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一.勃興
救いの矢 ― 前編 ―
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大船が投錨する西津は、いつにも増して賑やかだった。
牛太らは光見との話しを終えてからすぐに、村の者をあつめて西津へはいった。ともに京へ塩を運んだ者たちが中心であったので、話は早かった。
きのう小浜で聞いたのと同じく、こちらでも塩の値に動きがないことを確認すると、曳いてきた馬と牛車に、手分けして塩を積みこんだ。
(ひとまずはこれでよいだろう)
送り出した皆の背中を見とどけ、牛太は安堵した。
まだ買い付けただけで、このさき峠を越えて、また陸路を京まで行かねばならないのだが、逆に言えばそれ以外になにかできることがあるわけでもないということでもあった。あとは京へ着いてみなければわからない。
(さて、吉と出るか凶と出るか)
塩浜があり、塩の産地である若狭の塩の値と、塩を生産することができない巨大消費地である京では、そもそも塩の相場にひらきがある。多少、機を逸したところで、牛太らが損をすることはないのだが、五割上がっているという事実を知っていて、それがたとえば二割ほどの上昇に落ち着いてしまっていたら、気分的に損をしたと感じてしまうのは人情というものだろう。
「さあ、我らは市をまわろう」
牛太は振り向くと、うしろに立つ虎臥にそう言った。
皆を送り出したあとも、虎臥は残っていた。
母屋での会話のあと、塩のことを簡単に説明すると虎臥は、ならば護衛があった方がよいだろうと言って弓を携えてついてくることになったが、西津と瓜生の間で護衛が必要になることはない。とはいえ、たったいま夫婦になったばかりで、義父母の前で、本人が行くと言うものを無下に断ることもできず、こうしていまここにいる。
「俺は右から、トラは左から。回り終えたらあの楼の袂で落ち合おう」
そう言って歩き出したところで、虎臥に呼び止められた。
「待たれ」
振り返ると、虎臥は元いたところを一歩も動かず、両の手を腰にあてていた。
「どうした?」
なにかまだ聞き足りないことでもあったかと思いたずねてみると、
「どうしたもこうしたもない。共に回ればよいじゃろうが」
と、虎臥は言う。
塩はいったん村へ集め、明朝京へ運ぶ手はずになっていた。京で塩の値が上がっている理由を探るために牛太は西津へ残ったが、明日はともに京へ向かうため、ここに長居はできない。
二手に分かれて聞いてまわった方が効率がよいと言うと、
「それは安易に考え過ぎじゃろう」
と、虎臥は両の手をひろげて、呆れたように言う。
「考えてもみよ。ウシは商いを通じて日頃より数多、人と接しておる。市庭をまわりながら、べつに用もないモノ売り相手に無駄話することが苦になることはないじゃろうが、わらわは日頃山のなかにあって、言葉はおろか、息も殺して過ごしておるのじゃ。そんなわらわひとりでまわっても、単に市の賑わいを物見するだけ。よくて好物を見つけて買い食いするくらいが落ち。ウシが望んだ結果を持ち帰ることは無いと思うのじゃが」
屁理屈でしかないはずなのだが、それをこうも堂々とならべられると、一理あるような気分にもなってくるから不思議なものだ。
商いにでるようになってからは疎遠になっていた。虎臥が日頃どのようにして過ごしているかは分からない。記憶にある虎臥は、牛太とはちがって弁のたつおなごであったはずだが、時が経てば人は変わるものだし、なにより本人がそう言うのであれば、きっといまの虎臥はそういうおなごなのだろう。
「それは思い至らなかった。ならばともに参ろう」
もともとひとりでまわる予定だったもので、どうしても二手に分かれなければということでもなかったので、虎臥の言うとおり、ともに市をめぐることにした。
浦を見渡す位置に聳え立つ楼と、唐様式の屋形が並ぶ景色は、京とはまたちがった華やかさがあった。
津を中心に成立したこの荘の特徴は、鎌倉末期に作成された西津荘の検注目録からそのおおよその動向を知ることができる。若狭の津をもつ荘園は早くから得宗領となっているが、この荘もそのひとつで、給主代による検注が元応二年(1320年)に行われ、元徳二年(1330年)に検注目録が作成されている。
ほかの荘園と同様に、田畠が検注されているが、この荘のばあい、塩浜が田畠と同じく町反歩単位で目録が作成されていて、田畠と同じく賦課の対象となっている点で非常に珍しい。
さらに除畠(はたけから除かれた地目)に、屋敷や塩屋(製塩施設)のほかに、市屋形二反三〇〇歩、楼屋敷三六歩とあるので、津にひらかれた市庭には『市屋形』とよぶほどの常設の施設があり、それらを監督する役割を果たしたであろう『楼』とよぶほどの高さをもつ施設があったことがわかる。古来より大陸からの文化がいち早く渡来する地であったことを考えれば、この時期の町としては、やや特異な景観をもつ町だったのではないだろうか。
「ウシ、あれを見よ」
突然、うしろを歩く虎臥の手が肩にのった。
体格差もあって、重くなった右肩を軸に、牛太は否応なしに右を向くことになった。
虎臥の視線のさきに目をやると、赤子のあたまほどの、白くて丸いものが並んでいた。
立て札にはかろうじて読みとれる文字で『サとう万字う 廿文』と、書かれている。
(饅頭か?)
