境界線のモノクローム

常葉㮈枯

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始まりの町・リンデンベルグ

29.ふたりぼっちの奮戦

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 赤い"血"がき散らされ、シリスの顔を盛大に汚した。
 それは無臭。本来の血と同じような鉄臭さは感じない。

 どうやらもう少し余力はあったらしい。膝を折り畳み、一気に伸ばしたシリスの両脚はエミリオの無防備な腹に吸い込まれ、その体を大きくのけ反らせた。

「ぐ、えっ」
「っげぇほ、ぺっ!ぺっ!」

 両者ともにそれぞれ距離をとった後に吐き出す。エミリオは胃液のようなものを、シリスは口内の血と唾液の混合物を。
 鏡像の胃内に消化液なんてあったのか、なんてことをシリスは頭の片隅で考えるが、人の姿を真似ているのだから中身もそれなりに似せているのだろうと自己完結する。
 それよりも、吐き出されたものが顔にかからなくてよかったと心底思った。

「あ"ー……ありがと、助かった」
「ヒヤヒヤしすぎて俺のが死ぬかと思った」

 シリスが伸ばした手を掴むと、ヴェルは力を込めて彼女を引き上げた。立ち上がるとシリスは服のすそで雑に顔を拭う。

「ボロボロじゃん。なに、次は腕折れたりしてないわけ?」
「そう何度もポッキンポッキン折られるわけないでしょうが」

 声が掠れているのは、血でむせこんだことだけが原因ではないだろう。
 軽口で返されているはずなのに、ヴェルがくしゃりと顔を顰めた。

 自分が何かやらかすたびによく見る弟の表情。その顔に、シリスは不謹慎ながらまだ生きていることの実感をひしひしと感じる

「……しぶとくてよかったよ、姉ちゃん」
「あたしも、また顔が見られて嬉しいよ」

 憎まれ口を叩けるのも生きていてこそだ。
 拳を作り、2人は手の甲をぶつけ合った。

「なぜこうも次々とォ……!」

 再会を噛み締める2人を恨めしげに睨みながら、エミリオが屈めていた上体を起こした。ギリギリと音がするほどに食いしばられた歯の隙間から、唾液か胃液か、透明なものが垂れて顎を伝っていた。失った右肘の先を押さえながら、血走った眼がシリスとヴェルを交互に行き来し、忙しなく回る。

「ああああ何故!何故!?お前たちさえ来なければ来なければ来なければ!!」
「うっわ何あれキャラ変わってるじゃん……」
「さっきからあんな感じで、情緒不安定なんだよね。おかげでこっちは、思った以上に足止めできてたんだけど」

 もっと冷静に、もっと理性的に……。
 例えば逃げていった自警団員を人質にしたり、シリスを捨て置いてグレゴリーを探しに行こうとしたりすれば、もっと違う展開があったかもしれない。
 けれども現状、エミリオはシリスの言葉に腹を立て、苛立ち、力任せに動いている。彼女を先に処理しなければという観念にとらわれ、目先でしか動けていないのは"誰彼構わずヒトに群がるモヤ型達と一緒"だ。

「あいつ、人形で町を壊すことに執着してて、ヒトを食べる事を我慢してるって言ってた───もしかしたら、まだそこまで強くなりきれてないヒト型なのかも」

 鏡像は共喰いをして成長する。
 成長にともない、更なる栄養を求めるのは自然の理。そして成長した鏡像はヒトを食べて更なる成長を遂げる。

 言うなれば、ヒトは鏡像にとって同族よりも栄養価の高い食料だ。

 それをわざわざ食べなかったということは、成長を諦めたと同義ではないのか。

「目的の為に成長を捨てたあいつは、ヒト型の中でも弱いんじゃないかなって思ったんだけど───」

 シリスの言葉が不自然に途切れ、2人は同時に逆方向に跳んだ。直後、真下のレンガ道は爆ぜるように粉々に砕け、その下にあった地面を晒す。
 エミリオの一撃で大きく損傷したレンガを見れば、あれがヒトの体に与え得るダメージを容易に想像できた。

