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彼と見知らぬ美女 ~四日目 疑心~

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ゆっくりと意識が覚醒していく中で、ふと違和感を感じた。
感覚だけでは無く、体感としていつもと何かが違う。

もう見慣れてしまった天井を視界に入れた後、起き上がった身体を横に向けてその場所を確認する。

―――居ない―――

広いダブルベットのシーツの上、いつもなら三嶋社長が眠った形跡がある筈なのに、それが無かった。

仕事でどんなに遅くなろうとも、睡眠だけはとっていた人が、昨夜はそう出来なかったのだろうか。

確かに場所が違っても変わらず忙しくしていたけれど、徹夜する程だとは思わなかった。

支度を済ませ、書斎を覗いて見たけれど、そこにも三嶋社長の姿は無くてふと不安な気持ちがよぎる。

ここにも居ないなんて。

もしかして……外へ?

それなら置手紙くらいしてくれてもいいのに。
内心そんな文句を言いつつ、さてどうするかと考え込んだ。

外へ出るなと言われているけれど、社長が居ないのでは仕事のしようも無いわけで。

ここに来た当初から使っている私専用のデスクで、パソコンを立ち上げメールのチェックや返信を行うが、半時程経っても三嶋社長が戻ってくる気配は無かった。
他の仕事については三嶋社長の承認が必要なので、それが無くては勧められない。

手が空いたところで、ふと嫌な考えが浮かぶ。

……何か、あったんだろうか。

彼が私を置き去りにするとは思えない、なら、今ここにいないのはなぜか。

何かあったと考えるのが普通だろう。

本社を離れてから四日目。そろそろ現場が混乱し始める頃でもある。

私と一緒に働いていた同僚達は、今頃どうしているんだろう。

ふと、三嶋社長のデスクに目を向けた。それを見るに、慌てて出たとういわけでは無いらしい。

書類は本人と同じく整然と整えられているし、走り書きのメモがあるわけでもない。

ただあるのは、がらんと空いた彼の椅子だけ。

起きた時に見た冷たいシーツの感触と、空いた椅子が重なって、小さく溜息をついた。

……やっぱり、どこに行ったか判るような物は置いてないか。

書斎を出て、通路を歩いてみる。ここに連れられて来て最初の頃、本当に外に出られないのかと確認した時の事を思い出した。

エレベーターを見てみたら、暗証番号仕様になっていて驚いたっけ。
ここまでやる? って。

三嶋社長の意図がわからなくて、混乱するばかりだった。だけど今は思う。普通ならもっと拒否していた筈の状況なのに、私はそうしなかった。

出してくれないなら仕方ない、と自分がどこに居るのかも確認するのを辞めた。

三嶋社長が無体な事をする人間では無いという確信が、これまでの歳月で構築されていたからかもしれない。

なんだかんだで、あの人を信用していたし、している。たぶん、今彼がここに居ないのは、何かトラブルがあったからなんだろう。

……私、何もしなくていいのかしら。

手伝える事があるなら手伝いたい、と思う私は甘いのだろうか。

……まあ、でも一応ちゃんとした?
いやちゃんとはしてないかな。
でも秘書としての契約はしているのだし、相応の働きはしないとね。

しかし、出られないのはどうしようもない。

来た時と同じく、私はエレベーター前で立ち尽くしていた。目の前には一基だけのエレベーターの扉がある。
壁面に備えられているのは上下ボタンでは無く、あるのは下を示すものだけ。そして、その横には認証型の番号入力装置。

何でもいいから適当に押してみようか、と考える。だけど、なぜかそうする気にはなれなかった。

とりあえず、もう少し大人しく待っていようかしら。

長くなるのならさすがに連絡が来るだろう。来なければ、その時に考えればいい。

「部屋に戻ろう……」

そう一人呟いて、踵を返そうとした時だった。

小さな気配に目を向けると、エレベーターの階層ランプが、一つ一つ、上に上がってくるのが見えた。

点滅が順番に上へと―――この最上階へと向かってくる。

―――帰って来た?

