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第三章 春香の苦悩①ー1
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樋口春香は長い間、父の支配下で生きて来た。
周辺に様々な犯罪者達が住む街の中で、彼はスリ師の頭領として活躍していた。そんな彼に幼い頃からその手口を教わり、スリ集団の手伝いもしてきた。
だが成長するにつれ、自分達の世界は異常なのだと感じるようになった。やがてその違和感は増大し、いつか抜け出したいと思い描くようになったのである。
その理由は、私生活の悩みが一番大きかった。春香は物心が付く以前より、性的虐待を受けてきたからだ。精神的にも肉体的にも逆らえないよう洗脳され、それこそ犬のように飼育され育ったのである。
幼い頃は彼の前で裸になり、好きなようにさせるのが当然だと思っていた。しかし全て理解できてからは、悶え苦しむようになった。
十数年も続いた地獄の生活を思い出すだけで虫唾が走り、吐き気を催し震えが止まらなくなった。だからなるべく忘れようと心掛けたが、時折ふとした瞬間にフラッシュバックするのだ。
その度にあの男に触れられた皮膚を、全て引き剥がしたくなる衝動にかられた。息をしているだけでも気分が悪くなる。そうした症状が酷くなると、死んでしまいたいとばかり考え始めた。この身を粉々にすれば逃れられるとの思いから、抜け出せなくなるのだ。
幼い頃はお菓子を買ってあげる、という言葉に釣られついていった。すると樋口家が所有する不動産物件の一つに入れられ、服を脱がされた。そうすれば喜ぶのならばと、なすがままにされていたのだろう。
しかし時折嫌がったりすると、お尻やお腹を殴られた。それが怖くて逆らえず、目を瞑っていれば直ぐ終わるだろうと我慢するようになった。
事が終われば、ご褒美にと美味しいものを食べさせてもらったり、欲しい玩具などを買い与えられたりしていたからだろう。それがいつからか、他の人がいる家の中でも行われ始めたのである。
以前は昼間だったが人目につかない場所に連れていかれ、声を出さないようきつく言い含められていた。しかしわざわざ外に出るのが面倒になったのか、春香が寝ていると知らぬ間に布団の中へ入って来るようになった。
最初の頃は違和感を抱いて目覚めた時、あいつの顔が横にあれば
「ああ、またこの時間が来たのか」
と思うだけだった。それでも徐々に後ろめたい気持ちが生まれたけれど、抵抗すると暴力を振るわれる為、なす術がなかった。出来るのは周囲に気づかれないよう、声を出さないで我慢するだけだった。
それでも年齢を重ねる内に、これは異常な事なのだと気付き始めた。そこで勇気を振り絞り、母に何気なく仄めかしたのである。
だがその反応は意外なものであり、生涯忘れられない言葉となった。と同時に拘束されたまま抜け出せない、泥沼へと放り込まれたような感覚に陥ったのだ。
彼女は言った。
「彼がいるから、私達は食事や家で寝泊まりもできるの。学校へだって行けるのもそうよ。あの人を怒らせたりしたら、困るのはあなただけじゃないの。だから我慢しなさい」
当然彼の行為はその後も続き、なかなか止まなかった。春香が拒絶すれば、家庭は崩壊し生活できなくなるかもしれないと、怯えるようにもなった。その為これまで以上の苦悩を味わい続けたのである。
誰もが同じ行為をしているのだと、信じ込んでいる時期もあった。こんな悪夢のような経験をしているのは、この世で自分だけだろうかと思い悩んだ時もあった。もちろん誰かに相談しようと考えた事もある。
しかし母の言葉が重くのしかかり、他人にこの話をすること自体いけないのだと思ってしまっていた。それでも辛くて我慢できなくなり、友達に言おうかと迷った。けれど同じような反応をされ、馬鹿にされては嫌だという思いから踏み止まった。
