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第一章 山塚と三十五年前の事件①ー1
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「何度言ったら判るんだ! もっと早く手首を捻るんだよ!」
父の忠雄が手に持っていた長い竹尺で、手の甲をピシッと強く叩かれた。既に二時間以上、スリの手ほどきを受けている。だが何度やっても、言われた通りに出来ない。その都度仕置きされた徹の右手には、沢山のミミズ腫れができていた。
「さあ、もう一度!」
物心がついた頃から、同じ事ばかりやらされてきた。床の間のある奥の部屋では祖父の肇が腕を組み、いつも厳しい表情をして特訓の様子を見守っていた記憶が残っている。
だからこそ父も気を抜けず、厳しく教えざるを得なかったのだろう。後に徹が同じ立場となった時、そう理解出来るようになった。しかし当時は、なんて親だと憎んでばかりいたものだ。
徹が五歳だった時、五十三歳の祖父はまだスリ集団の頭領を務めていた。当時三十歳だった父など、足元にも及ばない腕の持ち主と評価されていたという。
その孫に対し、後の後継者となるべく行われていた教えだ。生半可な方法では済まされない。常に空気はピンと張りつめていた。それが山塚の街を創業した家の一つに数えられる、樋口家の使命だったからだろう。
祖父がスリ師となったのは、当時の時代背景が関係している。それが犯罪集団を築き上げ、山塚と呼ばれる街へと発展した成り立ちに繋がっていた。
戦争中だった日本は、それまで二十歳以上だった徴兵検査を一九四三年に十九歳、四四年には十七歳へと切り下げた。一九二六年生まれの肇は、そうした法改正の影響により十八歳の時、徴兵検査を受けると直ぐに赤紙が来て軍隊へと召集されたらしい。
だが幸いにもその翌年の夏には終戦を迎え、どうにか生きて故郷へ戻ってこられた。しかし実家周辺の惨状を見て、呆然としたという。見渡す限り焼け野原で、家族を失い食べる物にも窮している孤児達が街に溢れていたからだ。
また中には生きる為に止む無く人の物を盗み、飢えをしのぐ者達も大勢いた。
「これからどうやって、俺達は生きて行けというんだ」
当時は怪我などを負わずに生きて帰ってきた退役軍人に対する世間の目は冷たかった。しかも国からの恩給なども廃止されていたのである。
国としても一九四七年には、戦争で家族を失った子の保護の為に児童福祉法を制定する等、一応の対策は取っていた。だがとても十分とは言えなかったようだ。
児童福祉の幕開けは、戦争の犠牲になった児童への緊急保護と、施設収容業務が主だったからだろう。当時戦争が生み出した戦争孤児は、十二万三千人とも言われている。
その中には貧困による栄養失調や親等を失ったからか、精神疾患を負った者も大勢いた。もちろんまともな教育を受けられる環境ではなかった為、知恵遅れや言葉の遅れを生み出し、基本的生活習慣の欠如をもたらしたのだ。
また運動不足や身体的、社会性の遅れが、落ち着きのなさや集中力の欠如、極度の甘えを誘発し、情緒の不安定さを増していく。その為孤立し、人間関係を作る力を欠落させたらしい。
けれど児童福祉法の施行によって起こったのは、街に溢れだした子供を多く掴まえようとする、いわゆる浮浪児狩りだった。その後は粗末な建物の中に収容し、隔離するのみだったという。
風呂も無く、隙間風が吹き寒い冬でも夏服一枚で過ごさせ、狭い部屋で何十人も寝起きする生活だったらしい。職員もまたそんな中で共に暮らし、自らの手で新しい家づくりを始めた人達もいたようだ。
しかし施設では毎日テストを行い、精神薄弱か否かを分類し鑑別するだけだったと聞いている。人権など全く無視され、浮浪児を一時保護して一刻も早く一般正常児等に劣らない良い子にしてやろうなどとは、誰も考えていなかったようだ。
そんな事情から、当然福祉の手から逃げる者もいた。その為か、一部地域では治安が悪化していたようだ。当時は戦争に取られたまま戻らず、農家では男手が足りなくなっていた。そこで食料を調達しようとする者達の手で、田畑などが良く荒らされていたという。
実際一九五三年には、少年非行第一次ピークと呼ばれる現象が起こっていた。子供の生活や教育、文化や福祉、健康の全てに渡って、児童憲章の精神が踏みにじられた反動だったとも言えるだろう。
この年にようやく恩給制度が復活したが、祖父達のような短期しか勤めていない旧軍人には支給されていない。その為国に対する不満は、さらに募ったようだ。
