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放課後少女
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ツメタイ。ツメタイ。ツメタイ。ツメタイ。
そこには単純な恐怖とは違う特殊な感情がある。私は眠るのが恐いのだ。またあの夢を見そうだから。
羊がやってくる。
何もない真っ白な光の中からのそりのそりと、自分でも重そうな体をひきずってくるのだ。そうまでして私に執着する理由は解らない。あいつはまるでハグレ羊。ああ、今日も隣に横たわる。もこもこした羊毛は暖かいはずなのに、雨に濡れていて、内側がとても冷たい。そのうち雨は、私にも降りそそぎ始める。だが、私達はお互いの立場上言葉を交わすことはない。妙にそこだけが現実的で悲しい夢である。
きっと私には呪縛が罹っているのだろう。今夜も羊がやってくるのだから。
*
未年生まれのおひつじ座。そして名字の群岡の『群』の字の右が羊。私は生まれながらに羊に呪われているのだ。あいつは私をどれだけ苦しめたら気が済むのか。忌々しい。
「群岡(むらおか)!呆けるな!」
「すいません」
「居眠りしなくなったのはいいが、呆けていちゃ同じだぞ。お前、関数は苦手だろ。ちゃんと聞いてなさい」
居眠りしなくなったのではなくて、できなくなっただけだ。
この夢を見始めたのは小学生のころだった。ただ、夢を見るのはごく稀だったのだ。高校生になった私は、授業中の居眠りが多く『居眠り部・部長』という肩書を、恐れ多くも担任から直々に頂いた。本当は帰宅部なのに。そして例の夢を見る頻度が加速したのは二年生になった二ヶ月程前からであり、おかげで最近部長職は卒業傾向に向かっている。担任には三者面談で、元に戻らないようにと釘を刺されてしまった。
教師が前に向き直った。窓からグランドを見下ろすと、隣のクラスがランニングをしていた。梅雨の合間に照る太陽の紫外線は容赦がないのに御苦労なことである。あれが俗に言う青春なのだろうか。目線を机に戻し、ノートの続きを埋め始めたが、書きかけだった部分は既に半分消されていた。白いチョークの粉だけがかすかに残っている。仕方がないので友達のノートを見せてもらうことにしよう。
*
放課後、先ほどの数学のノートを借りて荷物をまとめていると後から明るい声がした。今井里佳(いまいさとか)だった。
「部長!最近調子が悪いみたいだね」
「部長っていわないでよ…」
「部長は部長だってば」
「不名誉だよ」
「じゃあ怜奈(れいな)。最近新しい古書店ができたらしいんだけど、今日暇ある?」
古書店?いつの間にできたのだろうか。登校時にはまったく気がつかなかった。里佳から寄り道を誘ってくるなんて珍しいこともあるものだ。
「いいよ。新しい古書店なんて全然知らなかった」
「あたしも知らなかったよ。今朝チラシを貰ったんだ」
「へぇ」
「二枚貰ったから、部長にもあげるね」
「だから部長じゃないってば…」
丁寧に四つ折りにされた藁半紙のチラシを開く。そこに書かれていたのは簡単な手書き風の店周辺の地図と、『古本屋始めました』の文字だけだった。肝心の店名が入っていない。
「店の名前はなんていうの?」
里佳が地図を覗き込む。
「載ってない」
まったく。肝心な所が抜けている。
「これじゃ、地図に頼るしかないね。にしても商売する気があるのかな」
「とりあえず六時に校門前に集合ね。あたしが生徒会の仕事を終わらせてからじゃないとだめだからさ」
「わかった。それまで待っているよ」
