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井ノ島との接触

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 須依はかつて恋人だった井ノ島の身辺を調べると決めた。これまで培った記者としての“カン”が、そうしろと命じていたからだ。
 これはあながちあなどれない。新聞社に在籍していた頃、この“カン”を働かせていくつもの大きなスクープを得ている。若手では滅多に貰えない社長賞も、二度獲得した。
 しかし入社して六年が過ぎた頃、病院で精密検査を受けた診断により、視力が衰えていく病気に罹っていると初めて知った。その後どんどんと視野が狭くなった結果、新聞社を退職せざるを得なくなるまで症状が進行したのだ。
 しかし須依の能力を高く買ってくれた会社から強く慰留いりゅうされ、せめて退職後でも契約社員として残らないかと申し出を受けた。その為今では基本フリーの記者だが特別契約を締結したおかげで、仕事の依頼を受けられるようになり現在に至っている。
 会社としても、ただ須依の能力を惜しんだだけではない。大企業では法律により、雇用者の二%は障害者を雇わなければならないという縛りがある。その為、須依を利用したいとの思惑があったのも事実だろう。
 障害者雇用促進法により、民間企業だけでなく国や地方公共団体は、常時雇用している労働者数の一定の割合に相当する人数以上の身体障害者等を雇用するよう義務づけられている。
 常時雇用している労働者とは、期間の定めのある労働者も、事実上一年を超えての雇用、あるいは雇用されると見込まれる人も含まれていた。週二十時間以上三十時間未満の労働時間のパートタイマーも、短時間労働者として算定基礎に含まれているのだ。
 重度身体障害者、重度知的障害者については、一名を二名として計算できるダブルカウント制を採用。短時間労働者の重度身体障害者、重度知的障害者について要件を満たす場合は一名として計算し、要件を満たさなければ一名を二分の一名と数える。
 短時間労働者とは、週二十時間以上三十時間未満で、かつ一年を越えて雇用が見込まれる者を指す。ちなみに須依の場合はこのケースに当たる為、左足に障害を持つ烏森と同じ一名とみなされていた。
 法定雇用率未達成の企業に対しては、雇用計画の提出や未達成分に相当する納付金を徴収される罰則がある。また正当な理由なく計画を達成せず、実施勧告にも応じない場合は社名公開という社会的制裁も下されてしまう。須依達障害者にはそうした背景があるのだ。
 ちなみに会社を辞めると決めた理由は、視力の低下だけではない。ある事件で特大のネタを掴んだが、会社の上層部により自分の意図と違う形で記事にされた事件があった。その時の怒りと遺恨がまだ心の奥底でくすぶっていたからこそ、退職する決意をしたのだ。
 独身で気ままな身分という環境が、思い切った判断を促してくれたという側面もある。また社内外でも須依に同情的な上司や応援してくれる同僚、記者仲間達が少なからずいた点も大きかった。
 そのおかげで例え視力を失ったとしても、引き続きフリーの記者としてやっていける、否、やってやるという固い意志が持てたのだ。
 幸いこれまでの成果を買われ、前の会社からだけでなく他社からも仕事の依頼があった。売り込みもできる体制が整い、周囲の期待に応える仕事をしてきた為、これまでは何とかやっていけている。
 しかし現在依頼された案件のように、実入りは悪くないけれど時間がかかるだけでなく、本意で無い方向に促されかねない取材は面白くない。そういう仕事ばかりやっていると、損得なしに身が震えるほど没頭ぼっとうできる事件を欲するのだ。
 今回がまさしくそうだった。須依の血が騒ぐ。現在CS本部はもちろん、捜査二課を中心に捜査している事件で、あの井ノ島が何らかの関わりを持っている。須依の“カン”がそう訴えていた。
 とはいっても視覚障害者の須依が一人で調べ、または決定的瞬間を写真に収め記事を書くなど、到底できるはずがない。加えて現在進めている政治家や官僚達の調査も人手がいる。
 そこで今回入手したネタを呼び水として、いつも通り助っ人に頼ろうと決めていた。そう思いながら記者クラブへと戻った須依に、目的の男が独特の足音をさせて近づき声をかけて来た。
「おい、須依、どこに行っていた。あんまり一人でうろついていたら、間違って変な所へ迷い込んじまうぞ。そんな真似を続けていると、いつか出入り禁止になっちまうから止めろと何度も注意したじゃないか」
「烏森さん、丁度良かった。今良いネタを仕入れたところです」
 後半は他の記者に気付かれない様、簡単な手話で伝える。視力を失ってからは、誰かに聞かれても困らないよう、隠語の代わりにジェスチャーする方法を身に着けていた為だ。
 これはほんの一握りの仕事関係者の間でしか通じない。その一人である彼は気づいたようだ。声のトーンを落として接近し、小声で話しだした。
「なんだ。今回の件か。それとも別件か」
「今回の件に絡みますが、別件かもしれません。あっちの動きはまだありませんよね」
「ああ、全くと言っていいほど情報が入ってこない」