だが彼の行為が激しくなり、痛みを伴うことが多くなってからようやくおかしいのではないか。そう疑問を持ち、調べてみようと思い始めたのだ。
そんなある時、持っていたスマホで何となくネット検索をした所、同じような体験をして苦しんでいる人が大勢いると知った。中にはSNS上において、そういう被害を受けた人達だけで話し合う場があると学んだのである。
そこで春香もアクセスし、自分の受けている行為が嫌だという気持ちを思い切って告げた。するとそれは一般社会において、性的虐待と呼ばれる犯罪だと教えられたのだ。
それからはネットだけでなく、中学校の図書館等の本を読んで調べるようにもなった。幼い頃から勉強はしっかりしろ、本をたくさん読めと言われ続けていたが、春香はそれまで聞き流していた。
しかしそれが大きな間違いだったと、この時程痛感したことはない。知識というものが、生きる上でいかに重要かを教えてくれたからだ。
本は自分の身を助け、様々な生き方や方法を指し示してくれるだけでなく、心をも解放させてくれるのだと強く感じた。なぜならそこには自分と同じ、またはもっと残酷な扱いを受けてきた人が大勢いると書かれていたからである。
中には自殺した者もいて、親に殺された子供達さえいた。そうしてようやく、彼がしている行為の客観的な意味を理解できたのだ。
世の中には様々な境遇の人がいると知り驚きながらも、春香は安心した。それは異様だと感じていた自分の感覚が間違っておらず、例え親だろうとも逆らって良いのだと認識させてくれたからだ。
また人はあてにならないとも感じた。母がそうだった。そこで他人にはばれないよう、図書館の隅で必要な部分が書かれている本を探し出しては、読み漁るようになった。
やがて頼れるのは第三者からの幅広い視点から見た情報であり、実際に運用されている制度や法律であると理解できるようにもなっていた。
しかしネットの中にいる人達もそうと知りながら、自分と同じく誰にも言えずにいるとの悩みを抱えていた。そこでSNS上の中だけでも、これはおかしい行為なのだと改めて認識し合おうと考えた。
その為その中の数人に対し、少しずつ詳しい内容を書き込むようになった。もちろん匿名でのやり取りだったが、おかげで自分達はあくまで被害者なのだと考えられるように変わった。
だが中には女性と偽る悪質な人もいた。その相手からは、被害を受けた際に残った痣の写真を撮って残した方が良いとアドバイスを貰っていた。
当初はとてもいいアイデアだと思い、それ以降は彼から虐待を受ける度に、証拠写真を残すようになったのである。しかしやがて撮った写真を互いに見せ合わないか、と誘われ始めた。
最初は向こうから送られてきて、腕や足といった場所だけだった。けれど徐々に足の付け根や胸元など際どい写真が送られてきて、同じような映像を求められたのである。
その為相手も見せてくれたのだからと、春香は顔や大事な所が写らないよう気を付けながら、撮ったものを数回送っていた。
しかし次に相手から局部がしっかり映った画像が送られ、同じものを欲しいと言われた時、初めて怪しいと感じたのだ。
確かに送られた写真には、暴行を受けたような跡があった。だが流石に同じような映像を取り、見知らぬ人に見せる勇気が春香には無かった。それによく考えてみると、これが本当にその人の物だとは限らないと気付いたのだ。
それはニュース等でSNSを使って他人になりすまし、犯罪を起こしたケースがあると知ったからである。
そう考えれば、もしかすると相手は被害者ではなく、加害者である可能性もあると想像した時、春香の体に悪寒が走った。そこで問い詰めてみたところ、相手は違うとしばらく言い張った。
ならばこの写真を警察に提出し、暴行している相手を掴まえよう。私も勇気を出して同じ事をするからと告げた所、突然その相手とは連絡が取れなくなった。
