偽りの街

しまおか

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反撃ー2

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 良子の言葉を信じ、部屋の窓が見える場所へと車を停車させた。
「これからどうするつもり? 仲間は呼ばなくていいの? 部屋へ乗り込むなら、そうした方が良いと思うけど。あっ、中に入る部屋の鍵がないか。和美の家なら、あなたが持っていたでしょうけど」
「いや、合い鍵はある」
 そう答えると、彼女は目を丸くして言った。
「いつの間に手に入れたの? 誰から貰ったの? 春香から? そんな訳ないわよね。和美からというのも考え難いし」
「少し黙っていろ」
 春香の様子を探るよう指示しておきながら、自分の知らないところで会っているのではないかと、彼女は疑っているのだろう。徹が春香を気にかけているだけでも、良子は気に入らないのかもしれない。
 だが今は構っていられない為、興奮している彼女を黙らせて考えた。部屋の中に乗り込むことは出来る。向こうは中川の他に、和美と眠っているだろう春香だけのはずだ。一人でも危険は無いだろう。ではいつ行くべきだろうか。
 これから何かが起ころうとしている。それは間違いない。しかしタイミングを誤れば、肝心な証拠を掴むどころか、単なる不法侵入者になってしまう。
 それでも春香の命が危ないかもしれないのだ。そこですぐに飛び込めるよう、準備しておくべきだと考えた。徹は車を降り、アパートへと歩み寄った。
 良子も慌てて後をついてきたが、外に出た瞬間寒さに応えたのだろう。追いついた彼女は、震えながら耳元で小さく呟いた。
「私は車の中で待っているわね」
 黙って頷いた徹を見て、彼女は戻っていった。元々外を出歩く準備をせずに駆け付けたのだから止むを得ない。これから部屋の外でどれくらい待つかも判らないので、足手まといになられても困る。
 足音を出さず、気配も消しながら静かに近づく。周辺の住民達が起きてくるような動きが無いかを見定め、ドアの横の壁にピタリと張り付いた。
 耳で音を探り中の様子を伺う。すると中からグッ、という奇妙な音が聞こえた。中川が出した声ではないか。しかも刺されたのか、首を絞められ苦しんでいる時に出るような音だ。また仲間割れか。
 春香がまだ寝ているとすれば、相手は和美だろう。彼女は春香を運び込んだ彼の隙をつき、最初から殺すつもりだったのかもしれない。
 そこで徹は気付いた。やはり春香の身が危ない。慌てて財布の中から至急で作らせた部屋の合い鍵を取り出し、玄関の扉を開けて中へ飛びこんだ。
 中は暗かったが闇夜に目が慣れていた為、誰かの上で馬乗りになっている和美の背中が見えた。
 突然現れた為に驚いたのだろう。彼女がこちらを振り返った。そこで下になっていたのが春香で、首を絞められ殺されようとしていると分かった。
「止めろ!」
 周囲に気付かれてはまずい為に声を抑えながら、和美を春香から引き剥がした。その手で春香を抱きかかえる。まだ首を絞められる前だったのだろう。眠らされているのか、目は瞑ったままだった。
 彼女の体を抱き起し、真っ暗な部屋の中で和美と睨み合った。意表を突かれ呆然としていた彼女だが、徐々に我を取り戻したらしい。強張った表情が一転し、笑みを浮かべた。
「何が可笑しい?」
「流石ね。中川の侵入には気が付くかもしれないと想像していたけど、後を付けてくるなんて思わなかったわ。ここまでついて来たのなら、春香を家から運び出すところも見ていたんでしょう?」
「ああ。ところでお前は中川を使って、何をするつもりだったんだ。本気で俺達を殺そうと思っていたのか。それともその計画はフェイクで、最初から中川と春香を殺すつもりだったのか」