「だったらちょっと席を外しませんか」
 記者クラブのブースを出た須依は彼の右肩に左手を乗せ、ひょこひょこと歩く誘導に従って移動した。彼は須依が視力を失う少し前に、事故で左足の膝から下を切除していたからだ。  
 義足を付けていれば、仕事や日常生活にもあまり支障が無いらしい。その為障害者の正社員として常時雇用され、引き続き記者を続けていた。つまり障害者としても須依の先輩にあたる。
 しかし会社員としては所謂いわゆるラインから外れていた。そうした影響もあり、須依のようなフリー記者とも手を組むなど、現場において自由な取材が比較的許されているのだ。
 他の記者達から遠ざかり、話を聞かれる心配のない場所に着く。立ち止まった彼は須依の手を自分の肩から放し、振り向き正対した。
「ここでいいだろう。良いネタとはなんだ。どこで仕入れた」
 佐々から入手したとは言わず、今回の件で情報漏洩した白通に所属する社員が、どうやら捜査線上に挙がっているらしいと説明。またその人物がかつての大学の同級生で元彼だと告げたところ、彼はうなった。
 井ノ島との関係をこれまで詳しくは説明していない。だが目の病気に罹っていると分かった為に別れた男性がいて、かなり傷つき落ち込んでいた須依を、当時の彼は同じ職場で見ていたからだろう。
「そんな相手にわざわざこちらから近付いて、本当に大丈夫なのか」
 今後の取材の足枷あしかせになってはいけないと考え、正直に伝えた。
「全く気にならないかと言えば嘘になります。でもこれは仕事です。私情を挟み、スクープになる可能性を秘めた情報を探らないのなら、プロとして失格でしょう」
 意図を組んでくれたらしく、彼は話を進めた。
「須依にその覚悟があるなら協力は惜しまない。もしその情報が確かだとすれば、単なる外部からの不正アクセスではない可能性が出てくる。または別件の問題が発生しているかだ」
「もし社内の人間が関与していたなら大問題です。それが海外のエージェントに買収された社員だとすれば、警察に逮捕される瞬間などを撮れれば、間違いなくスクープになります」
「俺達の立場からすれば、記事にすることが最優先だ。しかしそうなれば、映像の方がよりインパクトは強い。逮捕のタイミングにもよるが、速報を流せるテレビ局に情報を売る方法も視野に入れた方がいいかもしれないな。もちろんうちの系列局へ、だぞ」
 東朝を含めた大手の新聞社には、系列のテレビ局と深い繋がりがある。しかし彼はフリーの肩書を持つ須依が持ってきた情報をより活かし、かつ自分が所属する新聞社と系列局の顔も立てる方法を提案してきた。
「それで良いと思います。私だけでは写真や映像は撮れないので、そちらを烏森さんにお願いしていいですか。それに表向きは御社から委託された仕事で、企業内の取材をすることになるでしょう。だから情報提供する際、そちらを優先するのは当然です」
「御社なんて他人行儀な言葉を口にするな。須依はうちの契約社員でもある。といって基本はフリー記者を名乗っている手前、そんなものでお前の考えや行動を縛るつもりはない」
 須依の退職した裏の背景を知る彼らしく、そう気遣ってくれた。
「はい。有難うございます。しかし今回も烏森さんの手を借りないとどうにもなりません。記事は書かせてもらいますが、映像その他の提供に関してはお任せします」
 といって写真は新聞でも使えるが、映像に関していえば系列局といっても他社に回した場合、新聞社所属の記者個人では報酬が得られない。だがフリーの須依ならそれが出来る。要は彼の紹介により、須依の名でテレビ局へ映像を高く買い取ってもらうのだ。
 彼は報酬を直接得られない分、局に対しては他に先駆けたスクープを提供することで恩を売れる。また今後の為のパイプを太く出来るメリットもあった。さらに新聞記者としてスクープに関わっていれば、社内での表彰や評価対象にも値する。
 彼は足に障害を負ってから、第一線の記者ではなく遊軍記者の地位へと押しやられた。須依も似た立場だったので、他の記者の鼻を明かす為に組んだ彼との共同戦線は、WIN―WINの関係にある。
 ちなみに彼は二人の子を持つ妻帯者だ。その為異性として接してはおらず、単なる仕事上のパートナーでしかない。
 しかし彼が独身だった頃、正直少しだけ憧れていた時期はあった。今では須依にとって絶対欠かせない、ごく少数の信頼できる人物だ。
「分かった。俺は須依のサポート役をする代わりに、美味しく頂戴できる所は遠慮なく貰う。それでいいな」
「お願いします」
 そこから彼の社有車を停めている駐車場に移動して乗り込んだ。車中でその後の取材をどう進めるかの打ち合わせをした。
 須依より一つ年上の彼とは、入社してから二十一年もの長い付き合いだ。その為話は進めやすく、そして早かった。
 まだ健常者だった頃から随分と世話になり、色々な指導を受けてきたからだろう。視覚障害者となってからも、以前と変わらない態度で接してくれた希少な理解者の一人である。
 中途で視覚障害者となった須依自身、当時の戸惑いはかなり大きかった。今まで通り健常者との会話を、どうやってスムーズにできるか試行錯誤し、苦心していたように思う。
