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挑戦~②
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次の朝、気持ち良く目を覚まして十時からの仕事をこなし始めた。夜七時過ぎには一度業務を終え、八時から始まるショーの準備に取り掛かる予定だ。
八時半頃に終わって後片付けをしたら、九時にはまた通常業務に戻る。夜十時までの勤務なので、ショーが終わればその日の仕事はほぼ終わったようなものだ。
春香はデビュー初日であるため、そのような勤務時間の時にわざわざ入れてもらった。これが十二時間勤務でも朝四時までであれば、ショーが終わっても仕事は続き、精神的にも体力的にもかなり厳しくなるからだ。
もちろん全員が同じ勤務時間の体制ではない。その他のメンバーの中には、朝四時までのローテーションで働く人達も当然いた。
そう考えると和太鼓部のメンバーは通常業務に加えて、かなり大変な仕事を行っていることが判る。部に参加してショーに出れば別途特別手当がつくのだが、それほど高くはない。
それまでの練習に費やす時間などを考えれば、参加していない他の従業員は口を揃えて割に合うものではないと言う。春香もそう思った。それでも和太鼓はこの旅館の売り物の一つで大切なお客様サービスの一環であり、欠かせない仕事だ。
いや、仕事という考え方だけでは続けられないだろう。お客様が喜ぶ顔を見て自分も喜びを感じ、何より和太鼓を叩くことが好きでないとやっていられないと痛切に感じる。春香が入社する前から「和太鼓部に入りたい」と言った時には、正直周りも心配したらしい。
普通は旅館の仕事を一、二年やって慣れてきた従業員に対し、頃合いを見計らい和太鼓をやってみないかと声がかかるそうだ。あくまで自主的な従業員の試みから始まった和太鼓部は、従業員を強制的に参加させることは決してしないという。
そうは言っても怪我や病気で休む人や会社を辞めていく人、高齢になって続けられなくなる人達もいるため、常に新しい部員を増やす努力は必要だった。そうでなければこの旅館の名物にもなっている、約三十年の伝統を絶やすことになってしまう。
第一、この和太鼓を楽しみに旅館へやってくる常連客もいるのだ。その楽しみを奪い、期待を裏切る事は絶対に出来ない。また春香のように、和太鼓を聞いてその魅力を知る人も少なからずいるはずだ。
しかし理想はそうでも、現実的に部員の増員など簡単には上手くいかない。そもそも旅館の仕事自体、勤務時間が不規則で体力的にもハードだからだ。
さらにサービス業ならではの、厳しいお客様を相手に理不尽で嫌な思いをすることもある仕事であり精神的にもきつい。加えて給与もそれほど高くはなかった。
一部上場企業である保険会社に勤めていたためよく判るが、完全週休二日制である金融関係の仕事の方がずっとずっと給与はいい。どちらの仕事が大変か単純に比べることはできないが、時間給からすれば旅館業は決して割のいい仕事だと思えなかった。
だからこそ通常業務に加え、わずかな手当の為に大変な苦労を背負ってまで和太鼓部に入ろうと思う人は少ない。今所属しているのは、本当にお客様サービスをしたいと心から願う人達ばかりだ。
加えて和太鼓が好きでかつセンスがあり、気力と体力がないとやっていけないし続かない。そういう意味でも過去に病で長期療養したことがある春香が和太鼓部に入ることには、会社の同僚からも心配の声は多数挙がっていた。
だが元々この旅館に就職しようとした動機が和太鼓であるという強い意志を聞き、これまでの本業での働きぶりを見た上で上司も部のメンバーも今のところは快く応援してくれているのだ。
そうしたこれまでの想いと努力により念願が叶っていよいよ今夜、和太鼓ショーのデビューを飾る。長胴太鼓で三曲演奏される中のわずか一曲だけの出番だが、曲の合間で行われる準備や片付けの手伝いもある為最後まで気は抜けない。
時間が近づくにつれて緊張はどんどんと高まっていった。
「天堂さん、大丈夫?」
昨日の夜遅番を終え、今日は夕方四時からの十二時間勤務に入る小畑も今日のショーに出る予定だ。その彼女が徐々に強張った顔になっていく春香を見て、また心配になったのか声をかけてくれた。
「だ、大丈夫です」
「って、あんた、全然大丈夫じゃないじゃない!」
バンッ! と背中を思いっきり叩いた彼女は、
「昨日はあれから眠れたんでしょ。大丈夫だから。思いっきり、そして楽しんでがむしゃらに叩きなさい!」
