がむしゃらに

しまおか

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トラブル~①

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   夏のイベントまでの間に、ロビーでの演奏は二十回を超えた。しかも十回目には一曲目と三曲目の二曲を担当できるようになったのだ。
 それでも三曲全てを通すまでには至らず、あと半年かかると言われた。それほど甘くはないことは十分承知している。まだ入部して一年経っていないのだから当然だ。
 この時期は子供達が夏休みに入ったこともあり、観光客や宿泊客が多く最も忙しい。その上イベントに向けた準備で通常業務がさらに多忙となり、最大の見せ物である和太鼓部の仕事も多く抱えていた。
 一日二十四時間が足りなく感じるほどで、睡眠時間を削りながら夏の最も暑い時を、まさしく汗にまみれながら走り回っていた。
 そんな繁忙期に事件は起こった。大勢のお客様をお迎えする為、管理部門の春香もフロントの応援に駆り出されていた日の事だ。
 管理部門は繁忙期になるとあらゆる部門のヘルプとして呼ばれる。その為あらゆる業務に精通していなければならないと配属時にも告げられていた。
 その言葉通り昨日までは客室係の補充要員として働いていたし、その前の日には料理飲食部門の手伝いをしていたのだ。
 料理飲食部門には同期の片岡がいる。せっかく応援に行くならそこで長く働きたかったが、一度だけ行った食堂ではあまりの忙しさに、彼女の顔を見ることさえできなかった。
 その日はフロントの手伝いに入り、お客様を迎える為に玄関先で並んでいた。すると一組の家族が目に入った。四十代半ばと思われる父親と母親に、十代後半の高校生くらいの女の子と中学生に見える男の子の四人である。
「いらっしゃいませ!」
 一斉に頭を下げる他の従業員とともに大きな声で挨拶をしながら、その家族に違和感を持った。なぜなら全く笑っていなかったからだ。
 旅館に着いても広々としたロビーを見渡すこともしない。真っ直ぐフロントを目指し歩くその表情には、旅行を楽しもうという笑顔が無かった。
 旅館に来る間の移動で疲れてしまい、ようやく着いたという顔でもない。一人や二人だけなら気づかなかっただろうが、家族四人ともが暗い表情をしていたのである。
 接客したフロント係も客室係もその空気を察したらしい。困惑しながらそれでも笑顔で応対し、部屋へ案内されため春香の視界から消えていった。
 道中で何かあったのだろうか。それとも旅館の対応が悪くて不機嫌にさせてしまったのだろうかと首を傾げていた。しかしその後に次から次へと入ってくるお客様対応で忙しくなり、あの彼女に会うまですっかりその家族のことなど忘れていたのである。
 夕食が始まる時間となって玄関先でのお出迎えが一段落した後、今夜の宿泊状況を確認した。今日はほぼ満室でお盆前の休前日としては上々だ。来週から始まるイベント期間中は予約で全室埋まっており、天候がよほど悪くならない限り稼働率は一〇〇%となるだろう。
 一旦事務所に戻り本来業務である総務の仕事をこなした後、他の客室係の方々と一緒に手分けして館内の見回りに出た。夕食の時間帯は一部の部屋食の人を除き、ほとんどのお客様が宴会場や食堂へ出ている。
 その間に何か起こってはいけないため、空室の部屋も含めて様子を見るのが客室係に与えられた仕事の一つだ。研修中にも何度となく行った業務である。
 割り振られたフロアをゆっくりと歩き、時々廊下ですれ違うお客様に会釈をしながら、問題がないかチエックをしていく。そんな時、こちらに向かって廊下を歩いてくる一人の若い女性を見かけた。見覚えのある子だ。
 記憶を呼び戻し、玄関先で見た全く笑っていない家族の一人、一番年上の娘さんであることに気づく。その子はやや俯いて歩いていたが、元気が無く顔色もあまり良さそうではない。
 心配になったためその女性に近づき、声をかけた。
「こんばんは。お食事はもうお済みでしたか?」
