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一.勃興
再会 ― 前編 ―
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「さすがに日が高くなると暑いな」
牛太は「ふぅ」と息を吐いて、額に浮いた汗をぬぐった。
季節は瞬く間に過ぎ、暑かった夏の盛りも終わり、もはや秋の気配を感じるまでになっていた。
「そうじゃの」
と、応じた虎臥だったが、余裕の表情だ。
「今日は絹の仕入れだけだし、早々に良いものが見つかったら、そこらで一服してから村へ帰ろうか」
「妙案じゃの。まだ少し時期には早いかもしれぬが、市には菓子を扱う処もあるかもしれぬしな」
柿や梨、桃に枇杷。ここでいう菓子とは果物のことである。
今日でいう菓子は唐菓子とよばれ、平安時代からすでに存在はしていたが、宮中の食べ物であり、庶民にとって菓子といえば、果物のことをさした。
「菓子か。まだ早いのではないか? あってもまだ熟していないだろうし」
というと、虎臥は「わかっておらんの」と言って、立てた人差し指を左右に振った。
「熟せば柔らかく甘くなるじゃろうが、堅さは失われてしまう。若さを楽しめる時期は短い。熟してからの方が美味いのは確かじゃが、甘みは薄くとも、シャキシャキとした歯応えと青臭さも味わいじゃ」
その方がわらわは好きじゃ、と虎臥はいう。
たかが菓子の好みのはなしだが、面白いことを言うなと牛太は思った。
「俺は熟していた方が好きだが、そんな風に言われるとなんだか食べてみたくもなるな」
「求める気になったか?」
と、牛太の顔を覗き込むようにして虎臥が聞いてきたので、
「トラは食べたいのだろう?」
と返すと、
「ウシがいらぬと言うなら、無理強いはせぬ」
と言いだした。
こういうときの虎臥の言葉は誘導尋問だ。それとなく自分の思惑の方へむかって誘導していく。もはや自分好みのものを選ぶつもりでいるのは間違いない。
「なんだそれ? なら食べたい」
と牛太は、虎臥の案にのってやった。
「なら決まりじゃな。ウシは絹を探せ、わらわは菓子を探そう」
「いや、絹はお前も探せよっ」
器用にパチンと指を鳴らす虎臥に、牛太は反射的にツッコミをいれた。
(絹の仕入れが先だと言ったではないか)
「絹と麻の区別くらいはつくが、良し悪しまでは分からぬ。されど菓子ならば、まだ若くても美味いのを見分けられる。ここは互いの得意を持ち寄った方が得であろう?」
などともっともらしいことを述べている。
まともに相手をするのも面倒になった牛太は、
「得……、だな。まぁいい、トラが絹を探す気が無いのは分かった。初めから期待はしておらん。ならば得意の慧眼で、美味い菓子を選ってくれ」
と言って、虎臥の好きなようにさせることにした。
「英断じゃな」
フフッ、と笑う虎臥は、楽しげだ。
突然夫婦となったあの日から、早いものでもう半年近く経つ。
二人だけで過ごす時間にもだいぶ慣れた。幼子の頃は毎日共に過ごしていたのだから、その頃に戻っただけなのだろうが、少し違うような気もする。まだなにがどう違うのか、牛太にはわからなかった。
「おっ? あれは……」
何か見つけたのか、虎臥が立ち止まった。
「もう見つけたのか?」
いくらなんでも早すぎるだろう、と思いながら聞いてみたが、どうやら違ったようだ。
「菓子ではない。それに、あまり美味そうでもないの」
と、虎臥は戯けて答えてみせるが、牛太には何を見つけたのか分からないので、返す言葉もない。
「あそこじゃ」
スッと、長い腕を前方に伸ばして指差した先は、思いのほか遠くを指している。視点が高いからなのか、狩人の習性なのか。相変わらず遠目が利くのには驚くばかりだ。
牛太は踵を上げ、少し背伸びをして、指差す方を見た。
「ほれ、あそこで椀を手に、なんぞ食べておる男」
見つけたものが何なのか分からず、どこを見てよいか定まらなかったが、ここで初めて、対象が人であることが分かり、牛太は虎臥の指差す先から、特徴の合う人物を探した。
「あっ、あれは……、新之助?」
牛太が名前を口にすると、虎臥も「やはりそうじゃったか」と、言うと、
「またろくでもないことをしておるな」
と鼻で笑った。
てっきり京にいるものと思っていたが、国が恋しくなって戻ってきたのだろうか。よもや不忠を責められて、逃げ帰って来たのではあるまいか。などと牛太は考えた。
※※※
