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一.勃興
牛と虎と宝船 ― 前編 ―
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小浜市南東にある多田ヶ岳。南川や多田川、遠敷川の水源であり、山麓には寺社仏閣の多い信仰の山だ。北川にそそぐ遠敷川の上流に若狭彦神社、下流に若狭姫神社があり、両社をあわせて「一二宮」あるいは「上下宮」と称した。
鎌倉期、国内の神社のうち有力なものが、国衙によって一宮、二宮と順位づけされ、諸国では一宮・総社が成立していった。
西津荘給主、工藤右衛門入道杲暁と小浜の有徳人、石見房の茶席が、この小浜津からもほど近い二宮若狭姫神社の能舞台を借りて行われていた。
「お久しゅう御座います」
と、石見房が丁寧に頭を下げる。
「暖かい茶が身に染みる季節になりましたな」
杲暁は境内の木々を眺めて言った。まだ紅葉にはすこし早いが、色づき始めた気の早い葉もちらほらあり、季節の変わり目を感じさせた。
「左様に御座いますな」
と石見房は、杲暁の言葉に頷く。
「茶を飲むのに季節の暑いも寒いもないが、暑い夏より体が求める」
そう言って杲暁は笑った。
「守護代様は品がおありだ。あたくしなんて夏の盛りでも、額に汗を浮かべながら茶を飲んでおりました。根っからの小百姓なもので、命があるうちに一杯でも多く茶を飲んでおかなければ勿体ない。などと考えてしまうようで。お恥ずかしいか限りです」
杲暁は石見房の滑稽話に笑って答えると、
「ワシも同じだ。書物を読むのに茶は欠かせん。冷えた井戸の水よりも、熱い茶の方が目が覚める」
と言って、夏でも茶は欠かせないと笑った。
「御尤もで御座います」
石見房と杲暁の茶会は、このような和やかな調子で始まった。
物陰から会話を聞いていた牛太は、普段とは異なる石見房の振る舞いに、この爺さんにはまだこんな一面もあったのかと感心していた。そして、これならば上手いこと下知状を賜ることも難しくないようにも思えた。
「本日は唐物のお披露目と書かれていたが、一体どのようなものか?」
杲暁が問うと、
「おーい。ここに」
と、石見房が手を打って呼ぶ。
牛太は物陰から出て、ふたりの座す能舞台へと進み、石見房の傍らにそっと木箱を置いた。
茶席に上がるのはよいが、手回りの支度に下男を何人も上げるのはむさくるしいと石見房が言うので、新之助とケン次郎は外に控えていた。
石見房は運ばれてきた木箱を正面に移すと、封じられた紐を解き、蓋を開けて、中から絹に包まれた椀を取り出した。それを床に置き、包みを開くと、黒く光る椀が現れた。
「おお。これは……、天目か?」
杲暁は身を乗り出して言った。
「さすがは守護代様。一目でお分かりになりますか」
と、石見房はさっそく褒めた。
「いやいや、ワシはそれほど詳しくはない」
謙遜する杲暁に、石見房は手に取るようすすめた。
すすめに応じ、椀を手に取った杲暁は、両手で恭しく包み込み、手の中で回しながら、椀の表面をまじまじと見ている。
「黒は鉄釉によるものだろう。それで天目と思うたが、この斑点はどうしたことか?」
「油滴天目と呼ぶそうです。作り方が異なるわけではないようですが、稀にこうした模様を持って焼きあがるそうで」
石見房がそう説明すると、
「不思議なものだ。満天の星空が手の内にあるようだ」
と言って、杲暁は両手で茶碗を掲げ、夜空を見上げるようにして眺めた。
「お気に召されたようで、あたくしも甲斐がありました」
「いやいや、礼を言うのはワシの方。よいものを見させてもらった。手に入れるにはさぞ、苦労したのではないか?」
「いえいえ。贔屓にしている商人が持ち込んだ品で、あたくしは一歩も屋敷を出ておりません」
「ほう。それはその商人も、大層な目利きだ」
杲暁は、石見房殿が贔屓にするだけのことはあると言って感心した。
しかしこれは石見房の芝居だった。実際は、石見房の収蔵する唐物の中から、新之助が選び抜いたものだった。選んだのが新之助であるから、目利きという点では間違いではない。
「ちょうど西津に大船が入っております。そこから仕入れたということでした。商人もさることながら、廻船の船乗りたちも、随分と目が肥えて来たものです」
と、石見房が西津に入っている多烏の船に話題を向けると、
「廻船はどこの船であろうか?」
と、杲暁も話に乗ってきた。
「若狭の船と聞いておりますが、詳しくは当人らに訊いた方がよいでしょう」
そう言って石見房がまた手を打って合図する。牛太はまた控えていた物陰から出て、石見房の後ろに腰を下ろすと、杲暁に向かって一礼した。
「守護代様がこの天目を積んでいた船について尋ねられた。どこの船か?」
「はい。多烏浦の廻船『徳勝』と申します」
石見房から問われ、牛太が多烏の船であることを答えると、
「多烏の徳勝か。他にも唐物は積んでおるのか?」
と、杲暁がこちらに向かって直接訊ねた。
「御座います」
「よい品か?」
「はい。銭と販路があれば、仕入れたい品ばかりで御座います」
と牛太が答えると、杲暁はそれにとても満足したという風だった。
「それはよい。となれば、多烏は相当に富を得ていることだろう」
(話すなら今しかない)
機はいまであると信じ、牛太は直談判に打って出た。