 春香の声にビクッと反応して顔を上げた彼女は立ち止り、何故私に声をかけるの? と言わんばかりの不審そうな眼でこちらを見た。すかさず、
「申し訳ございません。少し顔色が悪いように見えたものですから、食事がお気に召さなかったのかと思いまして」
と、笑顔で頭を下げた。その言葉を受け、彼女は消え入りそうな声で答えた。
「いえ、まだ食べていません」
「そうですか。それではこれからごゆっくりお召しあがりください。それともご気分が悪いのですか? 何かお薬でも持ってきましょうか?」
 顔を覗きこむように一歩近づいて話かけると、
「いえ、大丈夫です」
と彼女は言い置いてその場を小走りで去り、鍵を開けてある部屋の中へと入っていった。
 しばらく様子を見ていたが、その後ゆっくりと彼女が走った方向へと戻り、入った部屋の番号を確かめる。
「557号室、か」
 気になったためその場を離れて制服の内ポケットからメモとペンを取り出し、歩きながら部屋番号を書き込んだ。
 見回りを終えてフロントに戻ると、ロビーでは和太鼓のショーが始まっていた。春香は昨日の夜に叩いたばかりだったので、今日のローテーションには入っていない。
 フロントから舞台を取り囲むお客様の背中越しに演奏を眺めた後、先程の部屋番号を入力してお客様情報を調べた。そこには
― 遠山正樹とおやままさき 四十五歳 他大人一名、子供二名 ― 
と打ち込まれている。予約して宿泊カードに記入した人しか下の名前は判らない。正樹という人はあの女性のお父さんなのだろう。
「遠山様、か」
 珍しい名字ではないため、過去に知りあった中にも同じ名の人がいたことを思い出しながらメモをもう一度取り出し、部屋番号の下に遠山と書き加えポケットに戻した。
 春香は和太鼓の演奏が終わるまで、フロントの中から舞台を見ているお客様の様子やロビーの他のお客様を観察した。トラブルなどはこういう人が集まった時に発生しやすい。またそこから離れた、人の目を盗むような場所で何かが起こったりするのだ。
 そうした役割ある為せっかくの演奏なのに、従業員の立場では楽しんでみることや聞くことがなかなかできなかった。変に真面目だとよく言われる性格だが、病が回復しつつある今でもこれはなかなか治らない。
 この気質を少しずつでも変えていかないと、病が再発する可能性があると頭では判っている。だが二十年以上かけて形成してきた人格は、そう簡単に直せるものではない。
 そういう場合は意識して演じるのだ、と指導されたことがある。医者の言葉だけでなく、うつ病に関する書籍の中にもそういう記述があった。
 つまり真面目に考え過ぎる自分の特徴を理解した上で、もう少し気楽に構える姿勢を演じてみることも必要らしい。
 しかしそれができない不器用な自分だからしょうがない、とも考えてしまう。今は従業員として和太鼓を楽しむのではなく、お客様の様子を見ることが仕事なのだからと言い訳しながら苦笑し、舞台前の人垣から目を離した。
 そこで遠く離れた場所に佇む女性が視界に入った。すぐにその正体が判る。彼女だ。先程廊下ですれ違った遠山さんである。
 彼女の様子がやはりおかしいと感じた春香はフロントを離れ、何気ない素振りで視線を舞台に向けたまま近づいた。
 彼女はうつろな目をして、ロビーの隅にあるイスに腰掛けている。あと数歩というところまで後ろから接近し、驚かさないよう一度彼女の前にまわり、少し通り過ぎてから声をかけた。
 やはり彼女の顔色は悪い。表情が暗いと言うだけではなさそうだ。
「遠山様? いかがいたしました?」
 さりげなくひざまずいて視線を合わせてから、なるべく優しい声になるよう心がけた。再び驚いた彼女は、何故私の名前を知っているの? という顔をしている。そんな視線を無視し、もう一歩彼女に近づき尋ねた。
「やはりお顔の色がよろしくないようですが、ご気分でも悪いのですか?」
 彼女はじっとこちらを見つめながら、首をゆっくり横に振った。
「それでは何か悩みごとでもおありですか?」
