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第七章~①
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翌日英美が出社すると、予期していた通り土田課長に呼ばれた。応接室へ来るようにと指示され、椅子に腰を下ろしたところ尋ねられた。
「忙しいところすまんな。ただここ最近、奇妙な噂が広がっていてね。総務課に久我埼が着任したからか、十年前に彼が一宮支社にいた頃のことを調べている社員が数人いると聞いた。どうやらSC課の三箇とうちの浦里らしい。廻間さんもその中に入っていると小耳に挟んだが、それは本当かな」
彼は当たりが優しく、声を荒立てるような姿は見たことが無い。しかし笑いながらもその眼は鋭く、実は厳しいともっぱらの評判だ。今回もまさしくその通りの振る舞いだった。
この人の前で嘘は通用しない。浦里もそう感じたという。その為英美は正直に話した。
「はい。本当です。三箇さんから相談を受け、十年前の事を覚えていると思われる人に話を伺いました」
「ほう。それは誰ですか」
「二課の柴山さんと業務課の板野さん、それとうちの課の加賀さんの他に、もう辞められていますが、今は佐藤さんとおっしゃる加賀さんや柴山さんと同期だった方の四人です」
課長は深く溜息を吐き、ソファにもたれながら言った。
「本当だったのですね。しかし浦里にも質問したが、廻間さんまでどうして三箇に協力するような行動をしたのですか」
「それは先ほど課長が言われた通り、久我埼さんの配属がきっかけです。三箇さんが過去の事件を思い出し、こだわり始めました。しかも久我埼さんが犯人だと疑うような言動をしだしていたので、浦里さん達と一緒に止めました。今は警察官ではなくこの会社の人間なのだから、下手な行動は慎んだ方が良いと忠告しました。それは七月末のことです」
「それは良い忠告だったと思います。しかしそんなあなた達が、どうして彼の行動を手伝うような真似をし始めたのですか?」
「しばらくは彼も大人しくしていました。しかし最近久我埼さんが総務課長から叱責を受け、会社を休まれました。ご存知ですよね」
「ああ、知っている。それがどうした?」
「そのことがきっかけになり、いろんな噂が立ち始めました。彼がこちらに異動して来られた頃もそうでしたが、その時以上にこのフロアの雰囲気が悪くなったと思います。その影響を受けてか、三箇さんは再び昔の件をはっきりさせたいと言いだしました」
「それで協力するようになったのか」
「はい。ただし私達は犯人探しが目的ではありません。あくまで三箇さんが納得し、これ以上こだわらないようにしたかっただけです。そうしないと久我埼さんがこのビルにいる限り、いつまでも彼は悩み苦しむと思いました。それだけではありません。妙な噂がはびこり、フロアの空気が淀んだままになることは良くないと考えました。このままでは長い休職を経て復職した久我埼さんの症状も悪化しかねません。これはこのフロアだけではなく名古屋ビル全体、いえ会社全体の問題だと思ったのです」
「それは大袈裟じゃないかな」
「本当にそうでしょうか。偶然とはいえ、三人もの管理職が事故に遭ったり病気に罹ったりしています。そうなると次も起こるのではないかと、社員は不安になるでしょう。現にそういう空気が流れています。それに当事者である木戸総務課長はどう思っていらっしゃるか、ご存知ですか。やはり気にされているのではありませんか」
「そ、それは、多少気にはしているようだが」
言葉を濁したところを見ると図星のようだ。そこでさらに続けた。
「気にされて当然だと思います。ですから私達は第一に、三箇さんの気が晴れる程度のことはすると彼に約束しました。ただし社員である自分達ができることなど、ごく限られていることは理解してもらいました。その上で何も出てこなかった際には、この会社でいる以上、きっぱりと忘れて貰うことを条件にしたのです」
「なるほど。言っていることは判る。しかし三箇が割り切れたとしても、先ほど言っていた問題は解決しないのではないかな」
