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春香と良子の思惑①ー2
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街には他にも様々な集団があったけれど、女が仕事の上で重宝されやすいのはスリ師と詐欺師だった。その中でも小さい頃から参加できたのがスリ師である。よってお金を稼がなければならない和美や良子には、うってつけの仕事だった。
良子も同じだったけれど、目的は金よりも徹の傍にいたいとの気持ちの方が強かった。とはいえ相思相愛の仲となるのは、簡単でない。彼もそうだが、良子自身も色んな男達と関係を持ってきた。
しかしいろんな紆余曲折を経てきた今、長年の夢だった長屋の街で彼と暮らせるようになったのだ。これほど幸せなことは無い。
それでも心配事はいくつかあった。樋口家には徹の父である忠雄だけでなく、春香という娘がいたことだ。しかも最近黙って家を出て行き街を去った彼女に、男達はまだ未練があるようだった。
他にも徹は街の外に建てた家へ、春香を産んだ女を住まわせたままだ。しかもその相手はあの和美である。幼い頃は比較的仲が良かったけれど、ある時から諍いが起こり、一度は和解したものの深いわだかまりが残ったままの関係となった。
今でも彼女には複雑な感情を持っている。優越感や嫉妬心、嫌悪感や罪悪感などが混在していた。彼女を排除したいと企んだこともある。
だが徹の心が向いている先は自分だ。しかも共通した思惑があり協力もしている、いわば共犯者で運命共同体と言っていい。さらに今一緒に住み長く過ごしているのも、彼女ではないとの自信がブレーキをかけた。それよりも、徹以外で大切にしている物を次々と奪う方が、彼女の受けるダメージは大きいと考えた。
そこでまず良子は、徹の留守中に中川誠を呼び出した。彼は二十八歳と若いが、街では侵入盗の集団に属している。しかもリスクが高く巧みな技術が必要とされる、ノビ専門のチームだ。
ノビとは侵入盗の中で家人の就寝時を狙って家屋に忍び込み、金品を強奪する手口をいう。空き巣とは違って人がいる中で仕事をする為、音を立てれば気付かれてしまう恐れがあった。
それ以上に難しいとされるのが、人が寝静まった夜ではなく昼間の在宅中に侵入する、居空きと呼ばれるものだ。ただ耳が不自由な人や高齢者だけが住んでいる等条件が厳しいことから、他の侵入盗に比べて圧倒的に数は少ない。
実際警察が発表している統計では、空き巣が侵入等の六十%以上を占める中、ノビが約二十%に対し居空きは五%に満たないとのデータからも分かる。
ただノビであっても、最近はターゲットを絞り込む下調べに時間がかかり、それだけで食べていくのは難しいようだ。その為時にはスリ集団の補助役として声をかけられる機会もあった。だから徹や良子達については良く知っている。
それでも、盗みの収入だけでは食べていけないのだろう。また世間の目もある。そこで彼は堅気の仕事として、非正規の郵便配達員をしていた。
そちらの給料は安く、その上様々なノルマが課せられ大変だと聞いていた。年賀ハガキや記念切手、お中元やお歳暮などゆうパックのカタログ販売もあるようだ。そうした物の売り上げが良ければ、給与のランクも上がるらしい。
そうした弱みに付け込んで、良子は切り出した。
「今度、徹名義の定期で満期になるものがあるんだけど、あなたのところで預金したりすると助かる?」
徹の部下でもある彼は、良子に声をかけられ何事かと緊張していたようだが、その一言で態度が変わった。
「も、もちろんです! 少しでも私を通してご契約を頂ければ成績になりますし、大変助かります!」
「そう。何本かに分けているけど、とりあえず今回は百万あるからあなたに預けていいかしら。もちろん私からうちの人の許可は得ておくわ。今は銀行だってどこも低金利だから、大丈夫なはずよ」
「でも今はネット銀行なんかだと、かなり利率のいいものがありますけど、本当にいいんですか」
「あの人は昔気質のところがあるから、ネットは余り信用していないみたい。それに盗んで貯めたお金が大半なので、未だにどこかへ隠し持っているものだってあるから」
「それは徹さん程になれば、そうでしょう。足がつかないよう用心されているんだと思います」
「だからってただ寝かせておくより、僅かでも利子が付けばいいじゃない。それにあなたの成績になるんだったら、あの人だって文句なんか言わないわよ」
