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ゴミ箱の残骸

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 せっかくだからと、藍華は帰り道にスーパーで綱昭の好きなお酒のおつまみを買った。生ハムの切り落としとスモークチーズがセットになったものだ。

 彼は晩酌時によくワインを飲み、その時にこういったやや味の濃いものを好む。

 今日は会社にまでわざわざ謝罪の電話をしてくれたのだからと、藍華は優しい気持ちでエコバッグを手にマンションのエントランスへと入った。するとエレベーター前に親子連れがいて目が合う。

 藍華は軽く礼をした。

「こんばんは」

「こんばんは。ほら、りっちゃんも挨拶なさい」

「こんばんわー!」

 母親に促されて幼稚園くらいの男の子が元気よく挨拶してくれる。母親がスーツ姿なところからして仕事帰りに迎えにいったのだろうか。

 ちょうどエレベーターが来たので藍華が先に入って扉の開ボタンを押していると、母親がありがとうございます、と頭を下げてくれた。男の子も笑顔でお礼を言ってくれる。微笑ましさに藍華の表情が緩んだ。

 子供は可愛いと思う。

 高校や大学の同級生のほとんどが結婚して子持ちになったが、みな子育ての苦労を語りつつもこんなに可愛いと思わなかった、と口を揃えていた。元々は子供嫌いだった友人でさえ、憎たらしいけど愛しいのよ、と話した時には驚いたものだ。

 藍華はどちらかといえば子供は好きな方だった。綱昭との子供を望んだこともある。けれど彼と「そういう事」をほとんどしなくなってから、考えるのをやめた。

「おねえちゃん、ばいばーい!」

「ばいばい」

 エレベーターが親子連れの降りる階で止まり、男の子が最後に手を振って挨拶をしてくれた。

 藍華がエコバックを持っていない方の手を振って返すと、母親も笑顔を浮かべてさようならと告げてくれる。きちんとした親子だなと思いながら、藍華は乗り込んでくる人がいないか確認してから扉の閉ボタンを押した。

 彼女が住んでいるのは六階だ。藍華が綱昭と住んでいるマンションは十五階建てのファミリー向けで、子供を連れた人をよく見かける。

 入居当時はいつか自分もああなるのだと思っていたけれど、今はとても遠くに思えて同じマンションに住んでいてもまるで別世界の住人のようだった。

 今日の昼に実母から催促めいたことを言われたが、もうひとり綱昭の母親……つまり義母からも似たようなことを言われているのが辛いところだ。

 文句なら息子に言ってくれと思うが、結局は藍華の方がやり玉にあげられるのだ。

 六階に到着し、廊下を歩きながら今も昔も女の立ち位置は難しいなと思っていると、気付けば部屋の前まで来ていた。

 バッグから鍵を取り出そうとしたところで中から話し声が聞こえて、ふと手を止める。

 玄関で綱昭が電話中なのかと思った。けれど何か様子が違う。

「おい…っ、もう駄目だって言ってるだろ。嫁が帰ってくるんだから早く出ろ」

「いいじゃない後少しくらい。奥さん九時過ぎるんでしょ? あと一時間もあるじゃない…ね、もう一回だけ」

 瞬間、喉からひゅっと冷たい空気が入り込んだ。藍華は動けない。

「後片付けしないとバレるだろう」

「バレてもいいじゃない。ね、そしたらわたしと結婚して」

 綱昭の声と、甘ったるい女の声。藍華の知らない声だった。まさか、という思いが過ぎる。エコバックを引っ掛けた手が震え始めた。

「お互い遊びだと言ったはずだ。俺は別れる気はない」

「今の奥さん都合が良いもんねー。やらなくても身の回りのこと全部やってくれて、家政婦代わりで」

「……いいから、もう帰れ」

「ん、もうっ! わかったわよ帰ればいいんでしょ。じゃあ最後にキスして」
「仕方ないな……」

 扉越しですら聞こえてくるリップ音に藍華の背筋に冷たい衝撃が走った。

 心臓がばくばくと音を立てて五月蝿い。耳の横に脈が移動してきたかのようだ。息が勝手に浅くなり、呼吸が苦しくなる。まるで酸欠状態に陥ったように。

 あんなキスを、彼としたのはどれほど前だろうか。

 そう考えていた藍華は、別れ際の言葉を交わす二人の声に咄嗟にその場を駆け出した。

 鉢合わせないようにエレベーターではなく非常階段の方へ。

 そのまま無我夢中で下の階まで行って、冷たいコンクリートの踊り場に蹲る。
 くずおれた、の方が正しいかもしれない。

「なん…っで」

 心が追いつかなくて、咄嗟に動いたのもあって血が激流のようになり頭が働かなかった。喉の奥から血の味がする。

 それよりも、なぜ自分は逃げ出してしまったのか、あのまま対面して問い詰めなかったのかを今更ながら後悔して、けれど身体と同じく逃げ腰の心はもしかするとあれは隣の部屋の人だったのではないかと間違った思い込みをさせようとする。
 明らかに綱昭の声だったにもかかわらず。

(何が俺は性欲あんまり無いよ……!)

