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詩織との接触

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 翌日も朝から良く晴れてはいたが、気温はまだそれほど高くない。感染者が出て学級閉鎖されるか閉園になるか等しなければ、この時間なら子供達は学校や幼稚園に登校、登園し終わっているはずだ。また家の主人も会社に出勤しているだろう。
 よって主婦にとっては家事をしているか、それとも一段落させてくつろいでいる時間帯と思われる。それならいきなりの訪問とはいえ、門前払いされる確率が低い。
 そう狙って目的の家の前に二人は立っていた。ここの住所は須依のかつての同級生達に連絡を取り、うまく取りつくろって聞き出した。烏森によると一軒家でまだ新しく、四人家族にしては大きいという。 
 それでも年収二千万弱はあるだろう井ノ島なら、ローンを組めばそれ程無理せず建てられる規模のようだ。一家の大黒柱としては頑張ったといえる。
 須依達はこれから、彼の家にいるだろう詩織に会おうとしていた。井ノ島に続き十数年振りの再会だ。とはいえ前回と同じく彼女の姿形や表情は見えない。それでも気が重かった。
 彼とは喧嘩して別れた訳じゃない。よって未練などなく、気持ちも比較的断ち切れていたからだろう。昨日会った時、思っていたより動揺したけれど話は淡々と出来た。相手の方が戸惑っていたと思われる。
 しかし今日は違った意味で仲が良かった女性だ。その上元彼だった相手と結婚したのだから、彼女だって気まずく思うに違いない。友達としての付き合いも、最初から激しく喧嘩別れをして決別した訳ではなかった。徐々に距離を置かれ自然消滅したのだ。
 けれどその後風の噂で色々と嫌な話を耳にし、彼女を問い詰めた。その時に二人が付き合いだしたと告げられたのである。やがて結婚したと聞かされた時は、裏切られた思いを拭い切れなかった。よって彼らに対する感情は、離れてから拗らせたと言えるだろう。 
 その為今回の事件がなければ、決して会いたくない相手だった。年齢を重ねて図太い性格になった須依だが、昔からそうだったわけではない。
 父が転勤族だったこともあり、かつてはなるべく苛められずに済むよう目を配り、人の機嫌の良さや悪さ、機微きびに鋭い子供だった。 
 人に嫌われないよう行動する癖がつき、ある時笑った顔が嘘くさいと言われ、ショックを受けたこともある。それから毎日のように鏡を見ては、笑顔を作る練習をした時期さえあったほどだ。
 そうなった要因の一つは、プロ野球の南海なんかいホークスの大ファンだった父親が付けた名前である。生まれは大阪に近い和歌山県の北部だが、昔から転校を繰り返す度にでよくからかわれた。しかも南海の身売りにより球団名がダイエーに代わってからは、特に酷かった記憶がある。
 “みなみ”という響きは好きだが、幼い頃から南海と書くことに抵抗があり、気にいってはいない。しかもいい大人となってからは、キラキラネームのようで嫌いになったくらいだ。
 上も下も名前のようで、苗字のようでもある。その為人には、主に須依と呼んで貰うようにしていた。
 ちなみに二つ上の兄の名は克也かつやだ。野球ファンにとっては言わずと知れた、南海ホークスで活躍し監督兼選手にもなった、今は亡き野村のむら克也氏から取ったという。
 兄もまたその名前でよく苛められたらしい。特に男だったからか、野球で遊ぶ時は必ずキャッチャーをさせられていたそうだ。
 まだ視力を失っておらず運動好きだった須依が、当時はそれほど盛んで無かったサッカーを始めたのも、父の野球好きに反抗していたからだったと思う。 
 それにからかってくる野球男子から遠ざかるには、格好のスポーツだった。何故なら周りは野球を余り知らないまたは好まない、サッカー好きの男子ばかりいたからだ。
 そんな中で男子を味方につける為のサッカーが良い武器になった。それがその後も長く続けられた理由の一つだったと思う。
 転校というわずらわしい行為を繰り返し、学校という小さなおりでの生活を守る手立てから始めたサッカーだったが、須依は次第にのめり込み練習し続けていた。
 すると好きこそものの上手なれというが、小学校高学年頃からめきめきと上達したのだ。それが中学の時に父の都合でサッカーの盛んな静岡へとたまたま転校した為、地元のクラブチームに所属することとなった。
 そこから有望な選手として周囲の目に留まり始め、チームの推薦を受け日本代表のユースから声がかかるまで成長したのだ。そこから高校二年まで、日本代表のユースに参加していた。
 当時は同年代にさわ穂希ほまれさんがいて、十五歳の時にユースを飛び越え日本のA代表にまで選抜され話題となった頃である。そうした環境が影響したのだろう。現在と状況は大きく異なっていたものの、一部のメディアが彼女を取り上げることも多くなっていた。
 おかげで女子サッカーが注目され、当時ユースだった須依も澤に続く逸材で、さらに美少女選手としてほんの少しだけ騒がれたのだ。その為社会人になってから、当時ファンだったという人物がいて驚いたこともある。的場がその一人だ。
 今でもその傾向は残っているが、女子スポーツ選手の場合、少しばかり見栄えが良ければ、実力は二の次でも騒がれていた。
 近年はそれなりに実力が伴わないと騒がれ難くなったものの、当時は現在と比べれば女子サッカー人口もずっと少なかった。よって今となっては、マイナースポーツを盛り上げる為に必要だったのだろうと理解できる。だがあの頃はそう思えなかった。
 須依の身長は、当時の年齢の女子にしてはやや高い百六十五センチあった。しかしすらりとして平らな胸の上半身に比べ、下半身はどっしりして太腿やふくらはぎが太かった。それでも周囲の選手達と比べれば目鼻立ちが整っている分、目立っていたのだろう。