里佳が教室から出て行った。文化祭があと一月迫り、生徒会は準備に追われている。忙しいはずの里佳が私を誘うなんて、よほど調子が悪いように見えたのだろうか。本来、読書が好きなのは私であり、彼女は全く本を読まないのだ。少しばかり申し訳ない気持ちになって、もう一度チラシを開いた。やはりそこには、地図と冷やし中華のポスター染みた言葉が書かれているだけだ。また折りたたんでカバンの中にしまった。四時三十分の鐘が鳴る。見た目より随分軽い鞄を持つ。約束の時間まで一時間以上あるので図書館で時間を潰すことにした。
*
夜中の睡眠が満足に取れていない。一瞬だが、図書館で気が遠退いた。そして見えたのは、羊の体の一部だった。私はどうかしている。気分が悪かったが、せっかく誘ってくれた里佳のことを考えると、勝手に帰ってしまうわけにもいかない。もやもやした気分を引きずりながら約束の校門前に着いた時、里佳からのメールを受信していた。
『待たせちゃって本当にごめん。仕事が長引いて、今日は遅くなりそうなの。古書店は明日じゃだめかな?』
はぁと浅い溜息をついた。私は、思っていた以上に里佳に気を使わせていたらしい。よく考えてみれば、連日行っても終わることのないはずの文化祭の準備を、今日は切り上げようとしてくれたのだ。私なんかの為に。
『大丈夫だから気にしないで。文化祭が終わったら行こうよ。毎日お疲れさま。』
私はメールを返信し、沈みかけの夕陽に背を向けて歩き出した。
*
このまま帰ろう。そのことだけが頭の中を支配していた。無駄に寄り道して、途中で気を失ったりしたら大変だ。全身の細やかに張り巡らされた神経を維持しながら、一歩一歩着実に足を進めるのが、今日最後の目標である。しかし、校門から続く一本道を最初に曲がった所で足を止めてしまった。斜め上の看板を見上げた。
「…あった」
今まで見たことがない店だ。でも懐かしさが込み上げてくる。鞄から先ほどのチラシを取り出す。地図はアバウトだが確かにこの場所を指していた。名無しの古書店である。ただし、店そのものは、どこか懐かしい気がした。長い間、空きテナントになっていたのだろうか。建物はくすんだ色になった柱が剥き出しの木造建てで、学校の教室程しかないスペースに、商品で満腹になった本棚が詰め込まれている。各通路の狭さは消防法ぎりぎりだろう。店内は五人も入ったら満員だ。開店セールをやっているという感じもなく、ただただ静かである。看板には店名が書かれていない。本当に名無しらしかった。
私は、不思議なことに気分が悪いのを忘れて店内に入っていた。古本の独特のほこりっぽい香りがする。外から見るよりは店内は明るく、暖色系の蛍光灯の明かりで落ちついた雰囲気だ。ふと、並ぶ棚の奥に目をやると誰かがこっちを見ていた。視線がぶつかる。店員だろうか。本の壁を抜けて店の奥に行くと、若い男性が座っていた。
「いらっしゃいませ」
癖があるけれど綺麗な黒髪。彼は微笑んでいる。線の細い、華奢な人で、横顔だけが少し幼い。歳は私とあまり離れていない様にも見えるが、それでも二十代だろう。自営業だからか、チェーン店のようないかにも店員らしい服装ではなく、普通のTシャツを着ている。
「ここって、古書店ですよね」
「古書店なんてそんな格好いいものじゃないよ。ただの古本屋」
そういいながら、私に麦茶の入った紙コップを渡してくれた。飲んだ麦茶は頭がキンッとする程よく冷えていた。
「それにしても、よく店に気付いたね。なかなかお客さんが来ないんだ。今日は君が一人目だよ」
「私、チラシをもらって。それでこのお店を知ったんです」
チラシを見せながら言った。
「なるほどね。そんなチラシでも効果があったんだね」
「あの、なんでこの店には名前が無いのですか?」
私は、ずっと気になっていたことを率直に尋ねた。彼は一瞬戸惑ったようだったが話始めた。
