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一.勃興
救いの矢 ― 中編 ―
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牛太と虎臥は、西津荘から東の山向こうに位置する浦を目指して、山中を歩いていた。まだ日は高いはずだが、木々に覆われた山中は薄暗かった。
西津は、現在も福井県小浜市の中心部にその地名を残している。
地図で小浜湾を見ると、カニの姿に似ている。右の鋏脚が内外海半島で、左の鋏脚が大島半島だ。この東西二本のおおきな鋏脚で、若狭湾から切り取った内海が小浜湾である。西津は小浜湾の東端に位置し、ちょうど右の鋏脚の付け根あたりにある。
内外海半島を境に、東隣には矢代湾があって、国道162号線の阿納トンネルを抜ければ、車なら10分もあれば行き来できる距離だが、いまのようにアクセスがよくなったのは平成も折り返しに入ってからのことで、現在においても唯一の道が、わりと最近まで、通行が困難な道であったようだ。つまりそれは、わりと最近まで、陸の孤島であったということで、鎌倉時代にまったく道がなかったとは思わないが、基本的には、船でしか行き来できない場所だっただろう。
西津から矢代湾側へと抜けようとしている二人は、そういう山中を歩いていた。
「あとどれくらいになる? 俺にはどこを歩いているのかさっぱりだ」
尾根伝いにまっすぐ多烏を目指した方が早いと虎臥が自信たっぷりに言うので、あまり深く考えずについてきてしまったが、牛太はいまはそのことを後悔しながら、虎臥の背を追って斜面を踏みしめていた。
「もう半分は過ぎた」
と、虎臥が言うので、道を知らない牛太は、その言葉を信じるよりほかない。
「尾根を歩いておる。どうじゃ? さっきより歩きやすくなったじゃろ?」
と、聞いてくるが、依然として登ったり下ったりしている。山歩きに少し慣れてきたとは感じるが、歩きやすくなったという実感は、牛太にはなかった。
「トラと違って、普段山歩きをしないもんでな。楽になったとは思わん」
京へ行くにも峠は越えるだろうと虎臥は言ったが、若狭から京へ抜ける峠は整備されている。往来が多いせいもあるだろうが、どれほど酷い道であっても、踏み締められた路盤を見失うようなところはなかった。こんな山賊も途方に暮れるような道なき道を歩くことなどないのだ。
「道ならある。見えぬか?」
「獣とはあまり親しくないもんでな。獣道を道と言われてもピンとこん」
暗に、狩りをしに山へ分け入る虎臥といっしょにするなと揶揄したつもりだったが、虎臥から返ってきた言葉は、牛太の想定していたものではなかった。
「獣ではない。人じゃ」
「ひと?」
立ち止まって辺りを見回してみるが、牛太には獣道らしきものすら見いだせなかった。
「こんなとこまで分け入ってくる人があるとしたら、郷にいれなくなって逃げてきた罪人くらいのもんだろう」
牛太がそう言い放った刹那、虎臥に襟首をつかまれ、強引に抱きとめられた。
と同時に、背後の草叢になにかが落ちる音がした。
「何用じゃ。その程度の木っ端でも、当たりどころが悪ければ怪我では済まぬぞ」
虎臥が何者かにむかって声をあげた。草叢の騒めきは、どうやら何者かが投げてよこした木っ端が落ちる音だったようだ。それよりも問題は、このおよそ人などいるはずのない山中に何者かが存在していること。そして明らかに敵意を持っているということだった。
「トラ、何事だ?」
「わからぬ。じゃが少し前から人の気配がしておった。ひとりではない」
「も、もしや、山賊に囲まれておるのか?」
小声で話していた牛太の声が、動揺でうわずった。
「それもわからぬ。が、殺気は感じぬ」
虎臥のその言葉に、牛太は一瞬だけ安堵したが、
「今のところな」
と、虎臥は口端をあげてみせるものだから、また困惑した。
(余裕をみせていられる状況ではなかろう)
と牛太は思ったが、かと言ってなにか手立てがあるわけでもなく、虎臥の腕に抱かれたまま、状況の変化を待つしかなかった。
そのまま身動きせずにいると、草叢から男がひとり立ち上がり、
「ヤイヤイッ! いつまでそうやってるつもりだっ!」
と、啖呵を切って男が近づいてくる。
潜んでいた草叢はそれほど近くはなかった。
(この距離でよく気配に気が付いたものだ)
と、あらためて虎臥の狩人としての能力の高さに感心した。
