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一.勃興
浦事情 ― 前編 ―
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「さあさ、アンタらのお陰で持って帰れた戦利品だ。遠慮せずやってくれ」
今晩の寝床として刀祢に用意してもらった家は、思いがけず賑やかになった。
多烏の者たちと共に車座になって座る牛太と虎臥の前には、何人前か分からないほどの夕餉が並べられていた。捌かれたばかりの大魚は器からはみ出している。
「いやぁー、あん時はもう、俺ぁ駄目かと思ったて覚悟したぜ」
さきほど虎臥の放った矢で、九死に一生を得た男が、盃の白酒をあおりながら言う。
男は宴の前の口上で、弥太郎大夫と名乗り、若狭一の船頭だと言い切った。
この頃この地域では、沿岸内陸を問わず、”大夫”や”権守”といった官職名を仮名とする文化ができていたようで、検注帳などに記載されている主だった百姓の多くは、こうした仮名で記載されている。常時に於いても、もっぱら仮名を名乗っていたと思われる。この時代の成人男性はみな烏帽子を被っている。かならず烏帽子親という人があって、儀式によって成人が認められる。人に成る。
検注帳に記載されている百姓の多くに仮名がみられるのは、成人した者のうち、賦課の対象となる者、すなわち納税の義務を負うようになった者が、”大夫成”などの儀式によって、仮名を名乗るようになったのではないかと思う。どこかの村でそうした風習が興り、それが周辺の村に伝播していったのではないだろうか。
「兄貴、命拾いしたッスね」
「拾ったんじゃねぇ! 救ってもらったんだっ!」
弥太郎が、となりに座る男を怒鳴りつける。
「弥太郎、よさないか。ケン次郎はお前の身を案じておるのだ」
「そんなこたぁ姫様に言われなくても分かってますって。こいつは俺にどやされてねぇと寂しがるんで、仕方なくこうしてるんでさぁ」
弥太郎大夫のことを兄貴と呼ぶのは、多烏に向かう途中、山中で虎臥に腕を捻り上げられていた男で、ケン次郎大夫と名乗った。血の繋がりがあるのかどうかまでは分からないが、さきほどからのやり取りを見ていると、弥太郎とは兄弟の間柄であるらしかった。
そして姫様と呼ばれている刀祢の娘は、鶴姫と言った。歳はこの二人より明らかに下だろうが、躾の賜物か、あるいは血筋がそうさせるのか、その振舞いは二人の歳を足したよりもよほど齢を重ねているように落ち着いていた。
あくの強すぎる父親の特徴を柔らかくしたような面立ちは美しく、凛とした姿には威厳があり、虎臥の母、福子を連想させた。
「アンタの弓の腕前は大したもんだ。是非、名前だけでもお聞かせ願いたいっ!」
「俺からもお願いしますっ!」
すでに酔っているのか、もともとこうなのか。騒がしいこの兄弟は揃って虎臥に向かい頭を下げた。
「二人とも、無礼であろう」
鶴姫が窘めるが、弥太郎とケン次郎は、頭を下げたまま動かない。
虎臥に目をやると、仕方ないという顔をしたので、牛太は割って入ることにした。
「挨拶が遅れて申し訳ありません。我らは瓜生荘の百姓で、私は次郎太夫、こっちは高倉名名主の娘で私の妻です。本荘へ向かうことがあるでしょうが、『瓜生の虎』と言えば、耳にしたこともあるかもしれません」
鶴姫とケン次郎には、山中で遭遇した際に素性は伝えていたが、夫婦であることまでは伝えていなかった。目の前で頭を下げている二人の興味は虎臥ただ一人だろうが、なにか一言付け加えておかなければ、名主の娘に伴ってきた下男にされてしまいそうだった。
虎臥に嫉妬しているわけではないが、保身の気持ちから口を衝いた一言は、まだ慣れないせいか気恥ずかしい。
「瓜生の虎……。聞いたことあるぞ。アンタがそうかっ!」
と、顔を上げた弥太郎が、もともと大きな目をさらに見開いて、大声で言った。
「名乗ったことは無いがの。皆はそう呼んでおるようじゃの」