やはりなりすましだったのだと、この時やっと理解した。ショックを受けた春香は、誰も信用できなくなった。その為こちらからあの行為について打ち明けるのが怖くなり、書き込みを止めたのだ。
そうして他の同様なやり取りをしていた人とも、接触を断つようになった。所詮街の住民であり、特殊な環境にいる自分のような人間が、一般社会の人達と触れ合おうという考え自体が間違いだった。心を交わし苦悩を打ち明けるなど、土台無理だったのだと諦めたのである。
冷静になって見れば、SNS上では信じられない程の差別発言や暴言が繰り返されていた。匿名を逆手に取り、誹謗中傷する言葉を浴びせ攻撃し憂さを晴らす人種が、余りにも多く出没していた。
自らの狭い考えに囚われているのか、自分の意見とは異なる者が現れれば容赦なく執拗に付きまとい、徹底的に叩きのめすのだ。
また読解力がないからか、想像力が働かないのかは知らないが、言いがかりをつけて嫌がらせを繰り返す。日常で溜まったストレスを発散しているかのような言葉を羅列し、明らかに民度の低い人達も決して少なくないと気付いた。
その為長い間SNSから遠ざかっていた春香だったが、こちらから何も発信しないにもかかわらず、一人だけ熱心にダイレクトメッセージを送り続けてくれる人がいた。それが“ソヴェ”だった。
彼女もまた、幼い頃から実の父親に性的暴力を受け続けていた人だ。けれど今はどうにか、逃れられるようになったらしい。
そんな彼女が自らの経験を晒し始めたきっかけは、同じ被害に合った人達の心を少しでも癒したいと考えたからだという。もしくは現在進行形なら、被害を食い止めたいとの使命を持ってSNSを始めたそうだ。
ソヴェによれば、被害を受けた際の写真を残す行為は必要だが、それを他人に見せる場合には条件があると言っていた。それは虐待から逃れる為、加害者を罰したいとの勇気が持てた時に限られる。しかも警察等の公的機関へ、提出するケースだけだと断言していた。
さらに自分が訴え、話を聞いてくれる警察や被害者を支援する団体の人達が本当に信頼できる、自分を守ってくれると確信してからでなければ、安易に見せてはいけないと忠告もしてくれていた。
よって当然彼女から、写真が送られたり求められたりはしなかった。一度送り合っていると漏らしてしまった時には、絶対辞めた方が良いと諭されていたと思い出した。
だから春香が突然何も書き込まず返事にも反応しなくなった為、不安に感じたのだろう。彼女だけは心配し、何度もその後どうなったかというメッセージを送り続けてくれていたのだ。
それに比べると、他の人はこちらが何も言わなくなった途端、水を引いたように連絡が途絶えた。どうやら大抵の人には日頃溜まった鬱憤や不平不満をさらけ出し、愚痴や悪口を言い合って傷を舐めあわなければ、相手にされないようだ。
その点ソヴェだけは違うと感じていた。それでも疑心暗鬼が募っていたせいで、長い間放置していたのである。しかし余りにも心配し続け、合わせて様々なアドバイスをされた為に、彼女だけは信用できるかもしれないと思い始めたのだ。
それにSNS上で性的虐待における共通体験を持つ人達が意見交換をしている時も、彼女は他の人達と少し異なっていた。自分がどれだけ酷い目に遭っていたかを語りながらも、他の人達に対して心無い言葉を浴びせる人は意外に多かった。
「どうして“やめて”と言わなかったの?」
「あなたの勘違いじゃないの?」
といったものから、
「自分から誘ったんじゃないの?」
「相手にして欲しいからって、嘘をついているんじゃないの?」
「そうさせたあなたにも、落ち度があったんでしょ」
などと、本当に同じ被害を受けているのかと疑わしくなる発言や
「そんなのは早く忘れた方が良い。前を向いて歩いていくべきよ」
「母親に相談して、警察や専門機関に通報しないと駄目」