「この店、俺の店じゃないんだ。本当はじいちゃんの店でね。最近その祖父が亡くなって遺品を整理していたら、この店ごとたくさんの本が出てきて。もう手放したと思っていたのに、まだ土地も建物もすべての権利を持っていたんだよ。親戚の間では処分するってことになったけど、この本を必要としてくれる人がいるならその人に譲りたいと思って、少しの間俺が店を運営することにしたんだ。それで予算も無いから看板が日に焼けて消えてしまったまま営業中ってわけ」
「えっと、店長さんは…」
「ショウイチでいいよ」
「ショウイチさんはこの店が好きなんですね」
「それはわからないけど、本が処分されてしまうのが嫌だったんだ。そのまま捨ててしまったら、じいちゃんが生きていた事実も消されてしまいそうだし。故人が望んだわけではないから俺のエゴだよ」
「そんなことはないと思います」という言葉を掛けるのが適切なのかもしれないが、私は何も答えることができなかった。怖かった。何も言わない私に彼は微笑みかけ、立ち上り、本棚から一冊の本を取り出し、ほこりを掃って持ってきた。
「これは俺が一番好きだった本なんだ。」
私は、彼の手の中を覗いた。赤茶色い表紙の、色が焼けかけた小説のハードカバー本。
『ヒツジノユメ』
「ヒツジのユメ…ですか」
「うん。子供の時に何度も読み返したものだよ。じいちゃんがここの本の中から選んでくれたんだけどね。」
羊
「…えっと…私、羊が嫌いなんです」
「どうして?」
私は、里佳にすら相談できなかったおかしな夢のことを、さっき出会ったばかりのショウイチさんに話している。聞かれた訳でもないのに自分から。むしろかかわりの深い人ではなかったから、抵抗がないかもしれない。ショウイチさんに嫌われてしまうことへのリスクは極めて低かった。お互いをよく知らないし、何より今日限りになるかもしれない縁というのは、自由なものだ。ショウイチさんだって、友達に自分のパーソナルに踏み込むような話はしないだろう。
「夢か…」
日頃の羊への不満を話してしまった。呟きながらショウイチさんは元の位置に戻って座った。
「出てくるのは羊と君だけ?」
「はい。私、病気かもしれないですね」
「んー。冷たい羊…。」
ショウイチさんは少し俯き、何かを思い出したようにもう一度本棚の前に立ち、あの本をまた取り出すと私に差し出した。
「この本をあげるよ」
「え…」
「羊はね、さみしがり屋なんだよ。だけど幸福の象徴でもある」
微笑むショウイチさん。
「同じように本もさみしがり屋なんだと思う。今はダメでも読みたくなったら読んでみて。開店記念だよ。君にもらってほしい」
「…ありがとうございます」
不安な私。
「今じゃ寂れているこの店にも、昔は固定のお得意様がいたらしい。実際には、近所に住む子供ばっかりだったみたいだけど。それでも、じいちゃんはすごいと思う。」
ショウイチさんは弱々しく笑っている。かつて子供で溢れていたであろう店の中には私達しかいない。
私は無意識に、渡された本を強く握っていた。
突然入口を開ける音がした。
「今日は景気がいいな。いらっしゃいませ」
振り返ると里佳がいた。壁の時計は七時三十分を回っていた。
「ごめん、玲菜。もしかしたら一人で行ったんじゃないかと思って。遅くなっちゃたね」
「…ありがとう」
「欲しい本は見つかった?」
「うん。多分」
里佳はやさしい。本当に。
ショウイチさんは里佳にもあの冷たい麦茶を手渡していた。
普段本を読まない里佳が本棚を眺めているのは珍しい光景だった。意外としっくりくる。里佳が店内の本をなんとなく見つつ、麦茶を飲みほす頃には外は完全に暗くなっていた。今宵は半月である。
「さあさ。高校性は帰宅の時間だよ。俺も店終いしないといけないし」
ショウイチさんはそう言って、てきぱきと荷物をまとめた。レジの売上は確認していなかった。もちろん売上ゼロである。彼は里佳が買おうとした小説もタダでくれたみたいだ。
