10 / 22
光輝~②
しおりを挟む
彼女を蹴り、普段から暴力を振るっていた父親が、警察に事情を聞かれている間のことだったという。早苗は骨折していたが、入院の必要はないと判断され、一度家に帰されたらしい。
この病院側の見解と警察の決断、また病院に駆け付けた児童相談所の職員達の判断が甘かった。
暴力を振るっていたのはもっぱら父親で、近所の人達からの情報だと、母親は必死に早苗を庇っているとの証言を得ていたという。だが実態は、そんな単純なものでは無かったのだ。
早苗のせいで父親の虐待が世間にばれ、警察に捕まったことに逆上した母親は、彼女の首を絞めたらしい。連日マスコミに追いかけられ、近所からの目も厳しくなったからだろう。
「あんたのせいで、あんたのせいであの人が、あの人が」
そう大声で叫ぶ声に異変を感じた近所の人が、家へ押しかけた時にはもう、早苗はぐったりしていたという。その彼女の体の上で、母親は狂ったように泣き叫んでいたそうだ。
その上取り押さえようとした近所の人達の腕を振りきり、台所にある包丁を取り出して振り回した挙句、自殺しようとしたと聞く。精神的に相当追い詰められ、錯乱状態に陥っていたと思われる。
幸いと言っていいのか、駆け付けた警官に取り押さえられ、救急車で病院に運びこまれた母親の命は、無事だった。だが暴力は振るっていなかったものの、彼女もまた早苗に対し食事を与えない等、父親とは違った虐待が明らかとなり、彼女も逮捕された。
その事実を知らされた光輝は、泣き叫んだ。早苗の死後、彼女の葬儀が執り行われクラスの皆と一緒に参列した際も、他人の目など気にすることなく号泣した。
「僕が、僕が余計なことをしたから、僕が、僕が彼女を死なせてしまったんだ……」
違う、そうではないと色んな大人達や陽子達も、光輝を必死に慰めてくれた。だがそんな言葉は、一切耳に入らなかった。
あの時光輝が早苗の虐待をあんな形で暴きさえしなければ、彼女は死なずに済んだかもしれない。もっと違う形で助ける方法はあったはずだ。
それなのに自分の未熟な力の無さを理解せず、分不相応なことをしようとして逆に不幸を招いた。あの時光輝は、過信していたのだ。彼女の苛めを阻止した自分が機転を利かせれば、今度は家庭での虐待から、彼女を助けられると自惚れていた事は間違いない。
子供のそうした浅はかな考えが、複雑な事情を抱えている他人の家庭の内情を暴露してしまった。その顛末は、早苗の死という悲劇をもたらしただけで終わったのだ。
光輝自身も自分の家庭がそうであったように、子供の力だけではどうにもならないことなど判っていたはずだった。しかし光輝の家では両親が離婚し、それから平穏無事な暮らしが何年も続いた。その間に、大事な事を忘れてしまっていたのだろう。
別れた後もずっと父を庇っていた母親。そんな姿を幼い頃からずっと見守っていたはずの光輝が、家庭の問題の根深さを知らない訳は無かった。
それなのに甘く見ていた。なんとかなるのでは、と思ってしまったのだ。そんな自分を光輝は責めた。責め続けた。
しかしそんなことをしたからといって、もう早苗は生き帰らない。彼女の笑顔は、二度と見ることができないのだ。自分のせいで彼女が死んだという現実は、決して変わらない。
それから光輝は、余り笑わなくなった。サッカーも辞めた。学校でも、友達と深く関わることを止めた。その代わり、勉強だけはしっかりとやった。
休み時間はいつも一人で机に向い、参考書や問題集を開いて勉学に励んだ。その理由の一つは、前から考えていた計画を実行する為でもあった。
光輝は学業に励み、東京にある中高一貫の学校を受験しようとしていたのだ。事前に調べていた全寮制の学校へ入学すれば、東京で生活出来ることが判った。よってその学校に合格する為、必死になって勉強をし始めたのだ。