ここに来て四日目。今の処、三嶋社長以外の人間の顔を見てはいない。

食事の用意などはしてもらっているが、それでも外部の人間とは接触出来ない様に徹底されていた。

たぶん、三嶋社長が帰ってきたのだろう。

階層ランプが到着の合図を鳴らす。扉がガタンと機械的な音を立て、開いていく。

「もうっ。どこ行ってらしたんですか。せめて置手紙くらい―――」

そこまで言ったところで、私は固まった。

ちょっとした文句を言うつもりだった。

彼に。三嶋社長に。

だけど。
開いたエレベーターの中。

そこには、私を睨むように見下ろす一人の女性が不快そうに顔を顰めて立っていた。

「ダレ、貴女」

続けて発せられた声に、びくりと身体が反応した。

嫌悪、そんな言葉がぴったりくる位、棘のある声音だった。瞬時に記憶を辿ってみるが、面識はないと確信する。
なのになぜ、そんな風に言われなければいけないのか。初対面の人間に、そうされる覚えは無いのだが。

「貴女、ここで何してるの」

言いながら、女性は私を押し退けるようにエレベーターから足を踏み出した。

って肩ちょっと当たったんですけど。

誰ってこっちの台詞だし。

開口一番気圧されたのが悔しくて、内心反論を返した。

てっきりここには三嶋社長と私だけしかいない―――いや、「入れない」のかと思っていた。だけど、違ったらしい。

「……私は三嶋尚悟の秘書をしております古宮と申します。失礼ですが、どちら様でしょうか」

万一の事を考えて、苛立ちは抑えつつなるべく丁寧に自己紹介した。もし取引関係なら丁重に対応しなければいけない。
……非常に不本意ではあるけれど。

しかし、私が秘書である事を名乗った時点で、女性は鼻をフンと慣らし、見下すように嗤った。

そしてまるで品定めをするみたいに、人の上から下まで眺めたかと思えば、また鼻で笑い飛ばす。

……うっわぁ秘書生活何本かの指に入るくらい失礼だわこの人。

一目見て、自分の方が上だと判断したらしい。

三嶋社長付秘書という職業柄、彼女の様な人間には何度も遭遇している。
この様な反応には正直言って慣れっこだけれど、それでも気分が良いとは言い難かった。

まあ、相当自分に自信があるのだろう。

失礼な態度さえ無ければ確かに結構な美女ではある。

肩で切り揃えられた艶のある黒髪に、それと同じくらい黒目の大きな猫の様な瞳。
豊満な胸元と対比するようにくびれたウエストは、ほとんどの女性が憧れるものだろう。
自信の表れなのか高いピンヒールに収まった足はほっそりと長く、目元の黒子とあいまって彼女をとても妖艶に見せている。

……見た目だけなら目の保養になったのに。

一瞬、呑気にもそんな事を考えてしまった。彼女が表れた事自体には、ちゃんと驚いているのだけど。

しかし彼女は、私の職業を名乗ったにも関わらず、相変わらずの敵意を向けたまま、余計に顔を歪ませただけだった。

「秘書、ねえ……貴女、恥ずかしくないの? こんなところまで引っ付いてきて」

「……は?」

せっかくの美人が台無しな程、顔を歪ませたまま彼女が言う。

その言葉に、思わず目が点になる。今の私は、相当な間抜け面を晒していると断言できるが、そんな事には構っていられなかった。

……引っ付いて来たって、誰が。

もしかして、私の事言ってるのかしらこの人。

……意味が分からないんですが。

引っ付いて来たどころでは無く、ほぼ強制的に、無理矢理攫われてきたのだこちらは。
だけどそれを口にする訳にもいかず、ならどう応えるかと思案する。

なんだかとてつもなく誤解されている気がする。主に、私の人物的印象を。

「……こちらには、三嶋に同行するよう言われた迄です」

そんな事より名を名乗れ。

心の中では敬語すら外して、無難な返答だけを示してあげた。日本語が通じない相手は流すに限る。
それが私の七年という秘書生活で得た処世術だ。

まあ、こんなところで使う羽目になるとは思わなかったけど。

……今は心底、三嶋社長にこの場に居てほしい。切実に。

本当にあの人一体どこ行ってるの。で、誰なのこの女性(ひと)!