「んー、美味いっ! 女っ、このきし麺の汁はどうやって作っておる? 最高に美味いぞ。京でもちょっとお目にかかれないほどだ」
「どうやってって、別に変ったことはしちゃいないよ。そこらの海で揚がった小魚の日干しを釜で煮ただけ」
なにがそんなに珍しいのかと思いながら、賑やかな客を相手に、めし売りの娘は答えた。
「この味なら京でも当たるぜ。京でやってみてはどうか? 向こうなら三割、いや、五割増しで値を付けても売れる」
と、この賑やかな男は言った。
信じられない話だが、高く売れるというなら知りたい。
「えー、本当かい? なんでそんなことが分かるんだい?」
「そりゃあ、俺は京の人間だからな。京の事情に明るいのは当然」
「へぇ、それじゃあ京で商いをしようとなったら、助けてくれるのかい?」
「もちろんだっ! 俺も京で商いをしてる。商人同士、助け合うのは当然よぉ」
調子よく話を継いでいく男の話に娘が関心を持ち始めたところで、割って入る声があった。
「また適当なことを申してたぶらかそうとしておるな。女、真に受けてはいかんぞ」
と牛太が声をかけると、新之助は振り向きざまに、
「おっ、次郎じゃねぇか。久しいな。どうしてここに?」
と、まるで三日ぶりくらいの軽さで言った。
声の届かぬうちから見えていた話姿だけで、どうせろくでもない調子の良い話をしているであろうことは想像していた。案の定、京人を気取って、女をたぶらかそうとしている最中のようだが、とつぜん声を掛けられた新之助には、驚いたようすも悪びれたようすもないことに、牛太のほうが驚かされた。
「こっちの台詞だ。いつ戻った? 京の暮らしが良いから、暫くは留まると申しておったろうに」
と牛太が問うと、「そうそう、それそれ」と、新之助は箸を振った。
「俺だって来たくて来たわけじゃねぇよ。そんでもさ、従順な犬っころの俺は、ご主人様に行けと言われれば、厭とは言えねぇわけよ。それよりもお前、その後ろにいるのはもしかしてお虎ちゃんか?」
新之助が手にしている箸で、後ろに立つ虎臥を指した。
それに応じて、「もしかせんでもトラじゃ」と、虎臥が前に出た。
新之助は我ら二人より年は少し上だったが、昔馴染みで共に遊んだ仲だった。
「でっかくなったなぁー。元々でかかったが。お前らまだ二人で連んでおるのか?」
大袈裟に驚いてみせているが、どことなく芝居がかっている。演技なのか素なのか分からないのはいつものこと。おそらく芝居半分、本音半分なのだろう。
道化を装って調子よく話を引き出していく新之助の接し方は、商いをするうえでは有用だ。生まれ持った性質もあるのだろうが、お調子者のただの阿呆でないことだけは確かだ。と、牛太は勝手に新之助を評価していた。
「夫婦じゃからの。これまでもこれからも、この先ずっと、死ぬまで一緒じゃ。新之助は全然成長しておらんようじゃの」
さらりと告げられた虎臥の言葉に、牛太は全身が熱くなる。
「ホンマかいなっ! たしかにしぜんな流れかもしれねぇが、そいつぁ吃驚だ。臆面もなく嫁さんに『死ぬまで一緒』なんて言わせるたぁ大したもんだな次郎」
ここですかさず冗談で話に乗っかっていくことができるようなら、恥ずかしさを誤魔化しつつ話の流れを変えていけるのだが、結局だんまりしてしまう。そしてその状態に自分自身が恥ずかしさを感じてしまって、更に押し黙ってしまう。新之助のように調子よく切り返せればと思うが、簡単ではない。虎臥と行動を共にすることには慣れたが、こういう不意打ちには、対処の術が牛太には未だなかった。
「って、お前、顔を赤らめ過ぎだろっ! 茹蛸のようだぞっ」
と新之助が囃し立てる。
自身の顔は見えないが、全身の血が沸き立つように熱くなっているのは分かる。顔どころか、おそらく全身が風呂上りのように火照っているに違いない。
「なんじゃ、照れておるのか? 恥ずかしいことなぞ何ひとつなかろう」
と言って虎臥がのしかかるようにして肩を組む。
虎臥に肩を組まれ、新之助は手を打って囃し立てる。そして何も言えずに黙っている自分。似たようなことが昔もあったなと、俯瞰して見る自分たちの姿に、幼い頃の記憶を重なった。
良い思い出とは言い難いが、懐かしさの気持ちが勝ったのか、動揺していた気持ちは次第に穏かになっていった。
(思い出に良いも悪いもないか)
「もうよいだろう、この話は。そっ、それより、新之助の話だ。主人の使いで来たようだが、いったい何用か?」
話術もなにも関係ない。牛太は強引に話を切って話題を新之助に戻した。