当初の動機は、当然お姉ちゃんが上京したからだった。しかし早苗の事件が起こった為、事情は大きく変わった。光輝はこの小さな街から一刻も早く出たかったし、そうしなければならない程、暮らしにくい環境に陥っていたからだ。
早苗の事件は、全国のニュースで大きく流れた。その中の一部の報道では、虐待の事実を発覚させた光輝のことも匿名ではあるが、掲載した雑誌があった。
母親の保護の元で取材は一切断ったが、その態度が余計に心無い記事を書かせたのかもしれない。光輝が思い詰めていたように、虐待を助けようとした同級生の安易な行動は、悲しい事件が起きるきっかけになった。そうした内容の記事を掲載した雑誌があったのだ。
それに周りの人達が反応した。多くは光輝達を擁護する意見だったが、中には光輝の目の前で非難する大人もいた。
「正義感を振りかざして、格好をつけたかったんだろう。だからあんなことが起こったんだ」
子供達の間でも女ボスを中心として、以前から光輝を気に入らないと思っていた連中が、同様の態度を示した。やがて周りに人は集まらなくなり、自分からも敢えて近づこうとはしなかった。
全て自分が蒔いた種だ、自分が悪いんだとの気持ちがあったからだろう。とはいっても、そんな環境に耐え続けることは辛かった。その為、この場所から早く逃げ出そうと考えたのだ。
幸い光輝は未成年により、実名報道されなかった。まだネット社会の時代でなかった事も、その後の事を思えばとても助かったと言えるだろう。
それならば、小さな街を出て自分を知らない大きな都会、例えば東京へ出て暮らしたい。そう母親に告げた所、一時は反対された。
しかし何度も真剣に頭を下げる光輝の態度と、周囲の冷たい目に晒される心苦しさを察した母親は遂に折れた。最終的には無事試験に合格できたらいいね、とまで言って応援してくれたのだ。
その学校なら授業料も比較的安く、寮に入るから生活費も抑えられる。その為母親達の仕送りで、何とかやっていけるだろうとのことだった。
光輝は必死に猛勉強した。結果無事合格し、街を捨てて東京生活を送ることが決まったのだ。奇しくも両親が離婚した街から去ったお姉ちゃんを追いかけるように、光輝も東京へ出たのだ。
その頃、彼女は短大を卒業した後有名な会社に無事就職を果たしていると聞いていた。住所や連絡先は、彼女と交流があった母親から聞き出し、何かあったら助けて貰いなさいと言われた。
母親は彼女に電話でも事情を説明してくれ、嬉しいことに代わってくれた。彼女は受話器の向こうで、
「光輝、何か困ったことがあったら、いつでも私のところに連絡してね。遠慮しなくていいんだよ」
と優しく言ってくれた。呼び名は昔のような愛称ではなく、下の名前の呼び捨てだった。もう中学一年になったからだろう。あの頃の幼い自分ではないと、彼女も認めてくれた気がして嬉しかった。
その声は何年振りかに聞くものだったが、自分の中では何も変わらない。以前のままの、温かいお姉ちゃんの声に間違いなかった。彼女の声を聞いているだけで、胸に大きく空いた穴がほんの少しだけ埋まっていく気がした。
しばらく感じたことのなかった幸せな気分に浸り、不覚にもその時涙を流してしまった事を覚えている。光輝が東京に出てすぐの頃、彼女は会いに来てくれた。何年振りかに対面した彼女はとてもあか抜けて見え、奇麗になっていた。
そんな彼女の顔を照れくさくてまともに見られない光輝に、向こうから駆け寄って来てくれた。身長はもうほぼ同じ位になった光輝の頭を、かつてよくやってくれたように撫でながら励ましてくれた。
「とても辛い思いをしたのに、よく頑張ったね。これから嫌な事は忘れられなくてもいいから、胸の奥にしまいなさい。新しい環境で今できる事を、一生懸命やればいいの。応援しているから」
光輝は我慢していた涙を止められなかった。早苗が死んだと聞いた時以来、激しく泣いた。彼女は黙ったまま小さな肩で、それを受け止めてくれていた。
