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街の女達の思惑①ー2
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幼い頃から樋口家の保護の下で育てられた和美は、当時三つ年上の徹に魅かれていた。年が近かった為に、彼の祖父の肇や父の忠雄から兄として面倒を看るようにと言われていた経緯もあったからだろう。
和美は徹と共に、スリ師になる為の厳しい特訓を受けさせられており、互いに傷を舐めあう関係だった点も影響した。そうした環境から、樋口家には逆らえないという心理が働いていたのも否定できない。
やがて彼らの命令は、何でも聞くようになった。その為か、ある日服を脱ぐよう指示され、裸にされた和美は抱かれたのである。ただし当初は決して強引で無く、半分合意の元での行為だった気がする。
優しい手つきで体を触られ、くすぐったくもあり愛おしく感じたことを今でも覚えていた。和美がまだ十代にも満たない頃だ。その時を境に仲間達の目を盗んで、二人は関係を結ぶようになった。
後に言われたのが、和美は他の街の女達と育ちが違うように感じていたという言葉だ。どことなしに品があり、目鼻立ちが整っていて可愛いとよく褒められた。それは和美の生い立ちが、そう思わせたのだろう。
というのも元はと言えば、山塚の街で生まれた子でなかったからだ。一流企業で働く父と専業主婦の母との間に生まれ、豊かな暮らしをしていたのである。若くして大きな一軒家を持ち、庭で子犬を飼っていた程だ。
そんな子供が街の住民となったのには、それなりの理由がある。
一九七七年に和美が生まれて間もない頃のことだ。高度成長期に入った日本の景気は活気づいていた。だがその分企業戦士と呼ばれたサラリーマン達の職場環境は、とても過酷なものだった。
この時代から現在に至るまで、働く人々の長時間過密労働、深夜労働、時間外労働、土日出勤、単身赴任から過労死などが問題となっている。そのような犠牲によって支えられてきた“豊かなニッポン”から“バブル経済の崩壊”“リストラ”と、現代日本資本主義社会は、多くの疲弊した国民を生み出してきた。
働けば働くほど、成果が出やすい時代背景があったからだろう。完全週休二日制になる以前であり、休日出勤が当たり前のように行われていた。そうした親達の元で生まれ育った子供達には、当然親が無理している分だけしわ寄せが行く。まさしく和美がそうだった。
和美の父もそんな仕事人間の一人だったが、ある時期から徐々に体調を崩し始めて会社を休みがちになった。その度に病院へ足を運び検査を受けたが異常は見つからないまま、とうとう会社に出社できなくなってしまった。
今なら、過労によるうつ病が発症したとの診断を受けていたかもしれない。しかしその頃は、そうしたものはまだ認識されていない時代だった。広く知れ渡り始め抗うつ剤の売れ行きが高まったのは、九十年代の後半以降である。
その為父は単なる怠け病であり脱落者だと、会社や周囲の人々から烙印を押された。結果会社を退社せざるを得なくなり、親戚や親兄弟からも疎まれたのである。
そんな状況に陥った父を、母は何とか支えようと努力した時期もあったようだ。しかしぐったりとしていた父が、時々人が変わったように気分が高まり暴れだし始めた。
大声で怒鳴り散らすだけでなく、暴力まで振るうようになったからだろう。それ以降、母の態度が変化していったらしい。経済的にも先行きが不安になり、耐え切れなくなったと思われる。
恐らく当時の父は、双極性障害の躁鬱を繰り返していたようだ。うつの時は静かにベッドで横になり、ぼんやりとテレビを眺めて静かにしていた。
だが躁の時は、何故自分がこんな目に合わなければいけないのかとまくしたて、愚痴ってばかりいたらしい。発症したのがまだ三十代半ばという、これからという時だったからこそ、本人も忸怩たる思いをしていたのだろう。
「俺がこれまで身を粉にして働いてきたのに、何故こんな目に遭うんだ。これもお前や和美を養わなければならないと思ってきた結果じゃないか。この辛い気持ちが分かるか!」
