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殺人未遂事件

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 伊豆の温泉地において、烏森が何者かに頭部を殴打され、血を流し意識不明の状態で病院に緊急搬送された。
 佐々がそうした一報を二課の班長である大山から受けたのは、ようやく情報漏洩事件の主犯格とされる藤原を逮捕し起訴した三日後の夕方だった。
「まさかまた、神葉愚連隊に雇われたチンピラに襲われたんじゃないだろうな。須依は無事なのか」
 前回の襲撃事件から四週間ほどは、二課と組対課の人員を割いて彼らの監視を続けていた。
 しかし藤原を始め、事件に関わったとされるセンナと母体の神葉の主要メンバーをほぼ全員を逮捕した為、もう危険は無いと判断して行動追跡班を解散させていたのだ。
 よってその隙を突き、幹部であり大きな収入源となっていた藤原を失った神葉の残党が、見せしめとばかりに須依達を狙ったのかと最初は疑った。
 だが事件現場の状況や経緯を聞けば聞く程、そう単純な話ではなさそうだと感じたのである。 
 幸い須依は無事だったが、彼女も現場となった伊豆に烏森と同じく滞在していたらしい。事件が発生したと思われる時間帯には、十二室全て離ればかりという高級温泉宿の別室にいたようだ。
 しかも一人ではなくあの井ノ島竜人が一緒だったと聞き、佐々は驚いた。何故三人がそんな場所にいたのかを確認すると、烏森に取材を申し込まれた井ノ島の招待で、二人は呼ばれたらしい。
 その宿は井ノ島家、厳密には詩織の実家の八乙女家が別荘代わりに良く利用しており、一室を半年間確保していた為だという。そこで烏森と須依も、それぞれ離れた別の部屋を予約していたようだ。
 事件が起こったのは午後一時少し前で、異変に気付いた従業員が烏森の部屋を訪ねると、彼が血を流し倒れている所を発見。慌てて救急車を呼び、遅れて静岡県警も駆け付けたそうだ。
 現場は特に激しく争った形跡がなく、財布など盗まれたものもなかった。凶器は観賞用として部屋の廊下に備え付けられていた、厚みのある陶器の花瓶らしい。
 高さ約四〇センチ、重さ約四キロでふっくらとした胴体から口がこぶし大ほどまでせばまった形状だという。それで頭部側面を殴られた烏森は、現在意識不明の重体に陥っていると聞かされた。その為、殺人未遂事件として捜査が始まっていた。
 そこで県警が別室にいた須依や井ノ島から事情を聞いた際、被害者は約一ヶ月前にも襲われていたと知り、担当していた警視庁と神奈川県警に照会したようだ。そこから大山の耳に入り、佐々にも報告してきたのである。
 当初は神葉の手下の仕業かと疑われた。しかし使われた凶器が部屋の物だった点や、宿の周辺に備え付けられた防犯カメラで外部から侵入した映像が無かった為、その線は明らかでないという。
 ただ部屋の一部に指紋の拭き取られた跡を発見。また一台のカメラが何故か通常より傾いて死角が生じていた点から、外部による侵入も完全には排除できないとの見解だった。
 もちろん内部にいた人物の犯行かを確認する為、従業員や他の宿泊者の十名も事情聴取したそうだ。しかし烏森との繋がりが見つからず、襲う動機があるとは思えなかったらしい。
 容疑者候補となる人物を強いて挙げれば、井ノ島と須依だった。というのも烏森から情報流出事件について取材を受けていた彼と、同行していた彼女の指紋が部屋に残っていた為である。
 だが事件が起こった時間、井ノ島は須依の部屋にいたと証言し、彼女もそれに同意した為アリバイは成立しているという。
 また被害者を診察した病院の医師の診断や静岡県警の見解によれば、左側頭部には相当な強い力がかかっていたことから、犯人は右利きの男性と見立てているようだ。
 何故なら部屋の配置と被害者が倒れていた状況、砕けた花瓶の破片の位置からして、犯人は背後からではなく正面から襲ったと判断されたからである。恐らく後ろを向いている隙を狙い背後から近づき、振り向いたところを殴ったのだろう。
 凶器となった花瓶からは、今のところ清掃を担当していた従業員の指紋しか発見されていない。部屋の中だと同じ従業員や被害者以外では、須依と井ノ島の二人の指紋だけが発見されたようだ。
 もちろん犯人は手袋を嵌めていた、または拭き取った可能性がある為、僅かに発見された毛髪や他の遺留物から、鑑識で分析をしている最中だと聞かされた。
「参事官、どう思われますか」
 静岡県警としては情報確認の為、警視庁や神奈川県警に問い合わせをしたものの、県内で起きた事件の為に単独で捜査を行うつもりなのだろう。
 しかし犯人が情報漏洩事件に関わった神葉の手下達なら、警視庁としても動く必要があった。といって殺人未遂事件の為、二課やCS本部の出番でなく、担当は組対課または捜査一課となる。
 といって、最初から犯人が反社だと決めつけるのは危険だ。そうなると一課が先頭に立つべきだろう。
 けれど彼らはこれまでの事件捜査に全く関わっていない。その為二課や組対課、捜査本部または神奈川県警と連絡を密に取るなど、適切な行動を期待できるかと考えれば疑わしかった。
 そうすると県警で捜査をさせ、警視庁の捜査本部はバックアップに回り、情報提供しながら協力する体制を取った方が効率的だ。そうした最終判断を仰ぐ為、大山は佐々に問うていた。
 何故なら情報漏洩事件の捜査本部は捜査二課の主導に変わっていたが、今では再びCS本部が中心となっていたからだ。神葉達に目を付けた段階で、捜査の中心が機密情報の分析などに移行していた為である。
 ただこういっては何だが、警視庁の捜査一課の優秀なメンバーと比較すれば、県警の刑事課では正直頼りなく感じざるを得ない。しかも今回の件が一連の事件と関わっているとなれば、静岡県警だけでは手に余るはずだ。
 そうなると後方支援だけでは不十分に思えた。さらに被害者が襲われた場所を考えれば、ほぼ密室に近い状況で起きた難事件とも取れる。その上余りに不可解な要素があり、初動を誤れば下手をすると迷宮入りしかねない。そう危惧された。
