虎は果報を臥せて待つ

森下旅行

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一.勃興

牛と虎と宝船 ― 後編 ―

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 沈んでいく夕日を見張り台に立って海を眺めていると、そこへ鶴姫が現れた。

「松吉の様子は?」

「大事無い。お虎様のお陰だ。礼を言う」

 松吉は怪我のせいで少し熱を出したが、くじいてれあがった足首も、折れて動かせないわけでもなく、腫れがひけば数日で回復するだろうという見立てであった。

「わらわの策が甘かったのじゃ。松吉には申し訳ないことをした」

「その策を許したのは我だ。皆、大事無く戻ったことが何よりだ」

 たったいま負傷した松吉の話をしていたのに、あたかもそれくらいは織り込み済みであったと言わんばかりだ。あまりに冷淡にも思えるが、ある程度の犠牲は覚悟のうえで、それら諸々の責任を負ってでも浦の安寧を成し遂げようという強さが、いまの鶴姫にはあった。

「海岸線に沿って灯りを立てておる。汲部は夜襲を仕掛けてくるつもりじゃろうか?」

 日が暮れて、段々と黒くなっていく海と山の間に、ポツポツと灯りが立っていくのが見えていた。

「今日は月がある。舟を出すのは容易たやすいが、隠れるところの無い海上では、その動きを捉えるのもまた容易たやすい」

 と、鶴姫は言った。

「ならばただの脅しかの?」

「そう思わせておいて、裏をかくつもりかもしれません」

 鶴姫の答えに、虎臥は思わずため息が出た。

「どちらにせよ、寝ずの番が必要というわけじゃな」

「こちらが見ていることを知ったうえでの策でしょう。お虎様の申す通り、どちらにせよ持ち場を離れることができない。知恵が回るものだ」

 フッと、鶴姫は鼻で笑った。

「夜襲は無い。見張りを数名残してあとは休ませる。早朝の奇襲に備えよ」

 鶴姫がそうに断言し指示を出すと、傍らに控えていた者がそれを伝えに走った。
 頼れる我らの姫様が「夜襲は無い」と言い切ったのだから、夜襲は無いのだ。今夜は安心して休むことができるだろう。


   ※※※


「間もなく着くッス」

 ケン次郎に起こされ、牛太はいつの間にか眠ってしまっていたことに気が付いた。

「――もうそんなに経ちましたか」

 重い首をもたげて、なんとかそう答えると、

「船に慣れないせいッスよ。疲れが出たんスよ」

 と、ケン次郎は言った。
 その通りだろう。体内に蓄積されていた疲労が、船上で上下左右に揺られ続けたことによって一気に醸成されたのだろう。
 ここへ至るまでの道程を思い起こせば、疲労の原因をなにかひとつに限定することはできないが、山中で多烏に向かう山伏と遭遇してからが、肉体的にも精神的にも、もっともこたえたのは間違いない。山中を逃げる途中、牛太は足を踏み外して窪地に転げ落ちてしまった。幸いにも下は苔が厚く敷き詰められていて、無傷であった。
 あのまま鳥羽氏配下の者たちに気付かれぬよう、山中を通って多烏に向かうか、西津へ引き返して徳勝で多烏へ向かうか、ケン次郎と話し合った末、引き返すことにした。
 牛太とケン次郎の二人では、不測の事態が起こればもはや対処できない。賜った下知状を失うことは許されない。何よりも大事なのは、この下知状を多烏汲部の両者の前に持って出ること。その結論に至り、引き返すことにした。
 しかしあそこで引き返すという判断が正しかったのか、その不安を払拭できないまま今に至っていた。奴らがあのまま多烏へ向かっていれば、とっくに多烏へ着いている。それはつまり、多烏に背後から襲い掛かっているということだ。ならば今、無事にこの下知状を届けたとして、時すでに遅しという事態になっている可能性も十分に考えられた。

「あの奥まったところ。右が多烏たからす、左が汲部つるべッス」

 船首に立ったケン次郎が指差した。

「なんと美しい――」

 東に向かって進む船は、ちょうど昇ってきた朝日に向かって進んでいた。
 奥に広がる青々とした山々には、あちこちにまだ霧が残っていて、その白に、朝日の色が写り込んでいる。船が進む先の海面に引かれた黄金色の道は、無数の波が作る凹凸おうとつによって、絶え間なく輝いていた。