そう母に訴える時もあれば、ちょっとしたことに腹を立て癇癪を起し、殴る場合もあったらしい。
「お前は俺を馬鹿にしているんだろう! こうなったのはお前達のせいだ。これまでどれだけ贅沢な暮らしをさせたと思っている。二人を食わせていこうとしたから、俺は体を壊したんだよ。お前達がいなければ、こんな体にはならなかったんだ!」
そう言って、まだ三歳を過ぎたばかりの和美にまで手を出す始末だった。これにはさすがの母も、我慢できなくなったのだろう。ある時子犬の散歩に出かけると言ったまま家を飛び出し、実家へと戻ってしまったのだ。
この時和美も一緒に連れ逃げてくれれば良かったが、母はそうしなかった。今も根強い誤解があるけれど、それ以上に精神病は遺伝すると言われていたからかもしれない
その為父の血を引いた和美も、将来的にトラブルを起こすのではないか。そう母方の祖父母や親戚一同までが、口を揃えたという。その為引き取ろうとしなかったようだ。
今でも精神疾患を起こす遺伝子の存在があると言われているが、完全に解明されてはいない。もちろん親から子へ遺伝するとの科学的証明もされておらず、環境やストレス等の後天的な要素の影響の方が大きいという通説もあったからだ。
それでも時代背景と差別意識が強く働いたのだろう。母は弁護士に依頼して和美の親権を手放し、父と協議離婚したのだ。その為持ち家は売却しなければならず、和美達は安いアパートへと移り住むようになった。
無職で病に侵された父が、まともな生活を送れるはずなどない。その為置き去りにされた和美は、碌に食事を与えられず放置された。今でいう完全なネグレクトである。
それでも父方の祖父母や親戚の中から、一人でも手を差し伸べてくれる人がいれば、もっと違った人生が待っていたかもしれない。しかし父は日頃から周囲の人間に対し、馬鹿にする態度を取った振る舞いが災いしたようだ。
有名な進学校に入学し、誰もが知る偏差値の高い大学を卒業して一流企業に勤めていたからだろう。自分よりも劣る学歴しかなく、小規模の会社で働いている人達を見下し、傲慢な言動をしてきたという。
その為実の両親達でさえ窮地に陥った父から距離を取り、放置していたのだ。もちろん自治体等による福祉の力にも、頼ろうとしなかった。彼の高いプライドが、そうした行動を阻んだのだろう。
そんな生活の中で、最も被害を受けたのが和美だった。時には部屋から閉め出されたり、その為長い間一人で外を歩き回ったりしていた。お腹を空かせていたからだろう。食べ物を探して、街の中をさ迷ったりもしていたらしい。
そんな和美を見かねて優しくしてくれたのが、知らぬ間に偶然迷い込んだ山塚の街の人達だった。彼らもまた、それぞれ複雑な事情を抱えていた。いわゆる堅気の人達とは、相容れない者同士の集団だ。
それ故和美のような子供を他人事とは思えず、放っておけなかったのかもしれない。始めて彼らの目を引いたのは、六歳の頃だったと思う。
街では表向きの顔として床屋や商店など、一見堅気に見える仕事に就いている者がそれなりにいた。そんな中に、託児所を経営している者もいたのだ。
そこに勤めている女性の保育士が、うろついている和美を見て驚いたという。最初は自分の施設で預かっている子供が抜け出した、と勘違いしたようだ。彼らは主に街の住民の子供を預かっていたが、中には一般家庭の児童もいたらしい。
しかしよく見れば違うと判ったけれど、それはそれで気になったのだろう。声をかけ、色々話を聞きだしたそうだ。その時の状況自体は、和美自身あまり覚えていない。
そうして尋常ではないと気付いた彼女は、仲間達に相談したという。そこで動き出したのが街の創始者の一人、スリ集団の頭領をしていた徹の祖父である樋口肇だった。
仲間を使って和美の家の事情を調べ尽くし、このままでは取り返しのつかない問題が起きかねないと判断したようだ。
困っている者、特に子供であれば住民でなくとも保護をし、仲間に入るよう促す事という街の規律があったからだろう。彼はまず託児所を通して、役所の福祉課に相談したらしい。