「話を訊いてみてはどうじゃ?」
と、虎臥はいう。
塩の値を探るのに何故饅頭売りかと思ったが、気持ちを切り替えるにはむしろ好都合かもしれない、と思いなおした。
久しぶりにふたりきりで歩いてみても、なにを話してよいかわからない。ただただ、うしろをついてくる虎臥の気配ばかりが気になって、あたまになにも入ってこないような有様だった。
「そうだな。せっかくだ、食うか?」
「無駄話をした挙句になにも買わぬのでは、あの女に迷惑じゃろう」
「それもそうだな」
素直に食べたいと言わないあたりは、幼いころとかわらない。
記憶のなかにある虎臥を見つけて、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「おう、女。これは饅頭か?」
近づいてみると、見事にまん丸に膨れていた。
「そうだよ。大きくて驚いたろ? 食べてみればその味にもっと驚くさっ!」
ひと声かければ気風のいい返事が返ってくる。こういう手合いは話しやすい。
「立派なもんだな。砂糖を使っているのか?」
「砂糖を溶いた汁をたっぷり塗りつけてあるから、とっても甘いよっ!」
と、身ぶり手ぶり大きく、女は言った。
砂糖が高価なものであるのは間違いないとして、一部地域においては、庶民の口をよろこばせることはあったのではないか。100パーセント輸入である砂糖のおこぼれにあずかることができたであろう庶民とは、砂糖のとおり道にいた人たちで、西津荘もそのひとつだったろう。
この頃すでに、宋へ渡った僧侶たちによって点心(朝食と夕食のあいだにとるおやつ)の習慣が広まり、饅頭のほか、羊羹なども伝えられていた。饅頭はまだ現在のように、小豆を甘く煮た餡を包んだものではなかったようだ。
仁治二年(1241年)、宋から帰国した聖一国師が、酒麹でつくる酒饅頭の製法を伝えたとされている。ちょうどこの頃から、畿内や西日本一帯で、二毛作の裏作として麦がつくられていて、うどんやそうめんも、この時代に登場している。小麦粉を練って酒麹で膨らませた饅頭に、水に溶いた砂糖を塗ったものなども、交易によって経済が発達した若狭あたりの市では、店先にならんだことだろう。
鎌倉時代後期の庶民の識字率と計算能力について考えてみる。
天下泰平の江戸時代。寺子屋で読み書きそろばんを習うのがあたりまえになると、身分に関係なく高い識字率と計算能力を有していたことはよく知られている。200年ものあいだ鎖国していた日本が、開国後の数十年で、一気に近代化を果たせたのも、こうした下地があったからだと言われている。
では鎌倉時代はどうだったのだろうか。鎌倉時代と言ってもけっこう長い。
わたしが習ったころは、いい国つくろう鎌倉幕府と覚えたが、いまの教科書では、源頼朝が軍事政権を確立した1180年や、朝廷に東国の支配権を認めさせた1183年、鎌倉幕府を代表する3つの役所(侍所・公文所・問注所)設置された1184年、守護・地頭の権限を朝廷に認めさせた1185年など、諸説あるようだが、鎌倉幕府のはじまりは1192年よりも前であったということでは一致しているようだ。鎌倉幕府の滅亡については、反幕府軍の新田義貞に追いつめられ、北条高時(北条氏最後の得宗)とその家来たちが鎌倉葛西ヶ谷にある東勝寺で自決した1333年5月22日と明確なので、鎌倉幕府は約150年ほどつづいたことになる。
鎌倉時代にはまだ寺子屋という初等教育の機関が存在していないので、どこで時代を区切ったとしても、庶民の教育水準は、開国目前の江戸期とは比べものにならない。この時代の読み書き計算は職能と結びつたもので、先輩たちから習って覚えるものだったが、庶民についてはもっと実践的に学んだのではないだろうか。それは勘定ができなけらば務まらない商工民を中心に計数能力が高まっただろうし、文字も同じような理由で習得していったのではないだろうか。漢字の読み書きができるというのは、この時代では相当なインテリ層となるだろうが、ひらがなもカタカナも9世紀ころから使われている。とうぜん、意欲的な庶民のなかには、見知った文字を組み合わせて文章を書いた者もあるだろう。それは、ひらがなカタカナ漢字の区別なく、ただ知っている文字のなかから話し言葉の音と一致する文字を当てただけのものだっただろうが、誰かがやりはじめると、それをまねて一気に広がっていく。発展途上にある国の市場で見られる庶民の熱気というのは、この時代でも変わらなかっただろう。賑わう市場に、デタラメな日本語が書かれた立て札がそこかしこに立てられている風景を想像してみると、違和感は感じない。きっとそうだったに違いない。と、思ってしまう。