虎臥の言うように、誰が言い出したのかは分からないが、本人のあずかり知らないところで勝手に有名になっているようではあった。ときには天狗と混同しているのではないかと思うような滑稽な話も耳にしていたので、果たしてこの二人も、どういう話を伝え聞いていることやら、と牛太は思った。
「いやいや、これはたまげた。それなら納得だ!」
弥太郎はそう言って、となりに座るケン次郎の背をバンバンと叩いた。
背を叩かれているケン次郎は、それを気にする風もなく、
「なんだよー、それならそうと先に言ってくれよぉ。おかしいと思ったんスよ。腕を取ったと思ったら、次の瞬間ふっと浮いて、腕を捻り上げられてやした。あんな術は常人にはとても真似できねぇッスよ」
と言いながら、器用に自分の右手を左手で捻ってみせた。
「それはおめぇがどんくせぇからだろうがっ」
「そんなことねぇッスよ。ほんと、ふっとですよ。ふわっ、かな?」
そう言いながらケン次郎は、掴んだ自分の腕を右に捻ったり左に捻ったりしている。
「どっちでもいいやそんなもんっ!」
弥太郎がまたケン次郎を怒鳴りつけると、そのまま先ほどの船上での出来事を語りはじめた。
「こっちはそんなもんじゃねぇぞ。あれはもう、那須与一だぜ。俺が振り向いたらもう、奴は櫂を振り上げてこっちを睨みつけてるわけよ。あぁ、こりゃやべぇなって思ったさ。そこへ飛んできた矢がよ、そいつが振り上げた櫂のヘラのど真ん中にカーンッと、突き刺さってな。そいつは勢いで後ろに吹っ飛んで尻もちついてよ、あれは完全に腰抜かしてたぜ。何が起きたか分からねぇって面してやがった」
兄貴分の弥太郎も身振り手振りで臨場感たっぷりに語る。手のひらに拳を打って、矢がヘラを捉えた瞬間を再現した場面は、自分もまさに船上に在って、その瞬間を間近で見ていたように錯覚するようだった。
「俺ぁ今日、この時まで、那須与一の話は眉唾だと思ってたが、どうやらそれは間違いだったようだ。なんたって、この目で見ちまったからよっ」
伝え聞く話が真実そのままでないことは言うまでもない。那須与一も誇張だろうと思っていたが、目の前でよく知った者がそれを成し遂げる様を見てしまうと、誇張ではなかったのかもしれないと思えてしまう。そうでないとすれば、虎臥が、那須与一を越える弓の名人ということになるだろうか。
当の本人も、那須与一を引き合いに出されて、満更でもない顔をしている。
「弓の扱いが下手では、野山で生きていくのに難儀する。そなたらが船の扱いに長けているのと同じじゃ」
「ほれっケン次、聞いたか? おめぇも難儀だなぁ」
虎臥の言葉に、弥太郎がケン次郎の首に手を回すと、ケン次郎はばつが悪そうにしている。
「こいつは船の扱いが下手なうえに泳げねぇときてる。浦で生まれ育ってどういうわけだかさっぱり分からねぇ」
と、ケン次郎を揶揄った。
「俺は陸にいる方が性に合ってるんスよ。山ん中を歩き回ってるだけで、気持ちが楽になるっていうか」
プイッと横を向いて、不貞腐れた口ぶりでケン次郎は言った。
叩かれても怒鳴られても動じないが、これについては言われるのが嫌なのだろう。
「わらわも同じじゃ。山は生きる糧じゃが、それだけではない。山を流れる風は心を癒す。それに――」
そこで虎臥は言葉を切ると、ちょうど弥太郎がケン次郎にしているのと同じように、牛太の首に手を回してのしかかった。
「こいつも弓は覚束ぬ。それでも弁が立つ。頭も回る。商いが上手いから難儀も無い。得意があれば何とかなるじゃろう」
迷惑な話題になったもんだと牛太は思ったが、ケン次郎を慰めるための虎臥なりの気遣いなのだろうと思い、「そうだな」と答えるだけにして、それ以上は語らなかった。
「我もそう思う。浦の生活は海だけでは成り立たない。山を守る者は必要だ」
褒められたような貶されたような虎臥の言葉を、鶴姫は誉め言葉として同調し、ケン次郎を称えた。言われたケン次郎の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
そういえばここへ来る途中の山で、我らの山だと言っていたが、浦人も山を養うのだろうか?