もう一度お礼を言って、私達は店の外に出た。昼間はあんなに暑いのに、夜の空気は寒い。はぁっと息を吐けばまだ白く見えるかもしれない。
「さようなら」
顔は見なかったが、後ろから微笑むショウイチさんがいるような気がした。
*
里佳が一ヶ月以上かけて準備を進めていた文化祭はあっけなくも三日間で終りを迎え、夏休みが過ぎ、ついには九月がやってきた。セミの声はもう聞こえない。そしてあの日以来、店に行く機会は無かった。
里佳はショウイチさんにもらった小説をようやく読み終えたらしい。一度習慣化すると手持無沙汰な様で、またあの古本屋に行こうと誘ってきた。私は賛成した。店に残っていた本の、その後も気になっていたからだ。
この前と同じく、校門からの一本道を曲がった所で足を止める。が、店のシャッターが閉められていた。
「定休日なのかな」
私達は、頑なに無言を通すシャッターに近寄った。そこには、小さな張り紙だけが一枚貼ってあった。
短い間でしたがご愛顧ありがとうございました。
羊堂書店 店主 渡瀬 祥一
「羊」
ああそうか。この店は「羊堂書店」という名前だったのか。この前は夕方だったから見えなかったが、看板に羊と書店の文字が薄らと見える。そして、ショウイチさんがこの店に愛着を持っていた理由は…
「ね、里佳。この店の名前はショウイチさんの名前と同じだったんだね」
「え…?」
あのたくさんの本達はどうなったのだろう。誰かの手に渡ったのか、それとも処分されてしまったのだろうか。知る術はない。
まだ私はあの本を開けていない。ショウイチさんの言う、「読みたくなったら」は、今のところ訪れていないのだ。もう少し私が大人になれたら、本を開く日が来るかもしれない。
本を貰ったあの日から、何故か羊が顔を見せなくなった。あの濡れた羊はどこにいるのだろう。寒さに震えていないだろうか。
あいつは美しい程にさみしがり屋で、幸福な羊なのだ。
そこには単純な恐怖とは違う特殊な感情がある。私は眠るのが恐いのだ。またあの夢を見そうだから。
羊がやってくる。
何もない真っ白な光の中からのそりのそりと、自分でも重そうな体をひきずってくるのだ。そうまでして私に執着する理由は解らない。あいつはまるでハグレ羊。ああ、今日も隣に横たわる。もこもこした羊毛は暖かいはずなのに、雨に濡れていて、内側がとても冷たい。そのうち雨は、私にも降りそそぎ始める。だが、私達はお互いの立場上言葉を交わすことはない。妙にそこだけが現実的で悲しい夢である。
きっと私には呪縛が罹っているのだろう。今夜も羊がやってくるのだから。
*
未年生まれのおひつじ座。そして名字の群岡の『群』の字の右が羊。私は生まれながらに羊に呪われているのだ。あいつは私をどれだけ苦しめたら気が済むのか。忌々しい。
「群岡(むらおか)!呆けるな!」
「すいません」
「居眠りしなくなったのはいいが、呆けていちゃ同じだぞ。お前、関数は苦手だろ。ちゃんと聞いてなさい」
居眠りしなくなったのではなくて、できなくなっただけだ。
この夢を見始めたのは小学生のころだった。ただ、夢を見るのはごく稀だったのだ。高校生になった私は、授業中の居眠りが多く『居眠り部・部長』という肩書を、恐れ多くも担任から直々に頂いた。本当は帰宅部なのに。そして例の夢を見る頻度が加速したのは二年生になった二ヶ月程前からであり、おかげで最近部長職は卒業傾向に向かっている。担任には三者面談で、元に戻らないようにと釘を刺されてしまった。
教師が前に向き直った。窓からグランドを見下ろすと、隣のクラスがランニングをしていた。梅雨の合間に照る太陽の紫外線は容赦がないのに御苦労なことである。あれが俗に言う青春なのだろうか。目線を机に戻し、ノートの続きを埋め始めたが、書きかけだった部分は既に半分消されていた。白いチョークの粉だけがかすかに残っている。仕方がないので友達のノートを見せてもらうことにしよう。