牛太が女にひとつ買うと告げると、
「はいっ! まいどっ!」
と、威勢のいい声が返ってきた。
好きなのを取ってくれと言うので、どれも似たようなものだったが、すこし吟味するような素振りをしてからひとつを選んだ。手にくっつく感じが不快だったが、たっぷり砂糖汁を塗りつけてあるというのは嘘ではないようだ。
「砂糖は、いま入ってる大船からか?」
「そりゃあそうさっ」
いくら美味いといってもあまりに高くては売れない。だから毎度作ってるわけではないと女はいう。西からの大船が入って、砂糖が安く手に入った時だけのことだから、買わなければ損だとも言った。
勢いだけと思いきや、やはり商人は知恵がまわらなければ務まらない。
(この女ならなにか知っているかもしれないな)
「ところで、あんたは船や荷の流れに明るいようだから、ひとつ知っていたら教えてほしいんだが。塩の値が上がっているという噂を聞いて来てみたのだが、とくに変わった様子もない。あんたの耳にはなにか入ってるか?」
単なる気分転換のつもりだったが、当初の目的である塩の値のことについて、なにか知っていることがないか聞いてみたくなった。
女は、うーん、とすこし思案してから、
「聞かないねぇ……。西津での話かい?」
と、聞き返してきた。
(この女の性分だ。なにか知っていれば、こういう返事はしないだろう)
やはり塩のことは、どこか別のところにその根があるのだろう。と、牛太はひとり納得した。
「なに、出どころ不明の噂話だ。ただこれが本当だったら、買えるうちに買っておかなきゃならないと思ってね」
「さぁねぇ。ここらではそういう話は聞こえてないから、山向こうの浦じゃないのかい?」
「山向こうっていうと?」
「志積、多烏、汲部……。そういえば、多烏はなにか揉めてるって話も聞いたね。まぁどこも諍いなんて珍しいことじゃないけどさ」
女のあげた浦の名に聞き覚えはあったが、牛太はその詳しい場所などは知らなかった。どの浦も同じ西津荘に属しているが、今いる西津からはかなり離れている。船で行くならたいした距離ではないだろうが、陸路では山を越えたさらに先のはずだ。
「それならあまり気にする必要は無いかもしれないな。いや、無駄話で手間を取らせてしまったな」
「なぁに、客との無駄話も商いのうちさ。気にすることないさ」
「そう言ってもらえるとこっちも気が楽だ。美味かったらまた顔を出すよ」
「そんなら間違いなく、また来ることになるさっ!」
威勢のいい声を背中に受けてその場をあとにすると、牛太は往来の少ない端の方へと場所をうつした。
食いながら市庭をまわってもよいかと思っていたが、手にしてみたこの饅頭の感触がその気を変えさせた。このベトベトには難儀しそうだった。
牛太が半分に割った饅頭の片方を虎臥に差し出すと、虎臥はそれを受け取らず、代わりに大きく開けた口で、ひとくちで半分ほどを食いちぎっていった。
「わっ! 受け取らんのかっ!」
おのれの手がベトつくのを嫌ったのか、見事に口だけで饅頭を切り取っていった虎臥は、うんうんと頷きながら咀嚼している。
「山を越えるのか?」
空いた口から出た第一声。どうやら受け取る気はないようだ。
「まさか」
「あの女が言ったことを信じぬのか?」
「信じる信じないの話ではない。おそらく行っても無駄骨だ」
実際のところここへきて、塩の値に動きがないことを確かめた時点で、光見が言っていたように別の要因だと気づいていた。うわさ程度でもなにか情報が無いかと市をまわってみているのは、自分を納得させて、商いに気持ちを切り替えさせるための儀式のようなものだった。
「こ、こらっ。だから受け取れと言っとるだろうがっ!」
牛太が饅頭を差し出した姿勢のまま考えていると、虎臥が残りの饅頭もひとくちで持っていった。
(あやうく指ごと持っていかれるところだった)
呆れたことに、虎臥は結局受け取らぬまま完食してしまった。頬を膨らませて咀嚼している姿がだんだんと愛らしくみえてくるのだから不思議なものだ。
「山を越えてみよう」
何かある気がするんじゃ、と言って、虎臥は東側に見える山の方を指した。
「はあ?」
道があるかもわからない山中に、何かある気がする程度の思いつきで入れるわけがない。と、牛太は思ったが、虎臥はさらに、
