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一.勃興
虎の嫁入り ― 後編 ―
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白々としていた空がおぼろげな青に変わってきた。
(明け方はまだ冷えるな)
牛太が手にした里芋の汁物を啜ると、もうもうと立ちのぼる湯気で目のまえがまっ白になり、一瞬にして天も地もわからなくなった。
無尽蔵に白煙を噴きあげる椀を顔から遠ざけ、炙っている鯖の開きのようすをたしかめる。きのう小浜の市庭で買いもとめたものだ。
時折、身が弾け、噴きだした油が熾火に跳んだ。するとそこにジューっと、音をたてて火が立つ。視覚、聴覚、嗅覚。感じるものすべてが食欲をそそる。
現代に於いても、鯖は京都人がもっとも好む魚だが、それは約700年前のこの時代もかわらない。もっといえば、さらに七700年遡っても同じだったのではないかと思う。
若狭国は、平安京遷都との以前から、朝廷へ海産物を納めてきた御食国のひとつで、平安時代中期に編纂された延喜式には、明確に「鯖」という記述はないようだが、十日毎に納めよと定められた「雑魚」には、当然含まれていただろう。
小浜と京都をむすぶ街道を鯖街道とよぶ。小浜から、牛太がいま鯖を炙っている瓜生を抜けて水坂峠を越えるルートもそのひとつだ。現代人のあたまでは、小浜から歩いて京都へ行けと言われたなら、一歩踏みだす前から途方にくれてしまいそうだが、電車も車もない時代の人たちは「京は遠くても十八里」と言って、小浜で揚がった海産物を背負って、丸一日かけて運んだそうだ。
鯖は足のはやい魚(腐りやすい)ではあるが、塩を振って丸一日ひとの背にゆられた鯖は、京へ着くころには、いい塩梅になっていたことだろう。
飯を食いながら眺めていた川向うの山々に、頂上から順に朝日が当たっていく。
(そろそろ向かうか)
牛太は濡らした手ぬぐいで、手と口の周りに付いた油を拭った。
家をでていくらも歩かぬうちに、名主の屋敷が見えてくる。今日はまず、ここに顔をだしておきたかった。
ほかと同様、瓜生荘内にも幾人かの名主があった。
ここも元は在地の百姓だったが、先代に聡い人があって、財を成して名主におさまった。いまの名主も知識人で、村の顔役として人望篤かった。
牛太が屋敷内に足を踏み入れると、縁側の板の間に置いた小机に、筆を手にしてむかう高倉名名主信濃房光見の姿がみえた。
「昨日は御苦労様でした」
縁側へ近づくと、こちらから声をかけるより早く、光見から労いの言葉がでた。信濃房光見とはこういう人物だった。
「いえ、何でもありませんよ。それより光見様の読みどおりでした」
そう伝えると、光見は小さく二度三度と頷いた。
「京の和市は如何でしたか?」
「ひと月まえから比べると、五割はあがったと申す者もありました」
「それは随分ですね」
言葉とは裏腹に、さほど驚いたようすには見えない。
あるいはこれも、想定していた範疇のことなのかもしれない。
和市とは売買相場の意で、売り手と買い手の和(合意)をもって決まった価格を言い、逆に当事者間での合意がないままに一方的に決められた価格のことを強市と言った。
「やはり大船が入ったからでしょうか?」
三日前に西津に大船が入った。それと時を同じくして、敦賀にも大船が入ったという報せが、光見のもとへ届いた。光見は直ちに村の者を集め、土倉に留め置いていた塩を京へ運ぶよう指示をだした。ただし、通常であれば水坂峠を越えて琵琶湖畔へでて、そこからは海路で京をめざすところを、陸路で向かってほしいということだった。
「大荷は喜ばしいことですが、馬借も限りがありますからね」
と、光見は答えた。
大船が湊に入り、大荷を揚げることで若狭は潤う。しかし荷を運ぶ馬借のあたま数には限りがあって、すべての荷を一度には運びきれない。後回しにされ、流通が滞ることで生じた品薄を狙ったということだった。
塩の産地である西津と敦賀に大船が入り、馬借がみなそちらに流れた。塩の輸送が滞り、それによって京では塩の需給の均衡が崩れる。故に塩の値は上がったのだと。
若狭湾に面した西津荘は、田地畠地に乏しい土地であるということもあるのだろうが、平城京跡から出土した木簡などから、律令税制の租・庸・調のうち、調(織物やその地方の特産品)の税として塩をおさめていたことがわかっている。また若狭湾沿岸には数多の製塩遺跡が確認されていることから、古来より塩の産地であったというだけでなく、その生産が組織的に行われていたという事実もみえてくる。
「理屈はわかります。ただそれで五割も値をあげるでしょうか?」
若狭から京へ向かう塩は、税によって徴収されるものだけではない。各々が商いのために運ぶものの方が多く、まったく供給が途絶えるというわけではないはずだ。そう考えると、五割というのは理にあわない気がする。と、牛太は思っていた。
年貢の輸送は儲けにならないので、陸の輸送を担う馬借も、海の輸送を担う廻船も、市井にながす品を中心にあつかう傾向があったようで、しばしば年貢の輸送が滞り、お上からは年貢の輸送をしっかりやれとお達しがあったが、すぐにまたもとのとおりに戻ってしまうということが繰り返されていたらしい。
理由は単純だろう。みな儲けは多い方がいいし、損はしたくない。すでに貨幣経済のなかで生きているこの時代の庶民のあたまのなかは、現代人のそれとさほどかわらないのかもしれない。
「難しい問いですね」