 それでも記者の仕事が好きだった為、出来る限りは続けたいと考えていた。しかし現実はなかなか厳しい。視覚障害者として、日常生活を円滑に過ごす事自体が簡単ではなかったからだ。
 障害者の為のリハビリテーション施設へと通い、様々なトレーニングを受ける必要もあった。だがそうしたほとんどの施設は入居しない限り、土日や祝日は休みのところばかりだった。
 さらに通うとしても、朝九時から夕方四時までなど限られた時間しかやっていなかったりした。
 そうなると不規則な勤務時間である記者として、または会社員として縛られた生活の中、施設に通う時間を確保するのは実情としてかなり困難だ。会社を辞めた理由としては、そういった事情が重なったからでもある。
 退職後しばらくは、集中してリハビリ施設へと通った。白杖を使って道を歩いたり、家の中などをスムーズに移動したりといった基本的な行動から学び始めた。
 点字の勉強や、パソコン等にソフトを導入して文字を読み取る機能の習得も行った。記者として仕事を続ける為に、まさしくブラインドタッチでパソコンを使い記事を書く練習もした。その上ソフトで読み込み、間違いがないかを確認する等の特殊な訓練もしたのだ。
 そうしたリハビリ兼職種訓練を続けた結果、フリー記者としてやっていける自信が付くまでになった。すると烏森を中心とした以前の職場から声がかかり、特別社員としての契約を結んで仕事を頂けるようになったのである。
 ここまでに至る道のりは、今考えても相当険しいものだった。須依自身のたゆまぬ努力は当然ながら、周囲の多大なる協力があったからこそ辿り着けたのだと、今でも感謝している。
 烏森との間で交わした手話などもそうだ。視覚障害者が手話を使用するなんて、奇妙な話だと思うかもしれない。
 しかし記者という仕事柄、他人に聞かれてはいけない会話をしなければならない場面が多数ある。健常者同士なら人目が付かない場所に移動し、こそこそ話をしつつ相手の表情を読み取れば済む。 
 だが須依の場合はその手が使えない。よって隠語なども含め、色々な工夫が必要だった。だからこそ生まれた独自の方法なのだ。
 さらに取材相手がどう感じているか、又は嘘をついているか等を知ることは、記者にとって必要不可欠な要素である。けれど視力を失った為、取材相手の表情からそうした情報を読み取れなくなった。
 だからその能力をどう補うかを懸命に考えた。そこで辿り着いたのが相手の声のトーンやイントネーションの変化、または気配等から感じとるすべを会得することだった。これも長きに渡って協力してくれる人達がいたからできたのだ。
 さらに聴覚だけでなく触覚も磨いた。軽く相手の手や腕などに触り、動揺しているのかそれとも緊張しているのか等の心理状態を、かなりの精度で察知できるようにもなった。
 これは健常者だとなかなかできない手法だ。女性の須依がべたべたと異性の手や腕を触れば、誤解を生む恐れがある。今や世間でも話題となっている、逆セクハラ問題に発展する危険性もあった。
 だが視覚障害者であれば話は違ってくる。道などを誘導してもらう際、相手の体の一部に触れる動作はごく自然な行為だ。相手の腕や肘、肩を掴む行動は必要な行為でもある。それを利用し嗅覚も増そうと訓練した結果、眠っていた新たな能力を引き出せたのだ。
 烏森との打ち合わせを済ませた二人は、まず車で問題となっている広告代理店へと向かった。
 彼の障害は左足だけの為、運転には全くと言っていいほど支障はない。それどころか昔陸上の選手だった彼は、社会人になってから完全に辞めていた中距離走を、障害を負ってから再び始めた程だ。
 僅かなプライベートの時間には、カーボンなどの特殊素材を使った障害者アスリート用の義足に履き替え、トラックを走ったりして体を鍛えているらしい。その結果今や、パラリンピックに出場可能と期待されるほどの記録を持つとも聞いている。
 仕事が忙しく家庭もある為、本格的な練習を行う時間は余り取れないはずだ。もし本気で取り組んでいたなら、昨年東京で行われたあの大舞台に立っていたかもしれないという。
 まだ視力を失う以前に見たが、もちろん普段は普通の義足だ。スラックスの下につけているので、一見しただけでは分からない。よって取材相手が最後まで、障害者だと気付かない場合もあると聞く。
 お昼近くだった為、途中でコンビニに寄って外に出たところ、心地いい春風が頬に当たった。穏やかな日差しに温められたのだろう。
 二人はサンドイッチとおにぎり、飲み物を購入した。そこで須依は移動中の助手席でこぼさないよう、注意してゆっくり食べているとからかわれた。
「何故ツナおにぎり三つにツナのサンドイッチなんだ。量も多いがそれなら別の味にしろよ。それに何故スポーツ飲料を選ぶ」
「だって好きなんだからいいじゃないですか」
 味覚音痴みかくおんち大食漢たいしょくかんを鼻で笑った彼は、ペットボトルのお茶におかかと鮭のおにぎりを一つずつ購入したらしい。
 会社の訪問者用駐車場に停車させ、それを運転席に座ったまま三分で食べ終え彼は外に出た。この業界にいると早食いは仕事における最低限のスキルだ。
