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気分転換
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診断書を会社に郵送し終わったある日、母が作ってくれた昼食を食べている時に話しかけられた。
「春香、九月も会社に行かなくていいのなら、温泉にでも行かない? 良いところがあるのよ。平日だったら土日より少し安いし、空いているからゆっくりできるよ。どうする?」
母はどこからともなく取り出したパンフレットを目の前に広げた。Y県にあるホテルの様な大きな宿で広大な敷地を持ち、温泉もあるらしい。
「ここ、私の実家から少し離れた所にあってね。昔何度かお爺ちゃんが生きていた時に行ったことがあるの」
母方の祖父が亡くなってもう十年近く経つだろうか。
「お婆ちゃんの所へは行かないよ」
母の実家に寄るつもりなのかと思い、そう返事をした。春香のことはおそらく親戚中に広まっているはずだ。そんな人達に興味本位で接してこられたり、下手に同情されたりするのは嫌だ。
それだけではない。最も恐れたことは偏見だった。田舎の人間は特にそうだ。心療内科に通っていると言うだけで、おかしなことを言う輩はいる。実際にこの家の周辺でさえも、そのような差別的偏見を口にする人がいると母の口から聞いて知っていた。
だが首を大きく横に振っていった。
「実家には寄らない。たまにはゆっくりと温泉に浸かってのんびりしたいじゃない」
「でも平日だとお父さんは休みなんか取れないでしょ?」
専業主婦の母と違い、父は地元の銀行に勤めるサラリーマンだ。夏休みもお盆に取ったばかりの父が休むことなどできるはずがない。同じ金融関係に勤めていたから、会社は違ってもその程度の事は判る。
しかも父は休みの間近くにある自分の実家へ泊まったり、何日間かは昔からの同級生と北海道に旅行へ出かけたりして、家にいることはほとんどなかった。春香に気を使ったのか、家に居づらかったのかは知らない。
だが妹も友人と一緒に旅行へ行って家にはいなかった為、その間は母と二人で日常と変わらない日々を過ごしていたのだ。
そんな母に対する気遣いもあったのだろう。
「お父さんは行かないよ。春香と私だけ。美由紀はこの間出かけたばかりだからもういいでしょ」
妹は厳しい就職活動を乗り切り、八月に入ってようやく地元の中堅企業から内定を貰うことができた。先日の旅行はその祝いも兼ねてだったと聞いている。
「お母さんと二人で温泉?」
「別にいいじゃない。一緒に温泉に入って同じ部屋で寝て食事するだけよ。後は勝手にのんびりすればいいし。ここの旅館、庭がすごく広いから色々散策もできるし、着いた当日はお抹茶を頂けるの。一緒に甘い物も出してくれてそれがとても美味しいのよ。温泉なんて春香は小さい時に行ったきりじゃない?」
「去年会社で行った」
「そんなの何も面白くなかったでしょ」
確かにそうだった。しかも同部屋になった女性事務員達に気をつかっていたため、のんびりなんてとても出来なかったことを覚えている。
一昨年と昨年の十二月初旬に、金曜の夜に職場を出発し土曜の昼には帰ってくる忘年会と称した一泊旅行の決起会を経験した。
一番下端の春香は、慌ただしく会の仕切りやなんやらでバタバタさせられた。その揚句、各自が年度末に向けたノルマ達成の意気込みを述べさせられるなど、ただただ疲れるだけの旅行で嫌な思い出しかない。
「たまにはいいでしょ。正直言うと、春香をダシにして私ものんびりするつもりなの。お父さん達だって一日や二日位なら大丈夫でしょ。逆に喜ぶんじゃないかな」
最初は会社を休み実家で療養中なのに、温泉旅行なんて行っていいものかと抵抗があった。
しかし母にそう言うと、笑われてしまった。
「何を言ってるの。温泉はただ遊びに行くだけじゃなくて、療養の為でもあるのよ。今は心も体もしっかり休ませることが一番なんだから」
お盆休みの間も春香の世話がある為どこにも出かけられなかった母をのんびりさせたいという父の後押しもあり、結局強引な誘いを断りきれなかった。ただ二人きりはどうかと思い妹も誘ってみたが、
「親姉妹で温泉なんて嫌。彼氏とだったら行ってもいいけど」