「山歩きは慣れておる。心配はいらぬ」
と、自信を語ってみせたが、牛太としては、明日は夜明けを待って、さっき買い入れた塩を京へ運ばねばならないので、早々に村へ戻らなければならないと考えているから、話が噛み合わない。それに、まだ日が高いから上手くすれば向こう側のどこかの浦までは辿り着くかもしれないが、帰りは途中で日が暮れるだろう。夜の山中など、知った山でも歩きたくはない、と思うだけだった。
現代でも、夜に山中を歩くのは危険な行為だが、当時は山賊による略奪もあってとくに危険であった。京都周辺は、天狗や鬼の言い伝えには事欠かない。それらは疫病などの目に見えない恐ろしいものを具現化したものだという説があるが、もっと単純に、人々に、鬼の所業と思わせる行為をしていた山賊の存在もあっただろう。夜間の移動を避けるのが常識で、しぜんと一個の人間が移動する範囲というのは狭くなる。
レジャーや観光という気分で見知らぬ土地へ行こうという意識は、この時代の人々には無い。見知った土地を離れるというのは、命と引き換えのやむにやまれぬ行為だった。
理由はわからないが京で塩の値が高騰しているから、商いが先決だと牛太が言うと、虎臥が、ピッと人差し指を立てて、
「それじゃ」
と、言った。
その仕草でまっすぐこちらの眼を見つめられ、牛太はどういうわけか鼓動が早くなっていくのを感じて狼狽した。
そんな牛太に構わず、虎臥は話を続けた。
「何故かはわからぬが、京で塩が高騰しておる。そしてその原因を確かめるためにこうして市をまわっているが、何もわからぬじまいじゃ。商いは手堅くするのがもっともよいが、大商いとなればどうしても博打になる。博打で勝ち続けるには勝とうとしないことだと言う者もあるそうじゃが、言われてみれば、わらわも身に覚えがある。大物を狙って山に入ると、決まって何も捕えられず山を下りることになる。欲が目を曇らせるのかもしれぬな」
(はて、何が言いたいのか?)
牛太には、虎臥の話の着地点が見えてこない。
「……。よい教訓と思うが、それがどうつながるのだ?」
いまの状況とどうつながるのか、という意味だった。
「急いで京へ塩を運ぶのは勝ちを急ぐことにならぬか、と言うことじゃ」
と、虎臥は言ったが、それは状況が違うだろうと、牛太も反論した。
「急がねば負けるとわかっているなら、急ぐしかあるまい」
京で塩の値が上がっている理由はわからないが、これが常時でないことだけは確かだった。それを踏まえれば、いまはただ、急ぎ京へ塩を運べば高く売れる、という事実だけで十分だった。
しかし虎臥は、いま京へ急ぐのはそれでよいが、皆で行く必要はないだろうと言う。
「京で売って、急いで戻ってきてまた若狭で塩を買うか? 次も上手くいくとは限らぬのではないか?」
理由がわからぬのだ。いつまた突然下げるかもわからぬ。だから京へ塩を運ぶのは皆にまかせて、我らは謎解きに向かった方が得策ではないか、と虎臥は言って、
「どうじゃろうか?」
と、話の筋道をそう締めくくった。
(突飛なことを言っていると思って聞いていたが、そうでもなさそうだ)
虎臥のいうことには筋がとおっていて、牛太もこれには納得した。
供給過多になれば、今度は大暴落という可能性もある。
そう考えると、次の一手を見据えた、理に適った策であるようにも思えると考えるに至り、つい無意識に、
「一理あるな」
と、漏らしてしまったところで、
「決まりじゃな」
と、虎臥は言うと、それを山越えの肯定と解したのか、さっさと歩き出した。
「お、おいっ?」
(行くとはひとことも言っておらんぞ)
道を知ってか知らずか、歩き出した虎臥を慌てて追いかけるしかなかった。
左手にはまだ片割れの饅頭があり、右手は虎臥に分けてやった饅頭のせいでベトベトだったが、さきへさきへと歩を進める虎臥に、牛太が饅頭を食い終わるのを待つ気はなさそうだった。
牛太らは光見との話しを終えてからすぐに、村の者をあつめて西津へはいった。ともに京へ塩を運んだ者たちが中心であったので、話は早かった。
きのう小浜で聞いたのと同じく、こちらでも塩の値に動きがないことを確認すると、曳いてきた馬と牛車に、手分けして塩を積みこんだ。
(ひとまずはこれでよいだろう)
送り出した皆の背中を見とどけ、牛太は安堵した。
まだ買い付けただけで、このさき峠を越えて、また陸路を京まで行かねばならないのだが、逆に言えばそれ以外になにかできることがあるわけでもないということでもあった。あとは京へ着いてみなければわからない。
