がむしゃらに

しまおか

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奮闘~①

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   春香は入社式の前日である三月三十一日に寮への引っ越しを終え、翌日一日には無事入社式を迎えた。その後は仮採用として三カ月の研修期間に入ったのだ。
 最初は全体の色んな部門を経験し、正式に社員として採用された際にそれぞれの特性や現場状況に合わせて配属されるらしい。
 部署は大きく分けると、宿泊部門、料理飲食部門、営業部門、管理部門の四つに分けられる。セールスや企画などを行う営業部門や、総務や経理を行う管理部門なら保険会社にいた春香でもイメージは沸く。少ないながらかつての経験を生かすことができるかもしれない。
 しかし宿泊部門や料理飲食部門は、旅館ならではの特殊な仕事だ。宿泊客を直接相手にすることが多いため、前職で経験したものとは全く違った形でお客様に気を遣わなければならないだろう。
 実際に研修が始まると、厳しさは想像を絶するものだった。まず一例を上げれば、勤務体系は月曜日は朝十時から夜十時まで十二時間勤務をし、その間に合計二時間の休憩が入る。
 翌日火曜日は休みで、水曜日は夕方四時から朝四時まで十二時間勤務。その間二時間の休憩を挟んで木曜日はそこから休みに入り、金曜日の朝十時から夜十時まで十二時間、二時間の休憩を挟んでの勤務をする。
 土曜日の朝十時から夜十時まで二時間の休憩を挟んだ十二時間勤務を行い、日曜日は朝四時から二時間の休憩を挟んだ夕方四時までの十二時間勤務、というローテーションが続くのだ。
 これはあくまで基本形で状況によって変わり、休みも変則的になるためかなり不規則な生活となる。
 春香を含む今年の新入・中途入社社員十二名は、三名ずつ四つのグループに分けられた。それぞれ最初の三カ月で四部門を経験するのだが、春香のグループは宿泊部門の研修から始まった。
 最初はフロントの研修からだ。そこでは玄関先へお客様が到着してお迎えする時の姿勢や挨拶から始まり、フロントまでのご案内とチェックイン時の挨拶、確認、客室係への引き継ぎを行う。
 また当日泊まられるお客様の確認や部屋の点検、見回り、お客様のチェックアウト時の精算、忘れ物の確認、玄関先までのお見送りの姿勢、挨拶までをみっちり学んだ。
 次は電話対応である。館外からの予約、問い合わせ、宿泊客への取り次ぎ電話から始まり、館内のお客様からの問い合わせ、社員同士のお客様情報の伝達における電話の仕方などを徹底的に教えられた。
 あとはクレーム処理だ。フロントでのチェックイン、チェックアウト時、客室でのクレームが最も多いため、対処方法をロープレ形式で研修を行った。
 社員同士でお客様役と接客役に分かれ、実際にあったクレーム発生時の例を通じ、適切に問題を解決できるようにするのだ。
 また客室係ではフロントから客室までのお客様のご案内、客室でのお部屋の説明、館内施設や非常口等の説明、料理についてされやすい質問などお客様からの質疑応答に対する主な問答集を勉強した。
 春香は一緒にフロント研修を行う三人の中で、お客様への挨拶や話す時の言葉遣い、その他の手際などはダントツに上手いと指導係の先輩に褒められた。
 ある意味当然のことである。他の二名は学生から社会人になりたての子達ばかりだ。元気に挨拶は出来ても、どこかまだぎこちない。
 一方の春香は業界が違えども、前職で二年余り多くのお客様と接してきた。しかも長期療養に入ったベテラン社員担当の、気難しい取引先をフォローすることも行っていた経験がある。
 その為自然とクレーム処理も多く、旅館業界で使う独特の用語など新たに覚えることはあっても、お客様に頭を下げることには慣れていた。
 新社会人と中途入社の春香とは、現場での経験値がかなり違う。新人の頃における二年余りの差は相当大きかった。威張れるほどではなかったが、やはり人から褒められおだてられたりすると割気はしない。同じグループの新人から
「天堂さんってすごい!」
と言われれば、春香も調子に乗って
「社会人としては先輩だから」
と他の二人に、言葉遣いや注意する点などのアドバイスまでしていた。
 そんな天狗になりかけていた鼻をへし折られる事件が起こったのは、研修が始まって三週間が経った頃だった。
 いつものように玄関先でお客様のお迎えの準備をしていると、家族連れの集団が入ってきた。父親と母親らしき大人が二名、父親が小さな女の子を抱いて、母親が小学校低学年くらいの男の子の手を引いている。その男の子はやたら大きな声を出し、はしゃぎながら入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
 背中を斜め四十五度に傾け、やや深めに頭を下げながら挨拶をしてお迎えしていたが、腹の中では思っていた。