と断られてしまった。その気持ちは判らないでもない。それにしても彼氏なんているのかと母に尋ねると、いる訳ないでしょと馬鹿にしたような顔をしていた。
結局九月の第二週目の水曜日から二泊三日で母と二人で温泉に行くことが決まる。どうせなら二泊ぐらいしたらどうだと父が言ったらしく、母は相当喜んでいた。その間は家事から解放されるためだろう。
今まで母と二人きりで旅行したことなどない。その為少し気恥ずかしかったが、それぞれゆっくりしてればいいとの父の言葉に甘え、手配や準備などは母に全て任せ出かけることとなったのだ。
幸いなことに旅行当日の天気は晴れだった。特急で名古屋へ出て新幹線に乗り換え、さらに別の路線の駅で降りてから温泉宿の送迎バスに乗車した。そこから三十分ほど山道を揺られて走った先に目的の温泉があった。
パンフレットで見た通りの大きな建物の玄関先では、仲居さん達がずらりと並んで出迎えてくれた。広いロビーに圧倒されつつ案内された部屋に入ると、窓からは富士山がよく見えた。青い空に少しだけ頂に雲をかぶった富士の山は、くっきりと堂々たる姿をしている。
「良い景色じゃない。ほらこっちから見える庭もすごいでしょ。もう少ししたらあの茶屋で、抹茶サービスがあるから行こうね」
母は機嫌よくはしゃいだ。電車とバスの移動だけで疲れてしまった春香も、五階の部屋から見下ろす立派な庭を眺めるだけで、心が休まり体の強張りがほぐれる気がした。
正直この旅行自体に余り期待はしていなかった。事前にパンフレットを見ていたものの、どこにでもあるありきたりの温泉宿を想像していたのだ。
しかし写真ではなく、実際に広く緑に覆われた庭そのものを目の当たりにした時には、小さな感動さえ覚えた。
秋には紅葉が素晴らしく、冬には雪が積もった趣ある姿を見せ、春には桜が咲き乱れ、四季折々の花が彩りを添えるらしい。この九月は濃い緑の木々の中に、色とりどりのコスモスやホウセンカ、白いナデシコなどが咲いていた。
しばらく部屋でくつろいでから庭に出て茶屋に入り、ウエルカムドリンクの代わりに抹茶と和菓子を頂いてから庭を散策する。
和らいだ日差しと清々しい空気が、春香の体を包んだ。風に乗って花の匂いだろうか、いい香りが鼻をくすぐる。広い庭の中には小川も流れていた。
橋がかかり、そこを通るとさらさらと流れる音が耳に心地いい。木陰に入ると冷やりとした風が頬に当たった。
ぼんやり緑の中を歩いているだけで、少しずつ生気を取り戻しているような感覚に陥る。母はそんな春香を静かに見守りながら、少し離れてゆっくりと歩き、その間はずっと黙っていてくれた。好きにさせようとしていたのだろう。
三十分も歩いただろうか。後ろを振り向くと母がこちらを見ていた。二人の目が合う。
「そろそろ部屋へ戻ろうか?」
そう告げると母は黙って笑いながら頷いた。
部屋に戻った二人は、まだ夕食まで一時間ほどあるからと温泉へ入ることにして、用意されていた浴衣に着替えた。備え付けのタオルを持って一階の大浴場へと向かう。
そこには男湯と女湯の入口の前に休憩所があり、お風呂上がりの人達が冷たいお茶を飲んでいた。先に出たらそこで待ち合わせる約束をして入ることにした。
中はやや混んでいて、小さい子供と母親が何組かと結構な年齢のお婆さんの集団が十人ほど湯船に入っていた。広い湯船の外には露天風呂があり、そこからも富士山が見えるようだ。
室内の湯船に入り少し体を温めてから、外の露天風呂に肩まで浸かる。ゆったりと足を伸ばし、寝ころぶようにしながら夕焼けの空に映る富士山を眺めた。部屋からとは全く違った山の姿が見られたため、素直に綺麗だと感慨に耽る。
ここに来て良かったかもしれない。ちょうどいい湯加減でそのまま寝てしまいたいほど気分が良かった。最初は躊躇っていた旅行だが、母の誘いに乗って正解だった。何も余計なことを考えず、ただただくつろげばいい。心と体を休ませるだけで良かったのだ。
十分堪能したため、他の見知らぬ客と話を咲かせている母をおいて先に湯船から出る。待ち合わせの休憩場所で冷たいお茶を紙コップに汲み、畳が広がる座敷奥にあった窓際の椅子に座って待つことにした。