*
放課後、先ほどの数学のノートを借りて荷物をまとめていると後から明るい声がした。今井里佳(いまいさとか)だった。
「部長!最近調子が悪いみたいだね」
「部長っていわないでよ…」
「部長は部長だってば」
「不名誉だよ」
「じゃあ怜奈(れいな)。最近新しい古書店ができたらしいんだけど、今日暇ある?」
古書店?いつの間にできたのだろうか。登校時にはまったく気がつかなかった。里佳から寄り道を誘ってくるなんて珍しいこともあるものだ。
「いいよ。新しい古書店なんて全然知らなかった」
「あたしも知らなかったよ。今朝チラシを貰ったんだ」
「へぇ」
「二枚貰ったから、部長にもあげるね」
「だから部長じゃないってば…」
丁寧に四つ折りにされた藁半紙のチラシを開く。そこに書かれていたのは簡単な手書き風の店周辺の地図と、『古本屋始めました』の文字だけだった。肝心の店名が入っていない。
「店の名前はなんていうの?」
里佳が地図を覗き込む。
「載ってない」
まったく。肝心な所が抜けている。
「これじゃ、地図に頼るしかないね。にしても商売する気があるのかな」
「とりあえず六時に校門前に集合ね。あたしが生徒会の仕事を終わらせてからじゃないとだめだからさ」
「わかった。それまで待っているよ」
里佳が教室から出て行った。文化祭があと一月迫り、生徒会は準備に追われている。忙しいはずの里佳が私を誘うなんて、よほど調子が悪いように見えたのだろうか。本来、読書が好きなのは私であり、彼女は全く本を読まないのだ。少しばかり申し訳ない気持ちになって、もう一度チラシを開いた。やはりそこには、地図と冷やし中華のポスター染みた言葉が書かれているだけだ。また折りたたんでカバンの中にしまった。四時三十分の鐘が鳴る。見た目より随分軽い鞄を持つ。約束の時間まで一時間以上あるので図書館で時間を潰すことにした。
*
夜中の睡眠が満足に取れていない。一瞬だが、図書館で気が遠退いた。そして見えたのは、羊の体の一部だった。私はどうかしている。気分が悪かったが、せっかく誘ってくれた里佳のことを考えると、勝手に帰ってしまうわけにもいかない。もやもやした気分を引きずりながら約束の校門前に着いた時、里佳からのメールを受信していた。
『待たせちゃって本当にごめん。仕事が長引いて、今日は遅くなりそうなの。古書店は明日じゃだめかな?』
はぁと浅い溜息をついた。私は、思っていた以上に里佳に気を使わせていたらしい。よく考えてみれば、連日行っても終わることのないはずの文化祭の準備を、今日は切り上げようとしてくれたのだ。私なんかの為に。
『大丈夫だから気にしないで。文化祭が終わったら行こうよ。毎日お疲れさま。』
私はメールを返信し、沈みかけの夕陽に背を向けて歩き出した。
*
このまま帰ろう。そのことだけが頭の中を支配していた。無駄に寄り道して、途中で気を失ったりしたら大変だ。全身の細やかに張り巡らされた神経を維持しながら、一歩一歩着実に足を進めるのが、今日最後の目標である。しかし、校門から続く一本道を最初に曲がった所で足を止めてしまった。斜め上の看板を見上げた。
「…あった」
今まで見たことがない店だ。でも懐かしさが込み上げてくる。鞄から先ほどのチラシを取り出す。地図はアバウトだが確かにこの場所を指していた。名無しの古書店である。ただし、店そのものは、どこか懐かしい気がした。長い間、空きテナントになっていたのだろうか。建物はくすんだ色になった柱が剥き出しの木造建てで、学校の教室程しかないスペースに、商品で満腹になった本棚が詰め込まれている。各通路の狭さは消防法ぎりぎりだろう。店内は五人も入ったら満員だ。開店セールをやっているという感じもなく、ただただ静かである。看板には店名が書かれていない。本当に名無しらしかった。