(さて、吉と出るか凶と出るか)
塩浜があり、塩の産地である若狭の塩の値と、塩を生産することができない巨大消費地である京では、そもそも塩の相場にひらきがある。多少、機を逸したところで、牛太らが損をすることはないのだが、五割上がっているという事実を知っていて、それがたとえば二割ほどの上昇に落ち着いてしまっていたら、気分的に損をしたと感じてしまうのは人情というものだろう。
「さあ、我らは市をまわろう」
牛太は振り向くと、うしろに立つ虎臥にそう言った。
皆を送り出したあとも、虎臥は残っていた。
母屋での会話のあと、塩のことを簡単に説明すると虎臥は、ならば護衛があった方がよいだろうと言って弓を携えてついてくることになったが、西津と瓜生の間で護衛が必要になることはない。とはいえ、たったいま夫婦になったばかりで、義父母の前で、本人が行くと言うものを無下に断ることもできず、こうしていまここにいる。
「俺は右から、トラは左から。回り終えたらあの楼の袂で落ち合おう」
そう言って歩き出したところで、虎臥に呼び止められた。
「待たれ」
振り返ると、虎臥は元いたところを一歩も動かず、両の手を腰にあてていた。
「どうした?」
なにかまだ聞き足りないことでもあったかと思いたずねてみると、
「どうしたもこうしたもない。共に回ればよいじゃろうが」
と、虎臥は言う。
塩はいったん村へ集め、明朝京へ運ぶ手はずになっていた。京で塩の値が上がっている理由を探るために牛太は西津へ残ったが、明日はともに京へ向かうため、ここに長居はできない。
二手に分かれて聞いてまわった方が効率がよいと言うと、
「それは安易に考え過ぎじゃろう」
と、虎臥は両の手をひろげて、呆れたように言う。
「考えてもみよ。ウシは商いを通じて日頃より数多、人と接しておる。市庭をまわりながら、べつに用もないモノ売り相手に無駄話することが苦になることはないじゃろうが、わらわは日頃山のなかにあって、言葉はおろか、息も殺して過ごしておるのじゃ。そんなわらわひとりでまわっても、単に市の賑わいを物見するだけ。よくて好物を見つけて買い食いするくらいが落ち。ウシが望んだ結果を持ち帰ることは無いと思うのじゃが」
屁理屈でしかないはずなのだが、それをこうも堂々とならべられると、一理あるような気分にもなってくるから不思議なものだ。
商いにでるようになってからは疎遠になっていた。虎臥が日頃どのようにして過ごしているかは分からない。記憶にある虎臥は、牛太とはちがって弁のたつおなごであったはずだが、時が経てば人は変わるものだし、なにより本人がそう言うのであれば、きっといまの虎臥はそういうおなごなのだろう。
「それは思い至らなかった。ならばともに参ろう」
もともとひとりでまわる予定だったもので、どうしても二手に分かれなければということでもなかったので、虎臥の言うとおり、ともに市をめぐることにした。
浦を見渡す位置に聳え立つ楼と、唐様式の屋形が並ぶ景色は、京とはまたちがった華やかさがあった。
津を中心に成立したこの荘の特徴は、鎌倉末期に作成された西津荘の検注目録からそのおおよその動向を知ることができる。若狭の津をもつ荘園は早くから得宗領となっているが、この荘もそのひとつで、給主代による検注が元応二年(1320年)に行われ、元徳二年(1330年)に検注目録が作成されている。
ほかの荘園と同様に、田畠が検注されているが、この荘のばあい、塩浜が田畠と同じく町反歩単位で目録が作成されていて、田畠と同じく賦課の対象となっている点で非常に珍しい。
さらに除畠(はたけから除かれた地目)に、屋敷や塩屋(製塩施設)のほかに、市屋形二反三〇〇歩、楼屋敷三六歩とあるので、津にひらかれた市庭には『市屋形』とよぶほどの常設の施設があり、それらを監督する役割を果たしたであろう『楼』とよぶほどの高さをもつ施設があったことがわかる。古来より大陸からの文化がいち早く渡来する地であったことを考えれば、この時期の町としては、やや特異な景観をもつ町だったのではないだろうか。
「ウシ、あれを見よ」
突然、うしろを歩く虎臥の手が肩にのった。
体格差もあって、重くなった右肩を軸に、牛太は否応なしに右を向くことになった。
虎臥の視線のさきに目をやると、赤子のあたまほどの、白くて丸いものが並んでいた。
立て札にはかろうじて読みとれる文字で『サとう万字う 廿文』と、書かれている。
(饅頭か?)
