境界線のモノクローム

常葉㮈枯

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始まりの町・リンデンベルグ

27.その形はただ遺棄された残骸である

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 ヴェルはヘリオに「弱い鏡像は人間でも倒せる」と言った。それに偽りはない。

 目の前のエミリオが鏡像だと気付くや、壮年の自警団員は手にたずさえた槍をその腹めがけて突き刺した。腰をえ、体重を乗せた勢いのある刺突。鋭い穂先は、布でしか守られていないエミリオの腹を軽々と突き破る。

 しかし───

「そんな……」

 エミリオの膝が崩れ、団員は確かに「やった」と思った。槍を抜き去り、風穴の空いた腹から血のように見えるものが吹き出した……。

 のは、ほんの一瞬の出来事だった。

 ぱきり、ぱきりとモヤ型の鏡像たちが割れるときと同じような音がエミリオから聞こえる。ただ、違うとするならばエミリオの体にはヒビ一つ入ることなく、その顔は未だに生気に満ちていることだった。

 血のようなドロリとした赤黒い液体は瞬時にして固まり、皮膚を覆い風穴を塞いだ。

「痛いなぁァ」

 痛みなど全く感じていないような顔で、エミリオは腹部を撫でた。まるで皮膚のように張り付いたそれはエミリオの手に付着することなく、撫でる手のひらに擦り落とされるかのようにパラパラと剥がれ落ちていく。
 乾燥した血液のようだ。剥がれるたびにキラキラと光沢を持ち、細かな鏡の粒子になること以外は。

 エミリオが最後に腹をひと撫でして、残ったそれが全て剥がれた頃……その腹には傷ひとつ付いていなかった。

 ヴェルが言ったことは嘘ではない。
 鏡像を傷つける事はそう難しいことではない。実際、ダクトのファンで切り刻まれるだけでも弱い鏡像は死ぬ。
 ならば何故、守護者が世界の守り手を担っているのか。

 決まっている。力を持った鏡像にとっては、傷つける事と倒せる事は同義ではないからだ。

「そんなに焦らなくても、後でみんな纏めて送って差し上げるのに……。私は向こうに行かねばならないので、さっさと退いてくれませんかね」

 空気が凍りつくように冷たくなっていく。息をするたびに喉の奥まで冷え切ってしまいそうな感覚に襲われながら、それでもシリスは必死になって声を振り絞った。

「伏せて!!」

 叫んだ瞬間、無数の鉄の塊がシリス達を目掛けて一斉に降り注いだ。

「ぐっ……!」

 シリスは決して小柄ではない、それでも掲げる刀身は身を半分以上は隠せるほどに大きかった。

 重い感触。衝撃が起こるたびに振動が指を伝って痺れる。
 飛来する人形の破片。損傷した胴体、取れてしまった頭、千切れた手足、細かなパーツ。

───鏡像は力を得るにつれ何かしらの固有の能力を持つことがある。
───油断するなよ、あいつらは思ってもない力を使う事もあるんだ。

 グレゴリーの座学授業が、シリスの脳内でリフレインする。この場合、エミリオの能力は"人形を操る"だろうか"磁力を操る"だろうか?

 いくつか防ぎ切れなかった破片は 服を切り裂き、ときに肌まで傷付ける。それでも、幸いダメージは無視できる程度。

「ひぃいいい……」

 後ろで聞こえる情けのない声は、間違いなく背に庇った壮年の団員のもの。多少は怪我もしているかもしれないが、咄嗟にシリスが叫んだ通りに伏せたのだろう。声からして無事だ。とりあえず、一旦は無視をする。青年の方は……そもそも、転げ回ってエミリオの攻撃の軌道に居なかったのでこちらも無視だ。

 耐える。
 エミリオが放つのは、彼の近くに散らばっていた人形の残骸だ。したがって、必ずどこかでこの鉄嵐あらしも勢いが削がれるときが来る。
衝撃が何度も襲い掛かり、何度も何度も───

 そこで、嵐が一度途切れる。

 瞬刻しゅんこく。シリスは強く地を蹴って左へ踏み出した。
 すぐに次弾として放たれた鉄塊が後を追うが、その姿を捉えるに至らない。大きく旋回しながら駆ける彼女の足跡に、鉄塊が次々と突き刺さる。
 縮まる距離にエミリオは苛立ちを浮かべた。