「本当に預けていただけるのなら助かります! ノルマが厳しくて、なかなか給与が上がらないと困っていたところですから」
「最近は侵入盗も、相当難しくなっているらしいわね。お金を持っている家は、すぐセキュリティ会社と契約したりするからね。スリの補助役をしても、あなたが貰える配分なんて雀の涙でしょう」
「そ、そんなことはありませんが、」
「まあ、あなたの口からそうは言えないでしょうけど。私だって昔から補助役をして稼いできたんだし、今もそうだから状況はよく分かるわ。だから今回、いい機会だと思って声をかけたの」
「あ、有難うございます。他に貯蓄型の生命保険などもありますが」
少し欲が出たのだろうが、そこはぴしゃりと断った。
「それは駄目。うちの人は保険嫌いだから。そんな話をした時点で怒りだしてしまうわ。それにあなたの会社では、以前大きな問題を起こしたばかりじゃない。信用なんてできないでしょ」
「も、申し訳ございません。貯金を頂けるだけで十分です」
「満期は来週の月曜日よ。それまでに徹の許可を得てお金を下ろしたら連絡する。でもその前にお願いがあるの」
良子は低いテーブルを挟んで正座していた彼の横に擦り寄り、体を密着させ耳元で囁いた。彼は驚き戸惑っていたが、貯金の誘惑もあり抵抗を辞めた。そうして関係を持つようになったのである。
中川は最近、和美とも深い関係にあるとの事情は調べがついていた。しかし山塚のような狭い街では、そう珍しくない。中には先輩格の女に手を出した為に、トラブルとなるケースもあった。
けれど徹自身が複数の女に手を出す男だった。その為中川と和美の関係が耳に入ったとしても、怒るようなタイプでは無い。だからこそ彼は、良子の誘いにやすやすと乗って来たのだ。
もちろん彼が、比較的年増の女好きだったことも関係していたのだろう。当然これは和美への嫌がらせでもある。彼とはあくまで遊びであり、本気になるはずもない。
ここ数年徹が出入りする機会がめっきり減ったからこそ、和美も寂しくなって若い中川に手を出したと思われる。といって彼女はどこまで本気か知らないが、例え軽い気持ちだったとしても自分の玩具に手を出されたら面白くないはずだ。
その相手が良子だと知れば尚更だろう。もし彼に本気だったとすれば、彼女の嫉妬は一段と増すに違いない。
中川との関係を重ねる度に、良子は腹の底で笑っていた。どれだけ苦しんでいるか分からない。けれど自分の行為が、間違いなく彼女を傷つけていると想像するだけで気分が晴れる。
しかしそれだけでは足りなかった。その為良子は、春香を次のターゲットに選んだ。これは自分自身による嫉妬心からくるものだった。
樋口家の男は、春香を優秀なスリ師の跡取りとしてだけではなく、女として彼女を見ている節があった。それが同じ女である良子にとって、とても許し難かったのだ。
それでも人の心を変えられはしない。ましてや徹の前で、こちらから春香の名を出すことすらはばかられた。下手をすれば、彼の怒りを買うと分かっていたからだ。
幸い春香の方は樋口家を毛嫌いし、街を出て行ったくらいだ。よって今後二人の仲が深まりはしないだろう。それでも彼の心が、時折彼女の方を向いていると感じる時があった。
それを察知してしまった際の悔しさや哀しみは、心を切り刻まれる程の痛みを伴った。その度に良子は春香を恨み憎んだ。そうした憂さを晴らす為に、良子は街を出たにもかかわらずスリを続ける彼女に近づき、心にもない言葉を耳元で囁くのだった。
「お父さんがあなたに会いたがっているわよ。スリを続けるのなら、街へ戻っていらっしゃい。その方が仕事はやり易いでしょ」
しかし彼女は全く聞かず、一緒に暮らしている一彦を盾にして追い払おうとしたのだ。それでも良子は同じ話を何度も繰り返した。本当に戻って来られたら困るが、彼女は絶対にそうしないと知っていたからである。
それに彼女の拒絶反応を見ただけで、良子の誘いを心の底から嫌がっていると感じ取れた。だからこそしつこいほど意図的に続けた。その上彼女が堅気の仕事に就きながらも、スリを辞められない境遇を揶揄した。
「せっかく街を離れたのなら、きっぱり足を洗ったらいいのに。でも辞められないのは、やはり樋口家の血を引く娘なのね。それに集団を組まずやっていけるのも、優秀なスリ師の血を引いているからでしょう」
良子は彼女が不快に思っている言葉ばかりを選んで浴びせかけた。するとあからさまに憎悪の目を向けてくる。こうしたやり取りをするだけで、胸のすく思いがした。