 当時はとても嫌だった。周りが騒ぐ分、男性だけでなく女性のファンも少なからずいたが、それ以上に敵も増えた。特にサッカーとは余り関わりが無い人達による、妬みや苛めの対象となったからだ。
 できるだけそんな目に遭いたくないと、身を守る為に始めたサッカーで受けた誹謗中傷により、須依の心は折れた。そこで高校二年の終わりに、大学受験を口実としてサッカーからすっぱりと足を洗ったのだ。
 慰留してくれた友人達を振り切った手前、絶対落ちる訳にはいかないとその分必死に勉強をした。その結果念願の一流と呼ばれる某大学の社会学部に合格し、卒業後は大手新聞社に入社できたのだ。
 サッカー以外でも、努力すればその分成果は上がるという自信が付いたのもこの頃だった。そうした影響もあり、大学に入学した年の夏休み明けには、化粧などで堂々と自分の外見を活かすようにもなった。
 人の顔色を気にしてばかりいた性格は、所謂大学デビューしてからようやく物怖じしなくなった。異性との付き合いもそれなりの経験を重ね、比較的充実した生活を送っていたと思う。
 社会人になってからは政治部の記者として懸命に働いた。サッカー部時代と同じく男子に負けない馬力と勝ち気を武器に、数々のスクープをものにした。キャリアウーマンを気取るまで成長したのだ。
 けれど視力を失い再び挫折した。その傷を深くした相手の家が目の前にある。そう考えるだけで昔の弱い自分が顔を出しかけた。それでも意を決した須依は、烏森の誘導でインターホンを押した。
 カメラの前に立っていれば相手は気付くはずだ。いやもしかすると時間が経ち過ぎ記憶から消され、誰だか分からない可能性もある。自分では確認できないが、見た目も随分変わっているだろう。
 そんな想像が頭をよぎったせいか息苦しくなる。しばらくの静寂がそれをさらに増大させた。感染症対策を理由に訪問を断ってくれないかとさえ考えてしまう。
 ようやくガチャリと音がした。どうやら相手が出たらしい。はい、とだけ短い応答がされた。それでもそのトーンから警戒心や驚き、困惑といった様々な感情が読み取れた。
 深く息を吸った須依は、表情が見えるようにマスクを外し用意していた言葉を告げた。
「突然申し訳ありません。井ノ島詩織さんのお宅でしょうか。私、学生時代に同級生だった須依南海です。ご主人の件で少しお話をさせて頂きたいのですが、お時間よろしいでしょうか」
 やや間を空けて彼女の声が聞こえた。
「少しお待ちください。今開けますから」
 もう少し抵抗されるかと覚悟していたが、意外な対応に戸惑っていると、開錠音が耳に届く。
「じゃあ、中に入ろう。玄関はもう少し先だ」
 玄関先まで数メートル歩く間に烏森が耳打ちしてくれた。インターホンは門の外にあり、中から門扉もんぴのロックを解除しなければ、中に入れない仕組みらしい。塀も二メートル以上の高さがあるという。当然の用に防犯カメラも設置されているようだ。
 そこまでセキュリティがなされているのなら、豪邸といっていいだろう。もしかすると井ノ島の給与だけでなく、詩織の家からの補助も受け建てられたのかもしれない。
 マスクをつけ直しようやく建物の入り口に辿り着いたところで、扉が開く音がした。
「どうぞお入りください」
 彼女もマスクをしているらしく声はこもっていたが、久しぶりに生で聞く懐かしい響きに、須依は何故か怯えた。軽く頭を下げて三和土たたきへ進むと、後ろで扉が閉められた。
「お邪魔します。私はこういうものです。仕事上のパートナーとして、彼女と一緒に行動しています」
 烏森が名刺を渡したようだ。記載された肩書を見たからだろう。
「東朝新聞の記者さんですか。ということは彼女の同僚なのですね」
「いえ、彼女は会社を退職して現在フリーになっていますから、厳密に言えばかつての同僚というのが正しいですね」
 そこで須依は自分の名刺を差し出し、付け加えた。
「烏森さんは以前いた部署の先輩で、昔も今もお世話になっているの。彼は私より先に障害者となった方なので、そういう意味でも色々教えて頂くことが多くてね」
 その言葉を受け、彼は左足を見せたのだろう。驚いた彼女が息を呑む気配を感じた。それでもすぐに気を取り直して言った。
「どうぞ靴を脱いでお上がり下さい。足元に気を付けてね」
 後半は須依に向けられた言葉のようだ。しかしその物言いから、さげすみの感情が読み取れた。先程察知した感覚は間違っていなかったらしい。どうやら彼女は須依に対し、怒りと嫌悪感を持っている。
 その原因は、客間らしき空間へ通され椅子に座るよう促され席に着いた途端、理解した。
「あなた、昨日あの人と会ったらしいわね」
 昨夜帰宅した後、井ノ島が話をしたのだろう。それを聞いた彼女は憤慨ふんがいしているらしい。その証拠に須依が答えない内に責め始めた。
「どういうつもりなの。十数年振りに突然会社に押し掛けたと思ったら、会社で起こった問題について根掘り葉掘り聞いたようね。大学の同級生だった事を利用して、マスコミの取材規制をかいくぐるなんて卑怯でしょ」
「ちょっと待って下さい。会社の受付でご主人に面会を申し出た際、同級生だとは言っていませんよ。彼女はただ名前を告げただけです。その上でご主人は、突然の訪問にも関わらず会ってくれました。何か誤解されているようですね」
 烏森の言い分を聞き動揺したようだ。井ノ島は自分に都合がいいよう詩織に説明したのだろう。まさか須依が自宅を訪ねるなんて、想像もしなかったからに違いない。
 それでも須依に対する憎悪が勝ったと思われる。
「そんなことはどうでもいいわ。会社での事件だけでなく、私は元気にしているかとか、子供達がどうとか家庭内の状況まで聞いたそうじゃない。何が目的なの」
 彼女の激しい剣幕けんまくが、かえって須依の頭を冷静にさせた。当初感じた恐怖心は無くなり、強い反発心が芽生えたからだろう。淡々と答えた。