 その為須依も急いで呑み込み、追いつこうと車を降りる。そこで彼は待っていて、手を取り自分の肘に絡ませ慎重に歩き出した。コンビを組むようになって長いからか、この辺りの呼吸に無駄がない。しかも他の人とは断然安心感が違う。
 彼の先導で自動ドアを通りビルの中へと入った。まずは受付に寄り、井ノ島を呼び出して貰う必要がある。もちろんアポなど取っていない。よって断られる可能性は高かった。
 大手新聞記者の名刺を持つ烏森の名では、今のタイミングだとまず会ってなど貰えないだろう。しかし白杖を持った須依の名で訪問を告げれば、かなりの確率で面会できると踏んでいた。
 かつての大学の同級生であり、結婚まで考えていた相手だから性格は把握している。よって十数年振りとはいえ、彼ならさすがに門前払いはしないだろうと予測していた。
 その一方で、須依の胸の動悸は鳴りやまなかった。烏森の前では腹を括ったかのように振舞っていたけれど、内心は彼とまともに話せるかどうか、懸念が残ったままだったからだ。
 それでもここまで来て逃げ出す訳にもいかない。よって平静を装い、想定してた通り受付の女性に肩書がフリーランスとなっている名刺を渡しながら告げた。
「アポはありませんが、経理部の井ノ島竜人さんとお会いしたいので取り次ぎをお願いします」
 依頼通り彼女から内線を通じ連絡はしてくれたものの、その気配から当初彼は困惑した反応をしていたようだ。何故突然現れたのか、しかも知らせていないはずの転職先の会社に訪ねてくるなんて、何の用件なのかといぶかしんだに違いない。
 それでもしばらく待たされた後に告げられた。
「少しあちらの席でお待ちいただけますか」
 読みは当たった。複雑な心境でいた須依に、やや離れた場所にテーブルと椅子がいくつかあると、横にいた烏森が耳打ちしてくれた。そこで座っていれば、彼がここまで来てくれるらしい。ビルは二十五階建てだという。その何階に彼の部署があるのかは不明だ。
 別れてから全く連絡していなかったというのに、この状況下で会ってくれるのだから有り難い。といっても盲目となった障害者の元カノを追い返す度胸など、やはり彼にはなかったのだと苦笑せざるを得なかった。
 それに聞き耳を立てて確認したところ、受付の女性は小声で男性が一緒だと説明をしていた。その為彼なら一体どんな奴だろうと、興味を持つに違いないとも思っていた。
 プライドが高いからか、非情な行為をしておきながら自分の事は棚に上げ、人がどうしているのか気になるのかもしれない。
 今ならそんな奴だったと分かるが、付き合っていた頃には気づかなかった。恋は盲目とはよく言ったものだ。それに肝心な事は、目に見えるものでなく心で視るものだと、視覚障害者になった須依は身をもって経験している。
 十分ほど待っただろうか。彼にどういう質問をぶつけるかは既に烏森と打ち合わせ済みだった。よってその間、彼は辺りを見回し会社を出入りする人達の様子を探っているはずだ。
 現在の当該企業は、情報流出騒ぎによってマスコミだけでなく警察からも注目されている。当然取材規制を敷かれ、広報を通さない関係者は敷地に入れなくなっていた。
 よって行き来できるのは、基本的に社員か取引先の人に限られているのだろう。けれど警察は例外だ。烏森はそうした人物をチェックする役目を負っていた。
 もちろん須依達は身分を隠し、単なる訪問者を装って入った。全くの嘘ではないし、また警備員達もまさか視覚障害者が記者だとは思わなかったに違いない。
 さらに同伴者の烏森もわざと左足のスラックスをまくり上げ、義足が見えるようにしてぎこちなく歩いていたはずだ。事前に立てた作戦が功を奏したからこそ、受付まですんなり辿り着けたのである。
「今のところ、警察関係者らしき奴は見当たらないな」
 彼が小声で呟いた。
「今は落ち着いているのかもしれないですね。事件発生から一カ月余り経ちますし、そんなものでしょう。歩いている人達からもそうした会話は聞こえてきません」
 目で確認できない分、須依ができるのは耳による調査だ。自分達もそうだが、三回目のワクチン接種は進みつつあるけれど第六波がなかなか治まらない今、感染予防の為に多くがマスクをしている。
 その影響もあり、大声を出す者は滅多にいない。その分周囲は静かだった。それでもあちらこちらで、通常の聴覚だと拾えない程度の話し声はしている。それを聞き取るのが須依の役割だ。
「空振りに終わるかもしれないってことか」
「それならしょうがないでしょう。取材なんて無駄足をどれだけ踏むかが勝負です。昔そう教えてくれたのも烏森さんじゃないですか」
 するとやや間を空け、躊躇いながら口を開いた。
「確かにそうだが、須依はそれでいいのか。今更だけど」
 発言の意図を察した為、平然と答えた。
「収穫がないと確認するのも私達の仕事です。それが例え会いたくない人だった場合でも変わりません。私情を挟んでの取材など無理でしょう」
 視力を失って落ち込んでいた頃、あらゆる愚痴を彼にぶつけていた。それを全て受け止め、励ましてくれたことを覚えている。よって井ノ島との関係をそれなりに知る彼なりの気遣いだと感じたからこそ、強がって見せた。
「申し訳ない。最初から覚悟した上でなければ、こんなネタは持ってこないよな」
「そうですよ。また幸いにも、彼の顔は見えませんからね」