低レベルで他愛もない中傷だが、彼女の心の傷にはじわじわと効いていたはずだ。その証拠に良子を睨みつける目がどんどんと厳しくなり、険しい表情が益々暗くなっていった。
さらにはたまに和美と連絡を取り合っているとの話を中川から聞き出していた為、仲を引き裂く意味で言ってやった。
「あの女はあなたが嫌うあの男の味方よ。表面上はあなたと仲良くしていたとしても、いざとなったら敵視するでしょうね。しかも彼の関心があなたに向いているなんて、とっくに気付いているでしょうから」
そう聞いた時の彼女の顔つきは、みるみると変わった。怒りと怨み、哀しみや絶望といった様々な感情が入交り、最後には表情がなくなった。思い当たる点を指摘されて動揺したのだろう。
それ以来彼女は、良子の気配を察知すると逃げるようになった。さすがは創業者の隔世遺伝を受けたとまで言わしめた娘である。少しでも良子が近づいただけで、素早く姿を消したのだった。
囁き攻撃が出来なくなった為、今度は別の手を打とうと考えた。和美と親しくなっていた中川を寝取ったように、大切にしているものを奪ってやろうと思いついたのである。
彼女が唯一といっていいほど心を許し、安らぎを与えているのは一彦だ。あいつを彼女から引きはがせば、どれほど苦しむだろうと考えた。
ただ中川と同じ手は通用しない。それならば力ずくで連れ去るしかないだろう。場合によっては殺してしまっても良い。そうすれば彼女に与えるダメージは、相当大きなものとなるはずだ。
その怒りの矛先は良子だけでなく、樋口家全体に向かうだろう。もしかすると和美にまで波及するかもしれない。一度そう考え出したら、動かずにはいられなかった。
まずは彼女の目を盗み、一彦をさらわなければならない。いなくなったと気づけば、半狂乱になって探すだろう。そうなれば疑いの目は良子や徹はもちろん、和美にも向くはずだ。その為第三者の手により行わなければならない。そこで目を付けたのが中川だった。
彼なら良子の命令は、ある程度聞くだろう。手を下すまでは無理でも、一彦を人目のつかない場所へ連れて行く程度なら、手伝ってくれるはずだ。
とはいっても、相手は優秀なスリ師の血を引く春香である。しかも一彦とはいつも一緒に行動している為、隙を見つけるのは難しかった。
その為じっくりと計画を練り、十分な準備が不可欠だった。それでも良子は時間をかけて彼女の行動を探り、これだという作戦を考え出した。
ようやく万全の体勢が取れたと確信を持てたところで、実行に移した。場所は春香が定期的に狙っていた、富裕層である愛犬家達の集まるドッグランを選んだ。
自分達の飼い犬が走り回りじゃれあう姿を見ることに集中していたり、自慢話や愚痴などの井戸端会議に夢中になったりしている女達に近づき、彼女が盗みを働いている時がチャンスと考えたのである。
その際の一彦は、基本的にターゲット達の気を引く役目を負っている場合が多い。だが稀に違った動きをするケースもある点に目を付けた。それは別の犬に気を取られているか、犬等には目もくれず春香が話に没頭している瞬間だった。
この時の彼女の目は、狙った獲物しか見ていない。その間一彦は彼女の視界だけでなく、セレブ達の注目からも外れている。そこが狙いどころだ。
その機会が訪れた。良子は春香から警戒されている。よって遠くから望遠鏡を使って眺めながら、スマホでワイヤレスイヤホンを装着した中川に指示を送る準備をした。
彼なら春香と街で多少の面識はあったとしても、それ程接点がなかったはずだ。よって上手く変装すれば、気づかれないと踏んでいた。
その読みは当たった。標的にロックオンし始めた彼女の目から、中川の存在は消えていたようだ。と同時に一彦からも視線を外していた。その僅かな隙を逃さず呼びかけた。
「今よ!」
彼は合図とともに一彦へ近づき、周囲に気付かれないよう口を塞いで集団から素早く離れた。そして近くに停めてあった車の中へと押し込み、すぐさま発進させたのである。
作戦が無事成功した状況を見届けた良子は、別の車に乗り込み彼の後を追った。やがて事前に決めていた合流地点で落ち合った後、良子は中川の車に移って山中に向かいさらに走った。
その間一彦は、口を塞がれ手足も縛られ身動きできないようにされていた。少々暴れても逃げられはしない。後は人気のない場所で殺し、埋めるだけだ。そうすれば、永遠に見つからないと信じて疑わなかった。