「目的は一つ。事件の真相を明らかにする。ただそれだけ。その取材中に竜人さんの名が出てきた。だからどう関係しているのかを確認する為、会って話を聞いたに過ぎない。プライベートについて質問したのは、本題に入る前の単なる雑談。でも話を聞いた後、事件に関わっている可能性が出てきた。だからわざわざここへ来たの」
「彼の下の名前を呼ばないで欲しいわ、馴れ馴れしい」
「どうして。今はあなたも井ノ島なのだから区別しているだけ。さんをつけているだけでもいいでしょう。別に昔と同じ呼び捨てをしたっていいけどね」
 須依の挑発に彼女は唸った。言い返したいのだろうが、かつての親友が盲目になったのを機に、恋人を奪った立場としては分が悪いと悟ったらしい。そこで話を戻した。
「事件に関わっている可能性が出てきたからここへ来た、とはどういう意味よ。私が何をしたっていうの」
「詩織が直接何かをしたとは思ってない。警察が今回の事件を調べる内に、竜人さんのパソコンで漏洩した機密情報にアクセスした形跡を発見したというのは聞いているよね」
「それがどうしたの」
「彼はアクセスしていないと、警察の事情聴取で否定している」
「当然よ。あの人がそんな馬鹿な真似をするわけないでしょ」
「彼がしていないのなら、警察から疑いがかけられるように誰かが仕組んだ。つまり個人的な恨みを持つ人の仕業かもしれない。だったら彼の仕事上のトラブルを含め、私生活に関わる点も疑うのは当然でしょう。それは警察も同じはず。事情聴取で何を聞かれたのか、竜人さんから知らされていないの」
 心当たりがあったらしい。彼女は沈黙した。須依と会った件もその日の内に報告している位だ。警察に疑われていると知れば、どういう話をしたのかを確認しているに違いないとの読みが当たったのだろう。
 彼は詩織の父によるコネ入社だ。もし何か問題を起こせば、義父の顔を潰すだけでは済まない。プライドと世間体を気にする彼女からも大いに叱責を受ける。それを恐れ、自分は全く身に覚えが無いと、詳細な弁明を強いられると想像するのは難しくなかった。
 須依は口を噤んだままの彼女に尋ねた。
「竜人さんは何て言っているの。誰かに恨まれている覚えはないの」
「ある訳がないでしょう。部長にも可愛がられているし、アクセスした時間帯にいた部下達からも、比較的慕われていたはずだから」
「だったらあなたはどう。恨まれているかもしれないと思う人はいないの」
 想像もしていなかったのか、呆れたように彼女は答えた。
「何を馬鹿なことを。私が恨まれていたとしたら、会社の事件なんて関係ないでしょう」
「そうとは限らない。社内の人間が竜人さんのパソコンを使ってアクセスしたのでなければ、彼が主張しているように外部の人間が、社内からアクセスしたように見せかけた可能性があるからね」
「それがどうだっていうの」
 意味を理解できず尋ねた彼女に、須依は説明した。
「外部から不正アクセスできる腕を持った人間が、社内からアクセスしたように見かけるというのはまず考え難い。今回の情報流出の件だって、外部から侵入されたと判明した方が先。その後警察が捜査している内に、内部からのアクセスは発見されたのよね」
「そう聞いているけど」
「そんなことが分かりきっているのに、内部からアクセスして誤魔化すとは考えにくい。だったら何故わざわざ、そんな面倒な真似をしたのかと考えたら、彼に罪を着せる為だったとすればどうなると思う。彼やあなた、または八乙女財閥に恨みを持つ人物による仕業だと考えるのが筋でしょう」
ようやく彼女は意味を飲み込めたようだが、戸惑いつつ否定した。
「まさか。私や父達に恨みを持つ人なんて。そんなはずない」
「もちろん犯人の主な目的は、機密情報の流出だったはずよ。だから外部の人間が内部からアクセスしたとみせかけたのも、あくまで副産物にしか過ぎなかったのかもしれない。ただそうだとしても、竜人さんのパソコンを使った動機が怨恨ではないかと疑う方が理にかなうでしょう」
「どういうことよ。早乙女財閥に恨みを持つ人間が、今回の事件を起こしたと言うの」
「その可能性は否定できないでしょうね。白通と早乙女財閥は繋がりが深い。そこで直接八乙女財閥を攻撃するのではなく、関連する企業を狙って情報漏洩させ不正な取引を暴露ばくろさせようとしたとも考えられる。だから一見係わりが無いように見える経理部のパソコンを使って内部情報にアクセスしたとすれば、何故彼だったのかという謎が解けるじゃない」
「ちょっと待って。今回の件で、政治家や官僚達の名前が複数挙がり、不正取引疑惑が持ち上がっているのは確かよ。でも八乙女財閥が関係しているなんて、私は聞いていないわ」
「今の所はね。直接不正な取引をしていれば、とっくに名前が出ていたでしょう。だけど現在取り上げられている政治家達を通し、間接的に裏取引をしていた可能性だってある。それを表に引き出すのが犯人の目的で、そのヒントとして竜人さんが利用されたのかもしれない」
 彼女は絶句していた。絶対にあり得ないとは言い切れないからだろう。専業主婦でしかない立場なら、経営に関わっているとは考えにくい。よってそうした内部情報を把握しているとは思えなかった。だから須依の飛躍しすぎとも言える推測を笑い飛ばせないのだ。
 しかしこれは確信を持って述べたものではない。あくまで可能性の一つにすぎず、しかも本気でそう思ってはいなかった。単に彼女を揺さぶる為の詭弁きべんである。
 何故ならもし犯人の意図が本当に八乙女財閥だとすれば、そんな回りくどい手を使わなくても、より確実にダメージを負わす別の方法はいくらでもあるからだ。
 須依は八乙女家と関係があると思わせ、情報を引き出そうとしただけだった。その罠にまんまとかかったらしい。彼女は明らかに動揺をしている気配を出していた。
 そこで質問を浴びせた。
「警察から疑われている人達と、あなたは面識がないの。話した事ぐらいはあるでしょう」
 しばらく考えている様子だったが、彼女は答え始めた。
