ら孤独を選ぶ潔さを持つことはできなかったから。
それでも自分を構成していた要素を自分で否定することは思った以上に苦痛だった。
「それ、なんのつもり?」
その頃の彼女が求めたのは、まだ背丈も差がない片割れの姿。髪を切れば、服を変えれば、双子である自分たちの見た目の差は小さくなっていく。
徐々に自分に近付く姉を見た弟の、温度のない言葉。それはシリスをこれまでになく恐怖に叩き落した。
周りからの悪意が減れば、気兼ねなく彼らと一緒にいられると思っていたのに。
呆れられたくない、嫌われたくない。そうなったら、次は本当に独りになってしまうかもしれない。
「何でもないよ。気分転換みたいなもん」
「本当に?誰かに何か───」
「何かって、それこそ何が?」
屈託なく笑えば、ヴェルが何も言えなくなることをシリスは知っていた。
なけなしの狡賢さはきっと見透かされていただろう。
率直にいうと逃げたのだ。
それを向けてくるのは一部で、世界の全てがシリスの敵になったわけではない。ただ悪意に触れることが少なかったシリスには、その一部が大きなしこりになっていた。
「何かあったのか?」
それでも、やはり友人たちは優しかった。
「何もないけど?」
「本当?最近の君、おかしいよ。いつもおかしいけど、輪をかけてというか」
「言い方どうにかならない!?」
───相談したとして、情けない女だと思われたらどうしよう?
───女々しく助けを求めることが、拒絶される原因になったら?
「心配しないで見守っててよ。あたし、これでも図太いんだから」
そうやって嘯いては、それ以上の追及を拒んだ。
素直に相談すれば良かったのかもしれない。それでも、その時のシリスはそんな"女々しいこと"と間違いなく思っていたのだ。相談など選択肢にすらならなかった。
言われるまで性差なんて気にもしなかったのに。
気にしていないと自分に言い聞かせながらも、気にしてしまうのはヒトの性だ。
漠然とした不安と、友人や弟すら信じられない自分への不快感。
それはどろり、と泥のように心にへばり付き、これ以上ない重みとなってシリスの動きを阻害した。
どれだけやっても他人の視線は変わることはなかった。
当たり前だ。シリスは単に、多感な思春期の標的にされたに過ぎないのだから。
そんな歪でやるせない日々は数ヶ月続き、そして唐突に終わりを告げた。
「やっぱ、何か変な言いがかりでもつけられてたんじゃん」
核心を持ったヴェルの言葉を、シリスは咄嗟に否定する事はできなかった。
「んだよ。俺、お前の良いように男漁りの道具として使われてたって?」
自分以外に向かった矛先は、とうとう可視化できるところまで来てしまっていた。
隠し通せるとは思ってもいなかったが、自分がいいように口撃されていたという事実を突きつけられると、何よりも先に恥ずかしいという思いが止まなかった。
「言いがかりというか、どうしようもない認識のズレというか」
「なんだよ、その反応」
ただの言いがかりとして処理するには些か雑だが、しかしシリスは敢えて全てを口にしない。
きっかけがヴェルにあるというのを伝えたくない気持ちもあった。だがそれよりも、自分の存在が弟を煩わせているということが何よりも苦痛だった。
「ごめん、巻き込んだりするつもりはないんだけど……。こういうの初めてだから、どうすればいいか分かんなくなっちゃって」
言葉だけで遠回しに向かってくる悪意を躱す術がわからなかった。いっそ、直接的に刃を向けられる方が分かりやすくていい。
だからシリスには黙って耐えて、自分を少しでも変えることくらいしか思いつく方法はなかった。
「お前って本当なんというか……猪だよな」
「……なんでここでそんなこと言われなきゃなんないのさ」
「だってさぁ、同じ土俵でやり合おうとしてんのが馬鹿みてぇじゃん。なんでわざわざ相手に合わせてやる必要があると思ってんだよ?」
だからシリスには、そんな方法しかないと思っていたのに。
「合わせてやるってのは、相手が歩み寄る姿勢見せてくる時だけで十分なんだよ。んな様子、微塵も見せない奴なんて同じ様にやり合わなくて良いだろーが」
まさに虚をつかれた。
そんな簡単なこと、と人は言うかもしれない。だが、初めて触れた悪意は───自分自身を否定された初めての経験は、心の何処かに泥としてこびりついて視野を失わせていたのだろう。
目から鱗の顔をするシリスを見て、ヴェルが笑った。その頃シリスが久しく浮かべることのなかった悪戯っぽい笑みが、彼女そっくりの顔に浮かんでいた。