「はい。三箇さんが落ち着いたとしても、他の方が噂を流し続けて不安に思うような職場環境なら、問題だと思います。それこそ私達がどうにかできることではありません。それは会社全体で、少なくともこのビル内の管理職の方のお力が無いと、収まらないのではないでしょうか」
「どういうことだ」
「このような噂が流れ、一人の総合職がまるで苛めに遭っているかのような状況を改善するのが、上の方の役目ではないでしょうか」
「言葉が過ぎないか」
土田課長の笑みが消え、口調が変わっていた。それでも言わずにはいられなかった。
「そうじゃありませんか。私達の行動を非難し注意されるのなら、他人を誹謗中傷するような陰口を叩いている人達にも、同じようにしてください。私達は、気持ちよく仕事をしたいだけです。ただでさえ忙しく厳しい中で働いているのですから、余計な事に捉われたくはありません」
「余計な事に自ら首を突っ込んでいるのは、君達の方じゃないのか」
「それはこれ以上悪化させないようにするため、止む無くやっていることです。しかし私はこれ以上、誰かに話を聞きまわることはやめます。この二日間で、自分に出来ることはしたつもりです。それで三箇さんも納得してくれましたから」
「そうなのか? 三箇もこれ以上調べることは止めるんだな?」
「いえ、それはまだだと思います。私の役割が終わっただけです」
「だったら、彼や浦里はまだ続けるつもりか」
「それは、本人達に確認していただくしかありません」
「昔の事を調べ始めたのは、三箇を納得させるのが目的だったな。つまり廻間さんはこれ以上調べなくていいと了承しただけで、過去の調査自体まだ諦めていないということか」
「恐らく私が聞いてきた話だけで、気が晴れていないことは確かだと思います」
「一体、どんな事を聞いたんだ?」
「十年前の一宮支社で、支社長が亡くなられた時の状況などを覚えているかを伺いました」
「廻間さんと話した人の名前を聞くと、板野さんを除いて柴山さんとその同期から事情を尋ねたようだな。それはどうしてだ」
「私が面識のある方で当時の事を良く知っているのは、柴山さんだと思いました。ですから最初に話を伺ったのです。しかし余り詳しくは教えて頂けませんでした。その後十年前の事を知っている、当社で長く働いている方は誰かと考え、板野さんに伺ったのです。それでも詳細なことは分かりませんでした。そこで他に十年前の事をご存じの先輩方を紹介していただけるようお願いしましたが、いないだろうと言われました。そこで柴山さんの同期の加賀さんなら当時彼女を通して何か聞いていないかと考え、伺ったのです」
「なるほど。そこから既に辞めている他の同期にも話を聞いた訳か」
「はい。加賀さんも余りご存じなかったようでした。そこで板野さんに尋ねたように、他の方で昔の事を知っていそうな人を教えて欲しいとお願いしました。すると柴山さんと昔仲の良かった佐藤さんと言う方を紹介していただきました。そこでお話を伺ったのです」
「それで廻間さんはどう思った?」
「当時は一宮支社をはじめ、かなり混乱していて大変だったことは分かりました。後、亡くなった支社長にはパワハラやセクハラをしていた疑いがあり、あまり評判も良くなかったようですね。でもそれは三箇さんが刑事だった時、既に調べて分かっていた事です。支社長が亡くなった件で三箇さんが把握していた以上のことは、出てこなかったと言うのが現状です」
「そこまで調べて、廻間さんはもう良いと言うことになったのか。後は三箇次第ってことなんだな」
「そう思っていただいて構いません」
「廻間さんは、それでいいのか?」
「どういう意味でしょうか?」
「廻間さんはこれ以上、調べることはしない。でも三箇はまだ納得していない。それでいいのか、という意味だ」
「私のできることはしました。後は彼がどこで納得するかです。もちろん行き過ぎた調査をするようなら、私達からも注意します。でもその前に課長達には、私達が動いた意味を理解していただきたいと思います」