「浦人も、山で獣を獲ったりするのですか?」
と、牛太は鶴姫に聞いてみた。
「獲ることもあるが稀です。我らの目的は塩木ですから」
鶴姫は、必要な情報を最低限の言葉で答えた。
「塩木……。それはつまり、塩を焚く時の薪のことでしょうか?」
そういえば、浜に煙が立っていたなと、牛太は思い出した。
「如何にも。製塩には塩竃を焚くための木が大量に必要となります。そのせいもあって、塩木山を巡る諍いが絶えないでいる」
海と浜があれば塩は作れるものと思っていたが、なるほどたしかに、塩を焚くための薪も必要だ。鶴姫が山守りのケン次郎を褒めたのも、単に情けをかけたわけではないということだ。
「さっき追われておったのも、それが理由かの?」
「さて、それは……。弥太郎、此度は?」
虎臥の問いを受け、鶴姫は当事者である弥太郎に問うた。
今日追われていた理由はなにか、という意味だろう。諍いが絶えないというのだから、その理由も色々あるのだろう。
「おうそうだ、忘れてたぜっ」
と言って弥太郎は、拳で床を打った。
「急いで刀祢に伝えてくれ。汲部の野郎ども、須那浦の網地に勝手に網を立てやがった。しかもうちが立てた網の網口にだっ!」
その時のことを思い出したのか、話している弥太郎の目は怒りを湛え、もとより荒い物言いをさらに強めていた。
「それはまことですか!」
鶴姫にとっても予期していない事柄だったのだろう。強めた語気に、ここへきて初めて、鶴姫から動揺を感じた。
「おうよっ。だからよ、隙を見て奴らの網を断ち切ってやったんだ。そのあと網に入った魚を捕るのにもたついちまってよ。それが無かったら、あんな野郎に追っつかれるわけねぇんだっ!」
(戦利品と言っていたのはそういうわけか)
「奴らが網を立ててなきゃ、多烏の網に入ってたはずの魚だ。当然じゃねぇか」
勝手に立てたと言っているのは、おそらく縄張りがあるのだろう。
だとすれば、弥太郎の言い分もわからないではない。
「それはまぁよいが、問題は網の方だ。網を断ち切ったとなれば、向こうも簡単には引き下がらないでしょう。これは尾を引くかもしれませんね……」
鶴姫の立場を思えば、表情を曇らせるのも仕方がないように思えた。しかしその反応が、弥太郎は苛立たせた。
「おいおい、それじゃあなんだぁ? 姫様は俺がわりぃって言うですかい? 多烏の網地に勝手に網立てられて、しかも真ん前に立てられて、それを黙って見過ごせって言うんですかいっ!」
「姫様そりゃあおかしいッスよ。兄貴は多烏のためにやったんだ。その場にいたら俺だって同じことするッスよ。汲部の奴ら許せねぇ!」
食ってかかる弥太郎とそれを擁護する弟分。聞いている話からは汲部のやり口があからさまで、弥太郎の言い分もわからなくはない。浦の一員として、成すべきことを成したのだ。ただそれ故に、刀祢の娘である鶴姫の胸中は穏やかでないだろう。
ほんの少し前まで賑やかだった夕餉の席は、不穏な空気で満たされてしまった。
「我らは外した方がよいかの?」
虎臥が言うと、鶴姫は一瞥してから、小さく首を横に振った。
「すまなかった。客人の前でこのような話を」
「客人などとんでもない。我らの勝手で来て寝床を用意して頂いただけでなく、このように豪勢な夕餉まで用意してもらって、感謝しかありません」
牛太は言って頭を下げた。いつの間にか客人となっているが、勝手に訪れた我らに、寝床を与えられただけでも有難いのだ。
「ここまで足を運んでもらい、もてなさないわけにはゆきません。それに今は我らの恩人でもありますから」
多烏を訪れることになったのも、恩人になったのも、すべては虎臥が動いた結果の成り行きだった。その張本人が、さらに込み入った浦の事情に首を突っ込もうとしていた。
「この辺りのことを何も知らずに来てしまったのでの。障りがなければ、今ここらで何が起きているのか聞かせてもらえぬじゃろうか?」
なにやら虎臥がこちらに目配せしたように見えたが、牛太にはその意図は分からなかった。