幸い自分語りが好きな新之助は、己に話題が移ると、いまの今までふたりのことを揶揄っていたのはまるで前座だといわんばかりに、嬉々として自分がここにいる理由を話し始めた。
「そうだそうだ、その話だ。次郎、前に京で会ったろう? 茶を取引した時だ」
「ああ、会ったな」
「あの時お前たちは塩を売りにきていた。そうだよな?」
京――、茶――、塩――。
記憶を蘇らせる単語が、牛太のあたまから半年前の記憶を呼び起こす。
そう、京で塩の値が大きく上がっていたときだ。
「そうだな。京で塩相場が上がっていたんだ」
一月も続かなかったと思うが、若狭と京の往復をしているうちに、あっという間に夏が来たような感じだった。長雨で動けないでいる間に相場も湿ってしまったのか、一気に値は落ち着いてしまったが、それでもあれはよい稼ぎになった。
「まさにその件さぁ」
と言って、新之助は箸で椀の縁を打って小気味いい音をたててから話を継いだ。
「塩の値が急に上がったもんで、それに伴って色んなもんの値が上がってな。まぁ概ね塩を使ったもんで、つまりは人の口に入るもんだ」
材料の仕入れ値が上がったのであれば、それを加味して売値を付けなければ、利益が無くなってしまう。やむを得ないことだろう。という意味で牛太が頷くと、新之助はまた箸で椀を打った。
「その通りだ。少し考えれば分かることだ。ところが今のご時世、それが分かったところで、それなら仕方がない、とはならねぇ」
「どういうことだ?」
「理由を知ったところで、自分が不利益を被るとなれば黙っていない。自分に非が無いのに被害を被った。これはけしからんっ! となって訴え出る。訴えを起こす時は数が多い方が強い。塩っけのないもんなんて食っても美味くねぇ。だから口に入れるもんをみーんな、いい塩梅にするわけだ。京中の口が一斉に不平を訴え出したら、幕府も手に負えねぇってわけさ」
食い物の恨みは怖いということか。
「食事処の客が騒ぎ立てたのが発端だが、当然、主人も反論して、被害を被ったのは自分たちも同じで、塩の売値が高いのが悪いってことになった。そんで塩を商う者らに矛先が移ったものの、奴らは奴らで、和市は売り手側と買い手側の合意であって、自分らが値を吊り上げたわけではないと主張した。そんでもって、相場の乱れは幕府の怠慢に因るものであって、責任も幕府にある、と最終的に矛先は幕府に向かったわけだ」
牛太にとっては、商う側の言い分もわからなくはない。
相場がその値で折り合ったというなら、それは双方納得のうえであって、どちらに非があるという話ではない。
「それは幕府も災難じゃったの」
と、興味なさげに虎臥が言った。
「気持ちはわかるが、それで誰を訴えるのだ?」
鎌倉時代の法律といえば御成敗式目。
鎌倉幕府成立以前にあった律令が貴族の法律であったのに対して、武士が治める世になってつくられた御成敗式目は、武士と庶民の生活に主眼をおいてつくられた法律だった。
なんでもかんでも訴えることができるというわけでもなさそうで、全部で51箇条ある内容をみると、領地の権利関係が多い印象で、そこから当時の時代背景が透けて見える。
「庶民が幕府を訴えちゃならねぇって法はねぇさ」
「なんの咎で訴える?」
「まあ実際のとこ、このことで誰かが六波羅に訴えでるってことはねぇだろうがな。とはいえ、庶民に不満の種をばら撒いたまま放置したとなりゃあ、幕府の信用にかかわる」
武士とはいえ、弓と刀だけで国を治めているわけではないようだ。弓を置き、政で世を治めようとすると、そんな些細なことにまで気にかけるのかと、牛太は感心した。
「案外、誠実な連中じゃの」
と、虎臥が言ったが、牛太も同感だった。
「誠実かどうかは何とも言えねぇが、この件に関して不可解な点が多いのは確かだ。幕府の人間も俺らと同じで口がある。その点に於いては被害者側の人間と言えなくもねぇ。この件を放置することが得策ではないと判断すれば、奴らの動きはことのほか早い」
それでその原因を探りに出されたということかと、牛太は得心した。
「知っての通り、うちの主人は六波羅奉行人のひとりで、とうぜん幕府方の人間だ。おいそれと幕府に非あり、とは言えねぇ。望んでいる結末は、非は他にあって、それを幕府が暴いて裁きを下す。そういう筋書きだ」
(結果ありきというわけか)