「話を訊いてみてはどうじゃ?」
と、虎臥はいう。
塩の値を探るのに何故饅頭売りかと思ったが、気持ちを切り替えるにはむしろ好都合かもしれない、と思いなおした。
久しぶりにふたりきりで歩いてみても、なにを話してよいかわからない。ただただ、うしろをついてくる虎臥の気配ばかりが気になって、あたまになにも入ってこないような有様だった。
「そうだな。せっかくだ、食うか?」
「無駄話をした挙句になにも買わぬのでは、あの女に迷惑じゃろう」
「それもそうだな」
素直に食べたいと言わないあたりは、幼いころとかわらない。
記憶のなかにある虎臥を見つけて、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「おう、女。これは饅頭か?」
近づいてみると、見事にまん丸に膨れていた。
「そうだよ。大きくて驚いたろ? 食べてみればその味にもっと驚くさっ!」
ひと声かければ気風のいい返事が返ってくる。こういう手合いは話しやすい。
「立派なもんだな。砂糖を使っているのか?」
「砂糖を溶いた汁をたっぷり塗りつけてあるから、とっても甘いよっ!」
と、身ぶり手ぶり大きく、女は言った。
砂糖が高価なものであるのは間違いないとして、一部地域においては、庶民の口をよろこばせることはあったのではないか。100パーセント輸入である砂糖のおこぼれにあずかることができたであろう庶民とは、砂糖のとおり道にいた人たちで、西津荘もそのひとつだったろう。
この頃すでに、宋へ渡った僧侶たちによって点心(朝食と夕食のあいだにとるおやつ)の習慣が広まり、饅頭のほか、羊羹なども伝えられていた。饅頭はまだ現在のように、小豆を甘く煮た餡を包んだものではなかったようだ。
仁治二年(1241年)、宋から帰国した聖一国師が、酒麹でつくる酒饅頭の製法を伝えたとされている。ちょうどこの頃から、畿内や西日本一帯で、二毛作の裏作として麦がつくられていて、うどんやそうめんも、この時代に登場している。小麦粉を練って酒麹で膨らませた饅頭に、水に溶いた砂糖を塗ったものなども、交易によって経済が発達した若狭あたりの市では、店先にならんだことだろう。
鎌倉時代後期の庶民の識字率と計算能力について考えてみる。
天下泰平の江戸時代。寺子屋で読み書きそろばんを習うのがあたりまえになると、身分に関係なく高い識字率と計算能力を有していたことはよく知られている。200年ものあいだ鎖国していた日本が、開国後の数十年で、一気に近代化を果たせたのも、こうした下地があったからだと言われている。
では鎌倉時代はどうだったのだろうか。鎌倉時代と言ってもけっこう長い。
わたしが習ったころは、いい国つくろう鎌倉幕府と覚えたが、いまの教科書では、源頼朝が軍事政権を確立した1180年や、朝廷に東国の支配権を認めさせた1183年、鎌倉幕府を代表する3つの役所(侍所・公文所・問注所)設置された1184年、守護・地頭の権限を朝廷に認めさせた1185年など、諸説あるようだが、鎌倉幕府のはじまりは1192年よりも前であったということでは一致しているようだ。鎌倉幕府の滅亡については、反幕府軍の新田義貞に追いつめられ、北条高時(北条氏最後の得宗)とその家来たちが鎌倉葛西ヶ谷にある東勝寺で自決した1333年5月22日と明確なので、鎌倉幕府は約150年ほどつづいたことになる。
鎌倉時代にはまだ寺子屋という初等教育の機関が存在していないので、どこで時代を区切ったとしても、庶民の教育水準は、開国目前の江戸期とは比べものにならない。この時代の読み書き計算は職能と結びつたもので、先輩たちから習って覚えるものだったが、庶民についてはもっと実践的に学んだのではないだろうか。それは勘定ができなけらば務まらない商工民を中心に計数能力が高まっただろうし、文字も同じような理由で習得していったのではないだろうか。漢字の読み書きができるというのは、この時代では相当なインテリ層となるだろうが、ひらがなもカタカナも9世紀ころから使われている。とうぜん、意欲的な庶民のなかには、見知った文字を組み合わせて文章を書いた者もあるだろう。それは、ひらがなカタカナ漢字の区別なく、ただ知っている文字のなかから話し言葉の音と一致する文字を当てただけのものだっただろうが、誰かがやりはじめると、それをまねて一気に広がっていく。発展途上にある国の市場で見られる庶民の熱気というのは、この時代でも変わらなかっただろう。賑わう市場に、デタラメな日本語が書かれた立て札がそこかしこに立てられている風景を想像してみると、違和感は感じない。きっとそうだったに違いない。と、思ってしまう。