 そう言って彼女の隣の椅子に腰かけると、彼女は目を丸くしながらこちらを眺めている。不思議なものでも見るような目つきだった。
 少し間をおいて、彼女は聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
「どうして?」
「何のことでしょうか?」
 春香がとぼけけると、躊躇った後に彼女が前よりわずかに大きな声で聞いてきた。
「どうして私の名前を?」
 そこで彼女に精一杯の笑顔を見せて答えた。
「お客様のお名前は、なるべく頭の中に入れるよう心掛けております」
 全くのウソではないが、ある意味ハッタリをかましたのだ。
「そうなんだ」
 素直に信じてまた俯く彼女に、今度は明るい声でおどけて言ってみた。
「悩みごとがあるのでしたら、私のようなものにでも言うだけ言ってみてはいかがですか。誰かに話すだけで、気分が楽になることもありますから。家族や友達には言えないことでも、知らない人になら言えることもあるでしょう。もちろんお伺いした事に関しては誰にも口外いたしません」
 彼女は再び顔を上げ、珍しいものでも見るような視線を向けている。そこでわざと彼女から視線を少し逸らして彼女に耳を向け、話してごらんというポーズを取った。
 すると彼女はまた目を逸らし、宙のどこかを見ながらじっと黙ってしまった。その為同じ様に彼女から視線を外す。静かに座ることでその場の空気を保ちながら、彼女の態度が変わるのを待った。
 二、三分ほど経っただろうか。やっと彼女は口を開いた。
「おねえさん、死にたいって思ったことある?」
 彼女の衝撃的な一言に戸惑う。それでも動揺を顔に出さないようにして、彼女と目を合わさないまま、軽い感じで返事をした。
「あるわよ」
 その気軽な答えが意外だったのだろう。また目をクリッとさせて春香の横顔を見ていた。視野の端でその気配を感じつつ話を続けた。
「私、ここで働く前に別の会社で勤めていてね。その時、仕事とかいろんなことが嫌になったのかうつ病にかかっちゃって。急に目の前が真っ白になって見えなくなったり、頭痛や動悸が酷くて夜も眠れなくなったり食欲もなくなったりしたの。それで会社を辞めて、自分は何をやっているのだろう、自分なんていらないんだ、こんなに辛い思いをするなら死んじゃいたいなあってその時は思ったよ」
 昔を懐かしむような口ぶりで、他人事のように笑った。唖然としながら話を聞いている彼女を横目で見ながら、自分の体験談を話す。
「でもね。会社を辞める前の休職期間中、自宅療養するためにしょうがなく実家へ帰った時だけど、それまで何とも思ってなかった、というかどっちかっていうと嫌いだった母親が私のことをすごく心配してくれたの。でもね。ある時見ちゃったの。私の前では明るく振る舞っていたけど、影では心配で泣いていた姿をね。あの子はかわいそうだ、私が代わってやりたいって言ってた。それからかな。やっぱり死んではいけないって思ったのは。私が死んだらもっと母親は悲しむだろうな。悲しむ人の姿見ていたら、やっぱりそんな思いさせてはいけないな。自分だって悲しいのは辛いし、嫌な思いをするのは誰だって避けたいからって思ったの」
 彼女は途中から春香への視線を外し、再び下を向いてしまった。それでも話を続ける。
「あとね。中学高校と同じ学校で仲の良かった友人の一人が、大学受験の直前に入院したの。それで翌年の七月頃に亡くなった。癌だって亡くなる直前に聞かされたわ」
 もちろんどこの大学も受けられなくなって彼女は浪人したのだが、他にも仲のいい友達で浪人生はいた。その為春香を含めて現役で合格した同級生達は、あまりその子のことを気にしていなかった。
 今考えると、大学に合格したからもう受験勉強をしなくて済むとホッとしており、新しい大学生活を夢見て浮かれていたからかもしれない。
 しかし大学へ入って二カ月程経った後他の友達から連絡が入り、入院していた彼女が実は癌で余命少ない状況だと教えられたのだ。
 彼女の母親は我が子の人生が残りわずかと判り、本人には内緒だったにもかかわらず、特に仲の良かった友人達だけには本当の事を伝え、最後の御見舞いに来てくれないかと声をかけてくれたのだ。