「事態を放置すれば信用にかかわるが、幕府に非があるとなれば今度は威信にかかわる。幕府としては西国での影響力を増していきたいと考えているが、東国のやり方では上手くいかないことを理解してる。そして民の心を掌握することが肝要であるということも理解してる。京で起こった騒動に幕府が公平をもって対処し、そのうえで見事な裁きをしてみせれば、西国の民の心は幕府方になびく。とまぁ、そんな筋書きを思い描いているんだろうさ」
これがことの顛末。話の終わりを意味するのか、新之助は箸で椀を軽快に打って話をとじた。
「よく考えたものだ」
「それほどのことかの? 要は民衆のご機嫌取りじゃろ?」
「ご機嫌取りで戦わずして利を得られるなら、それ以上のことはないさ」
悪しき状況をむしろ好機と捉えて逆に利用する。それで世が平らかになるのだから、誰も困ることはない。
二度の蒙古襲来はあったが、国内に目を向ければ、目立って大きな戦は数十年起きていない。その間、国中に銭が行き渡るようになって経済は発展した。庶民の暮らしぶりもだいぶ豊かになった。戦に勝って豊かになるのは一部の勝者だけで、その他の者は皆一様に貧しくなる。
(争わぬ方が利が大きいことに気が付いたのだろう)
「そういうことだ。まさに孫子の兵法」
と、あたかも新之助が発案であるかの如く言った。
「ハッ、まさか新之助の口から孫子が飛び出すとは、思いもよらんかったの。さっきは全く成長しておらんと言ったが、少しは成長しておるようじゃの」
と、調子よく話している新之助に、虎臥が咬みつく。
「やっと気付いたか。お虎の目が節穴ではないようで安心したぞ」
と言って、新之助もすかさず応戦する。
互いに張り付けた笑顔で話しているが、穏かでない空気が滲み出ている。
「どうやら成長したのは口だけのようじゃの。わらわの目が、木の節に見えているようでは大概じゃな」
「お虎があまりにでかいもんでな。木がしゃべったかと思ったら、お虎だったのだ。木と人の見分けもつかないとは、俺の目は、たしかに節穴だな」
「ほほぅ。ならば頬を張られても、それがわらわの腕か、木の枝か分からぬということじゃな? 人間は手加減できるが、木は手加減できぬからの。勢い余って新之助の首が飛んでしまっても、わらわを恨むでないぞ」
(また始まったか)
体格で新之助が虎臥に勝っていたことは一度も無い。よせばいいのに、お調子者で口が達者な新之助が虎臥にちょっかいを出して、返り討ちにあって泣かされている。牛太の記憶する限り、この二人は昔からこんな感じだった。
「よさないか二人とも。昔とは違うのだ」
いまのトラが本気で手を振り下ろしたら、冗談でなく、新之助の首が飛びかねない。
「話を戻すが、塩の件についてだが、あのあと我らも探りを入れてみたが結局なにも掴めなかった。光見様の見立てでは、若狭ではなくどこか他の産地、もしくは京に要因があるのではないかと申しておった」
思い起こせば、虎臥と夫婦になったのが、最初の商いから戻った日の翌日だった。月日が経つのは早いものだ。
「まぁそうだろうな。俺もはじめっから期待はしてなかったさ。ただ手ぶらでは帰れねぇ。さっきチラッと小耳に挟んだ話だと、間もなく西からの大船が入るらしい。なにか話を逸らせる品があれば、そいつを手土産に戻ろうかと思案してたところだ」
要領のよさは相変わらずのようだ。
「ほう、それはよいな。ちょうど我らも絹を求めに来たところだ」
西からの大船であれば良い品があるかもしれない。急ぎの用でもないし、荷が揚がるのを待ってからでも遅くはないだろう。
「そりゃあちょうどいい。そんなら浜の方へ行ってみるか?」
「そうしよう」
「それがよいの。新之助の耳では、風の音を聞き違えただけかもしれぬしの」
「はて? どうしたことか。今日は風も無いのに、随分と木の葉が騒めいているな」
「やめんかっ! 虎臥も嗾けるなっ」
隙あらば始まる揶揄い合戦を宥めつつ、大船の到着を確かめに浜へと向かった。
※※※
「まだ着いてはおらぬようじゃの」
浜には漁を終えて陸に揚げられた舟と、荷を運ぶ舟が行き交う景色が見えるだけで、沖の方まで目をやっても、大船の姿は確認できない。虎臥の目でも見つからないのだから、ちょっと待っていれば着く、という距離にはいないだろう。
「海のことは分からねぇが、今日の到着は無さそうだな」
手で筒を作って沖を覗いていた新之助も、見つけられなかったようだ。
「この様子だと明日かもしれないな」
何か言いたげな虎臥を目で牽制し、市庭に戻ろうとしたところで、声がかかった。
――お虎様じゃねぇですかっ!