「恐れ乍ら、浦を取り巻く環境は厳しく、争いが絶えない状況に御座います。廻船に望みを託し、浦を維持しているのが実情。守護代様のお力で、なんとか――」
「控えよ」
石見房の芝居から杲暁の前に出るに至り、これは陳情の場を与えられたのだと思って話始めたのだが、牛太が多烏の騒動について語り始めると、当の石見房によってそれを遮られてしまった。
「もう、下がってよい」
そう言って石見房は、手を振った。
「あっ、しかし……」
と、牛太は未練を口にした。ここで退いては皆に申し訳が立たない。
「まぁ石見房殿。よいではないか。これしきの事で気分を害したりはせん」
杲暁の言葉に石見房が恭しく頭を下げたので、牛太もそれに倣って深々と頭を下げた。
「よい。それよりもその話、詳しく聞きたい。ワシは若狭を預かる立場にある。西津荘内の事となれば、ワシにとっては裏庭の話どころではない。枕元だ」
と、杲暁直々の許しを得た。
「守護代様の問いに偽りなく答えよ。よいな」
たったいま牛太に下がれと言った石見房は、杲暁の言葉を受けて、今度は牛太に話せと言う。あるいは初めからこうなることを見越していたのだろうか。いずれにせよ、杲暁の問いに答えるという大義名分をもって、牛太は多烏の窮状を伝えることができる場を得ることになった。
「そなたは多烏の者か?」
「いえ、瓜生の出です」
「ほう。多烏で争いが絶えないと申しておったが、それは多烏の者から聞いた話か?」
「それもありますが、我らは商いで多烏の地に赴き、実情を目の当たりにしました」
牛太が問いに答える度に、杲暁は相槌を打つように小さく首を縦に振った。
「何が起こっておる?」
と問われ、牛太はことの経緯を話した。
永仁四年の和与に反し、汲部が多烏の網場を不当に占拠していること。それを後ろで操っているのが鳥羽荘下司、鳥羽国親であるということ。そのことに対する抗議から浦では連日の小競り合いが続き、漁撈もままならないとい状況であること。
牛太がひととおり話し終えると、杲暁は、
「まだ遣り合っておるのか」
と、呆れ顔でため息をついた。
「鳥羽国親か」
そう言うと、杲暁は髭の無いつるりとした顎を撫でた。
どうやらこれまでの経緯は十分に把握しているようだった。
「して、そなたはこの一件、どう決着するのが最良と考える?」
と杲暁は、牛太に意見を求めた。
「多烏浦刀祢は、永仁の和与が守られればそれでよいと。目と鼻の先の隣浦と争っても疲弊するだけ。共存共栄の道を模索していくと申しておりました。国が穏やかであれば人が増え、銭も回るようになります。国も豊かになりましょう。我ら商人もそれを望んでいます」
多烏を発つ前の寄合で決まった浦の総意。それは多汲両浦の安寧と発展のためであったが、いまとなっては純粋に、牛太の願いでもあった。
杲暁は牛太の答えを吟味しているのか、暫し無言のままいて、やがて静かに語り出した。
「ワシは常々、惣百姓と銭が持つ力に可能性を見つけていた。今日ここでそなたの考えを聞き、ワシの考えは正しかったと確信した」
牛太にはなんの話が始まったのか判然とせず、相槌を打つわけにもゆかず、ただ身を固めているしかなかった。視界の端に映る石見房も身動ぎひとつない。
「若狭に於ける得宗の一円支配は、若狭の安寧のために不可欠なものである」
目の前にいる二人の気分を知ってか知らずか、杲暁はそう言い切ると、
「下知を書く。それを持って争いを仲裁して参れ。できるな?」
と、牛太に問うた。
いや、問うたのではない。間違いなく争いを仲裁せよという意が込められていた。
「そのお役目、謹んでお受けいたします」
両手と額を能舞台の床につけ、牛太は杲暁の言葉に答えた。
――感謝致しますっ!
とそこへ、おもての目につかないところで控えていたケン次郎が、庭へ飛び出してきてひれ伏し、感謝を口にした。ケン次郎と共に控えていた新之助も遅れて出てくると、それに倣ってひれ伏した。話を聞いて感極まったケン次郎が飛び出してきてしまったのだろう。
その様子を見た石見房が拍手を打った。
「一件落着。名裁きに御座います」
と、言い「早速、茶を点てましょう」と言ったが、杲暁は、
「石見房殿。ここは筆を先に致そう。この者たちも気を揉むであろうし、ワシも急かされて茶を飲むのではかなわない」
と言って、筆支度をするよう牛太に頼んだ。
「御尤も。急かされて飲んだのでは風情を損ないます。守護代様の茶を愉しむのを邪魔してはなりません。急ぎ筆の支度をさせましょう」
事ここに至ってみると、石見房の思い描くとおりにことが運んでいたようにも思え、これはもう、多烏の件が決着した折には、虎臥を連れて石見房を尋ねないわけにはいかないほどの借りができてしまったなと牛太は思った。
※※※
茶会の続きは石見房に任せ、杲暁から賜った下知状を胸に、三人は小浜津からケン次郎の操る舟で西津へ戻ってきた。西津へ着くとケン次郎はまっすぐ徳勝に向かい、作業の進捗具合を確かめに行った。
「それにしても上手くいったな」
と牛太が言うと、新之助も、
「話のわかる奴でよかったぜ」
と、応じた。
牛太の語った経緯から、杲暁の頭の中でどういった理屈が成立したのかは分からない。ただその反応は、こちら側に思いよせるものであったし、下知状のみならず、直々に喧嘩仲裁の役目を仰せつかったと言っていいものだった。
