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問題発覚
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佐知子はまた焦っていた。年始に打ち合わせをした後、何度呼び出しを受けたことか。その中で今回一番気が重かった。覚悟はしていたが書斎に入った途端、大声で怒鳴られてしまった。
「馬鹿者! いつまで時間をかけている! さっさと山を売らせろ! 久子や正明達は一体何をやっている! お前もお前だ。なぜあいつ等を上手く使いこなせない!」
「申し訳ございません。しかし良く判らないのです。つい先日までは忠雄さんも山の売却の判を今にも押さんばかりでしたが、急に待ってくれと言いだして何度督促してもはぐらかされるばかりなのです」
「あの小娘の件で脅しても効かないのか。まだ引き籠っているのだろう」
「美樹のことは何度も言っています。最初はそれが効いて売却を決心したようです。もちろん一さんや実へも役所から圧力をかけていますが、あの二人も最近は暖簾に腕押しで、なんとかしますとだけ言って前に進みません。美代さんなんて、美樹や実達の話で脅したりすかしたりしても、私にはどうにもできませんと取りつく島も無いのです。以前は山を売らなきゃ迷惑がかかると賛同してくれていたのに、ですよ」
「何がどうなっている? 若竹の定岡に聞いても、忠雄やその周辺で何か特別な動きがあったとの情報はない。だが経産省の遠藤から売却はまだかと、遠まわしに督促してくる始末だ。あの野郎、特区の件が済んだら遠隔地へ飛ばしてやる」
「私の力不足です。大変申し訳ございません」
佐知子が素直に非を認め低身低頭に徹していたからか、怒りを吐きだしたからか、父は大きなため息をつきながらソファに深く坐り直し、落ち着きを取り戻して冷静に話だした。
「幸いなのは特区の認定が井畑に決定したことだ。本当ならば直ぐにでも大々的に発表したかったがしょうがない。それに計画自体は裏で進めることを承知させた。だから特区の認定証を発行するにあたり、事前にすべき契約だけは先に済ませることにしたんだ」
「さすがはお父様です」
「その為に今日は遠藤や国交省の担当者達が来る。自治体からはM県知事と井畑の猪野山市長、後に関わる電力会社や工事会社も含めた複数の関係者一堂の顔が揃う。各々がそれぞれの利益に関係する契約書を持ってくる。畠家雅臣の家に集って目の前で判を押させ、計画は私の力無くして勝手に進めることは許されないとの暗黙の了解ができる大事な会だ。お前も気を引き締めて立ち会え」
「はい。今日は田口家から私だけが代表として出席させていただけるのも、畠家一族だからと肝に命じております」
「そうだ。本来なら田口家は山を取得した契約書を持って、ここに来させるはずだったが」
「申し訳ございません」
「まあいい。だが引き続き久子達から忠雄に対する督促は続けさせろ。今日の会合が終わるまででも判を押させられれば、まだお前の面子は保たれる。だがそうでなければこの失態は、今後私の跡を継ぐ際の汚点になることは覚悟しておけ。いいな」
「もちろんその覚悟です。今日私がここに来なければならなかった分、茂や久子にも忠雄さんが今日中にも判を押すよう、再度全力を尽くして説得するように伝えてきました。判が押され次第すぐこちらに連絡がくるでしょう」
「期待せず待つとしよう。今日のメインは特区の認定に関する契約書の締結だ。それさえ終われば、後は前に進むしかなくなる。世間には決して表に出せない契約を、複数の関係者の目の前で結ぶのだ。つまり何かあれば一蓮托生、決して裏切りは許されない決意表明でもある。大事な一日だ」
「そろそろ皆が揃う頃でしょうか。広間に集まってもらっているのですね」
「私達も顔を出すとしよう。集合は十時半、十二時までには締結を終わらせ、その後はこちらで用意する食事を振る舞い、三時までには解散という段取りだ」
「十一時十分前です。行きましょうか」
二人で広間へと向かった。何度か角を曲がった後長く続く廊下を歩き、部屋に近づくにつれ、ざわざわと人の声が聞こえる。既に集まった人達が挨拶を交わしているのだろう。
佐知子が先に立ち、広間に入る扉の一つを開けた。部屋に入った瞬間ざわつきがピタリと止み、ピリッとした空気が流れる。後父の姿が皆の視線に入ったのだろう。
だがすぐにまた各々が一斉に口を開き、一段と騒ぎが大きくなった。
「畠家先生、お待ちしておりました」
「先生、ご無沙汰しております」
「先生、この度は大変お世話になります」
ざっと見渡したところ、十数人程度は集まっていた。広間には上座とは別に、長テーブルが用意され四つ島ができている。それぞれに四人ずつ座れるよう座布団が用意され、ゆったりとした広さが確保されていた。前に顔合わせした遠藤以外は、初対面かテレビで見かけたことのある会社の社長や政治家だ。
「先生のお嬢様でございますか。初めまして」
父への挨拶を終えた何人かが佐知子の元へもやってきた。その度に頭を下げ、相手の差し出す名刺を受取る。佐知子から渡すものは何もない。もちろん父も自分の名刺は持っていなかった。厳密にいえば、二人ともそれなりの肩書をつけた名刺は存在するが、フィクサーとして動く場合、名刺を相手に渡すことなどしない。あくまで裏方仕事だからだ。
「それではみなさん、一度席に着きましょう」
遠藤が場を仕切り出した。役職と父との距離の近さも関係するのだろうが、五十手前の彼でもここに集まっている人達から見れば明らかに若い。それでも経産省の官僚の立場で先頭に立っている。国が推進している計画との印象を与える為にも、今回の進行役を任せたようだ。
父と佐知子は横にされた長テーブルが置かれている上座の席に着いた。
「それでは皆さま、全員お揃いですね」
