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第八章~②
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「はい。私も最初は驚きました。以前勤めていた時は、相当辛かったと聞いていましたから。それでも時代が少しずつ変わり、会社側の仕事環境も改善されていたようです。また以前はまだ若かったけれど、年齢を重ねたことで彼女も精神的に強くなっていたのでしょう。仕事は大変だけど昔ほど酷くないし、何とかやっていける自信が付いたと言っていました」
「そんな奥さんの様子が変わったのは、いつからですか?」
「去年の六月を過ぎた頃です。後で分かったことですが、彼女の働いている名古屋ビルの同じフロアに、以前勤めていた部署で一緒だった久我埼という人が異動してくると、人事異動発表で知ったからだと思います。急に落ち着かなくなり、何かをぼんやり考えている事が多くなりました。会社へ行きたくないとも言い出したのです」
「それは、どうしてだと思いますか」
「今となれば、昔の事を思い出したからでしょう。それまで隠し通し、記憶の中から消し去っていたことが蘇ったからだと思います。特に酷くなったのは、年末にさしかかった頃でした。私は例年通り忙しい時期だから、苛々しているのだと思っていました」
「しかしそうでは無く、久我埼が逮捕された為だった。そうですね」
「はい。これも彼女が告白してくれて、判った事です。それ以前に久我埼という人の上司が過去に三人も不幸な目に遭っていて、本当にただの事故や病気だったのかを調べ始めている人達がいたからだとも聞きました。彼女は十年前に私が罹ったデングウィルスを使って、かつての上司を殺したことがバレないかと心配したのでしょう」
「そして久我埼が、三箇という人物に対する殺人未遂で逮捕された。そこで十五年前に起こした事故も意図的に起こした事故だと自白しましたが、十年前と六年前に上司が変わった件には関わっていないと主張した。それが奥様の自殺に繋がった、とお考えですか」
「そうとしか思えません。警察も彼女を疑い出し、実際当時の事情を何度も聞きにこられていたでしょう。刑事さん達は、私の所にもこうして度々呼び出したり、訪問したりしてきたじゃないですか。彼女はもう隠せないと思い、会社を辞めた上で私に過去の過ちについて話してくれたのです。それを聞いた私は恐ろしくなり、自首を勧めました」
「その時奥様は、何と言ったのです?」
「少し考えさせて欲しい、と。そう言った次の日に、彼女はベランダから飛び降りたのです」
「しかし、遺書はありませんでしたね」
「発作的なものだったのではないでしょうか。自首しようかどうか、思い悩んでの結果だったと私は思います」
「これは繰り返しになりますが、その時間あなたは丁度会社から帰宅したばかりだったと言っていました。間違いありませんか」
「はい。私が部屋に入り、ただいまと言った後の事です。彼女からの返事がなく、不審に思っていたら窓の開く音がしました。こんな冬の時期に妙だと思ってリビングに行くと、ベランダに面した窓が開けっ放しでした。そこで嫌な予感がして外に出ましたが、誰もいないので身を乗り出し、マンションの下を覗いたのです。そうしたら、真下に人の倒れている姿が見えました。まさかと思いましたが、暗くて彼女かどうかも判りません。ですからしばらくは、部屋の中に彼女がいないかと探しました。しかしどこにも姿がなかったので、コートを着て恐る恐る下まで降り外に出ました。すると彼女と思われる服を着た女性が頭から血を流して倒れていたので、救急車を呼んだのです」
「いつ奥様だと分かったのですか?」
「救急車が到着してからです。それまで近くに寄る勇気が無く、まだ彼女だとは確信できませんでした。しかし救急隊の方にご存知の方ですかと聞かれ、自分の妻かもしれないと答えたところ、確認して欲しいと言われました。怖かったのですが、彼らに付き添われて近づき顔を覗くと、彼女だと分かりました。その時既に亡くなっていると教えられたのです。また警察が来るまで、待つように言われました」
その後駆け付けた警察が、ベランダから飛び降りての自殺ではないかと見たようだ。冬の夜の寒い時にベランダに出る用事などまず無いことから、事故である可能性は薄いとされた。
しかし同時に外へ出ている人もいなかったので、彼女の飛び降りる瞬間を見ていた目撃者も見つからないという。
その為警察では、第一発見者の夫が突き落したとも疑っていたようだが、その証拠はまだ見つかっていないらしい。争ったり抵抗したりした様子も無かったようだ。
隆による証言により、自殺に追い込んだのは警察による取り調べや過去に犯した罪の意識だけではなく、過去の件を調べ出した英美達がきっかけだったとの噂は、たちまち社内に広がった。
退職した時でさえ、相当非難を受けたのだ。それが自殺までされたとなれば、会社として黙っておけなくなったのだろう。英美と浦里は、この四月に別の部署へと異動になるだろうと告げられた。
英美は事務職であり、転居を伴わない異動対象者だ。その為名古屋ビルからは、間違いなく出される。他なら豊田支社か春日部支社へと移ることになるだろう。他に一宮支社があったけれど、異動理由が理由だけに、そこは外されるだろうと思われた。