 須依の自虐ネタを聞き、鼻で笑った気配を感じた。どう返答していいか言葉に詰まり、苦笑いしたようだ。
 そうしている間に烏森の様子が変化した。どうやら現れたらしい。そう察した瞬間、声が聞こえた。
「お待たせしました。井ノ島です」
 久しく耳にしていなかった響きが耳に届き、須依は動揺した。心の準備はしていたつもりだったが、十数年の時を経て磨き上げられた感知能力のせいだろう。ほんの短い言葉とかもし出す空気から、様々な感情が読み取れてしまったからだ。
 意識せずとも戸惑いや驚きと懐かしみや恐れ、怯えなどの想いが流れ込んできた。それらを察知してしまった為、想定していた以上の衝撃に襲われ狼狽ろうばいしてしまったのだ。
 言葉を発っせずにいる須依を見て、彼は気付いていないと勘違いしたらしい。もう一度声を掛けてきた。
「お待たせしました。井ノ島です。久しぶり。元気だったか」
 須依の態度から察した烏森が、代わりに答えてくれた。
「お忙しい所、突然お邪魔して申し訳ありません。私は彼女のかつての同僚で、今も一緒に仕事をしている烏森と申します」
 名刺を渡したのだろう。その肩書を見て驚いたに違いない。
「東朝新聞の方ですか。ということは須依、さんも、まだ記者をしているのか」
 慌てて敬称をつけ呼んだ言葉に反応し、須依は心を落ち着かせる為にゆっくりと立ち上がった。そして今度はフリージャーナリストと書かれている名刺を出して告げた。
「お久しぶりです。あらためまして、須依南海と申します。今はかつての職場だった東朝新聞さんのお世話にもなりながら、フリーで記者を続けています。よければお座りになってお話をしませんか。積もる話もありますよね」
 通常ならマスコミの取材だと気付き、そのまま立ち去られてもおかしくない。それを防ぐ為にそう言った。
これには二つの意味がある。一つは視覚障害者を立たせたままにするのかというアピールで、もう一つは取材だけでなくかつての元カノとしてここへ来たと思わせる為だ。
 不承不承ふじょうぶしょうながら、彼が言われた通り腰を下ろした気配を感じる。そこでまずは須依から砕けた口調に変え、話を切り出した。
「この会社に転職していたのね。いつ頃からなの」
「もう十二年になるけど、俺がここにいるってどこで知ったんだ」
 警戒を解かない彼の質問をはぐらかし、話題を続けた。
「ちょっとした情報筋からよ。前の会社で経理部だったから、ここでも同じ部署に配属されたようね」
「名刺も渡していないのに、どうして分かるんだ」
 佐々から聞いていたからだが、そうは言わず答えた。
「そんなことはどうでもいいじゃない。それより名刺は頂けないのかしら。目が見えないからって必要ない訳じゃないのよ」
 今は昔と違って便利になった。貰った名刺や書類等はスキャナーで読み取り文書化すれば、読み上げ機能を使って耳で聞ける。
 自分がパソコンで打った文章も、そうして最終確認ができるからこそ記者を続けてこられたのだ。また取材相手との会話も録音しておけば、後で書き起こせばいい。
 ちなみに通常は事前に録音していいですかと確認するのだが、今は内緒で白杖の中に仕込んだボイスレコーダーを使用していた。最初から取材という形式を取れば、相手は必ず拒否すると分かっていたからだ。
「申し訳ありませんが、私にも頂けますか」
 烏森がそう促すと、衣擦きぬずれれの音が僅かに聞こえた。おそらくスーツの内ポケットから名刺入れを取りだしたのだろう。それぞれに渡してくれた。
「ほう。経理部部長代理ですか。須依の同級生だと伺っていますから、四十四歳前後ですよね。これだけの大企業で転職組にしては、かなり出世が早くないですか」
 答えたくないのか質問を聞き流した彼は、須依に話を振ってきた。
「今日は一体、何の用だ。取材なら断る。広報を通してでないと話はできない」
「まあまあ、落ち着いて。確かに今あなたの会社は、情報漏洩の件で騒がしくなっていると思うわよ。そんな状況なのに突然訪ねて来た私の面会を受け入れてくれたのは、あなただって話したいことや知りたいことが少しはあったからじゃないの」
 図星だったのだろう。言葉を詰まらせたが、なんとか口を開いた。
「今は基本的に外部との接触を禁止されている。だが十数年振りに君が来てくれたんだ。受付で冷たく追い返す訳にはいかないだろう。ただそれだけだよ」
「有難う。相変わらず優しいのね。さっきこの会社に来たのは十二年前だと言っていたけど、詩織と結婚してからすぐじゃない。そういえばこの会社は早乙女グループと繋がりが深かったわよね。もしかしてその伝手で入ったの。それとも無理やり転職させられたとか」
 彼は大きく溜息をついてから言った。
「そうじゃない。彼女のお義父さんの紹介なのは確かだ。けれど更なるキャリアアップの為であって、無理やりなんかじゃない」
「そうなの。だったらいいけど、ずっと経理畑なのね」
「しょうがないだろう。こういう仕事は専門職みたいなものだ。それに俺は学生時代から簿記や税理士資格を取得していたしな。その上二十年以上経理一筋でやってきたから、この年で部長代理になれたんだ。コネで出世したと思うかもしれないが、俺なりに努力した結果なんだよ」
