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二課への探り
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須依と同じく烏森もかつて政治部に在籍しており、これまで数々の案件に携わってきた。そうした経緯から、二課所属の刑事の中には見知った顔が何人かいる。
振り込め詐欺などの特殊詐欺や通貨偽造、贈収賄罪といった金銭、経済、企業犯罪さらには選挙違反等も捜査する、主に知能犯を相手にするのが彼らだ。
よって警視正クラスの課長は、頭が良いと言われるキャリア出身で占められていた。とはいってもキャリアなら二十代後半には警視、三十代半ばには警視正に昇進できる。その為昔と違い、多くの課長クラスは須依達よりも年下ばかりになった。
けれど佐々のようなキャリア出身でない須依達が、先輩風を吹かせることもできない。その為、取材によって地道に築いた捜査員との人脈を使うしかないのだ。
早速烏森が面識のある一人を発見したらしく、声を掛けた。
「八城さん、ご無沙汰しています」
須依より一回り年下の彼はノンキャリアの巡査部長だ。簿記の資格を持っており優秀さを買われ、五年前に所轄の刑事課を経て二課へと配属された人である。
これまでいくつかの事件で絡み、須依達には好意的な態度で接してくれる数少ない刑事の一人だった。発する雰囲気は穏やかな草食系動物、強いて言えばヤギに近い。
ちなみに的場は肉食系だがスマートなヒョウ、佐々は大空から彼らを下に見て、時には力でねじ伏せられる猛禽類のオオワシといったところか。
「ああ、烏森さん。例の事件についてなら、特にお話しできることはないですよ」
廊下を歩いてきた彼は素早く防御線を張った。しかしその声から嫌悪感や拒絶反応は伝わってこない。よって本当に流せる情報が無いのだと悟る。
しかしこちらが知りたい事案は、彼が頭に浮かべている件とは恐らく違っているはずだ。よって今度は須依が告げた。
「いえいえ、政治家や官僚でない人達の件でお伺いしたいのですが、ちょっといいですか」
やはり女性で更に盲目の記者からの誘いは無下に断れないと思ったのだろう。
「何の件ですか。まあいいでしょう。向こうの休憩スペースに行きませんか」
恐らく彼はそこで飲み物を買って、息抜きでもしようと出て来たようだ。こちらもその方が有り難かったので彼と共に移動した。
三人とも自販機で飲み物を購入し、丸テーブルを囲む。余り長話していると迷惑がかかると思い、須依は前置きなしに質問した。
「例の件で、あの会社の経理部の人間に事情聴取をされたのは八城さん達ですよね」
驚いたのだろう。息を呑む様子が感じ取れた。
「どこでそんな話を仕入れたんですか」
「実は大学の同級生があの経理部で働いていましてね。その彼から直接聞きました。部長等の管理職も含め、一課所属の社員が事情聴取されたようですね。どういう切り口で何人から聞きましたか」
「ちょっ、ちょっと待ってください。誰ですか。その同級生という人は。鎌をかけているんじゃないでしょうね」
先程とは違い、明らかに警戒している声色だ。須依は首を振った。
「違いますよ。経理部長代理の井ノ島竜人です。出身大学を調べてみれば分かりますよ。ちなみに私の目が見えていた頃にお付き合いしていた、元カレでもあります。それに彼女の妻の詩織も同じ同級生で、かつては親友でした。早乙女財閥のご息女ですよ」
警察が本気で調べれば簡単に仕入れられる情報だ。また先に伝えておけば、こちらのネタ元はそこだと信じるだろう。そうすれば佐々に迷惑はかからないとの計算があった。
念の為出身大学名を告げた所、彼は信じてくれたらしい。
「そうでしたか。須依さんの同級生だったとは、また奇遇ですね。だったら誤魔化せないな。確かにうちの課で事情聴取をしました。総勢二十名弱といったところでしょうか。でも何を聞いたのかは、さすがに言えませんよ」
「あれ。外部からの不正アクセス以外で、あの課のパソコンから機密情報にアクセスした形跡があったからと聞いていますけど」
彼は大きな溜息をついた。
「疑われているのに、よく喋りましたね。そこまで掴んでいるのなら、確認する必要は無いでしょう」
「いえいえ、そこからですよ。あれほどの企業なら、今の時代だと一人一台はパソコンをあてがわれているはずです。つまり社内からのアクセスが確認できたのなら、具体的に誰のパソコンが使われたかなんて調べがつくでしょう。なのに管理職を含め、課にいる多くの社員に事情を聞くなんておかしくないですか」
「そんなことはありませんよ。仮に特定できていたとしても、周囲にいる人達から話を聞くのは当然でしょう」
「本当に特定できているんですか。どのパソコンからアクセスしたかは判明しているけど、別の誰かが操作した可能性も残っているから、確認していたのではないですか」
言葉に詰まった為、図星だと確信する。そこでさらに尋ねた。
「アクセスした時間帯などから、ある程度絞られたはずです。何人いたんですか。もちろんそこに井ノ島竜人も入っていますよね」
まさかと思いながら誘導尋問をかけたが、すぐに否定されなかった為、須依は内心驚いていた。そう気づかれないよう平常心を保ちながら彼の言葉を待った。
「しょうがないですね。それだけ取材済みだったら、こちらとしても確認したい件があります。アクセスしたのは自分でないと、須依さん達に井ノ島竜人は主張した。そうですね」
「それが真実かどうかは分かりませんが、同級生とはいえ記者の私にやりましたなんていうはずがないでしょう」
どうやらこちらが持つ情報を仕入れたいと思っているらしい。こうなれば交換条件として、ある程度のネタは引き出せそうだ。
そう目論みわざと焦らして答えたところ、彼はさらに質問した。
「須依さんが聞いた感触では、それが嘘だと思いましたか。あなたの聴覚や洞察力が優れていることは、これまでのお付き合いで良く知っていますからね。正直に答えてください」
「彼が最も怪しい人物なのですか。他に誰と誰をどの程度疑っているのか、それ位は教えてください。そうすれば、こちらが持つ情報と照らし合わせた捜査協力が出来ると思いますよ」
井ノ島から社員の固有名詞まで聞き及んでいるかのように思わせ、交換条件を出してみた。すると彼はまんまと引っ掛かった。
「彼のパソコンからアクセスしていたのですから、重要参考人となるのも当然でしょう。ただ本人は否定していますから、罪を被せようと他に操作した人物がいるか、もちろん確認しましたよ。部署がある部屋への出入記録は、社員が持つIⅮカードで調べました。そこで対象となったのは彼以外三人だけです。ご存知でしょうけど、彼の上司である経理部長と、男性と女性の部下が一人ずつですよ」
管理職のパソコンを操作し機密情報にアクセスするには、パスワードなどを知っていないと無理だろう。よって上司の部長ならそれも可能だという点は理解できる。
しかし部下が知っていたとなれば、かなりのレアケースではないか。しかもその中に女性社員が含まれていた点に違和感を持つ。あの会社は体制が古いと、業界内でも評判だったからだ。
今回の件で表沙汰になった政治家や官僚との癒着に関しても、女性職員を接待場所に同席させる等、セクハラまがいの行為をしていたと糾弾されている。
その為、須依は大きく頷きながら告げた。
「そうそう。井ノ島君も怒っていたわよ。中条部長や男性の部下はともかくあの子まで疑われるなんて、警察はどうかしているとか。何て言ったかな、彼女の名前。確か、」
「寺畑奈津美ですか。いやそれはあの女性が、」
そこで彼は口を噤んだ。どうやら気付いたらしい。
「嵌めましたね。井ノ島が怒っていたというのも嘘ですか」
咎める口調に須依は惚けた。
「何のことでしょう。ところでそのテラハタって子が井ノ島君とどういう関係か、警察は掴んでいるのですか」
深く溜息を吐いた彼は、諦めたように口を開いた。
「もう一人の男性社員と同じく、信頼されているという部下の一人ですよ。その二人なら、井ノ島からある一定の管理職しかアクセスできないパスワードを入手できたでしょうし、パソコンに触れるチャンスもあった。それだけです」
「その男性はなんていう名前ですか」
「もう教えられません。駄目ですよ。今度はそっちの番でしょう。須依さん達が話した感触では、井ノ島が犯人だと思いますか」
烏森が代わりに答えた。
「それはないですね。もしそうだとしたら元カノだとはいえ、このタイミングで会ってくれなかったと思いますよ」
八城はまだ納得しきれなかったのだろう。
「須依さんはどう思われましたか」
重要な情報を貰った彼の為に答えてあげた。
「私も無いと思います。というより私の知る彼なら、そんな真似ができる度胸なんてありません。もし犯人だとしたら、誰かに脅されて仕方なくやった場合に限られるでしょうね」
「そうですか。脅されていたとなれば、上司の部長になりますよね」
「そうとは限りません。テラハタって子か、もう一人の部下に何か弱みを握られ強請られていた可能性もあるでしょう」
「なるほど。須依さんはそう感じた訳ですね。だったらやはり寺畑が怪しくなりますね」
「どうしてそう思うのですか」
しかし彼は質問に答えず話を続けた。
「でもお二人は井ノ島が犯人でないと言いましたよね。もしその見方が正しければ、他の三人が井ノ島に罪を着せる為に、彼のパソコンでアクセスしたことになります。その点はどう思われますか」
「どう思われますかと言われても、その三人と井ノ島君との人間関係がどうだったのかを教えて貰わなければ、答えようがないですね」
「つまりそこまでは、井ノ島から聞けなかったのですね」
須依は正直に頷いた。
「そうですよ。八城さんや二課としては、今のところ誰が怪しいと睨んでいたのですか。パソコンの使用者だった井ノ島君を最有力視していた、なんて言わないで下さいよ。直ぐにばれるような真似を、普通はしないでしょうから」
「確かにそうですけど、だったら他の誰がどんな目的でそんな真似をしたのかと探っても、これといった動機は見つかっていません」
「ということは、井ノ島君はその三人から恨まれていなかった。それどころか上司から可愛がられ、部下からは慕われていたことになりますよね。特に女性はそうだったんじゃないですか」
「これ以上はノーコメントです」
そう言いながらも否定しなかった点と声の響きからは、的を射ていたようだ。そこで別の視点について質問した。