「弱い、ねぇ……。さっきボコボコだったけど」
「ヒト型の中でっつったじゃん!?」
「んで、その説どこまで自信あんの?」
「知らないよ!そもそもヒトを食べるの我慢した鏡像の強さなんて、比較対象すらわからないっての!」

「ごちゃごちゃと鬱陶しいィ!!!」

 エミリオが吼える。
 荒々しい声に応えて、砕けたレンガが一斉に空へ浮かび上がる。渦を巻き始めるそれは徐々に風を起こし、細かな粒子まで巻き込んで吹き荒れ始めた。
 さながら、砂嵐。ただしその中には、当たれば痛いだけでは済まないような鋭利な破片が混じっているが。

「ヴェル、時計塔!」
「分かってる!」

 露店はほぼ燃え尽きはじめ、だだっ広いだけになりかけている大通り。人気のない遮蔽物しゃへいぶつですぐに思いつくものなんて、ひとつしかない。
 肌を撃つ細かな粒子に浅く皮膚が裂けるのも構わず、2人は時計塔の内部へ転がり込んだ。

 間髪入れず、破壊される壁。

「ちょこまかするんじゃない……小ネズミがァ……」

 もはや元々の人格を取り繕うこともしないエミリオが、砕けた壁からゆらりと姿を現した。

「ね?足止め自体はやりやすいワケよ」
「俺らしか見えてないじゃん。モテるのも考えもんだよな」
「普通の女の子にモテてないのにね?」
「うるせぇ!」

 甲高い音が噛み合う。
 刃のように変形したエミリオの腕が、ヴェルの脳天を断ち切る前に蒼い光に防がれた。舌打ちを零すエミリオの右側に、シリスの横薙ぎの一閃が迫る。右腕で防ごうにも、ヴェルに断ち切られて既にい。

 ヴェルへの深追いをやめたエミリオの体が反転、シリスの大剣を受け止めた。

 元より届くとは思っていない。パワーで勝てるとも思っていない。
 だからシリスは自らの武器をを一瞬で散らせた。大剣は赤い光の粒子となり、力で押し切ろうとしたエミリオの体がつんのめる。体勢を崩した彼の体の下に潜り込み、シリスはヒト型を保ったままの二の腕を掴んだ。

「っでえぇぇい!!」

 雄々しい叫びと共にエミリオの体が宙に浮く。勢いを利用して叩きつけた体の下から、鈍く重い音が聞こえた。

「あガッッ」

 衝撃でエミリオはすぐに起き上がれない。シリスが彼の腕を掴んだまま、弟の名を鋭く呼んだ。

「ヴェル!!」
「はいよ!」

 ヴェルの掲げた刃が突き立てられる。
 未だエミリオは起き上がれず、左腕はシリスが絡め取っている。

 今度こそ終わる。
 そう、確信した。

 ガツッと音がして、剣尖けんせんが抉ったのは硬いレンガのほんの表面。

 失くした部分から形を成した礫が、さながら腕のようにエミリオの頭部を守っている。

「……そんなんアリ?」

 茫然とした言葉が口から漏れると同時に、シリスの視界はまたも激しく回転した。

「シリス!」

 悲鳴のようなヴェルの声が一気に遠ざかる。

 激突の衝撃は思った以上に大きい。

「っ、は」

 頭がぐらぐらして呻き声すら漏らせない中で、それでもシリスは途切れそうな意識を繋ぎ止める為に歯を食いしばる。どうやら上方に吹き飛ばされたらしい。壁に叩きつけられて力無く滑った体が、螺旋階段の上に倒れ込む。

 周囲が黒くフェードする視界の中で彼女の目に飛び込んできたのは、騒動など素知らぬように鎮座する鐘の姿だった。
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