 徹の視界の端には、ナイフらしきものに背中を刺されぐったりと床に横たわっている、中川の姿があった。和美から視線を外さないよう気をつけながら、彼の様子を見る。
 そこで刺さったままのナイフに見覚えがあり、また春香の首に巻かれていたのが、自分のネクタイだと気付く。しかも和美の両手は、手袋をしたままだ。
 その上ベッドには、見覚えのある瓶が転がっていた。ここから導き出される答えは一つだと思い、彼女を問い詰めた。
「お前、俺を中川と春香を殺した犯人に仕立て上げようとしたのか」
 少し間を置いてから、答えが返って来た。
「良く分ったわね。中川の背中に刺さっているのは、この間あなたが使ったチーズナイフよ。そのネクタイも、あなたの指紋しかついていないようにしてあるわ」
「ここにある栄養ドリンクは、俺が買って春香に渡したものと同じやつだな。中身が空なのは、この中に睡眠薬でも入れて飲ませたようにみせかけるつもりだったのか。しかも俺の指紋しかついていないネクタイやナイフといった物証を現場へ残し、警察に逮捕させようと仕組んだのだろう」
 あの日の彼女が、手に包帯を巻いていた様子を思い出す。火傷ではなく、指紋をつけないようにする為だったのだろう。そうして用意したネクタイやチーズナイフを、犯行に使おうと準備していたらしい。
 それに確か春香は街を出てから、不眠症だといって定期的に精神科のクリニックへ通っていたと、良子や部下から報告を受けている。おそらく睡眠薬は、彼女が処方しょほうされたものを使用したに違いない。
 しかし彼女は何も答えなかった為、さらに尋ねた。
「この部屋の合い鍵を作れるよう型を渡したのも、俺ならここへ侵入できると思わせるつもりだった。違うか」
 そこでようやく彼女が口を開いた。
「そうよ。でもこんな使われ方をされるとは想定外だったわ。ちなみにその合鍵は、いつも使っている鍵屋とは別の所に頼んだでしょ」
「何故分かった?」
「やはりね。仲間内に頼めば、春香の部屋の合鍵づくりを頼んだと知られる。そうなれば、下手な噂が広まるとまずい。そう思ったのでしょう。だから普通の堅気がやっている店を利用すると思っていたわ」
「なるほど。仲間内に頼んでいたら、警察が捜査しても口を割る心配はない。だが外部の鍵屋なら、探し当てると踏んだのか。周到な計画を立てていたようだな」
「当り前じゃない。あなたを殺人犯に仕立て上げるのよ。生半可なやり方だと、引っ掛からないでしょ」
「それでどうするつもりだったんだ。二人殺したように見せかけ、俺を死刑にでもさせようと思ったのか」
「そうよ。でも最初に考えたのは私じゃないわ。春香よ」
 想定外の言葉を耳にし、さすがに驚いた。
「春香が?」
 和美は徹の動揺した声を聴いたからか、満足げに説明しだした。
「中川にあなたの家へ忍び込ませ、事故に見せかけて殺そうとさせたのも、あの子が立てた計画よ」
「どういうことだ? 何故そんな馬鹿な真似をする必要があった?」
「私と中川を巻き込む為よ。春香があなたに近づいて栄養ドリンクを買わせたのも、睡眠薬入りのドリンクとすり替えて熟睡させると、あの子が言ったからなの。だから中川は、あなたの家に忍び込むような大胆な行動が取れたってわけ。私があなたを呼び出したのも、長屋の鍵型を取る為だった。これも春香の指示だったわ。良子を出入りさせるようになってから、鍵を変えたでしょ。だから私が以前使っていた鍵は使えないからよ。春香が持っていた鍵は、街を出る時に置いてきたようだから、新たに作るしかなかった」
「意味が分からない。何故春香が?」
「でしょうね。私達も騙されていたんだから。あの子は私達が樋口家を恨んでいると知っていたから、それを利用しようとしていたのよ。計画に巻き込んで油断させ、私達を殺そうとしていたんだから」