しかし浦里の場合、全国どこに行くか分からない。今回の騒ぎの責任を問われ、地方の小さな支社へ飛ばされる可能性も十分にあった。幸い古瀬に関しては、七恵の退職や自殺に影響はなかっただろうと判断され、口頭注意処分で済んだ。
問題だったのは、三箇が責任とって退職すると言い出した事だった。そこで顧客との飲み会があり都合のつかなかった古瀬を除き、英美と浦里は居酒屋の個室に三箇を呼び出し、必死に止めた。
しかし彼は首を振り、頑として聞かなかった。それどころか英美達に対し、土下座までして謝ったのだ。
「本当に申し訳ない。俺が調査協力を頼んだから、こんなことになった。いくら謝っても、取り返しがつかない事をしたと思っている。だから俺は責任を取り、辞めるしかないんだ」
「何を言っているんだ。手伝うと言ったのは俺達だ。嫌だったら、何もしないこともできた。調べたのは俺達の意思だよ」
浦里の言葉に、英美も頷いて言った。
「そうよ。私だって三箇さんが美島支社長の死に納得がいかなくて、警察を辞めてまでこの会社に来た執念が理解できたから、協力したの。だからあなただけの責任じゃないよ。それに四人で協力したからこそ、ただの病死では無かったことが判ったんじゃない。久我埼さんが人を殺した事のある目をしていたという三箇さんの勘も、当たっていた事が証明されたでしょ。私達がしたことは、悪いことじゃない。ただ真実を明らかにしようとしただけよ」
しかし三箇は、項垂れたまま言った。
「真実を明らかにすれば、全てが許されるわけじゃない。今回の件で、俺はそう痛感した。悲しい犠牲を伴う可能性やその覚悟も、考慮しなければいけなかったんだ。感情のままに動いていたからだろう。そこまで考えが及ばなかったのは、俺の責任だ」
「それは俺も同じだ。でも後悔はしていない。三箇さんが思い悩み、長年一人で苦しんでいた事を知って放っておくことはできなかった。だから調査に協力したんだ」
「私もそう。一課に来て四年や五年経つ私達なら、遅かれ早かれ異動になっていたでしょう。だから今回の事がきっかけにはなったかもしれないけど、三箇さんだけが責任を感じる必要なんかないって」
浦里と共に散々説得したが、彼は決して受け入れようとはしなかった。そこで英美達は自分達の力で駄目なら、上司から説得して貰おうとSC課の牛久を訪ねた。
しかし次席の井野口と共に、彼らは同じことを言ったのだ。
「今回の件で三箇が責任を感じ、会社を辞めると言うのは止むを得ないだろう。実際死者も出ている。他の社員もしょうがないと思っているようだ。そうした雰囲気の中で、これまでと同じように働き続けるのは難しいと思う」
「それは余りに冷たくないですか。せめて違う職場に異動させることはできませんか」
今いる同じ名古屋ビル内で居づらいのであれば、英美と同じように県内の離れた部署へ移ることもできるはずだ。しかし彼らはその意見を真っ向から否定した。
「調査に協力した廻間さんと三箇とは違う。あいつがこの会社にやってきた目的は、過去の事件を明らかにすることだったんだろ? だったらもうここにいる必要はないだろう」
「それは違います。過去の件を清算することで、この会社の社員としてやり直せると、私達は信じています。彼を手伝ったのはその為でもありました」
「例えそうだとして他の部署へ移っても、噂はついて回る。彼を見る目はそう変わらないはずだ。なにせ十年前に自分の恩人を殺した犯人を突き止めようとし、社員一人を死に至らしめた。周りはそんな奴をどう見る? 自分の敵だと思う者に対しては、社員だろうと容赦せず、しつこく付きまとうタイプの人間だと思うだろう。そんな人間と一緒に働きたいと誰が考える?」
これには浦里と同じく、英美も咄嗟に反論することが出来なかった。言葉に詰まる二人に対しても、非難の目が向けられた。
「これは君達にも言えることだぞ。三箇に頼まれて調査していたとはいえ、結果的には彼と同じ共犯者と思われても仕方がない。私達は損害保険会社の社員だ。警察や刑事ではない。聞くところによると君達のいるフロアでは、他にもいくつか事件が起こったようだね。それらを解決していい気になっていたようだが、勘違いしないで欲しい。やるべき仕事は他にあるだろう。他人の事を気にする前に、その事を良く考えた方が良い」
結局三箇は三月末をもって退職することが決まった。本当はもう少し早く辞めようと思っていたらしい。だが三月上旬に四月一日の人事異動が発表される為、英美達の異動先を確認し、三月末まで働く姿を見届けてから自分も辞めようと考えたようだ。
しかしその後、事態は意外な形で動いた。本人は否定していたけれど、警察は当初美島を殺したのは、七恵だと疑っていたらしい。だが立件できるほどの証拠がない為、被疑者死亡のまま送検しようと考えていたという。
ところが途中から夫の隆の証言に、違和感を持ち始めたらしい。そこで徹底的に捜査した所、七恵は自殺ではなく突き落とされたとの証拠を掴み、彼を逮捕したというのだ。
そうなると、十年前の事件の犯人が七恵ではなかった可能性も出てくる。そこで再捜査をし始めたようだ。その中で隆から新たな自供を引き出した。
当初隆は、七恵の意図を知らずにデングウィルスが付着している唾液を渡したと証言していた。だが実際に主導していたのは、彼の方だったという。