「良いこと教えてやるよ。どうしても相手の言葉に我慢できなくなった時は頭突きでもすりゃ良いんだよ。そうすりゃ先に"手"を出すワケじゃないんだから」
清々しいまでの屁理屈。
だがそれが、シリスの心にまとわりついていた泥を拭ったのは紛れもない事実だ。成長期がなかなか来ないと嘆いていた近い背丈は、わざわざ合わせようとしなくても自然と同じ翡翠色を映す。
「手を出すって、そういう意味じゃないっての」
「知ってるに決まってんだろ、ゴタゴタ言う奴らは気にすんなって話だっての」
普段ならシリスがゴネるヴェルを宥めるために彼の頭を撫でるのに、その日は珍しくヴェルの方が髪の短くなったシリスの頭を撫でた。
優しくなんてない、照れ隠しのような無遠慮な手つき。「子ども扱いすんなよ」と、彼はよく文句を言うが───案外それは気分のいいものだった。
言われ続けるだけだった彼女が反抗の兆しを見せた途端、悪意は沈静化の傾向を見せた。
こびりついた偏見はしつこく、完全に消え去るに至らなかったが、叩き続けられるだけのサンドバッグでないと割に合わないと思ったのだろう。身勝手な話だが、シリスを標的にし続けることに飽き始めたとも言える。
「あたし、ヴェルと同じにになりたかったのかも」
「なんだよ藪から棒に」
全てが元に戻ったわけではなく、染み込んだ悪意はたった数ヶ月の出来事だったに関わらずシリスの中に微かながら傷を残した。
それでも彼女の髪が再び伸びる頃、それは瘢痕となって痛みを訴えることは無くなった。ただ少し、前よりも無邪気では居られなくなった、それだけだ。
「だって君と同じだったなら……男だったならさ、そもそもあんな面倒になることもなかったっしょ?それに、ヴェルみたいに何も気にしない性質ならこんなに悩むこともなかっただろうし」
「これでも俺、繊細なんだけど?」
「どの口が?」
「そもそも、どんだけ色ボケ脳なんだって話なんだよ。女の中に男が1人でも同じこと言うのかよ、漫画の見過ぎだろ」
「出た出た、最近の流行りってやつ」
日が経つにつれ、遅れた成長期を徐々に取り戻し始めたヴェルはもうシリスと同じ目線ではない。
それでも、変わらずシリスの片割れであり、弟であり、良き理解者だ。彼は呆れた顔で姉を覗き込み、分かりきったような口調で言う。
「男だろうが女だろうが、お前はお前じゃん。なんでその悩む必要があるワケ?自分のための人生なのに、自己価値を他人に依存するほど無駄なもんは無いっての」
当たり前だと言わんばかりの言葉。
残念ながらそれを丸々飲み込んで開き直るには、まだ少し時間はかかりそうだ。
しかし、誰よりも信頼できる片割れの言葉が、今もシリスの心に残ったままの泥を払い落としてくれている。
「これでも繊細なんだよ、あたし」
「どの口が?それより、気持ちにケジメ付けたんならあいつらにもちゃんと話せよな。お前が言った"見守れ"を律儀に守ってるんだから」
「んー、出来た弟と友人を持って幸せだなぁ」
かつてシリスの心には泥がこびりついていた。
今でも時折、投げ込まれる泥はある。それでも足を取られずに進めるのは、自分が自分であることを認めてくれる存在がいるからだ。
それは数年前の、数ヶ月間の、ちょっとした泥まみれの奮闘記。
「恥とか知らないのかな?」
「あはは、尻軽ちゃんだ」
初めは、そんな単純な陰口から始まった。
取るに足らない、誰かの一意見。気にも留めなかったといえば嘘になるが、捨て置ける程度の戯言だ。それでも少しずつ鬱積した泥は、小さな雫を垂らすように彼女の心に溜まっていく。
初め、それが気にならないほどに彼女がいた世界は優しさに満ちていた。
たとえ自分1人が"性別"という観点で唯一違ったとして、友人も弟も自分を拒絶することはなかったから。
ただ、それは彼女の周りの世界だけのものだった。
「どうせ、下品な手を使って一緒にいるくせに」
「性別を使って取り入っている」
嫉妬から始まったのは、そういう口さがない噂話。
弟に受け入れてもらえなかったヒトに始まり、特に女性が苦手なディクシアとの友人というだけで、あたりは一層強くなった。
感性と想像に富んだ残酷な思春期の間で、口撃が攻撃として使われるのは想像に難くない。
鈍感なシリスは、その時になってようやく気付いたのだ。
ヒトは叩ける理由があれば、如何様にしても攻撃的になれるということに。
そして、その矛先が自分だけにとどまらないということに。
同性の友人がいなかったかといえば、そんなことはなかった。だが、気付いた頃には「巻き込まれたくない」と彼女の周りから姿を消した。