そうやってまた励ましてくれた。昨日から彼女には助けられてばかりいる。今日の夕方、出勤してきた彼女と顔を合わせた時には昨日の夜のお礼を言い、おかげでリラックスして睡眠がしっかりとれたことを報告していた。その後は問題なく通常業務をこなしていたが、本番が近付くにつれ再び不安に駆られていたのだ。
しかし彼女に喝を入れられてから正気に戻ることができた。悩んでも解決しないことは悩まない。悩まず今何ができるかを考える。これは今までにも心の病から復活するため、呪文のように唱えてきた言葉だ。
悩んでいる間は考え方も後ろ向きになり、ストレスが溜まって体にその症状がでてしまう。そうならないためにも前向きな解決方法に取り組むことで心を軽くさせるのだ。悩むのではなく考えることに集中する。
そう自分に言い聞かせ今できることは何か、それは目の前の仕事にとにかく取り組むことだと考えた。そして再び通常業務をひたすら懸命にこなす。
「そろそろ時間だよ」
小畑に呼びかけられて時計を見ると、すでに夜の七時十分だ。八時からショーを始めるには七時半から舞台の準備を行う必要がある。仕事に没頭していたため、気づけばもうそんな時間だった。
「はい! 判りました。それでは申し訳ございません。舞台の準備がありますので失礼します!」
小畑に返事をしてから管理部門の他の方々に仕事を抜けることを告げ、彼女の後について部屋を出ようとしたところ、事務所にいる人々から声がかけられた。
「天堂さん、頑張れよ!」
「気楽にやれ!」
「お客様を楽しませてくれよ!」
声援を受け拍手で送り出され部屋を出る前にもう一度頭を下げると、目から涙がこぼれ落ちそうになった。
頑張れという言葉は、学生時代にテニスをやっていた時など何度も聞かされたが、社会人になるとこの一言が無意識のうちにプレッシャーとなり、ストレスになっていた。頑張れと声をかけられる度に、叫びたくなったことが幾度となくある。
「頑張っているじゃないですか! 私は一生懸命やっているんです。それともやってないとでもいうのですか! これ以上どうすればいいのですか!」
しかし先ほどかけられた“頑張れ”という言葉から、そんなプレッシャーやストレスは感じない。逆に温かい、気持ちのこもった言葉に後押しされ元気をもらった気がした。
「行くよ」
小畑が目を反らしたまま春香の背をポンポンと二度叩き、そのまま更衣室へと向かう。旅館で着用している制服から演奏用の服に着替えるためだ。
ハイ、と返事をしてその後ろについて行く。彼女のさらりとした優しさが、心と背中をまたほんのりと熱くした。
制服を脱ぎロッカーの中に入れてあった足袋を履く。そしてゆったりとした赤いズボンに黒のタンクトップ、赤い半纏を羽織って手首に黒いリストバンドをつけ、頭に白い鉢巻きを巻いた。更衣室の中にある鏡で体全体を映し、自分の姿をしばらく眺める。
「ヨシッ!」
両手で頬を二回叩いて気合いを入れると、小畑と一緒にロビーの端にある倉庫に足を向けた。すると既に到着しているメンバーが和太鼓を車輪のついた台に移し、移動させる準備をしているではないか。
部では春香が一番下だ。しかも今回は一曲しか出番はない。本来なら真っ先に来て準備をするのが役目である。緊張の余りそこまで頭が回っていなかった。慌てて気付き手伝おうとしたが、逆に他のメンバーからからかわれた。
「良いよ、焦らなくても。どうせ自分の法被姿に見惚れていたんだろ。初めての時はそんなもんだ」
図星だったので顔を赤らめて下を向く。
「よく似合っているよ。あ、ちょっと曲がっているね」
友永が近づいてきて、手を伸ばし鉢巻きのズレを直してくれた。自分よりずっと背の高い彼を見上げる形になった春香の目に、急接近した厚い胸板が飛び込んでくる。
思わず視線を落とすと今度は彼の股間が目に入った。赤いズボンの上でさらしに巻かれた友永の、窮屈に締め上げられた腹筋の下の膨らみを見てまた慌てて顔を反らす。
その様子を横で見ていた小畑は軽く睨み、わざと大きめの声で叱った。
「あんた、どこを見ているのよ」
「なんだ、本番前に友永さんの股間を見るぐらいの余裕があるなら大丈夫だ」
「本番中は見ちゃ駄目だよ~」
周囲から一斉に弄られ笑われた。先程よりもっと顔が熱くなった春香は、黙って和太鼓の準備をすることで気を紛らわせるしかない。しかしからかわれたおかげで、緊張していたことなど頭から完全に吹っ飛んでいた。