「お天道様も俺らを出迎えてくれてるじゃねぇか」

 振り返って見ると、一段高いところで腕組みをして立つ新之助がいた。
 全身を朝日の色に染めて、着物の裾を海風ではためかせている。

「夜が明けて風も出てきたッスから、こっから先はあっという間ッスよ」

 今はただ、間に合ってくれと強く願うしかないが、新之助が言うように、光の道を進む船は、お天道様に導かれているようで、すべてがつつが無く進み、浦に平穏が戻る吉兆ともとれた。

「無事であってくれればよいのですが……」

「心配のし過ぎは体に毒だぜ。ほれっ、あそこっ、舟が幾つか見える。穏やかな海辺の朝の風景じゃねぇか」

 新之助が指差す光の道の先、多烏と汲部の間の海に、舟がいくつか在るように見える。

「ちっと数が多いッスねぇ……」

「……。汲部の総攻撃では……?」

(間に合わなかったか)

 最悪の事態が脳裏をよぎった。

「おいおいおいっ! このまま突っ込んだらやべぇんじゃねぇのか?」

 今の今まで余裕の口ぶりだった新之助が、途端に慌てふためく。

「武器を用意した方がいいッスね」

 と、対照的にケン次郎は冷静だ。

「かえって刺激することにならないでしょうか?」

 何をおいても武器を手に取ろうと考えるのは、ケン次郎の性格からくるものではなく、単に多烏と汲部の間にある過去の記憶がそうさせるのだろう。

「汲部の奴らにしたら、この船自体が刺激ッスよ」

 とケン次郎はいう。それはその通りだろう。ただだからと言って、応戦する意思があると汲部の者たちに思われてしまっては、鶴姫の策は果たされない。

「我らは守護代様から下知げち状を授かり参上した使者です。中立であることを示すためにも、武器は見せぬ方がよいのではないかと……」

 確信が持てないせいで尻すぼみになってしまった牛太の言葉に、

「しかし丸腰というわけには……。足元に用意だけはしといた方がいいッスよ」

「そうそう、向こうから見えなきゃ問題ねぇだ。なんにしても備えは大事だぜ」

 と、二人の反応も煮え切らない。
 こちらに気付くや否や攻撃を仕掛けてこられたらどうするか?
 伝えようにも、口を利く暇も与えられないようであればどうするか?
 そもそも聞く耳を持たぬ者たちであったなら、言葉で伝えようとすることに意味があるのか?
 ひとまず向こうから見えなければ問題はないのだから、二人が言うように、備えだけはしておくべきだろうか。と、そこまで考えてひとつの閃きがあった。

 ――そうか、よいのだ。

「ならば、のぼりを立てましょう」

 と、牛太が言うと、

「のぼり?」

 と、聞き返す新之助とケン次郎の声が重なった。

「何かのぼりに使えそうな物はありませんか? 大きければ大きいほどいい」

「どうするんッスか?」

「のぼりに大きく『下知』と書く。それが目に入れば、多烏の船と言えども、おいそれと攻撃してきたりはしないでしょう」

 徳勝は各地の津湊に自由に出入りすることを許されている証として、得宗の三鱗を船旗として掲げていた。牛太はそれに着想を得て、大きく下知の文字を掲げれば、不用意に攻撃はできなくなると考えた。それに弓を引くということは、すなわち、お上に弓を引いたも同じだからだ。