そう言って光見は、髭の無いつるりとした顎に手をやり、顎を揉んだ。
(光見様も予見していなかったのか)
思案するときの光見のクセをみて、牛太はそう理解した。
「それともうひとつ。海路を使わず、陸路でというのは何故だったでしょうか?」
光見のようすをみて、牛太はもうひとつの疑問をたずねてみたが、
「期待を裏切ってしまいましたかな?」
と、光見は揶揄いを含んだ表情で答えた。
「いえっ、そういうわけでは――」
あわてて牛太が釈明しようとするのを光見は、よいよいと手で制して、
「わたしも人の子ですから。知らぬことは知らぬし、分からぬことは分かりません」
天から人の世を見ているわけではありませんよ、と言って笑った。
そんなことはわかっているが、尊敬する光見様ならば、なにか自分には想像もつかないような考えを持っているのではないかという期待はあった。期待を裏切ったというのは言い過ぎだが、そういう心を見透かされていたのが気恥ずかしかった。
海路を嫌った理由にはお答えできそうですと、なおも揶揄うように光見が言うので、そういうつもりではありませんからと前置きして牛太が続きを促すと、光見は牛太に問いかけた。
「西津に敦賀、揚がった荷はどこへ向かうでしょう?」
「京へ向かいます」
「どこを通るでしょう?」
「若狭の浦であれば、今津から大津が定石です。敦賀浦であれば笙の川を遡って山向こうの塩津へでて、そこからは船で大津へ入ると思います」
西津も敦賀も、若狭湾に面した支湾の奥にある。どちらも現在の福井県南部の嶺南地方に含まれるが、このころは若狭国と越前国という、東西に隣り合うふたつの国にわかれて存在していた。
海岸線は特徴のあるリアス式海岸で、学生時代に地理を苦手としていた人でも、この問題は落とさなかったのではないかと思う。嶺南地方には千メートルを超えるような山はないが、滋賀県との県境に横たわる野坂山地から海に向かって伸びる山々が海岸線まで達していて、それがのこぎり状の海岸線の谷の部分に拓かれた港町を物理的に分断している。ともに京の北の玄関口であるため、京へとつながる縦の道は古くから整備されていたのに比べ、横につながる道は無かったようだ。もともと縦溝がある地形を南北に整備するは容易でも、山を跨いで道を整備するのは困難だったからだろう。
若狭湾岸の港で揚がった荷は、縦に整備されたそれぞれの道で琵琶湖畔の北側にある港に運ばれ、そこからはまた船に乗せて京をめざした。大津で荷を揚げれば、京はもう目と鼻のさきだ。若狭よりも北に位置する越前が、若狭と並び、京の北の玄関口となっているのは、この海路があるからだろう。
琵琶湖の古称を調べてみると、『鳰の海』や『淡海の海』といった名称がでてくる。わたしも何度か琵琶湖を訪れたことがあるが、湖畔からの眺めはまさしく海だと思った。どこまでもつづく広さだけでなく、絶えず打ちよせてくる波の力強さが、海を感じさせるのだと思う。塩っ辛くない淡水の海。船での輸送は、少ない労力で一度に大量の荷を運ぶことができる。海であれ川であれ、船を浮かべられるなら、船で荷を運んだ方がはるかに楽で、そうした理由から琵琶湖の沿岸には、荷を積み替えるためにいくつもの『津』が築かれていた。
「どちらも淡海まで運び、そこから船で大津に入るわけですが、船を操るのは誰でしょう?」
光見の問いに少し考えてみて、ひとつの名があたまにうかんだ。
「――堅田衆」
的を得た答えだったのだろう。光見は満足気に頷いた。
「堅田衆も気の荒い連中ですからね。今回のように荷が集中する時などは、運賃をつりあげようとしてよく揉めていますから」
堅田衆。淡海の海路に精通した海賊集団。
琵琶湖の海運は、堅田衆の助け無しには成り立たなかった。それは船のあつかいに長けているのはもちろんだが、護衛の役割も担っていたからだ。
海運は少ない労力で一度に大量の荷を運ぶことができる。しかし見方を変えれば、少ない人数で大量のお宝を運んでいるということにもなる。いかに海のように広いとはいえ、四方を陸に囲まれている琵琶湖は、襲撃側からみれば襲いやすく逃げやすい。これに対抗するため、賊に荷を運ばせることを思いついた商人の逞しさには感服する。
社会インフラの一部に組み込まれた堅田衆は、組み込まれた時点で元海賊ということになるのだろうが、その気性が一時に変わるはずもなく、諍いは珍しいことではなかったのではないかと思う。それでも多少の諍いはあろうとも、賊から積み荷を守るために、賊に荷を運ばせることを選んだのだ。
「つまり光見様は敦賀に大船が入ったという報せを受け、そこに西津の状況をあわせて考えた。馬借は大船の荷へ流れ、淡海の廻船も滞るだろう。そうなれば一時的に需給の均衡が崩れ、京で塩の和市が上がるだろうとお考えになった。そういうことでしょうか?」
光見は、そのとおりです、と頷いた。
理はとおる。事実、これは京へ着いてから知ったことだったが、淡海の荷は滞っていたようだ。
「となれば、わからないのは和市ですね……」
値は上がるだろう。これが一割か二割であればここまでの話で説明はつくが、五割となると、これだけを理由とするには疑問が残る。
「気になりますか?」
思案する牛太に、光見がやさしく問いかけた。
「ええ、まあ」
と返事をしてみたが、考えてみれば、何を気にしているのだろうかという自分自身に対する疑問もわいてくる。
(はて、なんの目的があって考えていたのだったか)
その姿をみて光見は、
「だいぶ調子がでてきましたね」
と言って笑った。
(調子がでてきたとはどういうことか?)