「可哀そうにね」
「そんな奴は許せない。酷い人ね」
といった一見分かっていそうだが、決してそうした言葉を聞きたい訳では無いと思う書き込みも少なくなかった。
周辺に様々な犯罪者達が住む街の中で、彼はスリ師の頭領として活躍していた。そんな彼に幼い頃からその手口を教わり、スリ集団の手伝いもしてきた。
だが成長するにつれ、自分達の世界は異常なのだと感じるようになった。やがてその違和感は増大し、いつか抜け出したいと思い描くようになったのである。
その理由は、私生活の悩みが一番大きかった。春香は物心が付く以前より、性的虐待を受けてきたからだ。精神的にも肉体的にも逆らえないよう洗脳され、それこそ犬のように飼育され育ったのである。
幼い頃は彼の前で裸になり、好きなようにさせるのが当然だと思っていた。しかし全て理解できてからは、悶え苦しむようになった。
十数年も続いた地獄の生活を思い出すだけで虫唾が走り、吐き気を催し震えが止まらなくなった。だからなるべく忘れようと心掛けたが、時折ふとした瞬間にフラッシュバックするのだ。
その度にあの男に触れられた皮膚を、全て引き剥がしたくなる衝動にかられた。息をしているだけでも気分が悪くなる。そうした症状が酷くなると、死んでしまいたいとばかり考え始めた。この身を粉々にすれば逃れられるとの思いから、抜け出せなくなるのだ。
幼い頃はお菓子を買ってあげる、という言葉に釣られついていった。すると樋口家が所有する不動産物件の一つに入れられ、服を脱がされた。そうすれば喜ぶのならばと、なすがままにされていたのだろう。
しかし時折嫌がったりすると、お尻やお腹を殴られた。それが怖くて逆らえず、目を瞑っていれば直ぐ終わるだろうと我慢するようになった。
事が終われば、ご褒美にと美味しいものを食べさせてもらったり、欲しい玩具などを買い与えられたりしていたからだろう。それがいつからか、他の人がいる家の中でも行われ始めたのである。
以前は昼間だったが人目につかない場所に連れていかれ、声を出さないようきつく言い含められていた。しかしわざわざ外に出るのが面倒になったのか、春香が寝ていると知らぬ間に布団の中へ入って来るようになった。
最初の頃は違和感を抱いて目覚めた時、あいつの顔が横にあれば
「ああ、またこの時間が来たのか」
と思うだけだった。それでも徐々に後ろめたい気持ちが生まれたけれど、抵抗すると暴力を振るわれる為、なす術がなかった。出来るのは周囲に気づかれないよう、声を出さないで我慢するだけだった。
それでも年齢を重ねる内に、これは異常な事なのだと気付き始めた。そこで勇気を振り絞り、母に何気なく仄めかしたのである。
だがその反応は意外なものであり、生涯忘れられない言葉となった。と同時に拘束されたまま抜け出せない、泥沼へと放り込まれたような感覚に陥ったのだ。
彼女は言った。
「彼がいるから、私達は食事や家で寝泊まりもできるの。学校へだって行けるのもそうよ。あの人を怒らせたりしたら、困るのはあなただけじゃないの。だから我慢しなさい」
当然彼の行為はその後も続き、なかなか止まなかった。春香が拒絶すれば、家庭は崩壊し生活できなくなるかもしれないと、怯えるようにもなった。その為これまで以上の苦悩を味わい続けたのである。
誰もが同じ行為をしているのだと、信じ込んでいる時期もあった。こんな悪夢のような経験をしているのは、この世で自分だけだろうかと思い悩んだ時もあった。もちろん誰かに相談しようと考えた事もある。
しかし母の言葉が重くのしかかり、他人にこの話をすること自体いけないのだと思ってしまっていた。それでも辛くて我慢できなくなり、友達に言おうかと迷った。けれど同じような反応をされ、馬鹿にされては嫌だという思いから踏み止まった。
だが彼の行為が激しくなり、痛みを伴うことが多くなってからようやくおかしいのではないか。そう疑問を持ち、調べてみようと思い始めたのだ。