「理解はできる。だが会社の上司として、黙認はできない。廻間さんがこれ以上首を突っ込まないというのなら、今回は注意だけにしよう。だが今後、社内で犯人探しのような真似は慎むように。君達は皆、この会社の社員だ。やるべき事は、過去の件を探る事ではない。営業は営業の仕事を、SC課はSC課の仕事をする。そうじゃないか。違うか」
「いえ、その通りです」
「浦里には既に忠告をしたが、三箇も含めてこれ以上勝手な行動を取るようなら、なんらかの処分は覚悟してもらう。だから廻間さんからも、二人にはそう言って止めさせて欲しい」
厳しい口調で言われたため、驚いた英美は思わず尋ねた。
「何らかの処分とは、どういうことですか?」
「浦里なら、まず考えられるのは異動だ。彼はここに来て、丸四年が経とうとしている。時期的に考えても、ここから離れれば下手に動くことも出来なくなるだろう。これは本人にも伝えた。彼もそれは覚悟の上だ」
「どこかに左遷する、と言うことですか?」
「うちの会社で、左遷という言葉は無い。どこに異動しても栄転だ」
確かに総合職の間で、そう言われていることは知っていた。しかし実際には規模の小さい課支社、例えば総合職が二人または三人しかいない出先へ異動する事は、左遷に近い扱いだとも言われている。
それでも行けと言われれば、どこにでも赴任するのが転勤族の定めだ。それに小さな課支社でもそこで実績を上げれば、再び大きな課支社へと戻されることがある。実際これまで、そういう経歴を持つ総合職はいた。だから安易に、左遷とは言えないのも現実だった。
「浦里さんが異動ということなら、三箇さんもそうなるかもしれないってことですか?」
「三箇の場合は賠償主事だから、異動させるにしても全国各地へという訳にはいかない。それにこの会社へ転職して来た目的が目的だ。下手をすれば、自主退職を促される可能性もあるだろう」
「退職ですか? それは余りにも厳しすぎませんか? 何か仕事上で、支障をきたす事でもあったのですか?」
「七月に久我埼と揉めた件がある。あれからは大人しくしていたようだが、今回のように動きだした理由が問題だ。今後支障をきたす恐れは、十分あるだろう」
「ではここ数日の間で、何か問題を起こしてはいないのですね」
「ああ。だが彼の行動が原因で、仕事上何かトラブルが起きることがあった場合、処分の対象になることはSC課長から伝えているそうだ。それは本人も了承しているらしい」
「本当ですか!」
「聞いていないのか。しかし今の話からすると、彼が今後何らかの動きをすることは間違いなさそうだな。そうなれば問題を起こすことも十分にあり得る」
「問題が起きなければいいのですね」
「理屈ではそうだが、無理だろう。昔の事を探っていると広まっている時点で、久我埼にとっては既に苦痛を感じているはずだ。しかも彼は過去に刑事だった三箇から、事情聴取を受けている。本人がまだ疑われていると考えても仕方ない。その影響で彼が再び体調を崩し長期に会社を休むことになったら、誰が責任を取ればいい。総務の木戸課長やSCの牛久課長か。それとも私か浦里や廻間さんか」
畳み掛けるように問われ、英美は言い返すことが出来ず、言葉を詰まらせた。
「そ、それは」
「そういうことだ。先程廻間さんは苛めのような環境を作っている会社が悪い、と発言をしていたね。じゃあ三箇や廻間さん達のしていることは、久我埼がどう思うかを考えて行動していると言えるのかな。言えないだろう。だからだよ。彼を疑っている訳ではないという言葉に、信用性はない。それぐらいの事は判るだろう」
うかつだった。これまで想像しなかった訳ではない。ただ久我埼が犯人でなければ、調査自体に問題はないと思っていた。逆に反応があれば三箇の言う通り、疑わしい事になる。だから良いと考えていたが、甘かったようだ。
どちらにしても彼にとって昔の事は、忌まわしい出来事に違いない。だからこそあの事件の後、彼はうつ病と診断されて一年半休職しているのだ。その時の事を思い出すような事件が、大宮SC課に異動した後も起こった。それで彼は二度目の休職を取り、三年半休んでいたのだ。
そう考えると今回のことで、彼が再び体調を崩す可能性は十分にある。英美達は、そこまで考えが及ばなかったことを思い知らされた。いや実際にはなんとなく気付いていたものの、目を瞑っていたと言うのが正しいかもしれない。