東京に来てよかった、と心からその想いが湧き出てきた。またあらためて、光輝はお姉ちゃんの事が大好きになったのだ。この気持ちはまさしく、惚れ直したというものなのだろう。
とは言っても、実際に彼女と東京で会う機会はその後なかなか無かった。光輝の入った学校は中高一貫教育の男子校で、全国から集まる優秀な生徒達全員が寮生活を送っていた。
そこでは勉強だけでなく、日頃の生活から厳しく指導された。門限は勿論、休日の外出もかなりの制限があった。学校の勉強もかなり高度なもので授業の進め具合も早く、宿題もたくさん出た。
さらに光輝は途中で辞めたサッカーを、この学校に入って再び始めた。学校では文武両道を奨励し、生徒は全員何かしらのクラブ活動に所属しなければいけなかったからだ。
それなら昔やっていて、得意で大好きだったサッカー部がいいと決めた。だがクラブの練習も熱心なことに、毎朝授業の前の朝練があり、放課後も暗くなるまで続けられた。
その練習量は他の運動部と比較しても、相当厳しい部類に入っていたと後に知る。そのせいもあり、光輝が入学したばかりの頃は休みだからといって、外に遊びに出る暇などなかった。
またサッカーの練習でくたくたに疲れた体で、寮の部屋に戻っては授業について行く為、必死に勉強をしなければならなかったのだ。
彼女に会いたくて仕方がない光輝だったが、そんな精神的な余裕や現実的な時間的余地も無いまま、月日はあっという間に流れた。
身長がぐんぐんと伸び、サッカー部で鍛えた逞しい体を持った光輝は、中学三年の夏を過ぎてサッカー部を引退した。そこで僅かに時間の余裕ができたため、ようやく勇気を振り絞ってお姉ちゃんに連絡を取り、久しぶりに会う約束をしたのだ。
東京に来て二年半の間、光輝は彼女と何度かは会っていた。だがそれはいつも光輝が心配で、母親が上京してきた時だけだった。
昔から仲よくしていた母親が折角東京にくるからと、その時だけは彼女も何回に一回は来ていたのだ。光輝に会うことがメインでは無い。
もちろん彼女も仕事があり、友人達と過ごすプライベートの時間だってあるのだ。中学生の光輝なんかにかまっている暇は無いだろうことは自覚していた。
それでも東京に来て時間も経ち、光輝もそれ相応の東京における知識も地理も覚えた。だから思い切ってデートに誘ってみたのだ。
この頃はまだ今のように携帯などまだそれ程普及していない時代だった。メールをやりとりする習慣も無い。もしこの時期にそんな便利なツールがあったら、電話で話す勇気のない光輝は、頻繁に打ち続けていただろう。
光輝はドキドキしながら、夜遅く寮にある公衆電話を使って彼女に電話をかけた。周囲をキョロキョロと見渡しながら、冷やかす先輩や友人達がいないかを確認した。
寮の中には、限られた場所にしか公衆電話がなかった。この電話を使って寮に住んでいる生徒達が皆、家と連絡を取ったり、友達の家に電話をかけたりするのだ。
家から生徒宛てにかかってくる時は管理人室の電話が鳴り、生徒は寮内放送で呼び出され管理人室に入って話をする。よってプライベートの電話、例えば彼女との連絡などは、その公衆電話で話すしかなかった。
だが時には堂々と長電話をする先輩がいたり、こっそり恥ずかしそうに喋っていたりする後輩達がいた。その周りを、冷やかしながら騒ぐ生徒達も必ずと言っていいほどいるのだ。
それが嫌でこっそり寮を抜け出し、外の公衆電話を使おうとする生徒もいた。だが監視の厳しい寮では、無許可の外出をした場合、罰則が設けられていた。発見されると一カ月のトイレ掃除や、外出禁止などを言い渡されたりする。
その為光輝は人がいない時間帯を狙い、寮の公衆電話へと辿り着き、心臓をバクバクと鳴らしながら受話器を取った。時間は十時を少し回っていた。