声がした方に向き直ると、見覚えのある男が両手をいっぱいにこちらに向かって手を振っている。誰だったかと記憶を辿っていたが、一緒にいる市女笠に赤の衣を纏った女に気付いた瞬間、牛太の脳裏に記憶が蘇り。思わず「あっ」と声を発した。
「知り合いか?」
と、牛太が思い出したことを察した新之助が問う。
「ああ、多烏浦の者だ。トラも覚えているだろう? 多烏に向かう途中の山で会った男だ。隣の市女笠、あれは刀祢の娘ではないか?」
市女笠で顔は見えないが、無邪気に手を振る男とは対照的に、何事にも動ぜんとする佇まい。纏う衣の赤も鮮明に記憶に残っている。刀祢の娘でまず間違いない。
「あの山中で襲い掛かってきた男か。よく覚えておったの」
あの男の腕を捻り上げていた当事者である虎臥だが、言われて漸く思い出したという風だ。かく言う牛太も、名前までは思い出せない。
「襲い掛かってきたって割には、随分とにこやかじゃねぇか」
新之助の疑問はもっともだが、それだけの関係ではない。
「まぁそのあと色々あってな。行ってみよう」
牛太は「ふぅ」と息を吐いて、額に浮いた汗をぬぐった。
季節は瞬く間に過ぎ、暑かった夏の盛りも終わり、もはや秋の気配を感じるまでになっていた。
「そうじゃの」
と、応じた虎臥だったが、余裕の表情だ。
「今日は絹の仕入れだけだし、早々に良いものが見つかったら、そこらで一服してから村へ帰ろうか」
「妙案じゃの。まだ少し時期には早いかもしれぬが、市には菓子を扱う処もあるかもしれぬしな」
柿や梨、桃に枇杷。ここでいう菓子とは果物のことである。
今日でいう菓子は唐菓子とよばれ、平安時代からすでに存在はしていたが、宮中の食べ物であり、庶民にとって菓子といえば、果物のことをさした。
「菓子か。まだ早いのではないか? あってもまだ熟していないだろうし」
というと、虎臥は「わかっておらんの」と言って、立てた人差し指を左右に振った。
「熟せば柔らかく甘くなるじゃろうが、堅さは失われてしまう。若さを楽しめる時期は短い。熟してからの方が美味いのは確かじゃが、甘みは薄くとも、シャキシャキとした歯応えと青臭さも味わいじゃ」
その方がわらわは好きじゃ、と虎臥はいう。
たかが菓子の好みのはなしだが、面白いことを言うなと牛太は思った。
「俺は熟していた方が好きだが、そんな風に言われるとなんだか食べてみたくもなるな」
「求める気になったか?」
と、牛太の顔を覗き込むようにして虎臥が聞いてきたので、
「トラは食べたいのだろう?」
と返すと、
「ウシがいらぬと言うなら、無理強いはせぬ」
と言いだした。
こういうときの虎臥の言葉は誘導尋問だ。それとなく自分の思惑の方へむかって誘導していく。もはや自分好みのものを選ぶつもりでいるのは間違いない。
「なんだそれ? なら食べたい」
と牛太は、虎臥の案にのってやった。
「なら決まりじゃな。ウシは絹を探せ、わらわは菓子を探そう」
「いや、絹はお前も探せよっ」
器用にパチンと指を鳴らす虎臥に、牛太は反射的にツッコミをいれた。
(絹の仕入れが先だと言ったではないか)
「絹と麻の区別くらいはつくが、良し悪しまでは分からぬ。されど菓子ならば、まだ若くても美味いのを見分けられる。ここは互いの得意を持ち寄った方が得であろう?」
などともっともらしいことを述べている。
まともに相手をするのも面倒になった牛太は、
「得……、だな。まぁいい、トラが絹を探す気が無いのは分かった。初めから期待はしておらん。ならば得意の慧眼で、美味い菓子を選ってくれ」
と言って、虎臥の好きなようにさせることにした。
「英断じゃな」
フフッ、と笑う虎臥は、楽しげだ。
突然夫婦となったあの日から、早いものでもう半年近く経つ。
二人だけで過ごす時間にもだいぶ慣れた。幼子の頃は毎日共に過ごしていたのだから、その頃に戻っただけなのだろうが、少し違うような気もする。まだなにがどう違うのか、牛太にはわからなかった。
「おっ? あれは……」
何か見つけたのか、虎臥が立ち止まった。
「もう見つけたのか?」
いくらなんでも早すぎるだろう、と思いながら聞いてみたが、どうやら違ったようだ。
「菓子ではない。それに、あまり美味そうでもないの」
と、虎臥は戯けて答えてみせるが、牛太には何を見つけたのか分からないので、返す言葉もない。
「あそこじゃ」
スッと、長い腕を前方に伸ばして指差した先は、思いのほか遠くを指している。視点が高いからなのか、狩人の習性なのか。相変わらず遠目が利くのには驚くばかりだ。
牛太は踵を上げ、少し背伸びをして、指差す方を見た。
「ほれ、あそこで椀を手に、なんぞ食べておる男」
見つけたものが何なのか分からず、どこを見てよいか定まらなかったが、ここで初めて、対象が人であることが分かり、牛太は虎臥の指差す先から、特徴の合う人物を探した。
「あっ、あれは……、新之助?」
牛太が名前を口にすると、虎臥も「やはりそうじゃったか」と、言うと、