「おぬしらがそうやってコソコソ隠れて見ておるからの。辛抱たまらんようになって飛び出してくるまで見せつけてやろうかと思っての」
逆上している男にむかって虎臥は、それをさらに煽るようなものいいをした。
「なんだとっ! 勝手に人の山に踏み入っておいてっ!」
と、とうぜん男の方はさらに怒りをあらわにする。
「それは知らなんだ。とおり抜けるだけじゃ。なにも獲りはせぬ」
「とおり抜けるだぁ? おめぇらどっから来たっ! どこへ行く気だっ!」
「西津から多烏へ向かう途中じゃ」
「はっ! 西津から多烏へ行くのになんでこの山をとおる必要がある?」
男と虎臥の問答のうちに、牛太は、少しだけ緩んだ虎臥の腕のなかから身を抜いて、男の方に向き直った。
このまま虎臥に語らせておけば、逆上した男がなにをしでかすかわからない。自分があいだに入って、事を鎮めなければという思いだったが、それ以上に、密着状態のままいることに気恥ずかしさがあった。
「我らは瓜生の商人だ」
と、牛太はふたりの問答に割って入った。
「瓜生だと?」
男は怪訝な目で牛太を見て、そして虎臥を見た。
「てめぇらまさか、鳥羽の手下じゃねぇだろうな?」
と、男は聞いてきた。
声の調子から、いくぶん興奮がやわらいだのかもしれないと、牛太は感じた。このまま穏便に済ませる方に話をもっていきたいのだが、男の言うところ真意をはかりかねていた。
(鳥羽の手下? 下司の脇袋のことを言っているか?)
牛太は僅かな情報のなかから男の真意を探ろうと、必死に知恵をしぼった。
そもそもこの男はこんな何もない山中でなにをしていたのか。虎臥が道を誤っていなければ、ここから南に下れば鳥羽荘にでるだろう。鳥羽荘となにか因縁があるのだろうか――。
(荘園の諍いに巻き込まれるのは厄介だな)
荘園はその性質によって、自墾地系荘園と寄進地系荘園に分類される。
自墾地系荘園とは、金や労力を自ら調達して開墾したものをいい、初期の荘園がこれに該当する。一方で、寄進地系荘園は10世紀以降の荘園のかたちで、こちらは自墾したものではない。寄進とは”さしあげる”という意味で、誰かが誰かにさしあげた荘園ということになる。
この誰かとは誰か? 簡単にいえば、自分よりも強い権力を持つ者で、自分の土地を守るため、権力者に自らの土地を寄進して名目上の領主になってもらい、近隣との争いで有利に立とうという思惑からだった。さしあげると言っても、中央にいる有力者が実際に現地に訪れて荘園を管理することはなく、荘園の実質的な支配は本来の持ち主が行う。名目上の領主はなにもしなくても収入を得られるのだから、寄進を断る理由もない。こうして時代がすすむにつれて、多くの荘園領主が中央の有力者に代わっていった。このような名目上の領主のことを本所や領家とよび、本来の持ち主である地方豪族を荘官や下司、地主とよんだ。
牛太の村がある瓜生荘の下司、脇袋氏は、鳥羽氏の一族であった。
瓜生荘は、鳥羽国範(西迎)を惣領とする鳥羽一族のなかの庶子の立場にあった脇袋範継が、西迎から賜り、その子、国広がそれを継いでいた。
庶子とは相続で本家から別れた一族のことで、分家と読み替えればすこし理解がいくかもしれない。分家の庶子に対して、本家を惣領という。
このとき鳥羽一族の惣領は鳥羽国親といったが、国親の父、国茂と、国広の父、範継とは犬猿の仲であったようだ。分割相続による土地問題が諍いの根であると考えれば、おそらく子の時代になってもよい関係ではなかったのではないかと想像できる。
男が問うところの真意はわからないが、男の口ぶりから、一百姓として商いの目的で多烏に向かっているのだと了解を得なければならないと、牛太は直感した。
この場を丸くおさめるため、牛太は弁明しようとしたが、虎臥が、
「なにを言っておるのかわからぬな。先を急ぐ」
と言って、男にかまわず歩きだしたので、男はまた沸騰してしまった。
「まだ話は終わってねぇっ!」
自分を無視して歩きだした虎臥を追いかけ、その腕をつかんだ。
咄嗟に割って入ろうとしたが、その間もなく、虎臥は男の手を捻り上げていた。
アタタタタタタッと、男は痛みに悲鳴をあげるばかりで、なにも反撃ができない。男はずんぐりしているが、背丈だけなら牛太とあまりかわらない。虎臥にしてみれば、赤子の手を捻るようなものだろう。
「手荒な真似はしとうない。通るだけじゃ。ほかの隠れている者たちにも伝えてくれろ」
虎臥にとって今の状況は手荒に含まれない認識なのだろう。痛がる男に対して虎臥は、声を荒げるでもなくそう言い放った。
――やめろっ!