黙っていると、課長が口を開いた。
「今日の所はここまでにしよう。廻間さんは、先程自分が言った事を守って下さい。もうこれ以上、この件について誰かから話を聞きだしたりしないように。いいですね」
「判りました」
そう返事はしたものの、今後祥子が昔の件を知っている誰かを紹介してくれるかもしれない。また昨日話した佐藤も、何かを思い出して連絡をくれることもあるだろう。
しかしその場合は、こちらから積極的に聞き出した訳じゃない。先方が何か言い出したことを聞くだけだから約束違反にはならないだろう、と勝手な解釈をして自分の心を抑えることにした。
席に戻ると、心配そうに浦里がこちらを見ていた。しかし今は勤務中だ。下手に話していると、揚げ足を取られかねない。だから口だけを動かし、“あとでね”と呟いた。それで彼も理解してくれたようだ。それ以上は何も言ってこなかった。
引き続き黙々と仕事をこなし、昼休みは他の事務職と別れて一人で取ることにした。その間に土田課長とのやり取りを、サイトに書き込んだ。すると、同じく昼休みにサイトを覗いていたらしい三箇が反応した。
“浦里さんを異動させると言ったのですか? 本当に浦里さんはそう言われたのですか?” 英美がそれに答える。
“浦里さんが言われたかどうかは、まだ本人に確かめていないので判りません。でも確かに課長が私にそう言ったし、本人にも伝えたようです”
すると外出中で外回りをしていたはずの浦里も、お昼休憩を取りながら見ていたらしい。二人の会話に割って入り、書き込みがされた。
“廻間さんの言う通りです。でも俺の京都での調査も同じく頭打ちで、これ以上の情報は得られそうにありません。だからこれ以上首を突っ込みようがないので、しばらくは大人しくしています。だから心配することはありませんよ”
どうやら古瀬も見ていたらしく、参加して来た。
“三人は俺の事を黙っていてくれているみたいだね。こっちには何も言ってこないから”
彼は昔の事を知っている代理店などを中心に聞いているようだが、その相手は一宮支社のテリトリーだからか、課長達の耳には入っていないようだった。それに彼の場合は英美達と違い、調査していることを周囲に広める必要が無い。
その為話を聞いた人には、しっかり口止めをしていたことが幸いしたようだ。しかし彼が調べた情報も英美が聞いた話と重なる部分が多く、特別目新しいものが無かったことも事実だった。それでも三箇はこれで十分だと書き込んでいた。
“後はこちらで調べる。三人共十分に調べてくれた。これは強がりでも、今後の処分に対して気を使っているからでもない。本当に助かった。十年前では聞き出せなかった事も、いくつか出てきている。それに京都の件で、何も出て来ないのはしょうがない。あれだけの大事故だったにも拘らず、警察は事故として処理した。しかも十五年も前の事だから、当然だろう。でも今になってからこそ気付いた点もある。これ以降は俺の出番だ。といっても無理はしないから、心配しなくていい。調べた結果が出たら、またここへ書き込む。だから皆は、それまでしばらく待っていてくれ”
その後の英美達は彼の言う通り、動きを止めた。そして当の本人も、会社では表立った動きをしなかった。恐らく陰では調査をしていただろうが、会社の人間には分からないようにしていたのだろう。
さらに周囲の空気が徐々に変わったことも影響した。十二月という忙しい時期だったからか、くだらない噂をしている暇もなくなったらしい。いつの間にか騒ぎは収まり、久我埼も会社を休まずに仕事を続けていた。だからだろう。英美は完全に油断をしていた。
「忙しいところすまんな。ただここ最近、奇妙な噂が広がっていてね。総務課に久我埼が着任したからか、十年前に彼が一宮支社にいた頃のことを調べている社員が数人いると聞いた。どうやらSC課の三箇とうちの浦里らしい。廻間さんもその中に入っていると小耳に挟んだが、それは本当かな」
彼は当たりが優しく、声を荒立てるような姿は見たことが無い。しかし笑いながらもその眼は鋭く、実は厳しいともっぱらの評判だ。今回もまさしくその通りの振る舞いだった。