「折角悲惨な戦争を生き延びた同士の、大事な命だ。決して粗末にしてはいけない。そうした悲劇の連鎖を食い止めよう」
そうした想いから、祖父達は立ち上がった。有志を募り、助け合う集団を作り上げようと試みたのである。
世間では他にもそうした動きが、一部で起こっていたらしい。親や教師、研究者を始めとする市民団体や文化団体、労働組合等により、幅広く子供の人権と平和を守る国民運動が始まっていた。
しかしようやく親を探す運動が起こったのは、戦後から十年も経った一九五六年である。それは貧困の中での非行、問題児童について「短期間で治療し、家庭に返す」を目的にしていた。
その実情は、短期治療施設の設置や非行対策専任職員の配置を提唱されただけに止まっていたようだ。子供の心や境遇に寄り添ったものだとは、到底言えなかったという。
しかも児童収容施設づくりは、この頃にほぼピークを迎えたと言われている。つまりそれ以上増やさなかったことを意味した。
このようなお粗末な状況を見て、祖父達が国には頼れないと諦めたのも理解できる。だからこそ後に山塚と名付けられた集団は、自らの力で生活しようと試行錯誤し始めたのだ。
もちろん生きる為には食料や、雨風や寒さをしのぐ住居が不可欠である。特に子供達の健康状態を維持する為、十分な量やスペースを確保しなければならない。そこでまず焼け野原となった一角を陣取り、かき集めた木材等で長屋を建てたという。
さらに必要な食料を調達する為、止む無くお金や現物を盗むようになったそうだ。しかしそれだけでは、単なる犯罪者達が集まる街に過ぎなくなる。そこで祖父達は児童達に対する教育の場や、将来に備えた職業訓練等を行った。
中には貧困による栄養失調や、劣悪な環境が影響したのだろう。今でいう知的障害や統合失調症を患っている子供も少なくなかった。街ではそうした者に対する介護やリハビリなどにも取り組んでいたという。加えて様々な規律を作った。
「決して、他人を傷つけてはいけない。街では、住民達同士の助け合いを原則とする。困っている者、特に子供であれば住民でなくとも保護をし、仲間に入るよう促せ」
「犯罪に関してもできる限り、同じ貧しい境遇の者からは盗むな。できるだけ余裕がありそうな家から奪え」
こうした決まりが、創立当初から出来上がっていたと聞いている。様々な取り組みを経て、祖父達は罪を犯しているとの自覚を持ちつつ、人間としてギリギリの矜持を保ちながら生き続けることを選んだ。それが山塚という街の成り立ちであった。
仲間はあっという間に百人を超えたらしい。最も大きかった頃は、窃盗集団が十数以上あったという。実働部隊だけでも二百人以上いたそうだ。その家族も含めると、街の住民は千人を超えていたと想像できる。
だが令和の時代となった現在は、主な集団が六つにまで減った。住民も二百人余りと、全盛期に比べればかなり規模は小さい。時代の流れと共に、街の形態が変化した事も要因の一つだ。また大きくなり過ぎた為、分裂等が起こった結果でもあった。
というのも集団を形成し街を作り始めた頃は、盗みも生きる為に必要最小限に留めていた。しかし時代が高度成長期に入ると世間では裕福な人達が徐々に増えだし、以前のような極貧状態の家庭が少なくなった。
そうなると、自分達も豊かになりたいと考える者が増えていく。また街が拡大し人数が増加する過程で、統率が取り辛くなった点も影響したのだろう。設立当初の掟の徹底が困難になったのだ。
さらに暴力的な略奪を禁止していた街の規則に、反発する者も出始めた。力でねじ伏せる行為を良しとしなかった創業家達の考えに背く者達が、少なからず現れたのである。
食うに困らない程度の盗みしか許されず、また儲けは分かち合うとの考えが窮屈に感じられたのであろう。病気や怪我、または警察に捕まり稼げなくなった人の家族を、街全体で養う決め事に異議を唱える人達も出てきた。
平気で人を傷つけ、窃盗の標的に対して手段を選ばず、貧しかろうが根こそぎ奪う危険な集団も現れた。愚連隊、さらには暴力団と呼ばれた連中だ。
元々「暴力団」という名称は、警察が名付け第二次大戦後にマスコミを通し、一般でも認知されるようになったものだ。また戦後に物資が不足したことで、闇市が栄えた。その為露店を本職としていた的屋系団体が、特に勢力を増し始めていたという。
社会の荒廃により治安も極めて悪く、愚連隊などの不良集団から暴力団が誕生することもあった。そんな中、非暴力的な窃盗集団として山塚の街が誕生したのだ。
街の秩序が保たれないと危惧した創業者達は、そうした他の連中とは距離を置くと決めた。その為街は、度々分裂を起こしていったのである。