「お前達二人をか?」
「そう。中川が無事戻ってきた時に乾杯し睡眠薬で私達を眠らせて、あなたのネクタイを使った殺人計画を立てていたの。その後自分も首を吊って、自殺しようとしていた。もちろんあなたが、三人を殺した殺人犯に仕立て上げようとしていたのよ。その計画を私は応用しただけ」
「なるほど。何故春香が殺人犯役を俺にしたのかは納得いかないが、とにかくこの子の思惑に気づいたお前は、逆に眠らせてここへ運んだのか。それで中川と春香を殺して、俺をめようとしていたって訳だな」
 和美は答えず沈黙を図った。どうやってこの場を逃げ出そうか、懸命に考えているのだろう。しかし逃がす訳にはいかない。暗がりの中で話をしながらも目は逸らさず、互いの動きを注視していた。
 力ずくで取り押さえようと思えばできるが、下手に騒ぐと周囲に気づかれる。警察でも呼ばれれば厄介だ。中川の死体がある為、徹達もただでは済まない。
 できれば穏便に済ませたい。しかしその前にまだ晴らさなければならない大事な疑問点があった為、彼女を問いただした。
「お前の計画は分かった。だが二人を殺した後、お前はどうするつもりだったんだ。春香は自分も死んで和美の家を密室にし、他に合鍵を持って出入りできるのは俺しかいないと思わせる予定だったんだろう。お前もここで自殺して、密室にするつもりだったのか」
「そんな馬鹿な真似はしない。ここの鍵の型は二つ作っていたの。あなたと同じように、私も合鍵を作って部屋から出る予定だった。もちろんあなたを殺人犯にするつもりだったから、仲間内なんかには頼めない。裏切り行為として、ばれる可能性があるからね。だから他県にある業者に、自分の家の合鍵だと嘘をついて頼んだのよ。三Dプリンターであらゆるものを作成してくれるところだったから、結構早く仕上げてくれたわ。そういう場所だと、警察の捜査も手が届かないと思ったの。あなたの方が先に見つかれば、そう簡単に私は疑われないと踏んだのよ」
「そうかもしれないな。そうなれば、密室状態の部屋に侵入できるのは俺だけだ。春香の家に忍び込み睡眠薬を使って眠らせ、中川という男を連れ込んでいた為に腹を立てかっとなり殺した。ついでに春香も殺したという筋書きを、警察なら立てたかもしれない。だが事実と違うから、俺は取り調べを受けても否認し続けただろう。それでも俺が有罪になると思ったのか」
「二人の首を絞めたネクタイはあなたの物だし、指紋もついている。合鍵もこっそり作っていたと分かれば、物的証拠や状況証拠が揃うわ。スリ師として名を馳せ荒稼ぎしている人物を、警察は簡単に手放そうとしないはずよ。そこで私の口から、実はあの子があなたから性的虐待を受けていたとでも証言すれば、警察は喜んだでしょうね。死体を解剖してそうした形跡があったかも調べ、裏も取ったはずよ。その結果、二人も殺したとなれば死刑は免れないわ」
「お前はそこまで俺を憎んでいたのか」
「当り前じゃない!」
 そう言った彼女は激しく徹を睨み、ふと視線を外して遠くを見るような眼をした。まるで過去を振り返っているかのような様子を見せたのである。それでも彼女には隙が無かった。そこで再び質問をし、彼女の動揺を誘おうと試みた。
「今回の件については分かった。だが他にも聞きたいことがある」
「こんな時に、何を言い出すの?」
「なかなか勇気が持てず口に出せなかったが、今なら言える。街で起こった連続殺人の犯人もお前だな」
 一瞬彼女の目が泳いだ。しかし惚けた声で反論した。
「何を根拠にそんな突拍子もないことを。私にアリバイがないから? そんな人は、他にも大勢いるって話をこの前したばかりじゃない」
 その反応を見て、疑惑が確信に変わる。その為厳しく追及した。