 そこで佐々は腹を括った。
「よし。捜査の主導は基本的に県警とし、捜査本部はバックアップに回ろう。但し今回は特殊な例の為、一課から一人だけ応援を呼ぶ。二課からは前回の襲撃事件にも関わった大山君が、県警の捜査に加わってくれないか。俺が直接君達の捜査を裏から指示しよう。もちろん一課や二課はもちろん、刑事部長や県警には私から根回しをしておく」
 想定外の指示だったからだろう。彼は戸惑いを隠さずに言った。
「参事官自らが、ですか」
「ああ。漏洩事件だけでなく、被害者や容疑者達について一番よく知っているのは私と君達だ。あと一課にはもう一人適任者がいる。俺達三人が協力すれば間違い無いだろう。私や刑事部長から話を通せば、県警も協力してくれるさ」
「参事官は警察庁からの出向ですし、警視長という肩書がありますからそうでしょうけど、私はしがない警部補ですよ。しかも殺人未遂事件は担当範囲を外れます。一課の応援も一人だけですよね」
 自信無げに答えた彼に対し、叱咤激励した。
「何を言う。君だって今の部署に来るまで所轄の刑事課も経験してきたはずだ。傷害事件程度は扱っただろう。それに警視庁捜査二課の班長である優秀な君と一課の刑事と私が組むんだ。それでも何か異論があるのか。相方が私達だと心許ないか。それとも邪魔か」
「い、いえ。滅相もありません。ご指名となれば光栄です。喜んで組ませて頂きます」
 彼の言質げんちを取った為、電話を切ってから急いでCS本部長と刑事部長、さらに捜査一課とも連絡を取った。とはいっても階級が下の一課長はともかく、本部長や刑事部長は警察監で上だ。けれども日頃の根回しや、センナの藤原の逮捕に貢献した実績が効いたらしく快諾を得られた。
 一課から呼ぶのは須依を良く知る人物、的場警部補だ。彼なら彼女と井ノ島の因縁について、多少の事情を知っている。また取り調べに同席する場合、意思疎通しやすい人物がいれば彼女にとっても安心できると考えたからだ。
 とはいえ捜査活動は基本的に二人一組の為、一人だけでは先方も許可を出しにくい。よって大山と組ませることにしたのである。
 彼らを使って県警本部長に根回しをした上で、佐々自らが静岡県警刑事部に電話をし、捜査に加えて貰うよう依頼をした。ここまですれば、当然彼らも断れる訳がなかった。警視庁に出向中とはいえ、佐々は全国の警察署を束ねる警察庁のキャリアだからだ。
 よって的場を急遽呼び出して打ち合わせをし、大山とも再度連絡を取り、その日の内に現地へ向かうよう指示を出した。須依や井ノ島が、まだ参考人として留まっていると聞いたからだ。 
 事件現場の確認や刑事達から捜査の進捗状況を聞き取るだけでなく、今の内なら直接事情聴取ができると判断した。幸い漏洩事件については検察に送り、一段落着いている。それでも今後は地検特捜部と連携しながら、政治家達への本丸を崩す必要があった。
 しかしこれはここ数日やそこらで片が付く話ではない。神葉が入手したと思われる肝心の機密情報は暗号化されており、解読にまだ時間を要するからだ。
 佐々自身は直接分析に関わらない。さらに上は本部長、下に課長や次長など優秀な部下達がいる。だから烏森の事件を捜査するくらいの時間は取れると結論付けた。
 といって持ち場を離れる訳にもいかない。参事官という役職は、執務室で日々大量の書類に目を通し検印しなければならず、またそれらを本部長に提出する等の仕事を抱えているからだ。
 よって的場達には、こちらから遠隔操作で映像が見られるスマートグラスと呼ばれる眼鏡型のウェアラブル端末を使わせ、イヤホンも嵌めて貰った。そうすれば佐々はサイバービルの部屋に居ながらも、直接彼らの行動や状況を見聞きしつつ指示できると考えたからである。
 他には組対課に協力を仰ぎ、藤原の逮捕後における神葉及びセンナ周辺に烏森を襲撃するような動きが見られたか、内々に調べて貰うようお願いした。さらには検察における取り調べで、そうした指示を出していないかを探るよう依頼もかけておいた。
 打てる手を全て打った上で的場達は新幹線と在来線を乗り継ぎ、そこから迎えに来てくれた県警の車へ乗り、約二時間弱で現場に到着した。
 時刻は夜の九時を過ぎていた。彼らを案内してくれたのは、静岡県警刑事部の村岡むらおかという中堅の刑事だった。
 彼に車中でこれまでの捜査の進捗など聞きながら確認を取ったところ、この時間なら須依達は夕食を済ませ、それぞれの部屋で休んでいるはずだという。
 よって真っ先に彼女から事情を聞くよう、佐々は指示した。村岡が先頭に立ち、部屋のインターホンを押す。
彼女が出た為、彼は穏やかに言った。
「静岡県警の村岡です。夜遅くにすみません。昼間の件で事情を伺いたいと、東京から警視庁の方が見えられています。少しお時間を頂けますか」
「警視庁からって、どこの部署ですか」
 的場達が身につけた機器から、パソコンを通じて聞こえてきた彼女の声は、明らかに戸惑っていた。後ろに立っていた的場が前に出て告げる。
「須依さん。一課の的場です。二課の大山警部補もいます。例の事件と関係しているか、確認する為に来ました。開けてくれますか」
 驚いたのだろう。若干の間を空けて返答があった。
「分かりました。少々お待ちください」
 しばらくして扉が開いた。画面の映像から、化粧はしているようにうかがえる。しかし顔色が悪い。それはそうだろう。彼女の大事なパートナーである烏森が、今でも意識を取り戻していないのだ。
 その上医師の診断によれば予断を許さず、ここ数日または長くて一週間ほどが山場だという。しかも今夜は部屋に一人だ。心配でいてもたってもいられなかったに違いない。
 体調が優れないせいか、白杖を突いて歩く後姿はふらついている様子だった。そんな彼女は珍しい。右足を引きずっているようにも見える。
 その為的場には、できるだけ明るく声をかけるよう伝えた。そこで彼は言った。
「ああ。無事だとは伺っていましたが、自分の目で確認したかったのです。烏森さんは災難でしたが、まだ目を覚ます可能性はあります。そんなに落ち込まないで下さい」