「またろくでもないことをしておるな」
と鼻で笑った。
てっきり京にいるものと思っていたが、国が恋しくなって戻ってきたのだろうか。よもや不忠を責められて、逃げ帰って来たのではあるまいか。などと牛太は考えた。
※※※
「んー、美味いっ! 女っ、このきし麺の汁はどうやって作っておる? 最高に美味いぞ。京でもちょっとお目にかかれないほどだ」
「どうやってって、別に変ったことはしちゃいないよ。そこらの海で揚がった小魚の日干しを釜で煮ただけ」
なにがそんなに珍しいのかと思いながら、賑やかな客を相手に、めし売りの娘は答えた。
「この味なら京でも当たるぜ。京でやってみてはどうか? 向こうなら三割、いや、五割増しで値を付けても売れる」
と、この賑やかな男は言った。
信じられない話だが、高く売れるというなら知りたい。
「えー、本当かい? なんでそんなことが分かるんだい?」
「そりゃあ、俺は京の人間だからな。京の事情に明るいのは当然」
「へぇ、それじゃあ京で商いをしようとなったら、助けてくれるのかい?」
「もちろんだっ! 俺も京で商いをしてる。商人同士、助け合うのは当然よぉ」
調子よく話を継いでいく男の話に娘が関心を持ち始めたところで、割って入る声があった。
「また適当なことを申してたぶらかそうとしておるな。女、真に受けてはいかんぞ」
と牛太が声をかけると、新之助は振り向きざまに、
「おっ、次郎じゃねぇか。久しいな。どうしてここに?」
と、まるで三日ぶりくらいの軽さで言った。
声の届かぬうちから見えていた話姿だけで、どうせろくでもない調子の良い話をしているであろうことは想像していた。案の定、京人を気取って、女をたぶらかそうとしている最中のようだが、とつぜん声を掛けられた新之助には、驚いたようすも悪びれたようすもないことに、牛太のほうが驚かされた。
「こっちの台詞だ。いつ戻った? 京の暮らしが良いから、暫くは留まると申しておったろうに」
と牛太が問うと、「そうそう、それそれ」と、新之助は箸を振った。
「俺だって来たくて来たわけじゃねぇよ。そんでもさ、従順な犬っころの俺は、ご主人様に行けと言われれば、厭とは言えねぇわけよ。それよりもお前、その後ろにいるのはもしかしてお虎ちゃんか?」
新之助が手にしている箸で、後ろに立つ虎臥を指した。
それに応じて、「もしかせんでもトラじゃ」と、虎臥が前に出た。
新之助は我ら二人より年は少し上だったが、昔馴染みで共に遊んだ仲だった。
「でっかくなったなぁー。元々でかかったが。お前らまだ二人で連んでおるのか?」
大袈裟に驚いてみせているが、どことなく芝居がかっている。演技なのか素なのか分からないのはいつものこと。おそらく芝居半分、本音半分なのだろう。
道化を装って調子よく話を引き出していく新之助の接し方は、商いをするうえでは有用だ。生まれ持った性質もあるのだろうが、お調子者のただの阿呆でないことだけは確かだ。と、牛太は勝手に新之助を評価していた。
「夫婦じゃからの。これまでもこれからも、この先ずっと、死ぬまで一緒じゃ。新之助は全然成長しておらんようじゃの」
さらりと告げられた虎臥の言葉に、牛太は全身が熱くなる。
「ホンマかいなっ! たしかにしぜんな流れかもしれねぇが、そいつぁ吃驚だ。臆面もなく嫁さんに『死ぬまで一緒』なんて言わせるたぁ大したもんだな次郎」
ここですかさず冗談で話に乗っかっていくことができるようなら、恥ずかしさを誤魔化しつつ話の流れを変えていけるのだが、結局だんまりしてしまう。そしてその状態に自分自身が恥ずかしさを感じてしまって、更に押し黙ってしまう。新之助のように調子よく切り返せればと思うが、簡単ではない。虎臥と行動を共にすることには慣れたが、こういう不意打ちには、対処の術が牛太には未だなかった。
「って、お前、顔を赤らめ過ぎだろっ! 茹蛸のようだぞっ」
と新之助が囃し立てる。
自身の顔は見えないが、全身の血が沸き立つように熱くなっているのは分かる。顔どころか、おそらく全身が風呂上りのように火照っているに違いない。
「なんじゃ、照れておるのか? 恥ずかしいことなぞ何ひとつなかろう」
と言って虎臥がのしかかるようにして肩を組む。
虎臥に肩を組まれ、新之助は手を打って囃し立てる。そして何も言えずに黙っている自分。似たようなことが昔もあったなと、俯瞰して見る自分たちの姿に、幼い頃の記憶を重なった。
良い思い出とは言い難いが、懐かしさの気持ちが勝ったのか、動揺していた気持ちは次第に穏かになっていった。
(思い出に良いも悪いもないか)
「もうよいだろう、この話は。そっ、それより、新之助の話だ。主人の使いで来たようだが、いったい何用か?」
話術もなにも関係ない。牛太は強引に話を切って話題を新之助に戻した。
幸い自分語りが好きな新之助は、己に話題が移ると、いまの今までふたりのことを揶揄っていたのはまるで前座だといわんばかりに、嬉々として自分がここにいる理由を話し始めた。