あとはこれを浦へ持ち帰り、双方立会いの下、言いわたす。これが双方の矛をおさめるきっかけになれば、話をさきへ進めることができる。
「日のあるうちには終りそうッスが、まだ掛かるッスねぇ」
とそこへ、船を見に行っていたケン次郎が戻ってきた。
「今日はまだ月明りがあるッスから、日没までに船を出せれば夜間航行もできるッスけど、どうします?」
と、訊いてきた。
「多烏の到着は明朝でしょうか?」
「そうッスね」
ここまで来れば、山越えで日のあるうちに多烏へは着くだろうが、船で向かっても翌朝には着くというのであれば待てないことも無い。どちらでもよいなら安全策をとって徳勝の出航を待とうかと牛太は考えたが、
「しょうがねぇ。歩きだな。次郎、道は分かんのか?」
と、新之助はもう、山を越える覚悟でいるようだ。
浦の状況を考えれば、たとえ半日でも早く着くと言うならそれに越したことはない。
「初めて多烏へ行った時はここから山を越えたが、トラの後ろに付いて歩いていただけでどこをどう歩いたのか……」
山中はおろか、今となってはどの辺りから山へ分け入ったのかも定かではなかった。
「おいおいしっかりしてくれよぉ。道もねぇ山ん中で迷っちまったら、行きつく先は多烏じゃなくてあの世じゃねぇか。そんなら船が出るのを待った方がいい」
面目ないことだが同感だ。急いではいるが、下知状を持っていることを考えれば、賭けに出るより安全策をとりたい。山中で迷い夜を迎えることとなれば、行き着く先があの世というのも大袈裟ではなくなる。
「道案内なら俺がするッスよ」
ところが今度は、ケン次郎が案内を買って出た。いまから出れば日のあるうちに着くという。
「よっしゃ。急ぎの用だ。道案内があるなら山越えだ」
それを聞いて新之助は、ふたたび山越えに方針を切り替えた。風にたなびく布切れのように、新之助の心も風向きによっていとも簡単に流れる向きを変える。
「よいのですか? まだ荷積みは終わっていませんが」
西津へとどまり、徳勝の荷積みを助けなくてもよいのかと思い、牛太はケン次郎に訊ねたが、
「荷下ろしと荷積みの段取りが俺の仕事ッス。荷積みはもう始まってるッスから、こっからさきは船乗りの仕事ッスよ」
と、無理に合わせている様子も無いので、ここは素直に、ケン次郎に道案内を頼むことにした。多烏へと抜ける山中を知り尽くしたケン次郎が案内をしてくれるのなら、多烏までの山越えは大したことではない。
「買い付けてきた品の残りは、また積み直して、多烏へ運べばいいッスから」
「お? そいつはまだ行き先が決まってねぇ品ってことか?」
と、ケン次郎の言葉に、新之助が食いついた。
「そいつぁ俺が目を通しておく必要があるな」
と新之助が、着物の袖をまくって言う。
多烏から西津へ戻ったときはまだ荷揚げが始まっておらず、太良荘の伊勢房のところへ行ったあとは、そのまま小浜へ向かったので、新之助はまだ、徳勝に積まれている唐物をひとつも目にしていなかった。
「どうだろう。新之助はここへ残って、唐物の品定めをしては?」
牛太と新之助がふたり揃って多烏に入る必要はない。案内にケン次郎がついてくれるのだから、下知状は無事に多烏に届くだろう。石見房の収蔵品から杲暁に見せる唐物を選んだ慧眼はたしかなものだった。ならば新之助にはここへ残ってもらった方がよいのではないかと牛太は考えた。
しかし牛太の言葉をそう解釈しなかった新之助には、面白くない提案であったようだ。
「おいおい、ここへきて俺だけ置いてけぼりか? まさか手柄を独り占めしようって魂胆じゃあねぇだろうな?」
といった調子で、包み隠すことなく疑心を言葉にした。
「そうではない。誤解だ。守護代様より賜った下知状が向こうに届けば、それで一旦は落ち着く。そうなれば次は商いの話だ。鶴姫様が申したことを思い返してみよ」
と牛太が言うと、
「代銭納のことか?」
と、新之助もすぐに反応した。
「下知を以って和与とするだけでは不十分。さらにその先が重要だ。銭が稼げることを知らしめ、銭を稼ぐことで豊かになることを知らしめるところまでいかなければ、この戦、勝ったことにはならない」
下知状は一時しのぎに過ぎない。
理解の早い新之助は、すぐに牛太の言葉を引き取って続きを語った。
「勝ったことにはならねぇうえに、利がねぇと分かれば、それがまた争いの火種になるっつぅわけだ」
こうなれば新之助は話が早い。さらに続けて、
「故にまず稼げることを知らしめる必要がある。他の何者かと組むより、多烏と組んだ方が利が大きいと分かりゃあ、汲部が多烏と争う理由も無くなるっつうわけだ」
初めからその考えであったかのように、語り切った新之助は得意げだ。
「徳勝は明日の朝には多烏に着く。休戦となった浦に、新之助がよい報せと共に着けば、此度の騒動も一件落着だ」
ケン次郎が言っていたように、各々の才に見合った手段で喧嘩に勝てばよいのだ。
「つまりこの戦、勝敗が俺に懸かってるっつぅわけだっ! 任しとけっ! 俺の目利きで、徳勝を宝船にしてやるぜっ!」
と新之助は、両手を広げて声高に叫んだ。
※※※
「この辺りッスかねぇ」
前を行くケン次郎が立ち止まり、こちらを振り返る。
牛太は辺りを見回してみるが、そこはまだ多烏へ向かう道半ば。山中にあって、道なき道を歩いている途中で、自分ひとりであったなら前も後も分からない。ケン次郎が立っている方が前で、自分が立っている方が後ろだということが、理屈から分かるだけだった。