「美島という男が悪いんだ。七恵はあいつのせいで、かなり追い込まれていた。当時の彼女は相談する人や弱音を吐く人もいなかったのか、一人で溜め込んでいたんだろう。しかしどうせ辞める会社だと思っていたところ、それを美島に止められた。その上パワハラに加えてセクハラもエスカレートしていた矢先に、俺がデング熱に掛かり入院してしまったんだ。そこでもし俺の身に何かあったらと考え、このまま会社を辞められなくなるかもしれないと考えた事もあったらしい。そうなれば美島との関係も続く。俺の病状と会社の悩みで苦しんだ彼女は体調に異変をきたし、時折会社を休むようになった。しかしそれは余計に、周りから反感を買ったようだ。俺の病気が感染症という特殊な事情から、婚約者が入院しているなんて言えなかったからだろう。しばらくしたら結婚して辞める予定だというのに、仕事を休むなんてと他の事務員から非難されたらしい。そこでさらに社内で孤立し、悩んでいると彼女から聞いたんだ」
幸い隆の症状はピークを越えて命に別状がないと判った頃、彼女との面会も許されるようになった。その時彼は彼女が置かれている現状を初めて知り、そして激怒した。すぐにでも会社を辞めさせようと考えたけれど、それでは憎しみの感情が治まらない。
そこで復讐の手立てとして、自分が苦しんだ同じ思いを味合わせようと考えた。デング熱に罹った際、高熱に苦しみ吐き気も催した。そして何度も咳き込み過ぎたのか、喉から血が出た時もある。
その際に拭き取ったティッシュなどの一部を、看護師達が回収し忘れていたらしい。それが残っていた事を、思い出したのだという。
菌が入っているだろうそれを密封できる袋に入れたものが、ベッドの下から出て来た時、隆は後で看護師に渡そうと持っていた。
しかしこれは使えると考えた。そこで隆は退院後、すぐにお見舞い等で頂いたお菓子の中の一つに綿棒を使って菌を塗り付け、それを美島の机に置いておけ、と七恵に告げた。もちろん他の無害なお菓子も併せて、他の人の机に配って置くよう指示したそうだ。
以前から七恵の会社では、課の人間だけでなく他部署も含めて多くの人がお土産などを買ってきて、各社員に配る習慣があることを聞いていた。
それを利用して机に色々な菓子と混ぜて置いておけば、いずれ口にするだろうと思いついたという。それに美島は食いしん坊なのかせっかちなのか、机上に置かれたものはすぐ口に入れて片付けてしまう性格だとも耳にしていたようだ。
それならばデングウィルス入りの菓子も、間違いなく食べるだろう。そうすれば、少なくともデング熱に罹って高熱で苦しむに違いない。
しかも自分同様、最近夏季休暇を使って東南アジアに旅行へ出かけたことも知っていた。そこでもし彼が発症して入院しても、旅行先で感染したと思われるはずだと踏んでいたらしい。
結果その通りに菓子を食べた美島は、デング熱に罹った。しかし誤算だったのは入院するほど症状が悪化する前に、ウィルスが体内深く入り込んだ影響で急性心不全を起こし、自宅で死亡したことだ。
これにはさすがに驚いたが、もう取り返しはつかない。後は隆がデング熱に罹って入院していた事を絶対に誰にも話さない様、七恵に口止めをした。さらに菓子を食べさせようとしたことも、黙っているように言い聞かせたそうだ。
そこでようやく隆が目論んでいた事の重大さを、彼女も理解したらしい。ただ美島が目の前から消えていなくなった事は彼女にとっても嬉しい誤算だったため、彼の言うことを聞いたという。
ただ彼女が言うには、隆から受け取った菓子を美島に食べさせようとしたが、いつの間にか紛失してしまったらしい。けれど結局は偶然にも、誰かがそれを美島の机に置いたのだろう。彼はそれを口にして亡くなったと喜んでいたそうだ。
その為警察が動きだした時も、疑われるようなことは一切口にすることはなかったという。それほど厳しい事情聴取ではなかったにせよ、当時彼女が誤魔化しきれたのは罪の意識が全くなかったからのようだ。
美島という呪縛から解かれた開放感の方が強かったのだろう。隆も説明したがデングウィルスに感染したからといって、必ず死に至るとは限らないことを知ったことも、大きな要因だったらしい。
しかも急性心不全で亡くなることなど、確率としてはそれほど高くない。その為美島自身に運が無かっただけだと思い込むようにしていたようだ。それ以上に隆の行為が、七恵を地獄から救ってくれたと感謝する気持ちの方が強かったとも考えられる。
だがいざ結婚して時が経つにつれ、二人の関係は変わった。子供が産めないことを隆の両親達から責められ、不妊治療で苦しみ始めた。しかも挙句の果てに隆が精子形成障害だと判明した。
そこから二人の間は冷え込んだという。子供のできる可能性が低いと知った上で彼女と話し合った結果、彼女は働きに出ると言い出したらしい。
また子供を持つことだけでなく、専業主婦であり続けることを拒否した彼女とは徐々に距離ができた。当然のように夫婦間での性交渉も無くなったそうだ。
そんな隆はいつ離婚を切り出されるか、ずっと危惧していたという。愛情は冷めていたけれども、別れるつもりはなかったらしい。恐らく彼女もそうだったに違いない、と彼は言っていた。
しかし恐らく二人共世間体を気にして、仮面夫婦を続けていただけに過ぎなかったのだろう、と警察は見ていたようだ。そうした柴山夫妻の関係を大きく揺り動かしたのが、久我埼の出現だった。
しかも彼は大宮でも上司が事故に遭っており、死に神とあだ名を付けられた状態で、彼女と同じフロアに異動してきたのだ。