一九四七年に戦争で家族を失った子を保護する為の児童福祉法が制定した為、各地に児童相談所が設立されてはいた。しかし春香が保護された一九八三年当時は、今ほど虐待児に対して手厚い保護をするケースは多くなかったようだ。
一九八〇年から始まった校内暴力が全国に広がり、その翌年は少年非行第三ピーク到来と呼ばれ、大きな社会現象となっていた時代である。一九八二年には、そうした非行少年達を集めて更生させると話題になっていた民間団体のヨットスクールで、通学生の死亡事件が起こっていた。
児童虐待よりもそうした少年少女に耳目を集めていたからか、手が回らなかったのかもしれない。それでも肇や託児所の所長らは、精神疾患のある父親への支援、さらには子供の保護が必要だと訴え続けてくれたという。
そのおかげで和美は、養護施設へ預けられるようになったのだ。ちなみに実の父親はその後精神科の病院へ入院したが、こっそり抜け出し隣のビルの屋上から飛び降り自殺して亡くなった。
そこで肇は集団の仲間の女性に指示し、堅気の親戚を通じて里親になり和美を引き取るよう依頼したらしい。その後樋口家の保護の下で世話されるようになったのだ。
実際に食事を与える等の世話をしていたのは、徹の母だった。よって三歳年上の徹とは、幼い頃から実の兄妹のように育った。その為成長するにつれて精神的に不安定になった和美を最後までかばってくれたのが、徹を始めとした樋口家の人々である。
和美は元々お嬢様育ちだったこともあり、顔も可愛いと評判だった。その為恐らく徹の両親は、いずれ徹の嫁にと考えていたのかもしれない。
よって二人が後に関係を持つに至ったのは、ごく自然の流れだったのだろう。そうして長い間仲間の一人でしかなかった和美が、さらにその後彼の稼いだ金で街とは関わりのない場所へ建てた家に住み始めた。あの頃が一番幸せだった。
しかし今はどうだ。結局彼は自分より一つ年下の良子が住む街へと戻ってしまった。時々訪ねてくれるが、山塚のみすぼらしい家の方が住み心地は良いという。
小汚い長屋の一角ではあったけれど、スリ師として一人前と認められた証から初めて自分名義で手に入れた家だ。その時の喜びが、彼はまだ忘れられなかったらしい。
ただ他にも理由はあった。父の忠雄の世話が必要となった為だ。徹が大学を卒業して数年後、彼の母が病死した為に忠雄は独り身となってしまったからである。
しばらくは一人暮らしをしていたが、ここ数年で体調を崩し、やがて寝込んでしまったのだ。そうした言い訳がましく聞こえる事情を告げ、和美の元から離れて行った。だが半分は本心なのだろうと思えた。和美が今の家で生活をし始めた時と、似た感情なのかもしれない。
そうした様子をずっと近くで見ていて、疎ましく思っていたのが妹分の良子だった。彼女は貧しい家庭に生まれ、碌に働きもしない両親の代わりに稼がなければならない立場だった。
それは樋口家の世話になっていた和美も同様である。その為二人は、忠雄が取り仕切っていたスリ集団の手伝いをし続けてきたのだ。
当初、和美は徹を異性というより兄としてみていたが、彼女は違った。集団の頭領の息子であり年も近かったからだろう。より親密になり、恩恵を得たいと企んでいたらしい。
さらに異性としての憧れと、好意もあったようだ。だからこそいつも仲良くしている和美に対し、屈折した嫉妬心を持っていたと思われる。
しかし表面上だけでも和美と仲良くしていれば、常に二人の近くに居られると考えたようだ。その為徹に気に入られようと、和美との関係を壊さないよう心掛けていたようだ。そうした奇妙な結びつきが、後に街の大人達を巻き込んでの大きな事件を引き起こした。
当然あれ以来、しばらくは気まずい思いをした。それでも二十歳を過ぎる頃まで、表向きは仲の良い幼馴染として、同じ街で暮らしていたのである。
そんな関係が大きく変わったのは、徹が所帯を持ってからだ。そこから彼女と完全に疎遠となり、やがて徹の正妻と愛人という敵対する立場へと変化した。
それでも互いに本当の寵愛は、自分にあると信じて疑わなかった。そう思わなければ、生きていけなかったのだからしょうがない。樋口家の保護があったから、和美はこの世で生きることを許されてきたも同然だったからだ
