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彼との契約 ~一日目 個人契約~

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「俺はまだやる事があるから、先に終わってくれ」

言われて、はいと返事をしてデスクを片付ける。
ちらりと彼に目をやると、眉間に皺を寄せてパソコンの画面と睨み合っていた。

私って昨日、本当に仕事辞めたのよね……?

ふと、そんな疑問が頭に浮かぶのも無理は無いだろう。

退職届けを出し、同僚達からも送別会をしてもらい、社長へ最後の挨拶をしたはずだった。

……はずだったけれど。

私は今、なぜかどこかもわからない場所で今日も彼―――三嶋尚吾の社長秘書をしていた。

彼との「個人契約」を交わした後。

ほぼ強制の契約だったにも関わらず、三嶋社長から契約の注意事項などを教えられた。

まず最初に言われたのは現在地。

ここは私ですら知らない社長御用達ホテルだそうだ。恐らくプライベートで使っている所なのだろう。

何処なのか、と明確な場所を尋ねたけれど案の定教えてはもらえなかった。が、階が最上階であることだけは告げられた。

完全に説明がふざけている。そりゃ急な出張用にパスポートはいつも持ってますけど。勤務最終日にまで律儀に持っているんじゃなかったと後悔した。

そして契約の注意事項とは、この最上階フロアから一歩たりとも出ない、という一つだけ。いわゆる外出禁止である。

何ですかそれ、監禁じゃないですか、と苦情を言ったけれど、あっさり「そうだ」と返されてしまった。

いや、ですから犯罪ですよ社長。おかしいわね。この人こういう人だったかしら。

わざわざ自分で認めているし。

とにかくそれだけは守るように、と念を押され顔が恐かったので渋々頷いた。

たったそれだけの説明を終えた後、彼は早速隣の部屋にあった書斎らしき部屋で仕事を始め、私もその補助としてすぐさま業務を言い渡された。

(幸い、時差ボケは無かった。にしてもすぐ仕事ってどうなの)

そして私は今、ここへ来て最初に目覚めた場所、寝室のベッドに突っ伏している。

最上階って言ってたからスイートかしらね。仕事してた書斎もやたらと広かったし。今居るベッドルームの他に、リビングルームにダイニングルームもある様だ。

家一軒丸ごと入るくらいの広さからして目が飛び出るほどお高いのだろう。どうせ社長のお金だから別に良いけれど。

上質なホテルは頬に当たる羽の布団もすこぶる気持ち良い。
家の布団もこんなだったらなーなんて場違いな事を思いながら、改めて今の状況を鑑みる。

「目が覚めたらどこかのホテル。拉致監禁の上速攻で仕事とか……一体何考えてるのかしらあの人……」

ふかふかしたベッドに顔を埋めながら呟いた。

デキる男だと思っていたけど、その七年の評価が覆りつつある。

ほぼ無理矢理に契約とかしたけれど、それも単なる口約束にしか過ぎない。契約の一週間が過ぎても本当に帰してもらえるのだろうか、なんて不安が心を過る。

けれど、私がここに居ると返事をした時に見せた、三嶋社長のあの表情が気になった。

そして薬を飲まされる直前にされた、キスの意味も。

一体全体、私にどうしろというのだろう。どうして欲しいのだろう。

今となっては、不可思議な彼の行動の真意を知りたいと思う。同時に、知ってどうすればいいんだろうとも思うけれど。

「逃げ出そうにも、できないし……」

書斎を出て、通路の奥に階下へ降りるエレベーターを見つけたけれど、暗証番号が無ければ下に降りられないようになっていた。

非常時とかどうするのかしらこれ、と思ったけれど、外出禁止どころかそもそも出られないじゃない、と心で社長に毒づいた。

ホテルの内装や窓から見える景色から居場所を割り出そうと思ったけれど、どうせ出られないんだし、と考えるのを止めた。
逃げる方法が無いなら、従う他ないのだし。
頭で割り切ったところで、お腹の胃の辺りの違和感に気が付いた。

あら。そういえば私、目が覚めてから何も口にしていない?

三嶋社長に言われるがままこんな夜中まで仕事していたけれど、書斎のテーブルに用意されていた紅茶を少し飲んだだけで、固形物は全く取っていない。

ホテルだからルームサービスとかあるはずよね?

そう思って連絡用の電話を探したけれど見当たらない。

まさか逃亡防止に外しているのだろうか。

そこまでされていたら少し恐いけれど。

どうしようか。書斎に戻って彼に「お腹空きました」と言うのは結構きつい。

かといって、このまま空腹で眠るのも辛い気がする。

私が食べてないって事は、三嶋社長も食べてないって事だし……。

私は仕方なく、再び書斎に向かうことにした。


コンコン、とノックをすると「どうぞ」という声が返ってくる。

うーん。会社に居た時と同じだわ。本当に私なんて拉致して仕事させて、何の意味があるのだろうか。

社長秘書と言えば聞こえはいいけれど、様は雑用係なわけで。

私程度の仕事ができる女なんてごまんといるでしょうに。

自分で言うのも何だけど。

扉を開けると、これまた見慣れた光景(三嶋社長がパソコンと睨めっこ)が目に入った。
伏せていた顔が私に向けられる。

それにふと違和感を感じた。

以前は、私と目を合わせることすらほとんどしなかったのに。

ここに来てからというもの、彼の顔をよく目にする気がする。

「失礼します。あの、恐れ入りますが社長はお食事どうされるんでしょうか?」

暗に、お腹空いたんですけどどうしたらいいのよ、と目線に込めた。

すると、眼鏡の奥の彼の瞳がぱちりと瞬く。きょとんとした顔に、あら珍しいと少し驚いた。
こんな顔もするんだこの人。

「あ……ああ、そういえば食べてないな。気づかなくて悪かった」

返ってきた答えにちょっと呆れた。
やっぱり忘れてた。普段から食べることには無頓着だと知っていたけど、普通お腹空くでしょうに。
私に返事をした後、彼はすぐさま自分の席に置いてあった携帯電話を手にした。
備え付けの電話とかないのかしら。彼の携帯でしか連絡取れないのなら、やけに念が入ってますこと。

