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第一部
08 接待 (貴志視点)
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「その節はまことに、弊社の社員が大変失礼をいたしまして…。」
「や、いや、ま、ま、そんなに堅苦しくならないで、塔宮君。せっかく綺麗な女性と飲んでいるんだから、いいよ、もうその件は。」
得意先のお偉いさんである高階さんが小料理屋の一室で鼻の下を伸ばしている。隣にいる‘綺麗な女性’は、何を隠そう、飛鳥さんだ。
秘書課の飛鳥さんがこんな接待に借り出された理由。それは大きくふたつ。
その1、営業一課の部下がこの高階さんに対してそれなりの失礼をやらかした。
その2、秘書課に異動する前に営業一課所属だった飛鳥さんを、このお偉いさんがお気に入りだから。
「そんなことおっしゃって、あんまり喜ばせないでください。私、もういい年なんですから。」
「何言ってるんだい、若けりゃいいってもんじゃない。君みたいな女性こそ、今の若い人の見本になるべきだよ。なあ、塔宮君。」
「私などが言うのもなんですが、おっしゃるとおりですね。」
高階さんに向けた笑顔を、そのまま飛鳥さんのほうにスライドさせる。一瞬見せる、苦笑い。
ごめん。こんなことに利用するのは俺もかなりの不本意なんだけど。
「高階さんは、日本酒がお好きだっておっしゃってましたよね。」
「あれ、ずいぶんと久しぶりなのに覚えてくれているんだね。」
「ああ、良かった。特にKっていうお酒がお好きだっておっしゃってませんでした?」
「そう、そう、その通り。Kは大概の店に置いてあって、それでいてなかなか美味いから好きでねえ。いや~そんなことまで覚えているなんて、感心するなあ。」
ちなみに、このネタは俺が仕込んだわけではない。彼女から、その点が変わっていないかどうかの確認はあったけれど。
すごいよなあ、と思う。彼女がこの高階さんに関わったのなんてもう何年も前のはず。
『部署が変わったからこそ、忘れにくいんですよ。それだけです。』
彼女はそう言って謙遜する。そういうところがまた、いいなあ、と思う。
飛鳥さんは透明の徳利を持って、冷酒を注いでいる。
「飛鳥さんも、飲みなさい。」
「いえ、私は…。」
「あれ、なんだい。まだ弱いのかい?」
「そうなんです。だから私の分も、高階さんがどうぞ。」
それにしても高階さんの方も、彼女のことをよく覚えているようだ。お気に入りっていうのは本当だな。
「そうですか、佐藤がアルコールに弱いのは昔からですか。」
「そうなんだよ。確か初めてこうやって酒の席を持ったとき、それこそ日本酒をすすめたら真っ赤になって眠っちゃってなあ。あの時は悪いことをしたなあと思ったよ。」
「それはまた興味深いですねえ。もう彼女も中堅どころで、頼れる秘書として社内では通っておりますから、羽目を外すところなんて我々には見せませんので。いつもどんな飲み会でも憎らしいくらい節度を保っているようですよ。」
俺の言葉に、飛鳥さんは顔を赤くする。節度を保てなかった‘あの日’のことを思い出しているのだろう。
ごめんね、飛鳥さん。こうした意地悪でも言っていないと、さっきからハラハラし通しで理性が保てそうにないんだ。
さすがに高階さんはいい年の地位のある人だ。明らかな行動―つまり、セクハラめいたこと―はしない。でも、さりげなく肩に触れたりする様子は、どうしたって多い。ここまでならばOK、のラインをよく計算した上でしているんだろうその様子が、かえっていやらしく、俺としては腹立たしい。
わかっていて、飛鳥さんにこの役割をお願いしたのは正真正銘俺なんだけどさ。いざ目の前にしてみると、予想以上に腹が立つんだよ。
その後も、密やかに行われる高階さんから飛鳥さんへの‘行動’に、俺はイライラし続けなければならなかった。
※
「どうも、お疲れ様でした。」
バーでの2次会を経て、ようやく高階さんをタクシーに押し込んだ。見えなくなるまで見送って、俺は飛鳥さんに頭を下げる。
「はい、お疲れ様でした。」
仕事の延長だから、2人きりになっても仕事モードが抜けない。