倉庫の中には今回演奏する春香の他に、七人のメンバーが揃っている。全員で台車に乗せた太鼓を、次々舞台へと移動させた。
まばらだがロビーには既にお客様が集まりだしている。時間前だが設置されたパイプイスに十数名のお客様がすでに腰掛け、まだかまだかと待ちわびていた。
そんな観客の様子を見て約一年前の自分を思い浮かべる。母とこの旅館に来て、誘われるがままこの場所であのお客様達と同じように座っていた。その自分が今度は舞台側に立ちこれから演奏しようとしているのだ。そう考えると背中にじんわりと汗を掻いていた。
着々と準備を整えていよいよ時間になった。最初の一曲目は舞台袖で控えている役目だ。といってもすることが何もない訳では無い。
例えば演者が太鼓を叩いている内に、汗で滑ってバチが飛んで行くことがある。そのために予備を手元に置き、すぐに手渡せるよう見ていなければならなかった。
しかもバチは叩く太鼓により種類が異なる。それらを把握した上で瞬時に対応しなければならない。
また事前に確認しているが、それでも演奏中に太鼓の皮が破れるというアクシデントに備え、予備の太鼓を手元に置いてすばやく入れ替える準備も必要だ。そのためにも演奏している舞台全体の様子をしっかり把握しておく仕事があった。
それに今後は今日の一曲目も叩くことができるよう、絞太鼓と長胴太鼓のリズムと叩き方をしっかりと頭に入れなければいけない。
この時間もまた勉強の場だ。練習で聞くものと本番では、同じようで全く異なる。太鼓を叩く演者の気合の入れ方が、お客様を前にするとしないとでは微妙に違う。そのため当然のように叩く力も音も変わってくるからだ。
八時になった。ショーの開始である。マイクを持った小畑が舞台の端から出てきて口上を述べた。挨拶と演奏するメンバーが従業員だけで構成されていることを説明し、お客様に満足していただくようにと軽い話でお客様を笑わせながら場を和ませている。
やがて彼女の合図で演奏が始まった。気合が入る。
「ハッ!」
七人が奏でる和太鼓の音がロビーに響き渡った。軽快なリズムと重音なリズム。バチを握った腕が力強く振り上げられては叩きつけられる。その間春香は、長胴太鼓を中心に部員達のリズムとバチさばきを見つめていた。
ますます音が激しくなる。腹の底に響く太鼓の音が体を熱く湧き立たせた。正確に刻まれるリズムと、強弱を加えたわずかに異なる音とリズムが曲を形成していく。小畑を見ると汗だくになって握るバチで、力強く太鼓の面を正確に捉えていた。
叩いて弾かれ、叩いて弾かれという動作を繰り返し、迫力のある音を創り出す。立ったまま舞台で足を大きく広げ、床を踏みしめて踏ん張り勇ましく太鼓を鳴らす姿はいつも以上に演者を美しく魅せる。
和太鼓の音とリズムや演者の踊るような激しくバチを振り降ろす動作に、観客達もどんどん引き込まれていく。舞台袖で控えていた春香の手も自然と膝を激しく叩き拍子を取っていた。舞台にいる演者達と同じ気持ちになって曲を奏でていたのだ。
一曲目が終わった。その瞬間ドッと拍手が湧く。ロビーに目を移すと演奏が始まる前より人が増えており、舞台に向かって皆笑顔で手を叩いてくれていた。
舞台上では再びマイクを持った小畑が二曲目の紹介をし始めた。その間に演奏される曲目の準備の為、太鼓の位置を変える必要がある。春香も移動を手伝った。
二曲目は五尺大太鼓を使う。それを前に出して絞太鼓を舞台袖に移動し、長胴太鼓と三尺大太鼓の位置を変える。準備が終わると今度は舞台袖から舞台中央近くにある長胴太鼓の後ろに立ち、バチを握りしめた春香は小畑の合図を待つ。いよいよここからが本当の舞台デビューだ。
「ハイッ!」
小畑の気合いが入った。それを合図に今度はメンバーが八人、一斉にバチを太鼓の面に打ちつける。
夢中でリズムを取り、手に汗を掻きながらバチを太鼓に叩きつけた。強く張られた皮が握ったバチをはじき返す。その振動が手を痺れさせるように伝わると同時に、ドンッ! という音が弾き出される。
さらに強くバチを振り下ろす。再び跳ね返され、また、ドンッ! という音が響く。この動作を何十回と繰り返していくうちに額は汗でびっしょりとなり、鉢巻きが徐々に重くなる。汗が腕からも背中からも噴き出ていく。
舞台袖で聞いていた時とは比べ物にならないほど、自らが太鼓を叩くとさらに強い音の振動が全身を駆け巡った。耳から入る激しい音とリズム、体で感じる重い音とリズムが一体となってがむしゃらに叩き続ける。