窓からは先程歩いた庭園の一部が見える。浴衣を着た客が何人か散策していた。まだ火照った頭と体を冷ますようにぼんやりと佇んでいる周りでは、いくつかの集団ができたかと思うと風呂に入って行き、また出てきた人達も集まっては休憩場所から離れていく。
何組かの客がその場を去っていった頃に、ようやく母がやってきた。
「ああ、春香、待たせてごめんね。あんまり気持ち良かったからのんびりしちゃった。他のお客さんとも話こんでしまったし」
頬を上気させて申し訳なさそうに近づいてくる。母は家でも長風呂だ。春香もいつもよりは長めに浸かっていたが、それ以上に入っていたらしい。余程
気持ちが良かったのだろう。
「いいよ、別に。私もここでゆっくりしてたから」
「じゃあ夕食の時間もあるし、部屋に戻ろうか」
その言葉にあわせて椅子から立ち上がり、母と一緒に部屋へ帰った。
「お風呂から見た富士山がすごく綺麗だったね。露天風呂からもよく見えたでしょ」
「うん、見えたよ」
「そうでしょ。ここが晴れた日は、富士山が映えるからいいのよ。また季節ごとに姿が変わるからね。前、お爺ちゃんと来た時は冬だったし、その前は春だったかな。この時期に来たのは初めてだったからお母さん、凄く嬉しいわ」
誰の為に企画された旅行なのかと一瞬思ったが、余計な気を遣わないようにとの母なりの振る舞いだったかもしれない。
一度部屋に戻った二人は、夕食を食べようと移動した。二階にある大食堂ではあったが、個々のテーブル席が薄いカーテンで仕切られている。隣り合った客の姿はうっすらと映る程度にしか見えない。その一つに二人は案内されて座った。
雰囲気は和洋折衷の趣だ。食事はモダン会席と呼ばれ、典型的な温泉宿の食事といった類ではなく、ホテルのしゃれたディナーコースといった方が適切だろう。目にも鮮やかな料理が、テーブルの上に次々と並べられていく。
オリジナルの桃の食前酒をはじめ、人参のムース、手毬寿司、鮟肝おろし和え、ゴマ豆腐の前菜から伊勢海老をすり身にした団子が食欲をそそった。
さらにインゲンを添えたお椀にお造り、雲丹を乗せた鯛のロースト、香草バターを溶かして食べる柔らかい蝦夷アワビの踊り焼きまである。
その上牛フィレのポアレ、口変わりに野菜の酢漬け、赤味噌のつみれ汁に松茸の炊き込みご飯、香の物にデザートには桃とブドウのタルトがでた。
「春香、九月も会社に行かなくていいのなら、温泉にでも行かない? 良いところがあるのよ。平日だったら土日より少し安いし、空いているからゆっくりできるよ。どうする?」
母はどこからともなく取り出したパンフレットを目の前に広げた。Y県にあるホテルの様な大きな宿で広大な敷地を持ち、温泉もあるらしい。
「ここ、私の実家から少し離れた所にあってね。昔何度かお爺ちゃんが生きていた時に行ったことがあるの」
母方の祖父が亡くなってもう十年近く経つだろうか。
「お婆ちゃんの所へは行かないよ」
母の実家に寄るつもりなのかと思い、そう返事をした。春香のことはおそらく親戚中に広まっているはずだ。そんな人達に興味本位で接してこられたり、下手に同情されたりするのは嫌だ。
それだけではない。最も恐れたことは偏見だった。田舎の人間は特にそうだ。心療内科に通っていると言うだけで、おかしなことを言う輩はいる。実際にこの家の周辺でさえも、そのような差別的偏見を口にする人がいると母の口から聞いて知っていた。
だが首を大きく横に振っていった。
「実家には寄らない。たまにはゆっくりと温泉に浸かってのんびりしたいじゃない」
「でも平日だとお父さんは休みなんか取れないでしょ?」
専業主婦の母と違い、父は地元の銀行に勤めるサラリーマンだ。夏休みもお盆に取ったばかりの父が休むことなどできるはずがない。同じ金融関係に勤めていたから、会社は違ってもその程度の事は判る。
しかも父は休みの間近くにある自分の実家へ泊まったり、何日間かは昔からの同級生と北海道に旅行へ出かけたりして、家にいることはほとんどなかった。春香に気を使ったのか、家に居づらかったのかは知らない。
だが妹も友人と一緒に旅行へ行って家にはいなかった為、その間は母と二人で日常と変わらない日々を過ごしていたのだ。
そんな母に対する気遣いもあったのだろう。
「お父さんは行かないよ。春香と私だけ。美由紀はこの間出かけたばかりだからもういいでしょ」