すでに疑問符でいっぱいの頭には、言葉の意味を読み解くゆとりがない。
牛太が返事をできないでいると、こちらもちょうど話したいことがあったから、と光見にいわれるまま、牛太は母屋にあげられた。
「さて、多少値が上がっていることを見越したうえで京へ行ってもらったわけですが、五割とはまた随分と大きく動いたものです」
(やはり光見様も予見していなかったか)
「昨日は京からもどったその足で小浜へいきました。市庭で聞いてまわりましたが、めぼしい情報は得られませんでした。今日はこれから西津へ向かいます」
西津へいくまえに、牛太は光見の考えを聞いておきたかったのだ。
「西津へいって、ことの真相を探ろうというわけですか?」
「いえ、大船も着いていることですから、ついでですよ」
今まさに大船が入っている西津には商いの種が溢れている。真相究明を目的に向かうわけではないが、ついでと言いつつも、大きな目的のひとつになっているのは事実だった。
京で供給が減ったことによって値が上がったのであれば、当然、供給する側も滞った影響で供給過多となっているはずで、そうなれば若狭では逆に値は下げているだろうと考えていた。しかし小浜で塩の値を探ってみると、下げているという話はどこからも聞こえてこない。京の和市がそのまま若狭につながるわけではないにしても、滞った分の影響はでていそうなものだが、それを確認することはできなかった。
「小浜でかわらずというのであれば、西津を当たったところで期待する結果は得られないでしょう」
光見は、ついでくらいの気持ちがよいでしょうね、と言い添えた。
「何故でしょう?」
暗に否定する光見の言葉に、問い返すと、
「偶然重なっただけかもしれない、ということです」
と、光見は答えた。
「我らは知り得た事実から京で塩の値が上がると読み、そして実際に上がった。しかしそれは、ほかの何かべつの要因によって上がったところに、偶然重なっただけかもしれません」
というのだ。
仮にそうであれば、小浜で訊こうが西津で訊こうが、たとえ敦賀まで足を運んだとしても答えには行き着かないだろう。
「偶然重なっただけ……」
それはそれで腑に落ちない気もするが、かと言ってその可能性を明確に否定できるだけの根拠もない。ただたしかに、川を挟んで存在する小浜と西津で、小浜で値がかわらずというのであれば、西津でも同様であると考える方がしぜんだろう。
「商いのために西津へ行くのであれば、あたまを切り替えて動かなければなりません」
と、まだ納得していない牛太に、光見は言葉をつづけた。
「どういうことでしょう?」
「理由はさておき、京の塩の値は大きく上がっています。そして若狭では変わっていないということです」
目のまえに横たわっていた疑問から目をそらせば、商人でなくともわかる単純明快なことですよ、と言った。
そうだ。むずかしく考えることはない――。
(安く仕入れて、高く売る)
この好機を逃す手はない。腑に落ちないことは色々とあるが、はっきりしている事実から、いますべきことが何なのかは明白だった。
「わかりました。皆に声をかけてきます」
光見も子細承知したものと理解して、頷いた。
機を逸してはならない。牛太が急ぎ皆を集めに立とうとしたところへ、光見の妻で先代高倉名名主の娘、福子が現れた。
「急ぎの用向きのところすまないが、もうひとつ聞いていっておくれ」
福子はそう言いながら足早に光見の隣へ来て、腰を下ろした。
単に座るだけの所作にすら魅せられる。凛とした佇まいは、それだけで周囲の空気を一変させた。
「息災のようだな」
手短に済ませると前置いて、福子は話をつづけた。
「虎臥のことは覚えているね?」
光見、福子の間には一人娘があって、名を虎臥と言った。
「最近は話す機会もありませんが、市で見かけるくらいでしょうか」
虎臥とは兄妹のようにして育った。歳は牛太のひとつ下で、村の中では上も下も少し歳が離れていたこともあり、上の連中が遊び相手だった頃はふたりでそれに付き従い、下の連中が遊び相手になった頃には、ふたりでその面倒をみていた。子供ながらに歳に応じた役割を果たしていた。毎日のように顔を合わせていたものが疎遠になったのは、仲違いでも何でもなく、単に子供の役割を終えて、大人の役割を担うようになっただけのことだった。
「昔から男勝りの偉丈夫でしたから。遠目にも立派な立ち姿で、あれはちょっと目を引きます」
意識して探そうとせずとも、市の人だかりの中にあって、頭ひとつふたつ出ているものだから、しぜんと目がいく。しかも色白で、目鼻立ちも母福子の面影がある器量よしだったので、『瓜生の虎』はこの界隈では割と有名だった。
「あれは弓が上手いからね。むかしっから山にわけ入って獣を獲ってはその肉を食っていたから、きっと獣の血が混じったんだろうさ」
福子がくつくつと笑った。
別に疎ましく思っているふうではなく、単に面白がっているようだったが、
「またお前はそんなことを言って。丈夫であることはいいことだが、面白がってばかりもいられない」
と、隣の光見は困ったような笑みを浮かべている。
「べつに面白がっているわけではないさ。我らの生業を考えれば、男も女もなく腕っぷしが強いに越したことはないからね。まあ、賊が寄ってこないのはいいが、郷の男どもも寄り付かないのはそろそろ困る歳になってきたというだけのこと」
福子がそう言ってまたくつくつと笑うと、まあそうだが、と言いつつ光見も笑った。二人が笑うのにあわせて牛太も笑っていると、鼻先をなにかが勢いよく掠めていった。
――タンッ!