この人の前で嘘は通用しない。浦里もそう感じたという。その為英美は正直に話した。
「はい。本当です。三箇さんから相談を受け、十年前の事を覚えていると思われる人に話を伺いました」
「ほう。それは誰ですか」
「二課の柴山さんと業務課の板野さん、それとうちの課の加賀さんの他に、もう辞められていますが、今は佐藤さんとおっしゃる加賀さんや柴山さんと同期だった方の四人です」
課長は深く溜息を吐き、ソファにもたれながら言った。
「本当だったのですね。しかし浦里にも質問したが、廻間さんまでどうして三箇に協力するような行動をしたのですか」
「それは先ほど課長が言われた通り、久我埼さんの配属がきっかけです。三箇さんが過去の事件を思い出し、こだわり始めました。しかも久我埼さんが犯人だと疑うような言動をしだしていたので、浦里さん達と一緒に止めました。今は警察官ではなくこの会社の人間なのだから、下手な行動は慎んだ方が良いと忠告しました。それは七月末のことです」
「それは良い忠告だったと思います。しかしそんなあなた達が、どうして彼の行動を手伝うような真似をし始めたのですか?」
「しばらくは彼も大人しくしていました。しかし最近久我埼さんが総務課長から叱責を受け、会社を休まれました。ご存知ですよね」
「ああ、知っている。それがどうした?」
「そのことがきっかけになり、いろんな噂が立ち始めました。彼がこちらに異動して来られた頃もそうでしたが、その時以上にこのフロアの雰囲気が悪くなったと思います。その影響を受けてか、三箇さんは再び昔の件をはっきりさせたいと言いだしました」
「それで協力するようになったのか」
「はい。ただし私達は犯人探しが目的ではありません。あくまで三箇さんが納得し、これ以上こだわらないようにしたかっただけです。そうしないと久我埼さんがこのビルにいる限り、いつまでも彼は悩み苦しむと思いました。それだけではありません。妙な噂がはびこり、フロアの空気が淀んだままになることは良くないと考えました。このままでは長い休職を経て復職した久我埼さんの症状も悪化しかねません。これはこのフロアだけではなく名古屋ビル全体、いえ会社全体の問題だと思ったのです」
「それは大袈裟じゃないかな」
「本当にそうでしょうか。偶然とはいえ、三人もの管理職が事故に遭ったり病気に罹ったりしています。そうなると次も起こるのではないかと、社員は不安になるでしょう。現にそういう空気が流れています。それに当事者である木戸総務課長はどう思っていらっしゃるか、ご存知ですか。やはり気にされているのではありませんか」
「そ、それは、多少気にはしているようだが」
言葉を濁したところを見ると図星のようだ。そこでさらに続けた。
「気にされて当然だと思います。ですから私達は第一に、三箇さんの気が晴れる程度のことはすると彼に約束しました。ただし社員である自分達ができることなど、ごく限られていることは理解してもらいました。その上で何も出てこなかった際には、この会社でいる以上、きっぱりと忘れて貰うことを条件にしたのです」
「なるほど。言っていることは判る。しかし三箇が割り切れたとしても、先ほど言っていた問題は解決しないのではないかな」
「はい。三箇さんが落ち着いたとしても、他の方が噂を流し続けて不安に思うような職場環境なら、問題だと思います。それこそ私達がどうにかできることではありません。それは会社全体で、少なくともこのビル内の管理職の方のお力が無いと、収まらないのではないでしょうか」
「どういうことだ」
「このような噂が流れ、一人の総合職がまるで苛めに遭っているかのような状況を改善するのが、上の方の役目ではないでしょうか」
「言葉が過ぎないか」
土田課長の笑みが消え、口調が変わっていた。それでも言わずにはいられなかった。
「そうじゃありませんか。私達の行動を非難し注意されるのなら、他人を誹謗中傷するような陰口を叩いている人達にも、同じようにしてください。私達は、気持ちよく仕事をしたいだけです。ただでさえ忙しく厳しい中で働いているのですから、余計な事に捉われたくはありません」