「殺しの手口が、三十年以上前の事件とほぼ同じだからだよ。あの時の犬達も顔を花火で焼かれ、首を絞められた。それに殺された奴らの父親は皆、昔樋口の集団に属していた幹部ばかりだ。つまりお前が昔の事件で座敷牢に入れられていた時、乱暴された相手の息子達だけが殺されている」
 和美は鼻で笑った。
「それが私を疑う理由? そんな大昔の話を根に持って、今更復讐し始めたってこと? 馬鹿馬鹿しい。万が一そうだとしても、普通は襲った本人を殺すでしょう」
「ああ。だから俺も何故今頃そんな事をし始めたのか、しかも本人でなくその息子を標的にしたのか不思議だった。だが今回の事件でも、お前は直接憎んでいる相手を攻撃していない。その周りの人間を殺す、または罠に貶める方法で復讐しようとしていた。そう考えると納得できる。それに当の本人達は既に死んでいるか、刑務所に入っていて当分外に出てこられる状況じゃない」
「だとしても、何故今なの?」
「お前のトラウマを刺激する何かが起こった。そう俺は推測している。何故なら殺された奴らも皆、父親同様性的虐待をしていたという話を聞いた。恐らくそうした事実を知って、お前の心に火が点いたのだろう。かつての狂気が蘇った。そうじゃないのか」
 図星だったのだろう。彼女は反論できなかった。その反応を肯定と捉えた徹は、再び深く息を吐きながら言った。
「やはりそうか。お前なら街の外にいながらも、そうした情報を得ることは容易かっただろう。それに殺された幹部達に近づくのも、そう難しくなかったはずだ。後何人殺すつもりだったか知らないが、最終的に狙っていたのはあいつだろう。だから今回の件で俺を貶めようとしたんじゃないのか」
「そうよ!」
 開き直った彼女が、小声で叫んだ。
「あの男のせいで、私がどれだけ苦しい思いをしてきたか、あなただってよく知っているでしょ。だからそんな私を助けようと、結婚までしてくれたんじゃない。それなのに結局私を裏切り、あの長屋へ戻って良子を住まわせた」
 予想していた以上に激しい反応を見せた為、もう少し落ち着かせようと頭を下げた。
「それは本当に申し訳ないと思っている。だが判ってくれ。お前との同居を解消し長屋へと移ったのは、春香の為だったんだ。それにお前の為でもある」
「冗談は止めて。あの子を守ろうとしたとでもいうつもり? 結果的には何もできず、私と同じ道を歩ませただけじゃない。だからあなた達に黙って、家を出て街を捨てたのよ」
「ああ。俺が馬鹿だった。しかしどうしようもなかったんだ。全ての責任は俺とあの人にある。だからといって三人、いや中川を含めて四人も殺す必要はなかっただろう。しかも実の娘である春香まで殺そうとした。そこまでしなければ、お前の気は済まなかったのか」
「先に春香が私を殺そうとした。だからよ。殺された三人だって、私の誘いに乗らなければ、あんな目に遭わなかった。自分達の娘だけでなく、抱ける女なら誰でも良いと思っている鬼畜だったからよ。自業自得じゃない。この街の成り立ちから言っても、邪魔な存在でしょ。だから処分したの。中川は私だけでなく良子にも手を出した挙句、私の計画を全て知っていたから口を封じただけ。最初からおかしな真似をしなければ、死ななくて済んだでしょう。天につばを吐けば、おのれの身に帰ってくる。ただそれだけよ」
 言い返せなかった為、徹は口を噤んだ。再び両者に沈黙の間が生じた。目を合わせ、相手がどう動くかを探ろうとしたその時だ。突然外から物音が聞こえた。
 彼女も気づいたらしく、耳を澄ましている。徹も神経を外の気配に集中させた。どうやら隣の住民が起きてきたようだ。それだけでなく、誰かと話している声がする。
「まずい。気付かれたようね」