どこからか飛んできた鋭い声が、周囲からほかの音を追い出した。
虎臥には声が発せられたところがすぐにわかったのだろう。尾根のさきの方へ顔を向けた。手は男を捻り上げたままだ。
見ると、尾根のさきから、艶やかな赤の狩衣を纏った者がこちらに向かってくる。それを合図としてか、木陰からさらにふたりが姿を現した。
(ほかの隠れている者たちと言っていたのはこの者たちか)
さきほど男が出てきた茂みよりまだ遠い。虎臥の嗅覚はもはや獣なみなのではないかと、牛太は思った。
三人は顔が見えるところまでくると、そこで立ち止まった。
赤の狩衣の者は、端正な顔立ちの女だった。
「その者の手を放せ」
と、女は言った。よくとおる声で、さきほどの声の主も、おそらくこの女だろう。
女の発する声には威厳があって、本能に任せれば、黙って従ってしまいそうになる。そういう荘厳さを纏っていた。
「さきに掴みかかってきたのはこいつじゃ」
男を捻り上げたままそれに応ずる虎臥には、そうした空気は伝わっていないようだった。
「無断で山に踏み入ったのはそっちがさきだろう」
「知らなかったのじゃ。許せ」
「ならば、その者も許せ」
いまのやり取りのなかで虎臥がなにを思い巡らせたのかはわからないが、ひとつ間をおいて、虎臥は捻り上げていた男の手を離した。解放された男は、手首を擦りながら赤狩衣の女のもとへと急いだ。
「多烏へ向かうと申したが、何用か聞かせてもらいたい」
と女が問うが、
「何故そなたらに教える必要がある?」
と返すあたり、男は解放したがそれ以外のことについて易々と応じる気は、虎臥にはなさそうだった。
「我らは多烏の者だ。無断で我らの山に入り、山にまぎれて浦へ向かう者を見過ごすわけにはゆかぬ。怪しい者でないのであれば、素性を明らかにし、用件を話すことになんの不都合があろうか?」
女の方も虎臥の言葉に過敏に反応するでもなく、自らの理を語った。
「そなたの言う通りじゃな」
するとこれには虎臥も素直に肯定した。が、つづけて、
「ではまず、そなたから名乗られよ」
と言い放ったものだから、赤狩衣を囲む男たちが色めきだった。
さきほど虎臥に捻り上げられていた男が、虎臥の非礼に対して激しく抗議したが、女はそれらを手で制して静かになるのを待ってから、虎臥の要求に応じて、さきに名乗った。
「我は多烏浦刀祢の娘だ。この山は代々、多烏浦預かりとなっている」
(なんと! 刀祢の娘か)
女から感じていた威厳はそこから湧き出したものかと、牛太はひとり納得した。
山賊相手では理のとおった話はできないが、刀祢の縁者であれば話は別だ。とも思った。ここまで鳴りを潜めていた牛太だったが、
「瓜生荘の次郎太夫と申す」
と、虎臥に先んじて名乗り、虎臥を瓜生荘高倉名名主の娘であることを伝えた。交渉可能な相手とみたからで、これよりさきは、自分が前にでた方が、話がうまくまとまると思ったからだ。
「多烏へは商いでまいった。刀祢の娘と申したが、刀祢と話ができれば有難い。案内してもらえぬか」
女のうしろに立つ男が、なにかを女の耳元で言っている。女もそれに答えているようだったが、話の内容が聞こえてくる距離ではない。
「なにも持たぬようだが、買い入れか?」
「そのつもりだが、なにか必要とあれば言ってくれ」
「なにを求めるつもりか?」
「それを刀祢と話したい」
(まるで禅問答だな)
牛太は女の問いに答えながら思った。
虎臥の思いつきに引っ張られてきただけのようなもので、なんの用意も無かった。が、ともかくもなにか商いの体をとらなければならないのだから仕方がない。
またうしろの男が耳元でなにか言っているようだが、女はこちらを見つめたままの姿勢を崩さなかった。
「ついて参れ」
と言って、女が背を向けて歩きだした。
牛太は、ほっと胸をなでおろした。
牛太と虎臥がそれに応じて歩きだしたのを確かめると、連れの男たちも女のあとに従った。
(ひとまず多烏までは無事に着くことができそうだ)
西津は、現在も福井県小浜市の中心部にその地名を残している。