「そういうことッスかっ! そんならあそこに書きましょうっ!」

 合点がてんがいったケン次郎は賛同して、後ろを指差した。

「面白れぇ策だ。そんなら他にもいいもんがあるぜっ」

 と新之助も同調する。

「いい物?」

「要はド派手に登場して、度肝を抜いてやりゃあいいんだろ?」


   ※※※


 海の色が段々と明るくなっていく。辺りに立ち込めていた朝霧が晴れると、見張り台からは昨日と同じように、多烏と汲部が一望できるようになった。ただひとつ昨日と異なるのは、汲部の船団が多烏側へ迫り、岬を境界とする海に舟を並べていることだった。
 すでに予見していたことで、朝霧が晴れた海上に汲部の船団を見つけた時、誰ひとりとして狼狽ろうばいする者はいなかった。弥太郎大夫を船頭に、多烏の船団も、いまのところ落ち着いている。陸に近いところに舟を並べたまま前へ出る素振りを見せていない。
 こちらは争わぬという方針で決まっている。舟を浮かべてはいるが、浦を囲む両岬の突端を結んだ線より外には絶対に出ないと定めていた。
 汲部側にしても、どうやら攻め入ってくる気は無いようで、いま舟を並べているところ以上、多烏側へ舟を進めようとはしなかった。
 双方動きがないまま時だけが過ぎていったが、やがて汲部の者たちが多烏の舟に向かって罵声を浴びせ始めた。

「まんまと乗せられおって」

 と、刀祢とねが舌打ちをした。
 あおられて怒り心頭の弥太郎大夫が、汲部の船団が待つ北の岬へと動き始めた。船頭の舟に従って、他の舟もあとに続いていく。
 あの男の性質だ、岬の線よりこちら側なら文句はないだろうというところか。
 近づく両浦の舟の上に長竿が立ち始める。
 一戦も交えずにというのはやはり難しいようだ。

「父上、間に合ったようです」

 一触即発の状況にあって、鶴姫は北の岬ではなく、西側に広がる洋上を見ていた。
 感情的にならぬようにしていたのだろうが、声には安堵が含まれている。

「間違いない。徳勝だ」

 鶴姫の言葉に、立ち上がって洋上に視線を向けた刀祢が、自分の船であることを認めた。

(間に合ったか)

 虎臥もこれには安堵した。吐いた息とともに胸の内に留まっていた重苦しい空気が出て行って、身体が軽くなった気がした。

「笛をっ!」

 鶴姫の合図を受けて、虎臥はから蟇目ひきめ矢を抜く。
 矢筈やはずを弦にかけ、天に向けて力いっぱい弓を引いた。
 まとがあるわけではない。少しでも遠くまで、笛の音を響かせてくれればそれでよい。
 放たれた矢は甲音かんおんを鳴らしながら、うねるようにして天に昇っていった。


   ※※※


「あれは何をしておるのじゃ?」

 点のようにしか見えていなかった船が徐々に大きくなってくると、遠目では見えなかったものも見えてくる。近づいてくる徳勝の帆には、人がぶら下がっているように見えた。

 ――墨で何かを書いている……?

「下……、下知かっ! 下知と書こうとしておるのか!」

 まだ『下』の字を書き終えたばかりだが、その予想はおそらく当たっているだろう。

「愉快な手を思いつくものじゃ。あれならば無視できまい」

「下知状を頂けたようですね」

 鶴姫は「よかった」と小さく呟いた。

「笛はまだありますか?」

 と、鶴姫が問う。

「二本ある」

 と、虎臥が答えると、鶴姫はそれを放つよう指示した。

「戦の終わりを告げるのです」

 虎臥は残り二本の蟇目矢を立て続けに打ち上げた。
 岬を境界に対峙し、多汲両浦の船上に林立していた長竿は倒され、『下知』の二文字が記された船の到着を静かに待っていた。
 

   ※※※


 大きく『下知』と書かれた帆の下で、牛太は他の唐物とともに積まれていた銅鑼どらを打った。ケン次郎は船太鼓を打ち鳴らしている。鳴り物入りで登場したこの船の異様に呆気に取られているのだろうか、集まっている舟が攻撃を仕掛けてくる様子はない。
 徳勝はそのまま、綺麗に多烏側と汲部側とに分かれて並んだ船団の間に割って入った。

「おうケン次っ! どうなってやがるっ!」

 多烏側から弥太郎の声が上がる。

「下知が出たッス!」

 それにケン次郎が答えた。
 その横を通って、新之助が船首に立った。

「皆の者よく聞けーーっ! 我らは守護代様より遣わされた使者である。此度の多烏、汲部の騒動につき、守護代様より下知を賜って参った! これより両浦とも、主だった者を一堂に集めよっ!」