遠藤は場を見渡した後、上座に座った父に目で知らせる。父が頷く。佐知子は隣に座り部屋全体を見渡した。そこで末席の隅に聡の姿が目に入った。正月に見た時と同じ眼鏡をかけ、スーツまで着こみぼんやりと座っている人達を眺めている。
聡がいることを知らされていなかった為に驚き、遠藤が計画について説明している間、小声で尋ねた。
「聡がいるようですけど、何故ここにあの子が?」
「後学の為に少し同席してもいいかというから、邪魔にならないよう静かにするならと特別に私が許可した。あいつも東大の二次試験が終わり、後は発表待ちだ。少しくらい構わないだろう」
確かに今は肩慣らしに受けた私立の受験も終え、本命の東大前期試験も発表待ちの段階だ。高校の卒業式も終えたが、まだ万が一の為の後期がある。その為何故か気になった。
これまでは父から寵愛されていることをいいことに勝手気ままに動いているだけかと思っていたが、今回ははっきり後学の為と断りを得ている。ただでさえ今日の佐知子は、父の次の後継者として堂々と胸を張れる立場では無い。
先程遠藤が見せた態度からして、それが端緒に現れていた。周りいた関係者達が挨拶に来ている中、父に挨拶し終えた彼は佐知子に対して軽く会釈しただけだ。司会進行役があり、そのことで頭が一杯だったのかもしれないが、山の売却手続きを進められない佐知子を軽く見ているとも解釈できる。
もしかして父は今回の件で自分を見限り、予定を早めて聡への後継者教育に着手し始めたのかもしれない。そう考えると居ても立ってもいられなくなった。
まだ遠藤からの説明が続いている。この広間で行われる契約は多岐に渡って複雑だ。電力会社や鉄道会社のように経産省と国交省の両方と契約をする企業もあれば、一方の省と契約する場合もある。そこに県や市といった自治体とだけ契約締結する企業もあれば、企業同士で締結するケースもあるだろう。
その段取りをスムーズに進める交通整理役も彼の役目だ。実際動き出すにはもう少し時間がかかる。それまで父や佐知子の出番は無い。そう見越して父に断りをいれ、席を立って廊下に出た。売却の手続きを確認するためだ。
電話のコール音がしばらく鳴ってやっと相手が出た。
「久子? 私です。土地の件はどうなった? 今、あなたどこにいて何をしているの?」
自分が追い詰められている分、義妹に対する口調が厳しくなる。だが彼女は震えた声で恐ろしいことを言い出したのだ。
「は、はい、佐知子義姉さん。そ、それがお義母さんと茂義兄さんと広とで朝から父に話をしていたのです。それではっきりしない態度のままトイレに行くと席を立った後、いなくなってしまいました。今、井畑中をみんなで手分けして探し回っているところです。私は和多津のミカン畑を探していますけど、見当たりません」
「なんですって! 探しなさい! 何としても今日中に契約させるのよ!」
「そ、そうは言っても印鑑を持ったままいなくなったので、気が変って押さないつもりじゃないかって。こっちが強引に進めるから嫌気がさしたのかもと皆が言い出しています」
「誰がそんなこと言っているの!」
「茂義兄さんと広です。私とお義母さんはそんな事ないと叱って、喧嘩になっちゃうし」
「そんな話、後でしなさい! 今は探し出すのが先よ。見つけたらこのままでは美樹がどうなってもいいのか、一さんや実がどうなってもいいのかとしっかり脅してやりなさい。これ以上ごねるなら、田口家は今後一切和多津家と縁を切ると宣言していいから。そうなれば、井畑中を敵に回すことになると教えてやりなさい。そうなれば和多津家のミカンなんかどこへも出荷させられないからってね。今だって田口家経由でしか流通できないように圧力をかけているから、そこまで言えば忠雄さんだって判るでしょ」
「そ、そんな、田口家と縁を切るって私の口からは、」
「あんたはもう和多津家の人間じゃないの。田口家の嫁よ。あなた、もしかして畠家の父の顔に泥を塗るつもり? そうなったら田口家こそ井畑で生きていけなくなるわよ。そうなったらあなたの居場所なんてどこにも無くなるから。分かっているの」
「わ、分かりました。なんとか探して、印を押させます」
「じゃあ切るわよ。判を押させたらすぐに連絡を入れるのよ!」
久代との会話を終えるとすぐに茂と広にも電話をかけ、同様の口調で叱り飛ばした。最後にお義母さんには、
「これが最後です。今日契約が成立しないなら、私が田口家から出ていくことも覚悟して下さい。それがどういうことを意味するかは、お判りですよね」
と伝え、電話を切った。広間に戻ると説明が終わったのか、各々の代表者が各テーブルに書類を持って並び始めており、契約を取り交わす準備を始めていた。
席に着いた佐知子に、父は視線を前に向けたまま低い声で尋ねた。
「どうだ、あっちの方は」
席を離れたのは、土地の件についてだと察していたようだ。平静を装い、同じく視線を前に向けたまま小声で答えた。
「ただいま取りかかっている最中だそうです」
それを聞いた父は鼻で笑った。
「ふん、間に合えばいいが」
何もかも見透かされていると感じ、ハンカチを取り出して何気ない素振りで首の周りに湧きだした冷や汗をそっと拭った。
各テーブルで確認事項を話し合い、合意した企業から契約書に目を通しサインと捺印をし始める。するとそれまでじっと座っていた父がおもむろに立ちあがり、それぞれの席に近づいて行く。佐知子もその後に続いた。
父は時折契約書を覗きこんだり、一つ手続きを済ませた相手に一声かけたりしてテーブルを回る。相手は父に何度か頭を下げながら、また次の契約を結ぶために別のテーブルへと移っていく。ここに集まった関係者の結ぶ契約は一つや二つでは無いので、一つ終わればまた次に、そして順番待ちで後ろに並んだりする為忙しく移動していた。
