境界線のモノクローム

常葉㮈枯

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浮遊都市・ルフトヘイヴン

38.そう簡単には終わってくれない

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「おじさん、頭下げて!」

 鋭い声は、恐怖に縛り付けられた男の硬直を瞬時にして解き放つ。小さな悲鳴を上げてしゃがむ男の頭があった場所を、鏡像の腕が薙ぎ払った。
 くうを裂いた鋭利な爪は、停留していた浮石車エアモーバーの側面を僅かにかすったのみ。
 追いかけようと振り上げられた逆の腕と同時に、重々しく鳴り響く銃声。高らかに掲げられたその先端が、弾けるように抉られた。

「────!!」

 言葉として意味を成さない、音だけの悲鳴が青空の下に響き渡る。

「クロ。ね?」
「……わかってる」

 間髪入れず次弾を無作為に放とうとしたクロスタが、シリスの言葉で我に帰ったかのように一瞬動きを止めた。再度狙いを定めて照準を掲げる彼を確認して、シリスがその横を走り抜けた。
 浮石車エアモーバーの発着場所としてではなく、戦場にするには心許ない足場。強度はあれど走り回るには狭く、勢い余れば空に飛び出してしまうことは容易に想像できる。
 だが、そんな要素は彼女にとって不安材料にさえなり得ない。

 躊躇いない速度で駆けるシリスの眼前に、ヒトの大人の2倍はあろうかという図体の鏡像。
 トカゲと形容された姿はまさにそのとおりで、太い尾と後ろ足のみで器用にバランスをとりしっかりと立っている。右手の先端についた爪は指ごと大きく欠け、ぼたりぼたりと赤黒い液体が滴っていた。

 トカゲの黒焼きというものを本で見たことがあったなと、シリスはふと頭の片隅で考える。黒くて爬虫類じみた菱形の顔に短い手足。記憶の中の"それ"をそのまま大きくしたような姿。

「あ、ェァアアぁ"ア"ァ"!!」

 怒りとも悲鳴ともつかぬ咆哮ほうこうが空気を震わせた。向かってくるシリスに向かって、鏡像が傷のないほうの腕を再度振り上げる。


 二度目の銃声。


 次のクロスタの放った一撃は、鏡像の分厚い掌を貫通し、小さくない風穴を開けた。
 振り上げた腕は、一瞬の間だけ動きを止める。

「ガラ空き!」

 その足元。二足と尾で支えられた身体の下、滑るようにしてシリスは晒された 腹の下へ潜り込んだ。数拍遅れて、鏡像がようやく自分の下に入り込んだシリスに視線を落とす。

 だがその反応は、あまりにも遅い。
 スライドの要領で地を滑る。そのままの勢いならば、宙へ投げ出されてもおかしくない勢い。その勢いを己が力として、両の手で掲げたきっさきが無防備な腹から股、尾にかけてを縦に割り裂いた。

 支えの一つを損ねた鏡像の体が、ぐらりと傾ぐ。

「ディク、頼んだ!」
「言われなくても───!」

 シリスの叫びに、ディクシアが間髪入れず応えた。

氷雹ヘイル!」



 詠唱など無い、迅速な魔術の展開。にも関わらず、矢のごとく鋭く、雨の如く降りしきつぶては鏡像の頭部を正確に捉えた。
 小さな塊。しかしてその鋭利な先端は見た目以上の凶悪さを内包していた。

 軽微な衝撃も積もれば山だ。身を撃つだけでなく、突き刺さる雹塊ひょうかいで増した自重は、鏡像の僅かに残っていたバランスにトドメを刺した。

「さっさと砕けろ。クソ残骸ゴミ

 ダメ押しに、もう1発、銃声。


「ア"ッッ……」


 黒い体躯が、宙へ投げ出された。
 さらに、もう1発。

 空しかない世界の"そら"。青い色の中に浮かぶ黒は、世界に溶け込めずそのまま色を失い───自壊しながら落ちていった。

「クロ、もういい。終わってるから」
「ああ。わかってる」

 ディクシアが手に持つ杖をすぐに霧散させた。次いでクロスタも自らの武器を魔力粒子に分解し、光となったそれを手の中に収め───

「……生きてるか?」
「死ぬわけないじゃん」

 そう言ってシリスは軽い掛け声と共に足場へと上る。勢いを完全に殺しきれずに地面から投げ出された体は、あわや落下すると思われた。
 が、そこは持ち前の身体能力でへりを掴むことにより免れていた。

 重力を感じなくなった一瞬、比喩ではなく本気で終わりを感じたが、そんなことを言えばディクシアからまた手痛い一言が飛んでくることは分かりきっていたので黙っておく。

「流石の君でも、勢い余って落ちるなんて馬鹿するはずないと思ってはいるけど」

 やはり、黙っておいて正解だったようだ。
 乾いた笑いを浮かべたシリスは頬を掻くが、ディクシアはさっさと座り込む男の元へ向かいその様子に気付かない。

「無事ですか?」
「し、守護者の兄ちゃんたち……」

 まだ完全には場を把握しきれていない男。差し出された手をおずおずと握り、よろめきながらも立ち上がる。
 平穏を取り戻した空気に、徐々に顔が苦々しいものへと変わっていく。自分が先ほど揶揄からかった青年に手を貸されたというのが、ひどく居た堪れなかったのかもしれない。