それでも仕事で遅くなったりする彼女は、そういう遅い時間帯の方が捕まりやすいことを、母親から事前にリサーチしていたのだ。
コール三回で出た彼女は、相手が光輝だと判ると心配そうに声を落とした。
「どうしたの? こんな遅い時間に珍しい。何かあった?」
「う、ううん。別に心配するようなことは、何も無いよ。ただ今度時間がある時に、会えないかなあと思って」
光輝はそこから一気に頭の中で描き、何度も繰り返した言葉を吐きだした。
「この間の夏の大会が最後で、三年は部活を引退したから時間もできたんだ。お盆になる前に、お母さんも心配しているから早く田舎に帰んなきゃいけないし。でもそっちは行かないでしょ。だからこっちにいる間、一度会えないかなあと思って。いつもお世話になっているし、僕が映画でも何でも好きなところに連れていくから」
しばらくの沈黙があり、突然彼女は笑いだした。
「なに? 私をどこかに連れて行ってくれるの? もしかして、デートのお誘いかな?」
からかうような口調で話す声を聞き、光輝は耳まで真っ赤になっていた。電話だから、こんな姿を見られなくて済むのが幸いだった。そう思いながら、なるだけ明るい声で言い返す。
「そうそう! デート! 十五歳の若い男の子とデートだよ。そんな機会なかなかないよ!」
「えぇ~! もうそんな年になるんだ! 早いなあ、私も年取る訳だ。そうだよね。あなたからすれば、もうおばちゃんだよ」
「そんなことないよ。お姉ちゃんはまだ十分若いじゃん」
「あら! 光輝、じゃんなんて東京言葉使っちゃって! あ、それと、そのお姉ちゃんって言うのはそろそろ止めようか」
「えっ! 何て呼べばいいの?」
光輝と名前を呼び捨てされ、再び顔が熱くなり動揺しながら聞き返した。
「そうねぇ。愛称も良いけど、私が光輝って呼んでいるんだから、お互い名前の方が良いんじゃない。だったら、あかり、さん、だね。さんはつけよう」
「あかりさん? 照れ臭いなあ。あかり姉ちゃんじゃいけない?」
「だってそれじゃあ姉弟みたいじゃない。実の姉じゃないんだから、変でしょ」
「そうか。あかり、さん。えぇ~、やっぱり照れくさいよ」
そんなこんなで、光輝は結局あかり姉、と呼ぶことで妥協してもらった。
それから会う日時は彼女の都合もあり、改めて向こうから連絡して貰うことに決まった。だが数日後、かかってきた電話で光輝はショックを受ける。
「光輝、あのね。会うのは今度の日曜日にしたいんだけど、その時私の友達も連れて行っていい? 丁度向こうの友達も光輝と同じ年の子が今度東京に来て、会う約束になったらしいの。ねえ、いいでしょ?」
本当は嫌だと言って、ごねたかった。だが管理人室にかかってきた電話で、変に揉める話をすることは憚られる。長話になってもいけないし、会えるだけでも良しとしなければならない。
その為光輝は少しぶっきらぼうに答えた。
「いいよ。で、時間と待ち合わせ場所は?」
「いいの! じゃあ、新宿の西口のアルタ前の広場に十時でどう?」
「うん、判った」
「そう! 楽しみにしてるね!」
そう言って彼女は電話を切った。光輝の気分はまだすっきりしないままだったが、それでも久しぶりに顔を見て話しが出来る。しかも新宿で、と考えただけで気持ちが高揚してきた。
光輝はその時知らなかった。これから運命的な出会いをすることを。
この病院側の見解と警察の決断、また病院に駆け付けた児童相談所の職員達の判断が甘かった。
暴力を振るっていたのはもっぱら父親で、近所の人達からの情報だと、母親は必死に早苗を庇っているとの証言を得ていたという。だが実態は、そんな単純なものでは無かったのだ。
早苗のせいで父親の虐待が世間にばれ、警察に捕まったことに逆上した母親は、彼女の首を絞めたらしい。連日マスコミに追いかけられ、近所からの目も厳しくなったからだろう。