 だが彼女は俯いてしまい、何も答えなかった。相当ショックを受けているらしい。大山も挨拶をし、とにかく話をさせて欲しいと告げ、テーブルを囲み四人が座った。
 佐々は部屋全体を眺めるよう指示を出す。そこから見えたのは、一人で宿泊するにしては広く、椅子も人数分ある様子だった。恐らくかなり高い部屋なのだろう。ちなみに間取りは烏森の部屋と全く同じタイプだという。
 その点を尋ねさせたところ、井ノ島が用意し代金も払ってくれているとの答えが返ってきた。取材相手である彼に招待されたと聞いてはいたが、そこにもひっかかりを感じていた。
 その為ここに至るまでの経緯を、最初から説明して欲しいと告げさせる。県警には何度も話していたのだろうが、彼女は話し始めた。
「三日前、漏洩事件の首謀者としてセンナの藤原達が逮捕されましたよね。それを受けてまだ傷病休暇中だった烏森さんが、井ノ島君に取材を申し込んだそうです。けれど昨日返答があり、ここへ二人で来るようにと言われたので、今日のお昼前に到着しました」
 そこで大山が会話に割って入った。
「ちょっと待って下さい。確か彼は前回襲われた件で、一ヶ月の傷病休暇を取っていましたよね。三日前ならまだ休んでいるはずでしょう。それなのに取材を申し込んだというのですか」
 まさしく聞きたい質問だった為、佐々はパソコン画面の前で頷きながら返答を待った。
「そうみたいです。本当なら明後日の月曜から出社予定だったのに」
 俯きながらそう言った彼女に対し、的場が質問を続けた。
「取材を申し込んだのは烏森さんの独断でしたか。それとも須依さんに相談をした上でのことでしたか」
「烏森さんの独断です。私は知らされていなかった。けれど井ノ島君から、私と二人でここに来るなら取材を受けると言われたようです。それで烏森さんから連絡があり、取材の件を初めて聞いたの」
 見知った相手だからか、彼女は時折丁寧な言葉に砕けた口調を混じらせ答えていた。
「いまさら何の目的で、彼は井ノ島に取材を申し込んだのでしょう」
「実は私も詳細を教えられていません」
「どういうことですか」
 時折気になるのか、足をさする仕草を見せながら言った。
「烏森さんから話を聞き、私も質問しました。だけどそれは現地に着いて取材を始めれば分かると濁されたの。本当は一人で行きたかったようでした」
「井ノ島から二人で、と条件を付けられたから止む無く同行させたというのですか。井ノ島も何の取材か知らされていないのですか」
「そのようです。彼に後で尋ねたけど、取材したいとしか聞いていないと言っていました」
「本人も何の取材か、理解していなかったのですね。それなのに何故こんな場所へ、しかも二人で来るよう指示したのでしょう」
「詳しくは分かりません。ただ何を聞かれるか不安だったから、私を同席させたと言っていました。ここを選んだのは、自宅や会社は困るし都内だと落ち着かないから、安心できる場所にしたようです」
 普段とは違いかしこまった調子で話す彼女だったが、珍しく奥歯に物の挟まったような口調に、佐々は疑念を持った。
 聴覚が優れた彼女の洞察力には及ばないけれど、それなりに長い付き合いであり、曲がりなりにも警察官だから分かる。少なくとも何かを隠していると感じた。
 だが話を先に進める為、質問を続けさせた。
「ではまず事件が起こるまでを、時系列で説明してください」
「昨日井ノ島君から烏森さんに返答があり、それを受けて私に同行するよう連絡がありました。同じ日の夕方です。そこで急ぎ支度をし、今日の朝八時に東京駅で合流しました。そこから新幹線と在来線、タクシーを使ってここへは十時半過ぎに着きました」
 既に到着していた井ノ島が従業員と共に二人を出迎え、それぞれの部屋を用意しているからと、設備についての説明等をしてくれたそうだ。言われるがまま一旦チエックインし、部屋に荷物を置いたという。
 まず早めの昼食を済ませ、取材はその後にしようと井ノ島から提案され、三人で宿泊施設内にあるイタリアンレストランで食事をしたらしい。ちなみに代金はそれぞれが払ったようだ。
 村岡の補足により、温泉宿のフロントがある本館では、和食やイタリアンに中華といった三つの異なるジャンルのレストランがあると教えられた。利用者は宿泊者に限定されておらず、食事だけで訪れる客もいるという。
 但し通路に柵があり、宿泊施設とは敷地が区別されていて、須依達がいるそれぞれ点々と離れたコテージのような建物内の部屋との行き来は、簡単に出来ない仕組みらしい。
「昼食中、どんな会話をされましたか。烏森さんが何を取材しようとしていたのか、その取っ掛かりになる話題は出ませんでしたか」
「烏森さんには珍しく、口数が少なくて余り話をしませんでした。だから私が白通の経理部は今どうなっているのか、事件の後の会社内がどの程度騒がれているのかを、井ノ島君に聞きました」
「彼は何と答えましたか」
「部長が交代して寺畑さんがいなくなった以外、特に経理部で動きはない。元々漏洩事件と関係が薄い部署だったから、営業辺りは騒がしいようだけど、彼達には余り影響が無かった。そういう話をしていました」
「それを聞いて、烏森さんは何も言いませんでしたか」
「はい。ここへ来る途中も、彼とはほとんど会話を交わしていません。取材の内容に関しては始まれば分かるの一点張りで。それにずっと不機嫌な空気を出していたから、私もなるべく黙っているしかなかったのです」
「何かに怒っていたのでしょうか。一人のつもりだったのに、須依さんと一緒にとの条件が気に食わなかったのでしょうか」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。ごめんなさい。分かりません」
 首を振って答えた彼女の口振りや表情から、十分は納得しきれなかったけれど話を先に進めさせた。
 さすがは一課の刑事だ。事前打ち合わせをしたとはいえ、こちらから細かい指示を出さなくても、今のところはスムーズに事情聴取が出来ている。
「食事が終わったのは何時でしょう。その後はどうしましたか」
「レストランを出たのは十二時過ぎです。十一時に入ったから、一時間ちょっといたと思います。それから一旦それぞれ部屋に戻り少し休んでから、午後一時に井ノ島君の部屋で取材をする予定でした」