和美があの街を離れたのを機に、盗人の世界から足を洗っていた。今は彼が毎月振り込んでくれる金だけで生活している。今更あの世界へ復帰しろと言われても、足手まといにしかならないと分っていたからだ。
もう四十を過ぎた身だ。しかもそれなりに贅沢もさせてもらってきたからこそ、今更以前の生活水準には戻せない。
しかしかつて共に徹の下で働いていた良子は、未だにスリ集団の受け取り役や見張り役として、彼の手助けをしているようだ。そうした付き合いもあり、情にほだされて戻ったのか知らないけれど、その現実は和美にとって腹立たしくて仕方がなかった。
だがそれ以上に気を揉んだのは、春香の事だ。和美や良子と違って二十一歳と若く、また樋口家の跡取り娘でもある彼女に、徹はずっと手をかけてきた。
最近彼女が逃げるようにして街を出たにもかかわらず、まだ未練があるらしい。その点は良子も気が気でなかっただろう。噂では徹に言われたからなのか、春香の居場所を確認し動向を探っているようだ。
街を離れたとはいえ、相変わらずスリ師として活躍している彼女を仲間に引きずり戻し、再び利用しようと画策しているのかもしれない。
それでも春香への嫉妬心もあってか、一緒に暮らしている一彦を狙って嫌がらせしているとも耳にしていた。当の春香は良子や和美も含め、樋口家に関わる人間を全て毛嫌いしている。
しかし街から遠ざかったとはいえ、そう簡単に堅気の生活ができるほど世間は甘くない。それは和美も経験していた。そうした暮らしに必要なのはまず金だ。
加えて街で学んだ慣習を全て投げ捨て、世間の常識を身につけなければならない。それには相当な労力と時間がなければできなかった。
人の事は言えないけれど、良子は人の物を奪ったり関係を壊したりする行為に執念を燃やすタイプだ。恐らく今回も春香と樋口家との関係を壊し、また春香から一彦を引き離そうとしているに違いない。
もしかすると、和美と春香の仲をも引き裂こうとしている可能性もあった。良子が心配する程、二人の関係は良いと言えない。一緒に暮らしていた時期もあったけれど、春香が和美に好感を持っているはずなどなかった。それどころか憎しみすら抱いているだろう。
ただ彼女が街を離れてからは、同じく街の外で暮らす和美に連絡をしてくる機会が増えたのは確かだ。集団から逃れたとはいえ、大勢の仲間に見守られてきた環境とは全く異なる状況に、戸惑いもあったのだろう。
だから時折ちょっとしたことではあったが、アドバイスを求めてくるのである。和美も頼られれば嬉しい。互いにそれなりのわだかまりはあるにせよ、相手はもう成人した大人だ。そうした自信もあって、和美との接し方にも変化が起こったのだと思う。
よって彼女の力になれることがあれば、全力でサポートしたいと考えていた。特に良子は二人にとって、共通の敵だ。徹の場合は難しいところだが、相手があの女ならどんな手を使ってでも助けてやるつもりでいた。
和美は徹と共に、スリ師になる為の厳しい特訓を受けさせられており、互いに傷を舐めあう関係だった点も影響した。そうした環境から、樋口家には逆らえないという心理が働いていたのも否定できない。
やがて彼らの命令は、何でも聞くようになった。その為か、ある日服を脱ぐよう指示され、裸にされた和美は抱かれたのである。ただし当初は決して強引で無く、半分合意の元での行為だった気がする。
優しい手つきで体を触られ、くすぐったくもあり愛おしく感じたことを今でも覚えていた。和美がまだ十代にも満たない頃だ。その時を境に仲間達の目を盗んで、二人は関係を結ぶようになった。
後に言われたのが、和美は他の街の女達と育ちが違うように感じていたという言葉だ。どことなしに品があり、目鼻立ちが整っていて可愛いとよく褒められた。それは和美の生い立ちが、そう思わせたのだろう。
というのも元はと言えば、山塚の街で生まれた子でなかったからだ。一流企業で働く父と専業主婦の母との間に生まれ、豊かな暮らしをしていたのである。若くして大きな一軒家を持ち、庭で子犬を飼っていた程だ。
そんな子供が街の住民となったのには、それなりの理由がある。