遠藤も司会の役目を終え、自ら席に座り次々とやってくる関係者との契約に目を通しながらサインしている。その隣には国交省の役員が座り、同じように忙しくしていた。この二人のテーブルに集まる関係者が一番多いためか、列ができている。
次に混雑しているのは、県知事とその隣に座る猪野山市長のテーブルだ。その周りには、利権を得ようと集まったハイエナ達が取り囲んでいた。
この中でゆったりとしていられるのは、父と佐知子だけだ。ただ無事に契約が進む様子を眺め、一つ契約を結び終えた人に頭を下げられ、それに応じる。その繰り返しだった。
だが会話をしたり手を差し出したりする父と違い、佐知子は後ろでお礼に応じて頭を下げるばかりだ。次があるために忙しいから、ということもあるが誰も佐知子には声をかけず、握手しようとはしない。
その格差を見せつけられ父の偉大さを感じると同時に、惨めな思いを味わった。山の売却手続きが済んでいれば、彼らの態度は変わっていたに違いない。自分はこんな思いをすることも無かったのではと考えるだけで、無性に腹立たしく悔しさが湧いてくる。
各々の島を何度も回っていると、父に声をかけた人達の視線が時折佐知子の後ろに向けられ、時には軽く会釈している者もいることに違和感を持った。自分の目線を飛ばし、背後に向けられる視線の先を探すために振り向く。
するといつの間にか聡がそこに立っていたため驚いた。まるでわざと気配を隠してそこにいたのかと思うほど、静かに会釈を返していたのだ。思わず問い質した。
「そこで何やっているの?」
しかし彼は無視するように答えず、会釈してくる相手に黙礼で返し、契約している様子をじっと見ている。
「だから、聡、」
息子の腕を掴もうとした時、父が振り向いてその答えを教えてくれた。
「私が許可したと言っただろ。後ろについて挨拶していいかと聞かれたから、佐知子の後ろで黙って頭だけ下げているようにと指示した。お前も黙ってついてくればいい」
その言葉に一瞬頭にカッと血が昇ったが、こんな場所で反抗する訳にもいかない。だが心中穏やかでは無かった。父は重要な契約書の取り交わしが行われ、主要な人物が集まるこの場所に聡を同席させ面通しをさせることで、後継者であることを暗に伝えているとしか思えなかったからだ。
佐知子がこのような場所で、父の側に立つのは今回が初めてである。そんな自分がこの場で聡と同列、いやそれ以下に扱われるなど余りにも屈辱的だ。怒りで顔が熱くなったが必死に感情を抑え、なんとか無表情を保つことができた。
「分かりました」
素直に頭を下げたため、父は前を向き直して次々と応対していた。その度に頭を下げる。後ろでは聡もついて来て、同様な対応をしている気配だけが感じられた。そうしている間に久子か茂から、和多津家の山を手に入れたという連絡がこないかと願う。そうすればここで大きく立場は逆転でき、目の前で父のいいなりになっている愚か者達を見返すことができる。
しかしその想いは届かず、連絡がないまま広間での契約が滞りなく終了した。音の鳴らないスマホを取り出して溜息をつきながら時間を見ると、予定の十二時を少し回っていた。
「それでは皆様、それぞれのお席にお戻りください」
大仕事を終えた遠藤が、やや疲れた表情を見せながらも満足げな顔でその場を再び仕切り出した。皆が席に戻って坐り始め、父と佐知子も上座の席に着く。再度部屋全体を見渡した。
父が司会を始めた遠藤を見ている間、末席に戻っているはずの聡の姿を探したが見当たらない。もう一度一つ一つ席を眺め、どこかに紛れて座っていないかを確認するが、どこにもいなかった。そこで上機嫌な表情で隣に座っている父に耳打ちした。
「聡の姿が見当たりませんが」
すると父は眉間にしわを寄せ、吐き捨てるように呟いた。
「一通り見学も終わって部屋を出て行ったのだろう。今はあいつのことなどどうでもいい。お前が気にすることは別にあるだろう」
そう言われたため、直ぐに立ち上がって席を外そうとしたが、父の手で制された。
「後にしろ。これからそれぞれに昼食が配膳される。食事が始まったらお前は各席に酌をしながら挨拶をする仕事が残っているだろう。連絡は他のやつにさせる」
父はそう告げると、この後の段取りを説明し終わり席に戻ろうとしている遠藤を手招きした。その間に母や兄嫁によって用意されていたお膳が、臨時に雇い入れたコンパニオンの女性達の手によって広間に運び込まれ始めた。
一斉の乾杯はせず、各々食事を取りながら一時の休息を楽しんでくれと先ほど彼が伝えていたが、ここぞとばかりに各所で宴会が始まり、各所で女性達の嬌声と男達の下品な笑い声が耳に届く。父は佐知子にコンパニオン達と同様の仕事をしろと命じたのだと思い知り愕然とした。
こういう場に母や兄、兄嫁が出てくることはまず無い。まして雅文や仁美などは完全にノータッチだ。もちろん今日は平日の昼間だから、兄や雅文は仕事で家にはいない。しかし母や兄嫁、そしてまだ大学生である仁美等の手は空いているはずだ。
仁美など見た目からすれば、下手なコンパニオンよりもずっと美人で見栄えがする。しかもかなり重要な契約が行われ、著名な人物達が一堂に揃う場所に、外部の人間を出入りさせるのはセキュリティ上いかがなものか。
父に言わせれば事前調査をして身元確認を済ませた人物しか雇い入れていないそうだが、今日のような時は身内だけで済ませればいいのに、と思う。それでも父は頑として、母も含めた兄嫁達を重要な場に関わらせないのは、明らかに自分の仕事と家庭を区別しているとも言える。
しかし佐知子から言わせれば、父はここにいない身内を信用していないとしか思えなかった。そう考えればまだこの場にいられる自分はマシなのかもしれない。
父に呼ばれた遠藤は、耳打ちされた内容に頷いて部屋を出て行った。佐知子以外、ほとんど面識の無い田口家の誰かに直接連絡するとは思えない。今日は来ていないが、以前紹介された定岡にでも連絡し、和多津家と田口家の現在における監視状況でも報告させるつもりなのだろう。