「事件が起こったのは、一時より少し前だったと聞いています。その間、須依さんはどうしていましたか」
 彼女は緊張しているのか、唾を飲み込んでから説明を始めた。
「部屋に着きしばらく経った頃、井ノ島君が訪ねてきました。話があるからと言うので中に入って貰いました。そこで少し話をしていたら、外が騒がしくなり何だと思って部屋を出ました。すると誰かが血を流し倒れていると騒ぐ人達の声が聞こえました。それが烏森さんだと分かったのは、もう少し後です。救急車が到着して彼が運ばれ、私達が同伴者だと知っていた従業員から説明されました」
「ちょっと待ってください。まずこの部屋を、井ノ島が一人で訪ねてきたのですか。二人きりで何を話していたのですか」
 やはり的場を連れてきたのは正解だった。他の捜査員だと気付かなかっただろうが、関係性を知る者にとっては余りに不自然だと分かる。そこを素早く質問した為、佐々は一人で深く頷いていた。
 彼女は言葉に詰まりながらも答えてくれた。
「そうです。内容は、烏森さんが何の取材をしているかの確認でした。でも私だって知らされていないから、分からないと答えました。だけど彼は隠していると疑い、しつこく何度も聞いてきました。その度に知らないと答え、そういうやり取りを続けていました」
「どれくらいの時間でしょう」
「多分、二十分くらいかな。もっとかもしれません。多分十二時半くらいには、ここに来ていたと思います」
「話している間、外で異変を感じたり聞きなれない音を耳にしたりはしていませんか」
「それはありません。したとしても気付きませんでした。彼と言い合いみたいに、揉めていたからかもしれません」
「間違いありませんか」
「はい」
 小さく頷いたが反応は微妙だ。やはり何かを隠している。佐々は心の中でそう呟きつつ、さらに問わせた。
「それで従業員から、怪我人が烏森さんだと知らされた須依さん達はどうされましたか」
「搬送された病院に、すぐ駆け付けたいと言いましたが止められました。事件の可能性が高いので、その場にいるよう指示されました。だからまた二人で部屋に戻り待っていたら、警察の方が来て事情を聞かれました」
「ここで静岡県警の刑事に、二人で事情聴取を受けたのですね」
 村岡に視線を送り間違っていないか目で問わせると、彼は頷いた。
「そう。それでいま的場さんに説明した通り答えました。それでもまだこの場にいるよう指示されて、長引きそうだと思った井ノ島君が宿泊できるよう、部屋を押さえてくれました。だからまだ烏森さんがいる病院へは行けていません。意識不明だと聞いたけど、本当に大丈夫なの」
 これまでの言動には違和感を持ったが、この時ばかりは本気で心配しているのだと伝わってきた。目にも涙を浮かべている。
 女は生まれながらにして女優だという名文句があるけれど、佐々は彼女の言葉を信じた。
 その為先程とは違い、正直に伝えさせた。
「私達もまだ直接会っていませんから詳細は不明ですか、報告によれば意識はまだ戻っていません。予断は許さず、ここ数日から一週間が山場だとも聞いています。どちらにしてもICUに入っているので、病室には入れないようです。例え病院へ駆けつけても、外からガラス越しに様子を見るしかできないでしょう。こういう言い方は酷かもしれませんけど、目の見えない須依さんが何か出来る状態ではありません。せいぜい無事を祈るだけだと思います」
 分かりやすいほど肩を落とした彼女の頬は濡れていた。すすり泣く様子を見つめながらも、これは明らかに殺人未遂事件であり、公私混同は絶対に慎まなければならないと佐々は自分に言い聞かせる。
 本来事件が起こった際、知人や関係者がいた場合は捜査から外されるのが常識だ。それなのに表面上はバックアップと言っているけれど、現場の捜査に直接関わらない参事官の立場でわざわざ刑事を越境させている。
 しかもリモートで事情聴取を聞いている今の状況事体が異例だ。よって本部長や刑事部長からも、その点だけはきつく釘を刺されていた。つまり例え彼女が今回の犯人だとしても、容赦なく逮捕しなければならない。
 その覚悟が無ければ、捜査に関わる資格などあるはずがなかった。よってさらなる質問を促した。
「ところで烏森さんの部屋に、須依さんや井ノ島は入ったのですか」
「最初に部屋を取ったと言われた時、従業員さんの案内でそれぞれの部屋に行きました。その時二人共入りました。烏森さんも私の部屋に来ました。井ノ島君もその時一緒でした」
 事前には聞いていたが、被害者の部屋から二人の指紋が出た理由はそれらしい。話自体に矛盾がなく問題はなさそうだ。よってここで一旦、聴取を切り上げさせることにした。
 だがまだ彼女を解放できない為、部屋で待機するよう伝えた。その点は彼女も理解しているらしく、何の抵抗も示さなかった。
 三人が部屋を出た後、マイクで的場と大山に耳打ちした。
「聞いていてどう思った」
 須依の耳は鋭い。どこで聞いているか分からないと彼らは警戒し、同じく囁くように大山が先に答えた。
「いえ、別におかしな点は発見できませんでした。まさか参事官は、須依さんを疑っていらっしゃるのですか」
「知人だからこそ先入観は禁物だ。現時点で少なくとも、この敷地内にいた者は全員容疑者だろう。的場はどう思った」
「しかし彼女にはアリバイがありますよね。それにまず動機がありません。被害者は仕事上において欠かせないパートナーです。それは参事官もよくご存知なはずです」
 大山も同意した。
「彼女を良く知る八城からもそう聞いています。漏洩事件を通じて私自身も何度か接してきましたが、被害者とは相当深い信頼関係があったように感じました」
「それは私も十分承知している。それでもだ」
 的場が首を傾けながら言った。
「彼女のアリバイを証明しているのは、あの井ノ島ですよね。須依さんの元彼とはいえ、別れた背景や寺畑の逮捕に至るまでに取材した切り口等を聞く限り、互いにかばい合う相手だとは思えません」
 そこは佐々も同感だった。しかしアリバイを証明しあった相手が、今回の取材相手の井ノ島だという点はかえって作為的にも思える。