「中条部長とは何度か会ったことがあるし、今回の件でも直接電話をして事情を確認したわ」
 どうやら先程、部下達から慕われているという話は中条から聞いたらしい。須依は頷き先を促すと、彼女は話を続けた。
「渡辺さんは一度、この家に来ていると思う。部長代理に昇進したお祝いの食事会をした時だったから、他の部下達と一緒だったはずよ。何を話したかは覚えていない。でもそんな悪い印象はなかったと思うし、竜人からも優秀な部下だとしか聞いていないわ。寺畑さんという女性とは、多分会ってない。食事会にも来なかったはず」
 この時初めて二人の年齢が判明した。渡辺は入社十一年目の三十三歳、寺畑は入社八年目の二十九歳だという。
「写真なんかで顔は見てないの。竜人さんからどういう人だとも聞いていないの」
「食事会に来ていなかったら、顔は分からない。あの時撮った写真があるけど、多分中条部長や渡辺さん達しか映っていないわ。どういう人だなんて、特に説明はされていない。今回疑われたのも、単に残業で残っていた一人に過ぎないと言っていたから」
 須依は心の中で拳を握った。今回ここへ訪ねてきた大きな目的はこれだった。彼のような立場なら、社員同士で交流した際の写真などを持っているだろう。それを見れば渡辺や寺畑の顔が分かる。そう考えていたのだが、見事に的中したようだ。
 しかしその喜びを顔に出さないよう注意し、須依は彼女に頼んだ。
「その写真を見せて貰えるかな。渡辺さんだけでもどういう人か知っておきたいし、その時の社員さん達の雰囲気も知りたいの。もし他にも会社で撮った集合写真があれば、それも拝見したいのだけど」
 一瞬沈黙した様子から、恐らく怪訝な顔をしたのだろう。それでも彼女は立ち上がり、席を外して取りに行ったらしい。もし彼女達を恨んでの犯行だとすれば、それが誰なのかを彼女も知りたいと思ったようだ。
 少し経ってから戻ってきた彼女が、プリントアウトされたものを机の上に置いた。さすがは同年代だ。もう少し若い子達なら全てデジタル保存しているだろう。だが彼女達は写真として残していた。
 しかし残念ながら全体の集合写真のようなものは無いという。そこで烏森が断りを入れ、スマホで写真を撮っていた。
 その間に尋ねた。
「寺畑さんについて、優秀だとかそうでないとかも聞いていないの」
 どうやら黙って頷いたらしい。須依には見えなかった為、烏森がこっそり耳打ちし教えてくれた。こういう配慮と想像力の欠如が彼女の悪いところだ。
 育ちのせいなのか相手の立場になって考える、または発言するという視点に欠けていると、学生時代から思っていた。おおらかで自然体だと言えば聞こえがいいけれど、無神経で自己中心的な性格は今も変わらないらしい。
 外見が変わったかどうか分からないけれど、タイプとして須依達は対照的だったと思う。目鼻立ちははっきりしているが、短髪でどちらかといえば男っぽくさばさばしているとよく言われていた須依に対し、彼女はふわりとした長い巻き髪で可愛い女性だった。
 普段の行動も無駄を嫌い、男性や目上の人に対して容赦ない態度を取っていた須依と比べ、おっとりとした仕草で表だって人と争う事を避けるタイプだった。
 そんな彼女と何故親友と呼べる仲になったか、周囲の友人が不思議がっていたけれど、互いに無いものを持っていた為だと須依は思い込んでいた。
 はっきりものが言えて、美人と呼ばれたり外見で評価されたりするのが嫌で、飾らないところが良いと彼女から言われたこともある。
 当時はその真逆さがかえって新鮮に映り、二人は意気投合し仲良くなったのだ。けれど本当の中身は違った。それを知ったのは須依が視力を失ってからである。
 目から得る情報が無くなった為、声や気配で何を考え伝えようとしているかを察するようになった。そこで見えなかったものが視えてしまったのだ。
 彼女は自分が口に出せば損をすると思われる場面で、須依を利用していただけだったと後に気付かされた。さらに見た目は良いがタイプの異なる女性といれば、周囲から注目を浴びかつ好みの異性と出会う機会が増えると考えていたらしい。 
 須依が障害者となった途端に距離を取り始めたのが、証拠の一つだ。もちろんこれは被害妄想でない。疎遠になってから他の人達を通じ、裏でそう陰口を叩いていたと聞かされ本人にも問い詰めたことがある。
 その時彼女は驚くほどすんなりと認め、挙句の果てに井ノ島と交際を始めたと告げられたのだ。あれがきっかけで、彼女達とは完全に縁を切った。
 当時はまだ障害を負った精神的なダメージを引きずっていた頃だ。その傷に塩をすりこまれたように感じた。しばらく人間不信に陥り、病院やリハビリ施設に通う以外は家に籠ってばかりいた嫌な記憶が蘇る。
 会社を辞め一時無職となった須依だが、実家暮らしだった点が幸いした。転勤族の父が二十五年前に購入した赤羽の三LDKのマンションに須依は学生時代から住み、今も一部屋を提供されている。
 丁度その頃定年退職し、七十歳まで関連会社で働いていた父はもう八十歳、母は七十六歳となり、現在悠々自適ゆうゆうじてきな年金生活を送っている。
 ちなみに父と同じく保険会社に勤務していた兄は、結婚した妻が都内にある従業員三十名規模の法人保険代理店の社長の娘だった為、後継ぎの婿としてその会社に転職した。次期社長で今は常務だ。しかもたまたまだが実家近くに住んでいる。
 その為まだ元気ではあるけれど将来不安な高齢の両親については、兄に任せれば問題なかった。それより彼らが最も心配しているのは、視覚障害者で独身の須依の行く末だろう。
 しかし住む家があり、まだまだ仕事も続けていて蓄えもそれなりにある。また視力を失った生活は十五年になり、仕事以外なら一人で十分やっていける。ただ年老いた時が大変だろうから、そうした際に備えて専門の施設に入れるだけの資金は必要だ。
