がむしゃらに

しまおか

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再出発~③

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 事務所を後にし、チックインを終えると予約した部屋へと案内された。就職が決まれば今後この旅館の客室に、こうして泊まることはまずないだろう。
 社員として働くことになれば、旅館の裏にある女子寮に入るか駅前周辺の市内に部屋を借りることになるそうだ。
 ここでの最後の一泊になるかもしれないため、今回の旅をしっかり満喫しようと決めた。早速浴衣に着替えてお風呂に入る用意をする。あいにく天気は曇りがちで、以前のように見事で奇麗な富士山が見られなかったことだけは残念だった。
 お風呂を上がり、部屋に戻ってから携帯で実家に連絡すると母が出た。
「ああ、春香、面接は終わったの?」
「うん。採用は後日連絡が来るらしい」
「どんな感じだった?」
 面接での話を聞かせた後、いい感触だったこと告げる。
「それは良かった。お疲れ様。あとはゆっくりして帰って来なさいね」
「そうする」
「気を付けるのよ。それじゃあね」
 明日帰るからと告げて電話を切る。母の言う通りこの後はゆっくりくつろぐだけだ。それでも部屋で横になりながら、近藤から渡された会社に関する資料などを読み返している間にもう夕飯の時間になってしまった。
 前回と同じ食堂に案内されたが、今回は一人である。だからか妙に寂しく感じた。それでも食事は以前同様素晴らしい。もちろん早春の旬の食材を主に使った創作溢れる料理は、十分満足するものばかりだ。
 お腹一杯食べ終えると急いで一旦部屋に戻り、面接時にもらった資料を持ってロビーへと引き返す。演奏が始まるまでの時間、書類に目を通す為だ。春香は会場に設置された椅子の最前列に陣取った。
 八時になるといよいよショーが始まった。和太鼓を叩くメンバーは見覚えのある人もいたが、多くは入れ替わっているようだ。今回は若い男性がマイクで和太鼓や曲目の説明をしていた。
 一曲目が始まる。前回初日に聞いたものと同じだった。そこで気づく。この旅館で働くことになればいずれこれらの曲目を覚え、自分も叩かなければいけない。その為気が早いとは思いながらも、リズムを口ずさみながら手でヒザを叩いた。
 そうして曲の感覚を体で覚えようと試みる。もうこの時は観客として楽しむのではなく、すでに従業員の一員のつもりで曲を聴いていた。
 二曲目は前回聞いたことが無いものだった。これはすぐに覚えられないと諦め、そこでようやく周りの観客と同様、太鼓の音に興じることにする。
 前回と同じ構成で、二曲目は和太鼓の迫力を存分に味わえる荘重そうちょうな演奏がなされ、すでに経験者となっていた春香を驚愕させた。
 以前とは違ってこれほど複雑なリズムを激しく、揃って叩くことがどれだけ難しいかが理解できるからだろう。その為自分にできるだろうかという不安すら感じた。それだけ素晴らしく、力強いものだった。
 三曲目は前回二日目に聞いた、明るいテンポの曲だ。同じく肩に担いだ太鼓を持った人達が会場を巻きこむように、子供連れの人達やお年寄りの観客を中心に周りだす。 
 する太鼓を持った一人が近くまでやって来た。最初は隣に座っていたおばさんにバチを渡していたが、次に叩いてみないかと目配せされたのだ。
 こういう場所で春香の様な年代の女性、しかも一人でいる客はほとんどいないから目立ったのかもしれない。差し出された一本のバチを思わず手に取ってしまった。
 久し振りに握ったバチの感触だ。井上とのトラブル以来、和太鼓は叩いていない。約一か月ぶりに持った為思わず緊張してしまった。なかなか叩こうとしない春香に、鉢巻きをした若い男の従業員が促した。
「どうぞ、思い切って叩いてください」
 年は自分より少し上に見えるその彼と目を合わし頷いた。バチを親指と中指、薬指の三本で握り直すと腕をしならせて
― ドン! ドン!
と強く叩いた後、片手で手首を細かく揺らし、
― ドドドドドドドド、ドドドドドドドド
とバチを太鼓の面に打ちつけた。
 本来は両手に持ったバチでリズムを取り早く叩くのだが、渡されたのは一本だったので片手で太鼓を連打したのだ。これはなかなか難しい打法である。初めて井上から教えてもらった時は、均等なリズムで叩くことがしばらくできなかった。
 だが昔鍛えた手首の強さが春香の大きな武器である。しばらく叩き続けて練習したことで、手首に負担のかかるこの打法を得意とするまでになったのだ。
 彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑って
「お上手ですね。ありがとうございました」
と頭を下げ、手を伸ばした。彼にバチを戻して春香も頭を下げる。
「ありがとうございました」