「安請け合いはできませんが、力になれることがあるかもしれません」
力になれることがあるとは思えないが、虎臥がああして訊いてしまった以上、こっちも話を合わせるしかない。安請け合いはできませんが、と前置きしたのは、牛太の商人としての本能からだった。
商いの話であれば積極的に首を突っ込みたいところだが、諍いに自ずから関わりたいと思うはずがない。乗りかかった船ではあるが、下りる機会があるなら早々に下船したいのが本音だったが、無下にもできない。
「そりゃあいいっ。多烏は数で劣るが、アンタらの助けがあれば百人力だぜっ」
「そうッスねっ! 二度と悪さできねぇようにとっちめてやりましょう!」
鼻息の荒い二人をよそに、平常心を取り戻した鶴姫はとうぜん二人に同調するような素振りはみせない。僅かに逡巡した後、元の冷静で威厳ある口調で、
「我らのことでそなたらに危害が及ぶようなことがあってはなりません。浦のことは、浦で解決するべきと考えます。ただし、手出しせぬと言うことであれば事情を話してもよいと思いますが、それでよいでしょうか?」
よそ者の身を案じ、よそ者を内輪の諍いに巻き込む気はないと宣言したうえで、知りたいのであれば事情は聴かせるというのである。それは暗に、そのうえで我らがことをおこすというのであれば、それはあずかり知らぬことであり、なにかあっても責任の外である。と、いうことだろう。
(刀祢の娘として、極めて冷静な判断だな)
そうした真意を勘ぐることもなく、虎臥は、
「その土地の事情も知らずに商いはできんじゃろう。のっ?」
と言って、牛太に同意をもとめた。
「差し支えない範囲で教えて頂ければ、こちらも助かります」
牛太はまた、差し支えない範囲でと、深入りしたくない心を前置きしてから答え、目礼すると、鶴姫も頷いた。
打ってでる気でいた弥太郎とケン次郎は納得しない様子だったが、そこはこっちも譲れない。
今晩の寝床として刀祢に用意してもらった家は、思いがけず賑やかになった。
多烏の者たちと共に車座になって座る牛太と虎臥の前には、何人前か分からないほどの夕餉が並べられていた。捌かれたばかりの大魚は器からはみ出している。
「いやぁー、あん時はもう、俺ぁ駄目かと思ったて覚悟したぜ」
さきほど虎臥の放った矢で、九死に一生を得た男が、盃の白酒をあおりながら言う。
男は宴の前の口上で、弥太郎大夫と名乗り、若狭一の船頭だと言い切った。
この頃この地域では、沿岸内陸を問わず、”大夫”や”権守”といった官職名を仮名とする文化ができていたようで、検注帳などに記載されている主だった百姓の多くは、こうした仮名で記載されている。常時に於いても、もっぱら仮名を名乗っていたと思われる。この時代の成人男性はみな烏帽子を被っている。かならず烏帽子親という人があって、儀式によって成人が認められる。人に成る。
検注帳に記載されている百姓の多くに仮名がみられるのは、成人した者のうち、賦課の対象となる者、すなわち納税の義務を負うようになった者が、”大夫成”などの儀式によって、仮名を名乗るようになったのではないかと思う。どこかの村でそうした風習が興り、それが周辺の村に伝播していったのではないだろうか。
「兄貴、命拾いしたッスね」
「拾ったんじゃねぇ! 救ってもらったんだっ!」
弥太郎が、となりに座る男を怒鳴りつける。
「弥太郎、よさないか。ケン次郎はお前の身を案じておるのだ」
「そんなこたぁ姫様に言われなくても分かってますって。こいつは俺にどやされてねぇと寂しがるんで、仕方なくこうしてるんでさぁ」
弥太郎大夫のことを兄貴と呼ぶのは、多烏に向かう途中、山中で虎臥に腕を捻り上げられていた男で、ケン次郎大夫と名乗った。血の繋がりがあるのかどうかまでは分からないが、さきほどからのやり取りを見ていると、弥太郎とは兄弟の間柄であるらしかった。
そして姫様と呼ばれている刀祢の娘は、鶴姫と言った。歳はこの二人より明らかに下だろうが、躾の賜物か、あるいは血筋がそうさせるのか、その振舞いは二人の歳を足したよりもよほど齢を重ねているように落ち着いていた。