家族が、幼馴染が、弟がいなければ孤独だった。その事を寂しいと思ったことなんてなかったはずなのに。
運が悪かったと一笑できればよかった。同じような境遇のヒトは他にもいたのだから、運悪く目についてしまったのがダメだったのだろうと。
しかし笑って流すには、その時のシリスはまだ幼かった。
「あれ、髪切ったのか?」
「ちょっと気分変えようと思って」
だから、ほんのり伸びていた髪の毛は、鈍いアステルが気付くほどバッサリと切り落とした。
「シリスねぇの使ってたやつだ!」
「お下がりは嫌?」
「ううん!嬉しい!」
だから、持っていた"可愛い"服や物は全て妹たちへ譲り、見た目で性差を感じにくい服を着るようになった。
女が男の中に混じっているのが気に入らないというのだ。
ならばと、単純な彼女は世間でいう"女らしさ"を削ぎ落とす。それが、他人からの悪意を減らす最も手っ取り早い方法だと信じて。
可愛い、と思うものを手に取れなくなった。動きやすくてもラインが出る服は着られなくなった。
些細なことだ。本当に些細な我慢だけ。
いままで培った絆の方を捨てるという選択肢はなかった。自ら孤独を選ぶ潔さを持つことはできなかったから。
それでも自分を構成していた要素を自分で否定することは思った以上に苦痛だった。
「それ、なんのつもり?」
その頃の彼女が求めたのは、まだ背丈も差がない片割れの姿。髪を切れば、服を変えれば、双子である自分たちの見た目の差は小さくなっていく。
徐々に自分に近付く姉を見た弟の、温度のない言葉。それはシリスをこれまでになく恐怖に叩き落した。
周りからの悪意が減れば、気兼ねなく彼らと一緒にいられると思っていたのに。
呆れられたくない、嫌われたくない。そうなったら、次は本当に独りになってしまうかもしれない。
「何でもないよ。気分転換みたいなもん」
「本当に?誰かに何か───」
「何かって、それこそ何が?」
屈託なく笑えば、ヴェルが何も言えなくなることをシリスは知っていた。
なけなしの狡賢さはきっと見透かされていただろう。
率直にいうと逃げたのだ。
それを向けてくるのは一部で、世界の全てがシリスの敵になったわけではない。ただ悪意に触れることが少なかったシリスには、その一部が大きなしこりになっていた。
「何かあったのか?」
それでも、やはり友人たちは優しかった。
「何もないけど?」
「本当?最近の君、おかしいよ。いつもおかしいけど、輪をかけてというか」
「言い方どうにかならない!?」
───相談したとして、情けない女だと思われたらどうしよう?
───女々しく助けを求めることが、拒絶される原因になったら?
「心配しないで見守っててよ。あたし、これでも図太いんだから」
そうやって嘯いては、それ以上の追及を拒んだ。
素直に相談すれば良かったのかもしれない。それでも、その時のシリスはそんな"女々しいこと"と間違いなく思っていたのだ。相談など選択肢にすらならなかった。
言われるまで性差なんて気にもしなかったのに。
気にしていないと自分に言い聞かせながらも、気にしてしまうのはヒトの性だ。
漠然とした不安と、友人や弟すら信じられない自分への不快感。
それはどろり、と泥のように心にへばり付き、これ以上ない重みとなってシリスの動きを阻害した。
どれだけやっても他人の視線は変わることはなかった。
当たり前だ。シリスは単に、多感な思春期の標的にされたに過ぎないのだから。
そんな歪でやるせない日々は数ヶ月続き、そして唐突に終わりを告げた。
「やっぱ、何か変な言いがかりでもつけられてたんじゃん」
核心を持ったヴェルの言葉を、シリスは咄嗟に否定する事はできなかった。
「んだよ。俺、お前の良いように男漁りの道具として使われてたって?」
自分以外に向かった矛先は、とうとう可視化できるところまで来てしまっていた。
隠し通せるとは思ってもいなかったが、自分がいいように口撃されていたという事実を突きつけられると、何よりも先に恥ずかしいという思いが止まなかった。
「言いがかりというか、どうしようもない認識のズレというか」
「なんだよ、その反応」
ただの言いがかりとして処理するには些か雑だが、しかしシリスは敢えて全てを口にしない。
きっかけがヴェルにあるというのを伝えたくない気持ちもあった。だがそれよりも、自分の存在が弟を煩わせているということが何よりも苦痛だった。