 第一に何故そんな男と須依は、二人きりで部屋に二十分以上もの間、居られたのか。烏森という相棒が近くにいたのなら、絶対にそうした状況にはさせなかったはずだ。
 疑問点はまだあった。信頼関係の強い二人がどうして今回だけは須依に何も告げず、烏森は井ノ島に単独で取材を申しこんだのか。 
 しかも先方により須依も同席させる条件を付けられた点を不本意に感じ、その上取材内容を明かしていないのは明らかにおかしい。
 そうはいっても本来ならアリバイが証明され動機が無く、被害者を襲った形跡も見つからなければ既に解放されていただろう。それができないのは防犯カメラの映像と、現場状況のせいだ。
 広い敷地に点在する十二ヵ所の部屋やその周辺には、プライベートな空間を邪魔しないよう、カメラは設置されていないという。しかしその分、防犯上の観点から敷地の中に外から侵入者が来られないよう、外向けのカメラは至る所にあったそうだ。
 その上赤外線による侵入防止装置もあり、二十四時間監視されている。それは部屋と本館の間をつなぐ通路やその外も同じで、宿泊者や従業員だけが持つカードキーが無ければ、出入りできないようになっていた。
 事件発生時、ほんの少しだけ死角があったとはいえその他のカメラに不審人物は写っておらず、赤外線でも異常を知らせる警告音は鳴っていない。
 またその時間、従業員は誰一人も敷地内に入っていないことは、カードキーの記録から判明している。さらには凶器に指紋がついていた清掃担当を含め、全員が何らかの勤務についていた点も館内の防犯カメラで確認は取れていた。
 それらのことから当時敷地内にいた宿泊者だけが被害者を襲えた、あるいは外部からの侵入を許すよう防犯カメラに細工できたと静岡県警が判断したのだ。よって須依達以外の宿泊者十名も、現在各部屋で待機させられていた。
 その内訳は六十代と七十代の夫婦が二人ずつ、三十代の恋人が一組、四十代の夫婦と十代の子供二人の四人家族が一組だ。須依達を除いた四組は、それぞれ食事を済ませて部屋にいたと証言している。
 だが防犯カメラに映っておらず、関係性から考えてアリバイが成立しているとは言い難い。身内または恋人という近しい関係による証言は、信憑性しんぴょうせいに欠けるからだ。
 そうなると、確かなアリバイがあると言えるのは須依達だけだった。けれど他の四組と被害者との接点は、現在何も見つかっていない。あるとすれば、神葉から依頼された犯人が潜んでいる場合だ。
 しかし県警の刑事が聴取し確認した第一印象から、実行犯らしき人物はいないという。
 というのも烏森は左足を失っているとはいえ、パラアスリートに準ずるほど日頃から体を鍛えている男性だ。そんな彼を襲えるような人物が、他の宿泊客の中にいるとは思えないらしい。
 比較的重く頑丈な花瓶で強打している状況から、かなり力の強い男性の可能性が高いと見られる。しかし明らかに非力な高齢者または今時の若者で、とてもそんな力や度胸がありそうな男性は一人もいないと言っていた。
 唯一可能性があるとすれば、大学時代にアメフト部にいて小学校は野球、中学高校はラグビー部という細マッチョの井ノ島ぐらいだという。ただその彼は、須依によってアリバイが証明されている。
 もちろん一見非力に見えるだけで、実際は神葉に雇われた屈強な人物が宿泊者の中でいるのかもしれない。もしくは依頼され、敷地内から防犯カメラを傾けさせた可能性は残る。
 よってその線を疑い捜査しているが、残念ながら現時点でそうした証拠は挙がっていないそうだ。そんな状況が続いている為、須依達を含めた宿泊者は待機せざるを得なかったのだろう。
 その為佐々も後で的場達を通じ全員と顔を合わせ、事情聴取しなければならないと考えていた。 
 だがその前に会っておかなければならない人物がいる。それは井ノ島だ。そこで村岡の案内により、的場と大山は彼が待機する部屋へと向かっていた。
 到着し、先程と同様にインターホンが押された。応答があった為、来訪した理由を告げる。彼は素直に応じ扉を開けた。
「東京からわざわざ来られたのですね。ご苦労様です。どうぞ中にお入りください」
 佐々は須依の関係で井ノ島を知っているが、学生時代も含め紹介された事はなく、直接会って話をしたこともない。だから彼はこちらの存在を把握していないだろうし、スマートグラス越しでは気付くはずもなかった。
 ただ白通における社内からの不正アクセスの件で、何度も事情聴取を行った二課の大山とは面識があったからだろう。井ノ島は彼ばかり見ていた。
 それでも聴取は的場が行う段取りになっている。彼は大山と違い、須依との過去における因縁を少なからず知っている人物だ。しかも一度求婚して断られ、その原因の一つとなったのが井ノ島である。よって特別な感情を持ったとしても不思議ではない。
 といってわざわざ告げる必要などない為、彼は席に座り簡単に自己紹介をした後、淡々と質問を投げかけていた。所属が捜査一課と告げたからだろう。かなり緊張しているらしく、警戒もされていた。
「事件が起こる前、被害者から連絡を受けた時の話からご説明頂けますか」
「三日前、情報漏洩事件の犯人が逮捕されたと聞き、これでようやく会社も落ち着きを取り戻し始めるだろうと、安心していました。そんな時、烏森さんから取材したいと申し出があったのです」
「どんなやり取りをしたのですか」
「どんなって。いきなり取材したいので会ってくれないかと言われ、今更どうして私にと尋ねました。彼は藤原という犯人が逮捕されたことを受け、改めて社内からの不正アクセス事件で疑いをかけられ巻き込まれた経緯について話を伺いたいと言いました」
「なるほど。それが取材目的でしたか」
 的場は頷いたが、彼は首を振った。
「いえ。表向きはそう言ってましたが、それだけではない気がしました。だから最初は断わっていたのです」
「ほう。別の隠れた理由があると思われたのですね。そう疑っていながら、結果的には取材を受けると言われた。それは何故ですか」