「あんたのせいで、あんたのせいであの人が、あの人が」
そう大声で叫ぶ声に異変を感じた近所の人が、家へ押しかけた時にはもう、早苗はぐったりしていたという。その彼女の体の上で、母親は狂ったように泣き叫んでいたそうだ。
その上取り押さえようとした近所の人達の腕を振りきり、台所にある包丁を取り出して振り回した挙句、自殺しようとしたと聞く。精神的に相当追い詰められ、錯乱状態に陥っていたと思われる。
幸いと言っていいのか、駆け付けた警官に取り押さえられ、救急車で病院に運びこまれた母親の命は、無事だった。だが暴力は振るっていなかったものの、彼女もまた早苗に対し食事を与えない等、父親とは違った虐待が明らかとなり、彼女も逮捕された。
その事実を知らされた光輝は、泣き叫んだ。早苗の死後、彼女の葬儀が執り行われクラスの皆と一緒に参列した際も、他人の目など気にすることなく号泣した。
「僕が、僕が余計なことをしたから、僕が、僕が彼女を死なせてしまったんだ……」
違う、そうではないと色んな大人達や陽子達も、光輝を必死に慰めてくれた。だがそんな言葉は、一切耳に入らなかった。
あの時光輝が早苗の虐待をあんな形で暴きさえしなければ、彼女は死なずに済んだかもしれない。もっと違う形で助ける方法はあったはずだ。
それなのに自分の未熟な力の無さを理解せず、分不相応なことをしようとして逆に不幸を招いた。あの時光輝は、過信していたのだ。彼女の苛めを阻止した自分が機転を利かせれば、今度は家庭での虐待から、彼女を助けられると自惚れていた事は間違いない。
子供のそうした浅はかな考えが、複雑な事情を抱えている他人の家庭の内情を暴露してしまった。その顛末は、早苗の死という悲劇をもたらしただけで終わったのだ。
光輝自身も自分の家庭がそうであったように、子供の力だけではどうにもならないことなど判っていたはずだった。しかし光輝の家では両親が離婚し、それから平穏無事な暮らしが何年も続いた。その間に、大事な事を忘れてしまっていたのだろう。
別れた後もずっと父を庇っていた母親。そんな姿を幼い頃からずっと見守っていたはずの光輝が、家庭の問題の根深さを知らない訳は無かった。
それなのに甘く見ていた。なんとかなるのでは、と思ってしまったのだ。そんな自分を光輝は責めた。責め続けた。
しかしそんなことをしたからといって、もう早苗は生き帰らない。彼女の笑顔は、二度と見ることができないのだ。自分のせいで彼女が死んだという現実は、決して変わらない。
それから光輝は、余り笑わなくなった。サッカーも辞めた。学校でも、友達と深く関わることを止めた。その代わり、勉強だけはしっかりとやった。
休み時間はいつも一人で机に向い、参考書や問題集を開いて勉学に励んだ。その理由の一つは、前から考えていた計画を実行する為でもあった。
光輝は学業に励み、東京にある中高一貫の学校を受験しようとしていたのだ。事前に調べていた全寮制の学校へ入学すれば、東京で生活出来ることが判った。よってその学校に合格する為、必死になって勉強をし始めたのだ。
当初の動機は、当然お姉ちゃんが上京したからだった。しかし早苗の事件が起こった為、事情は大きく変わった。光輝はこの小さな街から一刻も早く出たかったし、そうしなければならない程、暮らしにくい環境に陥っていたからだ。
早苗の事件は、全国のニュースで大きく流れた。その中の一部の報道では、虐待の事実を発覚させた光輝のことも匿名ではあるが、掲載した雑誌があった。
母親の保護の元で取材は一切断ったが、その態度が余計に心無い記事を書かせたのかもしれない。光輝が思い詰めていたように、虐待を助けようとした同級生の安易な行動は、悲しい事件が起きるきっかけになった。そうした内容の記事を掲載した雑誌があったのだ。
それに周りの人達が反応した。多くは光輝達を擁護する意見だったが、中には光輝の目の前で非難する大人もいた。