それまですっかり忘れていたはずだったけれど、十年前には持っていなかった罪の意識が、七恵の中で芽生えたらしい。やがて精神が不安定になり、三箇と美島が近しい関係だったことを知り、さらに英美達を加えて過去の事を調べ始めたと聞き、動揺したようだ。
その為働きに出てからほとんど口を利かなかった彼女が、隆に対し毎晩のように英美達の動きを話すようになったという。その度に隆は、黙っていれば絶対に分かることはないと言い聞かせ、宥めていたらしい。
だが久我埼が三箇を殺そうと事故を計画して実行し、逮捕されてからその手が使えなくなった。なぜなら警察が十年前の件も調べはじめ、彼女への事情聴取をし始めたからだ。
それだけではない。当時隆がデング熱に罹っていた事までバレており、そのことで夫婦揃って取り調べを受ける羽目になったのだ。 そこで全て嘘をつき続けるのは困難だと判断し、美島からパワハラやセクハラを受けていたことは正直に言うことにしたという。
しかも七恵の話によれば、結局作戦を実行できなかった事は本当なので、関与していないと証言し続ければ、罪に問われることは無いと二人で話合っていたそうだ。
しかしある時から彼女は会社に行きたくないと言い出し、隆に何の相談もなく退職までしてしまった。さらに何度も訪れ、または呼び出されて警察の聴取を受けることに耐え切れなくなった彼女は、本当の事を証言すると言い出した。
「私はあなたに言われるがまま、会社にウィルスとお菓子を持って行っただけよ。でも当日怖くなって、やっぱりできないとあなたにメールしたじゃない。でもあなたは、絶対にやれと脅してきた。そんな事をしている内に、いつの間にかウィルスを仕込んでいた菓子が無くなっていて、誰かが支社長の机の上に置いたのよ。私のせいじゃない。殺したのはあなたよ。もうこれ以上黙っていられない。私は警察に全てを告白する。第一、あなたのような人と付き合って、結婚までしたからこんなことになったのよ。もう別れましょう」
そう言ってきかない彼女に腹を立てた隆は、マンションから突き落として自殺に見せかけようと思い立った。そして寒空の中、流星群が見えるとベランダに呼び出し手すりに手を突いた所で、彼女が着ていたガウンの紐を掴み、すくい上げるように放り投げたという。
警察は地面に叩きつけられ亡くなった彼女のガウンから、わずかに残る隆の皮膚片を採取し、意図的に落としたのだろうと追及した。
もちろん夫婦間の着ている物から互いの皮膚片が残っていること自体、おかしなことではなかった。何かの拍子で付いたと言えばいい訳が立つ。
しかしウィルスの件も含め、彼女の意志だけで美島を懲らしめようとした話に矛盾点があった。感染病に罹った患者にそうたやすく接触できるはずはなく、隆の積極的な協力なくしてウィルスを持ち出すことなどできなかったはずだからだ。
警察はその点を追及し、自白を勝ち取った。隆もまた人を殺して平気でいられるほど、図太い神経は持ち合わせていなかったことが幸いしたのだろう。妻を殺したのもそれまで鬱積していた不満が爆発した挙句の行動であり、計画と言っても発作的なものだったらしい。今は本人も深く反省して、罪の意識を感じているようだ。
いずれにしても七恵の死は、三箇達が事件を調査し始めた事を苦にした自殺では無かったことが明らかになった。その為会社側も英美や浦里や三箇に対し、これまで非難した事を謝罪してくれたのだ。
しかし直接の原因ではなかったにしても、過去の事件を調べていた件が、間接的な要因になった事は否めない。よって人事異動については英美を除き、予定通り行うことだけは申し渡された。
その理由として、総合職と事務職の担当者が二人同時変更することに代理店側から困ると言った意見が出ていたからだという。よって英美だけは、取り敢えず今回残すことにしたらしい。
また支店長から、浦里の異動は元々懲罰的な意味ではなかった為、変更しないとの説明を受けた。さらに三箇の退職についても、本人が撤回しなかったので予定通り三月末までとされた。というのも、彼は彼なりに考えての結論だったことが分かった。
「美島さんの死の真相について謎はまだ少し残ったままだが、単なる病死で無いことが明らかになっただけで十分だ。それに久我埼が人を殺していたとの、俺の勘は間違っていなかった。おかげでこれから、新たなスタートを気持ちよく切ることができる」
三箇は会社を辞めた後、再び警察に入り直すことを決めていたらしい。だが愛知県警は三十歳までと年齢制限があるため、再び受験をして入ることはできないそうだ。他の警察においてもバラつきがあるものの、受験資格年齢は定めているという。
ただ今年三十三歳になる三箇が受けられる県警は、兵庫県警などごく限られてはいるがいくつかあるらしい。その為彼は受験できる全ての県警を受けると言い出し、名古屋を離れると決意していた。
英美は困惑した。浦里だけでなく三箇とも離れ離れになるのだ。古瀬を含めこの半年で結束が強まった四人だったが、今後集まる機会はそうないだろう。
冷蔵庫の中にあった飲食物が紛失した事件から始まり、社内の不倫関係も暴いた。さらに古瀬の客が飼っていたアライグマが逃げ出したことと、新たな紛失事件が結びついていたことも解決させた。
それらが三箇によるものだったとはいえ、おかげで古瀬が揉めていた契約の件は解決しただけでなく、意外な結末を迎え大きく増収したのだ。
そんな半年余りに起こったこれまでの事を、懐かしく思い出していた。しかし改めて頭の中で整理し始めている内にふとした疑問が浮かび、納得がいかない点がいくつか見つかった。