「何度も何度も電話をかけてきて、しつこかったからですよ。それでちょっと待ってくれ、考えるからと言いました。悩んだ末にここの宿泊施設で須依を同席させるのなら会う、と条件を付けたのです」
「それは何故ですか」
「まず今回の取材は烏森さん一人だと聞き、不安が増したからです。以前は須依を使っていきなり会社に訪ねてきました。主に話を進めたのは彼女でしたが、そのやり口から裏に彼がいた為だと思い、不信感を持っていたからです」
 訳ありで別れた元カレの元へ、十数年振りに会わせたことを言っているらしい。
「それで須依さんを同席させる条件をつけたのですか」
「はい。彼女がいればもしおかしな取材をするようなら、止めてくれると期待しました。彼女とはかつて色々ありましたが、それでも大学の同窓生であり、それなりに深い関係を持っていましたから」
 実際の背景を知る的場なら、ここで一言皮肉の一つでも投げつけたかったはずだ。しかし何とか堪えたらしく、質問を続けていた。
「ではこの場所を指定した理由を教えてください。部屋の料金も井ノ島さんが支払ったと伺いましたが、何故そこまでされたのですか」
「ここなら他人に話を聞かれる心配はありません。それに年の半分はこの部屋を押さえていて別荘のように使っていますから、私もリラックスして会えると思ったからです。代金をこちら払いにしたのは、そうしなければここまで来てくれないと考えたからです。それに一日ぐらいなら、大した額ではないですから」
 そういうが、一泊一部屋五万円以上はするらしい。日帰りで押さえたとしてもそれなりの金額がかかるだろう。常連価格があるとしたって、都内のホテルなどの会議室を取ればずっと安く済むはずだ。
 しかしその点を問い詰めても、金はあるとか安心できるからと逃げられるだろう。その為次の話題に移るよう指示した。的場は黙って頷き質問を続けた。
「あなたは被害者達が到着した際、先にいたと聞きました。いつここに来られましたか」
「昨日の金曜日の夜です。八時過ぎに仕事を終えてその足で車を運転し、チエックインしたのは夜十一時頃だったはずです。これはフロントに確認して貰えば分かるでしょう。警察にはもう何度も説明していますよ」
 もちろん佐々達もそう報告を受けている。苛つき始めた彼だが、繰り返し聞くことで説明が変わったり、矛盾が生じないかを確かめたりするのが警察のやり方だ。よって的場は平然と対応した。
「すみません。これが仕事なものですから。しかし車でも移動時間は二時間半前後と余り変わらないのですね。ちなみに前日入りしたのは何故ですか。被害者達と合流してからの行動も教えて下さい」
 この質問も何度かされているはずだ。彼は大きく溜息をつき、諦めた様子で説明し始めた。
「それは当然、気分を落ち着かせゆっくりする為ですよ。アポを土曜日にしたのだって翌日は会社が休みだし、折角の機会なので体を休めようと思ったからです。事件が起こってずっと落ち着かない日々が続き、心身共に疲れも溜まっていましたから」
「それは一時期、あなたに容疑がかけられていたからですか」
「もちろんそれもあります。それに寺畑さんが逮捕された後、社内はざわざわしていましたからね。部長も交代したので、代理の私は引き継ぎの手伝いを含め忙しかったし、何かと気が休まらない日が続きましたから」
 佐々も気付いていたが、的場はすかさず矛盾点を突いた。
「ほう。おかしいですね。被害者達と昼食を取られていた際の話題で、あなたは言ったそうじゃないですか。元々漏洩事件と関係が薄い経理部では特に動きはなく、余り影響が無かったと」
 彼は分かりやすく狼狽していた。
「そ、それは最も影響を受けた営業辺りと比べれば、です。それに忙しいと口にしたら、何故だとかどんな状況なのかと下手に追及されかねません。だからそう答えただけです」
「なるほど。実際は違ったけれど、表面上そう答えたのですね」
「そ、そうですよ。あと、なんでしたっけ。ああ、合流してからどうしたか、でしたね。元々取材は午後と考えていたので、彼らがお昼前に到着してから早めの昼食を取りました。そこで多少は身構えていたのですが、何故か烏森さんはほとんど何も話さなかったですね。須依ばかりがいくつか質問をしてきました」
 慌てて話題を変えた様子を訝しく思いながらも、彼は話を続けた。
「そのようですね。あなたはどう思いましたか」
「不気味でした。烏森さんからお昼前に到着する予定と聞きましたが、取材の開始時間は特に決めていませんでした。だから彼はすぐにでも始めたかったのかもしれません。しかし私がランチの後に時間を取るので、部屋に戻ってからにしようと提案したのです。それが気に食わなかったのか、少し不機嫌でしたね」
「それだけですか」
「午後で部屋に戻ってからとは言いましたが、食事中にあれこれ聞かれると覚悟していたところ、何も発言しなかったのがかえって不安に感じました。それと須依は何を取材するのか余り把握していないように思ったので、なおさら疑問を持ちました」
「それでその後どうされましたか」
「十二時過ぎにレストランを出たので、取材は一時から私の部屋ですると約束をし、一旦解散しました。少し休んでからという口実を使いましたが、本音は取材が始まる前に須依からどういう内容を聞くつもりか、探る為の時間稼ぎをしたのです」
「それで須依さんの部屋を訪ねたのですね」
「そうです。でも彼女は何も知らない、と言い張りました。そうかもしれないと予想していましたが、ますます心配になりました。だから聞いていなくても、何か心当たりはないのか、気付いたことがあるだろうと問い詰めたのです。でも彼女は頑なに話さなかった。そんなやり取りをしている間に、だんだん約束の時間が迫って来たので焦っていた所、外が騒がしいと気付いたのです」
 そこからの話は須依の説明と同じで、全く齟齬はなかった。よって事件が起きるまでの時系列の確認を終わらせた。これ以上は新たな証言などが出ない限り、同じ答えしか返ってこないだろう。
 その為的場達は夜遅くに申し訳ないと謝罪した上で、他の宿泊客の事情聴取にも取り掛かった。
 けれどこれと言った怪しい人物や、おかしな言動は発見できなかった。確認できたのは、事件発生より三十分前にそれぞれ全員が部屋にいて、外に出ていないと証言した点だ。