「そう言えば彼が言っていましたよ。外部から不正アクセスされたのは確かだから、それをカモフラージュしようと内部のパソコンに侵入してアクセスしたんじゃないかって。警察もその可能性は否定してないと聞きましたけど、そこはどう考えているんでしょう」
「否定はしていませんが、肯定もしていませんよ。それに外部のハッカーが、何故わざわざそんな面倒な真似をする必要があるんですか。海外サーバーを渡り歩いて足跡を辿れないようにしている彼らが、そんな事をして何の得があるのかと考えたら分かるでしょう」
「警察の捜査を混乱させる為、とか」
「ハッカー達を追跡するのはCS本部などの仕事です。私達は今回の企業情報の漏洩によってもたらされた不正疑惑が事実なのかを確認する立場です。よって混乱なんかしません。今回の犯人が、そうした棲み分けを知らないとは思えないのですが」
彼の言い分も理解できる。しかしそうなると、大元の問題について疑問が湧いてきた。
「そもそも今回の不正アクセスによる情報漏洩は、何の目的で行われたんですか。事前に身代金を要求されていて、それに応じなかったから機密情報をばらまかれたケースとは違いますよね。そこの捜査はどうなっているのですか」
須依達は今回の事件で、以前から噂があった当該企業と政治家、官僚との癒着についての情報が、一部漏れた為に真実を求めて動き回っている。
しかし漏洩された情報自体が偽物であると、政治家達だけでなく企業までもが公言していた。その上発端となった事件そのものの動機について、未だに警察は見解を発表していない。
日本はもちろん、世界中でランサムウェアが横行している。サイバー攻撃でウイルスを感染させ、企業などの情報を盗むまたは利用制限をかけ、返却または復旧の代償として身代金を要求するのだ。
けれど今回は、そのまま当て嵌まらない事案である。
「その点はまだ不明です。しかし身代金を求められたのが、情報漏洩した後だったのは間違いないでしょう。企業の上層部が、我々の目を欺いていたら話は別ですが。それに現在、全てのシステム機能は復活できています。データもバックアップされていた為、業務に支障はないそうですから」
「問題は、暗号化されてしまったデータを人質に取られている点ですよね。それらの中身をばらまかれたくなければ百億円支払え、との要求でしたが未だに応じていないと聞いています。一部漏洩した内容からすれば、余りに強気すぎる態度かと思いますが」
「しょうがないでしょう。第一、情報自体が嘘だと言い張っています。それに支払ったからと言って、データが無事に戻るまたはばらまかれない確証はありません。しかも百億円となれば、そう簡単には支払えませんからね」
「犯人の目星は、まだついていないのですか」
「一部のマスコミでも言及していますが、我々も単なる身代金目的ではないと見ています。今のところ、当該企業または漏洩された情報として名を挙げた人物に恨みを持つものの仕業ではないか、との見方が有力ですね。たださっきも言ったように、ハッキングした犯人を追うのは、主にCS本部の管轄です」
追及の矛先を逸らそうとした彼だったが、須依は無視して尋ねた。
「それも漠然としていますね。ターゲットは企業だったのか個人だったのか、それとも両方だったのかによって、犯人像も全く異なってくるでしょう。個人なのか集団なのかは分からないけど、確かなのは高いハッキング能力がある事だけじゃないですか」
「知りませんよ。そっちは二課の仕事じゃありませんから。私達は今回漏洩した情報を元に、贈収賄や不正取引が実際行われていたかを調べるのが仕事です。井ノ島達に事情聴取したのは、本筋を調べている内に発見された副産物のようなものです。もちろん企業の機密情報の漏洩に関わっていれば別ですが、現在までにそういう証拠は見つかっていません」
「つまり機密情報の漏洩により、利益を得た内部社員は発見されていないのですね」
一瞬言葉に詰まっていたが、素直に答えてくれた。
「そういうことになります。ただこれから出てくるかもしれません。須依さんが井ノ島と接触した際、何か引っかかる点はありませんでしたか。何でも構いません。教えて貰えませんか」
これまでやり取りした情報量と有効性を比較すれば、須依達の方が得をしている。そう思ったからこそ伝えた。
「正直言って井ノ島君にはいい感情を持っていませんし、善人だとは思っていません。だから恨みこそあれ、庇う気は全くないです。でも今日話した感触では、厄介な目に遭った被害者だと彼が思っていたのは間違いありません。だから彼が仕掛けた犯罪ではないと思います。単に巻き込まれたというのが、真実に近いでしょう。彼は経理部だから、政治家や官僚との接触はなかったはずです。社内で使われた接待費などに目を瞑っていた可能性はあるでしょうが、せいぜいそこ止まりのような気がします」
「そうですか。確かに営業などから上がって来る経費処理で、どうかと思うものがあった点は認めていましたからね。ただそれも上から何も言わず通すよう、指示されていただけというのも部長の証言から裏が取れています。それに彼もそのまた上の指示だったと言っています。これも間違いありません。ということは、やはり下の二人のどちらかになるでしょうが、須依さん達は寺畑について何も情報を持っていないのですか」
「ごめんなさい。全くありません。男の部下についてもそうです。ただ古いとはいえそれなりに長く深い付き合いだった経験を踏まえると、彼はプライドが高いから同性に隙を見せない性格でした。対して女性には脇が甘い。付け込まれたとすれば、テラハタさんに間違いないと思います。十年以上会っていませんでしたが、余程のことが無い限り人の本質なんてそう簡単には変わりません。声を聞いた限りでは昔のままでした。余りいい意味ではなく、ですけどね」
「なるほど。参考になります。捜査本部では彼を主軸として調べてみたものの、これといって収穫がなかったのはそういうことですね。捜査方針の見直しもしていましたから、考慮させて頂きます」
「お役に立てたのなら良かったです。ところでテラハタさんというのは、どういう字ですか。下の名前も教えて貰えると助かります」
八城は渋りながらも、今更誤魔化せないと思ったのか口にした。そこでさらに尋ねた。
「あと寺畑さんと井ノ島君の関係は、どこまで調べが進んでいるのですか」
「勘弁して下さい。捜査情報に加えて個人情報にも関わりますから」
「まさか不倫相手だとか言わないですよね」
「須依さんが知る井ノ島は、そんな度胸のある人でしたか」
即座に質問で返され戸惑った。かつてはもてていた為、女性との付き合いは途切れなかったはずだ。須依とも長い付き合いの中、引っ付いては離れと、二度ほど繰り返している。
けれど二股をかける器用な真似が出来かどうかは疑問が残る。面倒事が嫌いで臆病だったからか、好きな人が出来れば揉めずに別れを告げ、次に移るタイプだったはずだ。須依から詩織に乗り換えた時もそうだった。
しかしあれから十年以上が過ぎ、結婚生活もほぼ同じ時間が経過している。本質は同じだと言ってみたものの、変貌するには十分な期間だ。
とはいっても彼はあの会社に、詩織の父親のコネで入社していた。よって彼女を裏切るような行為をするかと考えれば、出来ないだろうと思う。
ただその一方で、基本的に女好きなのは変わらないはずだ。また相手の女性が取る態度によっては後腐れない相手と勘違いさせ、付き合ってしまった可能性も否めない。
その為須依は首を傾げた。
「昔は違ったけれど、今の彼は良く分かりません。でも警察ならそういう関係まで調べているはずでしょう」
「そうしたことも含め、これ以上は口外できません」
確かに捜査情報の中でも個人情報に関しては、聞き出そうとしても無理だろう。ここまできっぱり断言されれば、これ以上食い下がるのは逆効果だ。そこで質問を変えた。
「そういえば、もう一人の部下はどうですか。その人と寺畑さんがグル、またはどちらかが部長と繋がっている可能性はありますか」
「その点もノーコメントです」
「二課としては、これまで井ノ島君が最も疑わしいと睨んでいた訳ですよね。つまり他の三人の関係性について、余り捜査が進んでいないのではないですか」
挑発に乗った彼は口調を強めた。
「そんなことはないですよ。他の三人も、重要参考人である点は変わりませんからね」
「でも八城さんの声のトーンや口振りだと、部長やその男性への疑いは比較的薄い気がしましたけど、それは私の気のせいでしょうか」
先程須依の聴覚と洞察力を褒めてくれたばかりの彼だ。そこは理解しているからだろう。返答に窮したらしい。その反応により、推測は間違っていなかったと確信する。
しかし警察の捜査に間違いが無いとは言えない。実際彼らは、井ノ島を最も疑っていた事実から分かる。よって部長ともう一人の男性についても、頭の片隅には入れて置いた方が良さそうだ。
それでも優先順位が高いのは寺畑だろう。しかしあの会社のガードは堅い。どうやって近づけばいいのか悩む。例え接触できたとしても、記者の取材に答えてくれるとは思えなかった。
八城が沈黙を続けている間、須依の関心は次の取材相手に向かっていた。その間を埋めるかのように、烏森が話し出した。
「ところで井ノ島の部下の名前だけでも教えてくださいよ。女性の名前まで口にしたんですから、それ位は良いじゃないですか。こちらでも調べればすぐ分かるでしょうけど、手間は少しでも省きたい」
「それはそっちも仕事でしょう」
「でもあの会社は箝口令を引いて、ガードが固くなっています。私達が必要以上にうろつけば、先方から警察にクレームが来るんじゃないですか。取材を最小限に収めれば、そう言った手間は省けるでしょう。互いにメリットがあるとは思いませんか」
しかし困惑した様子で彼は答えを渋った。
「いやピンポイントで当たられたら、警察がリークしたとばれてしまいます」
「そこは上手くやりますって。もう井ノ島には接触していますから、私達がその線から上司に当たるのは自然の流れです。女性の方は井ノ島か上司から情報を得たようにみせ、元カノという立場で須依が接触すれば問題ないでしょう。そこから男性の部下に当たれば、警察が疑われる心配はありません。どうですか」
諦めず食い下がる烏森に辟易していたようだが、彼の言い分にも一理あると思ったのか、八城は唸った。どちらが得かを考えているらしい。若干の間が空いた。
だがしばらくすると、諦めたように小声で呟いた。
「下の名前は勘弁してください。部下の苗字は渡辺です」
「有難うございます」
烏森がそう言い、須依も頭を下げる。但し彼は釘を刺すのを忘れなかった。
「私から聞いたなんて、絶対言わないで下さいよ」