既に終わった事だから、昔の事に関わるのは止めようと一瞬頭を過る。だがもうこれで最後だと思い直した英美は、以前事情聴取を受けた際に刑事から渡された名刺を見ながら考えた。そしてある行動を取ったのだった。
「そんな奥さんの様子が変わったのは、いつからですか?」
「去年の六月を過ぎた頃です。後で分かったことですが、彼女の働いている名古屋ビルの同じフロアに、以前勤めていた部署で一緒だった久我埼という人が異動してくると、人事異動発表で知ったからだと思います。急に落ち着かなくなり、何かをぼんやり考えている事が多くなりました。会社へ行きたくないとも言い出したのです」
「それは、どうしてだと思いますか」
「今となれば、昔の事を思い出したからでしょう。それまで隠し通し、記憶の中から消し去っていたことが蘇ったからだと思います。特に酷くなったのは、年末にさしかかった頃でした。私は例年通り忙しい時期だから、苛々しているのだと思っていました」
「しかしそうでは無く、久我埼が逮捕された為だった。そうですね」
「はい。これも彼女が告白してくれて、判った事です。それ以前に久我埼という人の上司が過去に三人も不幸な目に遭っていて、本当にただの事故や病気だったのかを調べ始めている人達がいたからだとも聞きました。彼女は十年前に私が罹ったデングウィルスを使って、かつての上司を殺したことがバレないかと心配したのでしょう」
「そして久我埼が、三箇という人物に対する殺人未遂で逮捕された。そこで十五年前に起こした事故も意図的に起こした事故だと自白しましたが、十年前と六年前に上司が変わった件には関わっていないと主張した。それが奥様の自殺に繋がった、とお考えですか」
「そうとしか思えません。警察も彼女を疑い出し、実際当時の事情を何度も聞きにこられていたでしょう。刑事さん達は、私の所にもこうして度々呼び出したり、訪問したりしてきたじゃないですか。彼女はもう隠せないと思い、会社を辞めた上で私に過去の過ちについて話してくれたのです。それを聞いた私は恐ろしくなり、自首を勧めました」
「その時奥様は、何と言ったのです?」
「少し考えさせて欲しい、と。そう言った次の日に、彼女はベランダから飛び降りたのです」
「しかし、遺書はありませんでしたね」
「発作的なものだったのではないでしょうか。自首しようかどうか、思い悩んでの結果だったと私は思います」
「これは繰り返しになりますが、その時間あなたは丁度会社から帰宅したばかりだったと言っていました。間違いありませんか」
「はい。私が部屋に入り、ただいまと言った後の事です。彼女からの返事がなく、不審に思っていたら窓の開く音がしました。こんな冬の時期に妙だと思ってリビングに行くと、ベランダに面した窓が開けっ放しでした。そこで嫌な予感がして外に出ましたが、誰もいないので身を乗り出し、マンションの下を覗いたのです。そうしたら、真下に人の倒れている姿が見えました。まさかと思いましたが、暗くて彼女かどうかも判りません。ですからしばらくは、部屋の中に彼女がいないかと探しました。しかしどこにも姿がなかったので、コートを着て恐る恐る下まで降り外に出ました。すると彼女と思われる服を着た女性が頭から血を流して倒れていたので、救急車を呼んだのです」
「いつ奥様だと分かったのですか?」
「救急車が到着してからです。それまで近くに寄る勇気が無く、まだ彼女だとは確信できませんでした。しかし救急隊の方にご存知の方ですかと聞かれ、自分の妻かもしれないと答えたところ、確認して欲しいと言われました。怖かったのですが、彼らに付き添われて近づき顔を覗くと、彼女だと分かりました。その時既に亡くなっていると教えられたのです。また警察が来るまで、待つように言われました」
その後駆け付けた警察が、ベランダから飛び降りての自殺ではないかと見たようだ。冬の夜の寒い時にベランダに出る用事などまず無いことから、事故である可能性は薄いとされた。
しかし同時に外へ出ている人もいなかったので、彼女の飛び降りる瞬間を見ていた目撃者も見つからないという。
その為警察では、第一発見者の夫が突き落したとも疑っていたようだが、その証拠はまだ見つかっていないらしい。争ったり抵抗したりした様子も無かったようだ。
隆による証言により、自殺に追い込んだのは警察による取り調べや過去に犯した罪の意識だけではなく、過去の件を調べ出した英美達がきっかけだったとの噂は、たちまち社内に広がった。
退職した時でさえ、相当非難を受けたのだ。それが自殺までされたとなれば、会社として黙っておけなくなったのだろう。英美と浦里は、この四月に別の部署へと異動になるだろうと告げられた。
英美は事務職であり、転居を伴わない異動対象者だ。その為名古屋ビルからは、間違いなく出される。他なら豊田支社か春日部支社へと移ることになるだろう。他に一宮支社があったけれど、異動理由が理由だけに、そこは外されるだろうと思われた。
しかし浦里の場合、全国どこに行くか分からない。今回の騒ぎの責任を問われ、地方の小さな支社へ飛ばされる可能性も十分にあった。幸い古瀬に関しては、七恵の退職や自殺に影響はなかっただろうと判断され、口頭注意処分で済んだ。
問題だったのは、三箇が責任とって退職すると言い出した事だった。そこで顧客との飲み会があり都合のつかなかった古瀬を除き、英美と浦里は居酒屋の個室に三箇を呼び出し、必死に止めた。