一体、何がこの辺りなのか。疑問が疲れに混じって表情に出ていたのか、それを察したケン次郎が、得意のアレをして見せた。
「俺がお虎様に捻り上げられてたとこッスよ」
もはや名人芸と言ってよいだろう。
「あー」
と言って、牛太はもう一度辺りを見回すが、場所の記憶までは蘇ってはこなかった。というより、そもそも覚えていないのだろう。
「よく覚えていますね。私にはどこも同じ景色に見えます」
「足元だけ見てるとそうかもしれねぇッスね。海で船を走らせるときは、沿岸の地形とか山の形やなんかで場所を知るんスよ。山ん中でもおんなじで、足元でなく遠くを見れば、意外と特徴があったりするんスよ」
ケン次郎の話を聞いて、そんなことを聞いたことがあったなと牛太も思い出した。
「季節によっては毎日のように山に入るんで、いつの間にか覚えてるんスよ」
とケン次郎はいうが、それは道なきところを歩かなければならない状況に置かれているからで、整備された道のみを歩いていればよい自分は、足元だけを見て歩いてしまうのかもしれないなどと思ったりした。
牛太は一息つくつもりで、深呼吸をして、頭を空っぽにしてから遠くに目を向けてみた。
山の表情をつかむにはまだまだ時間が掛かりそうだったが、いつかまたここへ来たとき、この景色を思い出せそうな気にはなってきた。
「この先には道があるのですか?」
「いやあ、この辺りに整備された道はねぇッスよ」
「そうですか。いえ、この先に目を向けていたら、人が歩いているのが見えたような気がしたもので」
「どこッスか?」
ケン次郎に問われ、牛太は己の網膜に記憶した場所を指差した。意識的に遠くを見ようとすれば、意外と遠くまで目が届くものだと思った。
「あの辺りです。右から左へ移動する白い物が見えたような気がして。こんな山の中で雪以外に白い物は無いでしょうから、白の装束を纏った者が通ったのかと」
雪が降るにはまだ早い。白のような人為的な色は、自然が生み出した景色の中では異質で、その不自然さにしぜんと目がいく。
「ここらに整備された道はねぇスけど、俺らが歩いてるように、知った者には浦へ抜ける道が幾つかあるッスからねぇ」
と、ケン次郎が答える。ということは――。
(誰かが浦へ向かっている?)
「この先を歩いているということは、向かう先は多烏でしょうか?」
「こっちに向かって来るんなら矢代か志積ってこともあるッスけど、今の話だと北へ向かっているようなんで、そうなれば多烏か汲部で間違いねぇッス」
牛太は背筋を冷えた汗が走るのを感じた。山中をここまで歩いてきたのだから、汗をかくのは当然だろう。ただ、誰かが牛太らと同じ様に、山中を抜けて多烏へ向かっている。その可能性に一抹の不安を覚えた。
「私がいま見た辺りを人が歩いていたとして、ケン次郎殿は、その者たちが何処から山に入ったと思いますか?」
牛太の問いにケン次郎はすぐに思い至ったようだったが、それを明言せずに、
「確かめましょう。後を付ければ分かるッス」
と言って、歩き出した。
※※※
草陰に身を潜める牛太とケン次郎の眼下に、三十人ほどが列になって歩く姿が見えた。
列には数名、白装束の姿もあった。さきほど山中で視界の片隅に捉えた白はこれだろう。
しかし異様な光景に感じられた。
山中を歩く際は、あまり無駄口を利くものではない。口喉が渇くし、体力を無駄に消耗させる。しかし山念仏を唱えることなく、黙々と山中を行く山伏に違和感を感じた。さらに何に異様さを感じたのかと考えてみると、長柄を手に黙々と歩く者たちから発せられる殺気のようなもの、という実に曖昧な感性によるものだった。
「山伏ッスかね。向かってるのは多烏の方で間違いねぇッス」
果たしてそうだろうか。と思ったが、他になにか思い当たることも無かったので、牛太はそれを否定はしなかった。
商人が同じ様に列を成して山中を歩いていたとして、この様な異様さを醸し出すことはないだろう。山伏の持つ特異な性質が、性質の異なる自分の目には異様と映っているだけかもしれない。そんなことを考えながら牛太は、過ぎて行く山伏の列を眺めていた。が、あるものが目に留まり、瞬時にそれまでの考えが吹き飛んだ。
「逃げましょう」
潜めていた身を翻し、牛太は、とりあえず来た方向に駆け出した。
「どうしたんスか?」
事情を飲み込めないケン次郎が、突然駆け出した牛太のあとを追いながら問う。道を知らない自分が前を行くのは危ういが、いまは一刻も早く、あの集団との距離をとりたかった。
「さっきの奴らの中に、鳥羽国親の屋敷で会った男がいました」
間違いない。鳥羽の屋敷で、汲部の件を任されていると言っていたあの男だ。
――多烏に正面から衝突って天命を待て。
あのとき、あの男はそう言った。
汲部が正面から一斉に攻めてくれば、多烏はこれに応戦せざるを得ない。もとより数で劣る多烏は、応戦に全力を以て臨むよりほかない。そうなれば必然的に後ろは手薄になる。
(多烏を背後から襲う気なのだ)
屋敷を後にするとき、我らに浦へは戻らず、京へ向かった方がよいと言ったのは、新之助を同士と認めた、あの男なりの善意だったのかもしれない。
「次郎様っ! そっちはっ!」
ケン次郎の声に振り向こうとしたが、次の一歩が踏むはずだった大地の感触が伝わってこない。
(えっ?)