一九七七年に和美が生まれて間もない頃のことだ。高度成長期に入った日本の景気は活気づいていた。だがその分企業戦士と呼ばれたサラリーマン達の職場環境は、とても過酷なものだった。
この時代から現在に至るまで、働く人々の長時間過密労働、深夜労働、時間外労働、土日出勤、単身赴任から過労死などが問題となっている。そのような犠牲によって支えられてきた“豊かなニッポン”から“バブル経済の崩壊”“リストラ”と、現代日本資本主義社会は、多くの疲弊した国民を生み出してきた。
働けば働くほど、成果が出やすい時代背景があったからだろう。完全週休二日制になる以前であり、休日出勤が当たり前のように行われていた。そうした親達の元で生まれ育った子供達には、当然親が無理している分だけしわ寄せが行く。まさしく和美がそうだった。
和美の父もそんな仕事人間の一人だったが、ある時期から徐々に体調を崩し始めて会社を休みがちになった。その度に病院へ足を運び検査を受けたが異常は見つからないまま、とうとう会社に出社できなくなってしまった。
今なら、過労によるうつ病が発症したとの診断を受けていたかもしれない。しかしその頃は、そうしたものはまだ認識されていない時代だった。広く知れ渡り始め抗うつ剤の売れ行きが高まったのは、九十年代の後半以降である。
その為父は単なる怠け病であり脱落者だと、会社や周囲の人々から烙印を押された。結果会社を退社せざるを得なくなり、親戚や親兄弟からも疎まれたのである。
そんな状況に陥った父を、母は何とか支えようと努力した時期もあったようだ。しかしぐったりとしていた父が、時々人が変わったように気分が高まり暴れだし始めた。
大声で怒鳴り散らすだけでなく、暴力まで振るうようになったからだろう。それ以降、母の態度が変化していったらしい。経済的にも先行きが不安になり、耐え切れなくなったと思われる。
恐らく当時の父は、双極性障害の躁鬱を繰り返していたようだ。うつの時は静かにベッドで横になり、ぼんやりとテレビを眺めて静かにしていた。
だが躁の時は、何故自分がこんな目に合わなければいけないのかとまくしたて、愚痴ってばかりいたらしい。発症したのがまだ三十代半ばという、これからという時だったからこそ、本人も忸怩たる思いをしていたのだろう。
「俺がこれまで身を粉にして働いてきたのに、何故こんな目に遭うんだ。これもお前や和美を養わなければならないと思ってきた結果じゃないか。この辛い気持ちが分かるか!」
そう母に訴える時もあれば、ちょっとしたことに腹を立て癇癪を起し、殴る場合もあったらしい。
「お前は俺を馬鹿にしているんだろう! こうなったのはお前達のせいだ。これまでどれだけ贅沢な暮らしをさせたと思っている。二人を食わせていこうとしたから、俺は体を壊したんだよ。お前達がいなければ、こんな体にはならなかったんだ!」
そう言って、まだ三歳を過ぎたばかりの和美にまで手を出す始末だった。これにはさすがの母も、我慢できなくなったのだろう。ある時子犬の散歩に出かけると言ったまま家を飛び出し、実家へと戻ってしまったのだ。
この時和美も一緒に連れ逃げてくれれば良かったが、母はそうしなかった。今も根強い誤解があるけれど、それ以上に精神病は遺伝すると言われていたからかもしれない
その為父の血を引いた和美も、将来的にトラブルを起こすのではないか。そう母方の祖父母や親戚一同までが、口を揃えたという。その為引き取ろうとしなかったようだ。
今でも精神疾患を起こす遺伝子の存在があると言われているが、完全に解明されてはいない。もちろん親から子へ遺伝するとの科学的証明もされておらず、環境やストレス等の後天的な要素の影響の方が大きいという通説もあったからだ。
それでも時代背景と差別意識が強く働いたのだろう。母は弁護士に依頼して和美の親権を手放し、父と協議離婚したのだ。その為持ち家は売却しなければならず、和美達は安いアパートへと移り住むようになった。
無職で病に侵された父が、まともな生活を送れるはずなどない。その為置き去りにされた和美は、碌に食事を与えられず放置された。今でいう完全なネグレクトである。