しかし彼は首を振り、頑として聞かなかった。それどころか英美達に対し、土下座までして謝ったのだ。
「本当に申し訳ない。俺が調査協力を頼んだから、こんなことになった。いくら謝っても、取り返しがつかない事をしたと思っている。だから俺は責任を取り、辞めるしかないんだ」
「何を言っているんだ。手伝うと言ったのは俺達だ。嫌だったら、何もしないこともできた。調べたのは俺達の意思だよ」
浦里の言葉に、英美も頷いて言った。
「そうよ。私だって三箇さんが美島支社長の死に納得がいかなくて、警察を辞めてまでこの会社に来た執念が理解できたから、協力したの。だからあなただけの責任じゃないよ。それに四人で協力したからこそ、ただの病死では無かったことが判ったんじゃない。久我埼さんが人を殺した事のある目をしていたという三箇さんの勘も、当たっていた事が証明されたでしょ。私達がしたことは、悪いことじゃない。ただ真実を明らかにしようとしただけよ」
しかし三箇は、項垂れたまま言った。
「真実を明らかにすれば、全てが許されるわけじゃない。今回の件で、俺はそう痛感した。悲しい犠牲を伴う可能性やその覚悟も、考慮しなければいけなかったんだ。感情のままに動いていたからだろう。そこまで考えが及ばなかったのは、俺の責任だ」
「それは俺も同じだ。でも後悔はしていない。三箇さんが思い悩み、長年一人で苦しんでいた事を知って放っておくことはできなかった。だから調査に協力したんだ」
「私もそう。一課に来て四年や五年経つ私達なら、遅かれ早かれ異動になっていたでしょう。だから今回の事がきっかけにはなったかもしれないけど、三箇さんだけが責任を感じる必要なんかないって」
浦里と共に散々説得したが、彼は決して受け入れようとはしなかった。そこで英美達は自分達の力で駄目なら、上司から説得して貰おうとSC課の牛久を訪ねた。
しかし次席の井野口と共に、彼らは同じことを言ったのだ。
「今回の件で三箇が責任を感じ、会社を辞めると言うのは止むを得ないだろう。実際死者も出ている。他の社員もしょうがないと思っているようだ。そうした雰囲気の中で、これまでと同じように働き続けるのは難しいと思う」
「それは余りに冷たくないですか。せめて違う職場に異動させることはできませんか」
今いる同じ名古屋ビル内で居づらいのであれば、英美と同じように県内の離れた部署へ移ることもできるはずだ。しかし彼らはその意見を真っ向から否定した。
「調査に協力した廻間さんと三箇とは違う。あいつがこの会社にやってきた目的は、過去の事件を明らかにすることだったんだろ? だったらもうここにいる必要はないだろう」
「それは違います。過去の件を清算することで、この会社の社員としてやり直せると、私達は信じています。彼を手伝ったのはその為でもありました」
「例えそうだとして他の部署へ移っても、噂はついて回る。彼を見る目はそう変わらないはずだ。なにせ十年前に自分の恩人を殺した犯人を突き止めようとし、社員一人を死に至らしめた。周りはそんな奴をどう見る? 自分の敵だと思う者に対しては、社員だろうと容赦せず、しつこく付きまとうタイプの人間だと思うだろう。そんな人間と一緒に働きたいと誰が考える?」
これには浦里と同じく、英美も咄嗟に反論することが出来なかった。言葉に詰まる二人に対しても、非難の目が向けられた。
「これは君達にも言えることだぞ。三箇に頼まれて調査していたとはいえ、結果的には彼と同じ共犯者と思われても仕方がない。私達は損害保険会社の社員だ。警察や刑事ではない。聞くところによると君達のいるフロアでは、他にもいくつか事件が起こったようだね。それらを解決していい気になっていたようだが、勘違いしないで欲しい。やるべき仕事は他にあるだろう。他人の事を気にする前に、その事を良く考えた方が良い」
結局三箇は三月末をもって退職することが決まった。本当はもう少し早く辞めようと思っていたらしい。だが三月上旬に四月一日の人事異動が発表される為、英美達の異動先を確認し、三月末まで働く姿を見届けてから自分も辞めようと考えたようだ。
しかしその後、事態は意外な形で動いた。本人は否定していたけれど、警察は当初美島を殺したのは、七恵だと疑っていたらしい。だが立件できるほどの証拠がない為、被疑者死亡のまま送検しようと考えていたという。
ところが途中から夫の隆の証言に、違和感を持ち始めたらしい。そこで徹底的に捜査した所、七恵は自殺ではなく突き落とされたとの証拠を掴み、彼を逮捕したというのだ。
そうなると、十年前の事件の犯人が七恵ではなかった可能性も出てくる。そこで再捜査をし始めたようだ。その中で隆から新たな自供を引き出した。
当初隆は、七恵の意図を知らずにデングウィルスが付着している唾液を渡したと証言していた。だが実際に主導していたのは、彼の方だったという。
「美島という男が悪いんだ。七恵はあいつのせいで、かなり追い込まれていた。当時の彼女は相談する人や弱音を吐く人もいなかったのか、一人で溜め込んでいたんだろう。しかしどうせ辞める会社だと思っていたところ、それを美島に止められた。その上パワハラに加えてセクハラもエスカレートしていた矢先に、俺がデング熱に掛かり入院してしまったんだ。そこでもし俺の身に何かあったらと考え、このまま会社を辞められなくなるかもしれないと考えた事もあったらしい。そうなれば美島との関係も続く。俺の病状と会社の悩みで苦しんだ彼女は体調に異変をきたし、時折会社を休むようになった。しかしそれは余計に、周りから反感を買ったようだ。俺の病気が感染症という特殊な事情から、婚約者が入院しているなんて言えなかったからだろう。しばらくしたら結婚して辞める予定だというのに、仕事を休むなんてと他の事務員から非難されたらしい。そこでさらに社内で孤立し、悩んでいると彼女から聞いたんだ」