 和美が呟いた。もしかすると中川が出したうめき声や、徹が部屋に飛び込んだ時の音を、誰かに聞かれたのかもしれない。春香の体の上から和美を突き放した時や、その後二人で会話していた為、隣の部屋の住民に気づかれた可能性もある。
 そう言えば春香の様子を探らせて受けた報告の中で、予防線を張っていると聞いた覚えがあった。街の人間がむやみに近づいてきたり無理やり連れ戻されたりしないよう、周囲の人達と仲良くしていたらしい。
 確か隣人は年配の女性だと言っていた。それなら何かあれば助けて欲しいと、声をかけていたのかもしれない。このアパートは古く、壁も薄いと思われる。そんな部屋に、若い女性が一人暮らしをしているのだ。
 そこから普段聞こえないような音がすれば、不審に思うのも当然だろう。しかも夜明け前の時間帯だから尚更である。これは非常に危険だ。既に警察へ連絡している可能性も考えられた。
 と言って今外へ逃げだせば、必ず見つかるだろう。死体を隠す時間もない為、下手な言い逃れは出来ない。それは彼女も同様だ。この後どうすれば良いか、判断がつかないらしい。互いに身動きできず、まだ眠っている春香の横でただじっとして居るしかなかった。
 するとドアをコンコンと叩く音がした。徹は心臓が飛び跳ねるほど驚いた。とうとう隣室の住民が怪しみ、様子を探りに来たようだ。
 どうすればいいのか。部屋の中の空気が、緊張感で一気に張りつめる。もちろん徹達が応じる真似はできない。
 返事がなかったからだろう。もう一度ドアを叩く音がして、その後呼びかける声がした。
「樋口さん? 朝早くごめんなさい。起きてる? 少し前から変な音や声が聞こえたので、どうかしたのかと思って。念の為に大家さんに声をかけて来たの。大丈夫? 何かあった?」
 話しているのはやはり隣人のようだ。しかも大家まで一緒にいるらしい。先程の話し声は、その二人だったのだろう。これはいよいよ深刻な状態に追い込まれた。
 大家を連れて来たのなら、部屋へ入ろうとしているに違いない。そういえば徹が部屋に入った時、鍵を閉める時間などなかった。つまりドアはいつでも開けられる。
 そこで徹は意を決した。睨み合いをしたまま、飛び出すタイミングを計る。どうやら彼女も瞬時に動ける態勢を取っていた。だが身動きできない状態に陥り、困惑しているようにも感じられた。
 この部屋から出るには、玄関の他に反対側の窓があるだけだ。けれども今は鍵が閉まっているだろう。開けて外へ逃げ出すにしても、タイミングは難しい。
 それに見つかる恐れだけでなく、ここには徹の指紋が付いたナイフで刺された死体も残されているのだ。それを処分しない限りは、どうしようもない。毛布か何かで覆って隠し、誤魔化す程度ではとても無理だろう。死体からは、わずかに血の匂いが漂いだしている。
 三度みたび扉が叩かれ、最終通告がなされた。
「樋口さん、入るわね。もし寝ていたらごめんなさい」
 ガチャッと鍵を差し込む音がした。しかし鍵がかかっていないと気づいたらしい。ドアノブが捻られ、ゆっくりと開きだす。その瞬間、徹より先に立ち上がった和美は大声を出しながら玄関へと向かった。
「助けて下さい! 人殺しです!」
 見知らぬ中年女性が、突然飛び出してきたからだろう。部屋の中を覗こうと顔を出していた二人は、驚いて腰を抜かしたように倒れた。一人は五十代の女性で、もう一人は同じ様な年の男性だ。
 鍵を持っていたのが男の方だったので、そちらが大家らしい。女性が隣の住人なのだろう。和美も即座にそう判断したようで、男性の背後に周り怯えた演技をしながら訴えた。
「部屋の中で、男の人が一人死んでいます! 犯人は春香と私を殺そうとして立てこもっているので、警察を呼んでください! 私は春香の母親です!」
「人殺し? 犯人が中に? 樋口さんは無事なの?」