「正義感を振りかざして、格好をつけたかったんだろう。だからあんなことが起こったんだ」
子供達の間でも女ボスを中心として、以前から光輝を気に入らないと思っていた連中が、同様の態度を示した。やがて周りに人は集まらなくなり、自分からも敢えて近づこうとはしなかった。
全て自分が蒔いた種だ、自分が悪いんだとの気持ちがあったからだろう。とはいっても、そんな環境に耐え続けることは辛かった。その為、この場所から早く逃げ出そうと考えたのだ。
幸い光輝は未成年により、実名報道されなかった。まだネット社会の時代でなかった事も、その後の事を思えばとても助かったと言えるだろう。
それならば、小さな街を出て自分を知らない大きな都会、例えば東京へ出て暮らしたい。そう母親に告げた所、一時は反対された。
しかし何度も真剣に頭を下げる光輝の態度と、周囲の冷たい目に晒される心苦しさを察した母親は遂に折れた。最終的には無事試験に合格できたらいいね、とまで言って応援してくれたのだ。
その学校なら授業料も比較的安く、寮に入るから生活費も抑えられる。その為母親達の仕送りで、何とかやっていけるだろうとのことだった。
光輝は必死に猛勉強した。結果無事合格し、街を捨てて東京生活を送ることが決まったのだ。奇しくも両親が離婚した街から去ったお姉ちゃんを追いかけるように、光輝も東京へ出たのだ。
その頃、彼女は短大を卒業した後有名な会社に無事就職を果たしていると聞いていた。住所や連絡先は、彼女と交流があった母親から聞き出し、何かあったら助けて貰いなさいと言われた。
母親は彼女に電話でも事情を説明してくれ、嬉しいことに代わってくれた。彼女は受話器の向こうで、
「光輝、何か困ったことがあったら、いつでも私のところに連絡してね。遠慮しなくていいんだよ」
と優しく言ってくれた。呼び名は昔のような愛称ではなく、下の名前の呼び捨てだった。もう中学一年になったからだろう。あの頃の幼い自分ではないと、彼女も認めてくれた気がして嬉しかった。
その声は何年振りかに聞くものだったが、自分の中では何も変わらない。以前のままの、温かいお姉ちゃんの声に間違いなかった。彼女の声を聞いているだけで、胸に大きく空いた穴がほんの少しだけ埋まっていく気がした。
しばらく感じたことのなかった幸せな気分に浸り、不覚にもその時涙を流してしまった事を覚えている。光輝が東京に出てすぐの頃、彼女は会いに来てくれた。何年振りかに対面した彼女はとてもあか抜けて見え、奇麗になっていた。
そんな彼女の顔を照れくさくてまともに見られない光輝に、向こうから駆け寄って来てくれた。身長はもうほぼ同じ位になった光輝の頭を、かつてよくやってくれたように撫でながら励ましてくれた。
「とても辛い思いをしたのに、よく頑張ったね。これから嫌な事は忘れられなくてもいいから、胸の奥にしまいなさい。新しい環境で今できる事を、一生懸命やればいいの。応援しているから」
光輝は我慢していた涙を止められなかった。早苗が死んだと聞いた時以来、激しく泣いた。彼女は黙ったまま小さな肩で、それを受け止めてくれていた。
東京に来てよかった、と心からその想いが湧き出てきた。またあらためて、光輝はお姉ちゃんの事が大好きになったのだ。この気持ちはまさしく、惚れ直したというものなのだろう。
とは言っても、実際に彼女と東京で会う機会はその後なかなか無かった。光輝の入った学校は中高一貫教育の男子校で、全国から集まる優秀な生徒達全員が寮生活を送っていた。
そこでは勉強だけでなく、日頃の生活から厳しく指導された。門限は勿論、休日の外出もかなりの制限があった。学校の勉強もかなり高度なもので授業の進め具合も早く、宿題もたくさん出た。