幸い隆の症状はピークを越えて命に別状がないと判った頃、彼女との面会も許されるようになった。その時彼は彼女が置かれている現状を初めて知り、そして激怒した。すぐにでも会社を辞めさせようと考えたけれど、それでは憎しみの感情が治まらない。
そこで復讐の手立てとして、自分が苦しんだ同じ思いを味合わせようと考えた。デング熱に罹った際、高熱に苦しみ吐き気も催した。そして何度も咳き込み過ぎたのか、喉から血が出た時もある。
その際に拭き取ったティッシュなどの一部を、看護師達が回収し忘れていたらしい。それが残っていた事を、思い出したのだという。
菌が入っているだろうそれを密封できる袋に入れたものが、ベッドの下から出て来た時、隆は後で看護師に渡そうと持っていた。
しかしこれは使えると考えた。そこで隆は退院後、すぐにお見舞い等で頂いたお菓子の中の一つに綿棒を使って菌を塗り付け、それを美島の机に置いておけ、と七恵に告げた。もちろん他の無害なお菓子も併せて、他の人の机に配って置くよう指示したそうだ。
以前から七恵の会社では、課の人間だけでなく他部署も含めて多くの人がお土産などを買ってきて、各社員に配る習慣があることを聞いていた。
それを利用して机に色々な菓子と混ぜて置いておけば、いずれ口にするだろうと思いついたという。それに美島は食いしん坊なのかせっかちなのか、机上に置かれたものはすぐ口に入れて片付けてしまう性格だとも耳にしていたようだ。
それならばデングウィルス入りの菓子も、間違いなく食べるだろう。そうすれば、少なくともデング熱に罹って高熱で苦しむに違いない。
しかも自分同様、最近夏季休暇を使って東南アジアに旅行へ出かけたことも知っていた。そこでもし彼が発症して入院しても、旅行先で感染したと思われるはずだと踏んでいたらしい。
結果その通りに菓子を食べた美島は、デング熱に罹った。しかし誤算だったのは入院するほど症状が悪化する前に、ウィルスが体内深く入り込んだ影響で急性心不全を起こし、自宅で死亡したことだ。
これにはさすがに驚いたが、もう取り返しはつかない。後は隆がデング熱に罹って入院していた事を絶対に誰にも話さない様、七恵に口止めをした。さらに菓子を食べさせようとしたことも、黙っているように言い聞かせたそうだ。
そこでようやく隆が目論んでいた事の重大さを、彼女も理解したらしい。ただ美島が目の前から消えていなくなった事は彼女にとっても嬉しい誤算だったため、彼の言うことを聞いたという。
ただ彼女が言うには、隆から受け取った菓子を美島に食べさせようとしたが、いつの間にか紛失してしまったらしい。けれど結局は偶然にも、誰かがそれを美島の机に置いたのだろう。彼はそれを口にして亡くなったと喜んでいたそうだ。
その為警察が動きだした時も、疑われるようなことは一切口にすることはなかったという。それほど厳しい事情聴取ではなかったにせよ、当時彼女が誤魔化しきれたのは罪の意識が全くなかったからのようだ。
美島という呪縛から解かれた開放感の方が強かったのだろう。隆も説明したがデングウィルスに感染したからといって、必ず死に至るとは限らないことを知ったことも、大きな要因だったらしい。
しかも急性心不全で亡くなることなど、確率としてはそれほど高くない。その為美島自身に運が無かっただけだと思い込むようにしていたようだ。それ以上に隆の行為が、七恵を地獄から救ってくれたと感謝する気持ちの方が強かったとも考えられる。
だがいざ結婚して時が経つにつれ、二人の関係は変わった。子供が産めないことを隆の両親達から責められ、不妊治療で苦しみ始めた。しかも挙句の果てに隆が精子形成障害だと判明した。
そこから二人の間は冷え込んだという。子供のできる可能性が低いと知った上で彼女と話し合った結果、彼女は働きに出ると言い出したらしい。
また子供を持つことだけでなく、専業主婦であり続けることを拒否した彼女とは徐々に距離ができた。当然のように夫婦間での性交渉も無くなったそうだ。
そんな隆はいつ離婚を切り出されるか、ずっと危惧していたという。愛情は冷めていたけれども、別れるつもりはなかったらしい。恐らく彼女もそうだったに違いない、と彼は言っていた。
しかし恐らく二人共世間体を気にして、仮面夫婦を続けていただけに過ぎなかったのだろう、と警察は見ていたようだ。そうした柴山夫妻の関係を大きく揺り動かしたのが、久我埼の出現だった。
しかも彼は大宮でも上司が事故に遭っており、死に神とあだ名を付けられた状態で、彼女と同じフロアに異動してきたのだ。
それまですっかり忘れていたはずだったけれど、十年前には持っていなかった罪の意識が、七恵の中で芽生えたらしい。やがて精神が不安定になり、三箇と美島が近しい関係だったことを知り、さらに英美達を加えて過去の事を調べ始めたと聞き、動揺したようだ。
その為働きに出てからほとんど口を利かなかった彼女が、隆に対し毎晩のように英美達の動きを話すようになったという。その度に隆は、黙っていれば絶対に分かることはないと言い聞かせ、宥めていたらしい。