牛太が女にひとつ買うと告げると、
「はいっ! まいどっ!」
と、威勢のいい声が返ってきた。
好きなのを取ってくれと言うので、どれも似たようなものだったが、すこし吟味するような素振りをしてからひとつを選んだ。手にくっつく感じが不快だったが、たっぷり砂糖汁を塗りつけてあるというのは嘘ではないようだ。
「砂糖は、いま入ってる大船からか?」
「そりゃあそうさっ」
いくら美味いといってもあまりに高くては売れない。だから毎度作ってるわけではないと女はいう。西からの大船が入って、砂糖が安く手に入った時だけのことだから、買わなければ損だとも言った。
勢いだけと思いきや、やはり商人は知恵がまわらなければ務まらない。
(この女ならなにか知っているかもしれないな)
「ところで、あんたは船や荷の流れに明るいようだから、ひとつ知っていたら教えてほしいんだが。塩の値が上がっているという噂を聞いて来てみたのだが、とくに変わった様子もない。あんたの耳にはなにか入ってるか?」
単なる気分転換のつもりだったが、当初の目的である塩の値のことについて、なにか知っていることがないか聞いてみたくなった。
女は、うーん、とすこし思案してから、
「聞かないねぇ……。西津での話かい?」
と、聞き返してきた。
(この女の性分だ。なにか知っていれば、こういう返事はしないだろう)
やはり塩のことは、どこか別のところにその根があるのだろう。と、牛太はひとり納得した。
「なに、出どころ不明の噂話だ。ただこれが本当だったら、買えるうちに買っておかなきゃならないと思ってね」
「さぁねぇ。ここらではそういう話は聞こえてないから、山向こうの浦じゃないのかい?」
「山向こうっていうと?」
「志積、多烏、汲部……。そういえば、多烏はなにか揉めてるって話も聞いたね。まぁどこも諍いなんて珍しいことじゃないけどさ」
女のあげた浦の名に聞き覚えはあったが、牛太はその詳しい場所などは知らなかった。どの浦も同じ西津荘に属しているが、今いる西津からはかなり離れている。船で行くならたいした距離ではないだろうが、陸路では山を越えたさらに先のはずだ。
「それならあまり気にする必要は無いかもしれないな。いや、無駄話で手間を取らせてしまったな」
「なぁに、客との無駄話も商いのうちさ。気にすることないさ」
「そう言ってもらえるとこっちも気が楽だ。美味かったらまた顔を出すよ」
「そんなら間違いなく、また来ることになるさっ!」
威勢のいい声を背中に受けてその場をあとにすると、牛太は往来の少ない端の方へと場所をうつした。
食いながら市庭をまわってもよいかと思っていたが、手にしてみたこの饅頭の感触がその気を変えさせた。このベトベトには難儀しそうだった。
牛太が半分に割った饅頭の片方を虎臥に差し出すと、虎臥はそれを受け取らず、代わりに大きく開けた口で、ひとくちで半分ほどを食いちぎっていった。
「わっ! 受け取らんのかっ!」
おのれの手がベトつくのを嫌ったのか、見事に口だけで饅頭を切り取っていった虎臥は、うんうんと頷きながら咀嚼している。
「山を越えるのか?」
空いた口から出た第一声。どうやら受け取る気はないようだ。
「まさか」
「あの女が言ったことを信じぬのか?」
「信じる信じないの話ではない。おそらく行っても無駄骨だ」
実際のところここへきて、塩の値に動きがないことを確かめた時点で、光見が言っていたように別の要因だと気づいていた。うわさ程度でもなにか情報が無いかと市をまわってみているのは、自分を納得させて、商いに気持ちを切り替えさせるための儀式のようなものだった。
「こ、こらっ。だから受け取れと言っとるだろうがっ!」
牛太が饅頭を差し出した姿勢のまま考えていると、虎臥が残りの饅頭もひとくちで持っていった。
(あやうく指ごと持っていかれるところだった)
呆れたことに、虎臥は結局受け取らぬまま完食してしまった。頬を膨らませて咀嚼している姿がだんだんと愛らしくみえてくるのだから不思議なものだ。