もちろん出て行った集団と、対立するケースもあったらしい。縄張り争い等で、抗争に発展したこともあったようだ。それでも祖父達は、出来る限り争いを避けてきたという。
「街は戦争によって犠牲となった、子供達を救う目的で設立されたのだ。それなのに再び人が殺し合えば、さらに不幸な者を増やしてしまう。それは絶対に避けなければならない」
そう主張し、時には自分達が撤退または別の暴力団の力を借り、仲裁して貰ったらしい。できるだけ穏便に、問題を解決する方法を模索していたからだろう。
場合によっては暴力団からあぶれて貧困に喘ぐ者達や、その子供達を街の住民として受け入れる等して貸しを作ったりしたようだ。そうやって街は、今日まで生き延びられたのである。
ちなみに山塚と呼ばれる街は、実在の地名ではない。現実には仲間内から逮捕者が出て警察の家宅捜索を受けたり、抗争が起こったりする度に転々と移り住んできた。その為同じ土地に留まることができなかったからだ。
今は小綺麗な住宅地の隙間の、まだこんな古い家があるのかと驚かれるような場所に各々が住んでいる。だから特にまとまってはいない。それどころか今や区や市、都県をまたいで分散していた。
つまり街と言っても、集団を立ち上げた頃にあった古い地名を、そのまま名残として使っているだけだ。しかし創設から七十年以上経った今でも、時代の流れと共に形態を変えながら存続してきた。
それどころか今や伝説と化し、街の出身だと聞けば盗人仲間の中では、一種のステータスになっている一面もあった程だ。そんな中でも、祖父を初代とする樋口家の集団は街の中心を担いつつ、主にスリを専門とする多くの仲間を長らく率いてきた。
樋口家に限らず、一度罪を犯してその旨味を知った者が足を洗うのは、そう容易くない。堅気になろうとして街を出ても学の無い点等が影響し、周囲と馴染めず舞い戻ってくる人達は多くいた。
またしくじって警察に捕まり、刑務所へ入ってしまった者もいる。そいつに家族がいれば、養い手を失うことで路頭に迷ってしまう。街が無ければ、生きていけないあぶれ者は後を絶たなかった。
そうした人々が存在する限り、祖父を筆頭とする創設者達は、更なる強固な街づくりを目指すしかなかったのだろう。彼らはまず、食べる事と子供達への教育だけは欠かさない、との指針を守り続けた。
頭領を中心とする実働部隊達の稼ぎを吐き出してでも、貧しい者達に分け与える習慣は止めなかったらしい。何故なら経済的な貧困はもちろん、情報の貧困も連鎖するとの考えがあったからだという。
そうした原則に基づき、街の子供達は働きながらも、必ず学校へは通うよう指導されていた。時代が進むと共に、余程の事情がない限り最低でも高校は卒業させられた。
しかも大学へ進学できるものがいれば、街全体で支援する体制も整えられた。現に忠雄や徹は大卒だ。これは今でも徹底されている。
例え知的障害等があっても、そうした児童の面倒を見る専門の施設や人材を、街では育成したり確保したりするようになった。さらに図書館等の本をできるだけ読むようにと、徹も幼い頃から言われ続けていた記憶がある。
実際街の住民達が出入りする各所に、様々な書籍が揃えられていた。本屋からの万引きはご法度、という規則まであった程だ。そうした様々な取り組みにより、残った人間達はより結束を固めていったのである。
このような長年の功績もあり、樋口家は街の中で一目置かれる存在となった。その後継者である徹の父も肇から鍛え上げられ、若い頃からスリ集団の幹部として成長していった。
ちなみに集団の頭領の名は、必ずしも戸籍上の名と同じでない。樋口家は代々その息子や孫が後を継いできた。しかし子供がいない等の理由で、別の者が引き継ぐ集団もあったからだ。
それでも設立当初の名残から、各々の集団には屋号が付いていた。例えば空き巣を専門とする集団の頭領は大畑、自動車盗等を専門とする集団は三根といった具合だ。それぞれ初代頭領の名が引き継がれている。
その中で徹は樋口家の血筋を受け、幼い頃からスリの英才教育を受けて来た。そうした経緯もあり、徹はまだ五歳だというのに祖父の監視の元で、父から厳しい特訓を直接受ける日々を過ごしていたのである。
徹の母もまた、スリをする際の見張りや受け渡し役などをしていたからだろう。我が子が腕を真っ赤に腫らしていても、黙って見ているような人だった。
そうした成果が実を結んだのか、徹も後にスリ師の頭領として認められるようになった。だがそれまでは、嫌で嫌でしょうがなかった。常に偉大な祖父と比較されながら集団を束ねる難しさも、うんざりするほど味わってきたからだ。