そんなある時、持っていたスマホで何となくネット検索をした所、同じような体験をして苦しんでいる人が大勢いると知った。中にはSNS上において、そういう被害を受けた人達だけで話し合う場があると学んだのである。
そこで春香もアクセスし、自分の受けている行為が嫌だという気持ちを思い切って告げた。するとそれは一般社会において、性的虐待と呼ばれる犯罪だと教えられたのだ。
それからはネットだけでなく、中学校の図書館等の本を読んで調べるようにもなった。幼い頃から勉強はしっかりしろ、本をたくさん読めと言われ続けていたが、春香はそれまで聞き流していた。
しかしそれが大きな間違いだったと、この時程痛感したことはない。知識というものが、生きる上でいかに重要かを教えてくれたからだ。
本は自分の身を助け、様々な生き方や方法を指し示してくれるだけでなく、心をも解放させてくれるのだと強く感じた。なぜならそこには自分と同じ、またはもっと残酷な扱いを受けてきた人が大勢いると書かれていたからである。
中には自殺した者もいて、親に殺された子供達さえいた。そうしてようやく、彼がしている行為の客観的な意味を理解できたのだ。
世の中には様々な境遇の人がいると知り驚きながらも、春香は安心した。それは異様だと感じていた自分の感覚が間違っておらず、例え親だろうとも逆らって良いのだと認識させてくれたからだ。
また人はあてにならないとも感じた。母がそうだった。そこで他人にはばれないよう、図書館の隅で必要な部分が書かれている本を探し出しては、読み漁るようになった。
やがて頼れるのは第三者からの幅広い視点から見た情報であり、実際に運用されている制度や法律であると理解できるようにもなっていた。
しかしネットの中にいる人達もそうと知りながら、自分と同じく誰にも言えずにいるとの悩みを抱えていた。そこでSNS上の中だけでも、これはおかしい行為なのだと改めて認識し合おうと考えた。
その為その中の数人に対し、少しずつ詳しい内容を書き込むようになった。もちろん匿名でのやり取りだったが、おかげで自分達はあくまで被害者なのだと考えられるように変わった。
だが中には女性と偽る悪質な人もいた。その相手からは、被害を受けた際に残った痣の写真を撮って残した方が良いとアドバイスを貰っていた。
当初はとてもいいアイデアだと思い、それ以降は彼から虐待を受ける度に、証拠写真を残すようになったのである。しかしやがて撮った写真を互いに見せ合わないか、と誘われ始めた。
最初は向こうから送られてきて、腕や足といった場所だけだった。けれど徐々に足の付け根や胸元など際どい写真が送られてきて、同じような映像を求められたのである。
その為相手も見せてくれたのだからと、春香は顔や大事な所が写らないよう気を付けながら、撮ったものを数回送っていた。
しかし次に相手から局部がしっかり映った画像が送られ、同じものを欲しいと言われた時、初めて怪しいと感じたのだ。
確かに送られた写真には、暴行を受けたような跡があった。だが流石に同じような映像を取り、見知らぬ人に見せる勇気が春香には無かった。それによく考えてみると、これが本当にその人の物だとは限らないと気付いたのだ。
それはニュース等でSNSを使って他人になりすまし、犯罪を起こしたケースがあると知ったからである。
そう考えれば、もしかすると相手は被害者ではなく、加害者である可能性もあると想像した時、春香の体に悪寒が走った。そこで問い詰めてみたところ、相手は違うとしばらく言い張った。
ならばこの写真を警察に提出し、暴行している相手を掴まえよう。私も勇気を出して同じ事をするからと告げた所、突然その相手とは連絡が取れなくなった。
やはりなりすましだったのだと、この時やっと理解した。ショックを受けた春香は、誰も信用できなくなった。その為こちらからあの行為について打ち明けるのが怖くなり、書き込みを止めたのだ。