「ごめん、巻き込んだりするつもりはないんだけど……。こういうの初めてだから、どうすればいいか分かんなくなっちゃって」
言葉だけで遠回しに向かってくる悪意を躱す術がわからなかった。いっそ、直接的に刃を向けられる方が分かりやすくていい。
だからシリスには黙って耐えて、自分を少しでも変えることくらいしか思いつく方法はなかった。
「お前って本当なんというか……猪だよな」
「……なんでここでそんなこと言われなきゃなんないのさ」
「だってさぁ、同じ土俵でやり合おうとしてんのが馬鹿みてぇじゃん。なんでわざわざ相手に合わせてやる必要があると思ってんだよ?」
だからシリスには、そんな方法しかないと思っていたのに。
「合わせてやるってのは、相手が歩み寄る姿勢見せてくる時だけで十分なんだよ。んな様子、微塵も見せない奴なんて同じ様にやり合わなくて良いだろーが」
まさに虚をつかれた。
そんな簡単なこと、と人は言うかもしれない。だが、初めて触れた悪意は───自分自身を否定された初めての経験は、心の何処かに泥としてこびりついて視野を失わせていたのだろう。
目から鱗の顔をするシリスを見て、ヴェルが笑った。その頃シリスが久しく浮かべることのなかった悪戯っぽい笑みが、彼女そっくりの顔に浮かんでいた。
「良いこと教えてやるよ。どうしても相手の言葉に我慢できなくなった時は頭突きでもすりゃ良いんだよ。そうすりゃ先に"手"を出すワケじゃないんだから」
清々しいまでの屁理屈。
だがそれが、シリスの心にまとわりついていた泥を拭ったのは紛れもない事実だ。成長期がなかなか来ないと嘆いていた近い背丈は、わざわざ合わせようとしなくても自然と同じ翡翠色を映す。
「手を出すって、そういう意味じゃないっての」
「知ってるに決まってんだろ、ゴタゴタ言う奴らは気にすんなって話だっての」
普段ならシリスがゴネるヴェルを宥めるために彼の頭を撫でるのに、その日は珍しくヴェルの方が髪の短くなったシリスの頭を撫でた。
優しくなんてない、照れ隠しのような無遠慮な手つき。「子ども扱いすんなよ」と、彼はよく文句を言うが───案外それは気分のいいものだった。
言われ続けるだけだった彼女が反抗の兆しを見せた途端、悪意は沈静化の傾向を見せた。
こびりついた偏見はしつこく、完全に消え去るに至らなかったが、叩き続けられるだけのサンドバッグでないと割に合わないと思ったのだろう。身勝手な話だが、シリスを標的にし続けることに飽き始めたとも言える。
「あたし、ヴェルと同じにになりたかったのかも」
「なんだよ藪から棒に」
全てが元に戻ったわけではなく、染み込んだ悪意はたった数ヶ月の出来事だったに関わらずシリスの中に微かながら傷を残した。
それでも彼女の髪が再び伸びる頃、それは瘢痕となって痛みを訴えることは無くなった。ただ少し、前よりも無邪気では居られなくなった、それだけだ。
「だって君と同じだったなら……男だったならさ、そもそもあんな面倒になることもなかったっしょ?それに、ヴェルみたいに何も気にしない性質ならこんなに悩むこともなかっただろうし」
「これでも俺、繊細なんだけど?」
「どの口が?」
「そもそも、どんだけ色ボケ脳なんだって話なんだよ。女の中に男が1人でも同じこと言うのかよ、漫画の見過ぎだろ」
「出た出た、最近の流行りってやつ」
日が経つにつれ、遅れた成長期を徐々に取り戻し始めたヴェルはもうシリスと同じ目線ではない。
それでも、変わらずシリスの片割れであり、弟であり、良き理解者だ。彼は呆れた顔で姉を覗き込み、分かりきったような口調で言う。
「男だろうが女だろうが、お前はお前じゃん。なんでその悩む必要があるワケ?自分のための人生なのに、自己価値を他人に依存するほど無駄なもんは無いっての」
当たり前だと言わんばかりの言葉。
残念ながらそれを丸々飲み込んで開き直るには、まだ少し時間はかかりそうだ。
しかし、誰よりも信頼できる片割れの言葉が、今もシリスの心に残ったままの泥を払い落としてくれている。
「これでも繊細なんだよ、あたし」
「どの口が?それより、気持ちにケジメ付けたんならあいつらにもちゃんと話せよな。お前が言った"見守れ"を律儀に守ってるんだから」
「んー、出来た弟と友人を持って幸せだなぁ」
かつてシリスの心には泥がこびりついていた。
今でも時折、投げ込まれる泥はある。それでも足を取られずに進めるのは、自分が自分であることを認めてくれる存在がいるからだ。
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