 兄は生活に困っていない為、両親達は須依に家も含めた遺産を多く渡すと言っていた。けれども今後何があるか分からない。よって働ける間はしっかり稼いでおこうと思っている。
 けれど目の病に罹ったからと、悪い想いばかりした訳ではない。視力が低下してから再びサッカーを始め、チームに所属するようになった事がその一つだ。
 といっても普通のサッカーはできない。やっているのはブラインドサッカーである。参加できる回数は仕事が多忙となるにつれ少なくなったが、リハビリの為に始めた頃は夢中になり、ここで多くの事を得て学んだ。
 例えばたくさんの資格障害者達と知り合い、またその人達をサポートする健常者のボランティア達と交流を深められた。
 障害者スポーツは、健常者達の助けなしでは成り立たない。試合ともなれば、ゴールの設置やコートのサイドラインに、高さ一メートルほどのフェンスを立てる必要があるからだ。
 また審判はもちろん選手に声をかけ指示を送る監督や、ゴール裏にガイドまたはコーラーと呼ばれる健常者が必要となる。さらにゴールの位置や角度、距離を伝える人達がいなければ成立しない。
 公式戦では他にも選手をコートに誘導する係の人間や、選手交代の際にもピッチの外に連れ出す役目の人、中に誘導する人が必ずいる。健常者の力を借りなければできない現実を受け入れつつ、障害者だからこそできるプレーができるか。それが醍醐味だった。
 全員アイマスクを嵌めるブラサカでは、真っ暗闇の中でボールから聞こえるわずかな鈴の音を聞き取らなければならない。かつ相手選手達がボール奪取に来る際に言う、ボイ! という掛け声を聞き、その前に近づいてくる敵や周りを走る味方の気配を感じ取る。
 またはチームの監督やガイド、味方の選手達の声、さらには相手チームの監督の声などを聞き分け状況判断しなければならなかった。お互いが見えない中でのプレーにより、激しい接触も覚悟しなければならないのだ。 
 中には意図的に激しくぶつかる男子選手もいた。その為にわざと手を長く伸ばし相手と触れるようにして衝突を避け、相手が次に右へ動くのか左へ動くのかなどを察する必要に迫られた。こうした競技に携わったことも、聴覚や触覚を研ぎ澄ます訓練になったのだ。
 健常者のゴールキーパーを相手に、ゴールを決めた時の爽快感は格別だった。観戦中は声出しを禁じられている観客達も、得点した時だけは味方のスタッフ達と同様に、歓喜の声を発して大騒ぎする。
 静寂の中から爆発するように会場を沸かせた瞬間など、通常では得られない鳥肌が立つほどの感動と喜びを味わえた。視覚を失った須依だが、ブランドサッカーを始めたことで、他にもかけがえのないものを手に入れられたと思っている。
 例えば同じ障害者達との交流の中で点字を読んだり、作ったりする作業もそうだ。さらにはゲーム中だけでなく様々な人達と接する機会を持った為に聴覚が鍛えられ、相手の言葉のトーンを聞き分け、また長い会話を暗記できるようにもなった。
 その上人の歩き方の音等で、様々な気配を察知する特技も身に付けられたのである。観察眼ならぬ監察耳と鋭い聴覚や触角と記憶力により、仕事上でも有効な情報を得る場合など大いに役立っていた。
 これは健常者だった頃に培った性格も影響していた。転校を重ねていた為に普段でも人の顔色を見たり、空気を読んだりする癖が身についていたからだろう。それが功を奏したのか、今では人の話す声を聞くだけで相手の機嫌などが分かるようになったのだ。
 元々人に嫌われることが怖く、いつも明るく笑顔を絶やさないようにし、敵をなるだけ少なくしたいと思っているほど臆病なタイプだ。それをなんとかポジティブな思考に変換し乗り越えてきた。
 そんな須依が周囲の協力を得ないと生きていけない状況に置かれ、また多くの仲間達と出会い、人に頼る心構えと方法を覚え、有難みを知った。
 だからこそ自分が得られた分だけでも人に恩返しをしようと、心の底から思えるようになれたのだ。他人の役に立ちたい。視力を失った自分でも、存在意義があると世間に知らしめたい。
 そうした意識が強く働いたからこそ、今のような環境でも記者を続けていられるのだと思う。
 視力と同時に多くを失った須依だが、現状を受け入れた上で新たに得られたものがある。そう信じ行動してきた。それが間違っていなかったと、今では多くの場面で痛感している。
 自分の弱さを知り、その上で強みはないかを理解し、それらを補う為に組んだのが烏森だ。彼からも多くを学び、記者としてだけでなく人として、障害者としての心を鍛えてきた。
 だから詩織が知っている、あの頃の須依ではない。見えない彼女の姿や悪意にさらされても、決して怯える必要は無いと自分に言い聞かせる。
 須依は沈黙し続ける彼女に向かってもう一度尋ねた。
「本当に竜人さん自身に、恨まれるような心当たりは無いのね」
「ある訳ないでしょう」
 言葉は尖っていたが、先程よりもトーンが弱かった。自信がなくなったのかもしれない。または何か引っかかる点があるのだろう。 
 だがそれを素直に話すとは思えなかった。よって方向を変えた。
「八乙女財閥の方はどうなの。あなたの父親から何か聞いていないの。今回の事件について、何も話さないはずはないわよね」
「両親から一度だけ、電話があったわ。でもそれは竜人の会社で起こった事件だから、巻き込まれていないかと心配していただけ。その時は経理部から機密情報にアクセスした件はまだ明らかになっていなかったから、単なる世間話で終わったわよ」
「お父さん自身は影響なかったの」
「財閥なんていうけど、既に兄の代へ引き継がれているし八十を過ぎた父の影響力は以前ほどないわ。兄だって大した力もなく、一企業グループの社長にしか過ぎないのよ」
 その点は事前に調査済みだった。彼女の言う通り学生時代だった二十数年前の勢いはなく、今や白通の方が格上になっている。よって余程根強い恨みが無い限り、現在の八乙女財閥をおとしめようと考える人物やグループが存在するとは考え難い。
