藍に堕ちて 〜哀しき妻は、裏切りの果てに愛される〜

國樹田 樹

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藍波

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「手袋はどうする?」

 染液がたっぷり入った藍がめの前で、蒅に聞かれた。
 吸い込まれそうな濃い濃紺は、まるで夜の海をそのまま写し取ったようだ。

 彼は工房の壁際に並ぶ棚に向かうと、引き出しを開けて何やら取り出していた。

 裕はまだ戻っていない。
 母親との通話が長引いているようだ。

「そのままでは駄目ですか」

 揺れる水面を見ていた藍華が顔を上げて尋ねると、蒅がふり返り彼女の手元に目をやった。

「あんた、肌は強い方か?」

 棚から何枚か重なった白布を持ってきた蒅は、染液の隣にある広い作業台にそれを置くと、再び藍華のそばまでやってくる。

 藍華は一瞬考えこんで、そういえば昔からあまり肌荒れなどはしたことがなかったなと思い出した。

「たぶん……そうだと思います。今まで化粧品などで荒れたこともありません」

「手、かしてみろ」

 彼の言う通り右手を差し出した。すると、蒅が指先をそっと掴み、彼女の手の甲から掌までを観察するように角度を変えながら眺めてくる。

 触れる力は強くない。けれど、掴まれている指先が少し、熱い気がした。

「あ、あの」

「ん。仕事してる良い手だ」

 戸惑う藍華にそう告げると、蒅はおもむろに彼女の薬指にある指輪に視線を向けた。同時に彼の瞳がすうと細まる。

「―――だがこれは外したほうがいい。金属だからな」

(え?)

 言うや否や、蒅がするりと藍華の指から銀色の指輪を抜き取ってしまう。

 まさかそんな風にされると思わなかった藍華は驚きのあまり固まってしまった。

 それにかまわず、蒅は指輪の外れた彼女の手をじっと見続けている。蒅の左手で、銀色の輪が鈍く光った。

「痕、ついてるな」

「あ……」

 言われて、同じところを見て気付く。
 指輪を外した薬指には、白い痕がついていた。

 藍華はあまり日に焼けるタイプではないが、それでもくっきりと浮かび上がっている。
 長い年月によってついた薄い線は、確かにそこに指輪があったことを証明していた。

 まるで取り残されたような仄白い痕は、どこか藍華自身を彷彿とさせる。
 忠実な犬のように守り続けてきたものの下には、何も知らずに幸せだった頃の自分がいるような気がした。

(なに、馬鹿なこと考えてるのかしら)

 これはただの痕であり、消えてしまった幸せの名残などではない。

 そうわかっているのに、ただの指輪の痕がどうにも虚しく思えた藍華は、彼女を見る蒅の瞳が妖しげに煌めいたことに気付かない。

「……怒らないんだな」

「え?」

 蒅がそう言って指輪を彼女の手のひらに乗せた。

 驚いた藍華が顔を上げると、蒅と真正面から視線がぶつかった。
 鋭い静かな瞳に、すべてを見透かされているような心地になる。

 さわり、と。
 藍華の心がさざめく。

「そ、れは」

 確かに他人の結婚指輪を勝手に外すなんて、普通なら怒って然るべきなのだろう。

 けれど、藍華にはまったくその気持ちが沸かなくて、思わず言葉に詰まってしまった。

 言えるはずがない。なにしろ指輪を抜かれた瞬間、身体が楽になった気がしたのだ。

 まるで開放されたかのように。
 それがもう、すべてを物語っている気がした。

(私、指輪を外したかったんだわ……)

 藍華はこの一瞬に、自分の気持ちをすべて理解した。

 指輪は綱昭の妻である証だ。
 彼と結婚を決めた時、二人で選び、お互いに嵌めた。

 昔なら外すことなど一切考えなかっただろう。
 けれど今は違う。

 指輪の無い手を虚しいと思いはしても、それ以外は何も思わなかった。

「手、入れてみるか?」

 沈黙してしまった藍華に蒅が言う。

 彼は目線だけで染液の入った水槽型の藍がめを示し、続けた。

「藍で染めた生地はアトピーなんかにも良いんだが、液自体は強アルカリ性だ。肌が敏感だと手荒れするが、染める前に試しに触ってみるか?」

「……はい。お願いします」

 頷いて、藍華は指輪を気づいた思いと共にバッグの中に落とし込んだ。さきほどの返答を蒅が流してくれたことに感謝して。

「鞄はあっちの作業台の上に。あと服につくと染まるからこれ着てくれ」

「はい」

 指示通り荷物を置いてから、藍華は蒅に手渡された濃紺のエプロンを身に着けた。

(これも藍染なのね)