妹は厳しい就職活動を乗り切り、八月に入ってようやく地元の中堅企業から内定を貰うことができた。先日の旅行はその祝いも兼ねてだったと聞いている。
「お母さんと二人で温泉?」
「別にいいじゃない。一緒に温泉に入って同じ部屋で寝て食事するだけよ。後は勝手にのんびりすればいいし。ここの旅館、庭がすごく広いから色々散策もできるし、着いた当日はお抹茶を頂けるの。一緒に甘い物も出してくれてそれがとても美味しいのよ。温泉なんて春香は小さい時に行ったきりじゃない?」
「去年会社で行った」
「そんなの何も面白くなかったでしょ」
確かにそうだった。しかも同部屋になった女性事務員達に気をつかっていたため、のんびりなんてとても出来なかったことを覚えている。
一昨年と昨年の十二月初旬に、金曜の夜に職場を出発し土曜の昼には帰ってくる忘年会と称した一泊旅行の決起会を経験した。
一番下端の春香は、慌ただしく会の仕切りやなんやらでバタバタさせられた。その揚句、各自が年度末に向けたノルマ達成の意気込みを述べさせられるなど、ただただ疲れるだけの旅行で嫌な思い出しかない。
「たまにはいいでしょ。正直言うと、春香をダシにして私ものんびりするつもりなの。お父さん達だって一日や二日位なら大丈夫でしょ。逆に喜ぶんじゃないかな」
最初は会社を休み実家で療養中なのに、温泉旅行なんて行っていいものかと抵抗があった。
しかし母にそう言うと、笑われてしまった。
「何を言ってるの。温泉はただ遊びに行くだけじゃなくて、療養の為でもあるのよ。今は心も体もしっかり休ませることが一番なんだから」
お盆休みの間も春香の世話がある為どこにも出かけられなかった母をのんびりさせたいという父の後押しもあり、結局強引な誘いを断りきれなかった。ただ二人きりはどうかと思い妹も誘ってみたが、
「親姉妹で温泉なんて嫌。彼氏とだったら行ってもいいけど」
と断られてしまった。その気持ちは判らないでもない。それにしても彼氏なんているのかと母に尋ねると、いる訳ないでしょと馬鹿にしたような顔をしていた。
結局九月の第二週目の水曜日から二泊三日で母と二人で温泉に行くことが決まる。どうせなら二泊ぐらいしたらどうだと父が言ったらしく、母は相当喜んでいた。その間は家事から解放されるためだろう。
今まで母と二人きりで旅行したことなどない。その為少し気恥ずかしかったが、それぞれゆっくりしてればいいとの父の言葉に甘え、手配や準備などは母に全て任せ出かけることとなったのだ。
幸いなことに旅行当日の天気は晴れだった。特急で名古屋へ出て新幹線に乗り換え、さらに別の路線の駅で降りてから温泉宿の送迎バスに乗車した。そこから三十分ほど山道を揺られて走った先に目的の温泉があった。
パンフレットで見た通りの大きな建物の玄関先では、仲居さん達がずらりと並んで出迎えてくれた。広いロビーに圧倒されつつ案内された部屋に入ると、窓からは富士山がよく見えた。青い空に少しだけ頂に雲をかぶった富士の山は、くっきりと堂々たる姿をしている。
「良い景色じゃない。ほらこっちから見える庭もすごいでしょ。もう少ししたらあの茶屋で、抹茶サービスがあるから行こうね」
母は機嫌よくはしゃいだ。電車とバスの移動だけで疲れてしまった春香も、五階の部屋から見下ろす立派な庭を眺めるだけで、心が休まり体の強張りがほぐれる気がした。
正直この旅行自体に余り期待はしていなかった。事前にパンフレットを見ていたものの、どこにでもあるありきたりの温泉宿を想像していたのだ。
しかし写真ではなく、実際に広く緑に覆われた庭そのものを目の当たりにした時には、小さな感動さえ覚えた。
秋には紅葉が素晴らしく、冬には雪が積もった趣ある姿を見せ、春には桜が咲き乱れ、四季折々の花が彩りを添えるらしい。この九月は濃い緑の木々の中に、色とりどりのコスモスやホウセンカ、白いナデシコなどが咲いていた。
しばらく部屋でくつろいでから庭に出て茶屋に入り、ウエルカムドリンクの代わりに抹茶と和菓子を頂いてから庭を散策する。
和らいだ日差しと清々しい空気が、春香の体を包んだ。風に乗って花の匂いだろうか、いい香りが鼻をくすぐる。広い庭の中には小川も流れていた。
橋がかかり、そこを通るとさらさらと流れる音が耳に心地いい。木陰に入ると冷やりとした風が頬に当たった。