「もちろんです。烏森が言ったように上手くやります。八城さんには絶対迷惑をかけないと約束します。もし他に欲しい情報があれば、私達に聞いて下さい。井ノ島君の妻の詩織も私の同級生で、かつての親友ですから、昔の事であれば話せますよ」
バランスをとる為にそう持ちかけたが、彼は言った。
「今の所はそこまで聞かなくてもいいと思います。もし必要となった場合は、改めて連絡します」
「分かりました。私達も出来る限り、捜査に協力させて頂きます。こちらで八城さんが知りたいと思われる新たな情報が得られれば、お伝えしますよ」
「絶対ですよ。先程の件も含めて約束しましたからね」
「もちろんです」
そこで須依達は彼と別れて記者クラブの席に戻った。八城から得た情報が、他社の記者達も知っているのかを探る為だ。その役割は当然烏森しかできない。須依には聞き耳を立てる役割が与えられた。
けれど収穫は全くなかった。井ノ島や寺畑の名前どころか、経理部の社員が疑われている事すら掴んでいないらしい。
やはりもっぱらの関心は、政治家や官僚達に向けられていた。よって社員では彼らと接触を持ったであろう、営業部や企画部といった面々に当たりを付けているようだ。しかし会社のガードが固く、取材は難航しているという。
烏森の報告を受け、須依も耳にした会話を伝えた上で駐車場へと移動した。車内で打ち合わせをする為だ。
運転席に座った彼が先に切り出した。
「さあどうする。誰もまだ気づいていないのは良いが、その分接触の仕方にも気を付けないとな」
助手席に腰かけた須依が答える。
「八城さんの言う通り、ピンポイントで当たれば警察から情報が漏れたと疑われるでしょうね」
「そうなると順番としては、まず部長の中条からになるな」
「井ノ島君が部長と事情聴取を受けたと口にしたから、そっちの線で動いたと思われた方がいいですよね」
「それが井ノ島に伝われば、彼は相当叱責を受けるだろうけど」
「自業自得でしょう。記者の前で迂闊に名前を出した彼が悪い」
「容赦ないな」
「当然ですよ。だからといって、過去の恨みを今回の事件で返そうとは思っていませんから。何度も言いますけど私情を挟むつもりはありません。ただ取材相手に温情をかける真似はしないだけです」
事情を良く知る彼にだからこんな言葉が吐けるのだ。そうでなければ口にすらしたくないネタである。そう感付いたのだろう。話題が変わった。
「中条に接近するのはいいが、どうするかが問題だ。会社内はもちろん、その周辺でだって取材は難しい」
「顔写真が入手できれば、退社するのを待ち伏せしましょう。尾行して会社から離れたところで突撃する方法がいいと思います」
「言ってくれるね。ずっと見張るのは俺の役割か。一人じゃあちょっと厳しいぞ。見逃せばアウトだからな」
苦笑する彼に須依は笑って言った。
「そこは信頼していますよ、先輩。大企業の経理部長ともなれば、企業のホームページかどこかの雑誌または社内報等でインタビュー等をされた記事に、顔写真が載っているかもしれません。そっちを探すのは途中まで私がやりますよ」
「名前で検索するんだな。見つかれば、顔写真が載っているか確認するのは俺の仕事だな。まあ俺もやってみる。二人で探せば時間も短縮できるだろう」
「ではホームページの確認からお願いします」
須依達は早速カバンからノートパソコンを取り出し立ち上げ、企業名と経理部部長、ナカジョウの名で検索をかける。須依はイヤホンを差し込み、導入している読み上げソフトの声を聞き取り、何件検索できたかを確認した。
そこから題名だけをざっと聞き取り、ここぞという記事を選ぶ。中身を聞いていると、烏森が告げた。
「ホームページや企業情報には、顔写真まで載っていない。ただ人事異動の記事があったから、フルネームは中条雄二と分かった。雄雌の雄に、漢数字の二だ」
「了解」
一つの記事を聞き終わり、改めて雄二とインタビューの項目を加え再度検索をかけた。さらに検索数が絞られ、その中に当たりと思われる記事の題名を発見し、クリックして中身を読み上げソフトにかける。
採用促進の為に様々な部署の人達から話を聞き、その様子を掲載したものがどこかにあるはずだとの読みが当たったようだ。しばらく聞いていると、それらしきものだと確信した。
その為烏森に声をかけた。
「この記事に載っていませんか」
「早いな」
同じく横で検索していた彼はそう言いながら、須依のパソコン画面を覗く為に顔を近づけたようだ。そして見つけたらしい。
「あったよ。さすがだな」
目が見えない分、ネット検索した中から求めているものを探そうとすれば、かなり手間がかかる。
それでも十年以上の間に何百回、何千回と繰り返してきた為、須依はコツを掴んでいた。こうした能力は、欠けている部分があるからこそ発達するのかもしれない。
「ではこれと同じ記事を検索し、写真部分をダウンロードして拡大すればいいと思います。それを元に会社を見張りましょう」
須依は左手に嵌めた視覚障害者用の、音で知らせる時計で時間を確認した。耳元にあててボタンを押すと、うっすらとしか聞こえない絞った音量で教えてくれるものだ。そうしているのは、静かな場所でも他人に気付かれない為である。
「まだ夕方の四時ですよね。ああいう会社なら五時や六時に退社できるとは思えませんが、どうしますか」
「こういう時期だからこそさっさと退社するかもしれないし、そもそも出社しているかどうかも分からない」
「だったらまず電話で確認しておきますか」
「そうしよう」
烏森がスマホを取り出したようだ。電話をかけているらしき気配を感じる。コール音が続き、相手が出たようだ。
「もしもし、警視庁捜査二課の者ですが、中条部長はご在席ですか」
恐らく井ノ島から貰った名刺に書かれた、経理部直通の番号にかけたのだろう。
「いえ、取り急ぎの用件ではないので、会議中でしたら結構です。ちなみに部長はいつも何時頃退社されるか、ご存知だったら教えて頂けますか。お忙しいようなら、その頃再度お電話しますので」
さすが烏森だ。電話に出たのは部下の誰かだろう。そこから目安となる時間を聞き出せれば、張り込みもしやすくなる。
やや間が空いているのは、先方が誰かに確認しているらしい。部長よりいつも遅く帰る社員なら即答できるが、そうでなければ別の社員に聞かなくてはならないからだろう。
「あ、そうですか。いえ、折り返して頂く内容ではありませんから、大体で構わないですよ。ええ。八時までには帰られるようだと。そうですか。それなら日を改めて、またご連絡します」
彼は素早く切り、フウッと大きく息を吐いた。そこで須依が提案した。
「念の為に、五時から八時過ぎまで見張りますか。一人だと心配なら、誰か応援を呼びますよ。表玄関から出るとは限りませんし」
「いや、まだ他の記者には漏れていない情報だ。そこまでこそこそしていたら、余計に怪しまれる。堂々と正面から出てくるに違いない。ただ暗くなると判別し辛いかもな」
「あそこはすぐ近くに地下鉄の駅があったはずですから大丈夫でしょう。ただ車を長く停めやすい場所の確保は必要かもしれません」
前回訪問した際、周辺の様子は把握していたのでそう告げると彼は言った。
「前回は利用しなかったが、比較的近い場所に有料パーキングがある。ただビルの入り口が見えにくい場所だったから、降りて会社の入り口付近で張り込みするよ。とりあえず行くか」
こうして二人は再びあの会社へと向かった。
到着すると、彼が言っていた駐車場に入れ外に出た。まだ五時には少し早い。しかも烏森はともかく、白杖を持った須依は目立つ。
よって張り込みに向かない。その上帰宅ラッシュに巻き込まれれば、厄介なトラブルを引き起こす恐れもあった。
特に鑑賞が広がってから、視覚障害者に限らず社会的弱者に対する世間の冷たさは加速した気がする。須依が味わったように、人の信頼の度合いは死や緊急事態、困難な状況の時こそ分かるものだ。そんな人間の本性を表面化させたのが、まさしく今の時代だろう。
健常者でさえ今は職を失うなど、多くの人が困難に見舞われている。視覚障害者なら尚のことだった。マッサージといった接触を仕事にする人の生活が苦しくなり、ガイドヘルパー等とも交流が難しいとされた。
日常生活でも、感染症の恐れを理由に店や施設でのサポートを断られ、入店を拒否されたりした。誘導の為には接触が欠かせないからだろう。
スタッフが少ないので事前に連絡して欲しいと言われ、またその日のその時間帯は無理など、自由な利用が出来なくなったケースもある。
ようやく入れたと思えば、まず消毒液がどこか分からない。通い慣れた店でもこれまで閉まっていたドアが換気の為に開けっ放しとなり、認識できず驚くことが増えた。
須依もそうだが、視覚障害者は音や匂い等を頼りに行動している。それが今や道路を走る車や開いている店が少なくなり、目印にしていた情報が変動して大いに混乱した。
例えばパチンコ店での音や飲食店等から漂う匂いだ。それらで場所を把握していたのに無くなり、また張り紙が貼られていても須依達には見えない為困るのだ。
音声の無い横断歩道はもちろん、人が少なくなり足音が無くなったことで危険が伴うようになった。また匂いを感じ難くなり、行き慣れた場所でも間違える事例が増えた人はかなりいるはずだ。
視覚障害者は日常的に人や物に触れ、さらに体全体の感覚を動員し行動する習慣がついている。顔も周囲の状況をキャッチするアンテナの一つで、風の吹き方や壁が迫る感覚を掴んでいるのだ。それがマスクで覆われれば当然鈍る。
レジにビニール製またはアクリル板の間仕切りができ、相手もマスクをしているので声が聞こえ辛くなった。普段から知る人と違うかどうかの区別さえ、できなくなった人もいたと聞く。
レジには間隔を空けて並ぶ目印のテープが床に貼ってるというけれど、ほぼ凹凸がないので確認できない。どのくらいの距離を保てているか推し測るのは、空間認識力が高い須依でさえ一苦労だった。
健常者でさえ列から外れたり、気付かず順番を抜かしレジまで行ったりする人も多いというのだから、通常の視覚障害者なら尚更だ。
それで注意を受ける場合は止む得ない。よって他の客に前へ進めばいいですか、と尋ねる等するしかなかった。
列に並ぶ時、ソーシャルディスタンスを保とうと両手を広げるまたは白状で突けば、人に当たってしまう。その為にすみませんと何度頭を下げたことか、と嘆く障害者達の声も耳にする。
交通機関等を利用する際、間隔を空け席に座れと言われても、当然難しくて分からない。人との距離も広がり、慣れた場所でも気付かない場合が増えた。それで線路に落ちる等の事故も実際に起こっているのだ。