「ちィッッ」

 自身に到達する前にシリスを捉えきれないと認識したエミリオが、煩わしそうに舌打ちをして後退する。

「逃がさない!」

 はしる斬撃。踊る火の粉ごと空を裂く剣尖けんせんは、エミリオの右脇腹から右肩に向けてを切り裂いた。刃の軌道を追うように赤い液体が上に向けて飛び散り、燃える露店の灯りを受けてチラチラとまたたく。攻撃を受けて、仰け反るように上体を逸らしていたエミリオが

 ぐりん

 と、剣を振り切った状態のシリスへと首を向けた。

「くっそ、まだか」

 見開かれたあかい眼に射抜かれ、背筋に冷たいものが走る。すくみそうになった足を叱咤し、シリスは大きく地を蹴った。後ろへ下がるには無理な体勢、しかし重量のある大剣の勢いそのままに体は僅かに引かれ、柔らかくしなった身は後方へ宙返る。
 シリスがたった今立っていた場所を、再度変形したエミリオの右腕が貫いていた。凄まじい衝撃で砕け、周囲に飛び散るレンガの残骸。
 着地とともに2、3回とバックステップを決めて、シリスはエミリオから間合いをとった。

 頬を滑る汗、早鐘を打つ心臓。判断が遅れていたら、ああやって粉々になっていたのは自分の方だったに違いない。

 視界の端で、壮年の団員が青年を連れて路地へと引き下がっていくのが見える。この場において自分たちが邪魔だと理解したのだろう。全くもって得策である。

「ふぅー……」

 上がりそうになる息を押さえつけ、ゆっくりと深く吐き出し、シリスは正眼に剣を構え直した。ヒト型とモヤ型では人に紛れ込む厄介さもさながら、圧倒的にパワーの桁も違う。それでも───。

「治らない……?」

 ゆらり、緩慢かんまんな動作でエミリオが面を上げた。
 乱れた髪の奥で光る赫い瞳は変わらず底冷えするような冷たさだが、同時に戸惑うような色も宿している。

 ───それでも、シリスには勝ちに至るための重要なアドバンテージがあった。

「あー、これだからヒトはあんなに馬鹿みたいに守護者サマ、守護者サマって喚くのか」

 納得がいったように、エミリオが未だ赤の流れ続ける自身の肩口に触れた。粘り気を帯びた液体はやや節くれた指を汚し、手のひらに刻まれた曲線をなぞりながら手首へ伝う。まるで、本物の血液のように。
 シリスが口の端をつり上げて笑う。

「あたし達がただヒトより強いだけなら、わざわざ世界またいでまであんたたちを退治して回る義理なんてないっしょ?」

 血に刻まれた我々の誇りこそ、何者にも破ることのできぬ不屈の矛であり、盾である。

 守護者の血。それは世界を渡る事ができるというだけでなく、白の世界に仇なすものに対しての絶対的な武器。
 鏡像を傷付け、その傷を刻みつけたままにするための力。

 つまりは、鏡像の回復力に対抗する絶対的な切り札。

「わざわざそんな事まで周知させてるわけじゃないけどさ───あたし達は存在からして、あんた達を倒すためにいるってわけ」

 シリスはそう言って再びエミリオに向かって駆けた。迫る彼女に向かって変形したままのエミリオの右腕が、傷を負っていないかのように振り下される。……が、先程の威力を見て正面から受け止めるなんて馬鹿なことはしない。
 切り結ぶ形で触れ合った直後、シリスは右手の力だけを絶妙に緩める。硬く固定した左手首を軸に刃が下を向き、力で押し切ろうとしたエミリオの腕は大きく滑った。
 つんのめる形で体勢を崩したエミリオ。好機とばかりに上から叩き付けられたシリスの大剣は、けれども左腕が右同様に変形した事で防がれる。

「ぐ……、ああ!もう、本当に忌々しい!!」

 重力と重量、それに体重が合わさった一撃にエミリオの顔が確かに歪んだ。ヒト型の腕力で弾き返されるも、シリスは弾かれる勢いに身を任せて距離を取る事で相手からの追撃を避ける。
 仕留めること叶わず、それでもシリスの胸中には高揚感が少しずつ溢れ始めていた。

 思っていたよりも相手の挙動は遅く、シリスでも対応は容易だ。本物のエミリオがただの一般人だったからだろうか?パワーこそ恐るべきものではあるが、当たらなければどうということはない。

 功を焦るなとは言うのは分かってはいたが、後方には守るべき住民がいて、師がいて、弟がいる。

 このまま、足止めしていられるかもしれない。それより、上手く立ち回れればここで倒せるかもしれない。

 そう考え始めれば、焦るなという方が無理な話だった。

「決めた。やっぱり先に殺そう」

 そしてその焦りが、シリスの未熟さだった。
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