あっという間に二曲目が終わった。一曲目以上の大きな拍手が沸く。お客もさらに増えている。盛大な拍手の中で一瞬呆然としていた春香は、三度目のマイクを持った小畑の声で正気に戻り、次の曲目の準備に取り掛かった。
五尺大太鼓を引っ込めて再び絞太鼓を前に出す。肩から担ぐ桶胴太鼓をメンバーに渡すと、舞台には再び七人のメンバーが太鼓の前に揃った。準備を終えた春香は舞台袖へと戻り、緊急時の準備態勢に入る。
三曲目は定番の、軽やかなリズムでお客様にも楽しんでもらうものだ。桶胴太鼓を担いだ人達がロビーの観衆の中に入り込み、子供連れの家族を中心に太鼓をお客に叩いてもらう趣向である。以前宿泊した時に叩いたあの太鼓だ。
あの時と同様に恐る恐る叩く子供、イヤ、イヤと逃げる子供、リズムはめちゃくちゃだが目を輝かせて一生懸命叩く子供、楽しそうに叩くお婆ちゃん、アラ、ヤダ、などといいながら積極的に叩きまくるおばさんがいた。
テンポ良く、明るく観客と一緒になって楽しむ雰囲気が、お客様にはとても喜ばれている。以前も感じた時のようにロビーにいる全員が一体感を持って笑顔になったまま、その日の演奏が終了した。こうして舞台初デビューは終わったのだ。
お客様が舞台の周りから離れ、それぞれの部屋に戻っていく間に後片付けをして太鼓を台車に乗せ、倉庫に運び込んだ春香に小畑が話しかけてきた。
「どうだった?」
笑って答える。
「気持ち良かったです! 最高です! でももっと叩きたかったですね!」
「それはよかった。嬉しそうに一生懸命叩いていたものね。リズムの強弱も良かったよ。初めてのデビューにしては出来過ぎなくらいじゃない?」
彼女はまたまたポンポンと汗で濡れた春香の腕を二度叩き、片付けに戻っていく。他のメンバーにもよくやったと褒められ、どうだった? と感想を聞かれて小畑に答えた同じ言葉を返した。
「もっと叩きたいか。頼もしいね。もう少し経ったら、嫌って言うほど叩かせてやるから」
メンバーの一人に笑いながらそう言われ、改めてこの舞台の過酷さを痛感する。春香はたった一曲で汗だくになったが、他のメンバーは三曲を叩ききり最後までお客様に対して笑顔を絶やさずにいた。
その精神力と体力はすさまじいものがある。春香は一曲叩くのが必死で、お客様に笑顔をむけるところまで気が回らなかった。
二曲目は荘厳な演目だったため、演奏中基本的に笑顔は必要ない。しかし演奏が終わった後は声援を送ってくださるお客様に対し、やはり笑って頭を下げることは必要だった。まだまだ足らないことばかりだと反省する。
一方で曲自体は上手く叩けたという自信がついた。口だけでなく実際にもっと叩けるだけの技術と体力と精神力を付けなければ、と再度自分に言い聞かせる。
全ての片付けが終わり、更衣室に戻って制服に着替えた。
「今日は初めてだったから、これでもう仕事は上がっていいよ」
小畑にそう言われていたが、就業時間は午後の十時までであと一時間弱ある。彼女はこれからさらに朝の四時までの勤務が続くのだ。そのため早めに帰る訳にもいかず、着替え終わると事務所に戻って仕事をすることにした。
女性更衣室にあるシャワー室で汗を流し、今度は落ちた化粧をし直して着替えに十分時間をかけ戻ってきた小畑は、春香の顔をみて
「無理しなくていいのに」
と言ってくれたが、
「これくらいで疲れていたら次からできないですし、まだ若いですから」
と言うと叱られてしまった。
「それ、嫌みで言っている? どうせ私はあなたより若くないですよ!」
この旅館で十年目のベテランだが、二十歳の時に入社しているので彼女は今年で三十歳になる。大卒の社会人として実際は四年目になる春香は今年で二十六歳だから、いうほど年は離れていない。
それでも彼女にとっては年齢差が気になるようだ。特に三十路やらアラフォーと呼ばれだすと、余計に感じるのかもしれない。そう考えると二十六になった春香もまた、彼女と同じアラサー仲間であることに気付いた。
夜十時になってシフトを交替する人との引き継ぎ事項も済ませた後、ほんの少し残業していたが、小畑に
「早く帰って寝なさい!」
とお尻を蹴られ、無理やり仕事を切り上げさせられて寮に戻った。
更衣室でシャワーを浴びてはいたが、もう一度部屋のお風呂に入って汗を流し、体を洗ってすっきりさせた時にはもう夜の十二時を過ぎていた。気温は低目だったが良く晴れた一日が終わり、夜空には綺麗な星が瞬いている。
しかしそんなものをゆっくりと眺める余裕もなくベッドに潜り込むと、瞬時に深い眠りへと落ちて小さな鼾をかいた。やはり気付かないうちに気が張っていて、疲れていたのだろう。明日は朝十時からの十二時間勤務である。その為の体力を回復させるよう、朝八時までぐっすりと眠らなければならなかったが、そんな心配は必要がなかった。
