アマノジャク

藍川涼子

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第一部

番外編01 ビフォアーアフター(貴志視点)

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before



「貴志。」
 いくらか甘えを含んだ女の声が聞こえてきた。
「じゃあ、仕事だから行くね。」
 黙って出ていってくれていいのに…。
 ベッドから出ることもせず、辛うじて俺は顔だけあげる。
 彼女は玄関に向かいかけた身を翻し、再び寝室に入ってきた。
 …さっさといなくなってくれよ。
 さすがにそれは口にしなかった。彼女がかがみこむのに応えるように、顎を突き出してみせる。挨拶がわりのキス。
 義務を果たして再度頭をシーツに擦り付ける。
 …義務、ってなぁ…。
 玄関の鍵をかける音がし、彼女の気配が部屋から消えると、急に頭が冴えてきた。
 眠い振りをしていると、人間は本当に眠くなるもんなんだな。
 脱ぎ散らかした服の中から下着を探し当て、足を通す。
 どうするか。とりあえず、何か水分をとるかな。
 キッチンに行ってヤカンの中に水分が残っているのを確認し、そのままコンロに火をつける。
 ひとまずコーヒーだ。パンでも食べるか。
 ふと目をやると、ラップをかけたスクランブルエッグ。
 …余計なことしやがって。
 そもそも乏しい食欲がますます小さく萎んでいく。
 普段は軽い朝食をとるのに、女が泊まった朝はいつもこうだ。
 ‘泊めた’とは思わない。彼女の意思で‘泊まった’に過ぎない。
 最低な男。
 やることやっといてそりゃないよな。
 彼女は決して悪くない。美人だし優しいしワガママも言わないし。ただ、のめりこめない俺が悪いんだ。
 昨夜もベッドの中の俺はひどく冷静で、肉体と感情が乖離しているかのようだった。
 むしろ罪悪感なんだろうか。行為の緻密さときたら、我ながら相当なものだと思う。
 だから女を勘違いさせてしまうのに。
 別れ話を展開するのが億劫で、ついつい行為の精度を高める苦労を選んでしまう。
 悪循環。
 いつから自分は女性との交際にここまで冷静でいられるようになってしまったのだろう。
 初めてのデート。
 初めてのキス。
 初めての…。
 思いを巡らせてみるが、明確な時期は不明だ。
 少なくとも大失恋をした記憶はない。ひどい目にあわされたとか、騙されたとかいう覚えもない。
 だから女性を恨んでいるとかいうのでもない。
 ただ、はじめから淡々と女性と付き合ってきたのだ。
 今の彼女はよくもまあこんな俺に我慢して付き合っているものだ。
 休みを合わせることもしてくれない、会って飲んでやることやるだけのどうしようもない男だというのに。
 きっと俺はこの先もこのスタンスを崩さずにいく気がする。別に誓いを立てようって言うんじゃない。恋愛感情に 流されるのが怖いというのでもない。
 女に夢中になる自分なんてとにかく想像がつかないのだ。
 いいじゃないか。仕事をこなして、いずれテキトウな相手と結婚する。子供ができて、だらしない俺は他所に女を作るのか。
 こちらは容易に想像がつき、俺は苦笑しながらコンロの火を止めた。



after



 遠くから水の音が聞こえる。
 自分自身が覚醒しつつあるのをボンヤリ感じながら、寝返りを打った。
 味わうはずの滑らかな肌の感触がない。勝手な目論見が外れたことに強く違和感を感じたことで、さらに意識はクリアになる。
 馬鹿だな。キッチンの方から水の音がするということはつまり、飛鳥さんがベッドの中にいるわけがないということじゃないか。
「おはよう。起きちゃった?」
 洗い物を終えたらしい彼女は隙のないナチュラルメイクを施した顔をほころばせる。
 何時だ?
 準備万端の彼女の様子に、焦る。
 時計の針が指し示しているのは、案の定そろそろ出ていく時刻だ。
「起こしてって言ったのに。」
「…せっかくの休みなのに早起きすることないでしょ?」
 君は間違ってる。君のいない休日に、せっかくの、という表現は当てはまらない。
「…もう一回したかった。」
 だって、まともに会うのは10日ぶりだったんだ。
 真っ赤になる彼女にかまわず、思い切り抱きしめる。
「ダメ、貴志さん、遅刻しちゃう…!」
「まだ時間はたっぷりあるじゃないか。」
「…早めに行って、頭を仕事モードに切り替えたいの。」
 名残惜しいことこの上ないけれど、自分のやることが彼女の仕事を妨げることになるのは嫌だ。
 口紅が塗ってあるので、別れのキスは軽くする。
 ———パタン…
 彼女の気配がなくなると、俺の脳は勝手に昨夜の出来事を再生しだす。
 彼女が用意してくれた夕食。
 地上波初登場の映画。
 彼女が断固拒否したワインの、思いの外軽い舌触り。
『…無茶して、ごめん。』
『ううん、大丈夫…。』
 言葉とは裏腹に眉間に深く刻まれた皺。
 3度目の後、気絶するように眠ってしまった彼女の、あどけない寝顔。
 一通り思い出すことに予想以上の時間と集中力を費やしていることに驚かざるをえない。
 10代の頃馬鹿みたいに一人繰り返していた行為への誘惑にかられそうになる。
 さらなる驚き。
 ガキじゃねえんだから、自分の彼女との行為を思い返して散々楽しむってどうなんだよ。
 こんな男じゃ、なかったのに。
 いつからこんな風になってしまったのかは明白だ。
 飛鳥さんを知ってしまった時から―――。
 今夜は友人との約束がある。
 楽しみであるはずのことすら、彼女との時間を阻害する要因に思われてしまう。
「やばいよなあ、マジで…。」
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