 となればやはり井ノ島個人または経理部にいる人物に、恨みを持つものの仕業と考えた方が良さそうだ。けれどこれ以上、詩織からは井ノ島の個人情報等を含め、有益な話が聞けるとは思えなかった。
 そこで一旦トイレを借りたいと申し出て、烏森と共に席を外した須依は彼に途中で耳打ちした。
「何かし忘れている質問はありますか」
「いや、特にない。彼女の反応を見ても、これ以上は何も出て来ない気がする」
 彼が同意見であり時間もそろそろ昼に近づいていた為、席へと戻った須依は口を開いた。
「長い間、お邪魔したわね。もうそろそろお昼になるから、失礼させて貰うわ」
 そう告げると、彼女は立ち上がり言った。
「そうして頂戴。あと約束して。もう二度と彼や私に近づかないで」
 再び嫌悪感をあらわにしたが、須依はすげなく答えた。
「それは約束できかねるわ。あなたはともかく、警察がまだ竜人さんに目をつけているから。今回の件に全く関係無いと分かるまで取材を続ける。それが今の私の仕事。事件の真相を究明しようとするマスコミの行動を、あなたには止められない」
 突き放した言葉に腹を立てたのだろう。
「偉そうな口を利かないで。もう昔とは違うのよ。目が見えないあなたに、一体何ができるというの。己を知りなさい」
「知っているからこそ言えることがある。見えないからこそ分かることもあるの。現にこの情報は、マスコミの中でまだ私達しか知らない。でもいつ他社が嗅ぎ付けたっておかしくないのよ。警察だっていつまでも隠し通せないからね。それは覚悟しておきなさい」
 ダダッと遠ざかる足音が聞こえ、再び近づいてきたと思った瞬間、体に何かぶつけられたように感じた。もう一度その行為をしようとした彼女を、烏森が止めたようだ。
 その気配と匂いで塩をかれたのだと気付く。
「さっさと出てって頂戴。この疫病神がっ」
 ヒステリックに叫ぶ声を無視し、須依は先程入って来た道順を覚えていたので、白杖を突きながら玄関先へと進み靴を履いて素早く外へと出る。その跡を烏森が追いかけてきた。
 背後の扉が激しく振動して閉められ、鍵も掛けられたようだ。敷地を出ると、門扉も遠隔操作でガチャリと閉じられた。そのまま歩き続ける須依の服や頭にかかった塩を、烏森が払いながら言った。
「最後はすごい剣幕だったな。途中から大人しくなっていたのに」
「せめてもの抵抗でしょう。彼女はずっと私に劣等感を抱いていましたから。それが障害者になった途端、優越感に変わったようです。でも今回で立場が入れ替わったと知り、悔しかったのだと思います」
「なるほど。須依の親友だったと聞いていたからどんな奴かと興味を持っていたが、プチセレブで意識とプライドだけが高い、どこにでもいる情緒不安定な中年女性だったな。昔は可愛いかったのかもしれないけど、加齢と育児疲れなのか化粧っけもなかったよ。慌ててメイクをしたようだけど、顔色の悪さは隠せていなかった。同い年なのに、薄化粧の須依の方がずっと若く見えたぞ」
「馬鹿みたい。私は見えないから、取り繕う必要なんてないのに」
「俺もいたからだろう。それが女心って奴じゃないのか」
 須依は鼻で笑った。だが胸のすく思いなどしない。かえってみにくい感情が湧き上がり、気分は優れなかった。自らが生み出した負のエネルギーで、己の心をけがしているような感覚に陥る。
 やはりかつて味わった屈辱を晴らしたいと、無意識に頭のどこかで考えていたのだろう。そんな己の未熟さを恥じながら、須依は邪念を追い払うように首を何度か振った。
 いつまでも過去にとらわれている場合ではない。そう言い聞かせ、次の行動に移ろうと頭を切り替える。駐車場に停めていた烏森の車に乗り込んでから、須依が話かけた。
「渡辺拓の顔写真は手に入ったんですよね」
「ああ。先程見せて貰った写真が鮮明だったから、拡大すればはっきり分かる。これを元にまた張り込みをするか」
「お願いします。他に良い手があればいいのですが。例の四人は、会社を訪ねてもガードが堅く会ってくれそうにありませんから」
「昨夜会った中条のように、上手く捕まればいいけどな」
「そこは烏森さんの腕の見せ所でしょう」
「腕というより、目の働かせどころだろう。あとは見失わないよう、集中力を維持する脳の働きだ」
「高価な栄養ドリンクでも飲んでおきますか」
「いや、眠くならないよう昼寝でもして、早めに食事を済ませておけば十分だよ」
「だったら昼食も早く食べてしまいましょうか」
 須依の提案に彼は頷いた。
「そうだな。移動する途中で何か食べよう。それから警視庁の記者クラブに寄って、何もなければ少し仮眠を取らせてもらうよ。渡辺が退社するのは夜の八時過ぎだろうし、時間はたっぷりある」
「車の中ですか。それともどこか横になれる場所に移動しますか」
「警視庁や記者クラブ、という訳にはいかないからな。車でいいよ。この時期で今日のように晴れていれば、エンジンをかけて暖房を点けなくても十分温かい。換気で窓を少し開けても寒くないしな」
「分かりました。その間に調べておくべき用件があれば、私がやっておきます。何かありますか」
「そうだな。この件のネタ元が警視庁からなら、今まで取材した分をその人に報告して追加の情報を得てくれると助かるが」
 どうやら烏森は、CS本部の佐々から聞いたと薄々気付いているようだ。それでも表面上は認められない為、誤魔化して答えた。
「ネタ元は別ですけど何か進展があるか、念の為にそっちも探っておきます」
 そうして二人は車を走らせ、途中にある弁当屋に寄った。感染症騒ぎが起きてからは、出来る限り店内に長く留まらないよう心掛けている。その為、テイクアウトして車内で食べることにした。
 ちなみに烏森は日替わり幕の内弁当、須依は牛焼肉スペシャルのご飯大盛りを注文した。
 運転席で黙々と二分で食べ終わった彼が、呆れた声で言った。