 やはり先程烏森が触れた件を気にしていたらしい。彼らしい反応だと思いつつ、首を横に振って言った。
「私はそんな風に思っていないわよ。彼も悪気があって言った訳じゃないから。あなたが優秀だったのは良く知っているし」
 間を空けた後、再び彼は言った。
「それで今日は一体、俺に何の用だ」
「何よ、つれないわね。詩織は元気にしているの」
「お前、本気でそんなことを知りたいのか」
 本音では聞きたくなどない。本題へ入る前の準備段階として必要だった為に触れただけだ。それでも敢えて笑顔を作り答えた。
「それはそうよ。色々あったけど、かつては親友だったのよ。あなたが十分稼いでいるだろうから、もちろん専業主婦だよね。彼女は学生の時、将来は永久就職したいとよく言っていたもの」
「そうだよ。子供が二人いるからな。育児だって大変なんだ」
「あら。それはおめでとう。男の子と女の子、どっちよ。何歳と何歳なの」
 躊躇いながらも答えが返ってきた。
「上が十歳で下が八歳だ。女の子と男の子だよ」
「そうですか。わたしのところは七歳と五歳で上が男、下が女です。男親なら女の子は特に可愛いでしょう。ただ最近はませてきて、妻と同じような口を利くので困っていますよ。井ノ島さんのところはどうですか。十歳ともなれば、そろそろお風呂なんか一緒に入って貰えなくなる年頃でしょう」
 烏森が話題に加わり、饒舌じょうぜつに喋り出した。そこでようやく井ノ島は彼に関心を向けたようだ。
「あなた、結婚されているんですね」
「何よ。もしかして、私が新しい彼氏を連れてきたとでも思っていたの。この人はあくまで会社の先輩で、今は仕事上のパートナーになって貰っているだけ。私が視覚障害者だから、移動したりするのも大変でしょ。彼は運転手でもあり誘導してくれる人でもあり、取材で私が至らない点を補ってくれているのよ」
「そうか。前いた会社の人だったな」
 言葉のトーンで、やはり同伴している彼とはどんな関係かを知りたかったのだと分かる。自分は人の親友と結婚し逆玉に乗ったというのに、元カノが今どんな男と付き合っているのか気になるらしい。
病気が発症したのを機に振られた身ではあるけれど、こんな浅はかな男と結婚しなくて良かったと今では真剣に思える。
「そうよ。私みたいな障害者と、真剣に付き合ってくれる人なんていないでしょう。でもね。烏森さんも障害者ではあるのよ」
「そうなんですよ。同じ障害者同士で助け合っているってところでしょうか」
 烏森がそう説明しながら左足を見せたようだ。井ノ島の息を呑む音が聞こえた。
「傷害の容疑で逃走中だった男の取材中、偶然出くわしましてね。突然だったので、お互いパニックになったんですよ。それで彼が運転するバイクに足をかれてしまいました。まあ、相手は直ぐに逮捕されたから良かったんですけどね」
「犯罪者だったら、賠償金とかは取れなかったんじゃないですか」
「いえ、幸い男の家が比較的裕福だったので、治療費や慰謝料は後で請求出来ました。それに業務中だったので労災もおりましたから、経済的にはそれほど問題なかったです」
「そうですか。それでも大変でしたね」
「いやいや、私なんかと比べたら須依の方がもっと大変でしたよ。彼女の場合は病気なので、労災も賠償金もありませんからね。入社時に半強制的に加入させられた生命保険があったおかげで、後遺障害の保険金は下りたようですが、それでも相当苦労していましたよ。もちろん災いはそれだけでなかったから余計です」
 井ノ島の言葉が口先だけで、感情がこもっていなかったからだろう。烏森は須依をダシにして皮肉をぶつけていた。彼もそれが分かったらしく、二の口が継げなかったようだ。
 しかし憎まれ口を叩き、懲らしめるのが今日ここへ来た目的ではない。必要な情報を聞き出す為、もっと喋ってもらわなければ困る。
 よって須依が空気を変えようと、話題を元に戻した。
「上はまだしも、下のお子さんが八歳だとまだ完全に手が離れたとは言えないわね。二人共小学生なら夏休みや連休には、どこかへ連れて行かないとうるさいんじゃない。家族サービスも大変よね」
 だが彼は乗ってこなかった。
「もういいよ。わざわざ十数年ぶりに俺に会おうと思ったのは、そんな話をしに来た訳じゃないだろう。さっさと用件を言ってくれ」
 烏森が余計なことを言ったからか、彼は不機嫌となり現実に引き戻されたらしい。完全な警戒態勢に入られてしまった。
 須依はテーブルの下で烏森の足に軽く蹴りを入れた後、やむを得ず切り出した。
「じゃあ聞くけど、今回この会社がランサムウェアの被害に遭ったのは確かよね。だけど警察からも、感染経路がどこからだったかは詳しく発表されなかった。もしかしてあなた達がいる、経理部が感染源だったんじゃないの」
 だが彼は即座に否定した。
「何を言っているんだ。確か経理部は関係していない。複数の社員の元へ取引先になりすましたメールが送られ、それが感染源だったと聞いている。添付されていたファイルを開いたからのようだが、発表を控えているのは次の攻撃に備えているだけだ」
 今回の事件は、一部の情報を漏洩させた後に身代金を要求するというレアケースだ。しかも事前にランサムウェア対策を取っていたおかげで、会社のシステムは発覚した二日後に復旧できたらしい。 
 情報も定期的にバックアップしていたようで、事業継続にはそれ程支障なかったという。よって身代金はまだ払っていないはずだ。
 しかし機密情報を含めたデータは暗号化され、抜き取られているに違いない。その為、今後その情報をばらまかれる恐れが残っている。よってこのまま犯人の要求に従わなければ次の接触を試みるだろうと考え、罠を張っているのだと推測された。
 警察はアクセス履歴等を遡り、犯人の追跡をしているはずだ。けれど海外の複数のサーバーを通じた複雑な経路であれば、突き止めるのは難しい。よってそのような手を打ったのだと想像できる。
「だったら教えてくれないかな。何故今回の情報流出の件で、あなたが警察から事情を聞かれているの。所属は経理部よね。システムを管理している部署だというなら理解できるけど、どうして関係ないと思われるあなたが、今回の事件との関係性を疑われているのか理由を説明して」
 敢えて直球を投げてみたが、彼もそう来ると予想していたのだろう。軽くあしらわれた。
「さっきも説明したが、その件について俺の口から言えることはない。知りたければ全て広報を通してくれ」
 立ち上がりそうな気配を感じ、阻止する為即座に畳みかけた。
「否定しなかった。つまり疑われているのは確かなのね。経理部の人間が事件に関わっているとなれば、外部からの不正アクセスにより漏洩したのは、政治家や官僚達の情報だけじゃない可能性がある。つまり横領の証拠が発見されたか、不正経理していた事実が発覚したと考えるのが筋でしょう。つまりあなたが横領、または不正経理をしていた疑いをかけられている。そう記事に書いていいのかしら」
「ば、馬鹿を言うな」
 彼は自分でも意図しない大声を出してしまったようだ。フロア全体に響きわたり、何事かと皆が口を噤みこちらに注目したからだろう。周囲を気遣うように、慌てて小声で言い直した。
「冗談じゃない。俺はそんなことをしていない。勝手な憶測記事なんか書かないでくれ」
「違うと言うのなら教えて。警察に何を聞かれているのよ」
 正直に話さなければ、おかしな噂を立てられてしまうと恐れているらしい。だが彼は勘違いをしていた。
 二人が週刊誌の記者なら事実でなくても、そうかもしれないと臭わし、判断は読者に委ねるといった逃げの記事が書けるだろう。
 けれどフリーとはいえ東朝新聞の記者と同席しているのなら、掲載先は新聞だと通常なら思うはずだ。しかし須依の脅しで冷静さを失った彼は、正しい判断が出来なくなったと思われる。
 もちろんそうなるよう意図的に導いたからだが、まんまと策に嵌った。その為にしばらく考えあぐねていたようだが、とうとう口を開いた。
「海外から不正アクセスを受けて一時はシステムダウンしたが、何故か経理部のパソコンからも機密情報にアクセスした記録が発見されたんだ。しかも情報を抜き取り持ち出された可能性もあるらしい。それでどういうことなのか、責任者である部長はもちろん俺も事情を聞かれた。しかしそれだけだ。うちの会社で横領だとか、不正経理をしていたなんて事実はない。だから冗談でもそんな記事は書かないでくれ。ただでさえ今回の事件で会社は大きなダメージを受けている。既にあること無いことを書かれ、うんざりしているんだ。嘘の情報でこれ以上傷を深くするのは止めて欲しい」
 かつてよりこの会社は、政府からの受注が多すぎると非難されてきた。その為今回の件を機に、その実態が暴かれるだろうとマスコミは騒ぎ立て、世間からも相当攻撃を受けている。
 元々会社の体質が悪かったからだろう。中には時間外労働やパワハラやセクハラなど内部告発者によると思われる情報が、まことしやかに次々書きたてられたのだ。
 その上反社会的勢力との繋がりがあるとさえ噂された。恐らく真実も混じっているだろうが、憶測でしかないものが大半と思われる。彼はそれを言っていた。
 しかしこれまでの誹謗中傷記事には、横領や不正経理にまで触れたものはない。だからこそ阻止しようと考えたのだろう。
 おかげで必要な情報が入手できた。佐々が井ノ島の名を覚えていたのは、CS本部の調査により社内からのアクセス記録が発見され、それが経理部だと判明したからのようだ。
 捜査員が事情聴取をする際に対象者として挙がって来た名前を見て、井ノ島の名を発見した彼は驚いたに違いない。そこで須依を思い出し前回会った際、つい口に出してしまったのだろう。もしくは意図的に情報を流してくれた可能性があった。
 どちらにせよ佐々には感謝だ。井ノ島と会話しなければならない煩わしさ以上の収穫は得られた。もう少し掘り下げられれば尚いい。
 そこで更に質問した。
「事情聴取を受けたのは、責任者である部長と代理のあなただけなの。他にもいるでしょ。アクセスしたパソコンを使用していた社員とか。それとも経理部全員が事情聴取を受けたとでもいうの」
 言葉に詰まっていたが、正直に答えてくれた。
「全員じゃない。部の中の一課に所属する社員だけだ」
「その一課のパソコンから、機密情報にアクセスした形跡が見つかったのね。その課には何人いて、あなた達以外でどれだけ事情聴取を受けたの。中でも執拗しつように聞かれた人が何人かいたはずでしょう」
 この問いはさすがに拒否された。
「そこまで言う必要は無いだろう。それに外部から不正アクセスされたのは確かなんだ。それをカモフラージュする為、内部のパソコンに侵入してアクセスした可能性も残っている。警察だってそれは認めていたよ。だから念の為に聞かれたまでだ」
「そうとも限らないわよ。例えばコネ入社し若くして代理にまでなったあなたを煙たがった上が、罠に嵌めようとしたのかもしれない」
中条なかじょう部長はそんな人じゃない」
 強く言い返した彼に、須依は微笑んで言った。
「中条さんって言うのね。ついでに他の社員の方の名前を教えてよ」
 口を滑らしたと気付いたからだろう。声を荒げて立ち上がった。
「これ以上話せることはない。俺が事情聴取を受けた理由は説明したよな。それが分かっているのに横領や不正経理の疑いがあるなんて馬鹿な記事を書けば、信用棄損きそんまたは業務妨害で訴えるぞ」
 そう捨て台詞ぜりふを残し、そのまま去っていった。代わりに警備員がこちらへ近づいてくると烏森が耳打ちしてくれた。井ノ島が彼らに、須依達は記者だと告げたのだろう。
 よって追い出される前にさっさと立ち去る方が身の為だと考え、二人は席を離れ出口へと向かった。すると警備員達は様子を見守るように立ち止まったようだ。
 自分達から出ていけば、揉めずに済むと判断したのだろう。障害者相手に下手な真似をすれば、何を言われるか分からないと恐れたのかもしれない。
 こういう場合はハンデが武器になる。ただそれはそれで不愉快だった。しかし世間が公平でない事実を受け入れる為には、偏見をもたれるケースも含め、割り切った受け入れ方をするしかない。
 何事も無かったかのように会社を出た須依達は、駐車場に停めた車に乗り込み走らせた。井ノ島と久々に会った事実に心は揺れたままだったが、表情に出ないよう気を付けながら移動した。
 烏森がいる手前、私情を挟まず弱気になってはいけないと、敢えて彼に冷たく当たった。けれどかつて受けた裏切りへの腹立ちより、懐かしさが先立った感情に須依自身が驚いていた。
 彼に未練があるなんて全く思わない。しかし一度は結婚まで意識した相手だ。しかも彼との関係を解消した後、恋愛感情からは遠ざかっている。的場との間でもそのような気持ちにはなれなかった。
 だからだろうか。あれからかなり時間が経過し、嫌な記憶を忘れようとしてきた結果、淡い思い出だけが心の奥底に残っていたのかもしれない。そんな感傷が湧き出た事態に困惑していた。
 須依は懸命に思い過ごしだと言い聞かせ、ふたをしてきた負の記憶を呼び覚ますことで彼への想いを払拭するよう試みる。また今の自分には烏森や佐々、的場といった理解者がいるのだと言い聞かせ、動揺を収めようとした。
 そうして胸のざわつきが落ち着いたと自覚できてからしばらく経った後、これからについての話題を広げる為に口を開いた。
「社内からもアクセス記録が発見されたというのは、新しい情報ですよね。しかし彼が言ったように、外部から不正アクセスした人間がわざわざ内部のパソコンに侵入し、履歴を残すようなヘマをするでしょうか」
 須依の心の動きに気付かなかったのか、いつもの調子で答えた。
「少し考え難いな。アクセス経路は海外サーバーを複数経由し、辿れないようにしているはずだ。それなのに、内部からアクセスした足跡だけを残すというのは理屈に合わない」
「そうですよね」
「ここに何か、今回の事件に繋がる新たな切り口が見つかるかもしれない。ただ俺達が追っている政治家や官僚達の不正とは、別件の可能性もあるけどな」
 いつもの調子を取り戻せたと胸を撫で下ろしながら、須依は敢えて首を振り否定した。
「そうとも限りませんよ。企業との不正な金銭授受があれば、経理という部署は無関係で済まないでしょう」
「それはどうかな。通常は仕事を得る営業などが窓口になり、そこの社員が過剰接待や金品を渡すだろう。それを社内の経費処理で目を瞑ったのなら、関与といえるかもしれない。ただ積極的に関わってはいないだろうし、あくまで上の命令に従っただけじゃないか」
 彼の説明には頷かざるを得なかった。
「そうですね。でもそれなら何故経理部の人間が今回漏洩した機密情報にアクセスしたか。またはそう見せかける必要があったのか、という点が鍵になります」
「その辺りは深く掘り下げてみる必要がありそうだ」
「といって、さすがにもうあの会社へは近づけないでしょう。元々マスコミの取材は完全にシャットアウトされていますからね」
 須依の問いかけに彼は同意しつつ、新たな提案を出してきた。
「そうかもしれない。だったら取り調べた側を探ってみるか」
「それは良い手だと思います。今回の特別捜査本部の指揮を取っているのは捜査二課ですよね。だったら彼らが事情聴取しているはずでしょう」
「後は検察の特捜部だが、そっちの取材はなかなか難しい。まずはそっちから当たってみるか」
 須依達はその足で警視庁に戻り、記者クラブに一度顔を出して新たな情報があるかを確認した後、目的の部署へと足を向けることにしたのだった。
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