不意に牛太は、幼い頃に川へ飛び込んで遊んでいた時のことを思い出した。
空中に身を投げ出して落ちていく時の感覚、水面へ向かって落ちていく時のあの感覚を感じた。
鎌倉期、国内の神社のうち有力なものが、国衙によって一宮、二宮と順位づけされ、諸国では一宮・総社が成立していった。
西津荘給主、工藤右衛門入道杲暁と小浜の有徳人、石見房の茶席が、この小浜津からもほど近い二宮若狭姫神社の能舞台を借りて行われていた。
「お久しゅう御座います」
と、石見房が丁寧に頭を下げる。
「暖かい茶が身に染みる季節になりましたな」
杲暁は境内の木々を眺めて言った。まだ紅葉にはすこし早いが、色づき始めた気の早い葉もちらほらあり、季節の変わり目を感じさせた。
「左様に御座いますな」
と石見房は、杲暁の言葉に頷く。
「茶を飲むのに季節の暑いも寒いもないが、暑い夏より体が求める」
そう言って杲暁は笑った。
「守護代様は品がおありだ。あたくしなんて夏の盛りでも、額に汗を浮かべながら茶を飲んでおりました。根っからの小百姓なもので、命があるうちに一杯でも多く茶を飲んでおかなければ勿体ない。などと考えてしまうようで。お恥ずかしいか限りです」
杲暁は石見房の滑稽話に笑って答えると、
「ワシも同じだ。書物を読むのに茶は欠かせん。冷えた井戸の水よりも、熱い茶の方が目が覚める」
と言って、夏でも茶は欠かせないと笑った。
「御尤もで御座います」
石見房と杲暁の茶会は、このような和やかな調子で始まった。
物陰から会話を聞いていた牛太は、普段とは異なる石見房の振る舞いに、この爺さんにはまだこんな一面もあったのかと感心していた。そして、これならば上手いこと下知状を賜ることも難しくないようにも思えた。
「本日は唐物のお披露目と書かれていたが、一体どのようなものか?」
杲暁が問うと、
「おーい。ここに」
と、石見房が手を打って呼ぶ。
牛太は物陰から出て、ふたりの座す能舞台へと進み、石見房の傍らにそっと木箱を置いた。
茶席に上がるのはよいが、手回りの支度に下男を何人も上げるのはむさくるしいと石見房が言うので、新之助とケン次郎は外に控えていた。
石見房は運ばれてきた木箱を正面に移すと、封じられた紐を解き、蓋を開けて、中から絹に包まれた椀を取り出した。それを床に置き、包みを開くと、黒く光る椀が現れた。
「おお。これは……、天目か?」
杲暁は身を乗り出して言った。
「さすがは守護代様。一目でお分かりになりますか」
と、石見房はさっそく褒めた。
「いやいや、ワシはそれほど詳しくはない」
謙遜する杲暁に、石見房は手に取るようすすめた。
すすめに応じ、椀を手に取った杲暁は、両手で恭しく包み込み、手の中で回しながら、椀の表面をまじまじと見ている。
「黒は鉄釉によるものだろう。それで天目と思うたが、この斑点はどうしたことか?」
「油滴天目と呼ぶそうです。作り方が異なるわけではないようですが、稀にこうした模様を持って焼きあがるそうで」
石見房がそう説明すると、
「不思議なものだ。満天の星空が手の内にあるようだ」
と言って、杲暁は両手で茶碗を掲げ、夜空を見上げるようにして眺めた。
「お気に召されたようで、あたくしも甲斐がありました」
「いやいや、礼を言うのはワシの方。よいものを見させてもらった。手に入れるにはさぞ、苦労したのではないか?」
「いえいえ。贔屓にしている商人が持ち込んだ品で、あたくしは一歩も屋敷を出ておりません」
「ほう。それはその商人も、大層な目利きだ」
杲暁は、石見房殿が贔屓にするだけのことはあると言って感心した。
しかしこれは石見房の芝居だった。実際は、石見房の収蔵する唐物の中から、新之助が選び抜いたものだった。選んだのが新之助であるから、目利きという点では間違いではない。
「ちょうど西津に大船が入っております。そこから仕入れたということでした。商人もさることながら、廻船の船乗りたちも、随分と目が肥えて来たものです」
と、石見房が西津に入っている多烏の船に話題を向けると、
「廻船はどこの船であろうか?」
と、杲暁も話に乗ってきた。
「若狭の船と聞いておりますが、詳しくは当人らに訊いた方がよいでしょう」
そう言って石見房がまた手を打って合図する。牛太はまた控えていた物陰から出て、石見房の後ろに腰を下ろすと、杲暁に向かって一礼した。
「守護代様がこの天目を積んでいた船について尋ねられた。どこの船か?」
「はい。多烏浦の廻船『徳勝』と申します」
石見房から問われ、牛太が多烏の船であることを答えると、
「多烏の徳勝か。他にも唐物は積んでおるのか?」
と、杲暁がこちらに向かって直接訊ねた。
「御座います」
「よい品か?」
「はい。銭と販路があれば、仕入れたい品ばかりで御座います」
と牛太が答えると、杲暁はそれにとても満足したという風だった。
「それはよい。となれば、多烏は相当に富を得ていることだろう」
(話すなら今しかない)
機はいまであると信じ、牛太は直談判に打って出た。
「恐れ乍ら、浦を取り巻く環境は厳しく、争いが絶えない状況に御座います。廻船に望みを託し、浦を維持しているのが実情。守護代様のお力で、なんとか――」
「控えよ」
石見房の芝居から杲暁の前に出るに至り、これは陳情の場を与えられたのだと思って話始めたのだが、牛太が多烏の騒動について語り始めると、当の石見房によってそれを遮られてしまった。