私は、不思議なことに気分が悪いのを忘れて店内に入っていた。古本の独特のほこりっぽい香りがする。外から見るよりは店内は明るく、暖色系の蛍光灯の明かりで落ちついた雰囲気だ。ふと、並ぶ棚の奥に目をやると誰かがこっちを見ていた。視線がぶつかる。店員だろうか。本の壁を抜けて店の奥に行くと、若い男性が座っていた。
「いらっしゃいませ」
癖があるけれど綺麗な黒髪。彼は微笑んでいる。線の細い、華奢な人で、横顔だけが少し幼い。歳は私とあまり離れていない様にも見えるが、それでも二十代だろう。自営業だからか、チェーン店のようないかにも店員らしい服装ではなく、普通のTシャツを着ている。
「ここって、古書店ですよね」
「古書店なんてそんな格好いいものじゃないよ。ただの古本屋」
そういいながら、私に麦茶の入った紙コップを渡してくれた。飲んだ麦茶は頭がキンッとする程よく冷えていた。
「それにしても、よく店に気付いたね。なかなかお客さんが来ないんだ。今日は君が一人目だよ」
「私、チラシをもらって。それでこのお店を知ったんです」
チラシを見せながら言った。
「なるほどね。そんなチラシでも効果があったんだね」
「あの、なんでこの店には名前が無いのですか?」
私は、ずっと気になっていたことを率直に尋ねた。彼は一瞬戸惑ったようだったが話始めた。
「この店、俺の店じゃないんだ。本当はじいちゃんの店でね。最近その祖父が亡くなって遺品を整理していたら、この店ごとたくさんの本が出てきて。もう手放したと思っていたのに、まだ土地も建物もすべての権利を持っていたんだよ。親戚の間では処分するってことになったけど、この本を必要としてくれる人がいるならその人に譲りたいと思って、少しの間俺が店を運営することにしたんだ。それで予算も無いから看板が日に焼けて消えてしまったまま営業中ってわけ」
「えっと、店長さんは…」
「ショウイチでいいよ」
「ショウイチさんはこの店が好きなんですね」
「それはわからないけど、本が処分されてしまうのが嫌だったんだ。そのまま捨ててしまったら、じいちゃんが生きていた事実も消されてしまいそうだし。故人が望んだわけではないから俺のエゴだよ」
「そんなことはないと思います」という言葉を掛けるのが適切なのかもしれないが、私は何も答えることができなかった。怖かった。何も言わない私に彼は微笑みかけ、立ち上り、本棚から一冊の本を取り出し、ほこりを掃って持ってきた。
「これは俺が一番好きだった本なんだ。」
私は、彼の手の中を覗いた。赤茶色い表紙の、色が焼けかけた小説のハードカバー本。
『ヒツジノユメ』
「ヒツジのユメ…ですか」
「うん。子供の時に何度も読み返したものだよ。じいちゃんがここの本の中から選んでくれたんだけどね。」
羊
「…えっと…私、羊が嫌いなんです」
「どうして?」
私は、里佳にすら相談できなかったおかしな夢のことを、さっき出会ったばかりのショウイチさんに話している。聞かれた訳でもないのに自分から。むしろかかわりの深い人ではなかったから、抵抗がないかもしれない。ショウイチさんに嫌われてしまうことへのリスクは極めて低かった。お互いをよく知らないし、何より今日限りになるかもしれない縁というのは、自由なものだ。ショウイチさんだって、友達に自分のパーソナルに踏み込むような話はしないだろう。
「夢か…」
日頃の羊への不満を話してしまった。呟きながらショウイチさんは元の位置に戻って座った。
「出てくるのは羊と君だけ?」
「はい。私、病気かもしれないですね」
「んー。冷たい羊…。」
ショウイチさんは少し俯き、何かを思い出したようにもう一度本棚の前に立ち、あの本をまた取り出すと私に差し出した。