「───嫌な態度をとっちまったのに、助けてもらって悪かったよ」
「構いません。これが僕たちの"義務"ですから」

 胸に手を当て、ディクシアは薄く微笑んだ。
 シリスとクロスタには分かる。彼はまだ男に対しての腹立ちを捨ててはいない。その証拠に浮かべているのは完全な営業スマイル外ヅラなのだが、容姿の美しい彼が微笑めば男は伏して拝むしかないのだ。

「ぐ……っ!本当に、本当にすまなかった……」

 さぞかし慈悲深い天使に見えているのだろう。

「顔面詐欺」
「まあ言い得て妙ってとこではあるね」

 ぼそり、と呟いたクロスタにシリスは頷いた。



「あら、もう倒してくれちゃったのね。ありがとぉ」

 そこへ、間延びした声が割り込んだ。
 その場の全員が振り返れば、入り口の壁にもたれかかるようにしてレッセが立っていた。指先で弄ばれるナイフが、陽光を受けてチラチラ瞬く。

 鏡像が外壁を登っていると聞いて、シリスたちは真っ先に外と面したこの足場に向かったが、彼女は違ったらしい。
 サボっていたような白々しい感じはなく、甘ったるい声にはどことなく忌々しさが乗せられているように聞こえる。

「なーんか見たことある顔だと思ったら、浮石車エモバのオジサンじゃん」
「あんた……」
「良かったわねえ、間に合って」

 言葉ではそう言いつつ、全く良かったように聞こえない声色。男は舌打ちを一つ鳴らし、眉間に皺を寄せて彼女をめ付ける。
 
「鏡像に対してくらい、ちゃんと仕事くらいして下さいよ。守護者サマ?」
「あはっ」
 
 シリスたちが初めて言葉を交わした際と同じ、刺々しい苦言。それを向けられてもなおレッセは表情を変えずに鼻で笑った。
 
「なあに?必要最低限はやってるわよ。現に今日まで食べられたヒトはそういなかったでしょ?」
「あんたはさっきの鏡像のデカさ見なかったのか!?ありゃあ食われたのは一人二人なんて話じゃないだろ!」
「儀式に出てたんだから、出遅れるのは当たり前じゃない。何言ってんだか。それより、初期対応で雑魚を逃した警備隊にでも文句言ってなさいよぉ」

 肩をすくめて、やれやれと首を横に振るレッセ。

なんもできない、汚物を捨て散らかすことしか出来ないくせに偉っそーな口を───」

 レッセが口を開くたびに男の顔が怒りに歪んでいく。何やら顔見知りのようだが、今はヘラヘラとにこやかに2人の関係性を聞く空気ではない。
 あともう一言二言飛び出せば、殴りかかりそうな形相の男と彼女の間にディクシアとシリスが割って入る。───クロスタは無言で2人の側に立っているだけだったが、その眼光には圧が垣間見えた。

「すみません、僕たちももっと早く事態に気付くことができれば良かったんですが……。世界を護る任を受けながら、不甲斐ない限りです」

 申し訳なさそうに告げられる陳謝。
 男がぐっと喉の奥を鳴らした。

「……あんたらはちゃんと俺を助けてくれたろ」
「だとしても、責められるべきなのは僕たちも彼女も同じことです」

 首を垂れて告げられる自責の言葉に、男は渋い顔で俯いた。助けてもらった手前でディクシアに強く出る気はないらしい。
 男が口を噤んだのを見て、次はシリスがレッセを宥めにかかった。

「先輩は先に、どこか別のところを見て回ってくれてたんですよね?」
「そぉよ。とーっても面倒だけど、ちゃあんとお仕事くらいはするわよ」

 自分に敵意を向けていた男が大人しくしたからだろうか。或いは元より男の怒りに興味はなく、売り言葉に買い言葉だったのか。素直に男から話題を逸らしたレッセは、シリスの言葉に肯定を返した。

「ここともう1箇所、足場がついた部屋があるのよね。アナタたちがこっちに向かってったから、私はそっちに行ったワケだけどぉ」

 くすんだ藍色がすぅ、と細められ、睫毛の影と混ざりくらく澱む。何故だか悪い予感がして、シリスの背筋がほんのりと冷たくなった。

 今から告げられるのはきっと良い話ではないのだと、空気で理解する。
 
「その部屋、奉納の儀レンダに向かうヒトらの待機場所でさぁ───」
 
 鏡像を駆除したからといって、"それ"が遺した爪痕までもが砕けて消えるわけではないのだ。
 
「残念だけど、先に食い荒らされちゃったみたい。もしかしたら、今年もダメになっちゃうかもしれないわねぇ」
 
 世間話でもしているかのような気軽さ。
 けれど、その口から語られる内容は、むしろそちらの方がよほどマシだったと思わせられる程に残酷なものだ。
 感情も、思考も置き去りにしたまま、淡々と事実だけが告げられる。男が浮かべた絶望の表情に、その場の誰もが何も言うことはできなかった。
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