 腰の後ろで紐を結んで、袖を肘のうえ辺りまで捲り、ずり落ちないように持参していたピンで止めておく。

 蒅は彼女の準備が終わるのを黙って待っていてくれた。

「お待たせしました」

「ん。じゃあ指先から、ゆっくり入れてみてくれ」

「はい」

 染液の入った囲いの前に立ち、そっと手を液の中に入れてみる。

 藍がめの高さは腰ほどまであるため、屈まずとも十分届いた。蒅は横で見守っている。

「……あ」

 そうして、藍がめの中に手を入れた藍華は驚いた。
 てっきり冷たいと思っていたのに、ほんのりと暖かかったからだ。

「あったかい……」

 思わず零すと、隣で笑った気配がした。見れば、蒅が鋭い瞳をほんの少し和らげている。

「この中では今も発酵が続いてる。これが染液の体温だ」

 体温。そう言われて藍華は納得した。
 液体に見えるが、この中では微生物が生きている。

 生き物なのだ。
 自分達と同じ。

「この中に毎日手を入れていると、その日によって違いがわかってくる。晴れた日の状態、雨の日の状態、曇の日だったり、気温によって違っていたりな。人間と同じで、毎日表情が違う」

「人と、同じ」

「今日は機嫌が良さそうだ」

 隣に並ぶ蒅が言いながら自分も染液に指先を浸した。藍液の水面が波打ち、彼の顔がそこに映し出される。

 藍華の指は液の中で白く浮かびあがっているが、しかし彼のは違っていた。まるで色に馴染むように、溶け込んでいるかのように、同化している。

「―――なあ」

 指先で染液の感触に感じ入っていると、蒅に声をかけられた。

「はい」

「俺の顔のこと、なんで聞かねえの」

「え……」

 唐突な質問に藍華は一瞬口ごもった。
 指先には藍染の液が波となって優しく纏わりついている。

「……聞いたほうが、いいですか」

 蒅の方は向かずに、視線は手元に落として藍華が答える。

 彼の視線を横顔に感じた。強くはない。けれど、じっと見られている。そう感じた。

「まあ、大抵のやつは聞いてくるな」

「言いたければどうぞ。でもそうでないなら……聞くつもりは、ありません」

 不遜な答えかと思ったが、藍華は感じた気持ちをそのまま続けた。

 蒅に対し言葉の装飾は無意味だと思ったのだ。

 人間、誰にでも聞いてほしくないことはある。
 彼の場合それが目で見える分、一方的に触れられることもあるだろう。

 だから聞かなかった。
 藍華にも『傷』はある。

「外にあるか内にあるか……大きさも、深さも人によって違うと思うので」

 表面に見えている傷だけがすべてとは限らない。

 その下にはもっと深く、えぐり取られたような大きな傷が隠されているかもしれないのだ。

 もしかすればそれは、半身をもがれたような、ひどい痛みを持つものかもしれない。

 藍華は聞かなかった理由を傷という言葉を明言せずに述べた。そして隣に立つ蒅の顔を見上げた。

 踏み入らない。
 貴方の心には。

 だから私の心にも踏み入らないで。

 そういう意味を伝えるつもりだった。
 けれど。

「―――あんた、いい女だな」

 目を上げれば、蒅が藍華を見ていた。

 彼は優しく微笑んでいた。
 今までで一番、良いと藍華が思える表情で。

 両の口角を上げ、ふわりと綻んだ目元からは、匂い立つような甘ささえ感じる。

 藍華の指先で、藍液がふわりと波立った。

(駄目だわ)

 藍華は思った。

 これ以上、この男と関わってはいけない。

 ずるずると引っ張るように心のどこかが吸い込まれる感覚に心がそう警鐘を鳴らした。

 音は大きい。

 それは結婚してから初めて、鳴り響いた音だ。

「裕が気に入った理由がわかる。あんたは―――」

 蒅がそう言いかけた時だった。

「蒅ぉ! アンタ先輩に何も言ってないでしょうね!? ってか何なのよさっきの態度!」

 どすどすと大きく足音を響かせて、裕が戻ってきた。母親との通話が終わったようだ。

 彼女はさきほどの剣幕そのまま、蒅に文句をつけている。

「うるせえ。もうその話は終わってんだよ馬鹿」

「あんですってぇ!?」

 予想通りのやりとりが始まって、藍華はほっと胸を撫で下ろしていた。

 いや、本当は慌てる場面なのだろうが、あのまま蒅と二人でいたら自分の中の何かが変わってしまいそうで怖かったのだ。

(良かった……裕ちゃんが戻ってくれて)

 そう思う藍華がふと視線を動かすと、いつの間にか彼女を見ていた蒅と目が合う。
 途端、身体がびくりと反応する。あまりに苛烈な視線のせいだ。

(あ……)

「肌は大丈夫そうか?」

 そう聞こえた瞬間にはもう、蒅は元通りの色を取り戻していた。
 今向けられた視線は錯覚だったのだろうかと藍華が思うほど、平然としている。
 藍華はなんとか声を絞り出した。

「あ、は、はい。なんともないです」

「なら染めてみるか」

「はい」

 さっきまでのやりとりが嘘のように、藍華も蒅も素知らぬ振りで淡々と会話を続けた。
 すぐそばでは裕が「わけわかんない!」と怒っている。

 けれど藍華の心は静かな藍がめの水面とは裏腹に、大きく波打っていた。
 そんな彼女の薬指には、薄淡く染まった細い筋が一本、くっきりと存在していた。
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