 下知状を高々と掲げて見得みえを切る。こういう芝居は新之助に任せるのがいい。

「あんたら大したもんだな。この短い間に、ほんとに下知を持って帰ってくるとは思わなかったぜ」

 と、牛太に向かって弥太郎が声を張る。
 こちらも急ぎ伝えなければならないことがある。牛太は身を乗り出して、背後に敵が迫っていることを伝えた。

「弥太郎大夫殿。急ぎおかへ戻り、山側からの奇襲に備えて下さい! 背後から鳥羽の手の者たちが迫っています!」

 幸いにも鳥羽の襲撃はまだ受けていないようだったが、ざっと見渡したす限り、多烏側は女子供と老人以外は皆ここへ出てきているように見えた。これでは陸側は奇襲を防げない。

「それなら心配はいらねぇ」

 と弥太郎は余裕をみせている。しかし事態は一刻を争う。

「ただの百姓の集まりではありません。おそらく襲撃のために募った悪党らです」

 と牛太がさらに事の急を伝えようとするが、

「らしいな。そんでも、手も足も出ねぇんじゃあ、なんもできねぇ」

 と、どうにも話が噛み合わない。

「まあ、陸に上がったら御前ごぜんに訊いたらいい。夫婦揃って、大したもんだぜまったく」

 そう言って弥太郎は笑った。


   ※※※


 かくくして、浦の御堂に、多汲両浦の主だった者たちが参集した。
 御堂内は足の踏み場もないほどの人である。
 最前列の真ん中には天満宮の禰宜ねぎ職を置き、その両隣に多汲両浦の刀祢職が座し、それぞれの刀祢の後ろに、両浦人がひしめき合って座っている。
 このすべての耳目を一身に受け、牛太と新之助は、両浦どちらにも属さない”守護代様の使者”という立場で、正面に座していた。
 牛太は緊張で脈が速くなっているのが分かった。こうした経験が無いのだから無理もない。横目で新之助を見やると、こちらは涼しい顔をしている。もはや守護代様の使者という役に入り込んでいるようだった。
 新之助が体の向きを変え、三方さんぽうの上に置かれた下知状に向かって三度頭を下げると、御堂内の騒めきが消えていった。次に下知状を手に取ると、それを掲げるようにして、再び一礼をする。
 果たしてこの作法が合っているのかどうかはなはだ怪しいが、その一言も発せずおごそかに始まった儀式めいた所作を、一同、固唾を呑んで見守った。

「これより読み上げる下知は、若狭国守護代、工藤右衛門入道杲暁こうしょう様が、両浦の行く末を案じて直々に書かれたものである。心して聞くように」

 新之助が口上こうじょうを終えると、前列に並ぶ禰宜と刀祢もこの空気に合わせるように、

「謹んでお受け致す」

 と応じて、深々と頭を下げた。


 一.御公事は、その負担を両浦中分とすること
 一.古くから支配してきた山や地先の海などにおける根本知行は、それぞれの浦に認めるが、得宗代になってから加えられた山と海は中分とすること
 一.縄網、夜網はその数を同数とし、立網は寄合とし、そのほか根本知行以外での漁は自由とすること
 一.御堂は西三間を汲部、東二間を多烏のものとし、住職は二間分に一人置くこととすること
 一.天満宮の禰宜は多烏から一人を任じること


 和与わよの内容についてはこの五カ条からなるもので、永仁四年の和与と違わない。
 要するに、漁撈ぎょろうに関しては根本知行の海はその浦の支配とするが、それ以外は均等もしくは共同で漁をせよということであり、またいさかいがある度にもうひとつの火種となっていた両浦の鎮守ちんじゅについても、禰宜職は建立こんりゅうした多烏から立てることとし、御堂もその負担割合に準ずるという内容だった。

 新之助は永仁の和与の再確認に続けて、廻船による商いの推奨と年貢をすべて銭に換算し、代銭納だいせんのうとすることの利点を説き始めた。
 話半分で聞いていた者たちが大半であったが、鎌倉夫や京上夫などの公事の賦課ふかを負わなくても済むという、直接的な利害に話が及ぶにつれて次第に熱を帯びてゆき、話を終える頃には、新之助は皆の質問攻めに合うに至っていた。
 牛太が御堂内の喧騒を逃れて外へ出ると、手足を縛られた者たちが一列に座らされていた。