「そうだそうだ、その話だ。次郎、前に京で会ったろう? 茶を取引した時だ」
「ああ、会ったな」
「あの時お前たちは塩を売りにきていた。そうだよな?」
京――、茶――、塩――。
記憶を蘇らせる単語が、牛太のあたまから半年前の記憶を呼び起こす。
そう、京で塩の値が大きく上がっていたときだ。
「そうだな。京で塩相場が上がっていたんだ」
一月も続かなかったと思うが、若狭と京の往復をしているうちに、あっという間に夏が来たような感じだった。長雨で動けないでいる間に相場も湿ってしまったのか、一気に値は落ち着いてしまったが、それでもあれはよい稼ぎになった。
「まさにその件さぁ」
と言って、新之助は箸で椀の縁を打って小気味いい音をたててから話を継いだ。
「塩の値が急に上がったもんで、それに伴って色んなもんの値が上がってな。まぁ概ね塩を使ったもんで、つまりは人の口に入るもんだ」
材料の仕入れ値が上がったのであれば、それを加味して売値を付けなければ、利益が無くなってしまう。やむを得ないことだろう。という意味で牛太が頷くと、新之助はまた箸で椀を打った。
「その通りだ。少し考えれば分かることだ。ところが今のご時世、それが分かったところで、それなら仕方がない、とはならねぇ」
「どういうことだ?」
「理由を知ったところで、自分が不利益を被るとなれば黙っていない。自分に非が無いのに被害を被った。これはけしからんっ! となって訴え出る。訴えを起こす時は数が多い方が強い。塩っけのないもんなんて食っても美味くねぇ。だから口に入れるもんをみーんな、いい塩梅にするわけだ。京中の口が一斉に不平を訴え出したら、幕府も手に負えねぇってわけさ」
食い物の恨みは怖いということか。
「食事処の客が騒ぎ立てたのが発端だが、当然、主人も反論して、被害を被ったのは自分たちも同じで、塩の売値が高いのが悪いってことになった。そんで塩を商う者らに矛先が移ったものの、奴らは奴らで、和市は売り手側と買い手側の合意であって、自分らが値を吊り上げたわけではないと主張した。そんでもって、相場の乱れは幕府の怠慢に因るものであって、責任も幕府にある、と最終的に矛先は幕府に向かったわけだ」
牛太にとっては、商う側の言い分もわからなくはない。
相場がその値で折り合ったというなら、それは双方納得のうえであって、どちらに非があるという話ではない。
「それは幕府も災難じゃったの」
と、興味なさげに虎臥が言った。
「気持ちはわかるが、それで誰を訴えるのだ?」
鎌倉時代の法律といえば御成敗式目。
鎌倉幕府成立以前にあった律令が貴族の法律であったのに対して、武士が治める世になってつくられた御成敗式目は、武士と庶民の生活に主眼をおいてつくられた法律だった。
なんでもかんでも訴えることができるというわけでもなさそうで、全部で51箇条ある内容をみると、領地の権利関係が多い印象で、そこから当時の時代背景が透けて見える。
「庶民が幕府を訴えちゃならねぇって法はねぇさ」
「なんの咎で訴える?」
「まあ実際のとこ、このことで誰かが六波羅に訴えでるってことはねぇだろうがな。とはいえ、庶民に不満の種をばら撒いたまま放置したとなりゃあ、幕府の信用にかかわる」
武士とはいえ、弓と刀だけで国を治めているわけではないようだ。弓を置き、政で世を治めようとすると、そんな些細なことにまで気にかけるのかと、牛太は感心した。
「案外、誠実な連中じゃの」
と、虎臥が言ったが、牛太も同感だった。
「誠実かどうかは何とも言えねぇが、この件に関して不可解な点が多いのは確かだ。幕府の人間も俺らと同じで口がある。その点に於いては被害者側の人間と言えなくもねぇ。この件を放置することが得策ではないと判断すれば、奴らの動きはことのほか早い」
それでその原因を探りに出されたということかと、牛太は得心した。
「知っての通り、うちの主人は六波羅奉行人のひとりで、とうぜん幕府方の人間だ。おいそれと幕府に非あり、とは言えねぇ。望んでいる結末は、非は他にあって、それを幕府が暴いて裁きを下す。そういう筋書きだ」
(結果ありきというわけか)
「事態を放置すれば信用にかかわるが、幕府に非があるとなれば今度は威信にかかわる。幕府としては西国での影響力を増していきたいと考えているが、東国のやり方では上手くいかないことを理解してる。そして民の心を掌握することが肝要であるということも理解してる。京で起こった騒動に幕府が公平をもって対処し、そのうえで見事な裁きをしてみせれば、西国の民の心は幕府方になびく。とまぁ、そんな筋書きを思い描いているんだろうさ」
これがことの顛末。話の終わりを意味するのか、新之助は箸で椀を軽快に打って話をとじた。
「よく考えたものだ」
「それほどのことかの? 要は民衆のご機嫌取りじゃろ?」
「ご機嫌取りで戦わずして利を得られるなら、それ以上のことはないさ」
悪しき状況をむしろ好機と捉えて逆に利用する。それで世が平らかになるのだから、誰も困ることはない。