父だって似た気持ちを持っていたに違いない。そうした日頃のストレスが溜まった結果、発散する先が性欲や金銭欲へと向かわせたのだろうと、今になっては理解できる。
父に代替わりしてからも、金を必要以上に貯める行為など祖父の目が黒い内には考えられなかった。何故なら常に集団の頭領は、従う仲間達を不自由なく食べさせなければならない、との使命を持っていたからだ。
祖父が全盛期の頃は、最もその傾向が強かったという。稼いだお金のほとんどを、街や仲間の為に使っていたといって良いだろう。よって頭領という名の名誉はあっても、徹達はある時期まで決して裕福な暮らしをしていなかったのだ。
それでも武士は食わねど高楊枝を地でいく生活は、続けねばならなかった。時にはお金に窮し、別の集団の頭領からお金を借りてしのいでいた頃もあったようだ。
当然他の集団の頭領から、借金を頼まれる場合もあったという。まさしく相互扶助の精神により、街は維持されてきたのだ。そうした暮らしは、父の代の途中まで続いていた。
というのも日本全体が裕福になりだした頃には、昔程食うに困る仲間は少なくなったからだ。また街全体の規模が、一時期に比べれば縮小したからだろう。おかげで祖父が頭領だった時代よりは、樋口家の生活も少しずつ楽になっていた。
徹は幼心にそうした暮らしに不満を抱き、疑問を持っていた。自分は我慢しているのに、仲間の子供の方が玩具だったり高価な物を身に付けたりしていたから余計だろう。
他の集団の頭領の息子や後を引き継いだ者達も、似たような思いをしていたと聞く。その反動もあったに違いない。バブルが既に崩壊し、祖父が亡くなった平成十年頃には、街の構造が大きく変わったのである。
例えば頭領だからと、街に支出する金を多く出さなければならない体系がまず変わった。負担を分散させる方法や新たな資産形成を試み、相互補助の仕組みを作り直したのだ。
一例をあげると、まず住民達の手にした儲けが、街の中で循環するシステムを構築した。その一つとして、人々が暮らす部屋の確保を街で行うようになった。
かつてはある一定の地域にまとまって生活していた仲間達も、今では転々と住処を移動するケースが当たり前になった。時代の変化と共に、警察等から監視され始めたからだ。
そこに目を付けたのが不動産の取得である。つまり街で蓄積したお金を使い、各地に格安の土地、建物を見つけては買い取った。そこに仲間達を住まわせ、賃料を取るようにしたのだ。
他にもいくつかの対策を取ったことで、住民達の生活はやがてかつてほど酷い貧困に喘ぐものは少なくなり、中には裕福な生活を送れる者も増えていった。
それでも窃盗等の犯罪を繰り返さざるをえなかったのは、貧困の連鎖から抜け出せない者達が絶えずいたからである。特に多かったのが、母子家庭や父子家庭だ。
様々な事情で生活の安定しない者達が一定数生れる環境は外の社会でも同じであり、仕方がないのかもしれない。そうした住民達の稼ぎを確保する為、集団は盗みを働き続けた。
もちろん街の運営費用も馬鹿にならない。実働部隊に入れない者達、例えば障害を持った者や病気にかかった者の雇用の維持や生活費を確保するのに、人件費や設備投資費用等の店舗維持費が必要となるからだ。
そうした環境も影響したのだろう。大家であり集団の頭領、または幹部の地位を利用する者が現れたのだ。支援する代わりとして、逆らえない女達等に手を出す状況が自然とできてしまったのである。
今回街で起こった連続殺人事件は、そんな背景が起こしたと言っても過言では無い。しかも殺された人物達全員が、掟破りの非道行為を行っていた。それは住民の多くが知るところとなった。
事件の真相の一端を垣間見えたからか、街には動揺が走った。当然だ。街の成り立ちを全否定する卑劣な所業をしていたとはいえ、街の住民を仲間が殺したとなれば話は大きく変わってくる。
しかもその犯人が、街の創業家の一つである樋口家から出たかもしれないとの噂は、想像以上の衝撃を与えた。罪を犯している同志にとって、結束する唯一の拠り所は信頼だ。その根底が崩れたからだろう。
住民達は同じ穴の狢で、傷を舐め合うように結びついてきた。警察はもちろん、自分達を取り巻く社会全体に敵意を持ち、生活基盤を支えてきたのだ。
しかしここにきて、さすがに限界を迎えたと思われる。元々の成り立ちから七十年以上の時間を経ていながらも、形を変えながら存続してきたのは間違いない。