彼が行方不明となっても、春香が警察に捜索願など出せるわけがない。いくら大切だといっても山塚で過ごし、今でも盗みを働いている者は決して警察など信用しないからだ。また絶対に関わりたくないはずだった。
それに万が一届け出を出したとしても、彼の出生からしてまともな捜索などできないことは明らかである。その為彼女の元から連れ去る作戦が上手くいった時点で、この計画はほぼ成功したと断言出来た。
あの場をすぐに離れてしまった為、一彦がいないと知り探し回る春香の必死な姿、悲しみに暮れる顔を見られなかったのは残念で心残りだった。
それでも処理が終われば、今後彼女が途方に暮れている様子はいつでも見られる。良子はそうした様子を頭に浮かべただけで、笑いが止まらなかった。
良子も同じだったけれど、目的は金よりも徹の傍にいたいとの気持ちの方が強かった。とはいえ相思相愛の仲となるのは、簡単でない。彼もそうだが、良子自身も色んな男達と関係を持ってきた。
しかしいろんな紆余曲折を経てきた今、長年の夢だった長屋の街で彼と暮らせるようになったのだ。これほど幸せなことは無い。
それでも心配事はいくつかあった。樋口家には徹の父である忠雄だけでなく、春香という娘がいたことだ。しかも最近黙って家を出て行き街を去った彼女に、男達はまだ未練があるようだった。
他にも徹は街の外に建てた家へ、春香を産んだ女を住まわせたままだ。しかもその相手はあの和美である。幼い頃は比較的仲が良かったけれど、ある時から諍いが起こり、一度は和解したものの深いわだかまりが残ったままの関係となった。
今でも彼女には複雑な感情を持っている。優越感や嫉妬心、嫌悪感や罪悪感などが混在していた。彼女を排除したいと企んだこともある。
だが徹の心が向いている先は自分だ。しかも共通した思惑があり協力もしている、いわば共犯者で運命共同体と言っていい。さらに今一緒に住み長く過ごしているのも、彼女ではないとの自信がブレーキをかけた。それよりも、徹以外で大切にしている物を次々と奪う方が、彼女の受けるダメージは大きいと考えた。
そこでまず良子は、徹の留守中に中川誠を呼び出した。彼は二十八歳と若いが、街では侵入盗の集団に属している。しかもリスクが高く巧みな技術が必要とされる、ノビ専門のチームだ。
ノビとは侵入盗の中で家人の就寝時を狙って家屋に忍び込み、金品を強奪する手口をいう。空き巣とは違って人がいる中で仕事をする為、音を立てれば気付かれてしまう恐れがあった。
それ以上に難しいとされるのが、人が寝静まった夜ではなく昼間の在宅中に侵入する、居空きと呼ばれるものだ。ただ耳が不自由な人や高齢者だけが住んでいる等条件が厳しいことから、他の侵入盗に比べて圧倒的に数は少ない。
実際警察が発表している統計では、空き巣が侵入等の六十%以上を占める中、ノビが約二十%に対し居空きは五%に満たないとのデータからも分かる。
ただノビであっても、最近はターゲットを絞り込む下調べに時間がかかり、それだけで食べていくのは難しいようだ。その為時にはスリ集団の補助役として声をかけられる機会もあった。だから徹や良子達については良く知っている。
それでも、盗みの収入だけでは食べていけないのだろう。また世間の目もある。そこで彼は堅気の仕事として、非正規の郵便配達員をしていた。
そちらの給料は安く、その上様々なノルマが課せられ大変だと聞いていた。年賀ハガキや記念切手、お中元やお歳暮などゆうパックのカタログ販売もあるようだ。そうした物の売り上げが良ければ、給与のランクも上がるらしい。
そうした弱みに付け込んで、良子は切り出した。
「今度、徹名義の定期で満期になるものがあるんだけど、あなたのところで預金したりすると助かる?」
徹の部下でもある彼は、良子に声をかけられ何事かと緊張していたようだが、その一言で態度が変わった。
「も、もちろんです! 少しでも私を通してご契約を頂ければ成績になりますし、大変助かります!」
「そう。何本かに分けているけど、とりあえず今回は百万あるからあなたに預けていいかしら。もちろん私からうちの人の許可は得ておくわ。今は銀行だってどこも低金利だから、大丈夫なはずよ」
「でも今はネット銀行なんかだと、かなり利率のいいものがありますけど、本当にいいんですか」
「あの人は昔気質のところがあるから、ネットは余り信用していないみたい。それに盗んで貯めたお金が大半なので、未だにどこかへ隠し持っているものだってあるから」