「もう、下がってよい」
そう言って石見房は、手を振った。
「あっ、しかし……」
と、牛太は未練を口にした。ここで退いては皆に申し訳が立たない。
「まぁ石見房殿。よいではないか。これしきの事で気分を害したりはせん」
杲暁の言葉に石見房が恭しく頭を下げたので、牛太もそれに倣って深々と頭を下げた。
「よい。それよりもその話、詳しく聞きたい。ワシは若狭を預かる立場にある。西津荘内の事となれば、ワシにとっては裏庭の話どころではない。枕元だ」
と、杲暁直々の許しを得た。
「守護代様の問いに偽りなく答えよ。よいな」
たったいま牛太に下がれと言った石見房は、杲暁の言葉を受けて、今度は牛太に話せと言う。あるいは初めからこうなることを見越していたのだろうか。いずれにせよ、杲暁の問いに答えるという大義名分をもって、牛太は多烏の窮状を伝えることができる場を得ることになった。
「そなたは多烏の者か?」
「いえ、瓜生の出です」
「ほう。多烏で争いが絶えないと申しておったが、それは多烏の者から聞いた話か?」
「それもありますが、我らは商いで多烏の地に赴き、実情を目の当たりにしました」
牛太が問いに答える度に、杲暁は相槌を打つように小さく首を縦に振った。
「何が起こっておる?」
と問われ、牛太はことの経緯を話した。
永仁四年の和与に反し、汲部が多烏の網場を不当に占拠していること。それを後ろで操っているのが鳥羽荘下司、鳥羽国親であるということ。そのことに対する抗議から浦では連日の小競り合いが続き、漁撈もままならないとい状況であること。
牛太がひととおり話し終えると、杲暁は、
「まだ遣り合っておるのか」
と、呆れ顔でため息をついた。
「鳥羽国親か」
そう言うと、杲暁は髭の無いつるりとした顎を撫でた。
どうやらこれまでの経緯は十分に把握しているようだった。
「して、そなたはこの一件、どう決着するのが最良と考える?」
と杲暁は、牛太に意見を求めた。
「多烏浦刀祢は、永仁の和与が守られればそれでよいと。目と鼻の先の隣浦と争っても疲弊するだけ。共存共栄の道を模索していくと申しておりました。国が穏やかであれば人が増え、銭も回るようになります。国も豊かになりましょう。我ら商人もそれを望んでいます」
多烏を発つ前の寄合で決まった浦の総意。それは多汲両浦の安寧と発展のためであったが、いまとなっては純粋に、牛太の願いでもあった。
杲暁は牛太の答えを吟味しているのか、暫し無言のままいて、やがて静かに語り出した。
「ワシは常々、惣百姓と銭が持つ力に可能性を見つけていた。今日ここでそなたの考えを聞き、ワシの考えは正しかったと確信した」
牛太にはなんの話が始まったのか判然とせず、相槌を打つわけにもゆかず、ただ身を固めているしかなかった。視界の端に映る石見房も身動ぎひとつない。
「若狭に於ける得宗の一円支配は、若狭の安寧のために不可欠なものである」
目の前にいる二人の気分を知ってか知らずか、杲暁はそう言い切ると、
「下知を書く。それを持って争いを仲裁して参れ。できるな?」
と、牛太に問うた。
いや、問うたのではない。間違いなく争いを仲裁せよという意が込められていた。
「そのお役目、謹んでお受けいたします」
両手と額を能舞台の床につけ、牛太は杲暁の言葉に答えた。
――感謝致しますっ!
とそこへ、おもての目につかないところで控えていたケン次郎が、庭へ飛び出してきてひれ伏し、感謝を口にした。ケン次郎と共に控えていた新之助も遅れて出てくると、それに倣ってひれ伏した。話を聞いて感極まったケン次郎が飛び出してきてしまったのだろう。
その様子を見た石見房が拍手を打った。
「一件落着。名裁きに御座います」
と、言い「早速、茶を点てましょう」と言ったが、杲暁は、
「石見房殿。ここは筆を先に致そう。この者たちも気を揉むであろうし、ワシも急かされて茶を飲むのではかなわない」
と言って、筆支度をするよう牛太に頼んだ。
「御尤も。急かされて飲んだのでは風情を損ないます。守護代様の茶を愉しむのを邪魔してはなりません。急ぎ筆の支度をさせましょう」
事ここに至ってみると、石見房の思い描くとおりにことが運んでいたようにも思え、これはもう、多烏の件が決着した折には、虎臥を連れて石見房を尋ねないわけにはいかないほどの借りができてしまったなと牛太は思った。
※※※
茶会の続きは石見房に任せ、杲暁から賜った下知状を胸に、三人は小浜津からケン次郎の操る舟で西津へ戻ってきた。西津へ着くとケン次郎はまっすぐ徳勝に向かい、作業の進捗具合を確かめに行った。
「それにしても上手くいったな」
と牛太が言うと、新之助も、
「話のわかる奴でよかったぜ」
と、応じた。
牛太の語った経緯から、杲暁の頭の中でどういった理屈が成立したのかは分からない。ただその反応は、こちら側に思いよせるものであったし、下知状のみならず、直々に喧嘩仲裁の役目を仰せつかったと言っていいものだった。
あとはこれを浦へ持ち帰り、双方立会いの下、言いわたす。これが双方の矛をおさめるきっかけになれば、話をさきへ進めることができる。
「日のあるうちには終りそうッスが、まだ掛かるッスねぇ」
とそこへ、船を見に行っていたケン次郎が戻ってきた。
「今日はまだ月明りがあるッスから、日没までに船を出せれば夜間航行もできるッスけど、どうします?」