まずい。姿をくらましたという忠雄は見つかっただろうか。契約の話は少しでも進んでいるだろうか。万が一、まだ行方を捜していると分かれば、父の怒りはいかほどばかりになるか。想像しただけで血の気が引く思いがした。
彼が報告の為席へと戻ってくる前に父から遠ざかっていた方が良いと思い、配られたビール瓶を手に持って、まずは国交省の役人の席へと近づいた。空いている遠藤の席とは反対側にまわって酒を勧める。
「一杯いかがですか?」
相手はまだこれから仕事がございますのでと断ったため、代わりにウーロン茶の瓶で彼のコップに注ぐ。皆が皆、昼間からお酒が飲める立場にない。特にお堅い役所関係者は、まず昼間から酒を口にすることはないだろう。
飲んでいるのは、利権を手に入れた民間企業の品の無い男達ばかりだ。それでも今後のキックバックを見込んで、それなりの接待をしておくに越したことはない。元は父が口を利いたことで得をする奴らだ。その相手がお世話になりましたと得た利益の一部を父に渡すのである。
本来ならこちらは接待される側だが、それでも事を円滑に進めるには、そんな輩でさえ相手にしなければならないことも承知していた。だが少しでもその屈辱的な時間から逃れるために、まずは無難なお役所関係を回っておこうと、次は隣のテーブルにいる県知事の席へ近づいた。
そんな時だ。突然外に出ていた遠藤が勢いよく扉を開けて、大きな声を出しながら父のところに駆け寄った。
「た、大変なことになりました!」
「なんだ、騒がしい。静かにしろ。皆さんが楽しんでおられるのだぞ」
どうせ山の売却にてこずっている報告だろうと高を括っていた父は、興奮している彼を宥めて横に座らせた。佐知子は上座から視線を逸らし、忠雄が失踪していることがばれたのだと思い、肩を震わせる。
これからどんな叱責が待ち受けているかと考えるだけで恐ろしい。上座でひそひそと父に耳打ちしている様子が視界の端で見てとれた。彼は驚く父に対し、大きなタブレット端末を取り出して、そこに映る画面を指差して説明している。
「な、なんだ、これは! あいつは何をやっている!」
父は大声で怒鳴り始め、それでも端末の画面から目が離せないでいた。その様子を見て、忠雄とは別件なのかと首を傾げる。するとそこかしこからスマホが鳴る呼び出し音が鳴り響いた。
それぞれが立ち上がって部屋の外に向かい、歩きながら携帯に出る。佐知子の隣にいた県知事にも連絡が入ったようで、失礼と一言告げて同じく席を立った。そんな不自然な様子を訝しんでいると、佐知子のスマホも静かに震えだす。
かかってきた相手は茂だ。契約が終わったのか、それとも忠雄が見つかっただけかと様々な思いが頭の中を渦巻きながらスマホを耳に当てた。
「茂さん? 和多津のお義父さんはどうなったの?」
部屋の中にいたほとんどの人間が外の廊下に出て行ってしまい、取り残されたコンパニオン数人と父と遠藤がいるだけの広間の中、小声で尋ねた。
「それどころじゃない。美樹がとんでもないことをやらかした!」
「美樹がどうしたって? あの子がどうして山と関係あるの?」
「ネットを見ろ。自分の告白だけでなく、自殺した生徒のことや街ぐるみで隠蔽した井畑や田口の家のことをネットの生中継で暴露していやがる!」
「なんですって!」
「それだけじゃない。今日、畠家の家で井畑計画に関わる契約を結んでいた様子までも配信されている。部屋にいた誰かが、集まった連中や契約の様子を盗み撮りして、流したらしい。これは大変なことになるぞ!」
「だ、誰かって誰よ! そんなことできる訳ないじゃない」
「実際に流れているんだ。見れば分かる。畠家のお義父さんやお前の顔もばっちり映っているから。経産省や国交省の役人や県知事や市長、電力会社や鉄道会社の役員達も、他にあの広間に集まった全員の顔がばれている。それだけじゃないぞ。それぞれの交わした契約の内容まで映っているものもあった。これが世界中に配信されている。もうお仕舞いだ。井畑計画自体が、世界中に広まってしまったからな」
「待って! それって、」
そこまで言って、上座にいる父達を見た。おそらく茂の言っている映像とやらを見ているのだとようやく理解した。さらにその映像を見たそれぞれの関係者達が、揃ってそこに映る人物達に電話をかけてきたのだろう。
携帯を耳に当てながら、ぐったりと頭を垂らしてタブレット端末に移る映像を眺めている遠藤と、憤慨しながらも画面から目を離せないでいる父の元に駆け寄る。その背後からタブレットを覗きこんだ。
茂の言う通り、先程まで繰り広げられていた契約の様子が流れている。映像の映る角度を見て、盗撮した犯人の正体はすぐに分かった。父も気づいただろう。画面を見続けているうちに、怒りのピークを越してたのか、力無い声で呟いた。
「何故だ。聡が何故こんなことを」
明らかに覗きこむ角度や、父や佐知子に歩み寄る関係者達の顔を捉えている画像は、後ろに控えていた聡から見た視線に間違いない。時折相手の会釈に合わせて画面が下を向く様子から、盗撮映像が何処に仕込まれていたかもすぐに推測できた。
「眼鏡です。聡がかけていた眼鏡に盗撮用のカメラが付いていたのでしょう」
佐知子の言葉に、父がはっとして顔を上げてこちらを向いた。
「あれは仁美が聡に渡したものだ! 仁美が聡を利用してこんな映像を撮ったのか!」
「聡? 仁美ちゃん? この映像を撮ったのが聡だというのか?」
携帯で茂との会話を続けたままだったため、父との会話が聞こえたのだろう。もう夫に用は無いと判断し、
「後でかけ直します」
とだけ言って電話切り、タブレット端末の映像を父と一緒に見続けた。画面は二分割されており、右側の画面で今日の広間のやり取りが流れている。左側には学園の体育館らしき場所で、美樹がマイクで喋っている様子が映っていた。