「嫌いな物はあるか?」

仕事の時と同じ、真顔で三嶋社長が言った。

あーそうよね。
七年も勤務した秘書といえど、一緒に食事をしたことはほぼ無いものね。

パーティやなんかも全て、沸いて出てくるようにモデルやらどこぞの社長令嬢やらを同伴してたもの。

私の嗜好なんて知っているわけがない。イコール、何度も言うけれどなぜそんな人間を傍に置きたがるのか、理解不能だ。

「ありません。ですができれば和食が食べたいです」

普段なら私の要望を述べる、なんて事はしないけれど、無理矢理連れてこられたんだし、このくらいの我侭は許されるだろう。

昨日辞めたはずが今日こんなところに連れてこられて、かつ仕事までして体が疲れている。あっさりしたものしか口にしたくなかった。

彼は「わかった」とだけ返事をして電話をかけた。和食で、とちゃんと伝えてくれている辺り、私の要望はOKされたらしい。

「ダイニングルームに運んでくれるそうだ。先に食べてくれ。……ああ、あと着替えや生活用品についてだが、ベッドルームのすぐ横にクローゼットがある。必要な物はそこにあるはずだから確認しておいてくれ」

そう言うと、彼はまた書類に目を落とした。

一緒に食べる、なんて言うはずがないと思ったけどやっぱりねと思う。

キスされたりとか一緒に居てくれなんて懇願されたものだから、もしかして好意を持たれているのかと思ったけど私の自惚れだろうか。

この人の考えることは今いちわからない。

仕事としての行動は理解できるけれど、今現在私をどうしたいのかが全然読めない。

それでも着替えとかどうしようと思っていたから用意してくれているならありがたい。たぶんこれも三嶋社長のポケットマネーなんだろう。

言われた通り、私は一度ベッドルームに戻り、クローゼットの中を確認した。

やっぱりウォークインだし。

中には一体何年ここで暮らすんだといわんばかりの大量の洋服が用意されていた。

好みがわからなかったのか露出の多い大胆なものから清楚系な物まで様々だ。ナイトドレスも用意されている。
もちろん下着も・・・・ってなぜ私の胸のサイズを知っている。甚だ疑問だしちょっとした怒りが沸いてくるけれどなんとか押さえ込んだ。

洋服のサイズは(もう下着が合ってる時点で予想はできたけれど)やはり全てぴったりだった。色々疑問に思ったけれど考えないことにした。

次にバスルームの方も確認すると、予想通りパウダールームもついていた。

って一体何部屋あるのかしらここ。有名なブランド化粧品が新品で丸々一本ずつ備え付けられているあたり、かなりのハイクラスホテルなのだろう。

帰りに持って帰ってやろうかしら。
どうせ残るんだし。

という貧乏根性が働いたけれど、さすがにそれははしたないか、と思いとどまった。

私がもろもろの確認を終えてダイニングルームに行くと、既に食事の用意が整っていた。

けれど、食事を運んできてくれただろう給仕の人が見当たらない。ということは、置いてさっさと退出するよう彼に言われたのだろうか。

たぶんそうだろう。私はあくまで、三嶋社長としか接触できないのかもしれない。

ちょっと恐くなってきた。逃げようとしたら刺されるんじゃないだろうか。

一人もそもそと食事を終え、お風呂も浴びてさっぱりした私は、用意されていたナイトドレスを着て再びベッドの中でまどろんでいた。

社長と交わした契約(口約束ってところが痛いけれど)では期間は一週間。

今日からと言っていたからこれで一日目が終了したっていう事ね。無事済んだと思って良いだろう。
何がしたいのかはわからないけれど。

にしても疲れた。
今日一日、ハード過ぎたわ……。

ぐったりとした身体から、シャワーの熱が引いていく。その感覚が心地いい。

ベッドでぼんやりしていると、突然ドアがガチャリと音を立てて開いた。

はい?
誰?って社長しかいないわよね?

音の方へ向かって顔を向けると、さっきと同じ表情をした三嶋社長が、私に一瞬だけ目を向けてそのままバスルームの方へと歩いていった。

パタン、と扉の閉まった音がする。そして何秒か置いた後、扉越しに聞こえる、シャワーの音。

……。

………?

あれ。
そういえば。

ぱっと見た限り、ベッドルームとバスルームって、ここしかなかったわよね……?

お風呂はまだ良いとして、三嶋社長って今日どこで寝るのかしら……?

あまり考えたくない考えが浮かんだ。

目覚めた時、私は彼の腕の中だった。この、ベッドで。

っていうことは……?

嫌な考えに、私の頬に汗が一筋、伝った。
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