と、訊いてきた。
「多烏の到着は明朝でしょうか?」
「そうッスね」
ここまで来れば、山越えで日のあるうちに多烏へは着くだろうが、船で向かっても翌朝には着くというのであれば待てないことも無い。どちらでもよいなら安全策をとって徳勝の出航を待とうかと牛太は考えたが、
「しょうがねぇ。歩きだな。次郎、道は分かんのか?」
と、新之助はもう、山を越える覚悟でいるようだ。
浦の状況を考えれば、たとえ半日でも早く着くと言うならそれに越したことはない。
「初めて多烏へ行った時はここから山を越えたが、トラの後ろに付いて歩いていただけでどこをどう歩いたのか……」
山中はおろか、今となってはどの辺りから山へ分け入ったのかも定かではなかった。
「おいおいしっかりしてくれよぉ。道もねぇ山ん中で迷っちまったら、行きつく先は多烏じゃなくてあの世じゃねぇか。そんなら船が出るのを待った方がいい」
面目ないことだが同感だ。急いではいるが、下知状を持っていることを考えれば、賭けに出るより安全策をとりたい。山中で迷い夜を迎えることとなれば、行き着く先があの世というのも大袈裟ではなくなる。
「道案内なら俺がするッスよ」
ところが今度は、ケン次郎が案内を買って出た。いまから出れば日のあるうちに着くという。
「よっしゃ。急ぎの用だ。道案内があるなら山越えだ」
それを聞いて新之助は、ふたたび山越えに方針を切り替えた。風にたなびく布切れのように、新之助の心も風向きによっていとも簡単に流れる向きを変える。
「よいのですか? まだ荷積みは終わっていませんが」
西津へとどまり、徳勝の荷積みを助けなくてもよいのかと思い、牛太はケン次郎に訊ねたが、
「荷下ろしと荷積みの段取りが俺の仕事ッス。荷積みはもう始まってるッスから、こっからさきは船乗りの仕事ッスよ」
と、無理に合わせている様子も無いので、ここは素直に、ケン次郎に道案内を頼むことにした。多烏へと抜ける山中を知り尽くしたケン次郎が案内をしてくれるのなら、多烏までの山越えは大したことではない。
「買い付けてきた品の残りは、また積み直して、多烏へ運べばいいッスから」
「お? そいつはまだ行き先が決まってねぇ品ってことか?」
と、ケン次郎の言葉に、新之助が食いついた。
「そいつぁ俺が目を通しておく必要があるな」
と新之助が、着物の袖をまくって言う。
多烏から西津へ戻ったときはまだ荷揚げが始まっておらず、太良荘の伊勢房のところへ行ったあとは、そのまま小浜へ向かったので、新之助はまだ、徳勝に積まれている唐物をひとつも目にしていなかった。
「どうだろう。新之助はここへ残って、唐物の品定めをしては?」
牛太と新之助がふたり揃って多烏に入る必要はない。案内にケン次郎がついてくれるのだから、下知状は無事に多烏に届くだろう。石見房の収蔵品から杲暁に見せる唐物を選んだ慧眼はたしかなものだった。ならば新之助にはここへ残ってもらった方がよいのではないかと牛太は考えた。
しかし牛太の言葉をそう解釈しなかった新之助には、面白くない提案であったようだ。
「おいおい、ここへきて俺だけ置いてけぼりか? まさか手柄を独り占めしようって魂胆じゃあねぇだろうな?」
といった調子で、包み隠すことなく疑心を言葉にした。
「そうではない。誤解だ。守護代様より賜った下知状が向こうに届けば、それで一旦は落ち着く。そうなれば次は商いの話だ。鶴姫様が申したことを思い返してみよ」
と牛太が言うと、
「代銭納のことか?」
と、新之助もすぐに反応した。
「下知を以って和与とするだけでは不十分。さらにその先が重要だ。銭が稼げることを知らしめ、銭を稼ぐことで豊かになることを知らしめるところまでいかなければ、この戦、勝ったことにはならない」
下知状は一時しのぎに過ぎない。
理解の早い新之助は、すぐに牛太の言葉を引き取って続きを語った。
「勝ったことにはならねぇうえに、利がねぇと分かれば、それがまた争いの火種になるっつぅわけだ」
こうなれば新之助は話が早い。さらに続けて、
「故にまず稼げることを知らしめる必要がある。他の何者かと組むより、多烏と組んだ方が利が大きいと分かりゃあ、汲部が多烏と争う理由も無くなるっつうわけだ」
初めからその考えであったかのように、語り切った新之助は得意げだ。
「徳勝は明日の朝には多烏に着く。休戦となった浦に、新之助がよい報せと共に着けば、此度の騒動も一件落着だ」
ケン次郎が言っていたように、各々の才に見合った手段で喧嘩に勝てばよいのだ。
「つまりこの戦、勝敗が俺に懸かってるっつぅわけだっ! 任しとけっ! 俺の目利きで、徳勝を宝船にしてやるぜっ!」
と新之助は、両手を広げて声高に叫んだ。
※※※
「この辺りッスかねぇ」
前を行くケン次郎が立ち止まり、こちらを振り返る。
牛太は辺りを見回してみるが、そこはまだ多烏へ向かう道半ば。山中にあって、道なき道を歩いている途中で、自分ひとりであったなら前も後も分からない。ケン次郎が立っている方が前で、自分が立っている方が後ろだということが、理屈から分かるだけだった。
一体、何がこの辺りなのか。疑問が疲れに混じって表情に出ていたのか、それを察したケン次郎が、得意のアレをして見せた。
「俺がお虎様に捻り上げられてたとこッスよ」
もはや名人芸と言ってよいだろう。
「あー」
と言って、牛太はもう一度辺りを見回すが、場所の記憶までは蘇ってはこなかった。というより、そもそも覚えていないのだろう。
「よく覚えていますね。私にはどこも同じ景色に見えます」
「足元だけ見てるとそうかもしれねぇッスね。海で船を走らせるときは、沿岸の地形とか山の形やなんかで場所を知るんスよ。山ん中でもおんなじで、足元でなく遠くを見れば、意外と特徴があったりするんスよ」
ケン次郎の話を聞いて、そんなことを聞いたことがあったなと牛太も思い出した。
「季節によっては毎日のように山に入るんで、いつの間にか覚えてるんスよ」
とケン次郎はいうが、それは道なきところを歩かなければならない状況に置かれているからで、整備された道のみを歩いていればよい自分は、足元だけを見て歩いてしまうのかもしれないなどと思ったりした。
牛太は一息つくつもりで、深呼吸をして、頭を空っぽにしてから遠くに目を向けてみた。
山の表情をつかむにはまだまだ時間が掛かりそうだったが、いつかまたここへ来たとき、この景色を思い出せそうな気にはなってきた。
「この先には道があるのですか?」
「いやあ、この辺りに整備された道はねぇッスよ」
「そうですか。いえ、この先に目を向けていたら、人が歩いているのが見えたような気がしたもので」
「どこッスか?」
ケン次郎に問われ、牛太は己の網膜に記憶した場所を指差した。意識的に遠くを見ようとすれば、意外と遠くまで目が届くものだと思った。
「あの辺りです。右から左へ移動する白い物が見えたような気がして。こんな山の中で雪以外に白い物は無いでしょうから、白の装束を纏った者が通ったのかと」
雪が降るにはまだ早い。白のような人為的な色は、自然が生み出した景色の中では異質で、その不自然さにしぜんと目がいく。
「ここらに整備された道はねぇスけど、俺らが歩いてるように、知った者には浦へ抜ける道が幾つかあるッスからねぇ」
と、ケン次郎が答える。ということは――。
(誰かが浦へ向かっている?)
「この先を歩いているということは、向かう先は多烏でしょうか?」
「こっちに向かって来るんなら矢代か志積ってこともあるッスけど、今の話だと北へ向かっているようなんで、そうなれば多烏か汲部で間違いねぇッス」
牛太は背筋を冷えた汗が走るのを感じた。山中をここまで歩いてきたのだから、汗をかくのは当然だろう。ただ、誰かが牛太らと同じ様に、山中を抜けて多烏へ向かっている。その可能性に一抹の不安を覚えた。
「私がいま見た辺りを人が歩いていたとして、ケン次郎殿は、その者たちが何処から山に入ったと思いますか?」
牛太の問いにケン次郎はすぐに思い至ったようだったが、それを明言せずに、
「確かめましょう。後を付ければ分かるッス」
と言って、歩き出した。
※※※
草陰に身を潜める牛太とケン次郎の眼下に、三十人ほどが列になって歩く姿が見えた。
列には数名、白装束の姿もあった。さきほど山中で視界の片隅に捉えた白はこれだろう。
しかし異様な光景に感じられた。
山中を歩く際は、あまり無駄口を利くものではない。口喉が渇くし、体力を無駄に消耗させる。しかし山念仏を唱えることなく、黙々と山中を行く山伏に違和感を感じた。さらに何に異様さを感じたのかと考えてみると、長柄を手に黙々と歩く者たちから発せられる殺気のようなもの、という実に曖昧な感性によるものだった。
「山伏ッスかね。向かってるのは多烏の方で間違いねぇッス」
果たしてそうだろうか。と思ったが、他になにか思い当たることも無かったので、牛太はそれを否定はしなかった。
商人が同じ様に列を成して山中を歩いていたとして、この様な異様さを醸し出すことはないだろう。山伏の持つ特異な性質が、性質の異なる自分の目には異様と映っているだけかもしれない。そんなことを考えながら牛太は、過ぎて行く山伏の列を眺めていた。が、あるものが目に留まり、瞬時にそれまでの考えが吹き飛んだ。
「逃げましょう」
潜めていた身を翻し、牛太は、とりあえず来た方向に駆け出した。
「どうしたんスか?」
事情を飲み込めないケン次郎が、突然駆け出した牛太のあとを追いながら問う。道を知らない自分が前を行くのは危ういが、いまは一刻も早く、あの集団との距離をとりたかった。
「さっきの奴らの中に、鳥羽国親の屋敷で会った男がいました」
間違いない。鳥羽の屋敷で、汲部の件を任されていると言っていたあの男だ。
――多烏に正面から衝突って天命を待て。
あのとき、あの男はそう言った。
汲部が正面から一斉に攻めてくれば、多烏はこれに応戦せざるを得ない。もとより数で劣る多烏は、応戦に全力を以て臨むよりほかない。そうなれば必然的に後ろは手薄になる。
(多烏を背後から襲う気なのだ)
屋敷を後にするとき、我らに浦へは戻らず、京へ向かった方がよいと言ったのは、新之助を同士と認めた、あの男なりの善意だったのかもしれない。
「次郎様っ! そっちはっ!」
ケン次郎の声に振り向こうとしたが、次の一歩が踏むはずだった大地の感触が伝わってこない。
(えっ?)
不意に牛太は、幼い頃に川へ飛び込んで遊んでいた時のことを思い出した。
空中に身を投げ出して落ちていく時の感覚、水面へ向かって落ちていく時のあの感覚を感じた。
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