ご丁寧なことに彼女が話している言葉は音声だけなく、文字になって画面上を流れている。そのため音をオフにしていても、内容を理解できた。彼女は今まさしく、井畑計画のことを述べていたのだ。
「馬鹿者! いつまで時間をかけている! さっさと山を売らせろ! 久子や正明達は一体何をやっている! お前もお前だ。なぜあいつ等を上手く使いこなせない!」
「申し訳ございません。しかし良く判らないのです。つい先日までは忠雄さんも山の売却の判を今にも押さんばかりでしたが、急に待ってくれと言いだして何度督促してもはぐらかされるばかりなのです」
「あの小娘の件で脅しても効かないのか。まだ引き籠っているのだろう」
「美樹のことは何度も言っています。最初はそれが効いて売却を決心したようです。もちろん一さんや実へも役所から圧力をかけていますが、あの二人も最近は暖簾に腕押しで、なんとかしますとだけ言って前に進みません。美代さんなんて、美樹や実達の話で脅したりすかしたりしても、私にはどうにもできませんと取りつく島も無いのです。以前は山を売らなきゃ迷惑がかかると賛同してくれていたのに、ですよ」
「何がどうなっている? 若竹の定岡に聞いても、忠雄やその周辺で何か特別な動きがあったとの情報はない。だが経産省の遠藤から売却はまだかと、遠まわしに督促してくる始末だ。あの野郎、特区の件が済んだら遠隔地へ飛ばしてやる」
「私の力不足です。大変申し訳ございません」
佐知子が素直に非を認め低身低頭に徹していたからか、怒りを吐きだしたからか、父は大きなため息をつきながらソファに深く坐り直し、落ち着きを取り戻して冷静に話だした。
「幸いなのは特区の認定が井畑に決定したことだ。本当ならば直ぐにでも大々的に発表したかったがしょうがない。それに計画自体は裏で進めることを承知させた。だから特区の認定証を発行するにあたり、事前にすべき契約だけは先に済ませることにしたんだ」
「さすがはお父様です」
「その為に今日は遠藤や国交省の担当者達が来る。自治体からはM県知事と井畑の猪野山市長、後に関わる電力会社や工事会社も含めた複数の関係者一堂の顔が揃う。各々がそれぞれの利益に関係する契約書を持ってくる。畠家雅臣の家に集って目の前で判を押させ、計画は私の力無くして勝手に進めることは許されないとの暗黙の了解ができる大事な会だ。お前も気を引き締めて立ち会え」
「はい。今日は田口家から私だけが代表として出席させていただけるのも、畠家一族だからと肝に命じております」
「そうだ。本来なら田口家は山を取得した契約書を持って、ここに来させるはずだったが」
「申し訳ございません」
「まあいい。だが引き続き久子達から忠雄に対する督促は続けさせろ。今日の会合が終わるまででも判を押させられれば、まだお前の面子は保たれる。だがそうでなければこの失態は、今後私の跡を継ぐ際の汚点になることは覚悟しておけ。いいな」
「もちろんその覚悟です。今日私がここに来なければならなかった分、茂や久子にも忠雄さんが今日中にも判を押すよう、再度全力を尽くして説得するように伝えてきました。判が押され次第すぐこちらに連絡がくるでしょう」
「期待せず待つとしよう。今日のメインは特区の認定に関する契約書の締結だ。それさえ終われば、後は前に進むしかなくなる。世間には決して表に出せない契約を、複数の関係者の目の前で結ぶのだ。つまり何かあれば一蓮托生、決して裏切りは許されない決意表明でもある。大事な一日だ」
「そろそろ皆が揃う頃でしょうか。広間に集まってもらっているのですね」
「私達も顔を出すとしよう。集合は十時半、十二時までには締結を終わらせ、その後はこちらで用意する食事を振る舞い、三時までには解散という段取りだ」
「十一時十分前です。行きましょうか」
二人で広間へと向かった。何度か角を曲がった後長く続く廊下を歩き、部屋に近づくにつれ、ざわざわと人の声が聞こえる。既に集まった人達が挨拶を交わしているのだろう。
佐知子が先に立ち、広間に入る扉の一つを開けた。部屋に入った瞬間ざわつきがピタリと止み、ピリッとした空気が流れる。後父の姿が皆の視線に入ったのだろう。
だがすぐにまた各々が一斉に口を開き、一段と騒ぎが大きくなった。
「畠家先生、お待ちしておりました」
「先生、ご無沙汰しております」
「先生、この度は大変お世話になります」
ざっと見渡したところ、十数人程度は集まっていた。広間には上座とは別に、長テーブルが用意され四つ島ができている。それぞれに四人ずつ座れるよう座布団が用意され、ゆったりとした広さが確保されていた。前に顔合わせした遠藤以外は、初対面かテレビで見かけたことのある会社の社長や政治家だ。
「先生のお嬢様でございますか。初めまして」
父への挨拶を終えた何人かが佐知子の元へもやってきた。その度に頭を下げ、相手の差し出す名刺を受取る。佐知子から渡すものは何もない。もちろん父も自分の名刺は持っていなかった。厳密にいえば、二人ともそれなりの肩書をつけた名刺は存在するが、フィクサーとして動く場合、名刺を相手に渡すことなどしない。あくまで裏方仕事だからだ。
「それではみなさん、一度席に着きましょう」
遠藤が場を仕切り出した。役職と父との距離の近さも関係するのだろうが、五十手前の彼でもここに集まっている人達から見れば明らかに若い。それでも経産省の官僚の立場で先頭に立っている。国が推進している計画との印象を与える為にも、今回の進行役を任せたようだ。
父と佐知子は横にされた長テーブルが置かれている上座の席に着いた。
「それでは皆さま、全員お揃いですね」
遠藤は場を見渡した後、上座に座った父に目で知らせる。父が頷く。佐知子は隣に座り部屋全体を見渡した。そこで末席の隅に聡の姿が目に入った。正月に見た時と同じ眼鏡をかけ、スーツまで着こみぼんやりと座っている人達を眺めている。
聡がいることを知らされていなかった為に驚き、遠藤が計画について説明している間、小声で尋ねた。