「もうこんな時間ですね。遅いからお送りしますよ。」
「えっ…。」
‘あの日’以来、俺のマンションで会うことが多くなっていた。なんとなく、彼女の家の周りを頻回に男がうろうろするのは良くない気がするからだ。
そんな暗黙の了解を破ろうとしたことに、彼女は戸惑いを感じたのだろう。それでも、次の瞬間には嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お願いします。」
※
「課長…!」
部屋に入るなり、俺は彼女を抱きしめた。
「く、苦しい、です…。」
「うん。」
「うん、じゃなくて、腕、緩めて…?」
「うん。」
そう答えつつも、腕を緩めるつもりなんて全然ない。今入ってきたドアに彼女を押し付けて、キスをする。彼女がバーで飲んでいた、グレープフルーツジュースの味がほのかに感じられた。彼女のほうは、黒ビールの余韻を感じていることだろう。
「今日は本当に悪かった。君をお得意さんに差し出すようなことをして。申し訳ない。」
「いえ、お仕事ですもの。…仕方ないです。」
「そうあっさり言われるのもちょっと複雑なんだけど。」
「え…?」
「気が気じゃなかったよ。他の男に触られてるかと思うと。」
「他の男、って…。高階さんはただのお得意さんですし。肩を軽くたたかれたくらいじゃないですか。」
「どうしてそう呑気なの?高階さんには全然‘その気’があるのに。」
「まさか~。」
「‘まさか~’じゃない。」
‘まさか~’のところの声を思い切り高く発声してみせる。悪ふざけをする小学生みたいに。すると飛鳥さんはちょっとむっとした顔をする。
「たとえそうだとしても!絶対に大丈夫でしたよ。」
「なんで。」
「だって。塔宮課長が全力で守ってくださるでしょ?」
にっこり笑った彼女の顔は、少しだけ照れているようだった。
―――ああ、もう。
たまらず彼女の細い身体を抱きしめる。
「いつまで課長って呼ぶ気だよ。」
「え、ええ!?またその話ですか。」
「そうですよ、その話ですよ。」
「しつこいですよ。」
「そうですよ、俺はしつこいですよ。」
彼女はしゃがみこみ、俺の耳元で小さく‘貴志’と囁いた。
「や、いや、ま、ま、そんなに堅苦しくならないで、塔宮君。せっかく綺麗な女性と飲んでいるんだから、いいよ、もうその件は。」
得意先のお偉いさんである高階さんが小料理屋の一室で鼻の下を伸ばしている。隣にいる‘綺麗な女性’は、何を隠そう、飛鳥さんだ。
秘書課の飛鳥さんがこんな接待に借り出された理由。それは大きくふたつ。
その1、営業一課の部下がこの高階さんに対してそれなりの失礼をやらかした。
その2、秘書課に異動する前に営業一課所属だった飛鳥さんを、このお偉いさんがお気に入りだから。
「そんなことおっしゃって、あんまり喜ばせないでください。私、もういい年なんですから。」
「何言ってるんだい、若けりゃいいってもんじゃない。君みたいな女性こそ、今の若い人の見本になるべきだよ。なあ、塔宮君。」
「私などが言うのもなんですが、おっしゃるとおりですね。」
高階さんに向けた笑顔を、そのまま飛鳥さんのほうにスライドさせる。一瞬見せる、苦笑い。
ごめん。こんなことに利用するのは俺もかなりの不本意なんだけど。
「高階さんは、日本酒がお好きだっておっしゃってましたよね。」
「あれ、ずいぶんと久しぶりなのに覚えてくれているんだね。」
「ああ、良かった。特にKっていうお酒がお好きだっておっしゃってませんでした?」
「そう、そう、その通り。Kは大概の店に置いてあって、それでいてなかなか美味いから好きでねえ。いや~そんなことまで覚えているなんて、感心するなあ。」
ちなみに、このネタは俺が仕込んだわけではない。彼女から、その点が変わっていないかどうかの確認はあったけれど。
すごいよなあ、と思う。彼女がこの高階さんに関わったのなんてもう何年も前のはず。
『部署が変わったからこそ、忘れにくいんですよ。それだけです。』
彼女はそう言って謙遜する。そういうところがまた、いいなあ、と思う。
飛鳥さんは透明の徳利を持って、冷酒を注いでいる。
「飛鳥さんも、飲みなさい。」