「大した盛況ぶりじゃの」

 と、虎臥が御堂内の熱気を揶揄して言った。
 中には姿がなかったので、御堂の外で待つ者たちと共に、外から様子を見ていたのだろう。

「あの者たち、山を越えて鳥羽から入ってきた者たちだろう?」

 捕らえられている者たちの姿には見覚えがあった。
 多烏へ向かう山中で遭遇した、鳥羽氏配下の者たちに間違いない。

「そのようじゃな」

「どうやって捕らえたのだ? あれですべてではあるまい。もっといたはずだ」

 陸へあがってすぐに、鳥羽の奇襲がすでに失敗に終わっていることを牛太は知った。船で交わした弥太郎との会話から、あの者たちを捕らえたのは虎臥なのだろう。

何故なにゆえ知っておるのじゃ?」

「それは、その……」

 牛太は下知状を手にしたあとのことを大まかに伝えた。

「道も無い山を越えて来ようなどと、無茶なことをしたものじゃ」

 と虎臥は呆れたように言うが、それを虎臥に言われたくはない。

「ここへ初めて来たとき、山を越えると申したのはトラであろう」

 道を知っているケン次郎と共に山に入った今回より、多烏までの道を知らずに山に入った虎臥の方がよほど無謀である。

「そうじゃったかの?」

 と虎臥は言うが、とぼけているのが口ぶりからも分かる。

「まあ、その話はよい。で、どうやって捕らえたのだ? 見たところ、矢を受けている者はおらぬようだが」

 皆ぐったりしているが、外傷は無いように見えた。すくなくとも、虎臥が矢で射抜いたわけではなさそうだった。

「弓は使っておらぬ。ウシが人を射ってはならぬと申すでの」

 こちらの胸の内を察したのか、虎臥は弓を使っていないと返した。

「ああ、見ればわかるさ。だとするとどんな術を使ったのだ?」

 いくら虎臥が勇猛でも、これだけの人数をちぎっては投げで組み伏して捕らえたとは考えづらい。

「ウシが新之助と鳥羽からこっちへ向かっておったとき、山中でケン次が仕掛けた罠に新之助が掛かっておったじゃろ?」

 そう言われて牛太は回想した。

「――ああ。あったな」

 小便を済ませたあと、何かを見つけた新之助が道を外れて先へ進んだところで、くくり罠に掛かった。その瞬間は何が起きたのか分からず、叫び声だけ残して忽然こつぜんと姿を消したものだから、大蛇に丸呑みされたのではないかと思った。

「あれでよい案が浮かんでの」

 虎臥はそれを思い出しながら愉快そうに話す。

「まさかあれを山中に大量に作ったのか?」

「あれは足を括って跳ね上げる罠じゃから、ひとつの罠に一人しか掛からぬ。それでは効率が悪いし、獲り漏らしがあるかもしれぬ。我らは汲部への奇襲組を立てたが、向こうとて同じことを考えるやもしれぬと考えるのは当然じゃろう? 結託する鳥羽の者らも加勢に来るかもしれぬ。じゃから一度に大人数を捕らえられる罠を仕掛けたのじゃ」

(なんと、虎臥は鳥羽の奇襲も予測していたのか!)

「一度に大人数を……。大きな穴でも掘ったのか?」

「まさか。そんな時はない。網じゃ、網を張ったのじゃ」

「網?」

「そう。まさに一網打尽じゃ」

 そう言って虎臥は、両手で掬い上げる仕草をしてから、ポンッと手を閉じてみせた。
 両の手が網で、閉じた手の中に捕らえた者たちが入っているということだろう。

「多烏と汲部の間で網切り合戦をしておったじゃろ。そのせいで網場に立てれずにいた網。あれを使ったのじゃ」

 魚は掛からなかったが、獲物は掛かったと言って虎臥は笑った。

「合点がいった。となれば、その閃きを与えてくれた新之助にも感謝せねばな」

「それもそうじゃの。なにしろ体を張って気付きを与えてくれたのじゃからな」

 同意しつつも、言葉には揶揄からかいが多分に含まれていた。
 新之助もそんなことを思って罠に掛かったわけではない。逆さのまま宙吊りにされ、林間を振り回されるというのは、新之助にとっては災難でしかなく、一方で、傍から見ている側としては滑稽こっけいでしかないのだから仕方のない。そうした不運と滑稽すらも結果的に有益なものに変えてしまうところが、新之助の才なのだろう。