「それは徹さん程になれば、そうでしょう。足がつかないよう用心されているんだと思います」
「だからってただ寝かせておくより、僅かでも利子が付けばいいじゃない。それにあなたの成績になるんだったら、あの人だって文句なんか言わないわよ」
「本当に預けていただけるのなら助かります! ノルマが厳しくて、なかなか給与が上がらないと困っていたところですから」
「最近は侵入盗も、相当難しくなっているらしいわね。お金を持っている家は、すぐセキュリティ会社と契約したりするからね。スリの補助役をしても、あなたが貰える配分なんて雀の涙でしょう」
「そ、そんなことはありませんが、」
「まあ、あなたの口からそうは言えないでしょうけど。私だって昔から補助役をして稼いできたんだし、今もそうだから状況はよく分かるわ。だから今回、いい機会だと思って声をかけたの」
「あ、有難うございます。他に貯蓄型の生命保険などもありますが」
少し欲が出たのだろうが、そこはぴしゃりと断った。
「それは駄目。うちの人は保険嫌いだから。そんな話をした時点で怒りだしてしまうわ。それにあなたの会社では、以前大きな問題を起こしたばかりじゃない。信用なんてできないでしょ」
「も、申し訳ございません。貯金を頂けるだけで十分です」
「満期は来週の月曜日よ。それまでに徹の許可を得てお金を下ろしたら連絡する。でもその前にお願いがあるの」
良子は低いテーブルを挟んで正座していた彼の横に擦り寄り、体を密着させ耳元で囁いた。彼は驚き戸惑っていたが、貯金の誘惑もあり抵抗を辞めた。そうして関係を持つようになったのである。
中川は最近、和美とも深い関係にあるとの事情は調べがついていた。しかし山塚のような狭い街では、そう珍しくない。中には先輩格の女に手を出した為に、トラブルとなるケースもあった。
けれど徹自身が複数の女に手を出す男だった。その為中川と和美の関係が耳に入ったとしても、怒るようなタイプでは無い。だからこそ彼は、良子の誘いにやすやすと乗って来たのだ。
もちろん彼が、比較的年増の女好きだったことも関係していたのだろう。当然これは和美への嫌がらせでもある。彼とはあくまで遊びであり、本気になるはずもない。
ここ数年徹が出入りする機会がめっきり減ったからこそ、和美も寂しくなって若い中川に手を出したと思われる。といって彼女はどこまで本気か知らないが、例え軽い気持ちだったとしても自分の玩具に手を出されたら面白くないはずだ。
その相手が良子だと知れば尚更だろう。もし彼に本気だったとすれば、彼女の嫉妬は一段と増すに違いない。
中川との関係を重ねる度に、良子は腹の底で笑っていた。どれだけ苦しんでいるか分からない。けれど自分の行為が、間違いなく彼女を傷つけていると想像するだけで気分が晴れる。
しかしそれだけでは足りなかった。その為良子は、春香を次のターゲットに選んだ。これは自分自身による嫉妬心からくるものだった。
樋口家の男は、春香を優秀なスリ師の跡取りとしてだけではなく、女として彼女を見ている節があった。それが同じ女である良子にとって、とても許し難かったのだ。
それでも人の心を変えられはしない。ましてや徹の前で、こちらから春香の名を出すことすらはばかられた。下手をすれば、彼の怒りを買うと分かっていたからだ。
幸い春香の方は樋口家を毛嫌いし、街を出て行ったくらいだ。よって今後二人の仲が深まりはしないだろう。それでも彼の心が、時折彼女の方を向いていると感じる時があった。
それを察知してしまった際の悔しさや哀しみは、心を切り刻まれる程の痛みを伴った。その度に良子は春香を恨み憎んだ。そうした憂さを晴らす為に、良子は街を出たにもかかわらずスリを続ける彼女に近づき、心にもない言葉を耳元で囁くのだった。
「お父さんがあなたに会いたがっているわよ。スリを続けるのなら、街へ戻っていらっしゃい。その方が仕事はやり易いでしょ」
しかし彼女は全く聞かず、一緒に暮らしている一彦を盾にして追い払おうとしたのだ。それでも良子は同じ話を何度も繰り返した。本当に戻って来られたら困るが、彼女は絶対にそうしないと知っていたからである。
それに彼女の拒絶反応を見ただけで、良子の誘いを心の底から嫌がっていると感じ取れた。だからこそしつこいほど意図的に続けた。その上彼女が堅気の仕事に就きながらも、スリを辞められない境遇を揶揄した。