「いえ、私は…。」
「あれ、なんだい。まだ弱いのかい?」
「そうなんです。だから私の分も、高階さんがどうぞ。」
それにしても高階さんの方も、彼女のことをよく覚えているようだ。お気に入りっていうのは本当だな。
「そうですか、佐藤がアルコールに弱いのは昔からですか。」
「そうなんだよ。確か初めてこうやって酒の席を持ったとき、それこそ日本酒をすすめたら真っ赤になって眠っちゃってなあ。あの時は悪いことをしたなあと思ったよ。」
「それはまた興味深いですねえ。もう彼女も中堅どころで、頼れる秘書として社内では通っておりますから、羽目を外すところなんて我々には見せませんので。いつもどんな飲み会でも憎らしいくらい節度を保っているようですよ。」
俺の言葉に、飛鳥さんは顔を赤くする。節度を保てなかった‘あの日’のことを思い出しているのだろう。
ごめんね、飛鳥さん。こうした意地悪でも言っていないと、さっきからハラハラし通しで理性が保てそうにないんだ。
さすがに高階さんはいい年の地位のある人だ。明らかな行動―つまり、セクハラめいたこと―はしない。でも、さりげなく肩に触れたりする様子は、どうしたって多い。ここまでならばOK、のラインをよく計算した上でしているんだろうその様子が、かえっていやらしく、俺としては腹立たしい。
わかっていて、飛鳥さんにこの役割をお願いしたのは正真正銘俺なんだけどさ。いざ目の前にしてみると、予想以上に腹が立つんだよ。
その後も、密やかに行われる高階さんから飛鳥さんへの‘行動’に、俺はイライラし続けなければならなかった。
※
「どうも、お疲れ様でした。」
バーでの2次会を経て、ようやく高階さんをタクシーに押し込んだ。見えなくなるまで見送って、俺は飛鳥さんに頭を下げる。
「はい、お疲れ様でした。」
仕事の延長だから、2人きりになっても仕事モードが抜けない。
「もうこんな時間ですね。遅いからお送りしますよ。」
「えっ…。」
‘あの日’以来、俺のマンションで会うことが多くなっていた。なんとなく、彼女の家の周りを頻回に男がうろうろするのは良くない気がするからだ。
そんな暗黙の了解を破ろうとしたことに、彼女は戸惑いを感じたのだろう。それでも、次の瞬間には嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お願いします。」
※
「課長…!」
部屋に入るなり、俺は彼女を抱きしめた。
「く、苦しい、です…。」
「うん。」
「うん、じゃなくて、腕、緩めて…?」
「うん。」
そう答えつつも、腕を緩めるつもりなんて全然ない。今入ってきたドアに彼女を押し付けて、キスをする。彼女がバーで飲んでいた、グレープフルーツジュースの味がほのかに感じられた。彼女のほうは、黒ビールの余韻を感じていることだろう。
「今日は本当に悪かった。君をお得意さんに差し出すようなことをして。申し訳ない。」
「いえ、お仕事ですもの。…仕方ないです。」
「そうあっさり言われるのもちょっと複雑なんだけど。」
「え…?」
「気が気じゃなかったよ。他の男に触られてるかと思うと。」
「他の男、って…。高階さんはただのお得意さんですし。肩を軽くたたかれたくらいじゃないですか。」
「どうしてそう呑気なの?高階さんには全然‘その気’があるのに。」
「まさか~。」
「‘まさか~’じゃない。」
‘まさか~’のところの声を思い切り高く発声してみせる。悪ふざけをする小学生みたいに。すると飛鳥さんはちょっとむっとした顔をする。
「たとえそうだとしても!絶対に大丈夫でしたよ。」
「なんで。」
「だって。塔宮課長が全力で守ってくださるでしょ?」
にっこり笑った彼女の顔は、少しだけ照れているようだった。
―――ああ、もう。
たまらず彼女の細い身体を抱きしめる。
「いつまで課長って呼ぶ気だよ。」
「え、ええ!?またその話ですか。」
「そうですよ、その話ですよ。」
「しつこいですよ。」
「そうですよ、俺はしつこいですよ。」
彼女はしゃがみこみ、俺の耳元で小さく‘貴志’と囁いた。
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