“煩い子供が来たな。何でこんな旅館に落ち着きのない騒がしい子を連れてくるかなあ”
 そんな春香が教育係の先輩により、その一家のアテンドをするよう指示された。その場合お客様をフロントまで案内し、チェックインと客室係への引き継ぎまで行うのである。
 戸惑いながらも既に何度も行ってきた一連の流れだった為、努めて自然に父親と母親の顔を交互に見ながら挨拶した。
「いらっしゃいませ。ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらまで」
「ありがとう。あなた、子供達と少し待っていて」
 奥様がご主人に向かってそう告げ、春香の後についてフロントまで行こうとしていた。その様子を確認し、奥様に向かってフロントに案内するため声をかけた。
「こちらでお願いいたします。よろしければご主人とお子様はあちらでお待ちください」
 ご主人と子供達にはフロント正面に置かれている椅子を手で指し示して案内をした。すると彼は子供を連れてそちらへと離れていき、奥様は後ろをついてきた。
 春香はフロントの中へ移動し、カウンター越しに奥様へ改めて挨拶する。その後名前や宿泊日数の確認を行い、名前と住所の記入をお願いした。
 そこまでは問題なかったが、落ち着いて待っていられない男の子が父親から離れ、母親の傍にやってきてぐずつき始めた。
「ねえ。お風呂まだ? 露天風呂に早く行こうよ」
「ちょっと待ってなさい!」
 宿泊カードにまだ記入途中だった彼女は、足に絡みつく息子に対して一喝した。それでも子供は言う事を聞かずに、まだ~? まだ~? と騒いでいる。父親を見ると、抱きかかえた娘のことしか目に入っていないようだ。
 足元で騒ぐ子供に困っている彼女は、まだ宿泊カードを記入しきれていない。こちらは既に伺った名前で予約確認をし終わり、部屋の鍵を準備している。彼女がカードに記入し終わればすぐに客室係へ引き継ぎ、部屋まで案内してもらえるのだ。
 そこで春香は、彼女が厳しく子供に注意していたため油断してしまった。
「僕、少し静かにしようね。他の方にも迷惑がかかるからね」
 母親の横で騒ぐ男の子に向かい、優しくそう注意した。するとそれまで騒いでいた男の子はピタッと静かになったかと思うと、急にワッと泣きながら椅子に座っている父親の方へと向かい、走り去ってしまったのだ。
 予想していなかった子供の行動に目を丸くして母親の顔を覗くと、知らん顔をしている。やがて記入し終わったカードを何事もなかったように提出したが、その時の彼女は不機嫌な顔をしていた。
 戸惑いながらも部屋の鍵を手に取り、少し裏返った声で声をかけた。
「そ、それでは、こちらがお部屋の鍵になります」
 お客様の後ろに待ち構えていた客室係に鍵を渡し、部屋に案内するよう目配せしていると、泣きながら走って行った男の子が父親と共に近づいてきた。客室係が父親の持っている手荷物も預かろうとすると、それを遮りいきなり怒鳴った。
「うちの子を泣かせたのは誰だ!」
 ざわざわとしていたロビーは一瞬水を打ったように静かになる。その後またざわつき始めたが、皆こちらに注目していることが判った。
「申し訳ございません!」
 反射的に父親へ頭を下げると同時に教育係の先輩も駆けつけ、一緒に頭を下げてお詫びした。春香と先輩を代わる代わるにらみつけていた父親は、最後に春香の顔に視線を止めると、今度はドスの利いた声を出した。
「お前か」
「申し訳ございません」
 もう一度謝罪したところ、母親が間に入ってくれた。
「いいのよ。この子があんまり騒ぐから静かにしてって言われただけだから」
 父親の後ろに隠れていた男の子の頭を軽く叩く。その子は既に泣きやんでいた。
「私共の教育が至りませんで、申し訳ございません。今後このようなことがないよう致します」
 教育係の先輩がもう一度父親にお詫びした。その間に子供がまた騒ぎだす。
「早くお風呂行こう~!」
 すると先輩の客室係が男の子に向かって
「今からお部屋に行きましょうね~。そうしたらお風呂へ入れますから」
と子供の目線までしゃがみ込み、にこやかに話しかけた。すると子供は機嫌がよくなり、
「じゃあ早く行こう、早く行こう!」
と父親と母親の手をひっぱりだした。そこで母親がまたぴしゃりと叱る。
「判ったから引っ張らないで。もう少し静かにしなさい!」
「それではこちらになります」
 客室係がその親子を部屋へと案内するため、フロントを離れた。その後ろを母親と嬉々とした男の子がついていく。娘を抱えた父親は何事もなかったかのように、二人の後に続いた。
 後ろ姿が見えなくなるまで頭を下げてお客様を見送った後、春香は先輩に声をかけられ他の新人と一緒にフロントの裏の事務室に連れていかれた。
 お客様から見えない事務室の中の、誰もいない打ち合わせ室に全員が入ると先輩は尋ねた。
「今のケースで天堂は自分自身で何が悪かったか判るか?」
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