さらに光輝は途中で辞めたサッカーを、この学校に入って再び始めた。学校では文武両道を奨励し、生徒は全員何かしらのクラブ活動に所属しなければいけなかったからだ。
それなら昔やっていて、得意で大好きだったサッカー部がいいと決めた。だがクラブの練習も熱心なことに、毎朝授業の前の朝練があり、放課後も暗くなるまで続けられた。
その練習量は他の運動部と比較しても、相当厳しい部類に入っていたと後に知る。そのせいもあり、光輝が入学したばかりの頃は休みだからといって、外に遊びに出る暇などなかった。
またサッカーの練習でくたくたに疲れた体で、寮の部屋に戻っては授業について行く為、必死に勉強をしなければならなかったのだ。
彼女に会いたくて仕方がない光輝だったが、そんな精神的な余裕や現実的な時間的余地も無いまま、月日はあっという間に流れた。
身長がぐんぐんと伸び、サッカー部で鍛えた逞しい体を持った光輝は、中学三年の夏を過ぎてサッカー部を引退した。そこで僅かに時間の余裕ができたため、ようやく勇気を振り絞ってお姉ちゃんに連絡を取り、久しぶりに会う約束をしたのだ。
東京に来て二年半の間、光輝は彼女と何度かは会っていた。だがそれはいつも光輝が心配で、母親が上京してきた時だけだった。
昔から仲よくしていた母親が折角東京にくるからと、その時だけは彼女も何回に一回は来ていたのだ。光輝に会うことがメインでは無い。
もちろん彼女も仕事があり、友人達と過ごすプライベートの時間だってあるのだ。中学生の光輝なんかにかまっている暇は無いだろうことは自覚していた。
それでも東京に来て時間も経ち、光輝もそれ相応の東京における知識も地理も覚えた。だから思い切ってデートに誘ってみたのだ。
この頃はまだ今のように携帯などまだそれ程普及していない時代だった。メールをやりとりする習慣も無い。もしこの時期にそんな便利なツールがあったら、電話で話す勇気のない光輝は、頻繁に打ち続けていただろう。
光輝はドキドキしながら、夜遅く寮にある公衆電話を使って彼女に電話をかけた。周囲をキョロキョロと見渡しながら、冷やかす先輩や友人達がいないかを確認した。
寮の中には、限られた場所にしか公衆電話がなかった。この電話を使って寮に住んでいる生徒達が皆、家と連絡を取ったり、友達の家に電話をかけたりするのだ。
家から生徒宛てにかかってくる時は管理人室の電話が鳴り、生徒は寮内放送で呼び出され管理人室に入って話をする。よってプライベートの電話、例えば彼女との連絡などは、その公衆電話で話すしかなかった。
だが時には堂々と長電話をする先輩がいたり、こっそり恥ずかしそうに喋っていたりする後輩達がいた。その周りを、冷やかしながら騒ぐ生徒達も必ずと言っていいほどいるのだ。
それが嫌でこっそり寮を抜け出し、外の公衆電話を使おうとする生徒もいた。だが監視の厳しい寮では、無許可の外出をした場合、罰則が設けられていた。発見されると一カ月のトイレ掃除や、外出禁止などを言い渡されたりする。
その為光輝は人がいない時間帯を狙い、寮の公衆電話へと辿り着き、心臓をバクバクと鳴らしながら受話器を取った。時間は十時を少し回っていた。
それでも仕事で遅くなったりする彼女は、そういう遅い時間帯の方が捕まりやすいことを、母親から事前にリサーチしていたのだ。
コール三回で出た彼女は、相手が光輝だと判ると心配そうに声を落とした。
「どうしたの? こんな遅い時間に珍しい。何かあった?」
「う、ううん。別に心配するようなことは、何も無いよ。ただ今度時間がある時に、会えないかなあと思って」
光輝はそこから一気に頭の中で描き、何度も繰り返した言葉を吐きだした。
「この間の夏の大会が最後で、三年は部活を引退したから時間もできたんだ。お盆になる前に、お母さんも心配しているから早く田舎に帰んなきゃいけないし。でもそっちは行かないでしょ。だからこっちにいる間、一度会えないかなあと思って。いつもお世話になっているし、僕が映画でも何でも好きなところに連れていくから」