地図で小浜湾を見ると、カニの姿に似ている。右の鋏脚が内外海半島で、左の鋏脚が大島半島だ。この東西二本のおおきな鋏脚で、若狭湾から切り取った内海が小浜湾である。西津は小浜湾の東端に位置し、ちょうど右の鋏脚の付け根あたりにある。
内外海半島を境に、東隣には矢代湾があって、国道162号線の阿納トンネルを抜ければ、車なら10分もあれば行き来できる距離だが、いまのようにアクセスがよくなったのは平成も折り返しに入ってからのことで、現在においても唯一の道が、わりと最近まで、通行が困難な道であったようだ。つまりそれは、わりと最近まで、陸の孤島であったということで、鎌倉時代にまったく道がなかったとは思わないが、基本的には、船でしか行き来できない場所だっただろう。
西津から矢代湾側へと抜けようとしている二人は、そういう山中を歩いていた。
「あとどれくらいになる? 俺にはどこを歩いているのかさっぱりだ」
尾根伝いにまっすぐ多烏を目指した方が早いと虎臥が自信たっぷりに言うので、あまり深く考えずについてきてしまったが、牛太はいまはそのことを後悔しながら、虎臥の背を追って斜面を踏みしめていた。
「もう半分は過ぎた」
と、虎臥が言うので、道を知らない牛太は、その言葉を信じるよりほかない。
「尾根を歩いておる。どうじゃ? さっきより歩きやすくなったじゃろ?」
と、聞いてくるが、依然として登ったり下ったりしている。山歩きに少し慣れてきたとは感じるが、歩きやすくなったという実感は、牛太にはなかった。
「トラと違って、普段山歩きをしないもんでな。楽になったとは思わん」
京へ行くにも峠は越えるだろうと虎臥は言ったが、若狭から京へ抜ける峠は整備されている。往来が多いせいもあるだろうが、どれほど酷い道であっても、踏み締められた路盤を見失うようなところはなかった。こんな山賊も途方に暮れるような道なき道を歩くことなどないのだ。
「道ならある。見えぬか?」
「獣とはあまり親しくないもんでな。獣道を道と言われてもピンとこん」
暗に、狩りをしに山へ分け入る虎臥といっしょにするなと揶揄したつもりだったが、虎臥から返ってきた言葉は、牛太の想定していたものではなかった。
「獣ではない。人じゃ」
「ひと?」
立ち止まって辺りを見回してみるが、牛太には獣道らしきものすら見いだせなかった。
「こんなとこまで分け入ってくる人があるとしたら、郷にいれなくなって逃げてきた罪人くらいのもんだろう」
牛太がそう言い放った刹那、虎臥に襟首をつかまれ、強引に抱きとめられた。
と同時に、背後の草叢になにかが落ちる音がした。
「何用じゃ。その程度の木っ端でも、当たりどころが悪ければ怪我では済まぬぞ」
虎臥が何者かにむかって声をあげた。草叢の騒めきは、どうやら何者かが投げてよこした木っ端が落ちる音だったようだ。それよりも問題は、このおよそ人などいるはずのない山中に何者かが存在していること。そして明らかに敵意を持っているということだった。
「トラ、何事だ?」
「わからぬ。じゃが少し前から人の気配がしておった。ひとりではない」
「も、もしや、山賊に囲まれておるのか?」
小声で話していた牛太の声が、動揺でうわずった。
「それもわからぬ。が、殺気は感じぬ」
虎臥のその言葉に、牛太は一瞬だけ安堵したが、
「今のところな」
と、虎臥は口端をあげてみせるものだから、また困惑した。
(余裕をみせていられる状況ではなかろう)
と牛太は思ったが、かと言ってなにか手立てがあるわけでもなく、虎臥の腕に抱かれたまま、状況の変化を待つしかなかった。
そのまま身動きせずにいると、草叢から男がひとり立ち上がり、
「ヤイヤイッ! いつまでそうやってるつもりだっ!」
と、啖呵を切って男が近づいてくる。
潜んでいた草叢はそれほど近くはなかった。
(この距離でよく気配に気が付いたものだ)
と、あらためて虎臥の狩人としての能力の高さに感心した。