「聡がいるようですけど、何故ここにあの子が?」
「後学の為に少し同席してもいいかというから、邪魔にならないよう静かにするならと特別に私が許可した。あいつも東大の二次試験が終わり、後は発表待ちだ。少しくらい構わないだろう」
確かに今は肩慣らしに受けた私立の受験も終え、本命の東大前期試験も発表待ちの段階だ。高校の卒業式も終えたが、まだ万が一の為の後期がある。その為何故か気になった。
これまでは父から寵愛されていることをいいことに勝手気ままに動いているだけかと思っていたが、今回ははっきり後学の為と断りを得ている。ただでさえ今日の佐知子は、父の次の後継者として堂々と胸を張れる立場では無い。
先程遠藤が見せた態度からして、それが端緒に現れていた。周りいた関係者達が挨拶に来ている中、父に挨拶し終えた彼は佐知子に対して軽く会釈しただけだ。司会進行役があり、そのことで頭が一杯だったのかもしれないが、山の売却手続きを進められない佐知子を軽く見ているとも解釈できる。
もしかして父は今回の件で自分を見限り、予定を早めて聡への後継者教育に着手し始めたのかもしれない。そう考えると居ても立ってもいられなくなった。
まだ遠藤からの説明が続いている。この広間で行われる契約は多岐に渡って複雑だ。電力会社や鉄道会社のように経産省と国交省の両方と契約をする企業もあれば、一方の省と契約する場合もある。そこに県や市といった自治体とだけ契約締結する企業もあれば、企業同士で締結するケースもあるだろう。
その段取りをスムーズに進める交通整理役も彼の役目だ。実際動き出すにはもう少し時間がかかる。それまで父や佐知子の出番は無い。そう見越して父に断りをいれ、席を立って廊下に出た。売却の手続きを確認するためだ。
電話のコール音がしばらく鳴ってやっと相手が出た。
「久子? 私です。土地の件はどうなった? 今、あなたどこにいて何をしているの?」
自分が追い詰められている分、義妹に対する口調が厳しくなる。だが彼女は震えた声で恐ろしいことを言い出したのだ。
「は、はい、佐知子義姉さん。そ、それがお義母さんと茂義兄さんと広とで朝から父に話をしていたのです。それではっきりしない態度のままトイレに行くと席を立った後、いなくなってしまいました。今、井畑中をみんなで手分けして探し回っているところです。私は和多津のミカン畑を探していますけど、見当たりません」
「なんですって! 探しなさい! 何としても今日中に契約させるのよ!」
「そ、そうは言っても印鑑を持ったままいなくなったので、気が変って押さないつもりじゃないかって。こっちが強引に進めるから嫌気がさしたのかもと皆が言い出しています」
「誰がそんなこと言っているの!」
「茂義兄さんと広です。私とお義母さんはそんな事ないと叱って、喧嘩になっちゃうし」
「そんな話、後でしなさい! 今は探し出すのが先よ。見つけたらこのままでは美樹がどうなってもいいのか、一さんや実がどうなってもいいのかとしっかり脅してやりなさい。これ以上ごねるなら、田口家は今後一切和多津家と縁を切ると宣言していいから。そうなれば、井畑中を敵に回すことになると教えてやりなさい。そうなれば和多津家のミカンなんかどこへも出荷させられないからってね。今だって田口家経由でしか流通できないように圧力をかけているから、そこまで言えば忠雄さんだって判るでしょ」
「そ、そんな、田口家と縁を切るって私の口からは、」
「あんたはもう和多津家の人間じゃないの。田口家の嫁よ。あなた、もしかして畠家の父の顔に泥を塗るつもり? そうなったら田口家こそ井畑で生きていけなくなるわよ。そうなったらあなたの居場所なんてどこにも無くなるから。分かっているの」
「わ、分かりました。なんとか探して、印を押させます」
「じゃあ切るわよ。判を押させたらすぐに連絡を入れるのよ!」
久代との会話を終えるとすぐに茂と広にも電話をかけ、同様の口調で叱り飛ばした。最後にお義母さんには、
「これが最後です。今日契約が成立しないなら、私が田口家から出ていくことも覚悟して下さい。それがどういうことを意味するかは、お判りですよね」
と伝え、電話を切った。広間に戻ると説明が終わったのか、各々の代表者が各テーブルに書類を持って並び始めており、契約を取り交わす準備を始めていた。
席に着いた佐知子に、父は視線を前に向けたまま低い声で尋ねた。
「どうだ、あっちの方は」
席を離れたのは、土地の件についてだと察していたようだ。平静を装い、同じく視線を前に向けたまま小声で答えた。
「ただいま取りかかっている最中だそうです」
それを聞いた父は鼻で笑った。
「ふん、間に合えばいいが」
何もかも見透かされていると感じ、ハンカチを取り出して何気ない素振りで首の周りに湧きだした冷や汗をそっと拭った。
各テーブルで確認事項を話し合い、合意した企業から契約書に目を通しサインと捺印をし始める。するとそれまでじっと座っていた父がおもむろに立ちあがり、それぞれの席に近づいて行く。佐知子もその後に続いた。
父は時折契約書を覗きこんだり、一つ手続きを済ませた相手に一声かけたりしてテーブルを回る。相手は父に何度か頭を下げながら、また次の契約を結ぶために別のテーブルへと移っていく。ここに集まった関係者の結ぶ契約は一つや二つでは無いので、一つ終わればまた次に、そして順番待ちで後ろに並んだりする為忙しく移動していた。
遠藤も司会の役目を終え、自ら席に座り次々とやってくる関係者との契約に目を通しながらサインしている。その隣には国交省の役員が座り、同じように忙しくしていた。この二人のテーブルに集まる関係者が一番多いためか、列ができている。
次に混雑しているのは、県知事とその隣に座る猪野山市長のテーブルだ。その周りには、利権を得ようと集まったハイエナ達が取り囲んでいた。