しばらくの沈黙があり、突然彼女は笑いだした。
「なに? 私をどこかに連れて行ってくれるの? もしかして、デートのお誘いかな?」
からかうような口調で話す声を聞き、光輝は耳まで真っ赤になっていた。電話だから、こんな姿を見られなくて済むのが幸いだった。そう思いながら、なるだけ明るい声で言い返す。
「そうそう! デート! 十五歳の若い男の子とデートだよ。そんな機会なかなかないよ!」
「えぇ~! もうそんな年になるんだ! 早いなあ、私も年取る訳だ。そうだよね。あなたからすれば、もうおばちゃんだよ」
「そんなことないよ。お姉ちゃんはまだ十分若いじゃん」
「あら! 光輝、じゃんなんて東京言葉使っちゃって! あ、それと、そのお姉ちゃんって言うのはそろそろ止めようか」
「えっ! 何て呼べばいいの?」
光輝と名前を呼び捨てされ、再び顔が熱くなり動揺しながら聞き返した。
「そうねぇ。愛称も良いけど、私が光輝って呼んでいるんだから、お互い名前の方が良いんじゃない。だったら、あかり、さん、だね。さんはつけよう」
「あかりさん? 照れ臭いなあ。あかり姉ちゃんじゃいけない?」
「だってそれじゃあ姉弟みたいじゃない。実の姉じゃないんだから、変でしょ」
「そうか。あかり、さん。えぇ~、やっぱり照れくさいよ」
そんなこんなで、光輝は結局あかり姉、と呼ぶことで妥協してもらった。
それから会う日時は彼女の都合もあり、改めて向こうから連絡して貰うことに決まった。だが数日後、かかってきた電話で光輝はショックを受ける。
「光輝、あのね。会うのは今度の日曜日にしたいんだけど、その時私の友達も連れて行っていい? 丁度向こうの友達も光輝と同じ年の子が今度東京に来て、会う約束になったらしいの。ねえ、いいでしょ?」
本当は嫌だと言って、ごねたかった。だが管理人室にかかってきた電話で、変に揉める話をすることは憚られる。長話になってもいけないし、会えるだけでも良しとしなければならない。
その為光輝は少しぶっきらぼうに答えた。
「いいよ。で、時間と待ち合わせ場所は?」
「いいの! じゃあ、新宿の西口のアルタ前の広場に十時でどう?」
「うん、判った」
「そう! 楽しみにしてるね!」
そう言って彼女は電話を切った。光輝の気分はまだすっきりしないままだったが、それでも久しぶりに顔を見て話しが出来る。しかも新宿で、と考えただけで気持ちが高揚してきた。
光輝はその時知らなかった。これから運命的な出会いをすることを。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~
紫紺
ミステリー
郊外の人気カフェ、『時游館』のマスター航留は、ある日美しい青年と出会う。彼は自分が誰かも全て忘れてしまう記憶喪失を患っていた。
行きがかり上、面倒を見ることになったのが……。
※「Amnesia」は医学用語で、一般的には「記憶喪失」のことを指します。
亡き少女のためのベルガマスク
二階堂シア
青春
春若 杏梨(はるわか あんり)は聖ヴェリーヌ高等学校音楽科ピアノ専攻の1年生。
彼女はある日を境に、人前でピアノが弾けなくなってしまった。
風紀の厳しい高校で、髪を金色に染めて校則を破る杏梨は、クラスでも浮いている存在だ。
何度注意しても全く聞き入れる様子のない杏梨に業を煮やした教師は、彼女に『一ヶ月礼拝堂で祈りを捧げる』よう反省を促す。
仕方なく訪れた礼拝堂の告解室には、謎の男がいて……?
互いに顔は見ずに会話を交わすだけの、一ヶ月限定の不思議な関係が始まる。
これは、彼女の『再生』と彼の『贖罪』の物語。
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる