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一.勃興
したたかな弱者 ― 後編 ―
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近づいてくる騒々しい足音が、そのまま二人の待つ部屋へと踏み込んできた。
「えらい待たせてしもうて申し訳ない。相も変わらず立て込んでおってな」
勧心半名名主、伊勢房良厳が忙しなく現れると、遅くなったことを詫びながら、こちらの挨拶も待たず、牛太らの前に腰を下ろした。
太良荘へ入って人に尋ねると、伊勢房が薬師堂の供僧であることがすぐに分かった。ならばと薬師堂へ向かったら、ここにはおらぬので館の方へ行ってみろと言われここへ来た。突然押しかけて来たにもかかわらず、館にいた小僧に要件を伝えると、あがって待つようにと容易く通されたはいいが、板の間を早足に蹴って伊勢房が現れたのは、それから半時ほど経ってからだった。
「こちらが突然押しかけたのです。待てぬ理由などありません」
さきほどまで「遅い遅い」と文句を垂れていた新之助だったが、伊勢房が現れると、その舌の根の乾かぬうちにそう言って頭を下げた。
「そんな畏まらんでもええて。拙僧もあんたらとおんなじ百姓や。気兼ねするこたあない」
田畠に出ていたのだろうか、首に掛けた手拭いには泥が混じっていた。
ここへ来る途中の道の両側には、綺麗に手入れされた田んぼが広がっていた。夏に薬師堂の湯に浸かりに来た時にはまだ青々として、空に向かってまっすぐ立っていた稲も、今では稲穂の重みで首を垂れていた。
検注帳などに記載されている主だった百姓の多くが、”大夫”や”権守”といった仮名を名乗っていることはすでにふれたが、そのほかで多く見られるのが”房”がつく僧名の人である。こうした僧名の人らの多くは名主で、単に納税者として賦課の対象となっていただけでなく、年貢収納の事務も担っていたようだ。
この時代の僧侶というのは文字の読み書きだけでなく、それなりの作文力や計数能力を備えた教養人である。事務方というのは地味で目立たない仕事である(と言ったら怒る人もあるかもしれない)が、世の中を円滑にまわしていくためには必要な仕事である。百姓側の代表として年貢収納の事務処理をし、一方で、領家と地頭のあいだに立って、領家への年貢米送文、算用状(荘園の年貢・公事などに関する年間収支決算報告書)作成し、領家の使いとともにこれに連署するなど、権利や利害が複雑に絡み合う組織間の折衝役を果たしていた。
鎌倉時代の後期、百姓名主クラスの人々のなかには、これだけの仕事にたえうるだけの十分な知識と能力を持つ人が存在していたのだ。
「ほな用向きやが、訴訟について訊きたい、そう聞いとるが」
伊勢房が軽い調子で言うので、”訴訟”という物騒な言葉も、村の行事のことでも話しているように聞こえてしまう。
「はい。私は領家の夫役で京におりました。領家が六波羅の奉行人であるので、西国各地から寄せられる訴訟を耳にすることもあり、伊勢房様のご高名も耳にしておりました。若狭国には天下に打って出られるほどの人物がいるのだと知り、胸の内を熱くしたのを覚えております」
相変わらず新之助の口はよく動く。どこまで本気かはわからないが、生来のお調子者が小気味よく話すので嫌味がない。
「さすがは商人。口が巧い。帰る頃には、何かしら買わされておるかもしらんな」
と言って、伊勢房はおどけてみせた。
「いえいえ、その様なつもりでは」
「冗談や、冗談。商人の前口上を揶揄ってみただけや。つまり近場に訴訟の心得のあるもんがおったから、いっちょ話を訊いたろう。と、そういうこっちゃろ?」
曲者と一言に言っても色々あるが、この伊勢房という供僧も間違いなくその範疇にある者だろうと、牛太は思った。飄々としていて掴みどころがない。然るにこれが、領家地頭を相手に立ち回る術なのかもしれない。
「さすがに頭の回る方だ。話が早ぇ」
新之助がポンと足を崩して胡坐をかいた。口調もいつもの調子だ。
すると伊勢房の方も、
「そんでええ。形式ばった言葉を並べ立てても、それが敬意を示すことにはならん」
と言って、首に掛けた手拭いで額の汗を拭った。
「拙僧を身内と思うて相談に来たんなら、あんたらの言葉で、あんたらの想いと感情を込めて話してもらった方がええ。そうでなければ、ホンマのところは分からん。ホンマのところが分からんと、適切な策にも繋がらん」
曲者ではあるが、悪い人物ではなさそうだ。
※※※
「概ね、状況は解した」
現状を洗い浚い話すと、伊勢房は手のひらで額をペチペチと叩いた。
「多烏と汲部の間に、修復不能な亀裂が生じてしもうてからでは手遅れやろうなあ。我ら百姓は力こそ持たんが、数では圧倒的に勝っとる。惣百姓が一枚岩になっておれば、相手が何であろうがおそるるに足らずや。しかしひとたび足並みが乱れれば、瞬く間に総崩れになってまう。多烏浦の刀祢は、賢明な判断をしたようやな」
と、伊勢房は多烏浦の方針を褒めた。
ひとまず多烏浦は一枚岩になった。次は汲部浦も含めた、もっと大きな一枚岩にしなくてはならない。しかしその片割れとは争いの真っ最中だった。
「すでに決している訴訟。我らは給主のところへ向かい、永仁の和与に従うよう、汲部にあてた下知状を願い出るつもりでいますが、どうでしょう?」
給主に会うだけでも難しい。そのうえ、会えたところで直ちに書状が貰える保証もないという現状。なんとかしなければならないのだが、改めてその道のりの険しさを牛太は認識した。
「何かよい策はあるでしょうか?」
と、藁にもすがる思いで牛太が問うと、
「まずは全体を俯瞰すること。力関係を見極めるんが肝要やな」
と、伊勢房は言った。
「全体を俯瞰し、力関係を見極める……。それはつまり、多烏と汲部だけではなく、鳥羽も含めてということでしょうか?」
牛太は伊勢房の言葉を繰り返し、その真意を導き出そうとした。
それを聞いた伊勢房は、頭の上で手をヒラヒラさせて「小さい小さい」と言って否定した。
「若狭国と近隣諸国だけでもまだ小さい。日本全体を俯瞰して見んと」
と言った。
「日本、全体ですか?」
一気に話が大きくなり面食らったが、それに疑問を感じたのは新之助も同じようで、すかさず食いつき、
「それじゃあかえって話がややこしくなっちまうだけなんじゃねぇか? 日本全体から見たら、一国の中の小さな浦の出来事だろうよ」
と切り返したが、牛太も同じことを思った。物事を点で見ず、線にし、面にして見ることで、全体の一部である点の存在がつまびらかになる。俯瞰して全体を見ることの重要性は理解している。しかし新之助が言うのももっともなことで、見る範囲をあまりに広くし過ぎると、今度は見るべき点が霞んでしまう。
しかしそれに対し伊勢房は、
「万物はすべて繋がっとる。なんとも繋がらず、唯ひとつで存在するもんなどない。それは国であれ浦であれおんなしや」
と、伊勢房は言った。
腑に落ちない答えではあるが、その度に足を止めている時間はない。いまは訊くことに専念して、話をさきに進めようと牛太は考えた。
「繋がりについては分かりました。しかし『力』とは何を指すでしょうか? さきほど伊勢房様が仰られたように、数の話であれば多烏は負けています」
牛太はもうひとつの疑問について訊いてみた。
「ひと言に『力』言うても、それがなんを指すかは場合による。見極めるんは、どの『力』を用いて、落しどころを何処に定めるかや。と言うても、合点はいかんやろうな」
実例をあげて語るんがええやろうと前置きして、伊勢房は話を続けた。
「ちょうど二年前の今頃や。若狭忠兼の所領が、そっくりそのまま得宗領になった。これによって太良荘はもとより、恒枝保、体興寺、永富保、鳥羽荘、瓜生荘など十四か所が新たに得宗領に加わることんなった。これまであった今富名、西津荘、佐分郷などと合わせれば、遠敷郡の大半が、得宗の支配下におさまったわけや」
正安四年(1302年)の7月から10月のあいだに、何の罪科によってか、若狭の有力地頭、若狭忠兼はその所帯を没収され、そのすべてが御内御領、すなわち得宗領とされることになった。
関東の得宗公文所は直ちに検注使を若狭に派遣し、次々と内検を行い、名主、公文職を定め、僅か一月ほどで関東へ帰っていった。
「得宗になってからはなんでもかんでも税の対象になっちまったからゆるくはねぇが、べつに俺らに米で納めろとは言わねぇ。銭を稼ぐ口は探せばいくらでもある。負担は増えたんだろうが、その実感はねぇし、まぁ過ぎてみれば俺らには大して関係ねぇ話だったな」
税負担が上がってもなお大した変化はなかったと言うのはどういうことか。
鎌倉時代後期は、日宋(元)貿易の最盛期と重なる。この時期の資料が多く残る太良荘の徴符(中世の荘園領主や荘官が、農民に対して賦課物の納入を求めた文書)からは、かつては堪え難いとされた重税も、ともあれ受け入れていたことがわかる。
これは、それだけの重税に堪えらるだけの力を惣百姓がつけたとみることもできる。農業技術が発達したこともあるだろうが、一番は貨幣経済の定着だったのではないかと思う。
北条得宗家専制の最盛期、若狭に於いてもその権力を大いに振るうようになった大事変ではあるが、結局のところ、田畠を持たない末端の民百姓にとってはどれほどの影響があったか。実入りが変わらないまま税負担だけが上がる時代から考えれば、多少税負担が増えることになっただけで、仕事は増えていて銭が稼げるのだから、それほど苦ではない。と思ったかもしれない。
「たしかに。我ら百姓に大きな変化があったわけではありませんでしたから」
と、牛太が新之助の言に同意する。
しかし伊勢房に言わせれば、それがいけないのだと言う。
「それがあかんねや。自分らに関係がある思って見れば、これほど大きい変化はない」
という。
「太良荘では変化があったのですか?」
「地頭が力を増したんに対して、領家は力を失った。それは荘を支配する者の『力』の均衡が崩れたっちゅうことや」
太良荘の支配関係について整理しておくと、領家は京都にある東寺で、失脚した若狭忠兼に代わって地頭になったのが得宗である。寄進地系荘園であるため、領家東寺は荘園を実際に管理するわけではなく、その威光を以てあがりを得るだけの存在であったので、その支配も厳しいものではなかったようだ。それに比べると地頭の支配は苛烈だ。
地頭=悪者。とはいえないが、応仁の乱の後、新たに東国から西国の荘園に派遣されてきた武士については、概ねこの式にあてはまったのではないかと思われる。
集めた年貢を領主に渡さない地頭が現れ、それに困った領主は諍いを避けるため、年貢を”半済”とすることにした。これは領主の取り分と地頭の取り分を半分ずつにするという意味で、地頭側に対して大きく譲歩した取り決めだった。それでも地頭のなかにはその年貢さえ払わない者や、農民を脅して取り分を増やす者も現れ、ついには領地を地頭に分けてしまう荘園も出はじめる。これを”下地中分”という。
そうした経緯があったうえで、鎌倉時代最大の権力である得宗が地頭になったのだから、かろうじて保たれていた力の均衡など一発で吹き飛んでしまったのだろう。
「それは太良荘の惣百姓にどのように影響したのでしょうか?」
「領家と地頭の間で、取り分が変わっただけだろうよ。どっちに納めようが、搾取される側の俺らにゃあ変わりがねぇ」
新之助の言う通り、我ら百姓にとっての関心事は、突き詰めればその一点しかない。
これに対して伊勢房はニッと笑って問い返してきた。あるいは想定していた通りの答えだったのかもしれない。
「そもそも我ら百姓が領家に税を納めるんは、何故と思う?」
「何故かと問われると……」
まったく意識したことのないことだった。納めなければならないから納める。ただそれだけだ。新之助に目をやるが、どうやら牛太と同じようだった。
二人から答えが出ないとみると、伊勢房は話を続けた。
「不輸不入の権」
「不輸不入の権?」
「不輸とは、朝廷に対し、税を納めずともよいということ。不入とは、役人の立ち入りを拒むことを許すということ。寺社や有力貴族が持つ特権であるが、太良荘の場合、領家の東寺がこれにあたる。力のある領家の所有となることで、我らもこの特権に護られることになる。豪族や国司の横暴に対する抑止力にもなり、その恩恵は多大。領家に納める税はその御守の対価と思えば、税を納めることに何の不満があるやろか」
そうだったのか。と、牛太は感心したが、あまり実感が湧かなかった。
「虎の威を借る狐だな」
と、新之助は言った。
「虎になれぬのであれば、その威を借ることに活路を見出さねばなるまい」
と伊勢房は説いた。
「悪く言ったわけじゃねぇさ。俺もまったくその通りと思う。威を借るつっても楽な話じゃねぇ。相応の知恵と度胸が必要だろ?」
「なかなか分別があるようやな」
新之助の言葉に、伊勢房はニッと黄ばんだ歯を見せて笑った。
「しかし地頭が力を増し、領家が衰えたとなれば、それは領家の威を借りていた太良の民も、その力を失うことにはならないでしょうか?」
と牛太が問うと、
「ほんなら力をつけた虎を頼ればええ。力を失ったんは虎であって、狐やない」
と、いとも簡単に伊勢房はそれを説いた。
「ハハッ、そりゃあいい。威を借ることが目的だ。力を失った虎に用はねぇってわけだ」
伊勢房の答えに新之助はそう言って笑ったが、そうそう容易くいくだろうかと牛太は思った。たとえで虎と言っているが、実際には人だ。跨る馬を替えるように、こっちが駄目だからあっちとはいかないだろう。
「理屈は分かりますが、そのようなことが可能でしょうか? これまで所従としていた者たちが勝手に鞍替えするような真似をそう易々と許すとは思えません。そうなれば怒った虎は、裏切った狐に牙を剥くでしょう。力を失ったとはいえ虎は虎。牙を向けられた狐は虎に太刀打ちできません」
そう牛太が言うと、伊勢房は、
「お連れさんは、随分と弱気やなぁ」
と言って苦笑した。強気弱気の話ではないはずだが、牛太も苦笑されて言葉に詰まり「いや……」と、ついつい曖昧な態度になってしまった。しかしこれも道理のはずだ。たとえより強い虎の威を借りたとしても、狐が虎に勝てるようになるわけではない。
「狐が虎を裏切ったんやない。虎が狐に見限られたんや。不輸不入は力あってこそ意味がある。近隣に対する抑止力もおんなじや。力を失った領家に、御守代を納めなならん故はない。衰えた虎がこっちに牙を剥くんなら、より強く勢いのある虎に護ってもろたらええだけのことや。虎には虎の戦がある。おんなしように、狐には狐の戦があるっちゅうこっちゃ。虎が生き残っていくには、虎同士の戦に勝って威を保つこと。狐が生き残っていくには、力関係を見極め、より強いもんに取り入ることや」
伊勢房は牛太の胸のうちにあった腑に落ちないものを見透かしているように、一つひとつ順を追って説いた。
「虎同士の争いも熾烈だろうが、狐の生き方だって楽じゃねぇ。関係ねぇと思ってぼさっとしてっと、衰えた虎と心中することになり兼ねねぇってことだな」
心変わりの早い新之助は、もはや腕組みをして、伊勢房の教えを説く側に回っている。
「太良荘の百姓は地頭に付いて、領家を追い出したのでしょうか?」
「そんなこと我らにはできん。仮にできたとして、それは得策やない」
と伊勢房は、牛太の問いの愚策を指摘した。
「虎一匹じゃあ不安だ。食わしていけるなら数が多いに越したことはねぇ」
と新之助が言うと、伊勢房は「それも一理やな」と言い、
「虎同士の順位付けは、虎の中でやってくれたらええ話や。力関係の変化はその順位が変わっただけに過ぎん。負けた方の虎かて黙ってはおらん。必ずやり返す。そんときまた順位が変わったらどないする? また勝った方に鞍替えできる余地は残しとかなあかん。狐は虎をうまぁく利用することで、生きていかなあかんねや」
と、さきの牛太の問いが、なぜ愚策であるのかを説いた。
「虎は力で、狐は頭で勝負っつぅことだな」
と、新之助が言い添える。
「まずは己を知ることや。虎は強くなければ生きていかれんし、狐も強かでなければ生きていかれん。己の分際をわきまえろっちゅうことやな」
伊勢房と新之助から有難い教えを授かり、ともかくも、武による戦ではなく、知による戦をしようとしている我らの方針が誤りではないのだと、自信が湧いた。
「話を聞いていて不安が晴れたような気がします。己の分際は理解しているつもりです。戦わない戦い方に徹して、求める利を得たいと思います」
狐に生まれた以上、狐の勝ち方を目指さなければならない。
「ここらの近頃の訴訟を平たく言うたら、得宗対その他や。守護代も六波羅も皆、幕府方のもんや。得宗の意に反した結果にはならん。そこを違わねば、此度のあんたらの戦、負ける戦やない」
伊勢房は、好々爺然とした顔で頷いた。
「伊勢房様は西津荘の給主、工藤右衛門入道杲暁様と面識があるのでしょうか?」
ここで何かしらの繋がりがあればと思い訊いてみたが、そうそう簡単ではなかった。
「無いなあ。聞いた話では、杲暁様は話の分かるお人やと。相手が誰であれ理が通る話であれば存外、容易く受け入れてもらえるかもしれんで?」
とまた、軽い調子で言う。
「我ら二人で赴いたところで、果たしてお会いになるでしょうか?」
それほど容易く会えるものなのかと思い、牛太は問うてみる。
「そら当然、そこに至る道程は理の通らん連中が塞いどるやろから、これをどう切り抜けるがよいかは思案が必要やろが、これも存外、あんたらなら容易いかもしらんで?」
我らなら――?
「褒めてもなんも出ませんぜ?」
と新之助が言うと、伊勢房はまた頭の上で手をヒラヒラさせてこれを否定し、
「んにゃんにゃ、世辞を言うたわけやない。あんたら商人ならっちゅうことや」
と言った。
「商人なら?」
牛太が訊き返すと、
「拙僧は勧心半名名主と公文職を得宗より補任されとる。百姓の身でありながらも、地頭方の末席におることになる。その点あんたらは商人ちがうやろ。西津荘のもんでもない。利害の一致のみで、繋がることも離れることもできるやろうっちゅうことや」
と言い、「こっから先はあんたらが考えることや」と言って笑った。
「えらい待たせてしもうて申し訳ない。相も変わらず立て込んでおってな」
勧心半名名主、伊勢房良厳が忙しなく現れると、遅くなったことを詫びながら、こちらの挨拶も待たず、牛太らの前に腰を下ろした。
太良荘へ入って人に尋ねると、伊勢房が薬師堂の供僧であることがすぐに分かった。ならばと薬師堂へ向かったら、ここにはおらぬので館の方へ行ってみろと言われここへ来た。突然押しかけて来たにもかかわらず、館にいた小僧に要件を伝えると、あがって待つようにと容易く通されたはいいが、板の間を早足に蹴って伊勢房が現れたのは、それから半時ほど経ってからだった。
「こちらが突然押しかけたのです。待てぬ理由などありません」
さきほどまで「遅い遅い」と文句を垂れていた新之助だったが、伊勢房が現れると、その舌の根の乾かぬうちにそう言って頭を下げた。
「そんな畏まらんでもええて。拙僧もあんたらとおんなじ百姓や。気兼ねするこたあない」
田畠に出ていたのだろうか、首に掛けた手拭いには泥が混じっていた。
ここへ来る途中の道の両側には、綺麗に手入れされた田んぼが広がっていた。夏に薬師堂の湯に浸かりに来た時にはまだ青々として、空に向かってまっすぐ立っていた稲も、今では稲穂の重みで首を垂れていた。
検注帳などに記載されている主だった百姓の多くが、”大夫”や”権守”といった仮名を名乗っていることはすでにふれたが、そのほかで多く見られるのが”房”がつく僧名の人である。こうした僧名の人らの多くは名主で、単に納税者として賦課の対象となっていただけでなく、年貢収納の事務も担っていたようだ。
この時代の僧侶というのは文字の読み書きだけでなく、それなりの作文力や計数能力を備えた教養人である。事務方というのは地味で目立たない仕事である(と言ったら怒る人もあるかもしれない)が、世の中を円滑にまわしていくためには必要な仕事である。百姓側の代表として年貢収納の事務処理をし、一方で、領家と地頭のあいだに立って、領家への年貢米送文、算用状(荘園の年貢・公事などに関する年間収支決算報告書)作成し、領家の使いとともにこれに連署するなど、権利や利害が複雑に絡み合う組織間の折衝役を果たしていた。
鎌倉時代の後期、百姓名主クラスの人々のなかには、これだけの仕事にたえうるだけの十分な知識と能力を持つ人が存在していたのだ。
「ほな用向きやが、訴訟について訊きたい、そう聞いとるが」
伊勢房が軽い調子で言うので、”訴訟”という物騒な言葉も、村の行事のことでも話しているように聞こえてしまう。
「はい。私は領家の夫役で京におりました。領家が六波羅の奉行人であるので、西国各地から寄せられる訴訟を耳にすることもあり、伊勢房様のご高名も耳にしておりました。若狭国には天下に打って出られるほどの人物がいるのだと知り、胸の内を熱くしたのを覚えております」
相変わらず新之助の口はよく動く。どこまで本気かはわからないが、生来のお調子者が小気味よく話すので嫌味がない。
「さすがは商人。口が巧い。帰る頃には、何かしら買わされておるかもしらんな」
と言って、伊勢房はおどけてみせた。
「いえいえ、その様なつもりでは」
「冗談や、冗談。商人の前口上を揶揄ってみただけや。つまり近場に訴訟の心得のあるもんがおったから、いっちょ話を訊いたろう。と、そういうこっちゃろ?」
曲者と一言に言っても色々あるが、この伊勢房という供僧も間違いなくその範疇にある者だろうと、牛太は思った。飄々としていて掴みどころがない。然るにこれが、領家地頭を相手に立ち回る術なのかもしれない。
「さすがに頭の回る方だ。話が早ぇ」
新之助がポンと足を崩して胡坐をかいた。口調もいつもの調子だ。
すると伊勢房の方も、
「そんでええ。形式ばった言葉を並べ立てても、それが敬意を示すことにはならん」
と言って、首に掛けた手拭いで額の汗を拭った。
「拙僧を身内と思うて相談に来たんなら、あんたらの言葉で、あんたらの想いと感情を込めて話してもらった方がええ。そうでなければ、ホンマのところは分からん。ホンマのところが分からんと、適切な策にも繋がらん」
曲者ではあるが、悪い人物ではなさそうだ。
※※※
「概ね、状況は解した」
現状を洗い浚い話すと、伊勢房は手のひらで額をペチペチと叩いた。
「多烏と汲部の間に、修復不能な亀裂が生じてしもうてからでは手遅れやろうなあ。我ら百姓は力こそ持たんが、数では圧倒的に勝っとる。惣百姓が一枚岩になっておれば、相手が何であろうがおそるるに足らずや。しかしひとたび足並みが乱れれば、瞬く間に総崩れになってまう。多烏浦の刀祢は、賢明な判断をしたようやな」
と、伊勢房は多烏浦の方針を褒めた。
ひとまず多烏浦は一枚岩になった。次は汲部浦も含めた、もっと大きな一枚岩にしなくてはならない。しかしその片割れとは争いの真っ最中だった。
「すでに決している訴訟。我らは給主のところへ向かい、永仁の和与に従うよう、汲部にあてた下知状を願い出るつもりでいますが、どうでしょう?」
給主に会うだけでも難しい。そのうえ、会えたところで直ちに書状が貰える保証もないという現状。なんとかしなければならないのだが、改めてその道のりの険しさを牛太は認識した。
「何かよい策はあるでしょうか?」
と、藁にもすがる思いで牛太が問うと、
「まずは全体を俯瞰すること。力関係を見極めるんが肝要やな」
と、伊勢房は言った。
「全体を俯瞰し、力関係を見極める……。それはつまり、多烏と汲部だけではなく、鳥羽も含めてということでしょうか?」
牛太は伊勢房の言葉を繰り返し、その真意を導き出そうとした。
それを聞いた伊勢房は、頭の上で手をヒラヒラさせて「小さい小さい」と言って否定した。
「若狭国と近隣諸国だけでもまだ小さい。日本全体を俯瞰して見んと」
と言った。
「日本、全体ですか?」
一気に話が大きくなり面食らったが、それに疑問を感じたのは新之助も同じようで、すかさず食いつき、
「それじゃあかえって話がややこしくなっちまうだけなんじゃねぇか? 日本全体から見たら、一国の中の小さな浦の出来事だろうよ」
と切り返したが、牛太も同じことを思った。物事を点で見ず、線にし、面にして見ることで、全体の一部である点の存在がつまびらかになる。俯瞰して全体を見ることの重要性は理解している。しかし新之助が言うのももっともなことで、見る範囲をあまりに広くし過ぎると、今度は見るべき点が霞んでしまう。
しかしそれに対し伊勢房は、
「万物はすべて繋がっとる。なんとも繋がらず、唯ひとつで存在するもんなどない。それは国であれ浦であれおんなしや」
と、伊勢房は言った。
腑に落ちない答えではあるが、その度に足を止めている時間はない。いまは訊くことに専念して、話をさきに進めようと牛太は考えた。
「繋がりについては分かりました。しかし『力』とは何を指すでしょうか? さきほど伊勢房様が仰られたように、数の話であれば多烏は負けています」
牛太はもうひとつの疑問について訊いてみた。
「ひと言に『力』言うても、それがなんを指すかは場合による。見極めるんは、どの『力』を用いて、落しどころを何処に定めるかや。と言うても、合点はいかんやろうな」
実例をあげて語るんがええやろうと前置きして、伊勢房は話を続けた。
「ちょうど二年前の今頃や。若狭忠兼の所領が、そっくりそのまま得宗領になった。これによって太良荘はもとより、恒枝保、体興寺、永富保、鳥羽荘、瓜生荘など十四か所が新たに得宗領に加わることんなった。これまであった今富名、西津荘、佐分郷などと合わせれば、遠敷郡の大半が、得宗の支配下におさまったわけや」
正安四年(1302年)の7月から10月のあいだに、何の罪科によってか、若狭の有力地頭、若狭忠兼はその所帯を没収され、そのすべてが御内御領、すなわち得宗領とされることになった。
関東の得宗公文所は直ちに検注使を若狭に派遣し、次々と内検を行い、名主、公文職を定め、僅か一月ほどで関東へ帰っていった。
「得宗になってからはなんでもかんでも税の対象になっちまったからゆるくはねぇが、べつに俺らに米で納めろとは言わねぇ。銭を稼ぐ口は探せばいくらでもある。負担は増えたんだろうが、その実感はねぇし、まぁ過ぎてみれば俺らには大して関係ねぇ話だったな」
税負担が上がってもなお大した変化はなかったと言うのはどういうことか。
鎌倉時代後期は、日宋(元)貿易の最盛期と重なる。この時期の資料が多く残る太良荘の徴符(中世の荘園領主や荘官が、農民に対して賦課物の納入を求めた文書)からは、かつては堪え難いとされた重税も、ともあれ受け入れていたことがわかる。
これは、それだけの重税に堪えらるだけの力を惣百姓がつけたとみることもできる。農業技術が発達したこともあるだろうが、一番は貨幣経済の定着だったのではないかと思う。
北条得宗家専制の最盛期、若狭に於いてもその権力を大いに振るうようになった大事変ではあるが、結局のところ、田畠を持たない末端の民百姓にとってはどれほどの影響があったか。実入りが変わらないまま税負担だけが上がる時代から考えれば、多少税負担が増えることになっただけで、仕事は増えていて銭が稼げるのだから、それほど苦ではない。と思ったかもしれない。
「たしかに。我ら百姓に大きな変化があったわけではありませんでしたから」
と、牛太が新之助の言に同意する。
しかし伊勢房に言わせれば、それがいけないのだと言う。
「それがあかんねや。自分らに関係がある思って見れば、これほど大きい変化はない」
という。
「太良荘では変化があったのですか?」
「地頭が力を増したんに対して、領家は力を失った。それは荘を支配する者の『力』の均衡が崩れたっちゅうことや」
太良荘の支配関係について整理しておくと、領家は京都にある東寺で、失脚した若狭忠兼に代わって地頭になったのが得宗である。寄進地系荘園であるため、領家東寺は荘園を実際に管理するわけではなく、その威光を以てあがりを得るだけの存在であったので、その支配も厳しいものではなかったようだ。それに比べると地頭の支配は苛烈だ。
地頭=悪者。とはいえないが、応仁の乱の後、新たに東国から西国の荘園に派遣されてきた武士については、概ねこの式にあてはまったのではないかと思われる。
集めた年貢を領主に渡さない地頭が現れ、それに困った領主は諍いを避けるため、年貢を”半済”とすることにした。これは領主の取り分と地頭の取り分を半分ずつにするという意味で、地頭側に対して大きく譲歩した取り決めだった。それでも地頭のなかにはその年貢さえ払わない者や、農民を脅して取り分を増やす者も現れ、ついには領地を地頭に分けてしまう荘園も出はじめる。これを”下地中分”という。
そうした経緯があったうえで、鎌倉時代最大の権力である得宗が地頭になったのだから、かろうじて保たれていた力の均衡など一発で吹き飛んでしまったのだろう。
「それは太良荘の惣百姓にどのように影響したのでしょうか?」
「領家と地頭の間で、取り分が変わっただけだろうよ。どっちに納めようが、搾取される側の俺らにゃあ変わりがねぇ」
新之助の言う通り、我ら百姓にとっての関心事は、突き詰めればその一点しかない。
これに対して伊勢房はニッと笑って問い返してきた。あるいは想定していた通りの答えだったのかもしれない。
「そもそも我ら百姓が領家に税を納めるんは、何故と思う?」
「何故かと問われると……」
まったく意識したことのないことだった。納めなければならないから納める。ただそれだけだ。新之助に目をやるが、どうやら牛太と同じようだった。
二人から答えが出ないとみると、伊勢房は話を続けた。
「不輸不入の権」
「不輸不入の権?」
「不輸とは、朝廷に対し、税を納めずともよいということ。不入とは、役人の立ち入りを拒むことを許すということ。寺社や有力貴族が持つ特権であるが、太良荘の場合、領家の東寺がこれにあたる。力のある領家の所有となることで、我らもこの特権に護られることになる。豪族や国司の横暴に対する抑止力にもなり、その恩恵は多大。領家に納める税はその御守の対価と思えば、税を納めることに何の不満があるやろか」
そうだったのか。と、牛太は感心したが、あまり実感が湧かなかった。
「虎の威を借る狐だな」
と、新之助は言った。
「虎になれぬのであれば、その威を借ることに活路を見出さねばなるまい」
と伊勢房は説いた。
「悪く言ったわけじゃねぇさ。俺もまったくその通りと思う。威を借るつっても楽な話じゃねぇ。相応の知恵と度胸が必要だろ?」
「なかなか分別があるようやな」
新之助の言葉に、伊勢房はニッと黄ばんだ歯を見せて笑った。
「しかし地頭が力を増し、領家が衰えたとなれば、それは領家の威を借りていた太良の民も、その力を失うことにはならないでしょうか?」
と牛太が問うと、
「ほんなら力をつけた虎を頼ればええ。力を失ったんは虎であって、狐やない」
と、いとも簡単に伊勢房はそれを説いた。
「ハハッ、そりゃあいい。威を借ることが目的だ。力を失った虎に用はねぇってわけだ」
伊勢房の答えに新之助はそう言って笑ったが、そうそう容易くいくだろうかと牛太は思った。たとえで虎と言っているが、実際には人だ。跨る馬を替えるように、こっちが駄目だからあっちとはいかないだろう。
「理屈は分かりますが、そのようなことが可能でしょうか? これまで所従としていた者たちが勝手に鞍替えするような真似をそう易々と許すとは思えません。そうなれば怒った虎は、裏切った狐に牙を剥くでしょう。力を失ったとはいえ虎は虎。牙を向けられた狐は虎に太刀打ちできません」
そう牛太が言うと、伊勢房は、
「お連れさんは、随分と弱気やなぁ」
と言って苦笑した。強気弱気の話ではないはずだが、牛太も苦笑されて言葉に詰まり「いや……」と、ついつい曖昧な態度になってしまった。しかしこれも道理のはずだ。たとえより強い虎の威を借りたとしても、狐が虎に勝てるようになるわけではない。
「狐が虎を裏切ったんやない。虎が狐に見限られたんや。不輸不入は力あってこそ意味がある。近隣に対する抑止力もおんなじや。力を失った領家に、御守代を納めなならん故はない。衰えた虎がこっちに牙を剥くんなら、より強く勢いのある虎に護ってもろたらええだけのことや。虎には虎の戦がある。おんなしように、狐には狐の戦があるっちゅうこっちゃ。虎が生き残っていくには、虎同士の戦に勝って威を保つこと。狐が生き残っていくには、力関係を見極め、より強いもんに取り入ることや」
伊勢房は牛太の胸のうちにあった腑に落ちないものを見透かしているように、一つひとつ順を追って説いた。
「虎同士の争いも熾烈だろうが、狐の生き方だって楽じゃねぇ。関係ねぇと思ってぼさっとしてっと、衰えた虎と心中することになり兼ねねぇってことだな」
心変わりの早い新之助は、もはや腕組みをして、伊勢房の教えを説く側に回っている。
「太良荘の百姓は地頭に付いて、領家を追い出したのでしょうか?」
「そんなこと我らにはできん。仮にできたとして、それは得策やない」
と伊勢房は、牛太の問いの愚策を指摘した。
「虎一匹じゃあ不安だ。食わしていけるなら数が多いに越したことはねぇ」
と新之助が言うと、伊勢房は「それも一理やな」と言い、
「虎同士の順位付けは、虎の中でやってくれたらええ話や。力関係の変化はその順位が変わっただけに過ぎん。負けた方の虎かて黙ってはおらん。必ずやり返す。そんときまた順位が変わったらどないする? また勝った方に鞍替えできる余地は残しとかなあかん。狐は虎をうまぁく利用することで、生きていかなあかんねや」
と、さきの牛太の問いが、なぜ愚策であるのかを説いた。
「虎は力で、狐は頭で勝負っつぅことだな」
と、新之助が言い添える。
「まずは己を知ることや。虎は強くなければ生きていかれんし、狐も強かでなければ生きていかれん。己の分際をわきまえろっちゅうことやな」
伊勢房と新之助から有難い教えを授かり、ともかくも、武による戦ではなく、知による戦をしようとしている我らの方針が誤りではないのだと、自信が湧いた。
「話を聞いていて不安が晴れたような気がします。己の分際は理解しているつもりです。戦わない戦い方に徹して、求める利を得たいと思います」
狐に生まれた以上、狐の勝ち方を目指さなければならない。
「ここらの近頃の訴訟を平たく言うたら、得宗対その他や。守護代も六波羅も皆、幕府方のもんや。得宗の意に反した結果にはならん。そこを違わねば、此度のあんたらの戦、負ける戦やない」
伊勢房は、好々爺然とした顔で頷いた。
「伊勢房様は西津荘の給主、工藤右衛門入道杲暁様と面識があるのでしょうか?」
ここで何かしらの繋がりがあればと思い訊いてみたが、そうそう簡単ではなかった。
「無いなあ。聞いた話では、杲暁様は話の分かるお人やと。相手が誰であれ理が通る話であれば存外、容易く受け入れてもらえるかもしれんで?」
とまた、軽い調子で言う。
「我ら二人で赴いたところで、果たしてお会いになるでしょうか?」
それほど容易く会えるものなのかと思い、牛太は問うてみる。
「そら当然、そこに至る道程は理の通らん連中が塞いどるやろから、これをどう切り抜けるがよいかは思案が必要やろが、これも存外、あんたらなら容易いかもしらんで?」
我らなら――?
「褒めてもなんも出ませんぜ?」
と新之助が言うと、伊勢房はまた頭の上で手をヒラヒラさせてこれを否定し、
「んにゃんにゃ、世辞を言うたわけやない。あんたら商人ならっちゅうことや」
と言った。
「商人なら?」
牛太が訊き返すと、
「拙僧は勧心半名名主と公文職を得宗より補任されとる。百姓の身でありながらも、地頭方の末席におることになる。その点あんたらは商人ちがうやろ。西津荘のもんでもない。利害の一致のみで、繋がることも離れることもできるやろうっちゅうことや」
と言い、「こっから先はあんたらが考えることや」と言って笑った。
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