乾いた音が響いた。
なにが起きたのかわからなかったが、牛太は反射的に身をよじって後ろ手を突いていた。
音のした方に目をむけると、柱に矢が突き刺さっていた。
「ひっ!?」
声になりきらない恐怖が、牛太の口許からこぼれた。
矢が放たれたであろう外に目をむけると、足元に一頭の立派な雄鹿を横たえて、弓を射たままの姿勢の虎臥が立っていた。
「楽しげじゃの? わらわも仲間に入れてくれろ」
そう言って弓を下ろすと、足元の雄鹿をいとも軽々と担ぎ上げた。
「虎っ! なんということをっ!」
光見はえらい剣幕で怒っているが、当の本人はどこ吹く風で、
「矢は絶対にはずしません。絶対にはずさぬということは、絶対に当てぬこともできるということ」
と言って、気にする素振りがない。
虎臥は母屋にあがると、いまだ腰が抜けて後ろ手を突いたままの牛太の前に立った。
(これほどであったか――)
遠目に見てかなりの上背があるとは思っていたが、ひさしぶりに間近でみた虎臥は、ゆうに六尺(180センチ以上)はあろうかという偉丈夫で、下から見上げる格好のせいもあってか、牛太の眼には、天を衝くようにも映った。
「久しいの、ウシ」
「そうだな、トラ」
なんと返してよいかわかからず、言うに返すだけで精一杯だった。
商いに出るようになってからは仮名の次郎大夫で通していたので、幼名の牛太で呼ばれたのはひさしぶりだった。
「座りなさい、虎臥。不作法ですよ」
ことの成り行きを身じろぎひとつせずに静観していた福子が、虎臥を窘める。不作法どころの話ではないのだが、そんなことはお構いなしに淡々と話を続けた。
「ちょうどお前の話をしていたところだ。次郎をお前の婿にと考えている。よいな?」
福子の口から告げられた言葉に牛太は耳を疑ったが、いまこの場でそのことに驚いているのは自分ひとりのようだった。
あるいは光見の話というのも、このことだったのかもしれない。
「ウシはそれでよいと?」
「次郎はそれでよいですか?」
虎臥から福子への問いが、福子を介してそのままこちらへと向けられた。
親子三人の視線を一手に集めるている。断る理由は無いが、仮に理由があったとしても、それを口にできる状況ではない。
「異論ありません」
と答えると、福子はすぐに視線を虎臥にもどして、
「よいそうだ。お前もよいな?」
と、虎臥に問う。
ただし、問いかけてはいるが、よいという前提のもと、念押しに問うているにすぎない。
「ならばわらわにも異論ない」
と、虎臥が返すと、福子は拍手を打って、
「今日から夫婦です。力を合わせ、困難に臨むように」
と言って、話を結んだ。
驚くほど手短に、そしてあっさりと話がまとまった。商いの話もこれくらいとんとん拍子で決まってくれればどれほど楽だろうか。
「これを機に、名を改めてはどうでしょう?」
と、光見は言った。
「いつまでも牛曳きの牛太というわけにもいかないでしょう。わたしから一字とって『良見』としてはどうでしょう?」
(仮名で事足りていたので、名を変えることなど考えたことがなかった)
光見からの突然の提案に、牛太は返す言葉がみつからないでいた。
「幼い頃から牛太を知っています。教えたことを覚えるのは誰でもできますが、牛太はそこから更に、見聞きしたことから考えることができる。商いはその時々の流れで、それまでうまくいっていたやり方がまったく裏目にでることもあります。都度、状況を見極め、その時々でもっとも正しいやり方を導き出すことができなければ、商人はつとまりません。良く見て、良く聞いて、良く考える。牛太に相応しい良い名だと、わたしは思います」
娘の虎臥と幼馴染であったということもあるだろうが、むかしからなにかと目をかけてもらっていた。良く見て、良く聞いて、良く考えるというのは、そもそも光見から学んだことで、自身のなかにもとから存在したものではない。
怒涛のように押し寄せてきた自身をとりまく事情は、夢と現実が入り混じっているような気がして、それが牛太を冷静にしてくれていた。
朝日が昇ってからまだ一時。
久しぶりに再会した虎臥と夫婦になり、名も変わった。
そしてこれから仲間を集め、おそらくまた京へ塩を運ぶことになるだろう。
(なんとも濃い一日になったものだな)
牛太は、まるで他人事のように思った。
(明け方はまだ冷えるな)
牛太が手にした里芋の汁物を啜ると、もうもうと立ちのぼる湯気で目のまえがまっ白になり、一瞬にして天も地もわからなくなった。
無尽蔵に白煙を噴きあげる椀を顔から遠ざけ、炙っている鯖の開きのようすをたしかめる。きのう小浜の市庭で買いもとめたものだ。
時折、身が弾け、噴きだした油が熾火に跳んだ。するとそこにジューっと、音をたてて火が立つ。視覚、聴覚、嗅覚。感じるものすべてが食欲をそそる。
現代に於いても、鯖は京都人がもっとも好む魚だが、それは約700年前のこの時代もかわらない。もっといえば、さらに七700年遡っても同じだったのではないかと思う。