「おぬしらがそうやってコソコソ隠れて見ておるからの。辛抱たまらんようになって飛び出してくるまで見せつけてやろうかと思っての」
逆上している男にむかって虎臥は、それをさらに煽るようなものいいをした。
「なんだとっ! 勝手に人の山に踏み入っておいてっ!」
と、とうぜん男の方はさらに怒りをあらわにする。
「それは知らなんだ。とおり抜けるだけじゃ。なにも獲りはせぬ」
「とおり抜けるだぁ? おめぇらどっから来たっ! どこへ行く気だっ!」
「西津から多烏へ向かう途中じゃ」
「はっ! 西津から多烏へ行くのになんでこの山をとおる必要がある?」
男と虎臥の問答のうちに、牛太は、少しだけ緩んだ虎臥の腕のなかから身を抜いて、男の方に向き直った。
このまま虎臥に語らせておけば、逆上した男がなにをしでかすかわからない。自分があいだに入って、事を鎮めなければという思いだったが、それ以上に、密着状態のままいることに気恥ずかしさがあった。
「我らは瓜生の商人だ」
と、牛太はふたりの問答に割って入った。
「瓜生だと?」
男は怪訝な目で牛太を見て、そして虎臥を見た。
「てめぇらまさか、鳥羽の手下じゃねぇだろうな?」
と、男は聞いてきた。
声の調子から、いくぶん興奮がやわらいだのかもしれないと、牛太は感じた。このまま穏便に済ませる方に話をもっていきたいのだが、男の言うところ真意をはかりかねていた。
(鳥羽の手下? 下司の脇袋のことを言っているか?)
牛太は僅かな情報のなかから男の真意を探ろうと、必死に知恵をしぼった。
そもそもこの男はこんな何もない山中でなにをしていたのか。虎臥が道を誤っていなければ、ここから南に下れば鳥羽荘にでるだろう。鳥羽荘となにか因縁があるのだろうか――。
(荘園の諍いに巻き込まれるのは厄介だな)
荘園はその性質によって、自墾地系荘園と寄進地系荘園に分類される。
自墾地系荘園とは、金や労力を自ら調達して開墾したものをいい、初期の荘園がこれに該当する。一方で、寄進地系荘園は10世紀以降の荘園のかたちで、こちらは自墾したものではない。寄進とは”さしあげる”という意味で、誰かが誰かにさしあげた荘園ということになる。
この誰かとは誰か? 簡単にいえば、自分よりも強い権力を持つ者で、自分の土地を守るため、権力者に自らの土地を寄進して名目上の領主になってもらい、近隣との争いで有利に立とうという思惑からだった。さしあげると言っても、中央にいる有力者が実際に現地に訪れて荘園を管理することはなく、荘園の実質的な支配は本来の持ち主が行う。名目上の領主はなにもしなくても収入を得られるのだから、寄進を断る理由もない。こうして時代がすすむにつれて、多くの荘園領主が中央の有力者に代わっていった。このような名目上の領主のことを本所や領家とよび、本来の持ち主である地方豪族を荘官や下司、地主とよんだ。
牛太の村がある瓜生荘の下司、脇袋氏は、鳥羽氏の一族であった。
瓜生荘は、鳥羽国範(西迎)を惣領とする鳥羽一族のなかの庶子の立場にあった脇袋範継が、西迎から賜り、その子、国広がそれを継いでいた。
庶子とは相続で本家から別れた一族のことで、分家と読み替えればすこし理解がいくかもしれない。分家の庶子に対して、本家を惣領という。
このとき鳥羽一族の惣領は鳥羽国親といったが、国親の父、国茂と、国広の父、範継とは犬猿の仲であったようだ。分割相続による土地問題が諍いの根であると考えれば、おそらく子の時代になってもよい関係ではなかったのではないかと想像できる。
男が問うところの真意はわからないが、男の口ぶりから、一百姓として商いの目的で多烏に向かっているのだと了解を得なければならないと、牛太は直感した。
この場を丸くおさめるため、牛太は弁明しようとしたが、虎臥が、
「なにを言っておるのかわからぬな。先を急ぐ」
と言って、男にかまわず歩きだしたので、男はまた沸騰してしまった。
「まだ話は終わってねぇっ!」
自分を無視して歩きだした虎臥を追いかけ、その腕をつかんだ。
咄嗟に割って入ろうとしたが、その間もなく、虎臥は男の手を捻り上げていた。