八時半頃に終わって後片付けをしたら、九時にはまた通常業務に戻る。夜十時までの勤務なので、ショーが終わればその日の仕事はほぼ終わったようなものだ。
春香はデビュー初日であるため、そのような勤務時間の時にわざわざ入れてもらった。これが十二時間勤務でも朝四時までであれば、ショーが終わっても仕事は続き、精神的にも体力的にもかなり厳しくなるからだ。
もちろん全員が同じ勤務時間の体制ではない。その他のメンバーの中には、朝四時までのローテーションで働く人達も当然いた。
そう考えると和太鼓部のメンバーは通常業務に加えて、かなり大変な仕事を行っていることが判る。部に参加してショーに出れば別途特別手当がつくのだが、それほど高くはない。
それまでの練習に費やす時間などを考えれば、参加していない他の従業員は口を揃えて割に合うものではないと言う。春香もそう思った。それでも和太鼓はこの旅館の売り物の一つで大切なお客様サービスの一環であり、欠かせない仕事だ。
いや、仕事という考え方だけでは続けられないだろう。お客様が喜ぶ顔を見て自分も喜びを感じ、何より和太鼓を叩くことが好きでないとやっていられないと痛切に感じる。春香が入社する前から「和太鼓部に入りたい」と言った時には、正直周りも心配したらしい。
普通は旅館の仕事を一、二年やって慣れてきた従業員に対し、頃合いを見計らい和太鼓をやってみないかと声がかかるそうだ。あくまで自主的な従業員の試みから始まった和太鼓部は、従業員を強制的に参加させることは決してしないという。
そうは言っても怪我や病気で休む人や会社を辞めていく人、高齢になって続けられなくなる人達もいるため、常に新しい部員を増やす努力は必要だった。そうでなければこの旅館の名物にもなっている、約三十年の伝統を絶やすことになってしまう。
第一、この和太鼓を楽しみに旅館へやってくる常連客もいるのだ。その楽しみを奪い、期待を裏切る事は絶対に出来ない。また春香のように、和太鼓を聞いてその魅力を知る人も少なからずいるはずだ。
しかし理想はそうでも、現実的に部員の増員など簡単には上手くいかない。そもそも旅館の仕事自体、勤務時間が不規則で体力的にもハードだからだ。
さらにサービス業ならではの、厳しいお客様を相手に理不尽で嫌な思いをすることもある仕事であり精神的にもきつい。加えて給与もそれほど高くはなかった。
一部上場企業である保険会社に勤めていたためよく判るが、完全週休二日制である金融関係の仕事の方がずっとずっと給与はいい。どちらの仕事が大変か単純に比べることはできないが、時間給からすれば旅館業は決して割のいい仕事だと思えなかった。
だからこそ通常業務に加え、わずかな手当の為に大変な苦労を背負ってまで和太鼓部に入ろうと思う人は少ない。今所属しているのは、本当にお客様サービスをしたいと心から願う人達ばかりだ。
加えて和太鼓が好きでかつセンスがあり、気力と体力がないとやっていけないし続かない。そういう意味でも過去に病で長期療養したことがある春香が和太鼓部に入ることには、会社の同僚からも心配の声は多数挙がっていた。
だが元々この旅館に就職しようとした動機が和太鼓であるという強い意志を聞き、これまでの本業での働きぶりを見た上で上司も部のメンバーも今のところは快く応援してくれているのだ。
そうしたこれまでの想いと努力により念願が叶っていよいよ今夜、和太鼓ショーのデビューを飾る。長胴太鼓で三曲演奏される中のわずか一曲だけの出番だが、曲の合間で行われる準備や片付けの手伝いもある為最後まで気は抜けない。
時間が近づくにつれて緊張はどんどんと高まっていった。
「天堂さん、大丈夫?」
昨日の夜遅番を終え、今日は夕方四時からの十二時間勤務に入る小畑も今日のショーに出る予定だ。その彼女が徐々に強張った顔になっていく春香を見て、また心配になったのか声をかけてくれた。
「だ、大丈夫です」
「って、あんた、全然大丈夫じゃないじゃない!」
バンッ! と背中を思いっきり叩いた彼女は、
「昨日はあれから眠れたんでしょ。大丈夫だから。思いっきり、そして楽しんでがむしゃらに叩きなさい!」
そうやってまた励ましてくれた。昨日から彼女には助けられてばかりいる。今日の夕方、出勤してきた彼女と顔を合わせた時には昨日の夜のお礼を言い、おかげでリラックスして睡眠がしっかりとれたことを報告していた。その後は問題なく通常業務をこなしていたが、本番が近付くにつれ再び不安に駆られていたのだ。