初めての場所を訪れるのが好きだったけれど、今は無理だという人もいる。トイレの場所を探す時、近くの人に肩かひじを貸して下さいと手助けを求めてきた手段が使えないからだろう。
それに輪をかけ、困っていても声をかけてくれる人が少なくなった。それどころか通勤や出前等で使う為に交通量が増えた自転車にぶつかられたり、邪魔だと舌打ちや怒鳴られたりするケースもある。
わざわざこんな時に出歩くなと文句を言われ、酷くなると蹴られたりもするのだ。感覚が他の障害者より鋭い須依でさえ、そうした人に遭遇する危険を伴う。
悲しいけれど、それが現実だった。通常の障害者ならじっと神妙にし、恐怖に怯えるしかないだろう。
そうした背景もあり、会社の玄関から地下鉄の入り口に近い通路との間にある、待ち合わせにも使われている場所で彼一人が見張ることになった。
ただし気の強い今の須依は違う。舌打ちされたら同じく舌打ちし、怒鳴られれば怒鳴り返せる。また白杖を蹴ろうとしても気配を察知するのですっと引き、自転車とはぶつかる前に脇へ避けられた。
といっても、この状況で余計なトラブルを起こす訳にもいかない。その為須依は比較的客が少なくそこからやや離れた喫茶店へ入り、スマホを持って待機するよう告げられた。
部長が現れた際は、彼がこちらに電話をかけ通話状態にする予定だ。イヤホンで話を聞きながら会計を済ませ、彼の元に向かえば間に合うだろう。そこで合流し加勢する段取りとなる。また待ち時間の間、定期的にメールで状況報告を受けることとした。
四十四歳の井ノ島の上司で部長ともなれば、少なくとも五十前後から上だろう。さすがに五時を過ぎて出てきた人の中には、そうした年齢の男性は誰もいなかったらしい。
六時を過ぎても主に出てくるのは女性社員が多いようで、結局八時を過ぎた。だが中条らしき人物は見かけないという。彼も自信がなくなったのか、弱気な文章を打ってきた。
― 見逃したかもしれない(泣)―
須依は三杯目のコーヒーに手を付け、励ましの意味で返信した。
― 部長クラスなら、帰宅するのはこれからのはずですよ ―
そうしたやり取りをしている内に電話が鳴った。既にセットしたイヤホンは耳に装着していた為、素早く通話モードにする。
「来た」
短い呼びかけだけがした。須依は素早くスマホをポケットに入れ立ち上がり、伝票を持って会計を済ませ店を出た。すると繋げたままのスマホから彼の話声が聞こえた。
「中条部長ですね」
相手は答えない。マスコミと気づき、無視するつもりだろうか。周囲の人とぶつからないよう注意しながらも、頭の中に描いた地図を辿り、急いで彼の元へと向かった。
今逃せばその後は警戒され、次に取材しようとしても無理だろう。だから何としても、このワンチャンスを活かさなければならない。
「私はあなたの部下である、井ノ島さんと付き合いがあるものです」
絶対に食らい突こうとする、彼の必死な思いが伝わったらしい。
「井ノ島だと。彼とどういう関係なんだ」
ようやく立ち止まったらしい。烏森はその隙を狙い言葉を重ねた。
「彼の妻である詩織さんとも繋がりがありましてね。ここだと人通りが多いですから邪魔になります。少し脇に寄りましょうか。あの柱の陰辺りでは如何ですか」
訝し気に思っただろうが、八乙女財閥の娘の名まで出されては邪険にできないと判断したのかもしれない。二人が移動しているらしき音が聞こえた。最初に烏森が立っていた場所からその場所を推測し、須依は歩を進める。その間にも話は続いていた。
「井ノ島夫妻と関係しているというのは本当ですか。何か身分を証明するものを見せて頂けますか」
先程まで尖っていた中条の言葉が柔らかくなり、丁寧になった。目論見は成功したようだ。ガサゴソと音がする。恐らく名刺を取り出しているのだろう。まずい。早く合流しなければと焦った。
「私はこういうものです」
やや間を空けて中条が声を荒げた。
「マスコミじゃないか。この嘘つき野郎が」
「ちょっと待って下さい。嘘ではありません。今日のお昼過ぎに井ノ島さんと面会させて頂き、お話ししたばかりです。部長さんも警察の事情聴取を受けたと聞きました。でも今回起こった内部から機密情報にアクセスした件は関わっていない。そうではありませんか」
一部の限られた人しか知り得ない事実を述べ、かつ味方だと思わせる口調により、再び動き出した彼の足を再び止めたようだ。
「どうしてそれを知っている。井ノ島が喋ったのか」
「そうです。私が彼からその話を聞きました」
ようやく到着し背後からそう告げると、相手は驚いたのだろう。こちらを振り返り、またその姿を見て目を丸くしたに違いない。
「あ、あなたは、一体誰だ」
「私はこういうものです」
中条が発した声を参考に距離を測り、ゆっくりと近づき須依は名刺を渡した。彼が手に取ったことを確認し、さらに続けた。
「井ノ島君と詩織さんとは、大学時代の同級生です。私も記者ですが、今日中条部長をお待ちしていたのは、無実であるお二人をお助けする為です」
大学名を告げ、簡単に彼らとの関係の説明も加えた。
「助ける、とはどういう意味だ」
それでも怪訝な声で尋ねてきた彼に、須依は答えた。
「井ノ島君から聞きました。彼や中条部長は、機密情報にアクセスした疑いをかけられている。他にも一課の社員達が警察から事情聴取を受け、一部の方に同じく容疑がかかっているのではないですか」
「あいつ、よりにもよって、マスコミにそんなことを口走ったのか」
「怒らないで下さい。もちろんこの件について、上司を含めた外部の人にはまだ漏らしていません。他の記者達が嗅ぎつけている様子もありませんのでご安心ください。マスコミ関係で知っているのは私達二人だけです」
一瞬興奮していた彼だったが、そう言われて落ち着きを取り戻したようだ。そこで改めて須依の顔を目にし、気付いたのだろう。控えめなトーンで言った。
「失礼だが、あなたは目が見えないのかな」
「はい。十年余り前に、病気で視力をほとんど失いました。それでもここにいる彼のような人の力を借り、記者を続けています」
「ちなみに私も障害者です。事故で左足を切断しました」
またスラックスを上げ、足を見せたのだろう。中条がぎょっとする気配がした。烏森が話を続けた。
「私は彼女の目や足の代わりになっていますが、その分健常者だと聞き取れない声や音、察知し難い匂いや場の空気などには敏感なので、そうした情報を教えて貰っています。彼女の前では嘘など通用しません。だから井ノ島さんも正直に話さざるを得なくなっただけです。その点はご了承ください」
「そう、なのか。分かった。ところで何故あなた達は、私や井ノ島を助けるというんだ。それもどうやって」
ようやく警戒心を解いた彼に、須依が答えた。
「理由は簡単です。お二人が犯人でないと分かっているからです。私達が知りたいのは真実です。つまり犯人を特定したい。そうすれば自ずと、お二人の無実は証明できます」
「井ノ島のパソコンを使い、機密情報にアクセスした人物を暴くというのか」
「そうです。その為には部長からもお話を伺う必要があると考え、ここでお待ちしておりました」
「なるほど。そういうことか」
納得してくれたらしく、話をする気になったようだ。思惑通りに進んだため、早速本題に入った。
「他にも事情聴取をされた社員がいて、警察はその中からアクセスが可能だった人物を絞りましたよね。その方達と井ノ島さんの日頃における関係や、普段はどういう仕事を任されどんな性格なのかを教えて頂けますか。部長ともなれば、人を見る目は確かなはずです。その点をお聞きしたいのですが」
「渡辺と寺畑のことか」
期待していた名前を口にした為、内心では小躍りしていたが表情には出さずに頷いた。
「そうです。まずその二人は、何故井ノ島さんのパソコンで機密情報にアクセスできる可能性があると思われているのですか。操作するにもパスワードが必要でしょう」
「もちろんだ。機密情報にアクセスするコードは、一部の管理職にのみメールで知らされる。それも不定期で書かれたコードを確認する為には、事前に登録しているパスワードでファイルを開かないと見られない」
「そのパスワードを、二人だけは知り得たということですか」
「二人だけかどうか分からないが、井ノ島はパソコンを立ち上げる際のパスワードと、ファイルを開くものとを同じにしていたらしい。だからよく彼の近くで仕事をしている人物なら、盗み見た可能性があった。あとはアクセスされた時間、フロアにいたと確認できたのが彼らだけだったから疑われたのだろう。あの日は月締めの仕事があって、一部の社員は遅くまで残業していたからな」
「そうでしたか。では渡辺さんという方は、どんな人ですか。ちなみに下の名前は何というのですか」
「拓だ。開拓の拓と書く。どうってことはない。ごく真面目な青年だよ。特別な役割を持ってはいなかったし、井ノ島も信頼していたとはいえあくまで仕事上の話だ。プライベートで交流が深かったとは聞いていないし、揉めて恨みを買ったとも考えにくい」
「では寺畑さんはどうですか」
「彼女も同じだ。特別親し気にしていたとは思えない。井ノ島の妻を知っているのなら分かるだろう。あの八乙女財閥のご息女で、うちの会社に中途入社してきたのもその関係だ。浮気なんて馬鹿な真似をしたら、彼の首は飛ぶだろう。そこまで愚かな奴じゃないよ」
「そうですか。彼女ともトラブルを起こしたことはないのですね」
「ないね。井ノ島は仕事が出来る男だ。加えて人間関係にも気を使っていた。だからあの若さで部長代理になれたのだろう。単なるコネの力だけではないよ。ある意味抜け目のない奴だからな」
須依が知る彼の人物像と同じだった為、中条の説明には頷かざるを得なかった。しかしこれではどちらも怪しくなくなってしまう。それなら警察の絞り込みの段階から、過ちがあったことになる。
その点を尋ねると、彼は溜息をついた。
「だから警察にも言ったんだ。井ノ島が主張しているように、外部から不正アクセスした奴らが、内部犯行に見せかけようとしたんだってね。決して社内の人間を庇おうとしているんじゃない。そうとしか考えられないだけだよ」
どうやら期待外れのようだ。中条がそう思い込んでいるのなら、これ以上有力な情報は得られそうにない。それでもまだ何かを隠している匂いがした為、諦めずにいくつか質問をした。しかし残念ながらこれといった話は聞けずに終わった。
彼が駅の改札口に向かっていく気配を感じながら、須依は呟いた。
「やはり直接二人に会わないといけないみたいですね」
「ああ。だがこっちは名前しか分かっていない。顔写真もない中、どうやって取材を進めるかが問題だな」
烏森の言葉に頷き、頭を抱えた。こうなれば禁断の手段に出るしかない。だが全く気乗りしなかった。できれば関与せず、敬遠したかった方法である。
しかし選択肢が限られた今、先へ進むために避けては通れない道だ。須依はそう諦め腹を括った。
振り込め詐欺などの特殊詐欺や通貨偽造、贈収賄罪といった金銭、経済、企業犯罪さらには選挙違反等も捜査する、主に知能犯を相手にするのが彼らだ。
よって警視正クラスの課長は、頭が良いと言われるキャリア出身で占められていた。とはいってもキャリアなら二十代後半には警視、三十代半ばには警視正に昇進できる。その為昔と違い、多くの課長クラスは須依達よりも年下ばかりになった。
けれど佐々のようなキャリア出身でない須依達が、先輩風を吹かせることもできない。その為、取材によって地道に築いた捜査員との人脈を使うしかないのだ。
早速烏森が面識のある一人を発見したらしく、声を掛けた。
「八城さん、ご無沙汰しています」
須依より一回り年下の彼はノンキャリアの巡査部長だ。簿記の資格を持っており優秀さを買われ、五年前に所轄の刑事課を経て二課へと配属された人である。
これまでいくつかの事件で絡み、須依達には好意的な態度で接してくれる数少ない刑事の一人だった。発する雰囲気は穏やかな草食系動物、強いて言えばヤギに近い。
ちなみに的場は肉食系だがスマートなヒョウ、佐々は大空から彼らを下に見て、時には力でねじ伏せられる猛禽類のオオワシといったところか。
「ああ、烏森さん。例の事件についてなら、特にお話しできることはないですよ」
廊下を歩いてきた彼は素早く防御線を張った。しかしその声から嫌悪感や拒絶反応は伝わってこない。よって本当に流せる情報が無いのだと悟る。
しかしこちらが知りたい事案は、彼が頭に浮かべている件とは恐らく違っているはずだ。よって今度は須依が告げた。
「いえいえ、政治家や官僚でない人達の件でお伺いしたいのですが、ちょっといいですか」
やはり女性で更に盲目の記者からの誘いは無下に断れないと思ったのだろう。
「何の件ですか。まあいいでしょう。向こうの休憩スペースに行きませんか」
恐らく彼はそこで飲み物を買って、息抜きでもしようと出て来たようだ。こちらもその方が有り難かったので彼と共に移動した。
三人とも自販機で飲み物を購入し、丸テーブルを囲む。余り長話していると迷惑がかかると思い、須依は前置きなしに質問した。
「例の件で、あの会社の経理部の人間に事情聴取をされたのは八城さん達ですよね」
驚いたのだろう。息を呑む様子が感じ取れた。
「どこでそんな話を仕入れたんですか」
「実は大学の同級生があの経理部で働いていましてね。その彼から直接聞きました。部長等の管理職も含め、一課所属の社員が事情聴取されたようですね。どういう切り口で何人から聞きましたか」
「ちょっ、ちょっと待ってください。誰ですか。その同級生という人は。鎌をかけているんじゃないでしょうね」
先程とは違い、明らかに警戒している声色だ。須依は首を振った。
「違いますよ。経理部長代理の井ノ島竜人です。出身大学を調べてみれば分かりますよ。ちなみに私の目が見えていた頃にお付き合いしていた、元カレでもあります。それに彼女の妻の詩織も同じ同級生で、かつては親友でした。早乙女財閥のご息女ですよ」
警察が本気で調べれば簡単に仕入れられる情報だ。また先に伝えておけば、こちらのネタ元はそこだと信じるだろう。そうすれば佐々に迷惑はかからないとの計算があった。
念の為出身大学名を告げた所、彼は信じてくれたらしい。
「そうでしたか。須依さんの同級生だったとは、また奇遇ですね。だったら誤魔化せないな。確かにうちの課で事情聴取をしました。総勢二十名弱といったところでしょうか。でも何を聞いたのかは、さすがに言えませんよ」
「あれ。外部からの不正アクセス以外で、あの課のパソコンから機密情報にアクセスした形跡があったからと聞いていますけど」
彼は大きな溜息をついた。
「疑われているのに、よく喋りましたね。そこまで掴んでいるのなら、確認する必要は無いでしょう」
「いえいえ、そこからですよ。あれほどの企業なら、今の時代だと一人一台はパソコンをあてがわれているはずです。つまり社内からのアクセスが確認できたのなら、具体的に誰のパソコンが使われたかなんて調べがつくでしょう。なのに管理職を含め、課にいる多くの社員に事情を聞くなんておかしくないですか」
「そんなことはありませんよ。仮に特定できていたとしても、周囲にいる人達から話を聞くのは当然でしょう」
「本当に特定できているんですか。どのパソコンからアクセスしたかは判明しているけど、別の誰かが操作した可能性も残っているから、確認していたのではないですか」
言葉に詰まった為、図星だと確信する。そこでさらに尋ねた。
「アクセスした時間帯などから、ある程度絞られたはずです。何人いたんですか。もちろんそこに井ノ島竜人も入っていますよね」
まさかと思いながら誘導尋問をかけたが、すぐに否定されなかった為、須依は内心驚いていた。そう気づかれないよう平常心を保ちながら彼の言葉を待った。
「しょうがないですね。それだけ取材済みだったら、こちらとしても確認したい件があります。アクセスしたのは自分でないと、須依さん達に井ノ島竜人は主張した。そうですね」
「それが真実かどうかは分かりませんが、同級生とはいえ記者の私にやりましたなんていうはずがないでしょう」
どうやらこちらが持つ情報を仕入れたいと思っているらしい。こうなれば交換条件として、ある程度のネタは引き出せそうだ。
そう目論みわざと焦らして答えたところ、彼はさらに質問した。
「須依さんが聞いた感触では、それが嘘だと思いましたか。あなたの聴覚や洞察力が優れていることは、これまでのお付き合いで良く知っていますからね。正直に答えてください」
「彼が最も怪しい人物なのですか。他に誰と誰をどの程度疑っているのか、それ位は教えてください。そうすれば、こちらが持つ情報と照らし合わせた捜査協力が出来ると思いますよ」
井ノ島から社員の固有名詞まで聞き及んでいるかのように思わせ、交換条件を出してみた。すると彼はまんまと引っ掛かった。
「彼のパソコンからアクセスしていたのですから、重要参考人となるのも当然でしょう。ただ本人は否定していますから、罪を被せようと他に操作した人物がいるか、もちろん確認しましたよ。部署がある部屋への出入記録は、社員が持つIⅮカードで調べました。そこで対象となったのは彼以外三人だけです。ご存知でしょうけど、彼の上司である経理部長と、男性と女性の部下が一人ずつですよ」
管理職のパソコンを操作し機密情報にアクセスするには、パスワードなどを知っていないと無理だろう。よって上司の部長ならそれも可能だという点は理解できる。
しかし部下が知っていたとなれば、かなりのレアケースではないか。しかもその中に女性社員が含まれていた点に違和感を持つ。あの会社は体制が古いと、業界内でも評判だったからだ。
今回の件で表沙汰になった政治家や官僚との癒着に関しても、女性職員を接待場所に同席させる等、セクハラまがいの行為をしていたと糾弾されている。
その為、須依は大きく頷きながら告げた。
「そうそう。井ノ島君も怒っていたわよ。中条部長や男性の部下はともかくあの子まで疑われるなんて、警察はどうかしているとか。何て言ったかな、彼女の名前。確か、」
「寺畑奈津美ですか。いやそれはあの女性が、」
そこで彼は口を噤んだ。どうやら気付いたらしい。
「嵌めましたね。井ノ島が怒っていたというのも嘘ですか」
咎める口調に須依は惚けた。
「何のことでしょう。ところでそのテラハタって子が井ノ島君とどういう関係か、警察は掴んでいるのですか」
深く溜息を吐いた彼は、諦めたように口を開いた。
「もう一人の男性社員と同じく、信頼されているという部下の一人ですよ。その二人なら、井ノ島からある一定の管理職しかアクセスできないパスワードを入手できたでしょうし、パソコンに触れるチャンスもあった。それだけです」
「その男性はなんていう名前ですか」
「もう教えられません。駄目ですよ。今度はそっちの番でしょう。須依さん達が話した感触では、井ノ島が犯人だと思いますか」
烏森が代わりに答えた。
「それはないですね。もしそうだとしたら元カノだとはいえ、このタイミングで会ってくれなかったと思いますよ」
八城はまだ納得しきれなかったのだろう。
「須依さんはどう思われましたか」
重要な情報を貰った彼の為に答えてあげた。
「私も無いと思います。というより私の知る彼なら、そんな真似ができる度胸なんてありません。もし犯人だとしたら、誰かに脅されて仕方なくやった場合に限られるでしょうね」
「そうですか。脅されていたとなれば、上司の部長になりますよね」
「そうとは限りません。テラハタって子か、もう一人の部下に何か弱みを握られ強請られていた可能性もあるでしょう」
「なるほど。須依さんはそう感じた訳ですね。だったらやはり寺畑が怪しくなりますね」
「どうしてそう思うのですか」
しかし彼は質問に答えず話を続けた。
「でもお二人は井ノ島が犯人でないと言いましたよね。もしその見方が正しければ、他の三人が井ノ島に罪を着せる為に、彼のパソコンでアクセスしたことになります。その点はどう思われますか」
「どう思われますかと言われても、その三人と井ノ島君との人間関係がどうだったのかを教えて貰わなければ、答えようがないですね」
「つまりそこまでは、井ノ島から聞けなかったのですね」
須依は正直に頷いた。
「そうですよ。八城さんや二課としては、今のところ誰が怪しいと睨んでいたのですか。パソコンの使用者だった井ノ島君を最有力視していた、なんて言わないで下さいよ。直ぐにばれるような真似を、普通はしないでしょうから」
「確かにそうですけど、だったら他の誰がどんな目的でそんな真似をしたのかと探っても、これといった動機は見つかっていません」
「ということは、井ノ島君はその三人から恨まれていなかった。それどころか上司から可愛がられ、部下からは慕われていたことになりますよね。特に女性はそうだったんじゃないですか」
「これ以上はノーコメントです」
そう言いながらも否定しなかった点と声の響きからは、的を射ていたようだ。そこで別の視点について質問した。
「そう言えば彼が言っていましたよ。外部から不正アクセスされたのは確かだから、それをカモフラージュしようと内部のパソコンに侵入してアクセスしたんじゃないかって。警察もその可能性は否定してないと聞きましたけど、そこはどう考えているんでしょう」
「否定はしていませんが、肯定もしていませんよ。それに外部のハッカーが、何故わざわざそんな面倒な真似をする必要があるんですか。海外サーバーを渡り歩いて足跡を辿れないようにしている彼らが、そんな事をして何の得があるのかと考えたら分かるでしょう」
「警察の捜査を混乱させる為、とか」
「ハッカー達を追跡するのはCS本部などの仕事です。私達は今回の企業情報の漏洩によってもたらされた不正疑惑が事実なのかを確認する立場です。よって混乱なんかしません。今回の犯人が、そうした棲み分けを知らないとは思えないのですが」
彼の言い分も理解できる。しかしそうなると、大元の問題について疑問が湧いてきた。
「そもそも今回の不正アクセスによる情報漏洩は、何の目的で行われたんですか。事前に身代金を要求されていて、それに応じなかったから機密情報をばらまかれたケースとは違いますよね。そこの捜査はどうなっているのですか」
須依達は今回の事件で、以前から噂があった当該企業と政治家、官僚との癒着についての情報が、一部漏れた為に真実を求めて動き回っている。
しかし漏洩された情報自体が偽物であると、政治家達だけでなく企業までもが公言していた。その上発端となった事件そのものの動機について、未だに警察は見解を発表していない。
日本はもちろん、世界中でランサムウェアが横行している。サイバー攻撃でウイルスを感染させ、企業などの情報を盗むまたは利用制限をかけ、返却または復旧の代償として身代金を要求するのだ。
けれど今回は、そのまま当て嵌まらない事案である。
「その点はまだ不明です。しかし身代金を求められたのが、情報漏洩した後だったのは間違いないでしょう。企業の上層部が、我々の目を欺いていたら話は別ですが。それに現在、全てのシステム機能は復活できています。データもバックアップされていた為、業務に支障はないそうですから」
「問題は、暗号化されてしまったデータを人質に取られている点ですよね。それらの中身をばらまかれたくなければ百億円支払え、との要求でしたが未だに応じていないと聞いています。一部漏洩した内容からすれば、余りに強気すぎる態度かと思いますが」
「しょうがないでしょう。第一、情報自体が嘘だと言い張っています。それに支払ったからと言って、データが無事に戻るまたはばらまかれない確証はありません。しかも百億円となれば、そう簡単には支払えませんからね」
「犯人の目星は、まだついていないのですか」
「一部のマスコミでも言及していますが、我々も単なる身代金目的ではないと見ています。今のところ、当該企業または漏洩された情報として名を挙げた人物に恨みを持つものの仕業ではないか、との見方が有力ですね。たださっきも言ったように、ハッキングした犯人を追うのは、主にCS本部の管轄です」
追及の矛先を逸らそうとした彼だったが、須依は無視して尋ねた。
「それも漠然としていますね。ターゲットは企業だったのか個人だったのか、それとも両方だったのかによって、犯人像も全く異なってくるでしょう。個人なのか集団なのかは分からないけど、確かなのは高いハッキング能力がある事だけじゃないですか」
「知りませんよ。そっちは二課の仕事じゃありませんから。私達は今回漏洩した情報を元に、贈収賄や不正取引が実際行われていたかを調べるのが仕事です。井ノ島達に事情聴取したのは、本筋を調べている内に発見された副産物のようなものです。もちろん企業の機密情報の漏洩に関わっていれば別ですが、現在までにそういう証拠は見つかっていません」
「つまり機密情報の漏洩により、利益を得た内部社員は発見されていないのですね」
一瞬言葉に詰まっていたが、素直に答えてくれた。
「そういうことになります。ただこれから出てくるかもしれません。須依さんが井ノ島と接触した際、何か引っかかる点はありませんでしたか。何でも構いません。教えて貰えませんか」
これまでやり取りした情報量と有効性を比較すれば、須依達の方が得をしている。そう思ったからこそ伝えた。
「正直言って井ノ島君にはいい感情を持っていませんし、善人だとは思っていません。だから恨みこそあれ、庇う気は全くないです。でも今日話した感触では、厄介な目に遭った被害者だと彼が思っていたのは間違いありません。だから彼が仕掛けた犯罪ではないと思います。単に巻き込まれたというのが、真実に近いでしょう。彼は経理部だから、政治家や官僚との接触はなかったはずです。社内で使われた接待費などに目を瞑っていた可能性はあるでしょうが、せいぜいそこ止まりのような気がします」
「そうですか。確かに営業などから上がって来る経費処理で、どうかと思うものがあった点は認めていましたからね。ただそれも上から何も言わず通すよう、指示されていただけというのも部長の証言から裏が取れています。それに彼もそのまた上の指示だったと言っています。これも間違いありません。ということは、やはり下の二人のどちらかになるでしょうが、須依さん達は寺畑について何も情報を持っていないのですか」
「ごめんなさい。全くありません。男の部下についてもそうです。ただ古いとはいえそれなりに長く深い付き合いだった経験を踏まえると、彼はプライドが高いから同性に隙を見せない性格でした。対して女性には脇が甘い。付け込まれたとすれば、テラハタさんに間違いないと思います。十年以上会っていませんでしたが、余程のことが無い限り人の本質なんてそう簡単には変わりません。声を聞いた限りでは昔のままでした。余りいい意味ではなく、ですけどね」
「なるほど。参考になります。捜査本部では彼を主軸として調べてみたものの、これといって収穫がなかったのはそういうことですね。捜査方針の見直しもしていましたから、考慮させて頂きます」
「お役に立てたのなら良かったです。ところでテラハタさんというのは、どういう字ですか。下の名前も教えて貰えると助かります」
八城は渋りながらも、今更誤魔化せないと思ったのか口にした。そこでさらに尋ねた。
「あと寺畑さんと井ノ島君の関係は、どこまで調べが進んでいるのですか」
「勘弁して下さい。捜査情報に加えて個人情報にも関わりますから」
「まさか不倫相手だとか言わないですよね」
「須依さんが知る井ノ島は、そんな度胸のある人でしたか」
即座に質問で返され戸惑った。かつてはもてていた為、女性との付き合いは途切れなかったはずだ。須依とも長い付き合いの中、引っ付いては離れと、二度ほど繰り返している。
けれど二股をかける器用な真似が出来かどうかは疑問が残る。面倒事が嫌いで臆病だったからか、好きな人が出来れば揉めずに別れを告げ、次に移るタイプだったはずだ。須依から詩織に乗り換えた時もそうだった。
しかしあれから十年以上が過ぎ、結婚生活もほぼ同じ時間が経過している。本質は同じだと言ってみたものの、変貌するには十分な期間だ。
とはいっても彼はあの会社に、詩織の父親のコネで入社していた。よって彼女を裏切るような行為をするかと考えれば、出来ないだろうと思う。
ただその一方で、基本的に女好きなのは変わらないはずだ。また相手の女性が取る態度によっては後腐れない相手と勘違いさせ、付き合ってしまった可能性も否めない。
その為須依は首を傾げた。
「昔は違ったけれど、今の彼は良く分かりません。でも警察ならそういう関係まで調べているはずでしょう」
「そうしたことも含め、これ以上は口外できません」
確かに捜査情報の中でも個人情報に関しては、聞き出そうとしても無理だろう。ここまできっぱり断言されれば、これ以上食い下がるのは逆効果だ。そこで質問を変えた。
「そういえば、もう一人の部下はどうですか。その人と寺畑さんがグル、またはどちらかが部長と繋がっている可能性はありますか」
「その点もノーコメントです」
「二課としては、これまで井ノ島君が最も疑わしいと睨んでいた訳ですよね。つまり他の三人の関係性について、余り捜査が進んでいないのではないですか」
挑発に乗った彼は口調を強めた。
「そんなことはないですよ。他の三人も、重要参考人である点は変わりませんからね」
「でも八城さんの声のトーンや口振りだと、部長やその男性への疑いは比較的薄い気がしましたけど、それは私の気のせいでしょうか」
先程須依の聴覚と洞察力を褒めてくれたばかりの彼だ。そこは理解しているからだろう。返答に窮したらしい。その反応により、推測は間違っていなかったと確信する。
しかし警察の捜査に間違いが無いとは言えない。実際彼らは、井ノ島を最も疑っていた事実から分かる。よって部長ともう一人の男性についても、頭の片隅には入れて置いた方が良さそうだ。
それでも優先順位が高いのは寺畑だろう。しかしあの会社のガードは堅い。どうやって近づけばいいのか悩む。例え接触できたとしても、記者の取材に答えてくれるとは思えなかった。
八城が沈黙を続けている間、須依の関心は次の取材相手に向かっていた。その間を埋めるかのように、烏森が話し出した。
「ところで井ノ島の部下の名前だけでも教えてくださいよ。女性の名前まで口にしたんですから、それ位は良いじゃないですか。こちらでも調べればすぐ分かるでしょうけど、手間は少しでも省きたい」
「それはそっちも仕事でしょう」
「でもあの会社は箝口令を引いて、ガードが固くなっています。私達が必要以上にうろつけば、先方から警察にクレームが来るんじゃないですか。取材を最小限に収めれば、そう言った手間は省けるでしょう。互いにメリットがあるとは思いませんか」
しかし困惑した様子で彼は答えを渋った。
「いやピンポイントで当たられたら、警察がリークしたとばれてしまいます」
「そこは上手くやりますって。もう井ノ島には接触していますから、私達がその線から上司に当たるのは自然の流れです。女性の方は井ノ島か上司から情報を得たようにみせ、元カノという立場で須依が接触すれば問題ないでしょう。そこから男性の部下に当たれば、警察が疑われる心配はありません。どうですか」
諦めず食い下がる烏森に辟易していたようだが、彼の言い分にも一理あると思ったのか、八城は唸った。どちらが得かを考えているらしい。若干の間が空いた。
だがしばらくすると、諦めたように小声で呟いた。
「下の名前は勘弁してください。部下の苗字は渡辺です」
「有難うございます」
烏森がそう言い、須依も頭を下げる。但し彼は釘を刺すのを忘れなかった。
「私から聞いたなんて、絶対言わないで下さいよ」
「もちろんです。烏森が言ったように上手くやります。八城さんには絶対迷惑をかけないと約束します。もし他に欲しい情報があれば、私達に聞いて下さい。井ノ島君の妻の詩織も私の同級生で、かつての親友ですから、昔の事であれば話せますよ」
バランスをとる為にそう持ちかけたが、彼は言った。
「今の所はそこまで聞かなくてもいいと思います。もし必要となった場合は、改めて連絡します」
「分かりました。私達も出来る限り、捜査に協力させて頂きます。こちらで八城さんが知りたいと思われる新たな情報が得られれば、お伝えしますよ」
「絶対ですよ。先程の件も含めて約束しましたからね」
「もちろんです」
そこで須依達は彼と別れて記者クラブの席に戻った。八城から得た情報が、他社の記者達も知っているのかを探る為だ。その役割は当然烏森しかできない。須依には聞き耳を立てる役割が与えられた。
けれど収穫は全くなかった。井ノ島や寺畑の名前どころか、経理部の社員が疑われている事すら掴んでいないらしい。
やはりもっぱらの関心は、政治家や官僚達に向けられていた。よって社員では彼らと接触を持ったであろう、営業部や企画部といった面々に当たりを付けているようだ。しかし会社のガードが固く、取材は難航しているという。
烏森の報告を受け、須依も耳にした会話を伝えた上で駐車場へと移動した。車内で打ち合わせをする為だ。
運転席に座った彼が先に切り出した。
「さあどうする。誰もまだ気づいていないのは良いが、その分接触の仕方にも気を付けないとな」
助手席に腰かけた須依が答える。
「八城さんの言う通り、ピンポイントで当たれば警察から情報が漏れたと疑われるでしょうね」
「そうなると順番としては、まず部長の中条からになるな」
「井ノ島君が部長と事情聴取を受けたと口にしたから、そっちの線で動いたと思われた方がいいですよね」
「それが井ノ島に伝われば、彼は相当叱責を受けるだろうけど」
「自業自得でしょう。記者の前で迂闊に名前を出した彼が悪い」
「容赦ないな」
「当然ですよ。だからといって、過去の恨みを今回の事件で返そうとは思っていませんから。何度も言いますけど私情を挟むつもりはありません。ただ取材相手に温情をかける真似はしないだけです」
事情を良く知る彼にだからこんな言葉が吐けるのだ。そうでなければ口にすらしたくないネタである。そう感付いたのだろう。話題が変わった。
「中条に接近するのはいいが、どうするかが問題だ。会社内はもちろん、その周辺でだって取材は難しい」
「顔写真が入手できれば、退社するのを待ち伏せしましょう。尾行して会社から離れたところで突撃する方法がいいと思います」
「言ってくれるね。ずっと見張るのは俺の役割か。一人じゃあちょっと厳しいぞ。見逃せばアウトだからな」
苦笑する彼に須依は笑って言った。
「そこは信頼していますよ、先輩。大企業の経理部長ともなれば、企業のホームページかどこかの雑誌または社内報等でインタビュー等をされた記事に、顔写真が載っているかもしれません。そっちを探すのは途中まで私がやりますよ」
「名前で検索するんだな。見つかれば、顔写真が載っているか確認するのは俺の仕事だな。まあ俺もやってみる。二人で探せば時間も短縮できるだろう」
「ではホームページの確認からお願いします」
須依達は早速カバンからノートパソコンを取り出し立ち上げ、企業名と経理部部長、ナカジョウの名で検索をかける。須依はイヤホンを差し込み、導入している読み上げソフトの声を聞き取り、何件検索できたかを確認した。
そこから題名だけをざっと聞き取り、ここぞという記事を選ぶ。中身を聞いていると、烏森が告げた。
「ホームページや企業情報には、顔写真まで載っていない。ただ人事異動の記事があったから、フルネームは中条雄二と分かった。雄雌の雄に、漢数字の二だ」
「了解」
一つの記事を聞き終わり、改めて雄二とインタビューの項目を加え再度検索をかけた。さらに検索数が絞られ、その中に当たりと思われる記事の題名を発見し、クリックして中身を読み上げソフトにかける。
採用促進の為に様々な部署の人達から話を聞き、その様子を掲載したものがどこかにあるはずだとの読みが当たったようだ。しばらく聞いていると、それらしきものだと確信した。
その為烏森に声をかけた。
「この記事に載っていませんか」
「早いな」
同じく横で検索していた彼はそう言いながら、須依のパソコン画面を覗く為に顔を近づけたようだ。そして見つけたらしい。
「あったよ。さすがだな」
目が見えない分、ネット検索した中から求めているものを探そうとすれば、かなり手間がかかる。
それでも十年以上の間に何百回、何千回と繰り返してきた為、須依はコツを掴んでいた。こうした能力は、欠けている部分があるからこそ発達するのかもしれない。
「ではこれと同じ記事を検索し、写真部分をダウンロードして拡大すればいいと思います。それを元に会社を見張りましょう」
須依は左手に嵌めた視覚障害者用の、音で知らせる時計で時間を確認した。耳元にあててボタンを押すと、うっすらとしか聞こえない絞った音量で教えてくれるものだ。そうしているのは、静かな場所でも他人に気付かれない為である。
「まだ夕方の四時ですよね。ああいう会社なら五時や六時に退社できるとは思えませんが、どうしますか」
「こういう時期だからこそさっさと退社するかもしれないし、そもそも出社しているかどうかも分からない」
「だったらまず電話で確認しておきますか」
「そうしよう」
烏森がスマホを取り出したようだ。電話をかけているらしき気配を感じる。コール音が続き、相手が出たようだ。
「もしもし、警視庁捜査二課の者ですが、中条部長はご在席ですか」
恐らく井ノ島から貰った名刺に書かれた、経理部直通の番号にかけたのだろう。
「いえ、取り急ぎの用件ではないので、会議中でしたら結構です。ちなみに部長はいつも何時頃退社されるか、ご存知だったら教えて頂けますか。お忙しいようなら、その頃再度お電話しますので」
さすが烏森だ。電話に出たのは部下の誰かだろう。そこから目安となる時間を聞き出せれば、張り込みもしやすくなる。
やや間が空いているのは、先方が誰かに確認しているらしい。部長よりいつも遅く帰る社員なら即答できるが、そうでなければ別の社員に聞かなくてはならないからだろう。
「あ、そうですか。いえ、折り返して頂く内容ではありませんから、大体で構わないですよ。ええ。八時までには帰られるようだと。そうですか。それなら日を改めて、またご連絡します」
彼は素早く切り、フウッと大きく息を吐いた。そこで須依が提案した。
「念の為に、五時から八時過ぎまで見張りますか。一人だと心配なら、誰か応援を呼びますよ。表玄関から出るとは限りませんし」
「いや、まだ他の記者には漏れていない情報だ。そこまでこそこそしていたら、余計に怪しまれる。堂々と正面から出てくるに違いない。ただ暗くなると判別し辛いかもな」
「あそこはすぐ近くに地下鉄の駅があったはずですから大丈夫でしょう。ただ車を長く停めやすい場所の確保は必要かもしれません」
前回訪問した際、周辺の様子は把握していたのでそう告げると彼は言った。
「前回は利用しなかったが、比較的近い場所に有料パーキングがある。ただビルの入り口が見えにくい場所だったから、降りて会社の入り口付近で張り込みするよ。とりあえず行くか」
こうして二人は再びあの会社へと向かった。
到着すると、彼が言っていた駐車場に入れ外に出た。まだ五時には少し早い。しかも烏森はともかく、白杖を持った須依は目立つ。
よって張り込みに向かない。その上帰宅ラッシュに巻き込まれれば、厄介なトラブルを引き起こす恐れもあった。
特に鑑賞が広がってから、視覚障害者に限らず社会的弱者に対する世間の冷たさは加速した気がする。須依が味わったように、人の信頼の度合いは死や緊急事態、困難な状況の時こそ分かるものだ。そんな人間の本性を表面化させたのが、まさしく今の時代だろう。
健常者でさえ今は職を失うなど、多くの人が困難に見舞われている。視覚障害者なら尚のことだった。マッサージといった接触を仕事にする人の生活が苦しくなり、ガイドヘルパー等とも交流が難しいとされた。
日常生活でも、感染症の恐れを理由に店や施設でのサポートを断られ、入店を拒否されたりした。誘導の為には接触が欠かせないからだろう。
スタッフが少ないので事前に連絡して欲しいと言われ、またその日のその時間帯は無理など、自由な利用が出来なくなったケースもある。
ようやく入れたと思えば、まず消毒液がどこか分からない。通い慣れた店でもこれまで閉まっていたドアが換気の為に開けっ放しとなり、認識できず驚くことが増えた。
須依もそうだが、視覚障害者は音や匂い等を頼りに行動している。それが今や道路を走る車や開いている店が少なくなり、目印にしていた情報が変動して大いに混乱した。
例えばパチンコ店での音や飲食店等から漂う匂いだ。それらで場所を把握していたのに無くなり、また張り紙が貼られていても須依達には見えない為困るのだ。
音声の無い横断歩道はもちろん、人が少なくなり足音が無くなったことで危険が伴うようになった。また匂いを感じ難くなり、行き慣れた場所でも間違える事例が増えた人はかなりいるはずだ。
視覚障害者は日常的に人や物に触れ、さらに体全体の感覚を動員し行動する習慣がついている。顔も周囲の状況をキャッチするアンテナの一つで、風の吹き方や壁が迫る感覚を掴んでいるのだ。それがマスクで覆われれば当然鈍る。
レジにビニール製またはアクリル板の間仕切りができ、相手もマスクをしているので声が聞こえ辛くなった。普段から知る人と違うかどうかの区別さえ、できなくなった人もいたと聞く。
レジには間隔を空けて並ぶ目印のテープが床に貼ってるというけれど、ほぼ凹凸がないので確認できない。どのくらいの距離を保てているか推し測るのは、空間認識力が高い須依でさえ一苦労だった。
健常者でさえ列から外れたり、気付かず順番を抜かしレジまで行ったりする人も多いというのだから、通常の視覚障害者なら尚更だ。
それで注意を受ける場合は止む得ない。よって他の客に前へ進めばいいですか、と尋ねる等するしかなかった。
列に並ぶ時、ソーシャルディスタンスを保とうと両手を広げるまたは白状で突けば、人に当たってしまう。その為にすみませんと何度頭を下げたことか、と嘆く障害者達の声も耳にする。
交通機関等を利用する際、間隔を空け席に座れと言われても、当然難しくて分からない。人との距離も広がり、慣れた場所でも気付かない場合が増えた。それで線路に落ちる等の事故も実際に起こっているのだ。
初めての場所を訪れるのが好きだったけれど、今は無理だという人もいる。トイレの場所を探す時、近くの人に肩かひじを貸して下さいと手助けを求めてきた手段が使えないからだろう。
それに輪をかけ、困っていても声をかけてくれる人が少なくなった。それどころか通勤や出前等で使う為に交通量が増えた自転車にぶつかられたり、邪魔だと舌打ちや怒鳴られたりするケースもある。
わざわざこんな時に出歩くなと文句を言われ、酷くなると蹴られたりもするのだ。感覚が他の障害者より鋭い須依でさえ、そうした人に遭遇する危険を伴う。
悲しいけれど、それが現実だった。通常の障害者ならじっと神妙にし、恐怖に怯えるしかないだろう。
そうした背景もあり、会社の玄関から地下鉄の入り口に近い通路との間にある、待ち合わせにも使われている場所で彼一人が見張ることになった。
ただし気の強い今の須依は違う。舌打ちされたら同じく舌打ちし、怒鳴られれば怒鳴り返せる。また白杖を蹴ろうとしても気配を察知するのですっと引き、自転車とはぶつかる前に脇へ避けられた。
といっても、この状況で余計なトラブルを起こす訳にもいかない。その為須依は比較的客が少なくそこからやや離れた喫茶店へ入り、スマホを持って待機するよう告げられた。
部長が現れた際は、彼がこちらに電話をかけ通話状態にする予定だ。イヤホンで話を聞きながら会計を済ませ、彼の元に向かえば間に合うだろう。そこで合流し加勢する段取りとなる。また待ち時間の間、定期的にメールで状況報告を受けることとした。
四十四歳の井ノ島の上司で部長ともなれば、少なくとも五十前後から上だろう。さすがに五時を過ぎて出てきた人の中には、そうした年齢の男性は誰もいなかったらしい。
六時を過ぎても主に出てくるのは女性社員が多いようで、結局八時を過ぎた。だが中条らしき人物は見かけないという。彼も自信がなくなったのか、弱気な文章を打ってきた。
― 見逃したかもしれない(泣)―
須依は三杯目のコーヒーに手を付け、励ましの意味で返信した。
― 部長クラスなら、帰宅するのはこれからのはずですよ ―
そうしたやり取りをしている内に電話が鳴った。既にセットしたイヤホンは耳に装着していた為、素早く通話モードにする。
「来た」
短い呼びかけだけがした。須依は素早くスマホをポケットに入れ立ち上がり、伝票を持って会計を済ませ店を出た。すると繋げたままのスマホから彼の話声が聞こえた。
「中条部長ですね」
相手は答えない。マスコミと気づき、無視するつもりだろうか。周囲の人とぶつからないよう注意しながらも、頭の中に描いた地図を辿り、急いで彼の元へと向かった。
今逃せばその後は警戒され、次に取材しようとしても無理だろう。だから何としても、このワンチャンスを活かさなければならない。
「私はあなたの部下である、井ノ島さんと付き合いがあるものです」
絶対に食らい突こうとする、彼の必死な思いが伝わったらしい。
「井ノ島だと。彼とどういう関係なんだ」
ようやく立ち止まったらしい。烏森はその隙を狙い言葉を重ねた。
「彼の妻である詩織さんとも繋がりがありましてね。ここだと人通りが多いですから邪魔になります。少し脇に寄りましょうか。あの柱の陰辺りでは如何ですか」
訝し気に思っただろうが、八乙女財閥の娘の名まで出されては邪険にできないと判断したのかもしれない。二人が移動しているらしき音が聞こえた。最初に烏森が立っていた場所からその場所を推測し、須依は歩を進める。その間にも話は続いていた。
「井ノ島夫妻と関係しているというのは本当ですか。何か身分を証明するものを見せて頂けますか」
先程まで尖っていた中条の言葉が柔らかくなり、丁寧になった。目論見は成功したようだ。ガサゴソと音がする。恐らく名刺を取り出しているのだろう。まずい。早く合流しなければと焦った。
「私はこういうものです」
やや間を空けて中条が声を荒げた。
「マスコミじゃないか。この嘘つき野郎が」
「ちょっと待って下さい。嘘ではありません。今日のお昼過ぎに井ノ島さんと面会させて頂き、お話ししたばかりです。部長さんも警察の事情聴取を受けたと聞きました。でも今回起こった内部から機密情報にアクセスした件は関わっていない。そうではありませんか」
一部の限られた人しか知り得ない事実を述べ、かつ味方だと思わせる口調により、再び動き出した彼の足を再び止めたようだ。
「どうしてそれを知っている。井ノ島が喋ったのか」
「そうです。私が彼からその話を聞きました」
ようやく到着し背後からそう告げると、相手は驚いたのだろう。こちらを振り返り、またその姿を見て目を丸くしたに違いない。
「あ、あなたは、一体誰だ」
「私はこういうものです」
中条が発した声を参考に距離を測り、ゆっくりと近づき須依は名刺を渡した。彼が手に取ったことを確認し、さらに続けた。
「井ノ島君と詩織さんとは、大学時代の同級生です。私も記者ですが、今日中条部長をお待ちしていたのは、無実であるお二人をお助けする為です」
大学名を告げ、簡単に彼らとの関係の説明も加えた。
「助ける、とはどういう意味だ」
それでも怪訝な声で尋ねてきた彼に、須依は答えた。
「井ノ島君から聞きました。彼や中条部長は、機密情報にアクセスした疑いをかけられている。他にも一課の社員達が警察から事情聴取を受け、一部の方に同じく容疑がかかっているのではないですか」
「あいつ、よりにもよって、マスコミにそんなことを口走ったのか」
「怒らないで下さい。もちろんこの件について、上司を含めた外部の人にはまだ漏らしていません。他の記者達が嗅ぎつけている様子もありませんのでご安心ください。マスコミ関係で知っているのは私達二人だけです」
一瞬興奮していた彼だったが、そう言われて落ち着きを取り戻したようだ。そこで改めて須依の顔を目にし、気付いたのだろう。控えめなトーンで言った。
「失礼だが、あなたは目が見えないのかな」
「はい。十年余り前に、病気で視力をほとんど失いました。それでもここにいる彼のような人の力を借り、記者を続けています」
「ちなみに私も障害者です。事故で左足を切断しました」
またスラックスを上げ、足を見せたのだろう。中条がぎょっとする気配がした。烏森が話を続けた。
「私は彼女の目や足の代わりになっていますが、その分健常者だと聞き取れない声や音、察知し難い匂いや場の空気などには敏感なので、そうした情報を教えて貰っています。彼女の前では嘘など通用しません。だから井ノ島さんも正直に話さざるを得なくなっただけです。その点はご了承ください」
「そう、なのか。分かった。ところで何故あなた達は、私や井ノ島を助けるというんだ。それもどうやって」
ようやく警戒心を解いた彼に、須依が答えた。
「理由は簡単です。お二人が犯人でないと分かっているからです。私達が知りたいのは真実です。つまり犯人を特定したい。そうすれば自ずと、お二人の無実は証明できます」
「井ノ島のパソコンを使い、機密情報にアクセスした人物を暴くというのか」
「そうです。その為には部長からもお話を伺う必要があると考え、ここでお待ちしておりました」
「なるほど。そういうことか」
納得してくれたらしく、話をする気になったようだ。思惑通りに進んだため、早速本題に入った。
「他にも事情聴取をされた社員がいて、警察はその中からアクセスが可能だった人物を絞りましたよね。その方達と井ノ島さんの日頃における関係や、普段はどういう仕事を任されどんな性格なのかを教えて頂けますか。部長ともなれば、人を見る目は確かなはずです。その点をお聞きしたいのですが」
「渡辺と寺畑のことか」
期待していた名前を口にした為、内心では小躍りしていたが表情には出さずに頷いた。
「そうです。まずその二人は、何故井ノ島さんのパソコンで機密情報にアクセスできる可能性があると思われているのですか。操作するにもパスワードが必要でしょう」
「もちろんだ。機密情報にアクセスするコードは、一部の管理職にのみメールで知らされる。それも不定期で書かれたコードを確認する為には、事前に登録しているパスワードでファイルを開かないと見られない」
「そのパスワードを、二人だけは知り得たということですか」
「二人だけかどうか分からないが、井ノ島はパソコンを立ち上げる際のパスワードと、ファイルを開くものとを同じにしていたらしい。だからよく彼の近くで仕事をしている人物なら、盗み見た可能性があった。あとはアクセスされた時間、フロアにいたと確認できたのが彼らだけだったから疑われたのだろう。あの日は月締めの仕事があって、一部の社員は遅くまで残業していたからな」
「そうでしたか。では渡辺さんという方は、どんな人ですか。ちなみに下の名前は何というのですか」
「拓だ。開拓の拓と書く。どうってことはない。ごく真面目な青年だよ。特別な役割を持ってはいなかったし、井ノ島も信頼していたとはいえあくまで仕事上の話だ。プライベートで交流が深かったとは聞いていないし、揉めて恨みを買ったとも考えにくい」
「では寺畑さんはどうですか」
「彼女も同じだ。特別親し気にしていたとは思えない。井ノ島の妻を知っているのなら分かるだろう。あの八乙女財閥のご息女で、うちの会社に中途入社してきたのもその関係だ。浮気なんて馬鹿な真似をしたら、彼の首は飛ぶだろう。そこまで愚かな奴じゃないよ」
「そうですか。彼女ともトラブルを起こしたことはないのですね」
「ないね。井ノ島は仕事が出来る男だ。加えて人間関係にも気を使っていた。だからあの若さで部長代理になれたのだろう。単なるコネの力だけではないよ。ある意味抜け目のない奴だからな」
須依が知る彼の人物像と同じだった為、中条の説明には頷かざるを得なかった。しかしこれではどちらも怪しくなくなってしまう。それなら警察の絞り込みの段階から、過ちがあったことになる。
その点を尋ねると、彼は溜息をついた。
「だから警察にも言ったんだ。井ノ島が主張しているように、外部から不正アクセスした奴らが、内部犯行に見せかけようとしたんだってね。決して社内の人間を庇おうとしているんじゃない。そうとしか考えられないだけだよ」
どうやら期待外れのようだ。中条がそう思い込んでいるのなら、これ以上有力な情報は得られそうにない。それでもまだ何かを隠している匂いがした為、諦めずにいくつか質問をした。しかし残念ながらこれといった話は聞けずに終わった。
彼が駅の改札口に向かっていく気配を感じながら、須依は呟いた。
「やはり直接二人に会わないといけないみたいですね」
「ああ。だがこっちは名前しか分かっていない。顔写真もない中、どうやって取材を進めるかが問題だな」
烏森の言葉に頷き、頭を抱えた。こうなれば禁断の手段に出るしかない。だが全く気乗りしなかった。できれば関与せず、敬遠したかった方法である。
しかし選択肢が限られた今、先へ進むために避けては通れない道だ。須依はそう諦め腹を括った。
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