 それは同部屋の人以外と会っていない事を意味し、彼らのアリバイを不明確にした。その為に余計、事態を混乱させたのだろう。また事件発生時の前にも、外で何か物音を聞いたという人は誰一人いなかったのである。
 的場が嵌めたカメラを通して見たが、従業員にも確認した所、それぞれの部屋は最低でも十メートル以上離れていた。よってちょっとした足音程度なら、全く気が付かなくてもおかしくはない。 
 つまり誰にも気づかれず被害者の部屋に近付き、彼を襲って逃げた人物がいた可能性は十分に考えられるのだ。
 しかし的場達に現地入りさせこれまでの捜査情報を見聞きし、この事件に多くの不可解な点があると改めて理解した。
 一つ目はいうまでもなく、事件現場が不完全とはいえ一種の密室状態となっていたことだ。カメラに死角が生じていたとはいえ、赤外線センサーが働いていた。またもしカメラが何者かの手で意図的に変えられていたとすれば、内部にいた人物による可能性が高い。
 二つ目として、事件発生から間もなく従業員が駆け付け、被害者を発見し救急車を手配した点である。もし通報が遅れていれば、出血多量などにより死亡していたかもしれないという。
 何故そうした迅速な対応ができたかといえば、被害者の部屋の内線電話からフロントに連絡があったからだ。しかし繋がっているにも拘らず無言だった為、応対した従業員が不審に思いマスターキーを持って部屋へ駆けつけ、血まみれの彼を見つけたのである。
 現場となった部屋にも入ったが、その間取りは入り口近くにカードキーを差す場所があり、三メートル程真っすぐ伸びた廊下、途中にトイレや洗面、内風呂などがあった。
 その突き当りにフローリングの客室が大きく広がっており、右手側はテレビや机、ソファなどくつろぐスペースとなっている。そこで被害者は倒れていたらしい。左手側の奥にはベッドがあった。
 廊下の角にはすねの下程度の台の上に、観賞用の高そうな花瓶が置かれ、その近くにフロントや外線がかけられる受話器があった。
 奇妙だったのは須依の部屋へ入った際にもあったふかふかの玄関マットが、何故かその近くに移動していた点だろう。犯人が侵入する際、足音を消す為に使用したとも考えにくい。ちなみに電話はベッドの枕元にも備えられている。
 もしフロントに連絡が無ければ、発見は遅れていただろう。ただ第一発見者の証言によれば部屋は窓やドアも含め、全て鍵がかかっていたそうだ。
 その為マスターキーで入室した際、被害者の所有するカードキーは刺さったままで、壁に掛かっていた受話器がぶらりと垂れ下がっていたという。
 部屋はオートロックの為、犯人がそのまま逃げたからロックされたと考えられる。そうなるとフロントにかけた内線はまだ意識があった被害者によるもので、繋がった時には意識を失っていたと誰もが思った。
 けれど鑑識の報告によると被害者の指紋は発見されず、何かで引っかいたと思われる僅かな傷しかなかったらしい。また頭から出血した状態で近づいたのなら、周辺に血痕が付着しているはずだ。そうした形跡が全くなかったことから、かけたのは彼でないという。
 フロントに繋げる為にはまず受話器を取り、八の番号を二回押す必要がある。しかしどちらにも手で触った痕跡や血の付着も無く、また被害者が倒れていた場所から、やや距離が離れていた。
 ちなみに通話記録を調べたところ、被害者がチエックインしてから、部屋の内線電話はそれまで一切使われていないと判明している。もちろん被害者は手袋などしていなかった。
 頭部を殴られる前にかけたとしても理屈が合わない。よって内線は、第三者の手でフロントに繋がれたものとしか考えられなかった。
 では誰がかけたのか。犯人なのか。だとすれば何故襲っておきながら、そのような行動を取ったのかが不可解だ。またそれ以外の人間だとすれば、指紋をつけずそのような真似をした説明がつかない。
 あり得るのは第三者が通報した場合、被害者の姿を発見し慌てて通報しようとしたけれど、自分が犯人だと疑われない為に指紋などを拭き、その場から逃げ去ったというケースだ。
 そうなると、須依達以外の宿泊者がそこまでするとは思えない。よって一番疑わしいのは井ノ島だった。
 もし警察の捜査が始まれば、しつこく取材を申し込んできた被害者を襲う動機が、彼にはあったと疑われるだろう。それを恐れた可能性は大いに考えられる。
 ただ彼のアリバイは須依が証明していた。けれどもし二人がその場にいて、口裏をあわせたとすればどうか。しかし須依があの井ノ島をそこまでして庇う必要があるかと想像した時、何かで脅されていた場合を除けばまずあり得ない。 
 その逆で盲目の須依が電話をかけ、指紋は井ノ島が拭き取ったとしても、何故隠す必要があったのかに疑問が残る。第一、須依だけでは一見して烏森が血を流し倒れているなど分からない。
 手探りをしたのなら別だが、そうした形跡も残っていないというし、井ノ島がそうした跡を消し去ろうとすれば、相当な手間がかかるはずだ。
 よって彼が発見し、須依に伝えたというパターンが最も現実的な見方だろう。それでも県警に対してはともかく、的場達を目の前にして嘘をつく理由が分からない。
 そうやって可能性を排除していけば、浮かび上がってくるのは須依達が共犯で、しかもどちらかが被害者を襲った犯人だという見方だ。彼らが虚偽のアリバイ供述をしていたとなれば、敷地が密室状態だった謎は解決される。
 それを裏付ける理由の一つとして、任意で宿泊者全員の持ち物検査をしたところ、井ノ島の所持品の中から少しびついたサバイバルナイフが出てきたことだ。
 彼はその理由を、単にこの温泉地に来た際、野外の草花や果実を取って食べる為に使うだけだと説明していた。 これはまんざら嘘でもないらしい。宿泊関係者達の供述によると、敷地内には様々な野菜や果物などが栽培されているという。
 ある程度の節度を持ってとの条件が付くものの、宿泊者はそれらを自由に採取し食べてよく、中にはレストランに 持ち込んで調理依頼する客もいるそうだ。現に井ノ島がここに来た際、そうした事がこれまでも何度かあったと従業員達から証言を得ていた。