ぼんやり緑の中を歩いているだけで、少しずつ生気を取り戻しているような感覚に陥る。母はそんな春香を静かに見守りながら、少し離れてゆっくりと歩き、その間はずっと黙っていてくれた。好きにさせようとしていたのだろう。
三十分も歩いただろうか。後ろを振り向くと母がこちらを見ていた。二人の目が合う。
「そろそろ部屋へ戻ろうか?」
そう告げると母は黙って笑いながら頷いた。
部屋に戻った二人は、まだ夕食まで一時間ほどあるからと温泉へ入ることにして、用意されていた浴衣に着替えた。備え付けのタオルを持って一階の大浴場へと向かう。
そこには男湯と女湯の入口の前に休憩所があり、お風呂上がりの人達が冷たいお茶を飲んでいた。先に出たらそこで待ち合わせる約束をして入ることにした。
中はやや混んでいて、小さい子供と母親が何組かと結構な年齢のお婆さんの集団が十人ほど湯船に入っていた。広い湯船の外には露天風呂があり、そこからも富士山が見えるようだ。
室内の湯船に入り少し体を温めてから、外の露天風呂に肩まで浸かる。ゆったりと足を伸ばし、寝ころぶようにしながら夕焼けの空に映る富士山を眺めた。部屋からとは全く違った山の姿が見られたため、素直に綺麗だと感慨に耽る。
ここに来て良かったかもしれない。ちょうどいい湯加減でそのまま寝てしまいたいほど気分が良かった。最初は躊躇っていた旅行だが、母の誘いに乗って正解だった。何も余計なことを考えず、ただただくつろげばいい。心と体を休ませるだけで良かったのだ。
十分堪能したため、他の見知らぬ客と話を咲かせている母をおいて先に湯船から出る。待ち合わせの休憩場所で冷たいお茶を紙コップに汲み、畳が広がる座敷奥にあった窓際の椅子に座って待つことにした。
窓からは先程歩いた庭園の一部が見える。浴衣を着た客が何人か散策していた。まだ火照った頭と体を冷ますようにぼんやりと佇んでいる周りでは、いくつかの集団ができたかと思うと風呂に入って行き、また出てきた人達も集まっては休憩場所から離れていく。
何組かの客がその場を去っていった頃に、ようやく母がやってきた。
「ああ、春香、待たせてごめんね。あんまり気持ち良かったからのんびりしちゃった。他のお客さんとも話こんでしまったし」
頬を上気させて申し訳なさそうに近づいてくる。母は家でも長風呂だ。春香もいつもよりは長めに浸かっていたが、それ以上に入っていたらしい。余程
気持ちが良かったのだろう。
「いいよ、別に。私もここでゆっくりしてたから」
「じゃあ夕食の時間もあるし、部屋に戻ろうか」
その言葉にあわせて椅子から立ち上がり、母と一緒に部屋へ帰った。
「お風呂から見た富士山がすごく綺麗だったね。露天風呂からもよく見えたでしょ」
「うん、見えたよ」
「そうでしょ。ここが晴れた日は、富士山が映えるからいいのよ。また季節ごとに姿が変わるからね。前、お爺ちゃんと来た時は冬だったし、その前は春だったかな。この時期に来たのは初めてだったからお母さん、凄く嬉しいわ」
誰の為に企画された旅行なのかと一瞬思ったが、余計な気を遣わないようにとの母なりの振る舞いだったかもしれない。
一度部屋に戻った二人は、夕食を食べようと移動した。二階にある大食堂ではあったが、個々のテーブル席が薄いカーテンで仕切られている。隣り合った客の姿はうっすらと映る程度にしか見えない。その一つに二人は案内されて座った。
雰囲気は和洋折衷の趣だ。食事はモダン会席と呼ばれ、典型的な温泉宿の食事といった類ではなく、ホテルのしゃれたディナーコースといった方が適切だろう。目にも鮮やかな料理が、テーブルの上に次々と並べられていく。
オリジナルの桃の食前酒をはじめ、人参のムース、手毬寿司、鮟肝おろし和え、ゴマ豆腐の前菜から伊勢海老をすり身にした団子が食欲をそそった。
さらにインゲンを添えたお椀にお造り、雲丹を乗せた鯛のロースト、香草バターを溶かして食べる柔らかい蝦夷アワビの踊り焼きまである。
その上牛フィレのポアレ、口変わりに野菜の酢漬け、赤味噌のつみれ汁に松茸の炊き込みご飯、香の物にデザートには桃とブドウのタルトがでた。
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