「余計な事に自ら首を突っ込んでいるのは、君達の方じゃないのか」
「それはこれ以上悪化させないようにするため、止む無くやっていることです。しかし私はこれ以上、誰かに話を聞きまわることはやめます。この二日間で、自分に出来ることはしたつもりです。それで三箇さんも納得してくれましたから」
「そうなのか? 三箇もこれ以上調べることは止めるんだな?」
「いえ、それはまだだと思います。私の役割が終わっただけです」
「だったら、彼や浦里はまだ続けるつもりか」
「それは、本人達に確認していただくしかありません」
「昔の事を調べ始めたのは、三箇を納得させるのが目的だったな。つまり廻間さんはこれ以上調べなくていいと了承しただけで、過去の調査自体まだ諦めていないということか」
「恐らく私が聞いてきた話だけで、気が晴れていないことは確かだと思います」
「一体、どんな事を聞いたんだ?」
「十年前の一宮支社で、支社長が亡くなられた時の状況などを覚えているかを伺いました」
「廻間さんと話した人の名前を聞くと、板野さんを除いて柴山さんとその同期から事情を尋ねたようだな。それはどうしてだ」
「私が面識のある方で当時の事を良く知っているのは、柴山さんだと思いました。ですから最初に話を伺ったのです。しかし余り詳しくは教えて頂けませんでした。その後十年前の事を知っている、当社で長く働いている方は誰かと考え、板野さんに伺ったのです。それでも詳細なことは分かりませんでした。そこで他に十年前の事をご存じの先輩方を紹介していただけるようお願いしましたが、いないだろうと言われました。そこで柴山さんの同期の加賀さんなら当時彼女を通して何か聞いていないかと考え、伺ったのです」
「なるほど。そこから既に辞めている他の同期にも話を聞いた訳か」
「はい。加賀さんも余りご存じなかったようでした。そこで板野さんに尋ねたように、他の方で昔の事を知っていそうな人を教えて欲しいとお願いしました。すると柴山さんと昔仲の良かった佐藤さんと言う方を紹介していただきました。そこでお話を伺ったのです」
「それで廻間さんはどう思った?」
「当時は一宮支社をはじめ、かなり混乱していて大変だったことは分かりました。後、亡くなった支社長にはパワハラやセクハラをしていた疑いがあり、あまり評判も良くなかったようですね。でもそれは三箇さんが刑事だった時、既に調べて分かっていた事です。支社長が亡くなった件で三箇さんが把握していた以上のことは、出てこなかったと言うのが現状です」
「そこまで調べて、廻間さんはもう良いと言うことになったのか。後は三箇次第ってことなんだな」
「そう思っていただいて構いません」
「廻間さんは、それでいいのか?」
「どういう意味でしょうか?」
「廻間さんはこれ以上、調べることはしない。でも三箇はまだ納得していない。それでいいのか、という意味だ」
「私のできることはしました。後は彼がどこで納得するかです。もちろん行き過ぎた調査をするようなら、私達からも注意します。でもその前に課長達には、私達が動いた意味を理解していただきたいと思います」
「理解はできる。だが会社の上司として、黙認はできない。廻間さんがこれ以上首を突っ込まないというのなら、今回は注意だけにしよう。だが今後、社内で犯人探しのような真似は慎むように。君達は皆、この会社の社員だ。やるべき事は、過去の件を探る事ではない。営業は営業の仕事を、SC課はSC課の仕事をする。そうじゃないか。違うか」
「いえ、その通りです」
「浦里には既に忠告をしたが、三箇も含めてこれ以上勝手な行動を取るようなら、なんらかの処分は覚悟してもらう。だから廻間さんからも、二人にはそう言って止めさせて欲しい」
厳しい口調で言われたため、驚いた英美は思わず尋ねた。
「何らかの処分とは、どういうことですか?」
「浦里なら、まず考えられるのは異動だ。彼はここに来て、丸四年が経とうとしている。時期的に考えても、ここから離れれば下手に動くことも出来なくなるだろう。これは本人にも伝えた。彼もそれは覚悟の上だ」