 彼らは突然の出来事に、慌てふためいていた。それでも先に大家が立ち上がり、開けっ放しの扉から中を覗いた。そこで徹達の姿を見つけたのだろう。さらに春香の眠っているベッドにいたからか、大家が叫んだ。
「彼女から離れなさい! もう逃げられないぞ!」
 だが背中にナイフを突き刺され、血を流し倒れている中川の死体も目に入ったのか、口を抑えた。吐き気をもよおしたのかもしれない。
 その横で座り込んでいた女性が折り畳み式の携帯を急いで取り出し、電話を掛けだしていた。恐らく警察に通報しているのだろう。
 やられた。避けたかった最悪の事態だ。彼らが部屋に入って来た時点で二人共殺して口を封じない限り、警察沙汰になると覚悟しなければならなかった。よって徹は別の手を打とうと考えていたのだ。
 和美と一旦手を組み、徹達は中川に襲われそうになった春香を、助けようとした振りをするつもりだった。そうしなければ、二人共間違いなく怪しい人物だと疑われる。よって彼女も口裏を合わせ、協力してくれるだろうと思ったのだが甘かった。
 あのように部屋から逃げ出し助けを呼べば、和美と春香は被害者の振りが出来る。何せナイフには、徹の指紋しか残っていないのだ。
 警察が駆け付けて事情を聞かれれば、夜中に突然合い鍵を使って徹が侵入して来たと言えばいい。そこで春香達と一緒にいた中川に逆上し、殺したと証言することが出来る。
 さらに自分達も殺されそうだったと主張すれば、目を覚ました春香も話を合わせるはずだと考えたようだ。
 和美の言葉を否定しようとすれば、彼女の殺人計画が表に出てしまいかねない。そうなれば困る為、あちらに味方した方が得だと判断するだろう。
 罠に嵌まった徹は、新たな対策を見つけられないまま茫然としていた。
 しかしそこで想定外の事態が起きた。眠っていたはずの彼女が、目を開けたのである。どうやら睡眠薬の効果が切れたのだろう。
 しかも少し前から意識が戻っていたけれど眠った振りをして、徹達の会話を聞いていたらしい。何故なら彼女は、部屋の外を指差してこう言ったのだ。
「ここにいる人を刺したのは、その女の人です! その上私まで殺そうとしました! この人が犯人だと嘘をついているので、彼女には騙されないでください!」
 目を丸くしている和美と同じく、外にいた大家もキョトンとしていた。どちらの言い分が正しいのか分からず、彼女達の顔を交互に見ている。だが隣の住民だけは違った。
「あの子がああ言っているんだから、犯人はその女よ! 大家さん、逃げないように捕まえて頂戴!」
 それでもまだ判断しかねている大家は、春香に尋ねた。
「だったら、その男の人は誰なんだ」
 春香は徹の腕を掴んで、抱きながら答えた。
「この人は私の父です! その人は私の母です! 私とここにいる人を殺し、父が殺人犯として警察に捕まるよう仕向けたのは彼女です! 二人殺して死刑になれば、自分が財産を全て引き継げると画策したんです!」
 彼女の発言を聞いて、和美は頭に血が上ったのだろう。大声で反論した。
「何を言っているの、春香。違うでしょ。最初に私と中川を殺して自分も死んで、徹を犯人にしようと計画したのはあなたじゃない!」
「何を誤解しているのか分からないけど、私が本当に殺したいほど憎んでいるのはこの人じゃなく、あいつよ! それに一彦を殺した良子さんと中川さんもそう。あいつから暴力を受けていると知りながら、私を助けるどころか見殺しにしたあなたも同罪。だから中川さんを殺し私を殺そうとした殺人と殺人未遂の罪で、一生刑務所暮らしをすればいいわ! いいえ、さっきしていた二人の話だと、最近街で起こった連続殺人もあなたがやったそうじゃない。四人も殺したのなら間違いなく死刑ね! これであなたは地獄行きよ!」
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