そうして他の同様なやり取りをしていた人とも、接触を断つようになった。所詮街の住民であり、特殊な環境にいる自分のような人間が、一般社会の人達と触れ合おうという考え自体が間違いだった。心を交わし苦悩を打ち明けるなど、土台無理だったのだと諦めたのである。
冷静になって見れば、SNS上では信じられない程の差別発言や暴言が繰り返されていた。匿名を逆手に取り、誹謗中傷する言葉を浴びせ攻撃し憂さを晴らす人種が、余りにも多く出没していた。
自らの狭い考えに囚われているのか、自分の意見とは異なる者が現れれば容赦なく執拗に付きまとい、徹底的に叩きのめすのだ。
また読解力がないからか、想像力が働かないのかは知らないが、言いがかりをつけて嫌がらせを繰り返す。日常で溜まったストレスを発散しているかのような言葉を羅列し、明らかに民度の低い人達も決して少なくないと気付いた。
その為長い間SNSから遠ざかっていた春香だったが、こちらから何も発信しないにもかかわらず、一人だけ熱心にダイレクトメッセージを送り続けてくれる人がいた。それが“ソヴェ”だった。
彼女もまた、幼い頃から実の父親に性的暴力を受け続けていた人だ。けれど今はどうにか、逃れられるようになったらしい。
そんな彼女が自らの経験を晒し始めたきっかけは、同じ被害に合った人達の心を少しでも癒したいと考えたからだという。もしくは現在進行形なら、被害を食い止めたいとの使命を持ってSNSを始めたそうだ。
ソヴェによれば、被害を受けた際の写真を残す行為は必要だが、それを他人に見せる場合には条件があると言っていた。それは虐待から逃れる為、加害者を罰したいとの勇気が持てた時に限られる。しかも警察等の公的機関へ、提出するケースだけだと断言していた。
さらに自分が訴え、話を聞いてくれる警察や被害者を支援する団体の人達が本当に信頼できる、自分を守ってくれると確信してからでなければ、安易に見せてはいけないと忠告もしてくれていた。
よって当然彼女から、写真が送られたり求められたりはしなかった。一度送り合っていると漏らしてしまった時には、絶対辞めた方が良いと諭されていたと思い出した。
だから春香が突然何も書き込まず返事にも反応しなくなった為、不安に感じたのだろう。彼女だけは心配し、何度もその後どうなったかというメッセージを送り続けてくれていたのだ。
それに比べると、他の人はこちらが何も言わなくなった途端、水を引いたように連絡が途絶えた。どうやら大抵の人には日頃溜まった鬱憤や不平不満をさらけ出し、愚痴や悪口を言い合って傷を舐めあわなければ、相手にされないようだ。
その点ソヴェだけは違うと感じていた。それでも疑心暗鬼が募っていたせいで、長い間放置していたのである。しかし余りにも心配し続け、合わせて様々なアドバイスをされた為に、彼女だけは信用できるかもしれないと思い始めたのだ。
それにSNS上で性的虐待における共通体験を持つ人達が意見交換をしている時も、彼女は他の人達と少し異なっていた。自分がどれだけ酷い目に遭っていたかを語りながらも、他の人達に対して心無い言葉を浴びせる人は意外に多かった。
「どうして“やめて”と言わなかったの?」
「あなたの勘違いじゃないの?」
といったものから、
「自分から誘ったんじゃないの?」
「相手にして欲しいからって、嘘をついているんじゃないの?」
「そうさせたあなたにも、落ち度があったんでしょ」
などと、本当に同じ被害を受けているのかと疑わしくなる発言や
「そんなのは早く忘れた方が良い。前を向いて歩いていくべきよ」
「母親に相談して、警察や専門機関に通報しないと駄目」
「可哀そうにね」
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