この中でゆったりとしていられるのは、父と佐知子だけだ。ただ無事に契約が進む様子を眺め、一つ契約を結び終えた人に頭を下げられ、それに応じる。その繰り返しだった。
だが会話をしたり手を差し出したりする父と違い、佐知子は後ろでお礼に応じて頭を下げるばかりだ。次があるために忙しいから、ということもあるが誰も佐知子には声をかけず、握手しようとはしない。
その格差を見せつけられ父の偉大さを感じると同時に、惨めな思いを味わった。山の売却手続きが済んでいれば、彼らの態度は変わっていたに違いない。自分はこんな思いをすることも無かったのではと考えるだけで、無性に腹立たしく悔しさが湧いてくる。
各々の島を何度も回っていると、父に声をかけた人達の視線が時折佐知子の後ろに向けられ、時には軽く会釈している者もいることに違和感を持った。自分の目線を飛ばし、背後に向けられる視線の先を探すために振り向く。
するといつの間にか聡がそこに立っていたため驚いた。まるでわざと気配を隠してそこにいたのかと思うほど、静かに会釈を返していたのだ。思わず問い質した。
「そこで何やっているの?」
しかし彼は無視するように答えず、会釈してくる相手に黙礼で返し、契約している様子をじっと見ている。
「だから、聡、」
息子の腕を掴もうとした時、父が振り向いてその答えを教えてくれた。
「私が許可したと言っただろ。後ろについて挨拶していいかと聞かれたから、佐知子の後ろで黙って頭だけ下げているようにと指示した。お前も黙ってついてくればいい」
その言葉に一瞬頭にカッと血が昇ったが、こんな場所で反抗する訳にもいかない。だが心中穏やかでは無かった。父は重要な契約書の取り交わしが行われ、主要な人物が集まるこの場所に聡を同席させ面通しをさせることで、後継者であることを暗に伝えているとしか思えなかったからだ。
佐知子がこのような場所で、父の側に立つのは今回が初めてである。そんな自分がこの場で聡と同列、いやそれ以下に扱われるなど余りにも屈辱的だ。怒りで顔が熱くなったが必死に感情を抑え、なんとか無表情を保つことができた。
「分かりました」
素直に頭を下げたため、父は前を向き直して次々と応対していた。その度に頭を下げる。後ろでは聡もついて来て、同様な対応をしている気配だけが感じられた。そうしている間に久子か茂から、和多津家の山を手に入れたという連絡がこないかと願う。そうすればここで大きく立場は逆転でき、目の前で父のいいなりになっている愚か者達を見返すことができる。
しかしその想いは届かず、連絡がないまま広間での契約が滞りなく終了した。音の鳴らないスマホを取り出して溜息をつきながら時間を見ると、予定の十二時を少し回っていた。
「それでは皆様、それぞれのお席にお戻りください」
大仕事を終えた遠藤が、やや疲れた表情を見せながらも満足げな顔でその場を再び仕切り出した。皆が席に戻って坐り始め、父と佐知子も上座の席に着く。再度部屋全体を見渡した。
父が司会を始めた遠藤を見ている間、末席に戻っているはずの聡の姿を探したが見当たらない。もう一度一つ一つ席を眺め、どこかに紛れて座っていないかを確認するが、どこにもいなかった。そこで上機嫌な表情で隣に座っている父に耳打ちした。
「聡の姿が見当たりませんが」
すると父は眉間にしわを寄せ、吐き捨てるように呟いた。
「一通り見学も終わって部屋を出て行ったのだろう。今はあいつのことなどどうでもいい。お前が気にすることは別にあるだろう」
そう言われたため、直ぐに立ち上がって席を外そうとしたが、父の手で制された。
「後にしろ。これからそれぞれに昼食が配膳される。食事が始まったらお前は各席に酌をしながら挨拶をする仕事が残っているだろう。連絡は他のやつにさせる」
父はそう告げると、この後の段取りを説明し終わり席に戻ろうとしている遠藤を手招きした。その間に母や兄嫁によって用意されていたお膳が、臨時に雇い入れたコンパニオンの女性達の手によって広間に運び込まれ始めた。
一斉の乾杯はせず、各々食事を取りながら一時の休息を楽しんでくれと先ほど彼が伝えていたが、ここぞとばかりに各所で宴会が始まり、各所で女性達の嬌声と男達の下品な笑い声が耳に届く。父は佐知子にコンパニオン達と同様の仕事をしろと命じたのだと思い知り愕然とした。
こういう場に母や兄、兄嫁が出てくることはまず無い。まして雅文や仁美などは完全にノータッチだ。もちろん今日は平日の昼間だから、兄や雅文は仕事で家にはいない。しかし母や兄嫁、そしてまだ大学生である仁美等の手は空いているはずだ。
仁美など見た目からすれば、下手なコンパニオンよりもずっと美人で見栄えがする。しかもかなり重要な契約が行われ、著名な人物達が一堂に揃う場所に、外部の人間を出入りさせるのはセキュリティ上いかがなものか。
父に言わせれば事前調査をして身元確認を済ませた人物しか雇い入れていないそうだが、今日のような時は身内だけで済ませればいいのに、と思う。それでも父は頑として、母も含めた兄嫁達を重要な場に関わらせないのは、明らかに自分の仕事と家庭を区別しているとも言える。
しかし佐知子から言わせれば、父はここにいない身内を信用していないとしか思えなかった。そう考えればまだこの場にいられる自分はマシなのかもしれない。
父に呼ばれた遠藤は、耳打ちされた内容に頷いて部屋を出て行った。佐知子以外、ほとんど面識の無い田口家の誰かに直接連絡するとは思えない。今日は来ていないが、以前紹介された定岡にでも連絡し、和多津家と田口家の現在における監視状況でも報告させるつもりなのだろう。
まずい。姿をくらましたという忠雄は見つかっただろうか。契約の話は少しでも進んでいるだろうか。万が一、まだ行方を捜していると分かれば、父の怒りはいかほどばかりになるか。想像しただけで血の気が引く思いがした。