しかし彼女に喝を入れられてから正気に戻ることができた。悩んでも解決しないことは悩まない。悩まず今何ができるかを考える。これは今までにも心の病から復活するため、呪文のように唱えてきた言葉だ。
悩んでいる間は考え方も後ろ向きになり、ストレスが溜まって体にその症状がでてしまう。そうならないためにも前向きな解決方法に取り組むことで心を軽くさせるのだ。悩むのではなく考えることに集中する。
そう自分に言い聞かせ今できることは何か、それは目の前の仕事にとにかく取り組むことだと考えた。そして再び通常業務をひたすら懸命にこなす。
「そろそろ時間だよ」
小畑に呼びかけられて時計を見ると、すでに夜の七時十分だ。八時からショーを始めるには七時半から舞台の準備を行う必要がある。仕事に没頭していたため、気づけばもうそんな時間だった。
「はい! 判りました。それでは申し訳ございません。舞台の準備がありますので失礼します!」
小畑に返事をしてから管理部門の他の方々に仕事を抜けることを告げ、彼女の後について部屋を出ようとしたところ、事務所にいる人々から声がかけられた。
「天堂さん、頑張れよ!」
「気楽にやれ!」
「お客様を楽しませてくれよ!」
声援を受け拍手で送り出され部屋を出る前にもう一度頭を下げると、目から涙がこぼれ落ちそうになった。
頑張れという言葉は、学生時代にテニスをやっていた時など何度も聞かされたが、社会人になるとこの一言が無意識のうちにプレッシャーとなり、ストレスになっていた。頑張れと声をかけられる度に、叫びたくなったことが幾度となくある。
「頑張っているじゃないですか! 私は一生懸命やっているんです。それともやってないとでもいうのですか! これ以上どうすればいいのですか!」
しかし先ほどかけられた“頑張れ”という言葉から、そんなプレッシャーやストレスは感じない。逆に温かい、気持ちのこもった言葉に後押しされ元気をもらった気がした。
「行くよ」
小畑が目を反らしたまま春香の背をポンポンと二度叩き、そのまま更衣室へと向かう。旅館で着用している制服から演奏用の服に着替えるためだ。
ハイ、と返事をしてその後ろについて行く。彼女のさらりとした優しさが、心と背中をまたほんのりと熱くした。
制服を脱ぎロッカーの中に入れてあった足袋を履く。そしてゆったりとした赤いズボンに黒のタンクトップ、赤い半纏を羽織って手首に黒いリストバンドをつけ、頭に白い鉢巻きを巻いた。更衣室の中にある鏡で体全体を映し、自分の姿をしばらく眺める。
「ヨシッ!」
両手で頬を二回叩いて気合いを入れると、小畑と一緒にロビーの端にある倉庫に足を向けた。すると既に到着しているメンバーが和太鼓を車輪のついた台に移し、移動させる準備をしているではないか。
部では春香が一番下だ。しかも今回は一曲しか出番はない。本来なら真っ先に来て準備をするのが役目である。緊張の余りそこまで頭が回っていなかった。慌てて気付き手伝おうとしたが、逆に他のメンバーからからかわれた。
「良いよ、焦らなくても。どうせ自分の法被姿に見惚れていたんだろ。初めての時はそんなもんだ」
図星だったので顔を赤らめて下を向く。
「よく似合っているよ。あ、ちょっと曲がっているね」
友永が近づいてきて、手を伸ばし鉢巻きのズレを直してくれた。自分よりずっと背の高い彼を見上げる形になった春香の目に、急接近した厚い胸板が飛び込んでくる。
思わず視線を落とすと今度は彼の股間が目に入った。赤いズボンの上でさらしに巻かれた友永の、窮屈に締め上げられた腹筋の下の膨らみを見てまた慌てて顔を反らす。
その様子を横で見ていた小畑は軽く睨み、わざと大きめの声で叱った。
「あんた、どこを見ているのよ」
「なんだ、本番前に友永さんの股間を見るぐらいの余裕があるなら大丈夫だ」
「本番中は見ちゃ駄目だよ~」
周囲から一斉に弄られ笑われた。先程よりもっと顔が熱くなった春香は、黙って和太鼓の準備をすることで気を紛らわせるしかない。しかしからかわれたおかげで、緊張していたことなど頭から完全に吹っ飛んでいた。
倉庫の中には今回演奏する春香の他に、七人のメンバーが揃っている。全員で台車に乗せた太鼓を、次々舞台へと移動させた。
まばらだがロビーには既にお客様が集まりだしている。時間前だが設置されたパイプイスに十数名のお客様がすでに腰掛け、まだかまだかと待ちわびていた。