「しかしよく食うな。コロッケとエビフライとソーセージに焼き肉と、脂っぽいものばかりだけど胃がもたれないか。若い頃は俺もそれぐらいは楽勝だったが、四十を過ぎた辺りからそういう揚げ物は体が受けつけなくなったよ」
「私はまだ平気です。腹が減ってはなんとやら、ですから」
 いつも食欲は旺盛だが、今日は詩織との面会で心身共に疲れていた為だろう。特に体がエネルギーを欲していた。よって嫌味など無視し、バクバクと口に放り込んだ。
 彼に続き食べ終わったところで、二人は警視庁へと向かった。
 記者クラブに顔を出したが、これといった動きは無さそうだと聞き苛つきを覚える。相手が政治家や官僚だけあって、警察や検察もある程度慎重になるのは致し方ない。
 だがそれにしても余りに弱腰ではないか。
「まあしょうがない。時間と手間がかかるから、俺達のような遊軍に回ってきた仕事なんだ。そこは割り切るしかないだろう」
 頭に血が上っていたところを、そう宥めた烏森は夜に備えて仮眠を取る為、車へと戻った。残された須依は彼に提案された件を実行に移そうと、昨日向かった場所へと足を運んだ。
 誰にも足止めされることなく、目的の休憩所まで辿り着いた。だが周囲に気配はない。腕に嵌めた時計で時間を確認すると、まだ二時前だと分かる。
 お昼休みからまだ余り経っていないからか、休憩に出てくる人が少ないのだろう。三時近くになれば、数人は出てくるはずだ。しかし情報を引き出せる人物がその中に居なければ意味はない。
 また目当ての人物は、基本的にサイバービルで勤務をしている。あちらは外部の人間の立ち入りが禁止だ。といって昨日の今日だから、またこちらで会える確率は低いだろう。
 それにまだあと一時間近くある。せめて的場とだけでも話せたらいいのだが。
 そう思いながら自販機でコーヒーを購入し、ちびちびと飲みながら時間を潰す。その間に数人すれ違ったが知っている人の気配はなく、声もかけられなかった。
 そこで思い切って的場が所属する捜査一課を直接訪ねようと考えた。この休憩所から少し先が彼の席がある部署だ。外出して留守の可能性もあるけれど、玉砕覚悟で試してみようと決めた。
 白杖を動かしながら壁際を進み、少しずつ近づく。徐々に人の声が大きくなり、話声の内容が聞き取れるようになった。そこで耳を澄ましてみたものの、須依が調べている案件とは関わり合いのないものばかりで溜息をつく。
 そう簡単にはいかないものだ。半分諦めつつ目的の部屋の扉の前に辿り着いた須依は、手探りでドアノブを見つけ右手で握り、意を決し左手に持ち換えた白杖で軽くノックしてから押し開けた。
「失礼します。すみません。的場警部補はいらっしゃいますか」
 部屋全体がざわざわとしていたが、入り口近くにいた一部の人だけは、須依に気付いたのか口を噤みやや静かになった。しかし奥にいて気付かない人達の会話が続いており、騒がしさは治まらない。
 耳に届く雑音を撥ね退けながら、須依の問いに対する答えを待つ。するとやや戸惑いを感じさせる女性の声がした。
「あの、失礼ですがどういったご用件でしょうか」
 須依は首からぶら下げている許可証を手に取り、それを見せながら告げた。
「すみません。私、ここの記者クラブに出入りしている須依といいますが、的場警部補にご相談したい件がございまして。いらっしゃればと思いお伺いしたのですが、外出されていますか」
 用件が伝わったらしい。
「少々お待ちください」
 声のトーンから、在籍しているらしいと感じて喜ぶ。刑事と言えば捜査する為に外ばかり歩き回っているイメージを持つけれど、現実は意外と違う。特に事件がない時は、報告書の作成など机上の仕事に追われている場合が結構あるのだ。
 とにかく彼がいれば話は進む。そう思っている所に現れたようだ。
「須依さん、どうしたんですか。わざわざこんなところまで。何かありましたか」
「突然すみません。今少しだけ宜しいですか。昨日、佐々君と話していた件でちょっと確認したい事が出来たので、聞いて貰えないかと思ったの」
「さ、佐々参事官ですか。い、いや私なんかが取り次ぎなんてできませんよ」
 参事官という響きが周囲にも届いたのだろう。ざわつきがやや収まった、何事かと関心を持ったに違いない。
「今日、彼はこっちへ来ていないの」
「いや、ちょっと分かりかねます。少なくとも私はお見かけしていません。それにあの方が一課にこられたとしても、こちらではなく部長の部屋、または会議室だと思いますよ」
「そう。ここにいないのなら、彼がいるサイバービルに内線をかけて貰うことくらいできるでしょ。私は勤務中の連絡先を知らないし、個人の携帯も教えて貰ってないから。以前聞いたメールアドレスは、自宅用のパソコンにしか届かないみたいだし」
「それは、ちょっと。あのどういった件についてですか」
「昨日少し話題に挙がった件よ」
「あの件ですか。だけどあれから何も進展は無いと聞いていますが」
「それがこっちでは、少し動きがあったのよね。だから報告ついでに確認したいと思って。ちょっとした捜査協力よ」
「捜査協力、ですか。少々お待ち頂けますか。サイバービルへの連絡は、誰でもできるようになっていません。番号も外部には知らせていませんからね」
「だから言っているんじゃない。個人的な連絡先だって教えられないでしょ」
 やや間を空けてから彼は答えた。
「例の情報漏洩の件ですよね。上に相談してみます。ここに椅子があるので、座ってお待ちください」
 素直に頷き、指示された通りに腰掛けて待った。その間周囲から遠巻きに、須依へと送られる視線を感じた。物珍しさと警戒心が入り混じっているようだ。
 上司らしき人と的場の会話が僅かに届く。一課長ないしは監理官あたりだろう。当初は胡散臭うさんくさげに聞いていたようだが、佐々と大学の同級生の間柄だと知り、無下には出来ないと判断したらしい。彼らは警視正か警視で、佐々より階級が下だ。しかも捜査協力となれば尚更である。