彼が報告の為席へと戻ってくる前に父から遠ざかっていた方が良いと思い、配られたビール瓶を手に持って、まずは国交省の役人の席へと近づいた。空いている遠藤の席とは反対側にまわって酒を勧める。
「一杯いかがですか?」
相手はまだこれから仕事がございますのでと断ったため、代わりにウーロン茶の瓶で彼のコップに注ぐ。皆が皆、昼間からお酒が飲める立場にない。特にお堅い役所関係者は、まず昼間から酒を口にすることはないだろう。
飲んでいるのは、利権を手に入れた民間企業の品の無い男達ばかりだ。それでも今後のキックバックを見込んで、それなりの接待をしておくに越したことはない。元は父が口を利いたことで得をする奴らだ。その相手がお世話になりましたと得た利益の一部を父に渡すのである。
本来ならこちらは接待される側だが、それでも事を円滑に進めるには、そんな輩でさえ相手にしなければならないことも承知していた。だが少しでもその屈辱的な時間から逃れるために、まずは無難なお役所関係を回っておこうと、次は隣のテーブルにいる県知事の席へ近づいた。
そんな時だ。突然外に出ていた遠藤が勢いよく扉を開けて、大きな声を出しながら父のところに駆け寄った。
「た、大変なことになりました!」
「なんだ、騒がしい。静かにしろ。皆さんが楽しんでおられるのだぞ」
どうせ山の売却にてこずっている報告だろうと高を括っていた父は、興奮している彼を宥めて横に座らせた。佐知子は上座から視線を逸らし、忠雄が失踪していることがばれたのだと思い、肩を震わせる。
これからどんな叱責が待ち受けているかと考えるだけで恐ろしい。上座でひそひそと父に耳打ちしている様子が視界の端で見てとれた。彼は驚く父に対し、大きなタブレット端末を取り出して、そこに映る画面を指差して説明している。
「な、なんだ、これは! あいつは何をやっている!」
父は大声で怒鳴り始め、それでも端末の画面から目が離せないでいた。その様子を見て、忠雄とは別件なのかと首を傾げる。するとそこかしこからスマホが鳴る呼び出し音が鳴り響いた。
それぞれが立ち上がって部屋の外に向かい、歩きながら携帯に出る。佐知子の隣にいた県知事にも連絡が入ったようで、失礼と一言告げて同じく席を立った。そんな不自然な様子を訝しんでいると、佐知子のスマホも静かに震えだす。
かかってきた相手は茂だ。契約が終わったのか、それとも忠雄が見つかっただけかと様々な思いが頭の中を渦巻きながらスマホを耳に当てた。
「茂さん? 和多津のお義父さんはどうなったの?」
部屋の中にいたほとんどの人間が外の廊下に出て行ってしまい、取り残されたコンパニオン数人と父と遠藤がいるだけの広間の中、小声で尋ねた。
「それどころじゃない。美樹がとんでもないことをやらかした!」
「美樹がどうしたって? あの子がどうして山と関係あるの?」
「ネットを見ろ。自分の告白だけでなく、自殺した生徒のことや街ぐるみで隠蔽した井畑や田口の家のことをネットの生中継で暴露していやがる!」
「なんですって!」
「それだけじゃない。今日、畠家の家で井畑計画に関わる契約を結んでいた様子までも配信されている。部屋にいた誰かが、集まった連中や契約の様子を盗み撮りして、流したらしい。これは大変なことになるぞ!」
「だ、誰かって誰よ! そんなことできる訳ないじゃない」
「実際に流れているんだ。見れば分かる。畠家のお義父さんやお前の顔もばっちり映っているから。経産省や国交省の役人や県知事や市長、電力会社や鉄道会社の役員達も、他にあの広間に集まった全員の顔がばれている。それだけじゃないぞ。それぞれの交わした契約の内容まで映っているものもあった。これが世界中に配信されている。もうお仕舞いだ。井畑計画自体が、世界中に広まってしまったからな」
「待って! それって、」
そこまで言って、上座にいる父達を見た。おそらく茂の言っている映像とやらを見ているのだとようやく理解した。さらにその映像を見たそれぞれの関係者達が、揃ってそこに映る人物達に電話をかけてきたのだろう。
携帯を耳に当てながら、ぐったりと頭を垂らしてタブレット端末に移る映像を眺めている遠藤と、憤慨しながらも画面から目を離せないでいる父の元に駆け寄る。その背後からタブレットを覗きこんだ。
茂の言う通り、先程まで繰り広げられていた契約の様子が流れている。映像の映る角度を見て、盗撮した犯人の正体はすぐに分かった。父も気づいただろう。画面を見続けているうちに、怒りのピークを越してたのか、力無い声で呟いた。
「何故だ。聡が何故こんなことを」
明らかに覗きこむ角度や、父や佐知子に歩み寄る関係者達の顔を捉えている画像は、後ろに控えていた聡から見た視線に間違いない。時折相手の会釈に合わせて画面が下を向く様子から、盗撮映像が何処に仕込まれていたかもすぐに推測できた。
「眼鏡です。聡がかけていた眼鏡に盗撮用のカメラが付いていたのでしょう」
佐知子の言葉に、父がはっとして顔を上げてこちらを向いた。
「あれは仁美が聡に渡したものだ! 仁美が聡を利用してこんな映像を撮ったのか!」
「聡? 仁美ちゃん? この映像を撮ったのが聡だというのか?」
携帯で茂との会話を続けたままだったため、父との会話が聞こえたのだろう。もう夫に用は無いと判断し、
「後でかけ直します」
とだけ言って電話切り、タブレット端末の映像を父と一緒に見続けた。画面は二分割されており、右側の画面で今日の広間のやり取りが流れている。左側には学園の体育館らしき場所で、美樹がマイクで喋っている様子が映っていた。
ご丁寧なことに彼女が話している言葉は音声だけなく、文字になって画面上を流れている。そのため音をオフにしていても、内容を理解できた。彼女は今まさしく、井畑計画のことを述べていたのだ。
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