それでも父方の祖父母や親戚の中から、一人でも手を差し伸べてくれる人がいれば、もっと違った人生が待っていたかもしれない。しかし父は日頃から周囲の人間に対し、馬鹿にする態度を取った振る舞いが災いしたようだ。
有名な進学校に入学し、誰もが知る偏差値の高い大学を卒業して一流企業に勤めていたからだろう。自分よりも劣る学歴しかなく、小規模の会社で働いている人達を見下し、傲慢な言動をしてきたという。
その為実の両親達でさえ窮地に陥った父から距離を取り、放置していたのだ。もちろん自治体等による福祉の力にも、頼ろうとしなかった。彼の高いプライドが、そうした行動を阻んだのだろう。
そんな生活の中で、最も被害を受けたのが和美だった。時には部屋から閉め出されたり、その為長い間一人で外を歩き回ったりしていた。お腹を空かせていたからだろう。食べ物を探して、街の中をさ迷ったりもしていたらしい。
そんな和美を見かねて優しくしてくれたのが、知らぬ間に偶然迷い込んだ山塚の街の人達だった。彼らもまた、それぞれ複雑な事情を抱えていた。いわゆる堅気の人達とは、相容れない者同士の集団だ。
それ故和美のような子供を他人事とは思えず、放っておけなかったのかもしれない。始めて彼らの目を引いたのは、六歳の頃だったと思う。
街では表向きの顔として床屋や商店など、一見堅気に見える仕事に就いている者がそれなりにいた。そんな中に、託児所を経営している者もいたのだ。
そこに勤めている女性の保育士が、うろついている和美を見て驚いたという。最初は自分の施設で預かっている子供が抜け出した、と勘違いしたようだ。彼らは主に街の住民の子供を預かっていたが、中には一般家庭の児童もいたらしい。
しかしよく見れば違うと判ったけれど、それはそれで気になったのだろう。声をかけ、色々話を聞きだしたそうだ。その時の状況自体は、和美自身あまり覚えていない。
そうして尋常ではないと気付いた彼女は、仲間達に相談したという。そこで動き出したのが街の創始者の一人、スリ集団の頭領をしていた徹の祖父である樋口肇だった。
仲間を使って和美の家の事情を調べ尽くし、このままでは取り返しのつかない問題が起きかねないと判断したようだ。
困っている者、特に子供であれば住民でなくとも保護をし、仲間に入るよう促す事という街の規律があったからだろう。彼はまず託児所を通して、役所の福祉課に相談したらしい。
一九四七年に戦争で家族を失った子を保護する為の児童福祉法が制定した為、各地に児童相談所が設立されてはいた。しかし春香が保護された一九八三年当時は、今ほど虐待児に対して手厚い保護をするケースは多くなかったようだ。
一九八〇年から始まった校内暴力が全国に広がり、その翌年は少年非行第三ピーク到来と呼ばれ、大きな社会現象となっていた時代である。一九八二年には、そうした非行少年達を集めて更生させると話題になっていた民間団体のヨットスクールで、通学生の死亡事件が起こっていた。
児童虐待よりもそうした少年少女に耳目を集めていたからか、手が回らなかったのかもしれない。それでも肇や託児所の所長らは、精神疾患のある父親への支援、さらには子供の保護が必要だと訴え続けてくれたという。
そのおかげで和美は、養護施設へ預けられるようになったのだ。ちなみに実の父親はその後精神科の病院へ入院したが、こっそり抜け出し隣のビルの屋上から飛び降り自殺して亡くなった。
そこで肇は集団の仲間の女性に指示し、堅気の親戚を通じて里親になり和美を引き取るよう依頼したらしい。その後樋口家の保護の下で世話されるようになったのだ。
実際に食事を与える等の世話をしていたのは、徹の母だった。よって三歳年上の徹とは、幼い頃から実の兄妹のように育った。その為成長するにつれて精神的に不安定になった和美を最後までかばってくれたのが、徹を始めとした樋口家の人々である。
和美は元々お嬢様育ちだったこともあり、顔も可愛いと評判だった。その為恐らく徹の両親は、いずれ徹の嫁にと考えていたのかもしれない。
よって二人が後に関係を持つに至ったのは、ごく自然の流れだったのだろう。そうして長い間仲間の一人でしかなかった和美が、さらにその後彼の稼いだ金で街とは関わりのない場所へ建てた家に住み始めた。あの頃が一番幸せだった。
