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第二章 紗栄子・高1 

01 新人マネージャーの涙

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川原紗栄子は唇をギュッとひき結んで、頬の涙をぬぐった。
「泣いてる暇、ないわよ。」
 1人挟んだ向こう側からそう言ったのは、喜多城礼子だ。
 ―――春になったとはいえ、雪国であるN県N市では、まだまだ寒い日が続いている。
 伝統ある城北高校水泳部の簡易的温水プールは、もうもうと湯気のようなものをあげていた。
 今そこで、三年生である優秀なマネージャーが、新人マネージャーに辛辣だが妥当な評価を下しているのだった。
「10秒まーえ!」
 礼子のよく通る声が、紗栄子に対してではなく、プールの中にいる選手達へと発せられた。
 後輩を厳しく指導しつつも、礼子は決して練習の制限タイムを忘れはしない。
 礼子の声を合図に、マネージャー達を見上げていたプール内の選手達が、コースの正面へ向き直る。
「5秒まーえ!」
 トップコースの先頭泳者は、片膝を曲げて水中に潜り始める。フライングではない。ジャストタイムで飛び出すために。
「よーい、はいっ!」



「実際キツいんだよ、お前は。」
 水泳部部長の石田浩次がそう言った。その言葉を受け、礼子が顔をしかめる。
 優秀なマネージャーは、後片付けも着替えもはやい。颯爽と帰ろうとする礼子を、浩次が慌てて呼び止めたところだ。
「私がキツいのは、何も今に始まったことじゃないわよ。」
「相手によるだろうって話さ。」
 礼子の両眉がはっきりと上方に動いた。呆れた、と言わんばかりに。
「紗栄子チャンはナイーブだから優しくしてやれって?」
 フン、とひとつ鼻から息を吐いて礼子は続ける。
「そんな気遣いする余裕があったら選手にお届けしたいわね。こっちが頼んでマネージャーやって‘いただいて’るわけじゃないのよ。」
「そりゃそうだけどさ…。」
 礼子だって好き好んで新人マネージャーの紗栄子に厳しく指導しているわけではない。恐ろしく細かく厳しく接しているのは、何より選手達の良きマネージャーでいてほしいからだ。
 そしてキツいようだがそもそも、わざわざ紗栄子を嫌いになるほど、個人的な興味を抱く段階ですらないのだ。
 そんな礼子の胸中など知らず、単純な同情で礼子をいさめようとしている浩次のことこそ、よっぽどイラついて仕方ないのだ。
「春菜にはあんなにキツくなかったのに。」
 浩次はなんだかいたたまれず、礼子に負けないほど優秀な二年生マネージャーの名前を出した。それがまた礼子の神経を逆撫でするとは知らずに。
 ―――テストの点はいいくせに、人の心がわかってないのよね。
「当たり前でしょう。春菜を指導してたのは去年の三年生の先輩。先輩マネージャーの指導方針を飛び越えるほど、私は破天荒じゃないわよ。先輩が引退した頃にはもう春菜は一人前で、あれこれ言う必要なんかなかったし。」
 一年生の頃の春菜の方が紗栄子より優秀だった、とは言わない。比較のしようがない。なんと言っても、紗栄子は入部してたったの一週間なのだ。今の時点で、春菜への対応を引き合いに出すのは大きな間違いなのだ。
 ―――部長なのに。残念だな。
 そう思いつつも口には出さない自分を、礼子は、‘涙ぐましいほど控えめ’だと思っている。
 きっと、浩次が部長でない部員だったなら、こんな風にイライラはしないだろうとも。
 ―――部長たるもの、‘サポートする立場のマネージャー’のさらに後ろから全体を把握してもらいたいのに。……期待するのが、むしろ酷なのかしら。
「私の対応がキツすぎて、みんなの練習への集中力が下がるというなら考えがあるけど。」
「考えって?」
「退部させていただきます。」
 浩次は軽いめまいを覚えた。
「……俺が悪かった。」
「何それ。どうしてそういう流れになるの?」
「マネージャーの指導方針に口をはさむべきじゃなかった。」
「そう。じゃあ、また明日もプールにお邪魔してよろしいかしら。」
「よろしくお願いします。」
「良かった。じゃ、お疲れ様。」
「ああ、お疲れ…。」
 ―――始めから余計なことを言わなきゃいいのに。彼なりの優しさなんだろうけど、中途半端なのよね。
 礼子は改めて自分の‘控えめさ’を感じ、帰宅の途についた。
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