「どこかに左遷する、と言うことですか?」
「うちの会社で、左遷という言葉は無い。どこに異動しても栄転だ」
確かに総合職の間で、そう言われていることは知っていた。しかし実際には規模の小さい課支社、例えば総合職が二人または三人しかいない出先へ異動する事は、左遷に近い扱いだとも言われている。
それでも行けと言われれば、どこにでも赴任するのが転勤族の定めだ。それに小さな課支社でもそこで実績を上げれば、再び大きな課支社へと戻されることがある。実際これまで、そういう経歴を持つ総合職はいた。だから安易に、左遷とは言えないのも現実だった。
「浦里さんが異動ということなら、三箇さんもそうなるかもしれないってことですか?」
「三箇の場合は賠償主事だから、異動させるにしても全国各地へという訳にはいかない。それにこの会社へ転職して来た目的が目的だ。下手をすれば、自主退職を促される可能性もあるだろう」
「退職ですか? それは余りにも厳しすぎませんか? 何か仕事上で、支障をきたす事でもあったのですか?」
「七月に久我埼と揉めた件がある。あれからは大人しくしていたようだが、今回のように動きだした理由が問題だ。今後支障をきたす恐れは、十分あるだろう」
「ではここ数日の間で、何か問題を起こしてはいないのですね」
「ああ。だが彼の行動が原因で、仕事上何かトラブルが起きることがあった場合、処分の対象になることはSC課長から伝えているそうだ。それは本人も了承しているらしい」
「本当ですか!」
「聞いていないのか。しかし今の話からすると、彼が今後何らかの動きをすることは間違いなさそうだな。そうなれば問題を起こすことも十分にあり得る」
「問題が起きなければいいのですね」
「理屈ではそうだが、無理だろう。昔の事を探っていると広まっている時点で、久我埼にとっては既に苦痛を感じているはずだ。しかも彼は過去に刑事だった三箇から、事情聴取を受けている。本人がまだ疑われていると考えても仕方ない。その影響で彼が再び体調を崩し長期に会社を休むことになったら、誰が責任を取ればいい。総務の木戸課長やSCの牛久課長か。それとも私か浦里や廻間さんか」
畳み掛けるように問われ、英美は言い返すことが出来ず、言葉を詰まらせた。
「そ、それは」
「そういうことだ。先程廻間さんは苛めのような環境を作っている会社が悪い、と発言をしていたね。じゃあ三箇や廻間さん達のしていることは、久我埼がどう思うかを考えて行動していると言えるのかな。言えないだろう。だからだよ。彼を疑っている訳ではないという言葉に、信用性はない。それぐらいの事は判るだろう」
うかつだった。これまで想像しなかった訳ではない。ただ久我埼が犯人でなければ、調査自体に問題はないと思っていた。逆に反応があれば三箇の言う通り、疑わしい事になる。だから良いと考えていたが、甘かったようだ。
どちらにしても彼にとって昔の事は、忌まわしい出来事に違いない。だからこそあの事件の後、彼はうつ病と診断されて一年半休職しているのだ。その時の事を思い出すような事件が、大宮SC課に異動した後も起こった。それで彼は二度目の休職を取り、三年半休んでいたのだ。
そう考えると今回のことで、彼が再び体調を崩す可能性は十分にある。英美達は、そこまで考えが及ばなかったことを思い知らされた。いや実際にはなんとなく気付いていたものの、目を瞑っていたと言うのが正しいかもしれない。
黙っていると、課長が口を開いた。
「今日の所はここまでにしよう。廻間さんは、先程自分が言った事を守って下さい。もうこれ以上、この件について誰かから話を聞きだしたりしないように。いいですね」
「判りました」
そう返事はしたものの、今後祥子が昔の件を知っている誰かを紹介してくれるかもしれない。また昨日話した佐藤も、何かを思い出して連絡をくれることもあるだろう。
しかしその場合は、こちらから積極的に聞き出した訳じゃない。先方が何か言い出したことを聞くだけだから約束違反にはならないだろう、と勝手な解釈をして自分の心を抑えることにした。