あくの強すぎる父親の特徴を柔らかくしたような面立ちは美しく、凛とした姿には威厳があり、虎臥の母、福子を連想させた。
「アンタの弓の腕前は大したもんだ。是非、名前だけでもお聞かせ願いたいっ!」
「俺からもお願いしますっ!」
すでに酔っているのか、もともとこうなのか。騒がしいこの兄弟は揃って虎臥に向かい頭を下げた。
「二人とも、無礼であろう」
鶴姫が窘めるが、弥太郎とケン次郎は、頭を下げたまま動かない。
虎臥に目をやると、仕方ないという顔をしたので、牛太は割って入ることにした。
「挨拶が遅れて申し訳ありません。我らは瓜生荘の百姓で、私は次郎太夫、こっちは高倉名名主の娘で私の妻です。本荘へ向かうことがあるでしょうが、『瓜生の虎』と言えば、耳にしたこともあるかもしれません」
鶴姫とケン次郎には、山中で遭遇した際に素性は伝えていたが、夫婦であることまでは伝えていなかった。目の前で頭を下げている二人の興味は虎臥ただ一人だろうが、なにか一言付け加えておかなければ、名主の娘に伴ってきた下男にされてしまいそうだった。
虎臥に嫉妬しているわけではないが、保身の気持ちから口を衝いた一言は、まだ慣れないせいか気恥ずかしい。
「瓜生の虎……。聞いたことあるぞ。アンタがそうかっ!」
と、顔を上げた弥太郎が、もともと大きな目をさらに見開いて、大声で言った。
「名乗ったことは無いがの。皆はそう呼んでおるようじゃの」
虎臥の言うように、誰が言い出したのかは分からないが、本人のあずかり知らないところで勝手に有名になっているようではあった。ときには天狗と混同しているのではないかと思うような滑稽な話も耳にしていたので、果たしてこの二人も、どういう話を伝え聞いていることやら、と牛太は思った。
「いやいや、これはたまげた。それなら納得だ!」
弥太郎はそう言って、となりに座るケン次郎の背をバンバンと叩いた。
背を叩かれているケン次郎は、それを気にする風もなく、
「なんだよー、それならそうと先に言ってくれよぉ。おかしいと思ったんスよ。腕を取ったと思ったら、次の瞬間ふっと浮いて、腕を捻り上げられてやした。あんな術は常人にはとても真似できねぇッスよ」
と言いながら、器用に自分の右手を左手で捻ってみせた。
「それはおめぇがどんくせぇからだろうがっ」
「そんなことねぇッスよ。ほんと、ふっとですよ。ふわっ、かな?」
そう言いながらケン次郎は、掴んだ自分の腕を右に捻ったり左に捻ったりしている。
「どっちでもいいやそんなもんっ!」
弥太郎がまたケン次郎を怒鳴りつけると、そのまま先ほどの船上での出来事を語りはじめた。
「こっちはそんなもんじゃねぇぞ。あれはもう、那須与一だぜ。俺が振り向いたらもう、奴は櫂を振り上げてこっちを睨みつけてるわけよ。あぁ、こりゃやべぇなって思ったさ。そこへ飛んできた矢がよ、そいつが振り上げた櫂のヘラのど真ん中にカーンッと、突き刺さってな。そいつは勢いで後ろに吹っ飛んで尻もちついてよ、あれは完全に腰抜かしてたぜ。何が起きたか分からねぇって面してやがった」
兄貴分の弥太郎も身振り手振りで臨場感たっぷりに語る。手のひらに拳を打って、矢がヘラを捉えた瞬間を再現した場面は、自分もまさに船上に在って、その瞬間を間近で見ていたように錯覚するようだった。
「俺ぁ今日、この時まで、那須与一の話は眉唾だと思ってたが、どうやらそれは間違いだったようだ。なんたって、この目で見ちまったからよっ」
伝え聞く話が真実そのままでないことは言うまでもない。那須与一も誇張だろうと思っていたが、目の前でよく知った者がそれを成し遂げる様を見てしまうと、誇張ではなかったのかもしれないと思えてしまう。そうでないとすれば、虎臥が、那須与一を越える弓の名人ということになるだろうか。
当の本人も、那須与一を引き合いに出されて、満更でもない顔をしている。
「弓の扱いが下手では、野山で生きていくのに難儀する。そなたらが船の扱いに長けているのと同じじゃ」