そんな観客の様子を見て約一年前の自分を思い浮かべる。母とこの旅館に来て、誘われるがままこの場所であのお客様達と同じように座っていた。その自分が今度は舞台側に立ちこれから演奏しようとしているのだ。そう考えると背中にじんわりと汗を掻いていた。
着々と準備を整えていよいよ時間になった。最初の一曲目は舞台袖で控えている役目だ。といってもすることが何もない訳では無い。
例えば演者が太鼓を叩いている内に、汗で滑ってバチが飛んで行くことがある。そのために予備を手元に置き、すぐに手渡せるよう見ていなければならなかった。
しかもバチは叩く太鼓により種類が異なる。それらを把握した上で瞬時に対応しなければならない。
また事前に確認しているが、それでも演奏中に太鼓の皮が破れるというアクシデントに備え、予備の太鼓を手元に置いてすばやく入れ替える準備も必要だ。そのためにも演奏している舞台全体の様子をしっかり把握しておく仕事があった。
それに今後は今日の一曲目も叩くことができるよう、絞太鼓と長胴太鼓のリズムと叩き方をしっかりと頭に入れなければいけない。
この時間もまた勉強の場だ。練習で聞くものと本番では、同じようで全く異なる。太鼓を叩く演者の気合の入れ方が、お客様を前にするとしないとでは微妙に違う。そのため当然のように叩く力も音も変わってくるからだ。
八時になった。ショーの開始である。マイクを持った小畑が舞台の端から出てきて口上を述べた。挨拶と演奏するメンバーが従業員だけで構成されていることを説明し、お客様に満足していただくようにと軽い話でお客様を笑わせながら場を和ませている。
やがて彼女の合図で演奏が始まった。気合が入る。
「ハッ!」
七人が奏でる和太鼓の音がロビーに響き渡った。軽快なリズムと重音なリズム。バチを握った腕が力強く振り上げられては叩きつけられる。その間春香は、長胴太鼓を中心に部員達のリズムとバチさばきを見つめていた。
ますます音が激しくなる。腹の底に響く太鼓の音が体を熱く湧き立たせた。正確に刻まれるリズムと、強弱を加えたわずかに異なる音とリズムが曲を形成していく。小畑を見ると汗だくになって握るバチで、力強く太鼓の面を正確に捉えていた。
叩いて弾かれ、叩いて弾かれという動作を繰り返し、迫力のある音を創り出す。立ったまま舞台で足を大きく広げ、床を踏みしめて踏ん張り勇ましく太鼓を鳴らす姿はいつも以上に演者を美しく魅せる。
和太鼓の音とリズムや演者の踊るような激しくバチを振り降ろす動作に、観客達もどんどん引き込まれていく。舞台袖で控えていた春香の手も自然と膝を激しく叩き拍子を取っていた。舞台にいる演者達と同じ気持ちになって曲を奏でていたのだ。
一曲目が終わった。その瞬間ドッと拍手が湧く。ロビーに目を移すと演奏が始まる前より人が増えており、舞台に向かって皆笑顔で手を叩いてくれていた。
舞台上では再びマイクを持った小畑が二曲目の紹介をし始めた。その間に演奏される曲目の準備の為、太鼓の位置を変える必要がある。春香も移動を手伝った。
二曲目は五尺大太鼓を使う。それを前に出して絞太鼓を舞台袖に移動し、長胴太鼓と三尺大太鼓の位置を変える。準備が終わると今度は舞台袖から舞台中央近くにある長胴太鼓の後ろに立ち、バチを握りしめた春香は小畑の合図を待つ。いよいよここからが本当の舞台デビューだ。
「ハイッ!」
小畑の気合いが入った。それを合図に今度はメンバーが八人、一斉にバチを太鼓の面に打ちつける。
夢中でリズムを取り、手に汗を掻きながらバチを太鼓に叩きつけた。強く張られた皮が握ったバチをはじき返す。その振動が手を痺れさせるように伝わると同時に、ドンッ! という音が弾き出される。
さらに強くバチを振り下ろす。再び跳ね返され、また、ドンッ! という音が響く。この動作を何十回と繰り返していくうちに額は汗でびっしょりとなり、鉢巻きが徐々に重くなる。汗が腕からも背中からも噴き出ていく。
舞台袖で聞いていた時とは比べ物にならないほど、自らが太鼓を叩くとさらに強い音の振動が全身を駆け巡った。耳から入る激しい音とリズム、体で感じる重い音とリズムが一体となってがむしゃらに叩き続ける。
あっという間に二曲目が終わった。一曲目以上の大きな拍手が沸く。お客もさらに増えている。盛大な拍手の中で一瞬呆然としていた春香は、三度目のマイクを持った小畑の声で正気に戻り、次の曲目の準備に取り掛かった。
五尺大太鼓を引っ込めて再び絞太鼓を前に出す。肩から担ぐ桶胴太鼓をメンバーに渡すと、舞台には再び七人のメンバーが太鼓の前に揃った。準備を終えた春香は舞台袖へと戻り、緊急時の準備態勢に入る。