 かつて彼が吐いた言葉が思い浮かぶ。

 瞬間、藍華の心で何かが弾けた。

「ふ……あ…はは、は…ふ、ふふ、っ、」

 人は本当に悲しむと、泣くより笑みが溢れるのだろうか。

 藍華の面に歪な微笑が浮かぶ。胸に溢れ出たのは、悲嘆ではなく自分への嘲笑だった。

 必死になって夫への恋慕に追い縋っていたのに、綱昭はとっくにそんなもの手放していたのだと思うと涙より笑いが込み上げた。

 彼は藍華を都合よく使っていただけだ。

 藍華への思いなど、とうの昔に消えていたのだろう。でなければ、あんな真似、できるはずはない。

 できるはずがないのだ。

 馬鹿馬鹿しい。なんてお笑い種だ。

「ふっ、く、あははっ……っ」

 走ったせいか、止まらぬ哄笑のためか、腹にねじ切れんばかりの痛みが走る。

(最低、最低、最低最低最低!! 酷すぎる……!)

 胸を掻き毟りたい衝動に駆られた藍華の心が慟哭を上げる。

 哄笑は次第に水気を含み、漏れる吐息はしゃくり上げるものに変わっていった。

「う……っく」 

 なんて酷い。

 不倫は心の殺人とは言い得て妙だ。今まさに藍華の心はずたずたに切り裂かれている。

 大きく裂けた傷から赤い血が吹き出し、熱と凍えが同時に襲っている。

(一体、いつから……!)

 思考が怒りも悲しみもかき混ぜて蜷局を巻き、嘔気が喉の奥底から込み上げていた。

 今自分が漏らしているのが泣き声なのか、苦しみ喘ぐ呻き声なのかすらわからない。

(いつから……いいえ、違うわ。期間なんて問題じゃないのよ)

 綱昭にとって、藍華は飼い殺す程度の『女』なのだ。

 彼にとっての『女性』は他にいた。

(ああ、痛い……辛い……)

 そう理解して、酷い痛みに胸を掻きむしった。片手にあるエコバッグがガサガサと耳障りな音を立てる。

(どうしてこんな、酷いことができるの)

 仮にも一度は愛を誓った相手に。

 藍華は夜の非常階段にある小さな踊り場で、一人泣き崩れた。

 散々泣いてから、スマホを見れば綱昭に伝えた通りの九時を過ぎていた。

 非常階段の踊り場は底冷えして、藍華は立ち上がってこれからどうするかを考えた。足の感覚はあまり無い。痺れているのか、心のせいかはわからない。

 そうして自分の致命的なミスに気付く。
 決定的な瞬間を見たわけではないことに。

 逃げ出してしまったせいだ。

 つまり問い詰めても勘違いだと言われる可能性だってある。
 それに何より、今すぐに自分がどうしたいかはわからなかった。

 ただ別れを選ぶのか、復讐めいた別れを選ぶのか、みっともなく追い縋りたいのか。

 せめてさっき現場を見ていたら諦めもついたのかもしれない。惜しい事をしたと藍華は思う。

 きっと心は木っ端微塵に壊れてしまっていただろうが、その方がすぐに前へ進めたのかもしれないと。

 仕方なく、藍華はバッグから化粧ポーチを取り出して暗い中ひとりメイクを直した。

 眼球は少し赤かったけれど、どうせ綱昭は気付かないだろう。
 冷静にそう考えられることが自分でも意外だった。

 そうして簡単に身なりを整えて、藍華は予定通りの時間に帰宅した。下の階のエレベーターに乗り六階まで上がり普段通りに帰っていく。

 鍵を開けて部屋に入れば、綱昭がリビングのソファでテレビを見ていた。手にあるのはスマホだ。

 先程の女性と連絡を取っているのだろうか。

「ただいま」

「ん」

「晩酌のおつまみ買って来たよ」

 かなり時間の経ったエコバッグを掲げて言うと、首を藍華に向けた綱昭がバツ悪そうな顔をした。

 顔を見られては泣いたことが露見してしまうだろうかと一瞬思う。

「ああ……悪い、さっき食べたばかりだから今はいい」

 だが綱昭の目は藍華を『見てはいなかった』。

 そのことに、今だけは安堵する。

 すぐに顔をテレビに戻した綱昭に、どうせ先程の女性と食べたのだろうな、と思いながら藍華は笑顔を作った。

「じゃあ冷蔵庫入れとくね」

「ありがとう」

 背中越しのおざなりな礼に怒鳴り返したいのをぐっと堪え、藍華はキッチンで冷蔵庫の中に明日も残っているだろうそれを入れた。

 きっともう二度と、自分がこれを食べることはないだろうなと思いながら。
 その時ちょうど気付く。

 さっき踊り場に蹲った時に引っ掛けたのか、エコバッグの底が破けていた。仕方なくゴミ箱に捨てようと蓋を開けると、覚えのない惣菜の空の容器が目につく。数は四つ。一人分にしては多い量だ。

 ありありと残された知らない女性との残骸に藍華の心が一瞬凍った。

 けれどつめが甘過ぎることにも呆れて、何も言わずにゴミ箱の蓋を閉めた。

喉の奥から苦い嘔気が込み上げて、吐いてしまいそうなのを無理矢理嚥下して押し止める。

 隣の家かもしれないと勘違いしたかった。
 けれどそうできないのだと突き付けられた。

 ゴミ箱の中身を、直ぐにでも外に放り出したい激情を抑え、藍華はそこから目を逸らした。
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