「ほれっケン次、聞いたか? おめぇも難儀だなぁ」
虎臥の言葉に、弥太郎がケン次郎の首に手を回すと、ケン次郎はばつが悪そうにしている。
「こいつは船の扱いが下手なうえに泳げねぇときてる。浦で生まれ育ってどういうわけだかさっぱり分からねぇ」
と、ケン次郎を揶揄った。
「俺は陸にいる方が性に合ってるんスよ。山ん中を歩き回ってるだけで、気持ちが楽になるっていうか」
プイッと横を向いて、不貞腐れた口ぶりでケン次郎は言った。
叩かれても怒鳴られても動じないが、これについては言われるのが嫌なのだろう。
「わらわも同じじゃ。山は生きる糧じゃが、それだけではない。山を流れる風は心を癒す。それに――」
そこで虎臥は言葉を切ると、ちょうど弥太郎がケン次郎にしているのと同じように、牛太の首に手を回してのしかかった。
「こいつも弓は覚束ぬ。それでも弁が立つ。頭も回る。商いが上手いから難儀も無い。得意があれば何とかなるじゃろう」
迷惑な話題になったもんだと牛太は思ったが、ケン次郎を慰めるための虎臥なりの気遣いなのだろうと思い、「そうだな」と答えるだけにして、それ以上は語らなかった。
「我もそう思う。浦の生活は海だけでは成り立たない。山を守る者は必要だ」
褒められたような貶されたような虎臥の言葉を、鶴姫は誉め言葉として同調し、ケン次郎を称えた。言われたケン次郎の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
そういえばここへ来る途中の山で、我らの山だと言っていたが、浦人も山を養うのだろうか?
「浦人も、山で獣を獲ったりするのですか?」
と、牛太は鶴姫に聞いてみた。
「獲ることもあるが稀です。我らの目的は塩木ですから」
鶴姫は、必要な情報を最低限の言葉で答えた。
「塩木……。それはつまり、塩を焚く時の薪のことでしょうか?」
そういえば、浜に煙が立っていたなと、牛太は思い出した。
「如何にも。製塩には塩竃を焚くための木が大量に必要となります。そのせいもあって、塩木山を巡る諍いが絶えないでいる」
海と浜があれば塩は作れるものと思っていたが、なるほどたしかに、塩を焚くための薪も必要だ。鶴姫が山守りのケン次郎を褒めたのも、単に情けをかけたわけではないということだ。
「さっき追われておったのも、それが理由かの?」
「さて、それは……。弥太郎、此度は?」
虎臥の問いを受け、鶴姫は当事者である弥太郎に問うた。
今日追われていた理由はなにか、という意味だろう。諍いが絶えないというのだから、その理由も色々あるのだろう。
「おうそうだ、忘れてたぜっ」
と言って弥太郎は、拳で床を打った。
「急いで刀祢に伝えてくれ。汲部の野郎ども、須那浦の網地に勝手に網を立てやがった。しかもうちが立てた網の網口にだっ!」
その時のことを思い出したのか、話している弥太郎の目は怒りを湛え、もとより荒い物言いをさらに強めていた。
「それはまことですか!」
鶴姫にとっても予期していない事柄だったのだろう。強めた語気に、ここへきて初めて、鶴姫から動揺を感じた。
「おうよっ。だからよ、隙を見て奴らの網を断ち切ってやったんだ。そのあと網に入った魚を捕るのにもたついちまってよ。それが無かったら、あんな野郎に追っつかれるわけねぇんだっ!」
(戦利品と言っていたのはそういうわけか)
「奴らが網を立ててなきゃ、多烏の網に入ってたはずの魚だ。当然じゃねぇか」
勝手に立てたと言っているのは、おそらく縄張りがあるのだろう。
だとすれば、弥太郎の言い分もわからないではない。
「それはまぁよいが、問題は網の方だ。網を断ち切ったとなれば、向こうも簡単には引き下がらないでしょう。これは尾を引くかもしれませんね……」
鶴姫の立場を思えば、表情を曇らせるのも仕方がないように思えた。しかしその反応が、弥太郎は苛立たせた。