だが実態は少しずつ、綻びが生じていたのも事実なのだ。やはりその始まりは、三十五年前に起こった事件だったのかもしれない。街の崩壊は既にあの頃から始まっていた。徹はそう思わざるを得なかった。
父の忠雄が手に持っていた長い竹尺で、手の甲をピシッと強く叩かれた。既に二時間以上、スリの手ほどきを受けている。だが何度やっても、言われた通りに出来ない。その都度仕置きされた徹の右手には、沢山のミミズ腫れができていた。
「さあ、もう一度!」
物心がついた頃から、同じ事ばかりやらされてきた。床の間のある奥の部屋では祖父の肇が腕を組み、いつも厳しい表情をして特訓の様子を見守っていた記憶が残っている。
だからこそ父も気を抜けず、厳しく教えざるを得なかったのだろう。後に徹が同じ立場となった時、そう理解出来るようになった。しかし当時は、なんて親だと憎んでばかりいたものだ。
徹が五歳だった時、五十三歳の祖父はまだスリ集団の頭領を務めていた。当時三十歳だった父など、足元にも及ばない腕の持ち主と評価されていたという。
その孫に対し、後の後継者となるべく行われていた教えだ。生半可な方法では済まされない。常に空気はピンと張りつめていた。それが山塚の街を創業した家の一つに数えられる、樋口家の使命だったからだろう。
祖父がスリ師となったのは、当時の時代背景が関係している。それが犯罪集団を築き上げ、山塚と呼ばれる街へと発展した成り立ちに繋がっていた。
戦争中だった日本は、それまで二十歳以上だった徴兵検査を一九四三年に十九歳、四四年には十七歳へと切り下げた。一九二六年生まれの肇は、そうした法改正の影響により十八歳の時、徴兵検査を受けると直ぐに赤紙が来て軍隊へと召集されたらしい。
だが幸いにもその翌年の夏には終戦を迎え、どうにか生きて故郷へ戻ってこられた。しかし実家周辺の惨状を見て、呆然としたという。見渡す限り焼け野原で、家族を失い食べる物にも窮している孤児達が街に溢れていたからだ。
また中には生きる為に止む無く人の物を盗み、飢えをしのぐ者達も大勢いた。
「これからどうやって、俺達は生きて行けというんだ」
当時は怪我などを負わずに生きて帰ってきた退役軍人に対する世間の目は冷たかった。しかも国からの恩給なども廃止されていたのである。
国としても一九四七年には、戦争で家族を失った子の保護の為に児童福祉法を制定する等、一応の対策は取っていた。だがとても十分とは言えなかったようだ。
児童福祉の幕開けは、戦争の犠牲になった児童への緊急保護と、施設収容業務が主だったからだろう。当時戦争が生み出した戦争孤児は、十二万三千人とも言われている。
その中には貧困による栄養失調や親等を失ったからか、精神疾患を負った者も大勢いた。もちろんまともな教育を受けられる環境ではなかった為、知恵遅れや言葉の遅れを生み出し、基本的生活習慣の欠如をもたらしたのだ。
また運動不足や身体的、社会性の遅れが、落ち着きのなさや集中力の欠如、極度の甘えを誘発し、情緒の不安定さを増していく。その為孤立し、人間関係を作る力を欠落させたらしい。
けれど児童福祉法の施行によって起こったのは、街に溢れだした子供を多く掴まえようとする、いわゆる浮浪児狩りだった。その後は粗末な建物の中に収容し、隔離するのみだったという。
風呂も無く、隙間風が吹き寒い冬でも夏服一枚で過ごさせ、狭い部屋で何十人も寝起きする生活だったらしい。職員もまたそんな中で共に暮らし、自らの手で新しい家づくりを始めた人達もいたようだ。
しかし施設では毎日テストを行い、精神薄弱か否かを分類し鑑別するだけだったと聞いている。人権など全く無視され、浮浪児を一時保護して一刻も早く一般正常児等に劣らない良い子にしてやろうなどとは、誰も考えていなかったようだ。
そんな事情から、当然福祉の手から逃げる者もいた。その為か、一部地域では治安が悪化していたようだ。当時は戦争に取られたまま戻らず、農家では男手が足りなくなっていた。そこで食料を調達しようとする者達の手で、田畑などが良く荒らされていたという。
実際一九五三年には、少年非行第一次ピークと呼ばれる現象が起こっていた。子供の生活や教育、文化や福祉、健康の全てに渡って、児童憲章の精神が踏みにじられた反動だったとも言えるだろう。
この年にようやく恩給制度が復活したが、祖父達のような短期しか勤めていない旧軍人には支給されていない。その為国に対する不満は、さらに募ったようだ。
「折角悲惨な戦争を生き延びた同士の、大事な命だ。決して粗末にしてはいけない。そうした悲劇の連鎖を食い止めよう」
そうした想いから、祖父達は立ち上がった。有志を募り、助け合う集団を作り上げようと試みたのである。