しかし今はどうだ。結局彼は自分より一つ年下の良子が住む街へと戻ってしまった。時々訪ねてくれるが、山塚のみすぼらしい家の方が住み心地は良いという。
小汚い長屋の一角ではあったけれど、スリ師として一人前と認められた証から初めて自分名義で手に入れた家だ。その時の喜びが、彼はまだ忘れられなかったらしい。
ただ他にも理由はあった。父の忠雄の世話が必要となった為だ。徹が大学を卒業して数年後、彼の母が病死した為に忠雄は独り身となってしまったからである。
しばらくは一人暮らしをしていたが、ここ数年で体調を崩し、やがて寝込んでしまったのだ。そうした言い訳がましく聞こえる事情を告げ、和美の元から離れて行った。だが半分は本心なのだろうと思えた。和美が今の家で生活をし始めた時と、似た感情なのかもしれない。
そうした様子をずっと近くで見ていて、疎ましく思っていたのが妹分の良子だった。彼女は貧しい家庭に生まれ、碌に働きもしない両親の代わりに稼がなければならない立場だった。
それは樋口家の世話になっていた和美も同様である。その為二人は、忠雄が取り仕切っていたスリ集団の手伝いをし続けてきたのだ。
当初、和美は徹を異性というより兄としてみていたが、彼女は違った。集団の頭領の息子であり年も近かったからだろう。より親密になり、恩恵を得たいと企んでいたらしい。
さらに異性としての憧れと、好意もあったようだ。だからこそいつも仲良くしている和美に対し、屈折した嫉妬心を持っていたと思われる。
しかし表面上だけでも和美と仲良くしていれば、常に二人の近くに居られると考えたようだ。その為徹に気に入られようと、和美との関係を壊さないよう心掛けていたようだ。そうした奇妙な結びつきが、後に街の大人達を巻き込んでの大きな事件を引き起こした。
当然あれ以来、しばらくは気まずい思いをした。それでも二十歳を過ぎる頃まで、表向きは仲の良い幼馴染として、同じ街で暮らしていたのである。
そんな関係が大きく変わったのは、徹が所帯を持ってからだ。そこから彼女と完全に疎遠となり、やがて徹の正妻と愛人という敵対する立場へと変化した。
それでも互いに本当の寵愛は、自分にあると信じて疑わなかった。そう思わなければ、生きていけなかったのだからしょうがない。樋口家の保護があったから、和美はこの世で生きることを許されてきたも同然だったからだ
和美があの街を離れたのを機に、盗人の世界から足を洗っていた。今は彼が毎月振り込んでくれる金だけで生活している。今更あの世界へ復帰しろと言われても、足手まといにしかならないと分っていたからだ。
もう四十を過ぎた身だ。しかもそれなりに贅沢もさせてもらってきたからこそ、今更以前の生活水準には戻せない。
しかしかつて共に徹の下で働いていた良子は、未だにスリ集団の受け取り役や見張り役として、彼の手助けをしているようだ。そうした付き合いもあり、情にほだされて戻ったのか知らないけれど、その現実は和美にとって腹立たしくて仕方がなかった。
だがそれ以上に気を揉んだのは、春香の事だ。和美や良子と違って二十一歳と若く、また樋口家の跡取り娘でもある彼女に、徹はずっと手をかけてきた。
最近彼女が逃げるようにして街を出たにもかかわらず、まだ未練があるらしい。その点は良子も気が気でなかっただろう。噂では徹に言われたからなのか、春香の居場所を確認し動向を探っているようだ。
街を離れたとはいえ、相変わらずスリ師として活躍している彼女を仲間に引きずり戻し、再び利用しようと画策しているのかもしれない。
それでも春香への嫉妬心もあってか、一緒に暮らしている一彦を狙って嫌がらせしているとも耳にしていた。当の春香は良子や和美も含め、樋口家に関わる人間を全て毛嫌いしている。
しかし街から遠ざかったとはいえ、そう簡単に堅気の生活ができるほど世間は甘くない。それは和美も経験していた。そうした暮らしに必要なのはまず金だ。
加えて街で学んだ慣習を全て投げ捨て、世間の常識を身につけなければならない。それには相当な労力と時間がなければできなかった。
人の事は言えないけれど、良子は人の物を奪ったり関係を壊したりする行為に執念を燃やすタイプだ。恐らく今回も春香と樋口家との関係を壊し、また春香から一彦を引き離そうとしているに違いない。