「おいおい、それじゃあなんだぁ? 姫様は俺がわりぃって言うですかい? 多烏の網地に勝手に網立てられて、しかも真ん前に立てられて、それを黙って見過ごせって言うんですかいっ!」
「姫様そりゃあおかしいッスよ。兄貴は多烏のためにやったんだ。その場にいたら俺だって同じことするッスよ。汲部の奴ら許せねぇ!」
食ってかかる弥太郎とそれを擁護する弟分。聞いている話からは汲部のやり口があからさまで、弥太郎の言い分もわからなくはない。浦の一員として、成すべきことを成したのだ。ただそれ故に、刀祢の娘である鶴姫の胸中は穏やかでないだろう。
ほんの少し前まで賑やかだった夕餉の席は、不穏な空気で満たされてしまった。
「我らは外した方がよいかの?」
虎臥が言うと、鶴姫は一瞥してから、小さく首を横に振った。
「すまなかった。客人の前でこのような話を」
「客人などとんでもない。我らの勝手で来て寝床を用意して頂いただけでなく、このように豪勢な夕餉まで用意してもらって、感謝しかありません」
牛太は言って頭を下げた。いつの間にか客人となっているが、勝手に訪れた我らに、寝床を与えられただけでも有難いのだ。
「ここまで足を運んでもらい、もてなさないわけにはゆきません。それに今は我らの恩人でもありますから」
多烏を訪れることになったのも、恩人になったのも、すべては虎臥が動いた結果の成り行きだった。その張本人が、さらに込み入った浦の事情に首を突っ込もうとしていた。
「この辺りのことを何も知らずに来てしまったのでの。障りがなければ、今ここらで何が起きているのか聞かせてもらえぬじゃろうか?」
なにやら虎臥がこちらに目配せしたように見えたが、牛太にはその意図は分からなかった。
「安請け合いはできませんが、力になれることがあるかもしれません」
力になれることがあるとは思えないが、虎臥がああして訊いてしまった以上、こっちも話を合わせるしかない。安請け合いはできませんが、と前置きしたのは、牛太の商人としての本能からだった。
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「そりゃあいいっ。多烏は数で劣るが、アンタらの助けがあれば百人力だぜっ」
「そうッスねっ! 二度と悪さできねぇようにとっちめてやりましょう!」
鼻息の荒い二人をよそに、平常心を取り戻した鶴姫はとうぜん二人に同調するような素振りはみせない。僅かに逡巡した後、元の冷静で威厳ある口調で、
「我らのことでそなたらに危害が及ぶようなことがあってはなりません。浦のことは、浦で解決するべきと考えます。ただし、手出しせぬと言うことであれば事情を話してもよいと思いますが、それでよいでしょうか?」
よそ者の身を案じ、よそ者を内輪の諍いに巻き込む気はないと宣言したうえで、知りたいのであれば事情は聴かせるというのである。それは暗に、そのうえで我らがことをおこすというのであれば、それはあずかり知らぬことであり、なにかあっても責任の外である。と、いうことだろう。
(刀祢の娘として、極めて冷静な判断だな)
そうした真意を勘ぐることもなく、虎臥は、
「その土地の事情も知らずに商いはできんじゃろう。のっ?」
と言って、牛太に同意をもとめた。
「差し支えない範囲で教えて頂ければ、こちらも助かります」
牛太はまた、差し支えない範囲でと、深入りしたくない心を前置きしてから答え、目礼すると、鶴姫も頷いた。
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村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。
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百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
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