「せっかく街を離れたのなら、きっぱり足を洗ったらいいのに。でも辞められないのは、やはり樋口家の血を引く娘なのね。それに集団を組まずやっていけるのも、優秀なスリ師の血を引いているからでしょう」
良子は彼女が不快に思っている言葉ばかりを選んで浴びせかけた。するとあからさまに憎悪の目を向けてくる。こうしたやり取りをするだけで、胸のすく思いがした。
低レベルで他愛もない中傷だが、彼女の心の傷にはじわじわと効いていたはずだ。その証拠に良子を睨みつける目がどんどんと厳しくなり、険しい表情が益々暗くなっていった。
さらにはたまに和美と連絡を取り合っているとの話を中川から聞き出していた為、仲を引き裂く意味で言ってやった。
「あの女はあなたが嫌うあの男の味方よ。表面上はあなたと仲良くしていたとしても、いざとなったら敵視するでしょうね。しかも彼の関心があなたに向いているなんて、とっくに気付いているでしょうから」
そう聞いた時の彼女の顔つきは、みるみると変わった。怒りと怨み、哀しみや絶望といった様々な感情が入交り、最後には表情がなくなった。思い当たる点を指摘されて動揺したのだろう。
それ以来彼女は、良子の気配を察知すると逃げるようになった。さすがは創業者の隔世遺伝を受けたとまで言わしめた娘である。少しでも良子が近づいただけで、素早く姿を消したのだった。
囁き攻撃が出来なくなった為、今度は別の手を打とうと考えた。和美と親しくなっていた中川を寝取ったように、大切にしているものを奪ってやろうと思いついたのである。
彼女が唯一といっていいほど心を許し、安らぎを与えているのは一彦だ。あいつを彼女から引きはがせば、どれほど苦しむだろうと考えた。
ただ中川と同じ手は通用しない。それならば力ずくで連れ去るしかないだろう。場合によっては殺してしまっても良い。そうすれば彼女に与えるダメージは、相当大きなものとなるはずだ。
その怒りの矛先は良子だけでなく、樋口家全体に向かうだろう。もしかすると和美にまで波及するかもしれない。一度そう考え出したら、動かずにはいられなかった。
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彼なら良子の命令は、ある程度聞くだろう。手を下すまでは無理でも、一彦を人目のつかない場所へ連れて行く程度なら、手伝ってくれるはずだ。
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この時の彼女の目は、狙った獲物しか見ていない。その間一彦は彼女の視界だけでなく、セレブ達の注目からも外れている。そこが狙いどころだ。
その機会が訪れた。良子は春香から警戒されている。よって遠くから望遠鏡を使って眺めながら、スマホでワイヤレスイヤホンを装着した中川に指示を送る準備をした。
彼なら春香と街で多少の面識はあったとしても、それ程接点がなかったはずだ。よって上手く変装すれば、気づかれないと踏んでいた。
その読みは当たった。標的にロックオンし始めた彼女の目から、中川の存在は消えていたようだ。と同時に一彦からも視線を外していた。その僅かな隙を逃さず呼びかけた。
「今よ!」
彼は合図とともに一彦へ近づき、周囲に気付かれないよう口を塞いで集団から素早く離れた。そして近くに停めてあった車の中へと押し込み、すぐさま発進させたのである。
作戦が無事成功した状況を見届けた良子は、別の車に乗り込み彼の後を追った。やがて事前に決めていた合流地点で落ち合った後、良子は中川の車に移って山中に向かいさらに走った。
その間一彦は、口を塞がれ手足も縛られ身動きできないようにされていた。少々暴れても逃げられはしない。後は人気のない場所で殺し、埋めるだけだ。そうすれば、永遠に見つからないと信じて疑わなかった。
彼が行方不明となっても、春香が警察に捜索願など出せるわけがない。いくら大切だといっても山塚で過ごし、今でも盗みを働いている者は決して警察など信用しないからだ。また絶対に関わりたくないはずだった。
それに万が一届け出を出したとしても、彼の出生からしてまともな捜索などできないことは明らかである。その為彼女の元から連れ去る作戦が上手くいった時点で、この計画はほぼ成功したと断言出来た。
あの場をすぐに離れてしまった為、一彦がいないと知り探し回る春香の必死な姿、悲しみに暮れる顔を見られなかったのは残念で心残りだった。
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