若狭国は、平安京遷都との以前から、朝廷へ海産物を納めてきた御食国のひとつで、平安時代中期に編纂された延喜式には、明確に「鯖」という記述はないようだが、十日毎に納めよと定められた「雑魚」には、当然含まれていただろう。
小浜と京都をむすぶ街道を鯖街道とよぶ。小浜から、牛太がいま鯖を炙っている瓜生を抜けて水坂峠を越えるルートもそのひとつだ。現代人のあたまでは、小浜から歩いて京都へ行けと言われたなら、一歩踏みだす前から途方にくれてしまいそうだが、電車も車もない時代の人たちは「京は遠くても十八里」と言って、小浜で揚がった海産物を背負って、丸一日かけて運んだそうだ。
鯖は足のはやい魚(腐りやすい)ではあるが、塩を振って丸一日ひとの背にゆられた鯖は、京へ着くころには、いい塩梅になっていたことだろう。
飯を食いながら眺めていた川向うの山々に、頂上から順に朝日が当たっていく。
(そろそろ向かうか)
牛太は濡らした手ぬぐいで、手と口の周りに付いた油を拭った。
家をでていくらも歩かぬうちに、名主の屋敷が見えてくる。今日はまず、ここに顔をだしておきたかった。
ほかと同様、瓜生荘内にも幾人かの名主があった。
ここも元は在地の百姓だったが、先代に聡い人があって、財を成して名主におさまった。いまの名主も知識人で、村の顔役として人望篤かった。
牛太が屋敷内に足を踏み入れると、縁側の板の間に置いた小机に、筆を手にしてむかう高倉名名主信濃房光見の姿がみえた。
「昨日は御苦労様でした」
縁側へ近づくと、こちらから声をかけるより早く、光見から労いの言葉がでた。信濃房光見とはこういう人物だった。
「いえ、何でもありませんよ。それより光見様の読みどおりでした」
そう伝えると、光見は小さく二度三度と頷いた。
「京の和市は如何でしたか?」
「ひと月まえから比べると、五割はあがったと申す者もありました」
「それは随分ですね」
言葉とは裏腹に、さほど驚いたようすには見えない。
あるいはこれも、想定していた範疇のことなのかもしれない。
和市とは売買相場の意で、売り手と買い手の和(合意)をもって決まった価格を言い、逆に当事者間での合意がないままに一方的に決められた価格のことを強市と言った。
「やはり大船が入ったからでしょうか?」
三日前に西津に大船が入った。それと時を同じくして、敦賀にも大船が入ったという報せが、光見のもとへ届いた。光見は直ちに村の者を集め、土倉に留め置いていた塩を京へ運ぶよう指示をだした。ただし、通常であれば水坂峠を越えて琵琶湖畔へでて、そこからは海路で京をめざすところを、陸路で向かってほしいということだった。
「大荷は喜ばしいことですが、馬借も限りがありますからね」
と、光見は答えた。
大船が湊に入り、大荷を揚げることで若狭は潤う。しかし荷を運ぶ馬借のあたま数には限りがあって、すべての荷を一度には運びきれない。後回しにされ、流通が滞ることで生じた品薄を狙ったということだった。
塩の産地である西津と敦賀に大船が入り、馬借がみなそちらに流れた。塩の輸送が滞り、それによって京では塩の需給の均衡が崩れる。故に塩の値は上がったのだと。
若狭湾に面した西津荘は、田地畠地に乏しい土地であるということもあるのだろうが、平城京跡から出土した木簡などから、律令税制の租・庸・調のうち、調(織物やその地方の特産品)の税として塩をおさめていたことがわかっている。また若狭湾沿岸には数多の製塩遺跡が確認されていることから、古来より塩の産地であったというだけでなく、その生産が組織的に行われていたという事実もみえてくる。
「理屈はわかります。ただそれで五割も値をあげるでしょうか?」
若狭から京へ向かう塩は、税によって徴収されるものだけではない。各々が商いのために運ぶものの方が多く、まったく供給が途絶えるというわけではないはずだ。そう考えると、五割というのは理にあわない気がする。と、牛太は思っていた。
年貢の輸送は儲けにならないので、陸の輸送を担う馬借も、海の輸送を担う廻船も、市井にながす品を中心にあつかう傾向があったようで、しばしば年貢の輸送が滞り、お上からは年貢の輸送をしっかりやれとお達しがあったが、すぐにまたもとのとおりに戻ってしまうということが繰り返されていたらしい。
理由は単純だろう。みな儲けは多い方がいいし、損はしたくない。すでに貨幣経済のなかで生きているこの時代の庶民のあたまのなかは、現代人のそれとさほどかわらないのかもしれない。
「難しい問いですね」
そう言って光見は、髭の無いつるりとした顎に手をやり、顎を揉んだ。
(光見様も予見していなかったのか)
思案するときの光見のクセをみて、牛太はそう理解した。
「それともうひとつ。海路を使わず、陸路でというのは何故だったでしょうか?」
光見のようすをみて、牛太はもうひとつの疑問をたずねてみたが、
「期待を裏切ってしまいましたかな?」
と、光見は揶揄いを含んだ表情で答えた。
「いえっ、そういうわけでは――」
あわてて牛太が釈明しようとするのを光見は、よいよいと手で制して、