世間では他にもそうした動きが、一部で起こっていたらしい。親や教師、研究者を始めとする市民団体や文化団体、労働組合等により、幅広く子供の人権と平和を守る国民運動が始まっていた。
しかしようやく親を探す運動が起こったのは、戦後から十年も経った一九五六年である。それは貧困の中での非行、問題児童について「短期間で治療し、家庭に返す」を目的にしていた。
その実情は、短期治療施設の設置や非行対策専任職員の配置を提唱されただけに止まっていたようだ。子供の心や境遇に寄り添ったものだとは、到底言えなかったという。
しかも児童収容施設づくりは、この頃にほぼピークを迎えたと言われている。つまりそれ以上増やさなかったことを意味した。
このようなお粗末な状況を見て、祖父達が国には頼れないと諦めたのも理解できる。だからこそ後に山塚と名付けられた集団は、自らの力で生活しようと試行錯誤し始めたのだ。
もちろん生きる為には食料や、雨風や寒さをしのぐ住居が不可欠である。特に子供達の健康状態を維持する為、十分な量やスペースを確保しなければならない。そこでまず焼け野原となった一角を陣取り、かき集めた木材等で長屋を建てたという。
さらに必要な食料を調達する為、止む無くお金や現物を盗むようになったそうだ。しかしそれだけでは、単なる犯罪者達が集まる街に過ぎなくなる。そこで祖父達は児童達に対する教育の場や、将来に備えた職業訓練等を行った。
中には貧困による栄養失調や、劣悪な環境が影響したのだろう。今でいう知的障害や統合失調症を患っている子供も少なくなかった。街ではそうした者に対する介護やリハビリなどにも取り組んでいたという。加えて様々な規律を作った。
「決して、他人を傷つけてはいけない。街では、住民達同士の助け合いを原則とする。困っている者、特に子供であれば住民でなくとも保護をし、仲間に入るよう促せ」
「犯罪に関してもできる限り、同じ貧しい境遇の者からは盗むな。できるだけ余裕がありそうな家から奪え」
こうした決まりが、創立当初から出来上がっていたと聞いている。様々な取り組みを経て、祖父達は罪を犯しているとの自覚を持ちつつ、人間としてギリギリの矜持を保ちながら生き続けることを選んだ。それが山塚という街の成り立ちであった。
仲間はあっという間に百人を超えたらしい。最も大きかった頃は、窃盗集団が十数以上あったという。実働部隊だけでも二百人以上いたそうだ。その家族も含めると、街の住民は千人を超えていたと想像できる。
だが令和の時代となった現在は、主な集団が六つにまで減った。住民も二百人余りと、全盛期に比べればかなり規模は小さい。時代の流れと共に、街の形態が変化した事も要因の一つだ。また大きくなり過ぎた為、分裂等が起こった結果でもあった。
というのも集団を形成し街を作り始めた頃は、盗みも生きる為に必要最小限に留めていた。しかし時代が高度成長期に入ると世間では裕福な人達が徐々に増えだし、以前のような極貧状態の家庭が少なくなった。
そうなると、自分達も豊かになりたいと考える者が増えていく。また街が拡大し人数が増加する過程で、統率が取り辛くなった点も影響したのだろう。設立当初の掟の徹底が困難になったのだ。
さらに暴力的な略奪を禁止していた街の規則に、反発する者も出始めた。力でねじ伏せる行為を良しとしなかった創業家達の考えに背く者達が、少なからず現れたのである。
食うに困らない程度の盗みしか許されず、また儲けは分かち合うとの考えが窮屈に感じられたのであろう。病気や怪我、または警察に捕まり稼げなくなった人の家族を、街全体で養う決め事に異議を唱える人達も出てきた。
平気で人を傷つけ、窃盗の標的に対して手段を選ばず、貧しかろうが根こそぎ奪う危険な集団も現れた。愚連隊、さらには暴力団と呼ばれた連中だ。
元々「暴力団」という名称は、警察が名付け第二次大戦後にマスコミを通し、一般でも認知されるようになったものだ。また戦後に物資が不足したことで、闇市が栄えた。その為露店を本職としていた的屋系団体が、特に勢力を増し始めていたという。
社会の荒廃により治安も極めて悪く、愚連隊などの不良集団から暴力団が誕生することもあった。そんな中、非暴力的な窃盗集団として山塚の街が誕生したのだ。
街の秩序が保たれないと危惧した創業者達は、そうした他の連中とは距離を置くと決めた。その為街は、度々分裂を起こしていったのである。
もちろん出て行った集団と、対立するケースもあったらしい。縄張り争い等で、抗争に発展したこともあったようだ。それでも祖父達は、出来る限り争いを避けてきたという。