二度の蒙古襲来はあったが、国内に目を向ければ、目立って大きな戦は数十年起きていない。その間、国中に銭が行き渡るようになって経済は発展した。庶民の暮らしぶりもだいぶ豊かになった。戦に勝って豊かになるのは一部の勝者だけで、その他の者は皆一様に貧しくなる。
(争わぬ方が利が大きいことに気が付いたのだろう)
「そういうことだ。まさに孫子の兵法」
と、あたかも新之助が発案であるかの如く言った。
「ハッ、まさか新之助の口から孫子が飛び出すとは、思いもよらんかったの。さっきは全く成長しておらんと言ったが、少しは成長しておるようじゃの」
と、調子よく話している新之助に、虎臥が咬みつく。
「やっと気付いたか。お虎の目が節穴ではないようで安心したぞ」
と言って、新之助もすかさず応戦する。
互いに張り付けた笑顔で話しているが、穏かでない空気が滲み出ている。
「どうやら成長したのは口だけのようじゃの。わらわの目が、木の節に見えているようでは大概じゃな」
「お虎があまりにでかいもんでな。木がしゃべったかと思ったら、お虎だったのだ。木と人の見分けもつかないとは、俺の目は、たしかに節穴だな」
「ほほぅ。ならば頬を張られても、それがわらわの腕か、木の枝か分からぬということじゃな? 人間は手加減できるが、木は手加減できぬからの。勢い余って新之助の首が飛んでしまっても、わらわを恨むでないぞ」
(また始まったか)
体格で新之助が虎臥に勝っていたことは一度も無い。よせばいいのに、お調子者で口が達者な新之助が虎臥にちょっかいを出して、返り討ちにあって泣かされている。牛太の記憶する限り、この二人は昔からこんな感じだった。
「よさないか二人とも。昔とは違うのだ」
いまのトラが本気で手を振り下ろしたら、冗談でなく、新之助の首が飛びかねない。
「話を戻すが、塩の件についてだが、あのあと我らも探りを入れてみたが結局なにも掴めなかった。光見様の見立てでは、若狭ではなくどこか他の産地、もしくは京に要因があるのではないかと申しておった」
思い起こせば、虎臥と夫婦になったのが、最初の商いから戻った日の翌日だった。月日が経つのは早いものだ。
「まぁそうだろうな。俺もはじめっから期待はしてなかったさ。ただ手ぶらでは帰れねぇ。さっきチラッと小耳に挟んだ話だと、間もなく西からの大船が入るらしい。なにか話を逸らせる品があれば、そいつを手土産に戻ろうかと思案してたところだ」
要領のよさは相変わらずのようだ。
「ほう、それはよいな。ちょうど我らも絹を求めに来たところだ」
西からの大船であれば良い品があるかもしれない。急ぎの用でもないし、荷が揚がるのを待ってからでも遅くはないだろう。
「そりゃあちょうどいい。そんなら浜の方へ行ってみるか?」
「そうしよう」
「それがよいの。新之助の耳では、風の音を聞き違えただけかもしれぬしの」
「はて? どうしたことか。今日は風も無いのに、随分と木の葉が騒めいているな」
「やめんかっ! 虎臥も嗾けるなっ」
隙あらば始まる揶揄い合戦を宥めつつ、大船の到着を確かめに浜へと向かった。
※※※
「まだ着いてはおらぬようじゃの」
浜には漁を終えて陸に揚げられた舟と、荷を運ぶ舟が行き交う景色が見えるだけで、沖の方まで目をやっても、大船の姿は確認できない。虎臥の目でも見つからないのだから、ちょっと待っていれば着く、という距離にはいないだろう。
「海のことは分からねぇが、今日の到着は無さそうだな」
手で筒を作って沖を覗いていた新之助も、見つけられなかったようだ。
「この様子だと明日かもしれないな」
何か言いたげな虎臥を目で牽制し、市庭に戻ろうとしたところで、声がかかった。
――お虎様じゃねぇですかっ!
声がした方に向き直ると、見覚えのある男が両手をいっぱいにこちらに向かって手を振っている。誰だったかと記憶を辿っていたが、一緒にいる市女笠に赤の衣を纏った女に気付いた瞬間、牛太の脳裏に記憶が蘇り。思わず「あっ」と声を発した。
「知り合いか?」
と、牛太が思い出したことを察した新之助が問う。
「ああ、多烏浦の者だ。トラも覚えているだろう? 多烏に向かう途中の山で会った男だ。隣の市女笠、あれは刀祢の娘ではないか?」
市女笠で顔は見えないが、無邪気に手を振る男とは対照的に、何事にも動ぜんとする佇まい。纏う衣の赤も鮮明に記憶に残っている。刀祢の娘でまず間違いない。
「あの山中で襲い掛かってきた男か。よく覚えておったの」
あの男の腕を捻り上げていた当事者である虎臥だが、言われて漸く思い出したという風だ。かく言う牛太も、名前までは思い出せない。
「襲い掛かってきたって割には、随分とにこやかじゃねぇか」
新之助の疑問はもっともだが、それだけの関係ではない。
「まぁそのあと色々あってな。行ってみよう」
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