「わたしも人の子ですから。知らぬことは知らぬし、分からぬことは分かりません」
天から人の世を見ているわけではありませんよ、と言って笑った。
そんなことはわかっているが、尊敬する光見様ならば、なにか自分には想像もつかないような考えを持っているのではないかという期待はあった。期待を裏切ったというのは言い過ぎだが、そういう心を見透かされていたのが気恥ずかしかった。
海路を嫌った理由にはお答えできそうですと、なおも揶揄うように光見が言うので、そういうつもりではありませんからと前置きして牛太が続きを促すと、光見は牛太に問いかけた。
「西津に敦賀、揚がった荷はどこへ向かうでしょう?」
「京へ向かいます」
「どこを通るでしょう?」
「若狭の浦であれば、今津から大津が定石です。敦賀浦であれば笙の川を遡って山向こうの塩津へでて、そこからは船で大津へ入ると思います」
西津も敦賀も、若狭湾に面した支湾の奥にある。どちらも現在の福井県南部の嶺南地方に含まれるが、このころは若狭国と越前国という、東西に隣り合うふたつの国にわかれて存在していた。
海岸線は特徴のあるリアス式海岸で、学生時代に地理を苦手としていた人でも、この問題は落とさなかったのではないかと思う。嶺南地方には千メートルを超えるような山はないが、滋賀県との県境に横たわる野坂山地から海に向かって伸びる山々が海岸線まで達していて、それがのこぎり状の海岸線の谷の部分に拓かれた港町を物理的に分断している。ともに京の北の玄関口であるため、京へとつながる縦の道は古くから整備されていたのに比べ、横につながる道は無かったようだ。もともと縦溝がある地形を南北に整備するは容易でも、山を跨いで道を整備するのは困難だったからだろう。
若狭湾岸の港で揚がった荷は、縦に整備されたそれぞれの道で琵琶湖畔の北側にある港に運ばれ、そこからはまた船に乗せて京をめざした。大津で荷を揚げれば、京はもう目と鼻のさきだ。若狭よりも北に位置する越前が、若狭と並び、京の北の玄関口となっているのは、この海路があるからだろう。
琵琶湖の古称を調べてみると、『鳰の海』や『淡海の海』といった名称がでてくる。わたしも何度か琵琶湖を訪れたことがあるが、湖畔からの眺めはまさしく海だと思った。どこまでもつづく広さだけでなく、絶えず打ちよせてくる波の力強さが、海を感じさせるのだと思う。塩っ辛くない淡水の海。船での輸送は、少ない労力で一度に大量の荷を運ぶことができる。海であれ川であれ、船を浮かべられるなら、船で荷を運んだ方がはるかに楽で、そうした理由から琵琶湖の沿岸には、荷を積み替えるためにいくつもの『津』が築かれていた。
「どちらも淡海まで運び、そこから船で大津に入るわけですが、船を操るのは誰でしょう?」
光見の問いに少し考えてみて、ひとつの名があたまにうかんだ。
「――堅田衆」
的を得た答えだったのだろう。光見は満足気に頷いた。
「堅田衆も気の荒い連中ですからね。今回のように荷が集中する時などは、運賃をつりあげようとしてよく揉めていますから」
堅田衆。淡海の海路に精通した海賊集団。
琵琶湖の海運は、堅田衆の助け無しには成り立たなかった。それは船のあつかいに長けているのはもちろんだが、護衛の役割も担っていたからだ。
海運は少ない労力で一度に大量の荷を運ぶことができる。しかし見方を変えれば、少ない人数で大量のお宝を運んでいるということにもなる。いかに海のように広いとはいえ、四方を陸に囲まれている琵琶湖は、襲撃側からみれば襲いやすく逃げやすい。これに対抗するため、賊に荷を運ばせることを思いついた商人の逞しさには感服する。
社会インフラの一部に組み込まれた堅田衆は、組み込まれた時点で元海賊ということになるのだろうが、その気性が一時に変わるはずもなく、諍いは珍しいことではなかったのではないかと思う。それでも多少の諍いはあろうとも、賊から積み荷を守るために、賊に荷を運ばせることを選んだのだ。
「つまり光見様は敦賀に大船が入ったという報せを受け、そこに西津の状況をあわせて考えた。馬借は大船の荷へ流れ、淡海の廻船も滞るだろう。そうなれば一時的に需給の均衡が崩れ、京で塩の和市が上がるだろうとお考えになった。そういうことでしょうか?」
光見は、そのとおりです、と頷いた。
理はとおる。事実、これは京へ着いてから知ったことだったが、淡海の荷は滞っていたようだ。
「となれば、わからないのは和市ですね……」
値は上がるだろう。これが一割か二割であればここまでの話で説明はつくが、五割となると、これだけを理由とするには疑問が残る。
「気になりますか?」
思案する牛太に、光見がやさしく問いかけた。
「ええ、まあ」
と返事をしてみたが、考えてみれば、何を気にしているのだろうかという自分自身に対する疑問もわいてくる。
(はて、なんの目的があって考えていたのだったか)
その姿をみて光見は、
「だいぶ調子がでてきましたね」
と言って笑った。
(調子がでてきたとはどういうことか?)