「ひとつ気掛かりがある。山中で見た者たちの中に、鳥羽国親の屋敷で会った首謀者の顔があったが、ここに捕らえられている者の中には無かった」

 捕らえら者たちがすべてではないと思ったのはそれだった。取り逃がしたとなれば、一番厄介な者を取り逃がしたことになる。

「網を切って落ち延びた者もあるようじゃ。あの高さに吊るされて、受け身もとれぬ体勢で網を切るのじゃ。そうまでして逃げたいのなら逃げればよい」

 捕らえることが目的ではない。網を切ったあとこちらに向かわず、何処かへ退散したのであれば困らないと言う。

「しかしあの男を逃がしてしまうのは危険だ。報復もありうる」

「あるかもしれぬ。じゃがその時はこれまでの多烏と汲部ではない。ひとつの大きな浦となった多汲両浦に付け入る隙が無いと見ればどうじゃ? 悪知恵とはいえ頭の回る奴らが、わざわざ勝ち目のない勝負に出るとは思わぬ」

 付け入る隙を与えないこと。敵は都度替わる。そうした者たちに益があると思わせなければよい。

「両浦が強固な関係を築いていくことが、一番の防衛策になるのだな」

 報復を恐れるあまり、また武器を手に戦うことを想像してしまったが、そもそも鶴姫が目指したこの先の浦のあり方はそれではなかった。

「そこには俺らも一枚噛ませて貰わねぇとな」

 ようやく開放されたらしい新之助が、話に割って入ってきた。

「両浦の明るい未来のために商いの話をしてきたさ。多烏と汲部を合わせると相当な数の廻船があるぜ。ちっと話を聞いてきたが、若狭を中心に西へ東へ何処までも、だ。ここを上手く使やぁ、俺らの未来も明るいぜっ」

 相変わらず商魂たくましい。両浦の者たちと何をどこまで話してきたのか分からないが、新之助の頭の中にはすでに、明るい未来が描かれているようだった。

「両浦の発展のためを思えばこそじゃねぇか。商いを軌道に乗せるところまで面倒を見て、そこで漸く、この騒動が決着する。そうだろ?」

 いまの今まで、新之助が御堂内で話していたのであろうことを調子よく話す。実に舌は滑らかだ。ところが新之助が調子よく話していると、虎臥も何か言わずにはいられないらしい。

「その通りじゃが、新之助が嬉々として語っておる姿に、その崇高な精神が見て取れぬのは一体どういうわけじゃろうか?」

 と、言うと、間髪入れずに新之助も、

「そりゃあ見る目を養うしかねぇんじゃねぇか? 鹿や猪と違って、人間様は複雑にできてっからな」

 と、切り返す。

「人を見る目はあるつもりじゃったが、新之助は本能で生きておるから、むしろ鹿や猪の類と思っておった。これからは人を見るつもりで新之助を見ることにせねばの」

 と、応じれば、

「いままで人と獣の区別もついていなかったことには驚きだが、漸く気付いたみてぇでよかったぜ。これでお虎も一歩、人間に近付いたな」

 と、受け流す。

(また虎臥と新之助の軽快な罵り合いが始まったな)