「それを聞いた時は、まさしく絶句したわ。なんて言っていいか判らず、本当に言葉が出てこなかったの。その後連絡をくれた子と話して、後日日程を調整してから御見舞いに行くことを決めたの。私は電話を切ってから泣いたわ」
 地元の病院に彼女は入院していた。しかし大学に合格した仲の良かった子達は東京や千葉や大阪の大学などと離れており、サークルや部活などそれぞれの生活が始まっている。その為なかなかいつ行くかが決められなかったことを覚えている。それでもどうにか都合のつく日を決めて病院へと向かったのだ。
「でもね。病気のことは本人に内緒でしょ。彼女は東京の大学を第一希望にしていたのを知っていたから、私は平気な顔を装って頑張って退院しなさいね、来年の春には東京で待っているわよ、なんて言葉しか声をかけられなかったの。だって見るからに痩せていて、頭の毛は抗がん剤の影響で抜け落ちているから帽子みたいなものを被っていたし、余命わずかだって知らされているけど本人には気づかれちゃいけないでしょ。だから絶対本人の前では泣かない、笑って勇気づけるだけでいいと事前に皆で決めたけど、それが余計に辛くてね」
 短い間の御見舞いを終わらせて病院を出た後、春香達は全員で号泣した。その日から約一か月後に彼女が亡くなったとの知らせを受けたのである。
 お葬式に参列するため、再び友人達と集合した。
「その時、皆で誓ったの。ありふれた言葉かもしれないけれど、彼女の分もしっかりと生きようねって。彼女ができなかった学生生活も、その後の楽しいことや辛いことも全て、私達が経験して生き続けることが何よりの供養になると思うし、彼女も喜んでくれるだろうって。だからやっぱり私は死んではいけないと自分に言い聞かせたわ。だって彼女は生きたくても生きられなかったから。もちろん生きている分嫌なこともあるわよ。でも楽しいこともあるじゃない。だから今は一日一日、しっかりと歩んで行こうとしているの」
 そう話し続けていると、女の人の叫び声が後ろから聞こえた。
「ユミ! こんなところにいたの! 探したのよ!」
 振り向くと、彼女の母親らしき人が必死な形相で近づいてきた。そこで立ち上がって頭を下げる。
「お母様ですか? すみません。お嬢さんの顔色が良くなくて気分が悪いようでしたから、ここで少しお休みされていたのです」
 母親は春香の顔を見て少し戸惑っていたようだが、同じく頭を下げた。
「そうでしたか。ありがとうございます」
 しかしその後娘に向かって母親は言った。
「部屋に戻るわよ。お父さんだってあなたを心配して探していたんだから」
 母親は彼女の腕を強引に掴み、引きずるように連れて行こうとする。その姿をもう一度頭を下げて見送ろうとした時、ユミと言う娘は声をかけてきた。
「おねえさん、その後どうしたの?」
 すぐに笑って返事をした。
「こうして元気にここで働いているよ!」
 彼女はその答えに納得していないような表情をしたまま、母親に連れられ部屋に戻っていった。その様子を見ていた先輩のフロントマンが近寄って尋ねてきた。
「どうした? 何かあったのか?」
 心配だったので彼女の今までの様子、お客様の名前などを告げて
「ちょっと、あのユミって子は注意して見ておいたほうがいいですね」
と話した。説明を聞いた先輩も頷き、
「そうだな。他のフロントと、その部屋担当の客室係にも注意するよう伝えておくよ」
 そう言い残し戻って行った。その後に続いてフロントに着くと、すでに和太鼓のショーは終わっていた。お客様もそれぞれの部屋に戻ったらしく、ロビーは閑散としている。
 ただユミの事以外にもう一つだけ気になることがあった。あの母親とどこかで会ったことがある気がしたのだ。向こうも一瞬春香を見て驚いたような顔をしていたが、それは勘違いだったのだろうか。
 だが結局どこで会った人だったか思い出せなかったため、気のせいだと思うことにした。
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