 他に怪しいものは発見されず、返り血を浴びた衣服なども見つかっていない。けれど彼が最初から烏森を殺す為に、ナイフを持っていてもおかしくない場所を選んだとすればどうか。
 彼ならカメラの細工もできる。前日の夜に細工し、翌日になってもフロントが気付かないままなら、犯行を実行しようと考えていたとすれば辻褄も合う。
 しかしここで何故須依が、彼のアリバイを証明したのかとの問題が生じる。そうしなければならない理由が何かあるのか。脅されているとすればそれは何か。
 さらに信じたくはないけれど、もう一つの推理が成り立つ。それは須依が烏森を襲った犯人である可能性だ。
 彼女が何らかの理由で被害者の頭を殴ってしまい、想定外の怪我を負ったと井ノ島から教えられ、慌ててフロントに電話した。しかし犯人と疑われることを恐れた井ノ島が隠蔽をし、部屋に戻ってアリバイ証明を強要したとも考えられる。
 けれどあの須依が、烏森という大事なパートナーを傷つけてしまったというのに、そのような行動を取るだろうか。それに今更井ノ島に唆されるような彼女だとも思えない。もちろん烏森を意図的に襲う動機が、彼女にあるとは考え難かった。
 だが人間というものは、時にまさかと思われる行動をしてしまう。警察官になり、そうやって犯罪に手を染めたケースを何度も見てきた。よって彼女がそれに該当しない理由はどこにもないのだ。
 現場周辺を含め、敷地内のゲソ痕など調べた鑑識によれば、従業員や宿泊者以外に立ち入った怪しい形跡はまだ発見されていない。防犯カメラも同様だ。
 といっても部屋の周辺は足跡が残りにくい細かい砂利が敷き詰められていた為、事件発生を聞きつけ駆け付けた人々により消されたかもしれないという。
 また室内も部屋履き用のスリッパを使った形跡ばかりで、被害者を含め誰が中にいたかまで判別できなかった。よって外部からの侵入者がいた可能性も否定できないらしい。
 それでもやはり敷地内にいた人物による犯行とみるのが妥当だ。被害者自らがドアを開けない限り、オートロックの部屋の中に第三者が侵入するのはまず無理だろう。
 但し須依達以外の宿泊者が、何らかの理由を付けて開けさせたとも考えられる。実際ドアストッパーに被害者の指紋が付着しており、使用した形跡を発見していた。
 被害者は一カ月前、神葉愚連隊の息がかかった者達に襲われ怪我をしている。よって今回、そうした人間が宿泊者に紛れ込んでいたとしてもおかしくない。
 しかし須依達がここに泊まると決めたのは井ノ島であり、それは事件が起こる前日だ。神葉が関係していたとすれば、そうした動きを察知し、宿泊予約を取らなければならなくなる。まずそこまでの手間をかけるかどうかが問題だ。
 そんな面倒をかけず、前回のように宿へ到着する前、または出た後で襲えば済む。それ以前に宿泊者は須依達を除けば、井ノ島が抑えるより前に予約を入れたものばかりだと分かっていた。
 そうした人物と入れ替わっていないとも限らないが、今のところそのような事実は見つかっていない。また前回人目がある昼間に大勢で堂々と襲撃した手口からは、かなりかけ離れている。
 引き続き裏取りを続けなければならないが、現時点で最も有力視されるのは、須依達が虚偽のアリバイ証言をし、どちらかが犯人だという説だろう。佐々の中ではそう結論付けていた。
 けれど捜査の主導権を持つ県警は、二課や捜査本部から事前の情報を得て、宿泊者の中に怪しい人物がいないと判断してからは方針を変え、外部犯行説を主軸として考え始めているようだった。 
 一部にカメラの死角があり、赤外線が反応しなかったのは何らかの方法で探知されないよう細工した可能性を探っているらしい。
 これは佐々や的場達にも責任がある。以前被害者達を襲った人物達は大きな犯罪を裏で起こそうとした組織だと知り、それ位の手段を取ったとしても不思議で無いと彼らに思わせてしまったのだ。
 さらに須依と烏森の関係の深さ、また須依と井ノ島の因縁について、また佐々との関係を彼らが詳しく説明したからだろう。その上大山はともかく捜査一課の的場が現場にまで足を運び、他の宿泊者で怪しい人物はいないと追認している。
 それだけではない。バックアップとはいえ警察庁のキャリア出身が背後にいるのだ。しかも須依は佐々の大学の同級生であり、盲目で女性だから、犯人である可能性は低いとみているに違いない。
 被害者の頭部の損傷具合から、犯人は右利きの男性だと見られている点も、その見方を後押ししている。またその彼女が井ノ島のアリバイを証明している為、自然と彼も容疑者から外していると思われた。こうした分析が事件をより複雑化させ、謎を深めていた。
 そこで腹を括った。県警には申し訳ないが、彼らにはそのまま捜査を続けて貰おう。的場達は一旦東京へ呼び戻し、被害者の足取りを含め須依や井ノ島の線を探らせようと決めたのだ。
 こうした現場捜査は、経験豊富な的場に任せておけば問題ない。しかし一人では限界がある。よって的場を通じ、引き続き大山に相棒として動くよう依頼した。
 彼は驚いていた。
「参事官が刑事部長や二課長に話を通せば、私に拒否権はありませんし協力は惜しみません。しかし須依さん達が怪しいと、本気で考えていらっしゃるのですか」
「ああ。この線が最も固いと思っている。見込みが外れていればそれでいい。だが可能性が消せない内は、まず被害者と二人のここ最近の行動を洗い直す必要があるだろう。的場を手伝ってくれるか」
「もちろんです。殺人未遂事件など扱った経験はありませんが、私でよければお供します」
「俺だってほとんどない。だが浮かんできた疑問点を一つ一つ潰す捜査は、殺人事件であろうと汚職事件だろうとサイバー犯罪であろうと変わらないんじゃないかな」
 彼は深く頷いた。そうして的場達には烏森がいる病院へ足を運び、容態に変化がないと確認させてから朝一番に伊豆を後にし、須依達より先に東京へと戻るよう指示したのである。
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