「街は戦争によって犠牲となった、子供達を救う目的で設立されたのだ。それなのに再び人が殺し合えば、さらに不幸な者を増やしてしまう。それは絶対に避けなければならない」
そう主張し、時には自分達が撤退または別の暴力団の力を借り、仲裁して貰ったらしい。できるだけ穏便に、問題を解決する方法を模索していたからだろう。
場合によっては暴力団からあぶれて貧困に喘ぐ者達や、その子供達を街の住民として受け入れる等して貸しを作ったりしたようだ。そうやって街は、今日まで生き延びられたのである。
ちなみに山塚と呼ばれる街は、実在の地名ではない。現実には仲間内から逮捕者が出て警察の家宅捜索を受けたり、抗争が起こったりする度に転々と移り住んできた。その為同じ土地に留まることができなかったからだ。
今は小綺麗な住宅地の隙間の、まだこんな古い家があるのかと驚かれるような場所に各々が住んでいる。だから特にまとまってはいない。それどころか今や区や市、都県をまたいで分散していた。
つまり街と言っても、集団を立ち上げた頃にあった古い地名を、そのまま名残として使っているだけだ。しかし創設から七十年以上経った今でも、時代の流れと共に形態を変えながら存続してきた。
それどころか今や伝説と化し、街の出身だと聞けば盗人仲間の中では、一種のステータスになっている一面もあった程だ。そんな中でも、祖父を初代とする樋口家の集団は街の中心を担いつつ、主にスリを専門とする多くの仲間を長らく率いてきた。
樋口家に限らず、一度罪を犯してその旨味を知った者が足を洗うのは、そう容易くない。堅気になろうとして街を出ても学の無い点等が影響し、周囲と馴染めず舞い戻ってくる人達は多くいた。
またしくじって警察に捕まり、刑務所へ入ってしまった者もいる。そいつに家族がいれば、養い手を失うことで路頭に迷ってしまう。街が無ければ、生きていけないあぶれ者は後を絶たなかった。
そうした人々が存在する限り、祖父を筆頭とする創設者達は、更なる強固な街づくりを目指すしかなかったのだろう。彼らはまず、食べる事と子供達への教育だけは欠かさない、との指針を守り続けた。
頭領を中心とする実働部隊達の稼ぎを吐き出してでも、貧しい者達に分け与える習慣は止めなかったらしい。何故なら経済的な貧困はもちろん、情報の貧困も連鎖するとの考えがあったからだという。
そうした原則に基づき、街の子供達は働きながらも、必ず学校へは通うよう指導されていた。時代が進むと共に、余程の事情がない限り最低でも高校は卒業させられた。
しかも大学へ進学できるものがいれば、街全体で支援する体制も整えられた。現に忠雄や徹は大卒だ。これは今でも徹底されている。
例え知的障害等があっても、そうした児童の面倒を見る専門の施設や人材を、街では育成したり確保したりするようになった。さらに図書館等の本をできるだけ読むようにと、徹も幼い頃から言われ続けていた記憶がある。
実際街の住民達が出入りする各所に、様々な書籍が揃えられていた。本屋からの万引きはご法度、という規則まであった程だ。そうした様々な取り組みにより、残った人間達はより結束を固めていったのである。
このような長年の功績もあり、樋口家は街の中で一目置かれる存在となった。その後継者である徹の父も肇から鍛え上げられ、若い頃からスリ集団の幹部として成長していった。
ちなみに集団の頭領の名は、必ずしも戸籍上の名と同じでない。樋口家は代々その息子や孫が後を継いできた。しかし子供がいない等の理由で、別の者が引き継ぐ集団もあったからだ。
それでも設立当初の名残から、各々の集団には屋号が付いていた。例えば空き巣を専門とする集団の頭領は大畑、自動車盗等を専門とする集団は三根といった具合だ。それぞれ初代頭領の名が引き継がれている。
その中で徹は樋口家の血筋を受け、幼い頃からスリの英才教育を受けて来た。そうした経緯もあり、徹はまだ五歳だというのに祖父の監視の元で、父から厳しい特訓を直接受ける日々を過ごしていたのである。
徹の母もまた、スリをする際の見張りや受け渡し役などをしていたからだろう。我が子が腕を真っ赤に腫らしていても、黙って見ているような人だった。
そうした成果が実を結んだのか、徹も後にスリ師の頭領として認められるようになった。だがそれまでは、嫌で嫌でしょうがなかった。常に偉大な祖父と比較されながら集団を束ねる難しさも、うんざりするほど味わってきたからだ。
父だって似た気持ちを持っていたに違いない。そうした日頃のストレスが溜まった結果、発散する先が性欲や金銭欲へと向かわせたのだろうと、今になっては理解できる。