三曲目は定番の、軽やかなリズムでお客様にも楽しんでもらうものだ。桶胴太鼓を担いだ人達がロビーの観衆の中に入り込み、子供連れの家族を中心に太鼓をお客に叩いてもらう趣向である。以前宿泊した時に叩いたあの太鼓だ。
あの時と同様に恐る恐る叩く子供、イヤ、イヤと逃げる子供、リズムはめちゃくちゃだが目を輝かせて一生懸命叩く子供、楽しそうに叩くお婆ちゃん、アラ、ヤダ、などといいながら積極的に叩きまくるおばさんがいた。
テンポ良く、明るく観客と一緒になって楽しむ雰囲気が、お客様にはとても喜ばれている。以前も感じた時のようにロビーにいる全員が一体感を持って笑顔になったまま、その日の演奏が終了した。こうして舞台初デビューは終わったのだ。
お客様が舞台の周りから離れ、それぞれの部屋に戻っていく間に後片付けをして太鼓を台車に乗せ、倉庫に運び込んだ春香に小畑が話しかけてきた。
「どうだった?」
笑って答える。
「気持ち良かったです! 最高です! でももっと叩きたかったですね!」
「それはよかった。嬉しそうに一生懸命叩いていたものね。リズムの強弱も良かったよ。初めてのデビューにしては出来過ぎなくらいじゃない?」
彼女はまたまたポンポンと汗で濡れた春香の腕を二度叩き、片付けに戻っていく。他のメンバーにもよくやったと褒められ、どうだった? と感想を聞かれて小畑に答えた同じ言葉を返した。
「もっと叩きたいか。頼もしいね。もう少し経ったら、嫌って言うほど叩かせてやるから」
メンバーの一人に笑いながらそう言われ、改めてこの舞台の過酷さを痛感する。春香はたった一曲で汗だくになったが、他のメンバーは三曲を叩ききり最後までお客様に対して笑顔を絶やさずにいた。
その精神力と体力はすさまじいものがある。春香は一曲叩くのが必死で、お客様に笑顔をむけるところまで気が回らなかった。
二曲目は荘厳な演目だったため、演奏中基本的に笑顔は必要ない。しかし演奏が終わった後は声援を送ってくださるお客様に対し、やはり笑って頭を下げることは必要だった。まだまだ足らないことばかりだと反省する。
一方で曲自体は上手く叩けたという自信がついた。口だけでなく実際にもっと叩けるだけの技術と体力と精神力を付けなければ、と再度自分に言い聞かせる。
全ての片付けが終わり、更衣室に戻って制服に着替えた。
「今日は初めてだったから、これでもう仕事は上がっていいよ」
小畑にそう言われていたが、就業時間は午後の十時までであと一時間弱ある。彼女はこれからさらに朝の四時までの勤務が続くのだ。そのため早めに帰る訳にもいかず、着替え終わると事務所に戻って仕事をすることにした。
女性更衣室にあるシャワー室で汗を流し、今度は落ちた化粧をし直して着替えに十分時間をかけ戻ってきた小畑は、春香の顔をみて
「無理しなくていいのに」
と言ってくれたが、
「これくらいで疲れていたら次からできないですし、まだ若いですから」
と言うと叱られてしまった。
「それ、嫌みで言っている? どうせ私はあなたより若くないですよ!」
この旅館で十年目のベテランだが、二十歳の時に入社しているので彼女は今年で三十歳になる。大卒の社会人として実際は四年目になる春香は今年で二十六歳だから、いうほど年は離れていない。
それでも彼女にとっては年齢差が気になるようだ。特に三十路やらアラフォーと呼ばれだすと、余計に感じるのかもしれない。そう考えると二十六になった春香もまた、彼女と同じアラサー仲間であることに気付いた。
夜十時になってシフトを交替する人との引き継ぎ事項も済ませた後、ほんの少し残業していたが、小畑に
「早く帰って寝なさい!」
とお尻を蹴られ、無理やり仕事を切り上げさせられて寮に戻った。
更衣室でシャワーを浴びてはいたが、もう一度部屋のお風呂に入って汗を流し、体を洗ってすっきりさせた時にはもう夜の十二時を過ぎていた。気温は低目だったが良く晴れた一日が終わり、夜空には綺麗な星が瞬いている。
しかしそんなものをゆっくりと眺める余裕もなくベッドに潜り込むと、瞬時に深い眠りへと落ちて小さな鼾をかいた。やはり気付かないうちに気が張っていて、疲れていたのだろう。明日は朝十時からの十二時間勤務である。その為の体力を回復させるよう、朝八時までぐっすりと眠らなければならなかったが、そんな心配は必要がなかった。
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