「山を越えてみよう」
何かある気がするんじゃ、と言って、虎臥は東側に見える山の方を指した。
「はあ?」
道があるかもわからない山中に、何かある気がする程度の思いつきで入れるわけがない。と、牛太は思ったが、虎臥はさらに、
「山歩きは慣れておる。心配はいらぬ」
と、自信を語ってみせたが、牛太としては、明日は夜明けを待って、さっき買い入れた塩を京へ運ばねばならないので、早々に村へ戻らなければならないと考えているから、話が噛み合わない。それに、まだ日が高いから上手くすれば向こう側のどこかの浦までは辿り着くかもしれないが、帰りは途中で日が暮れるだろう。夜の山中など、知った山でも歩きたくはない、と思うだけだった。
現代でも、夜に山中を歩くのは危険な行為だが、当時は山賊による略奪もあってとくに危険であった。京都周辺は、天狗や鬼の言い伝えには事欠かない。それらは疫病などの目に見えない恐ろしいものを具現化したものだという説があるが、もっと単純に、人々に、鬼の所業と思わせる行為をしていた山賊の存在もあっただろう。夜間の移動を避けるのが常識で、しぜんと一個の人間が移動する範囲というのは狭くなる。
レジャーや観光という気分で見知らぬ土地へ行こうという意識は、この時代の人々には無い。見知った土地を離れるというのは、命と引き換えのやむにやまれぬ行為だった。
理由はわからないが京で塩の値が高騰しているから、商いが先決だと牛太が言うと、虎臥が、ピッと人差し指を立てて、
「それじゃ」
と、言った。
その仕草でまっすぐこちらの眼を見つめられ、牛太はどういうわけか鼓動が早くなっていくのを感じて狼狽した。
そんな牛太に構わず、虎臥は話を続けた。
「何故かはわからぬが、京で塩が高騰しておる。そしてその原因を確かめるためにこうして市をまわっているが、何もわからぬじまいじゃ。商いは手堅くするのがもっともよいが、大商いとなればどうしても博打になる。博打で勝ち続けるには勝とうとしないことだと言う者もあるそうじゃが、言われてみれば、わらわも身に覚えがある。大物を狙って山に入ると、決まって何も捕えられず山を下りることになる。欲が目を曇らせるのかもしれぬな」
(はて、何が言いたいのか?)
牛太には、虎臥の話の着地点が見えてこない。
「……。よい教訓と思うが、それがどうつながるのだ?」
いまの状況とどうつながるのか、という意味だった。
「急いで京へ塩を運ぶのは勝ちを急ぐことにならぬか、と言うことじゃ」
と、虎臥は言ったが、それは状況が違うだろうと、牛太も反論した。
「急がねば負けるとわかっているなら、急ぐしかあるまい」
京で塩の値が上がっている理由はわからないが、これが常時でないことだけは確かだった。それを踏まえれば、いまはただ、急ぎ京へ塩を運べば高く売れる、という事実だけで十分だった。
しかし虎臥は、いま京へ急ぐのはそれでよいが、皆で行く必要はないだろうと言う。
「京で売って、急いで戻ってきてまた若狭で塩を買うか? 次も上手くいくとは限らぬのではないか?」
理由がわからぬのだ。いつまた突然下げるかもわからぬ。だから京へ塩を運ぶのは皆にまかせて、我らは謎解きに向かった方が得策ではないか、と虎臥は言って、
「どうじゃろうか?」
と、話の筋道をそう締めくくった。
(突飛なことを言っていると思って聞いていたが、そうでもなさそうだ)
虎臥のいうことには筋がとおっていて、牛太もこれには納得した。
供給過多になれば、今度は大暴落という可能性もある。
そう考えると、次の一手を見据えた、理に適った策であるようにも思えると考えるに至り、つい無意識に、
「一理あるな」
と、漏らしてしまったところで、
「決まりじゃな」
と、虎臥は言うと、それを山越えの肯定と解したのか、さっさと歩き出した。
「お、おいっ?」
(行くとはひとことも言っておらんぞ)
道を知ってか知らずか、歩き出した虎臥を慌てて追いかけるしかなかった。
左手にはまだ片割れの饅頭があり、右手は虎臥に分けてやった饅頭のせいでベトベトだったが、さきへさきへと歩を進める虎臥に、牛太が饅頭を食い終わるのを待つ気はなさそうだった。
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