ミューズ ~彼女は彼らの眩しい人~

藍川涼子

文字の大きさ
上 下
26 / 108
第一章 32歳~

26 下衆の勘繰り 36歳

しおりを挟む
 午前中の外来診察が終わり、大志は食堂に行くべくエレベーターに乗り込んだ。
「工藤先生、お疲れ様です。」
「おう、鈴木さん。お疲れ様です。」
 一時期寝るだけの関係だった、鈴木深雪だ。
 秘密の関係ではあったが、そもそも同じ病院の職員である。公の場でコソコソすることもない。
 彼女の体はなかなかよかったという感想についての記憶はあるが、生々しく思い出さないのは紗栄子との今が幸せだからだろう。
「外来混みました?」
「まあ、いつもどおりにね。」
 食堂はちょうど混むタイミングだった。とりとめもない話をしながら、大志も深雪も列に並んでゆっくり歩く。
その時近くで気になる声がした。
「マジ?工藤先生結婚したの?」
 大きな大学病院なので、工藤という名前の医師は他にもいるかもしれないが、大志も深雪もなんとはなしにそちらを意識する。
「えー、誰と?ナース?」
「いや、アナウンサーらしいですよ。」
「は!?女子アナ?」
 不機嫌そうに声を上げた医師らしき男性には見覚えがあった。同じN大学で2期上の先輩、石宮だったはずだ。
「いや、そんな都会の女子アナ女子アナした感じじゃなくて、テレビUでニュース読み上げる系の。地味めな。」
「へー。」
「その奥さん、うちのリハスタッフと結婚してたらしいですよ。」
「バツイチってこと?」
「や、死別らしいですよ。」
「へー。じゃあ、前の旦那、死んでくれてあざーすって感じかな。」
 ヘラヘラと笑う石宮の様子はひどく不快だったが、大志は怒りを通り越して呆れてしまった。
 わかるはずがないのだ。大志が今までどれほど紗栄子を愛してきたか。蓮がどれほど紗栄子を愛していたか。3人のことは身近で見ていた人達にしかわかり得ない関係だ。
 しかし、怒りを通り越せない人物が1人いた。
「仮にも医者がああいうこと言います?いや、医者かどうかなんて関係ないですね。人として最低…!」
「鈴木さんが怒るのかよ。」
「怒りますよ。私は工藤先生や奥さんや青山さんと特別親しい関係じゃないですけど。こういう場所であんなヒドイことを大声で言う、腐った性根が許せないんですよ。」
「じゃあさあ…。」
 ゴニョゴニョと大志が深雪の耳元で囁くと、深雪は心得た顔をして右手親指を突き上げた。



「お疲れ様です。」
「お疲れ様でーす!」
 石宮が何口目かのカレーを口に入れようとしたとき、目の前に整形外科の工藤先生が現れたので驚いた。さっきまで噂をしていた人物だ。横に座っている上松先生も驚いてぎこちなく昼食を飲み下している。
「工藤先生、結婚なさったんですってね。おめでとうございます!」
「ありがとね、鈴木さん。」
「奥さん、数年前に亡くなったリハ科のスタッフさんとご結婚されてたんですって?」
「そうそう、理学療法士の青山。2人とも高校時代からの友達なんだよ。」
「えー、じゃあ、工藤先生にとっては初恋の相手だったりとか?」
「そんなようなもんかな。」
「素敵!」
 2人は一旦会話を途切れさせ、目の前の食事に向き合う。
「でも大変じゃないですか?奥さん、連れ子さんいらっしゃるんでしょ?」
「ああ、まあ、可愛いよ。青山にも奥さんにも似てていい子たちなんだ。」
「それは良かったですね。工藤先生の接し方もいいから子供さん達も懐くんじゃないですか?」
「だといいけどねえ。」
 再び2人はパクパクと食べる。
「なんか、私なんかがズケズケ聞いちゃってすいませーん。」
「やー、鈴木さんからは善意しか感じないから嬉しいよ。ご存知の通り色々事情があるからさ。俺や奥さんや青山のことを知りもしないで、勝手なことをアレコレ言いふらしてるわけじゃないんだから。」
 ここで大志は視線を目の前の石宮と上松に向けた。
 さすがに石宮も上松も先程の自分たちの発言を聞かれていたと察したらしい。
「えー、そんなこと言う人いますう?」
「わかんないけど。もしも勝手なこと言ってる奴がいたら、まあ、許さないよね。」
「工藤先生、素敵~。」
 さすがに居心地悪くなったのか、石宮も上松もそそくさと立ち上がった。
「あれぇ?石宮先生?お食事残ってますよ。具合悪いんですか?」
「いや、まぁ…。」
 深雪の声に振り返ると、石宮は大志と目が合った。じっと見据えるような目は静かで、でも怒りをたたえていて、石宮は背筋が凍りそうだった。
「失礼!」
 あたふたといなくなる2人の医師の姿が遠くなると、深雪と大志はクスクス笑い出した。
「慌てて逃げ出すなら最初からイキらないでほしいですね。」
「まあねえ。しかし鈴木さん、役者だなあ。渡したメモだけでよくもまあうまい具合に会話劇を繰り広げてくれたよ。」
「どういたしまして。食べましょ。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...