アタタタタタタッと、男は痛みに悲鳴をあげるばかりで、なにも反撃ができない。男はずんぐりしているが、背丈だけなら牛太とあまりかわらない。虎臥にしてみれば、赤子の手を捻るようなものだろう。
「手荒な真似はしとうない。通るだけじゃ。ほかの隠れている者たちにも伝えてくれろ」
虎臥にとって今の状況は手荒に含まれない認識なのだろう。痛がる男に対して虎臥は、声を荒げるでもなくそう言い放った。
――やめろっ!
どこからか飛んできた鋭い声が、周囲からほかの音を追い出した。
虎臥には声が発せられたところがすぐにわかったのだろう。尾根のさきの方へ顔を向けた。手は男を捻り上げたままだ。
見ると、尾根のさきから、艶やかな赤の狩衣を纏った者がこちらに向かってくる。それを合図としてか、木陰からさらにふたりが姿を現した。
(ほかの隠れている者たちと言っていたのはこの者たちか)
さきほど男が出てきた茂みよりまだ遠い。虎臥の嗅覚はもはや獣なみなのではないかと、牛太は思った。
三人は顔が見えるところまでくると、そこで立ち止まった。
赤の狩衣の者は、端正な顔立ちの女だった。
「その者の手を放せ」
と、女は言った。よくとおる声で、さきほどの声の主も、おそらくこの女だろう。
女の発する声には威厳があって、本能に任せれば、黙って従ってしまいそうになる。そういう荘厳さを纏っていた。
「さきに掴みかかってきたのはこいつじゃ」
男を捻り上げたままそれに応ずる虎臥には、そうした空気は伝わっていないようだった。
「無断で山に踏み入ったのはそっちがさきだろう」
「知らなかったのじゃ。許せ」
「ならば、その者も許せ」
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「多烏へ向かうと申したが、何用か聞かせてもらいたい」
と女が問うが、
「何故そなたらに教える必要がある?」
と返すあたり、男は解放したがそれ以外のことについて易々と応じる気は、虎臥にはなさそうだった。
「我らは多烏の者だ。無断で我らの山に入り、山にまぎれて浦へ向かう者を見過ごすわけにはゆかぬ。怪しい者でないのであれば、素性を明らかにし、用件を話すことになんの不都合があろうか?」
女の方も虎臥の言葉に過敏に反応するでもなく、自らの理を語った。
「そなたの言う通りじゃな」
するとこれには虎臥も素直に肯定した。が、つづけて、
「ではまず、そなたから名乗られよ」
と言い放ったものだから、赤狩衣を囲む男たちが色めきだった。
さきほど虎臥に捻り上げられていた男が、虎臥の非礼に対して激しく抗議したが、女はそれらを手で制して静かになるのを待ってから、虎臥の要求に応じて、さきに名乗った。
「我は多烏浦刀祢の娘だ。この山は代々、多烏浦預かりとなっている」
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「瓜生荘の次郎太夫と申す」
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「なにも持たぬようだが、買い入れか?」
「そのつもりだが、なにか必要とあれば言ってくれ」
「なにを求めるつもりか?」
「それを刀祢と話したい」
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「ついて参れ」
と言って、女が背を向けて歩きだした。
牛太は、ほっと胸をなでおろした。
牛太と虎臥がそれに応じて歩きだしたのを確かめると、連れの男たちも女のあとに従った。
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主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
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