 それでも直接須依が電話をかけることは許されないからと、的場の上司が代わりに連絡し、佐々にお伺いを立ててくれるという。
 そうした様子に気付かない振りをし、黙って座り聞き耳を立てる。どうやら佐々は席にいたらしい。上司が用件を告げた後、的場が電話を代わったようだ。彼は須依が言った通りに説明したところ、何度か、はい、はいと頷いた様子をみせ電話を切った。
 それからこちらへと近づく足音が聞こえたので、じっと待った。
「お待たせしました。今、佐々参事官と連絡が付きました。須依さんの携帯番号は知っているので、数分経ったらそちらに直接かけるそうです。なので休憩室へ移動し、そこで待っていて欲しいとのことでした」
 そう告げた後、彼は小声で言った。
「周囲に誰もいないか、気を付けるようにとおっしゃっていました」
「分かりました。お手数をおかけしました。有難うございます」
 須依は立ち上がり頭を下げ、的場が扉を開けてくれたのでそのまま外へと出た。しばらく背後で彼が見送ってくれている気配を感じつつ、再び休憩スペースへと移動する。
 誰もいない様子だったので、そのまま丸テーブルに手を突きスマホを出し連絡を待った。ここなら携帯電話で話していても、余程の大声で無ければ注意を受けることはない。ただ他に人がいれば話が漏れてしまう。佐々はそれを嫌ったらしい。
 サイレントモードにしたスマホが振動した為、須依は手に取った。
「はい。須依です」
「おい。わざわざ何の用だ。捜査一課を訪ねてまで連絡を寄こすなんて、余程の情報を手に入れたんだろうな。それと周囲に誰もいないか確認したか」
 彼はあからさまに不機嫌な声だったが、わざと明るく言った。
「誰もいないわよ。余程の情報かは分からないけど、昨日井ノ島君と会ったわ。今日は彼の家を訪ねて、詩織とも話をした。二人と会話するなんて十数年振りだったから、ちょっと緊張しちゃった」
 背景を知る彼は、息を呑んだらしく喉が鳴った。
「おいおい、早速動いたのか」
「何よ。あなたが教えてくれたんじゃない。それで分かったわ。情報漏洩事件が起こった同時期に、井ノ島君のパソコンを使って内部情報にアクセスした人物がいるようね。ちなみに彼は自分じゃないと否定していたわ。他に疑われている上司の中条部長とも話をしたけど、同じく自分じゃないと言っていたわよ」
「井ノ島から直接聞いたのか。しかしな。自分がやりましたと犯人が素直に言うようなら、とっくに事件は解決しているよ」
「でも私の耳で聞いた限りだと、嘘をついているとは思わなかったけどね。あと二人の声を聞けば、はっきり断言できるんじゃないかな。ちなみに渡辺という男性社員には、今夜会う予定だけどね」
「そんな所まで調べたのか。さすがに早いな。といっても顔が分からなければ動けないだろう。誰の力を借りているんだ」
「烏森さんよ」
「ああ、あの人か。彼なら信用できるし、間違いなく力になってくれるだろう」
 これまでいくつかの事件で組んだ経緯から、二人は何度か面識がある。よって彼なりにそう認識したらしい。
「あなたに太鼓判を押して貰ったと言っておく。彼も喜ぶわ」
「つまらない話をしているんじゃないよ。それで俺に何の用だ」
「井ノ島君は警察の事情聴取で、外部からアクセスした人間が内部犯行にみせかけたのではないかとも主張しているみたいだけど、そっちの捜査はどうなっているの」
「何だ。その確認か。そんなもの、システムのアクセス履歴を分析しなくたって、お前でも分かるだろう。高いハッキング能力を持つ奴が、何故そういうお粗末な真似をするんだ。外部から不正アクセスした形跡を残さずにそこまでしたとなれば話は別だが、そうじゃない。それに動機は何だ」
 そこで詩織にも話した八乙女財閥に恨みを持つ人物説をぶつけたが、失笑された。
「余りにも回りくどい手だな。井ノ島を嵌めようとしたと考えれば、あり得なくはない。だが違ったらどうする」
 須依はハッとした。彼も言い過ぎたと思ったのだろう。話を打ち切ろうとした。
「俺に告げたかった件はそれだけか。だったら切るぞ」
 そうはさせまいと追及した。
「井ノ島君のパソコンを使ったのは彼に罪を着せる為ではなく、別の人物を狙っての行動だった。そう警察は睨んでいるのね」
「あらゆる可能性を疑うのが俺達の仕事だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 彼の口調で確信した須依は告げた。
「目的が井ノ島君でなければ、考えられるのは彼の上司だけよね。そうでなければ、事件とは関係が無さそうな経理部のパソコンを使うなんて考えにくい。何か問題が起これば、責任を問われるのは部の最高責任者。つまり中条部長に恨みを持つ人間の仕業なのね」
「俺は断定なんかしていない」
 可能性の一つの為に完全否定できない為か、そう言葉を濁らせた彼をさらに問い詰めた。
「そうなると、渡辺か寺畑のどちらかが部長と揉めているようね。警察はその裏付けの最中だから、外部から不正アクセスした犯人による偽装ではないと考えている。渡辺か寺畑、どっちなの。名前で言えないのなら、男か女かで答えて貰ってもいいわ」
「馬鹿を言うな。これ以上お前と話すことはない」
 そこで通話が途切れた。しかしこれは大きな収穫だ。今夜、渡辺を捕らえ追及すれば、犯人かどうかがある程度分かるだろう。
 もし彼なら、警察も周辺で行動確認をしているはずだ。そうした形跡が無く話を聞いても疑わしいと感じなければ、寺畑だけに絞られる。
 そう考えると、彼女の顔写真を入手できていないのは痛い。あれば今日中に二人を捕捉ほそくできる。また犯人が彼らに限定されるのなら、今の内に身上調査もしておきたかった。
 須依はそこで頭を働かせ、ある行動に出ようと決心した。烏森は現在今夜に備えて仮眠中だ。邪魔をするのは忍びない。よって一人で向かうことにした。
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