すでに疑問符でいっぱいの頭には、言葉の意味を読み解くゆとりがない。
牛太が返事をできないでいると、こちらもちょうど話したいことがあったから、と光見にいわれるまま、牛太は母屋にあげられた。
「さて、多少値が上がっていることを見越したうえで京へ行ってもらったわけですが、五割とはまた随分と大きく動いたものです」
(やはり光見様も予見していなかったか)
「昨日は京からもどったその足で小浜へいきました。市庭で聞いてまわりましたが、めぼしい情報は得られませんでした。今日はこれから西津へ向かいます」
西津へいくまえに、牛太は光見の考えを聞いておきたかったのだ。
「西津へいって、ことの真相を探ろうというわけですか?」
「いえ、大船も着いていることですから、ついでですよ」
今まさに大船が入っている西津には商いの種が溢れている。真相究明を目的に向かうわけではないが、ついでと言いつつも、大きな目的のひとつになっているのは事実だった。
京で供給が減ったことによって値が上がったのであれば、当然、供給する側も滞った影響で供給過多となっているはずで、そうなれば若狭では逆に値は下げているだろうと考えていた。しかし小浜で塩の値を探ってみると、下げているという話はどこからも聞こえてこない。京の和市がそのまま若狭につながるわけではないにしても、滞った分の影響はでていそうなものだが、それを確認することはできなかった。
「小浜でかわらずというのであれば、西津を当たったところで期待する結果は得られないでしょう」
光見は、ついでくらいの気持ちがよいでしょうね、と言い添えた。
「何故でしょう?」
暗に否定する光見の言葉に、問い返すと、
「偶然重なっただけかもしれない、ということです」
と、光見は答えた。
「我らは知り得た事実から京で塩の値が上がると読み、そして実際に上がった。しかしそれは、ほかの何かべつの要因によって上がったところに、偶然重なっただけかもしれません」
というのだ。
仮にそうであれば、小浜で訊こうが西津で訊こうが、たとえ敦賀まで足を運んだとしても答えには行き着かないだろう。
「偶然重なっただけ……」
それはそれで腑に落ちない気もするが、かと言ってその可能性を明確に否定できるだけの根拠もない。ただたしかに、川を挟んで存在する小浜と西津で、小浜で値がかわらずというのであれば、西津でも同様であると考える方がしぜんだろう。
「商いのために西津へ行くのであれば、あたまを切り替えて動かなければなりません」
と、まだ納得していない牛太に、光見は言葉をつづけた。
「どういうことでしょう?」
「理由はさておき、京の塩の値は大きく上がっています。そして若狭では変わっていないということです」
目のまえに横たわっていた疑問から目をそらせば、商人でなくともわかる単純明快なことですよ、と言った。
そうだ。むずかしく考えることはない――。
(安く仕入れて、高く売る)
この好機を逃す手はない。腑に落ちないことは色々とあるが、はっきりしている事実から、いますべきことが何なのかは明白だった。
「わかりました。皆に声をかけてきます」
光見も子細承知したものと理解して、頷いた。
機を逸してはならない。牛太が急ぎ皆を集めに立とうとしたところへ、光見の妻で先代高倉名名主の娘、福子が現れた。
「急ぎの用向きのところすまないが、もうひとつ聞いていっておくれ」
福子はそう言いながら足早に光見の隣へ来て、腰を下ろした。
単に座るだけの所作にすら魅せられる。凛とした佇まいは、それだけで周囲の空気を一変させた。
「息災のようだな」
手短に済ませると前置いて、福子は話をつづけた。
「虎臥のことは覚えているね?」
光見、福子の間には一人娘があって、名を虎臥と言った。
「最近は話す機会もありませんが、市で見かけるくらいでしょうか」
虎臥とは兄妹のようにして育った。歳は牛太のひとつ下で、村の中では上も下も少し歳が離れていたこともあり、上の連中が遊び相手だった頃はふたりでそれに付き従い、下の連中が遊び相手になった頃には、ふたりでその面倒をみていた。子供ながらに歳に応じた役割を果たしていた。毎日のように顔を合わせていたものが疎遠になったのは、仲違いでも何でもなく、単に子供の役割を終えて、大人の役割を担うようになっただけのことだった。
「昔から男勝りの偉丈夫でしたから。遠目にも立派な立ち姿で、あれはちょっと目を引きます」
意識して探そうとせずとも、市の人だかりの中にあって、頭ひとつふたつ出ているものだから、しぜんと目がいく。しかも色白で、目鼻立ちも母福子の面影がある器量よしだったので、『瓜生の虎』はこの界隈では割と有名だった。
「あれは弓が上手いからね。むかしっから山にわけ入って獣を獲ってはその肉を食っていたから、きっと獣の血が混じったんだろうさ」
福子がくつくつと笑った。
別に疎ましく思っているふうではなく、単に面白がっているようだったが、
「またお前はそんなことを言って。丈夫であることはいいことだが、面白がってばかりもいられない」
と、隣の光見は困ったような笑みを浮かべている。
「べつに面白がっているわけではないさ。我らの生業を考えれば、男も女もなく腕っぷしが強いに越したことはないからね。まあ、賊が寄ってこないのはいいが、郷の男どもも寄り付かないのはそろそろ困る歳になってきたというだけのこと」
福子がそう言ってまたくつくつと笑うと、まあそうだが、と言いつつ光見も笑った。二人が笑うのにあわせて牛太も笑っていると、鼻先をなにかが勢いよく掠めていった。
――タンッ!