 彼は笑顔でその場から離れ、また別の人に渡して太鼓を叩かせていた。その後は久しぶりに握ったバチの感触と、太鼓を叩いた時の手首に跳ね返ってくるあの衝撃の余韻に浸り、しばらく放心状態に陥っていた。
 和太鼓のショーが終わって盛大な拍手が起こり、歓喜した観客達は満足な顔でそれぞれ散っていった。春香も椅子に置いていた資料を忘れないよう手に持って部屋に戻ろうと立ち上がった時、後ろから声をかけられた。
「お客様」
 振り向くと、バチを渡してくれた先程の従業員だった。汗に濡れた法被の下のタンクトップから覗く、黒く逞しい筋肉が光っている。彼は春香が持つ紙袋を見て尋ねてきた。
「失礼ですが、こちらの旅館に就職活動でこられたのですか?」
 紙袋には旅館の名前と、会社概要の説明書と書かれた文字が入っている。見る人が見れば、そういう関係の人だと一目で判ったからだろう。
「はい。今日実は面接をさせていただいたのです」
 素直にそう答えると、彼はにこやかに告げた。
「採用されるといいですね。そうなれば一緒に和太鼓を叩くこともできますよ」
 思わず嬉しくなり、背筋を伸ばして挨拶した。
「はい。後日連絡をいただくことになっていますが、採用されれば四月からお世話になります。その時は是非、皆さんとご一緒させていただいて叩きたいと思っています!」
 その言葉に彼は驚いた顔をしながら言った。
「和太鼓部への入部も希望されているのですね。それは楽しみだ。その時は宜しくお願いします。私は柴田しばたといいます」
「私は天堂といいます。天堂春香です」
「天堂様はこの後も当旅館でごゆっくりお過ごしください。私は片付けなどがありますからこれで失礼致します」
 柴田と名乗った彼はまた頭を下げて、舞台に上がって行った。その様子を他の従業員の方々も太鼓の片づけをしながら見ていたので、四月から自分の先輩になるかもしれない人達に思わず礼をした。
 しかしまだ採用が決まった訳でもない。そこで急に恥ずかしくなり、その場を駆け足で去り部屋に戻った。
 次の日のお昼前、旅館をチェックアウトした後に採用された場合入居するかもしれない女子寮を外から眺め、資料に書かれている間取りなどを確認する。
 バブル期に建てられた築三十年余り経つ鉄筋コンクリートの建物で、外観は若干古く見えるがリフォームされているという部屋の中は、写真を見る限りとても奇麗だった。
 駅前の栄えた市内で部屋を借りるのも悪くないが、少し距離があるため通勤が大変だ。それに賑やかで生活には便利な駅前よりも、体調を崩してから人混みが苦手になった春香にとって、山の中の自然豊かな田舎にある寮の方が住み心地は良さそうに感じた。
 幸い貯金はあるので経済的に困ってはいないが、長期的に見れば家賃が格安の寮に入った方がいいだろう。春香は入寮後の生活を想像しながら家に戻った。
 人事部の近藤から春香のスマホに連絡が入ったのは、面接から一週間後だった。
「こちらで検討しました結果、天堂さんには是非四月からこちらに来ていただきたいと思います。入社式は四月一日となりますがよろしいでしょうか」
あまりの感激に言葉がとっさには出なかった。
「もしもし? 大丈夫ですか? 天堂さん?」
 何も話さず黙っていたからか電話口の向こうで、近藤が心配そうに呼びかけている。我に返り、慌ててスマホを手にしたままその場で頭を下げた。
「ありがとうございます! 大変嬉しいです。宜しくお願いいたします!」
「こちらこそお願いします。入社までに必要なことや段取りを説明した資料はこれからお送りします。届きましたらこちらへ来られるまでに全て目を通し、入社式まで時間も無いので用意しておくものは早めに準備して下さい。あと天堂さんが女子寮を希望されるなら、その点についての注意点なども記載しています。もしご不明な点がありましたら、早めにお問い合わせください」
「判りました。ありがとうございます! でもこんな体の私を本当に雇っていただけるとは思っていませんでした」
 正直にそう告げると、電話の向こうで彼は少し笑っていた。
「健康状態を見るため、入社してからもう一度健康診断を受けていただくことになります。でも天堂さんの場合は、事前に頂いたお医者様からの診断書を見る限り問題ないかと思います。後は天堂さんから面接前に頂いた書類を見ましたが、卒業された学校や以前の会社の経歴を見ても全く問題ありません。このような田舎の企業に、あなたの様な有名大学から来てくれる人はとても少ないですから」
「そうなんですか」
「健康状態さえ問題なければ、欠員も出ていたので当旅館としては当初から前向きに採用する方向で決めていました。どこでもそうでしょうが、接客業は慢性的な人手不足です。ただそれ以外にも面接時の天堂さんの人となりを、こちらでしっかり見て判断させていただきましたから、自信を持ってください」
「ありがとうございます! 宜しくお願いいたします!」
 スマホを握りしめ、思わず大声で叫びながらその場でもう一度頭を下げていた。
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