父に代替わりしてからも、金を必要以上に貯める行為など祖父の目が黒い内には考えられなかった。何故なら常に集団の頭領は、従う仲間達を不自由なく食べさせなければならない、との使命を持っていたからだ。
祖父が全盛期の頃は、最もその傾向が強かったという。稼いだお金のほとんどを、街や仲間の為に使っていたといって良いだろう。よって頭領という名の名誉はあっても、徹達はある時期まで決して裕福な暮らしをしていなかったのだ。
それでも武士は食わねど高楊枝を地でいく生活は、続けねばならなかった。時にはお金に窮し、別の集団の頭領からお金を借りてしのいでいた頃もあったようだ。
当然他の集団の頭領から、借金を頼まれる場合もあったという。まさしく相互扶助の精神により、街は維持されてきたのだ。そうした暮らしは、父の代の途中まで続いていた。
というのも日本全体が裕福になりだした頃には、昔程食うに困る仲間は少なくなったからだ。また街全体の規模が、一時期に比べれば縮小したからだろう。おかげで祖父が頭領だった時代よりは、樋口家の生活も少しずつ楽になっていた。
徹は幼心にそうした暮らしに不満を抱き、疑問を持っていた。自分は我慢しているのに、仲間の子供の方が玩具だったり高価な物を身に付けたりしていたから余計だろう。
他の集団の頭領の息子や後を引き継いだ者達も、似たような思いをしていたと聞く。その反動もあったに違いない。バブルが既に崩壊し、祖父が亡くなった平成十年頃には、街の構造が大きく変わったのである。
例えば頭領だからと、街に支出する金を多く出さなければならない体系がまず変わった。負担を分散させる方法や新たな資産形成を試み、相互補助の仕組みを作り直したのだ。
一例をあげると、まず住民達の手にした儲けが、街の中で循環するシステムを構築した。その一つとして、人々が暮らす部屋の確保を街で行うようになった。
かつてはある一定の地域にまとまって生活していた仲間達も、今では転々と住処を移動するケースが当たり前になった。時代の変化と共に、警察等から監視され始めたからだ。
そこに目を付けたのが不動産の取得である。つまり街で蓄積したお金を使い、各地に格安の土地、建物を見つけては買い取った。そこに仲間達を住まわせ、賃料を取るようにしたのだ。
他にもいくつかの対策を取ったことで、住民達の生活はやがてかつてほど酷い貧困に喘ぐものは少なくなり、中には裕福な生活を送れる者も増えていった。
それでも窃盗等の犯罪を繰り返さざるをえなかったのは、貧困の連鎖から抜け出せない者達が絶えずいたからである。特に多かったのが、母子家庭や父子家庭だ。
様々な事情で生活の安定しない者達が一定数生れる環境は外の社会でも同じであり、仕方がないのかもしれない。そうした住民達の稼ぎを確保する為、集団は盗みを働き続けた。
もちろん街の運営費用も馬鹿にならない。実働部隊に入れない者達、例えば障害を持った者や病気にかかった者の雇用の維持や生活費を確保するのに、人件費や設備投資費用等の店舗維持費が必要となるからだ。
そうした環境も影響したのだろう。大家であり集団の頭領、または幹部の地位を利用する者が現れたのだ。支援する代わりとして、逆らえない女達等に手を出す状況が自然とできてしまったのである。
今回街で起こった連続殺人事件は、そんな背景が起こしたと言っても過言では無い。しかも殺された人物達全員が、掟破りの非道行為を行っていた。それは住民の多くが知るところとなった。
事件の真相の一端を垣間見えたからか、街には動揺が走った。当然だ。街の成り立ちを全否定する卑劣な所業をしていたとはいえ、街の住民を仲間が殺したとなれば話は大きく変わってくる。
しかもその犯人が、街の創業家の一つである樋口家から出たかもしれないとの噂は、想像以上の衝撃を与えた。罪を犯している同志にとって、結束する唯一の拠り所は信頼だ。その根底が崩れたからだろう。
住民達は同じ穴の狢で、傷を舐め合うように結びついてきた。警察はもちろん、自分達を取り巻く社会全体に敵意を持ち、生活基盤を支えてきたのだ。
しかしここにきて、さすがに限界を迎えたと思われる。元々の成り立ちから七十年以上の時間を経ていながらも、形を変えながら存続してきたのは間違いない。
だが実態は少しずつ、綻びが生じていたのも事実なのだ。やはりその始まりは、三十五年前に起こった事件だったのかもしれない。街の崩壊は既にあの頃から始まっていた。徹はそう思わざるを得なかった。
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