「この本をあげるよ」
「え…」
「羊はね、さみしがり屋なんだよ。だけど幸福の象徴でもある」
微笑むショウイチさん。
「同じように本もさみしがり屋なんだと思う。今はダメでも読みたくなったら読んでみて。開店記念だよ。君にもらってほしい」
「…ありがとうございます」
不安な私。
「今じゃ寂れているこの店にも、昔は固定のお得意様がいたらしい。実際には、近所に住む子供ばっかりだったみたいだけど。それでも、じいちゃんはすごいと思う。」
ショウイチさんは弱々しく笑っている。かつて子供で溢れていたであろう店の中には私達しかいない。
私は無意識に、渡された本を強く握っていた。
突然入口を開ける音がした。
「今日は景気がいいな。いらっしゃいませ」
振り返ると里佳がいた。壁の時計は七時三十分を回っていた。
「ごめん、玲菜。もしかしたら一人で行ったんじゃないかと思って。遅くなっちゃたね」
「…ありがとう」
「欲しい本は見つかった?」
「うん。多分」
里佳はやさしい。本当に。
ショウイチさんは里佳にもあの冷たい麦茶を手渡していた。
普段本を読まない里佳が本棚を眺めているのは珍しい光景だった。意外としっくりくる。里佳が店内の本をなんとなく見つつ、麦茶を飲みほす頃には外は完全に暗くなっていた。今宵は半月である。
「さあさ。高校性は帰宅の時間だよ。俺も店終いしないといけないし」
ショウイチさんはそう言って、てきぱきと荷物をまとめた。レジの売上は確認していなかった。もちろん売上ゼロである。彼は里佳が買おうとした小説もタダでくれたみたいだ。
もう一度お礼を言って、私達は店の外に出た。昼間はあんなに暑いのに、夜の空気は寒い。はぁっと息を吐けばまだ白く見えるかもしれない。
「さようなら」
顔は見なかったが、後ろから微笑むショウイチさんがいるような気がした。
*
里佳が一ヶ月以上かけて準備を進めていた文化祭はあっけなくも三日間で終りを迎え、夏休みが過ぎ、ついには九月がやってきた。セミの声はもう聞こえない。そしてあの日以来、店に行く機会は無かった。
里佳はショウイチさんにもらった小説をようやく読み終えたらしい。一度習慣化すると手持無沙汰な様で、またあの古本屋に行こうと誘ってきた。私は賛成した。店に残っていた本の、その後も気になっていたからだ。
この前と同じく、校門からの一本道を曲がった所で足を止める。が、店のシャッターが閉められていた。
「定休日なのかな」
私達は、頑なに無言を通すシャッターに近寄った。そこには、小さな張り紙だけが一枚貼ってあった。
短い間でしたがご愛顧ありがとうございました。
羊堂書店 店主 渡瀬 祥一
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ああそうか。この店は「羊堂書店」という名前だったのか。この前は夕方だったから見えなかったが、看板に羊と書店の文字が薄らと見える。そして、ショウイチさんがこの店に愛着を持っていた理由は…
「ね、里佳。この店の名前はショウイチさんの名前と同じだったんだね」
「え…?」
あのたくさんの本達はどうなったのだろう。誰かの手に渡ったのか、それとも処分されてしまったのだろうか。知る術はない。
まだ私はあの本を開けていない。ショウイチさんの言う、「読みたくなったら」は、今のところ訪れていないのだ。もう少し私が大人になれたら、本を開く日が来るかもしれない。
本を貰ったあの日から、何故か羊が顔を見せなくなった。あの濡れた羊はどこにいるのだろう。寒さに震えていないだろうか。
あいつは美しい程にさみしがり屋で、幸福な羊なのだ。
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