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第一章 32歳~

33 瑛の安堵 36歳

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 忘れてた。
 こういう感じだった。
 紗栄子は炊飯器の蓋を閉めて、トイレにかけこんだ。



「ただいまー……?」
 仕事を終えて大志が帰宅すると、バタバタと小さな足音が乱れて近づいてきた。
「どうした?」
 見れば瑛は涙ぐんでおり、奏はびいびい泣いている。
「ママがトイレでゲーしてる。」
 ーーーつわりか。きついんだな。
 様子を見に行くと、紗栄子はトイレに向かって青い顔をしている。
 紗栄子は必死に振り返って軽く頷くと、すぐにトイレに向き直った。
「お父さん。」
 瑛がしがみつくように大志の手を握る。
「ママ、悪い病気じゃないよね。」
「瑛…。」
「パパみたいに死んだりしないよね!?」
「死んじゃやだあ~!!」
 奏も大志の脚にしがみつくようにする。
 そっちの感情のスイッチが押されたのか、と大志は合点がいった。
「紗栄子、2人に事情説明するから。」
 紗栄子はこちらを振り返ることもできずにうんうんと頷いている。
 大志は子供達2人の手をギュッと握り、リビングのソファーに連れていった。両脇に座らせ、それぞれの肩を抱く。
「ママは悪い病気じゃないよ。」
「本当に?すごく辛そうだよ。」
「そう見えるよな。でも大丈夫。ママのお腹の中にお父さんの赤ちゃんがいるからなんだ。」
 2人の涙が止まる。
「…ママ、お腹大きくないよ。」
「まだ赤ちゃん小粒だからな。」
 大志が親指とひとさし指で作った隙間で、とても小さいことを表現する。
「でも、どんなに小っちゃくても赤ちゃんいるから、どんどん育ってるから、ママはゲーしたり色々気分が悪くなるんだ。」
「…そうなんだ。」
「これからも、例えば2人とも悪いことしてなくてもママがムスッとしてたり、辛そうに寝てたりすることがあると思う。赤ちゃんが育つためにママが大変なんだ。だからみんなで協力してママを助けて行くんだよ。」
「うん!」
 奏が素直に返事をする一方で、瑛は難しい顔をしている。すると、瞳に再び涙が盛り上がり、先程よりなお一層激しく涙を流し始めた。
「良かった…。ママ、悪い病気じゃなくて良かった…。」
「瑛。」
「ホントに良かった…!」
 瑛はまるで体当たりするように大志に抱きついた。泣きやんだはずの奏も、普段自分より我慢強い瑛の様子にビックリし、まんまと影響を受け、泣き始めてしまう。
「お父さ~ん!」
「お父さああん!」
 子供のいる女性と結婚するというのはこういうことなのだ。女性一人の人生に加えて、子供達の人生を引き受けるとはこういうことなのだ。
 子供2人を両手に抱えながら、大志はしばらくそうしていた。
 つられて泣いた奏は泣くことに早々に飽きたようだが、瑛が泣き止むまでは時間がかかった。
 大志の胸から顔を離し、ティッシュを取りに行き、大志のジャケットについた涙を拭いている。奏も真似をしようとする。
「いいよ、いいよ、そんなの気にすんな。」
「鼻水ついちゃったよ。」
「後でやるから。夕飯にしよう。」
 大志はジャケットを脱いでシャツの腕まくりをし、ほぼ完成しているメニューを確認し、子供2人分を皿によそう。
「ママの様子見てくるから二人は先に食べてな。」
 タオル、ビニール袋など必要そうなものをあらかじめ小さい寝室に用意し、トイレの方に向かう。
「紗栄子、小さい寝室の方で休めよ。色々準備しといたし。」
「…お仕事でお疲れのところ、申し訳ないことでございます…。」
「それ、やめろって。連れてく。」
 よいしょ、と大志は紗栄子を抱き上げた。ベッドに横たえ布団をかける。
「食洗機使ってね。」
「うん。」
「洗濯無理しないで。」
「はい。ケータイ置いとくから何かあったら呼んで。」
「…瑛がいっぱい泣いてた。」
 さすがは母親、こんな状況でもよく聞いている。
「最初は不安で泣いてたけど、後半は安心して泣いてたんだよ。」
「…安心?」
「“パパみたいに死んだりしないよね、赤ちゃんなら悪い病気じゃなくて良かった”って。」
 紗栄子はハッとした顔をし、シーツに顔を埋める。
「やっぱり瑛は普段から我慢してるのよね…。」
「持って生まれた性格もあるだろうけど、気をつけます。」
「つわりがひどい期間だけでもお母さん達に頼ったほうがいいかも…。」
「申し訳ないけど、そうだなあ…。」
 大志は紗栄子の髪を、肩をなでて寝室を後にした。
 リビングでは子供達がもぐもぐとご飯を食べている。
「ねえお父さん、赤ちゃんてさ、まだ弟か妹かわかんないよね。」
「まだ小粒だからなあ。大きくなってもわからないこともあるよ。」
「そうなの?」
「お腹の中を見る特別なカメラみたいなのがあるんだよ。俺らみたいについてるもんがバッチリ見えればわかりやすいけどな。」
「ついてるもん…。」
 その後は奏が“ついてるもん”の俗称を連呼し笑い転げていた。
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