もしかすると、和美と春香の仲をも引き裂こうとしている可能性もあった。良子が心配する程、二人の関係は良いと言えない。一緒に暮らしていた時期もあったけれど、春香が和美に好感を持っているはずなどなかった。それどころか憎しみすら抱いているだろう。
ただ彼女が街を離れてからは、同じく街の外で暮らす和美に連絡をしてくる機会が増えたのは確かだ。集団から逃れたとはいえ、大勢の仲間に見守られてきた環境とは全く異なる状況に、戸惑いもあったのだろう。
だから時折ちょっとしたことではあったが、アドバイスを求めてくるのである。和美も頼られれば嬉しい。互いにそれなりのわだかまりはあるにせよ、相手はもう成人した大人だ。そうした自信もあって、和美との接し方にも変化が起こったのだと思う。
よって彼女の力になれることがあれば、全力でサポートしたいと考えていた。特に良子は二人にとって、共通の敵だ。徹の場合は難しいところだが、相手があの女ならどんな手を使ってでも助けてやるつもりでいた。
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高名な映画コレクターの佐山義之氏が亡くなった。日比野恵の働く国立映画資料館の元にその一報が入ったのは、彼のコレクションを極秘に保全してほしいという依頼が死去当日に届いたから。彼の死を周りに悟られないようにと遺族に厳命を受け、ひっそり向かった佐山邸。貴重な映画資料に溢れたコレクションハウスと化したそこは厳重なセキュリティがかけられていたはずなのに、何故か無人の邸の地下に別の映画コレクターの他殺体が見つかる――。手に入れられる訳がないと思われていた幻のコレクションの存在とその行方は? カルト映画『夜を殺めた姉妹』との関連性とは? 残された資料を元に調査に乗り出すうちに、日比野達はコレクター達の欲と闇に巻き込まれて行く。
※この作品はフィクションです。実在の場所、人物、映画とは一切関係ありません。
※残酷描写、暴力描写、流血描写があります。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
四次元残響の檻(おり)
葉羽
ミステリー
音響学の権威である変わり者の学者、阿座河燐太郎(あざかわ りんたろう)博士が、古びた洋館を改装した音響研究所の地下実験室で謎の死を遂げた。密室状態の実験室から博士の身体は消失し、物証は一切残されていない。警察は超常現象として捜査を打ち切ろうとするが、事件の報を聞きつけた神藤葉羽は、そこに論理的なトリックが隠されていると確信する。葉羽は、幼馴染の望月彩由美と共に、奇妙な音響装置が残された地下実験室を訪れる。そこで葉羽は、博士が四次元空間と共鳴現象を利用した前代未聞の殺人トリックを仕掛けた可能性に気づく。しかし、謎を解き明かそうとする葉羽と彩由美の周囲で、不可解な現象が次々と発生し、二人は見えない恐怖に追い詰められていく。四次元残響が引き起こす恐怖と、天才高校生・葉羽の推理が交錯する中、事件は想像を絶する結末へと向かっていく。
No.15【短編×謎解き】余命5分
鉄生 裕
ミステリー
【短編×謎解き】
名探偵であるあなたのもとに、”連続爆弾魔ボマー”からの挑戦状が!
目の前にいるのは、身体に爆弾を括りつけられた四人の男
残り時間はあと5分
名探偵であるあんたは実際に謎を解き、
見事に四人の中から正解だと思う人物を当てることが出来るだろうか?
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作中で、【※お手持ちのタイマーの開始ボタンを押してください】という文言が出てきます。
もしよければ、実際にスマホのタイマーを5分にセットして、
名探偵になりきって5分以内に謎を解き明かしてみてください。
また、”連続爆弾魔ボマー”の謎々は超難問ですので、くれぐれもご注意ください
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