 牛太が、さてそろそろ止めに入ろうかと思ったところで、別の声が間に入ってきた。

「相変わらず仲が良いですね」

 仲が悪いということはないだろうが、良いかといえばそれも疑問だった。少なくとも鶴姫には仲が良いと映るようだった。

「鶴姫様。なんとか間に合ったようでホッとしました」

 現れた鶴姫に牛太がそう伝えると、

「ホッしたのは我も同じです。あなた方には感謝してもしきれません」

 と、満面の笑みという分かり易い表情ではないが、鶴姫の顔に憂いの影はなく、清々しかった。

「まだまだこっからですよ、鶴姫様。多烏と汲部の廻船業を軌道に乗せて、銭を稼いで、浦を豊かにする。そこまでお付き合いしますぜっ!」

 鶴姫の気を引きたい新之助も熱心だ。
 その新之助の意図をんでいるのかいないのか、

「積荷が無ければ船は走れません。宜しくお願いします」

 と、鶴姫は穏やかにそれに答えた。

「となればわらわも来ぬわけにはゆかぬの。鶴姫様の護衛が必要じゃ」

「なんでだよっ!」

 この二人の掛け合いにもすっかり慣れたようで、鶴姫はそれを聞きながらくつくつと笑っていた。

「お虎様も船を使いたければ申して下さい。我はあまり遠くまで行ったことはありませんが、浦の者たちの話では、その土地によって風俗は様々で、一見の価値はあると申す者もあります」

「いやいや鶴姫様、そういう入れ知恵は困ります。トラが行きたがります」

 鶴姫の計らいに、牛太は慌てて割って入ったが時すでに遅し。虎臥はすでに乗る気でいるようだった。

「それは面白そうじゃの。からへ虎を射ちに行くか?」

 と言ってこちらを見て、市庭いちばに菓子を買いに行くくらいの調子で訊いてくる。

「そんなことのために唐へ渡れるものか。言葉も分からぬのにどうするつもりだ」

「ならば蝦夷えみしはどうじゃ? 言葉は通じると聞いたことがある」

「言葉だけの問題ではない。行ってどうするのだ? 狩りをするのであれば若狭の山でも十分であろう」

 何故なにゆえ狩りをするためだけに、そのような遠くの異国へ行かねばならんのか。
 早々に話題を替えたいのだが、鶴姫が見知った知識を補足する。

「蝦夷はここよりもずっと山が深く、獣も大きいと聞きます。十三湊とさみなとより若狭に入る船には昆布こんぶや鮭のほかに、そうした獣の毛皮なども積まれているのですが、鹿ですら牛のように大きく、熊に至っては、立ち上がって両手を広げると一丈いちじょうになるとも」

(立ち上がって一丈(約3メートル)など、もはや化け物ではないか!)

「人間が太刀打ちできる相手ではない。トラ、諦めよう」

 というか、諦めてくれ。

「鶴姫様が見たのは毛皮であろう? 毛皮になって積まれてくるのじゃから、それを仕留めた者がおるということじゃろ?」

 理屈ではそうだろうが、どれだけの犠牲を払って仕留めたのかまでは分からない。行く気になっている虎臥をなんとか心変わりさせたいが、そんな気持ちを知ってか知らずか、周りは虎臥をその気にさせるようなことを言う。

「行ってきたらいいじゃねぇか。蝦夷との交易品なら俺が京で銭に替えてやるよ。一発行って帰ってくりゃあ大儲けだ」

「そんな博打のような商いは――」

 と牛太が反論しようとするが、

「儲かるのがはっきりしてんだから博打ってことはねぇさ。別にあの世に行くわけじゃねぇんだ。みんな無事に戻ってきてるんでしょう?」

 と言って新之助が鶴姫に問うと、

「ええ。十三湊は、若狭や越前の敦賀と同等かそれ以上に栄えているそうですから」

 だから心配はいらないだろうと言う。

「ほれみろ。鶴姫様が言うんだ、間違いねぇ」

「はぁ……」

 これには曖昧に返事をするしかない。

「それに――」

 と、鶴姫はそこで一旦区切って、虎臥を見てからこちらを見て微笑んだ。

「話を聞いていて思ったのです。若狭から見て蝦夷は、丑寅うしとらの方角にあたります。これも何かの縁なのではないかと」

蝦夷えみしとのえにしか。そりゃあいい。俺もその案に賛成だぜっ」

 丑寅ということは鬼門であろうに。果たしてその縁が良縁と言えるだろうか?

「決まりじゃな」

 そう言って虎臥が話を結ぶ。
 牛太には反論の機会も与えられないまま、蝦夷へ行くことが決してしまったようだ。
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 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

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