乾いた音が響いた。
なにが起きたのかわからなかったが、牛太は反射的に身をよじって後ろ手を突いていた。
音のした方に目をむけると、柱に矢が突き刺さっていた。
「ひっ!?」
声になりきらない恐怖が、牛太の口許からこぼれた。
矢が放たれたであろう外に目をむけると、足元に一頭の立派な雄鹿を横たえて、弓を射たままの姿勢の虎臥が立っていた。
「楽しげじゃの? わらわも仲間に入れてくれろ」
そう言って弓を下ろすと、足元の雄鹿をいとも軽々と担ぎ上げた。
「虎っ! なんということをっ!」
光見はえらい剣幕で怒っているが、当の本人はどこ吹く風で、
「矢は絶対にはずしません。絶対にはずさぬということは、絶対に当てぬこともできるということ」
と言って、気にする素振りがない。
虎臥は母屋にあがると、いまだ腰が抜けて後ろ手を突いたままの牛太の前に立った。
(これほどであったか――)
遠目に見てかなりの上背があるとは思っていたが、ひさしぶりに間近でみた虎臥は、ゆうに六尺(180センチ以上)はあろうかという偉丈夫で、下から見上げる格好のせいもあってか、牛太の眼には、天を衝くようにも映った。
「久しいの、ウシ」
「そうだな、トラ」
なんと返してよいかわかからず、言うに返すだけで精一杯だった。
商いに出るようになってからは仮名の次郎大夫で通していたので、幼名の牛太で呼ばれたのはひさしぶりだった。
「座りなさい、虎臥。不作法ですよ」
ことの成り行きを身じろぎひとつせずに静観していた福子が、虎臥を窘める。不作法どころの話ではないのだが、そんなことはお構いなしに淡々と話を続けた。
「ちょうどお前の話をしていたところだ。次郎をお前の婿にと考えている。よいな?」
福子の口から告げられた言葉に牛太は耳を疑ったが、いまこの場でそのことに驚いているのは自分ひとりのようだった。
あるいは光見の話というのも、このことだったのかもしれない。
「ウシはそれでよいと?」
「次郎はそれでよいですか?」
虎臥から福子への問いが、福子を介してそのままこちらへと向けられた。
親子三人の視線を一手に集めるている。断る理由は無いが、仮に理由があったとしても、それを口にできる状況ではない。
「異論ありません」
と答えると、福子はすぐに視線を虎臥にもどして、
「よいそうだ。お前もよいな?」
と、虎臥に問う。
ただし、問いかけてはいるが、よいという前提のもと、念押しに問うているにすぎない。
「ならばわらわにも異論ない」
と、虎臥が返すと、福子は拍手を打って、
「今日から夫婦です。力を合わせ、困難に臨むように」
と言って、話を結んだ。
驚くほど手短に、そしてあっさりと話がまとまった。商いの話もこれくらいとんとん拍子で決まってくれればどれほど楽だろうか。
「これを機に、名を改めてはどうでしょう?」
と、光見は言った。
「いつまでも牛曳きの牛太というわけにもいかないでしょう。わたしから一字とって『良見』としてはどうでしょう?」
(仮名で事足りていたので、名を変えることなど考えたことがなかった)
光見からの突然の提案に、牛太は返す言葉がみつからないでいた。
「幼い頃から牛太を知っています。教えたことを覚えるのは誰でもできますが、牛太はそこから更に、見聞きしたことから考えることができる。商いはその時々の流れで、それまでうまくいっていたやり方がまったく裏目にでることもあります。都度、状況を見極め、その時々でもっとも正しいやり方を導き出すことができなければ、商人はつとまりません。良く見て、良く聞いて、良く考える。牛太に相応しい良い名だと、わたしは思います」
娘の虎臥と幼馴染であったということもあるだろうが、むかしからなにかと目をかけてもらっていた。良く見て、良く聞いて、良く考えるというのは、そもそも光見から学んだことで、自身のなかにもとから存在したものではない。
怒涛のように押し寄せてきた自身をとりまく事情は、夢と現実が入り混じっているような気がして、それが牛太を冷静にしてくれていた。
朝日が昇ってからまだ一時。
久しぶりに再会した虎臥と夫婦になり、名も変わった。
そしてこれから仲間を集め、おそらくまた京へ塩を運ぶことになるだろう。
(なんとも濃い一日になったものだな)
牛太は、まるで他人事のように思った。
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