席に戻ると、心配そうに浦里がこちらを見ていた。しかし今は勤務中だ。下手に話していると、揚げ足を取られかねない。だから口だけを動かし、“あとでね”と呟いた。それで彼も理解してくれたようだ。それ以上は何も言ってこなかった。
引き続き黙々と仕事をこなし、昼休みは他の事務職と別れて一人で取ることにした。その間に土田課長とのやり取りを、サイトに書き込んだ。すると、同じく昼休みにサイトを覗いていたらしい三箇が反応した。
“浦里さんを異動させると言ったのですか? 本当に浦里さんはそう言われたのですか?” 英美がそれに答える。
“浦里さんが言われたかどうかは、まだ本人に確かめていないので判りません。でも確かに課長が私にそう言ったし、本人にも伝えたようです”
すると外出中で外回りをしていたはずの浦里も、お昼休憩を取りながら見ていたらしい。二人の会話に割って入り、書き込みがされた。
“廻間さんの言う通りです。でも俺の京都での調査も同じく頭打ちで、これ以上の情報は得られそうにありません。だからこれ以上首を突っ込みようがないので、しばらくは大人しくしています。だから心配することはありませんよ”
どうやら古瀬も見ていたらしく、参加して来た。
“三人は俺の事を黙っていてくれているみたいだね。こっちには何も言ってこないから”
彼は昔の事を知っている代理店などを中心に聞いているようだが、その相手は一宮支社のテリトリーだからか、課長達の耳には入っていないようだった。それに彼の場合は英美達と違い、調査していることを周囲に広める必要が無い。
その為話を聞いた人には、しっかり口止めをしていたことが幸いしたようだ。しかし彼が調べた情報も英美が聞いた話と重なる部分が多く、特別目新しいものが無かったことも事実だった。それでも三箇はこれで十分だと書き込んでいた。
“後はこちらで調べる。三人共十分に調べてくれた。これは強がりでも、今後の処分に対して気を使っているからでもない。本当に助かった。十年前では聞き出せなかった事も、いくつか出てきている。それに京都の件で、何も出て来ないのはしょうがない。あれだけの大事故だったにも拘らず、警察は事故として処理した。しかも十五年も前の事だから、当然だろう。でも今になってからこそ気付いた点もある。これ以降は俺の出番だ。といっても無理はしないから、心配しなくていい。調べた結果が出たら、またここへ書き込む。だから皆は、それまでしばらく待っていてくれ”
その後の英美達は彼の言う通り、動きを止めた。そして当の本人も、会社では表立った動きをしなかった。恐らく陰では調査をしていただろうが、会社の人間には分からないようにしていたのだろう。
さらに周囲の空気が徐々に変わったことも影響した。十二月という忙しい時期だったからか、くだらない噂をしている暇もなくなったらしい。いつの間にか騒ぎは収まり、久我埼も会社を休まずに仕事を続けていた。だからだろう。英美は完全に油断をしていた。
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【第6回ホラー・ミステリー小説大賞・奨励賞受賞作品】資産家の九竜久宗六十歳が何者かに滅多刺しで殺された。現場はある会社の旧事務所。入室する為に必要なカードキーを持つ三人が容疑者として浮上。その内アリバイが曖昧な女性も三郷を、障害者で特殊能力を持つ強面な県警刑事課の松ヶ根とチャラキャラを演じる所轄刑事の吉良が事情聴取を行う。三郷は五十一歳だがアラサーに見紛う異形の主。さらに訳ありの才女で言葉巧みに何かを隠す彼女に吉良達は翻弄される。密室とも呼ぶべき場所で殺されたこと等から捜査は難航。多額の遺産を相続する人物達やカードキーを持つ人物による共犯が疑われる。やがて次期社長に就任した五十八歳の敏子夫人が海外から戻らないまま、久宗の葬儀が行われた。そうして徐々に九竜家における秘密が明らかになり、松ヶ根達は真実に辿り着く。だがその結末は意外なものだった。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
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