「嘘おっしゃい。どうせ勝手に押しかけてきたんでしょうけど、残念ね。貴女程度には尚悟は靡かないわよ。なんたって私がいるんだから」

……。

意味わからない発言、再び。
頭が痛い気がするのだけど、偏頭痛だろうか。女性には多いと聞くし。私は偏頭痛持ちでは無かった筈だが。

尚悟、尚悟ね。
……名前で呼ぶような間柄だと?

これまで三嶋社長に近づこうとする女性達を散々見てきたけれど、皆総じて彼の事を勝手に名前で呼んでいた。
だから呼び捨てにしていたとしても、何ら根拠が無いと言う事を私は知っている。

「……私は一介の秘書に過ぎません。申し訳御座いませんが、只今三嶋は席を外しております。戻り次第ご連絡する様伝えますので、恐れ入りますがお名前とご連絡先をお伺いしてもよろしいでしょうか」

うん。私頑張った。頑張ったよ。自分を久しぶりに褒めたい。

あくまで秘書として、そしてあくまで三嶋尚悟という個人には関わりが無い人間として、努めて冷静に促した。

しかし、再び自分の情報を提示する事を求められたのが気に入らなかったのか、はたまた私自身が気に入らないのか(たぶんこっちだけど)目の前の美女は苛立たし気に溜息をついた後、ぎっとこちらを睨みつけた。

美人の眼光は迫力あるけど、一応こちらも年季の入った秘書なのだ。

―――だから。

……負けないわよ。

「グダグダと五月蠅いわねっ! 貴女みたいな人が居られるような場所じゃないのよここはっ! さっさと出て行きなさいっ!!」

まだ名乗るつもりは無いらしい。

不審人物で通報してあげようかしら。連絡手段無いけど。ああでも、この人はこの階まで上がって来られたんだから、もちろん降りる事も出来るんだろう。
私は出来なかったけど。

そう考えた処で、少し腹が立った。

この美女が三嶋社長にとってどういう人物なのかは判らない。

だけど今の三嶋社長の滞在先を知っていて、ここに「入る事を許されている人物」となると近しい人間であるだろう事は容易に想像出来る。

……私じゃなくてもいいんじゃないかしら。
そんな思考が頭を掠める。

ホテルの人以外は、私と三嶋社長だけの空間なのだと思っていた。それが違っていた事に、どうしてか心に重たいもやが掛かっている。

「……出て行けと言われましても」

普通、他社の秘書に出て行けなんて言う人が居るだろうか? 一般常識的に考えてもありえない。

けれど、彼女の剣幕からするに、これ以上の言葉の応酬は得策では無いと考えられた。

「何しているの! 早く行きなさいよっ!」

ご丁寧にも、彼女は暗証番号ロックを解除しエレベーターの扉を開けてくれた。厳しい目線のまま、さっさと行けと命令している。

私は、心の内で暫くぶりな大きな溜息を吐き出した。

……三嶋社長の書斎が、鍵が掛かるタイプで良かったわ。

普段は部屋の主が居るので開けっ放しになっているが、書斎となっている部屋にもナンバーロックがついている。
毎朝三嶋社長が開けておいてくれていたのだけど、今日はもう、本人が戻って来るまで出来ることは無いので扉を閉めておいたのだ。

万一部屋に入られたとしても、三嶋社長のデスクやPCには指紋認証のシステムが備えられている。
私が離れた処で、社の機密書類やデータを見られる心配は無いと断言できた。

それに、エレベーターを降りたら、そのままロビーで彼女が出てこないかを見張りながら、三嶋社長の帰りを待つ事が出来る。

そこまで考えた処で、私は彼女が指し示すエレベーター内へと足を踏み入れた。

……誤解だったって後で判った時、どんな顔するか見てやるんだからっ!!

そんな決意も込めて。

黙って中へと入った私に満足したのか、彼女がくっと唇の端を上げて口を開いた。

「さよなら。もう二度と会う事も無いでしょうけど」

猫目に泣き黒子の妖艶な美人は、勝ち誇ったように嗤って言って、エレベーターの扉を閉じた。

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