だが久我埼が三箇を殺そうと事故を計画して実行し、逮捕されてからその手が使えなくなった。なぜなら警察が十年前の件も調べはじめ、彼女への事情聴取をし始めたからだ。
それだけではない。当時隆がデング熱に罹っていた事までバレており、そのことで夫婦揃って取り調べを受ける羽目になったのだ。 そこで全て嘘をつき続けるのは困難だと判断し、美島からパワハラやセクハラを受けていたことは正直に言うことにしたという。
しかも七恵の話によれば、結局作戦を実行できなかった事は本当なので、関与していないと証言し続ければ、罪に問われることは無いと二人で話合っていたそうだ。
しかしある時から彼女は会社に行きたくないと言い出し、隆に何の相談もなく退職までしてしまった。さらに何度も訪れ、または呼び出されて警察の聴取を受けることに耐え切れなくなった彼女は、本当の事を証言すると言い出した。
「私はあなたに言われるがまま、会社にウィルスとお菓子を持って行っただけよ。でも当日怖くなって、やっぱりできないとあなたにメールしたじゃない。でもあなたは、絶対にやれと脅してきた。そんな事をしている内に、いつの間にかウィルスを仕込んでいた菓子が無くなっていて、誰かが支社長の机の上に置いたのよ。私のせいじゃない。殺したのはあなたよ。もうこれ以上黙っていられない。私は警察に全てを告白する。第一、あなたのような人と付き合って、結婚までしたからこんなことになったのよ。もう別れましょう」
そう言ってきかない彼女に腹を立てた隆は、マンションから突き落として自殺に見せかけようと思い立った。そして寒空の中、流星群が見えるとベランダに呼び出し手すりに手を突いた所で、彼女が着ていたガウンの紐を掴み、すくい上げるように放り投げたという。
警察は地面に叩きつけられ亡くなった彼女のガウンから、わずかに残る隆の皮膚片を採取し、意図的に落としたのだろうと追及した。
もちろん夫婦間の着ている物から互いの皮膚片が残っていること自体、おかしなことではなかった。何かの拍子で付いたと言えばいい訳が立つ。
しかしウィルスの件も含め、彼女の意志だけで美島を懲らしめようとした話に矛盾点があった。感染病に罹った患者にそうたやすく接触できるはずはなく、隆の積極的な協力なくしてウィルスを持ち出すことなどできなかったはずだからだ。
警察はその点を追及し、自白を勝ち取った。隆もまた人を殺して平気でいられるほど、図太い神経は持ち合わせていなかったことが幸いしたのだろう。妻を殺したのもそれまで鬱積していた不満が爆発した挙句の行動であり、計画と言っても発作的なものだったらしい。今は本人も深く反省して、罪の意識を感じているようだ。
いずれにしても七恵の死は、三箇達が事件を調査し始めた事を苦にした自殺では無かったことが明らかになった。その為会社側も英美や浦里や三箇に対し、これまで非難した事を謝罪してくれたのだ。
しかし直接の原因ではなかったにしても、過去の事件を調べていた件が、間接的な要因になった事は否めない。よって人事異動については英美を除き、予定通り行うことだけは申し渡された。
その理由として、総合職と事務職の担当者が二人同時変更することに代理店側から困ると言った意見が出ていたからだという。よって英美だけは、取り敢えず今回残すことにしたらしい。
また支店長から、浦里の異動は元々懲罰的な意味ではなかった為、変更しないとの説明を受けた。さらに三箇の退職についても、本人が撤回しなかったので予定通り三月末までとされた。というのも、彼は彼なりに考えての結論だったことが分かった。
「美島さんの死の真相について謎はまだ少し残ったままだが、単なる病死で無いことが明らかになっただけで十分だ。それに久我埼が人を殺していたとの、俺の勘は間違っていなかった。おかげでこれから、新たなスタートを気持ちよく切ることができる」
三箇は会社を辞めた後、再び警察に入り直すことを決めていたらしい。だが愛知県警は三十歳までと年齢制限があるため、再び受験をして入ることはできないそうだ。他の警察においてもバラつきがあるものの、受験資格年齢は定めているという。
ただ今年三十三歳になる三箇が受けられる県警は、兵庫県警などごく限られてはいるがいくつかあるらしい。その為彼は受験できる全ての県警を受けると言い出し、名古屋を離れると決意していた。
英美は困惑した。浦里だけでなく三箇とも離れ離れになるのだ。古瀬を含めこの半年で結束が強まった四人だったが、今後集まる機会はそうないだろう。
冷蔵庫の中にあった飲食物が紛失した事件から始まり、社内の不倫関係も暴いた。さらに古瀬の客が飼っていたアライグマが逃げ出したことと、新たな紛失事件が結びついていたことも解決させた。
それらが三箇によるものだったとはいえ、おかげで古瀬が揉めていた契約の件は解決しただけでなく、意外な結末を迎え大きく増収したのだ。
そんな半年余りに起こったこれまでの事を、懐かしく思い出していた。しかし改めて頭の中で整理し始めている内にふとした疑問が浮かび、納得がいかない点がいくつか見つかった。
既に終わった事だから、昔の事に関わるのは止めようと一瞬頭を過る。だがもうこれで最後だと思い直した英美は、以前事情聴取を受けた際に刑事から渡された名刺を見ながら考えた。そしてある行動を取ったのだった。
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